2019年09月05日

光秀


渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』を読む。

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来年の大河ドラマの主人公だけに,これから柳の下を狙う類似本が一杯上梓されるだろう,おそらくその嚆矢か。しかし本書はその種の際物ではない。

「本書は光秀の生涯を軸としながら,信長,足利義昭,朝廷などの動向を交えつつ,本能寺の変に至る経過および結果」

を述べているが,その根本姿勢は,一次史料(古文書-書状など,記録-日記など)を重視し,二次史料(軍記物語,系図,家譜など)を副次的に扱う。

「二次史料を使用する際は,史料批判を十文に行う必要がある」

とする。なぜなら,

「こと本能寺の変に関しては二次史料への批判が甘く,特に歴史史料に適さない二次史料であっても『この部分だけは真実を語っているはずだ』という思い込みで,安易に使用されるケースが散見される」

からである。明智光秀の出自を,土岐明智の流れを汲むとする見方がある。しかし,身分が高い,例えば,

幕府の随分衆,
あるいは,
幕府の奉公衆,

であるとする史料はない。あるのは,

「『明智なる人物が『光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚』に『足軽衆』として記載されて」

いることであり,しかも,

「『光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚』は,足利義輝の時代の奉公衆のなどの名簿と考えられていた。しかし,,近年の研究により,前半部分が義輝段階のもので,後半部分が義昭段階のものであることがあきらかになった」

のである。この「明智」は,

「当該期に明智姓の者が光秀以外に候補がいないことを考慮すると,やはり光秀とみなさなくてはならないだろう」

とされる。光秀初見文書が確認できるのは,この後半部分の成立の一,二年後,永禄十二年(1569)二月十九日である。

実名が記されていないほど,ほぼ無名であったと見られる。足軽とは,

普段は雑役を務め、戦時には歩兵となる者。弓組・鑓組・鉄炮組などの諸隊の歩卒,

つまり,かなり身分が低い。光秀が小栗栖で一揆に殺されたとき,

「惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此」

と,多聞院日記英俊(えいしゅん)は冷笑するように、切り捨てた。「中間」とは,武家奉公人のうち,地位の高い者を,

郎党(郎等)、

その下に,

若党(わかとう)、
悴者(かせもの),

がいる。若党は、主人の側近くに仕えて雑務に携わるほか、外出などのときには身辺警固を任とする。悴者(かせもの)は賤しい者の意で、姓をもつ侍身分の最下位。この下に,

中間、小者、あらしこ、

といった武家奉公人がいる。足軽は,中間よりはましで,姓をもつ。しかし,下層の武士である。

光秀の初見文書は永禄十二年の,村井貞勝らとの連署奉書である。以降光秀は急速に出世し,元亀二年(1571)までには,大津の宇佐山城を与えられ,歴史上に名を刻み始める。

本書の結論は,

「本能寺の変後の光秀の右往左往ぶりをみれば,とても政権構想や将来構想があったとは思えず,突発的な単独犯と言わざるを得ないのである。現段階おける一次史料からは,少なくとも黒幕うの存在を裏付けるものがない」

としている。当たり前の結論かと思う。変後,細川藤孝に三カ条の覚書を送り,藤孝の助勢を乞うているが,光秀自身,

不慮の義,

と書いている。計画的ではなく,咄嗟の思いつきであったことを白状している。

足利義昭黒幕説,

があるなら,毛利の鞆にいた義昭の動きを知らず,秀吉と和睦するはずはない。

朝廷黒幕説,
四国政策の転換,
怨恨説,

等の諸説を,史料と研究成果を踏まえつつ,ひとつひとつつぶしていく。

「光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか。さまざまな黒幕説が成り立たない以上,現段階の結論としては,光秀の単独犯ということになる。光秀の単独犯といえば,『つまらない結論』ということになるが,前提として言えることは,光秀が信長に対して何らかの不安や不満を抱いていたのは確かである」

それは,どこか摂津一職支配を委ねられた荒木村重の謀反を思い起こさせる。

「信長は軍功を挙げた者には恩賞で報いるが,そうでなければおしまいである。光秀がその重圧に耐えることは,非常に苦しかったと推測される。従来の二次史料に基づく不安説は誤りであるが,実態に即した信長や光秀の関係を勘案すると,光秀は将来に漠然とした不安を抱いていたことは容易に想像される」

村重も,光秀も,外様であった。

それにしても,光秀の変後の行動は,悠長である。

六月二日の変当日から,ほぼ九日まで安土にとどまり続けている。細川父子(藤孝・忠興),筒井順慶の参陣に拘泥し,十日には洞ヶ峠に出向いて順慶を待つ。黒幕がいるなら,この間動きがあるはずだが,まったくなく,落胆したように下鳥羽へ下り,そこに本陣を設置するのが,十一日である。既に,秀吉は,六日姫路に達し,九日には姫路を立ち,十一日には尼崎に達し,翌十二日には摂津富田に着陣している。その動きを,光秀はほとんど摑んでいない。翌日,両軍の間に小競り合いが生じている。既に,戦いの帰趨は決していたと思われる。とうてい光秀に事前に周到な準備があったとは思えない。

参考文献;
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:12| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする