2019年09月01日

発掘


大岡昇平他編『孤独のたたかい(全集現代文学の発見・別巻)』を読む。

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半世紀も前の,昭和四十年代にまとめられた,

現代文学の発見,

と題された全16巻の別巻としてまとめられたものだ。この全集自体が,過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,

最初の衝撃,
方法の実験,
革命と転向,
政治と文学,
日常の中の危機,
黒いユーモア,
存在の探求,
性の追求,
証言としての文学,
日本的なるものをめぐって,
歴史への視点,
言語空間の探検,
青春の屈折,
物語の饗宴,

と,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーで,この時代の文学市場もあるが,編集者,文学者の知的レベルを彷彿とさせるものだ(全集の責任編集は,大岡昇平,埴谷雄高,佐々木基一,平野兼,花田清輝。編集は,別巻の解説を書く,八木岡英治)。その別巻として,「埋もれたるものの巻」として,多ぐの人々の推薦を得た中から,選ばれた作品集になっている。ほぼ無名の人が多数を占める(このための公募作品の帯正子「可愛い娘」をのぞくと)。今日,名を残すものは数少ない。むしろ編集者(竹之内静雄・堺誠一郎・能島廉),サルトルなど実存主義の翻訳で知られる学者(白井健三郎),司法書士(北田玲一郎),大学教授(田木繁),政治家(犬養健)等々と,詩人(竹内勝太郎・秋山清・荒津寛子)を別にすると,作家として生きた人は少なく,その中に,まだ当時同人誌に作品を発表していた古井由吉が入っている。確か,発売当時読んでいるはずである。読んでいるが,半世紀近く前なので,ほぼ記憶にない。覚書が書き込まれていたり,線が引かれているが,その意味さえ覚束ない。初めて読むのと同じである。

いま思えば,僕には,無名の古井由吉が入っていることが奇跡に思える(『杳子』で芥川賞を受賞するのは二年後のことになる)。八木岡は,その選を,

「文句のない作品である。送ってもらった同人誌『白描』の中から飛びついて来た。それぐらい際立っていた。作品が読者の内部に掻き立て,引き出してゆく想像力というものが,豊かで快い」

とし,

「これはまだ出来たての作品で,これから評価をかちとり,時流に乗っていきそうに思える。ここに取りあげなくても,という意見もきかれたが,逸する気にはなれなかった」

と書く。編集者の慧眼である。そして,

「自己はここでは個であることをやめ,群衆の中に拡散され,雨滴となって飛んでいる。肉質を失い,現代というおそろしいものを運動においてとらえるための装置と化している。しかし作者は物質化されているように見えながら,ちゃんと元の場所静かな眼をひらいている。すべてのことは作者の内部でおこっている」

と古井由吉のスタイルを見ぬいている。

「スタイルというものが形ではなく,内的必然の掘進でありその軌跡であることが,ここによく示されている」

と。この内的運動は,処女作『木曜日に』の,

「それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。」

という内的運動に通じ,芥川賞受賞作の『杳子』の冒頭ともつながっていく。そこでは,二人の見方が重なり,対立し,重ねられていく相互運動が,語られる。

「女が顔をわずかにこっちに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。彼の動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起して、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。
 女のまなざしはたえず彼の動きに遅れたり、彼のところまで届かなかったり、彼の頭を越えて遠くひろがったりしながら従いてくーきた。彼の歩みは女を右へ右へとよけながら、それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めず、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのままあゆみを進めた。
 その時、彼はふと、鈍くひろがる女の視野の中を影のように移っていく自分自身の姿を思い浮かべた。というよりも、その姿をまざまざと見たような気がした。
(中略)彼は立ち違い舞った。足音が跡絶えたとたんに、ふいに夢から覚めたように、彼は岩のひろがりの中にほっそりとたっている自分を見出し、そうしてまっすぐに立っていることにつらさを覚えた。それと同時に、彼は女のまなざしを鮮やかに躯に感じ取った。見ると、荒々しい岩屑の流れの中に浮かぶ平たい岩の上で、女はまだ胸をきつく抱えこんで、不思議に柔軟な生き物のように腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をかしげて彼の目を一心に見つめていた。その目を彼は見つめかえした。まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女にむかってまっすぐ歩き出した。」

後の古井由吉を知る者にとって,当時の編集者の慧眼と見識にただ驚倒させられるばかりである。その他,掲載候補の中に,小川国夫『アポロンの馬』,丸谷才一『笹まくら』,秋山駿『想像する自由』,佐江衆一『無邪気な狂気』等々が入っていたらしい(月報)。

「『埋もれたるもの』の巻を編むに当たって,非情にも,今日われわれに資すること篤きもの,という規準に合わせて選択し,歴史的顧慮をふくめなかった。はずれるものはすべてスこれを捨てた。われわれは今日生き今日考えねばならぬ。博物館をここに建てるわけではない」

と,編集者八木岡氏は「この本のなりたち」で書く。しかし,それなら,埋もれたものは,過去ではなく,そのときの「いま」埋もれているものを見つけるべきではなかったか(編者の同時代と,読者の同時代は異なるのでやむを得ないかもしれないが)。過去の中に,未来はない。本書に掲載された竹内勝太郎が,

「詩でも絵でも,吐き出すことに意義がある。出してしまえば,捨てて省みない。」

と書く如く,書いた時,作家はそこにはいない。とすれば,過去に「埋もれている」ものではなく,いま,機を待つものを掘り出すべきではなかったのか。しかし,全集自体が過去の文学作品を発掘・位置づけ直すという意図に立つ以上やむを得ないのかもしれない。僕には,皮肉にも,戦前の,

堺誠一郎『嚝野の記録』
犬養健『明るい人』

よりは,その時に無名に近かった,

古井由吉『先導獣の話』
浅井美英子『阿修羅王』

の方が光って見える。

参考文献;
大岡昇平他編『孤独のたたかい(全集現代文学の発見・別巻)』(學藝出版)
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96

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posted by Toshi at 03:57| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする