2019年10月01日

金魚


「金魚」は、

錦魚、

とも記す、とある(大言海)。「金魚」は、中国語である。

「『金魚』の発音(ピン音で jīnyú )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7

日本には、元和年中に、伝来した。

「和泉国の堺浦に渡る(大和本草)、緋鮒にて、鮒性(フナダチ)と云ふ(緋鯉を、鯉性とす)、鮒に似て、尾小さし、是れ原種のものなり。今和金和金と称す」

とある(大言海)。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかったらしい。

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江戸時代に大々的に養殖が始まったが、

「寶永の頃、阿闍梨より渡したりと伝ふ、蘭鑄と云ふ。一名丸子。體圓く、頭に肉瘤ありて、背鰭なし。寛政、文化の頃、琉球産のもの渡れるを、琉金と云ふ。體圓ぐ、口小さく、尾長大なり。尾長とも云ふ。蘭鑄と琉金との子を、阿闍梨獅子頭(がしら)と云ふ」

とある(大言海)。当初、

「ガラス金魚鉢が高価であったため、金魚は陶器の鉢に入れ上から見ることが一般的でした。これを『上見』といい、金魚の改良は上から見ることから始まりました。目が飛び出ると龍が連想され、『龍晴(りゅうせい)』と呼ばれて珍重されました。この最高峰が『頂天眼(ちょうてんがん)』です。上見のため背ビレをなくしたのが『ランチュウ』です」

ともあるhttp://www.photo-make.jp/hm_2/kingyo.html

「金魚」は、

「江戸初期には富裕な者の贅沢(ぜいたく)だったが、宝暦(1751~64)のころからは金魚売りの露店も出て、一般庶民の間にも広まり」https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-122-08-04-G252.html

「江戸、京都、大坂の三都ともに金魚を楽しむ風習があり、特に町々を売り歩く金魚売りは、夏の風物詩となっていた」

とある(仝上)。「蘭虫」や「朝鮮」の珍しいものは、3両から5両もした。縁日では、桶を並べて金魚を売る業者がおり、これを買った者は「金魚玉」と呼ばれるガラスの容器に入れて持ち帰り、軒につり下げて鑑賞した(仝上)、らしい。上からも、下からも見えるガラスの器は風鈴のように軒に掛けられたものらしい。

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(喜多川歌麿「金魚玉を持つ女」 https://hikarataro.exblog.jp/18804236/より)


「金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きい」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7。同時に、

化政文化期に現在の三大養殖地(奈良県大和郡山、愛知県弥富、東京都江戸川)で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる、とある(仝上)。

金魚売は、夏の間、涼しい時間帯に、

「きんぎょ~え~、きんぎょ~」

と売り歩く。

「天秤棒に提げたたらいの中に金魚を入れ、独特の甲高い売り声を上げながら街中をゆっくりとした足取りで売り歩いた。金魚売の多くは日銭を稼ぐために短期で勤めていたものらしく、冬になると扇の地紙売りなど別の仕事を請け負っていたようである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%AD%9A%E5%A3%B2

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(歌川国貞『東都見立夏商人』「金魚売」 http://www.edomono.jp/blog/?p=425より)

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(喜田川守貞「守貞漫稿」金魚売り http://www.photo-make.jp/hm_2/kingyo.htmlより)


「守貞漫稿」には、

「振売」「棒手振り」(ぼてふり)、

商売として、

「油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵」

等々、食品を扱う数十種類を紹介しているが、食品以外にも、

ほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品。
子供のおもちゃ、

金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、
錦鯉、

等々を商っていた、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月02日

太閤検地


中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』を読む。

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本書は、秀吉の織田政権下での羽柴領検地から始まって時系列に、豊臣政権下で行われた検地を詳細に検討し、

「豊臣政権が創り上げようとした近世社会あるいは近世国家像」

に迫ろうとする。この検地によって、米の容積を示す単位を「石」を基軸としたため、

「国内の生産力が『石高』によって表示されるにいたる。すなわち、太閤検地によって田畠には等級が設けられ、土地の面積は町・段(反)・畝・歩という単位体系によって把握され、生産力の指標となる米の容積も基準となる統一の枡によりつつ、石・斗・升・合・勺という単位体系に整理された。田も畠もさらには屋敷地まで米を生産するものと想定され、その収穫高が米高として算出された」

これを前提として、村々の境界線を確定し、地域を明確にして、

「村々の石高が算出され、さらにそれを基準として郡の石高(郡高)や国の石高(国高)が算出される」

こととなり、これによって、

「大名の領地高や給人(知行地を与えられた大名家臣)の知行高はもとより、村々の規模や百姓が所持する高知の規模、さらには年貢として収奪される生産物の多寡も石高によって表示されることとなった」

村の確定は、村単位として年貢を納める責任を負う、

「村請制』が機能しはじめることである。『村請制』のもとでは、村のみが法人格を付与されて年貢や諸役の責任を負う。仮に、個々の百姓に年貢の滞納(未進)があったとしても、その責めは村全体に帰する」

ことになる。つまり、検地により、

村の境界を画し、
当該地域の土地面積を測量し、
田地の品位を定め、
石盛(一反当たりの収穫量)を定め、
石高を定め、
一村当たりの総地積、総石高を決定する、

ことによって、太閤検地は、

「在地秩序を再編し、社会の新たな基本単位を設定する」

ことになり、この結果、近世の村が成立する。

さらに在地の一元化に伴い、

主を持たず、田畠を作らざる侍、

は村々から放逐される。つまり、

「豊臣政権が目指した在所のありようは『百姓』『諸職人』『商売人』と、武具類の所持を認められた主人をもつ『奉公人』からなるもの」

であった。

「豊臣政権下の『在所』は給恩をもって主人の役を務める『諸奉公人』と田畠開作を専らに仕る『百姓』および『町人』すまなわち諸職人や商売人から構成されることになる」

したがって、大名は、国替えで移封される場合、

「『家中』『侍』のことは申すに及ばす、『中間』『小者』に至るまで『奉公人』は一人も残さず連れていく」

ことを命じられる。これを、

「『兵農分離』ではなく『士農分離』という概念こそがふさわしい」

とする。それは、中世以来の、地侍、土豪という所有地を持った侍の在り方の解体、士・農の分離を意味する。在地に残った地侍。土豪は、百姓となることを意味した。

この検地は、土地から離された侍側にも大きな変化をもたらす。

「検地の結果として機能する石高制によることで、秀吉は臣下の領知を容易に異動する環境を獲得する。前後の知行規模が数値化されており、知行加増や減封といった主従関係の変化も容易に具現化されることとなるが、領知内容の互換性を図るうえで石高のもつ客観性や合理性は大きな意味を持つ」

その結果、豊臣政権末期になると、

戦国以来の故地にいたのは中国毛利氏と九州・奥羽など遠隔地の諸大名」

のみになり、

「薩摩・大隅・日向の一部を領した島津氏の場合も、給人レベルでみれば文禄四年検地ののち、ほとんどが本来の領地から引き離された地に転封を余儀なくされている」

ありさまで、これを、確か荻生徂徠は、

鉢植化、

といったと思うが、

「原理的にすべての『国土』は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することとなる。こうした世界史的にも稀有な『封建制度』を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった」

この太閤検地の成果の上に、徳川幕藩体制は成り立つ。幕藩体制の成立しについては、

「幕藩体制の確立」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html?1568502090

で触れた。

参考文献;
中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年10月03日

かまいたち


「かまいたち」は、

鎌鼬、

と当てる。

鎌風、

ともいう。「通り魔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437854749.htmlで触れたことがある。

「道などを歩いているとき,(小旋風のため)突然鎌で切られたような傷を受ける怪異現象の1つ。出血もなく,痛みも感じない」

塵旋風、
真空説、
寒冷説、
電気説、

等々の諸説があり(ブリタニカ国際大百科事典)、この旋風を、

カマイタチ、

という。鼬の仕業と考えて、この名がある。

「気圧の急変などの自然現象によるもの」

とも説明されている。かつて、神奈川地方では、

カマカゼ,

静岡地方では、

アクゼンシカゼ(悪禅師風)、

愛知県東部では、

飯綱(いづな)、

高知県などでは、

野鎌(のがま)に切られる、

等々といっていた。

越後七不思議の1つ、

に数えられている(仝上)。怪異とみなしたせいか、

旋風に乗ってきて人を切り生き血を吸うという魔獣、

とみなしたところもある。特に雪国地方にこの言伝えが多い。信越地方では、

暦を踏むと鎌鼬にあう、

という(百科事典マイペディア)。

鳥山石燕は,「かまいたち」に,

窮奇,

の字を当てているが,通常,

鎌鼬,

の字を当てる。その経緯は,

「鎌鼬(かまいたち)は、日本に伝えられる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異である。つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷からは血も出ないともされる。別物であるが風を媒介とする点から江戸時代の書物では中国の窮奇(きゅうき)と同一視されており、窮奇の訓読みとして『かまいたち』が採用されていた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

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(鳥山石燕『画図百鬼夜行』・窮奇(かまいたち) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%ACより)


因みに,「窮奇」とは,

「中国神話に登場する怪物あるいは霊獣の一つ。四凶の一つとされる。中国最古の地理書『山海経』では、『西山経』四の巻で、ハリネズミの毛が生えた牛で、邽山(けいざん)という山に住み、犬のような鳴き声をあげ、人間を食べるものと説明しているが、『海内北経』では人食いの翼をもったトラで、人間を頭から食べると説明している。五帝の1人である少昊の不肖の息子の霊が邽山に留まってこの怪物になったともいう。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E5%A5%87。それが,

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(清・汪紱『山海経存』より「窮奇」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E5%A5%87より)

「『淮南子』では、『窮奇は広莫風(こうばくふう)を吹き起こす』とあり、風神の一種とみなされていた。」

ということから,「かまいたち」と同一視されたらしい。

「かまいたち」(鎌鼬)の名は、

人体で利鎌で斬ったような痕のようなものが生ずるのを鼬の所為として名付ける(大言海)、
カマイタチ(風間鼬)の義(言元梯)、
太刀を構えて伐ったであるから(俚言集覧)、

と、傷跡から、鼬や鎌に絡めているが、

大言海には、

「(人体に,利鎌を持ちて斬りたる痕の如きものの生ずるを,鼬の所為として名づく)気候の変動よりして,空気中に真空を生じ,人体これに触るれば,体内の気,平均を保つため,皮膚を裂きてこうむる負傷」

と載る。この説は,明治期に流布したものらしい。この知見は一見科学的であったために近代以後、児童雑誌や科学記事などを通じて一般に広く浸透したが,

「実際には皮膚はかなり丈夫な組織であり、人体を損傷するほどの気圧差が旋風によって生じることは物理的にも考えられず、さらに、かまいたちの発生する状況で人間の皮膚以外の物(衣服や周囲の物品)が切られているような事象も報告されていない。これらの理由から、現在では機械的な要因によるものではなく、皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために、組織が変性して裂けるといったような生理学的現象(あかぎれ)であると考えられている。かまいたちの伝承が雪国に多いことも、この説を裏付ける。また、切れるという現象に限定すれば、風が巻き上げた鋭利な小石や木の葉によるものとも考えられている。」

と,今日では考えられているらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月04日

ホウホケキョ


「ホウホケキョ」は、

ホウホケキョウ、
ホーホケギョー、

とも表記する、

ウグイスの鳴き声、

を表す擬音語である。大言海は、

ほうほけき、

と表記している。

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ウグイスhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/459382881.htmlで触れたように、

「宇武加比売命(うむがひめのみこと) 法吉鳥(ほほきどり)と化(な)りて、飛び度り、此処に静まりましき。故(かれ)、法吉(ほほき)といふ」(出雲風土記‐嶋根)

とあるhttp://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rxv.html

法吉鳥、

は「鶯」とみなされるが、この「ホホキ」も「ホーホケキョ」とつながる。さらに、蓮如上人は、最期の時に、

空善クレ候ウクヒスノ声ニナク
サミタリ コノウクヒスハ 法
ホキヽヨ トナク也、

と仰せられた(第八祖御物語 空善聞書)とある(仝上)。蓮如上人には「法を聞け」と聞こえたのである。それ以前,

「平安時代は,鶯の声を『ひとく』と聞いた。『梅の花 見にこそ來つれ 鶯のひとくひとくと厭ひしもをる』(古今和歌集)。『ひとく(人が来る)』の意味に掛けて用いられる。『ひとく』は江戸時代まで用いられ続けた。鎌倉室町時代には,鶯を飼ってよい声で囀るように躾けることが流行った。『つきひはし(月日星)』と聞こえるように鳴く鶯が最高であった。躾けてもうまく鳴けずに『ひつきはし』『こけふじ』と聞こえるように鳴いてしまう鶯もいた。それらの鶯は、鳴きぞこないと言われ値打ちが下がった。江戸時代になると,『ほーほけきょー』と写され,『法華経』の意味を掛けて聞いた。仏教の隆盛とあいまって、『慈悲心も仏法僧も一声のほう法華経にしくものぞなき』(狂歌蜀山百種)と言われるほど、鶯の声は尊ばれた」

とあり(擬音語・擬態語辞典)、江戸初期から、

鶯の声にはだれもほれげ経(毛吹草1645年)、
鶯のほう法花経や朝づとめ(犬子(えのこ)集1633年)、

と法華経と絡め、『本朝食鑑』(1697年)にもその鳴声を、

宝法華経、皆声調によっての言なり

と記しているが、ようやく江戸後期になると、鶯の鳴き声は「ホーホケキョ」が定着し、小林一茶は、

今の世も鳥はほけ経鳴(なき)にけり(おらが春1819年)

と詠んでいるhttp://www.cluster.jp/hp/?p=14460

「江戸時代から、鳴き声を楽しむために飼われ、夜間も照明を与えることにより、さえずりの始まる時期を早めて正月に鳴かせる『夜飼い』、米糠(こめぬか)、大豆粉、魚粉を混合したものを水で練って、ウグイスなどの食虫性の小鳥の飼養を容易にした『擂餌(すりえ)』などの技術を発達させてきた。また、さまざまな変わった鳴き声を競わせることも広く行われてきた」

とあり(日本大百科全書)、「鳴き合せ」といった。「なきあはせ」(鳴合・啼合)の項で、大言海は、

「なきあはせくわいの略。うぐいすあはせ、うぐいす會。衆人、飼鶯を持寄りて、其啼聲を聞き分けて、優劣を定むこと(嚮に東京にては、毎年四月、下谷の根岸の地などに行はれき)。元、啼聲の最優なるを江戸一と称せしが、嘗て、薩州候、江戸一の名鳥を買はれたるに、翌年の啼合會にて、又別の名鳥に其称を附せしを、候家より咎められて後、最優なるに、准の一と命ずるを、習慣とせしが、明治以後、正の一と云ふを立て、最上とすと云ふ。名鳥の傍らに雛を置きて、其聲を学ばしむるを、音附(ねつけ)と云ひ、其鳥を附子(つけこ)と称す。今世は、文字口(もじくち)と云ふを最優とす。上音(うはね)、ヒイホケケコ、中音、ホウホフフコ、下音、ホホホホホホケコ。節廻し艶さへあるもの。昔は、月日星と聞きて、三光の囀るが如しと」

と書く。「三光」とは、

「鳴声の1節を律、中、呂の3段に分ける。律音をタカネ、またアゲ、中音をナカネ、呂音をサゲという。3段を日月星に比して三光と称し、三つ音とも称し、その鳴声の長短、節調の完全なものが優鳥とされた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9。明治維新ですたれたが、かつては、

「正月下旬、2月の計2回、江戸、京都、大坂の三都に持ち寄って、品評会を開き、「鶯品定めの会」と称した。会場は江戸では向島牛島の旗亭梅本と定め、期日が決定したら、数日前から牛島を中心に小梅、洲崎の各村の農家に頼んで出品する各自の鳥を預ける。当日、審査員格の飼鳥屋が梅本に集まり、家々を何回となく回って鳴声を手帳に書留め、衆議の上で決定した。第一の優鳥を順の一という位に置き、以下、東の一、西の一、三幅対の右、三幅対の中、三幅対の左、というように品位を決め、品にはいったものは大高檀紙に鳥名と位を書き、江戸鳥屋中として白木の三宝に載せ、水引を掛けた末広扇1対を添え、飼主に贈り、飼主からは身分に応じて相当の謝儀があった。その謝儀をもって品定め会の費用を弁じた。本郷の味噌屋某の飼鳥が順の一を得た時には、同時に出品した加賀の太守前田侯の飼鳥を顔色なからしめ、得意のあまり、『鴬や百万石も何のその』と一句をものしたという挿話がある」

という(仝上)。もちろん今日、鳥獣保護法により捕獲・飼育が禁止されている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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2019年10月05日

商う


「商う」は、

商売をする、

意である。「商」(ショウ)は、

「形声。『高い台の形+音符章の略体』で、もと、平原の中の明るい高台。殷人は高台に聚落(しゅうらく)をつくり商と自称した。周に滅ぼされたのち、その一部は工芸品を行商するジプシーと化し、中国に商業がはじまったので、商国の人の意から転じて、行商人の意となった」

とある(漢字源)。「あきなう」意だが、

「もと、行商を商、店を構えるのを賈(コ)といったが、のち広く商売を商という」

ともある。別に、

「会意兼形声文字です(章+冏)。『大きな入れ墨用の針』の象形(『目立つ』の意味)と『高殿(高い建物)』の象形から、どこからでも目立つ高殿を意味し、『殷(中国の王朝)の首都の名前』を意味する『商』という漢字が成り立ちました。のち、殷が亡びてその亡民が行商を業とした為、「あきない」の意味も表すようになりました」

ともありhttps://okjiten.jp/kanji507.html、殷とつながるようである。

800px-商-oracle.svg.png

(商 殷(自称は商)・甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%95%86より)


和語「あきなふ(う)」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

あがなう、
おこなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「あきなう」の「あき」は、

「秋と同根。収穫物の交換期の意」

とある(仝上)。「秋」を見ると、季節の意のほかに、

「収穫。みのり」

の意が載り、「あき」に、

商、

を当て、

「アキ(秋)と同根。アキナヒ、アキビト(商人)のアキに同じ」

とあるので、漢字を当てるまで、

秋、

商、
も、

ともに「アキ」であり、季節と、商売の意であった。文字を持たないので、話している当事者には、どちらを言っているかはわかっていた。

「秋」http://ppnetwork.seesaa.net/article/466853732.htmlについては既に触れたが、言葉の自然な転訛を考えるなら,

草木が赤くなり,稲がアカラム(熟)ことから(和句解・日本釈名・古事記伝・言元梯・菊池俗語考・大言海・日本語源=賀茂百樹),

ではないか、とみなした。

黄熟(あかり)→赤かり→明かり,

と通じる。それと「商い」が同根なのは、季節的な要因かと思われる。

「秋の収穫物を、欲しい人に売る行為(オコナイ)ですから、アキナイというのです。語原通り、『秋なう』であり、『秋ない』なのです」

なのであろう(日本語源広辞典)。

「商いの語源は、農民の間で収穫物や織物などを交換する商業が秋に行われたことから、『秋なふ(秋なう)』から動詞『あきなふ』が生まれ、『あきない』になったとする説が定説になっている。しかし、物を買い求めたり、何か別のものを代償として手に入れる意味の『購う・贖う(あがう・あがなう)』と同源とも考えられ、商いの語原が『秋』が正しいとは言い切れず、正確な語原は未詳である」

との異説(語源由来辞典)もあるが、「あがなふ」は、交易の双方向性がない。無理筋ではないか。

「『あきなう』ば『秋なう』です。秋は稲の収穫期です。秋になると,農家をまわって米やその他の農産物を買い集める人が出回りました。その人たちは,買い集めた農産物を持ち寄って,町で市 (いち) を開きました。まだ,町に店というものが登場する以前は,この定期的に開かれる市によって,物々交換が行われ,やがて貨幣というものが通用するようになると,現代の商行為のような 〈売り買い〉 が盛んになっていきました。そのように 〈秋に行われる 「物」 の流通〉を『秋なう』と言っていたのです」

という感覚でいいのではあるまいかhttps://mobility-8074.at.webry.info/201603/article_10.html

「なう」が「綯う」と同根とすると、

「『縄をなう』の『なう(撚り合わせる、すり寄せる、帯びる)』から出来た言葉であることは間違いない。『あき』は『秋』ではなく『空き』と考えるのが一番妥当ではないか。『商う』とは売り買い双方の間(空き)を『なう』(すり合わせる)ことであると思う」

という考え方もありうるhttps://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/dc1556c64d9a3407dc07328fc6984f29かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:商う
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2019年10月06日

なう


「あきなふ(う)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470686640.html?1570218138で触れたように、「あきなう」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

おこなう、
あがなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「綯う」は、

縄と同根、

とある(仝上)。「綯う」は、

数多くの線を交へ合はせゆく、
左右相交ふ、
あざなふ、
撚る、

意である(大言海)つまり、

撚り合わせる、

意である。その意味から見ると、

縄と同根、

がわかりやすいが、

あわせる意のナラフ(効)の義(名言通)、
ナフ(永延)の義(言元梯)、
ナヨラカによる意から(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々の他説は、「なう」の同義語から探ろうとしている。やはり、「縄」が妥当に思える。「縄」は、

朝鮮語noと同源、

とする説(岩波古語辞典)もあるが、

綯藁(なひわら)の略ならむ。直(なほ)に通ず、

とある(大言海)。これが自然に思える。

「綯う」は、いずれにしても、限定された、

撚り合わせる、

意であったものが、

手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする、

意に転じたとすると、合成語の成り立ちを見て、その意の転化が見えてくるだろうか。たとえば、

おこなう(行う)、

は、大言海は、

「興行(おこな)ふの義にて(贖なふ、罪なふ)、事を起こしゆく意」

としているが、同趣ながら、

「オコはオコタリ(怠)のオコと同根。儀式や勤行など、同じ形式や調子で進行する行為」

の方が、「なう」が生きる。日本語源広辞典は、

「オコ(起動)+ナフ(継続)」

とするが、ちょっと説明不足な気がする。「怠る」の「オコ」については、

「オコナヒ(行)のオコと同根。儀式や勤行など同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは、同じ調子で進む、その調子が落ちる意」

とある(岩波古語辞典)。

「あがなう(贖う)」の「あが」は、

贖(あが)ふの語根、

である(大言海)。ただ、奈良・平安時代はアカヒと清音であったらしい(岩波古語辞典)。「あがなう」は、

贖う、

と当てる、「罪の償いをする」意と、

購う、

と当てる、「何かの代償として別のあるものを手に入れる」「買う」意とは、同じである。代償として何を出すかの差のようである。

「になう」(担う)、

は、

「ニは荷。ナヒはむ動作を表す接尾語」

とあり(岩波古語辞典)、大言海の、

荷を活用す、

も同じである。

ともなう(伴う)、

は、

「トモは伴・友」

であり、「主と従とが友のように同行する」、つまり、

同伴、

の意である(岩波古語辞典)が、

「トモ(共)+ナフ(行動する)」

の方(日本語源広辞典)が妥当ではないか。

つぐなう(償う)、

は、「つぐのふ」で、室町時代まで「つくのふ」と清音。「受けた恩恵、与えた損害、犯した罪や咎などに対して、代償に値する事物・行為なとで補い報いる」(岩波古語辞典)意、っまり、

埋め合わせる、

意だが、多少解釈が異なり、

賭(ツク)のものを出す義(大言海)、
ツクはツキ(調)の古形。ノヒは…ナフ母音交代形(岩波古語辞典)、
継ぐ+ナヒ(行動)。「欠けたものを継ぐ行為」(日本語源広辞典)
ツク(給)ノフ(日本語源=賀茂百樹)、

等々あるが、埋め合わせの解釈の差である。

いざなう(誘う)、

は、誘う、勧める、勧めて連れ出すといった意だが、

率(いざ)を活用せしむ(珍(ウヅ)なふ、宜(うべ)なふ)。イザと云ひて引き立つるなり」

とある(大言海)。「いざ」は、

率、
去来、

とあて、

「イは発語、サは誘うの聲の、ササ(さあさあ)ノ、サなり。イザイザと重ねても云ふ(伊弥(イヤ)、イヤ、伊莫(イナ)、否(イナ))発語を冠するに因りて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率(そつ)の字は、ヒキイルにて、誘引する意。開花天皇の春の日、率川宮も、古事記には伊邪川(イザカハの)宮とあり、去来の字を記す」

のは、「かへんなむいざ(帰去来)」に由来するらしい。「かへんなむいざ」は、

「帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが、語の下にあるなり。史記、帰去来辞など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり」

とある(大言海)。つまり、

イザ(さあ)+ナフ、

であり、

「積極的に相手に働きかけ、自分の目指す方向へと伴う意。類義語サソフは、相手が自然にその気持ちになるように仕向ける意」

とある(岩波古語辞典)。

おぎなう(補う)、

は、「おぎぬふ」の転。「おぎぬふ」は、

「平安時代はオキヌフと清音。アクセントを考えると、オキは置くで布を破れ目の上に置く意。ヌフは縫フ意。室町時代オギヌフと濁音化。またオギノフ、オギナフの形も現れた」

とある(岩波古語辞典)ので、「おぎなう」の「なう」は、

置く+縫う、

と(日本語源大辞典)別系かもしれない。

そこなう(損なう)、

は、

「殺(そ)ぎを行う義」

とあり(大言海)、

ソコ(削)+ナフ」

も(日本語源広辞典)、同趣で、「完全であるものを不完全にする」、つまり、傷つける意となる。

うべなう(宜う)、

は、

「ウベ(宜)を活用させた語」

で、「うべ」は、もっともである、という意である。平安時代、

mbe、

と発音されたので、「むべ」と書く例が多い、とある(岩波古語辞典)が、

「ウは承諾の意のウに同じ。ベはアヘ(合)の転か。承知する意。事情を受け入れ、納得・肯定する意。類義語ゲニは、所説の真実性を現実に照らして認める意」

とある(岩波古語辞典)。

うらなう(占う)、

は、うらなうhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.htmlで触れたように、「卜する」意であり、

ウラ(心,神の心)+ナウ

となる(日本語源広辞典)。

こうみると、「なふ」は、他の語の行動を示す、というより、ついた言葉の動詞化の役に転じている。ように見える。ある意味で重宝な言葉だといえる。こんにち、

晩御飯なう、

と使われる言葉は、nowの意味から、ingの意味に転じ、

~している、

を言う言葉になっているのと、どこか似ている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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2019年10月07日

魑魅魍魎


「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)は、「魑魅」は、

「『魑』は虎の形をした山神、『魅』は猪頭人形の沢神」

で(史記・五帝本紀)、

山神、
山林の異気から生ずるという怪物、

「魍魎」(「罔両」とも表記)は、

水の神、
山川の精、木石の怪、

とある(広辞苑)。どうやら、「魑魅」も「魍魎」も、もとは、

神、

あるいは、

精霊、

であったらしい。

Jisuke_Chimi-Moryo.jpg

(『百鬼夜講化物語』。向かって右が魑魅、左が魍魎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%91%E9%AD%85%E9%AD%8D%E9%AD%8Eより)

「魑魅魍魎」は、

「山川の精霊をいう。また螭蜽とも書く。中国の《左伝》の注に〈魑魅は山川の異気の生む所にして人に害をなすもの〉,また,《国語》の〈木石の怪を夔蜽(きもうりよう)と曰(い)う〉の注に〈蜽は山精,好んで人の声を斅(まな)びて人を迷惑(まどわ)す〉とあるように,こだま,すだまの類をさす。これらは地方的な精霊であるため,中央集権的な神々の体制には服さず,それゆえ,人々が何の準備もなくこうした精霊と遭遇するのは危険であるとされた」

とあり(世界大百科事典)、地域性の強い神であったことと、それへの信仰が薄れたことで、零落して、

「魑魅」は山林の異気から生じて人を害する怪物、
「魍魎」は山水木石の精気から出る怪物、

と(四字熟語辞典)なりはて、

「山の怪物や川の怪物。様々な化け物、妖怪変化。魑魅は山の怪、魍魎は川の怪であり、一般には山河すべての怪として魑魅魍魎の名で用いられることが多い」

となったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%91%E9%AD%85%E9%AD%8D%E9%AD%8E

「魑」(チ)は、

「会意兼形声。离(チ)は、奇怪な蛇、山の怪物をあらわす。魑はそれを音符とし、鬼を加えた字。この音符はもと、上部は山であった」

とあり(漢字源)、「すだま」「山林の精気から生じる化け物」の意。「すだま」は「魑魅」とあてる。和名抄は、

「山林・木石の精気から生じるという人面鬼身の怪物」

とある。「魅」(漢音ミ、呉音ビ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符未(はっきりわからない)』。何とも得体のしれない魔力で人をまどわす妖怪」

とある(仝上)。「すだま」「山林の異気の生ずるばけもの」とある。「魍」(漢音モウ、呉音ボウ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符罔(あみ、あみをかけて見えなくする)』。

で(仝上)、「水神」「木石の怪」とある(字源)。「魎」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

「会意兼形声。『鬼+音符兩(ふたつ、二本足)』。人間のように二本足で歩くばけもの」

とあり(漢字源)、「山水木石などの精気から生ずるというばけもの」「山川のおばけ」の意である(仝上)。

「魑魅」と「魍魎」は、いまは区別がつかないが、魑魅とは、

「山林の異気(瘴気)から生ずるという怪物のことと言われている。顔は人間、体は獣の姿をしていて、人を迷わせる。平安時代中期の辞書『和名類聚抄』ではスダマという和名の鬼の一種とされ、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では山の神とされる」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%91%E9%AD%85%E9%AD%8D%E9%AD%8E、鳥山石燕は、「魑魅」を描かなかったが、

邪魅(じゃみ)、

を描き、

邪魅は魑魅の類なり、妖邪の悪鬼なるべし、

と記した(今昔画図続百鬼)。

SekienJami.jpg

(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』・邪魅 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%94%BB%E5%9B%B3%E7%B6%9A%E7%99%BE%E9%AC%BCより)


「魍魎」は、

「山川や木石の精霊とされる。山・水・木・石などあらゆる自然物の精気から生じ、人を化かす。また、死者を食べるとも言われ、姿かたちは幼児に似ていて、2本足で立ち、赤黒色の皮膚をして、目は赤く、耳は長く、美しい髪と人に似た声をしている。これらの外見は鬼を思わせる。『和漢三才図会』では水神、古代中国の書『春秋左氏伝』では水沢の神とされる」

とあり(仝上)、

SekienMoryo.jpg

(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』・「魍魎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8Eより)


鳥山石燕は、

「形三歳の小児の如し。色は赤黒し、目赤く、耳長く、髪はうるはし。このんで亡者の肝を食らふと云、

と記した(今昔画図続百鬼)。これは、

「罔両は状は三歳の小児の如し、色は赤黒し、目は赤く耳は長く、美しい髪をもつ」

とある(淮南子(えなんじ))のに基づくとみられる。

「『本草綱目』には、「罔両は好んで亡者の肝を食べる。それで『周礼』に、戈(ほこ)を執って壙(つかあな)に入り、方良(罔両)を駆逐する、とあるのである。本性、罔両は虎と柏とを怖れす。また、弗述(ふつじゆつ)というのがいて、地下にあり死人の脳を食べるが、その首に柏を挿すと死ぬという。つまりこれは罔両である」

と記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8E、とか。

「魍魎」は、

みずは、

と訓じ、

水神、

とされた(「水波」「美豆波」「弥都波」等々と表記)。

「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称」

でもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8E

「『淮南子』によると、罔象は水から生じる。また、『史記』によると、孔子は水の怪は龍や罔象であるとした。
これらから、魍魎も水の怪の総称とみなされるようになった。この意味は、山川の怪を意味する魑魅と対を成すようになった(あわせて魑魅魍魎)。日本では『日本記』により、罔象の和名は水神(あるいは女神)を意味する『みずは』だとされた」

とある(仝上)。ただ、亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており、火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる(仝上)、という。

火車(http://ppnetwork.seesaa.net/article/432314473.html

については、すでに触れた。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

ホームページ;
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2019年10月08日

入舞


「入舞(いりまい)」は、

入綾(いりあや)、

ともいう。「入綾」は、

「舞楽で、舞終了後の退出作法。舞楽曲の中心となる当曲(とうきょく)を舞い終わり、同じ曲が反復演奏(重吹 しげぶき)される中を、舞人は中央に縦一列になり、その曲の舞の手を続けながら、順次退出する」

という意で、その意が転じて、

物事の終わり、

の意となる(広辞苑)。これだとわかりにくいが、

「唐楽の特定の曲 (いずれも4あるいは6人舞) において,舞人全員がうしろ向きとなり,舞いながら中央によって縦に一列となり,降台する舞人以外は舞い続けて下臈の舞人から順次退場する様式。当曲 (舞楽の中心となる曲) を続けて奏する。入手 (いるて) といえば,出手 (でるて) と同じ舞手をおのおのの舞座で同時に行い,終了後,左回りにその場で一周して順次下臈より降台することで,特定の退場楽を用いるが,当曲を重ねて奏するときは重吹 (しげぶき) という」

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、さらに、

「舞楽が終わって、舞人が退場するとき、いったん御前に引き返してから、改めて舞いながら楽屋にもどること。また、その舞。特定の曲に限ってこれを行なう」

ともある(精選版 日本国語大辞典)。どうやら、舞い終わった後、それぞれの立ち位置から、中央へ戻り、舞いながら、舞仕舞いをしていくことらしい。

入り際のあや、

の意(岩波古語辞典)とある。大言海は、

「舞の手を、あやおりの手に譬えて云ふ語かと云ふ」

とする。

老いの入舞、

という言い方がある。

老いの入り前、

とも言う。

晩年に一花を咲かせる、

意であり、世阿弥は、

「人の目には見えて嫌ふ事を、我は昔より此のよき所を持ちてこそ名をも得たれ、と思ひつめて、そのまま人の嫌ふ事をも知らで、老いの入舞をし損ずるなり」

という言葉を残している(「花鏡(かきょう/はなのかがみ)」故事ことわざの辞典)。

「花鏡」の中で、

初心忘るべからず、

について、世阿弥はこう言っている。

是非初心不可忘
時々(ときどき)初心不可忘
老後初心不可忘

と。老後について、

「老後の初心忘るべからずとは、命には終わりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後の風体に似合ふ事を習ふは、老後の初心也。老後の初心なれば、前能を後心とす。五十有余よりは、『せぬならでは手立てなし』と言へり。せぬならでは手立てなきほどの老後にせんこと、初心にてはなしや。さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入り舞にして、終に能下がらず」

とあるhttp://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc9/zeami/gyouseki/kakyou02_1.html。ちなみに、是非の「初心」については、

「是非初心忘るべからずとは、若年の初心を不忘して、身に持ちてあれば、老後にさまざまの徳あり。『前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是とす』と言へり。『先車のくつがへす所、後車(ごしゃ)の戒め』と云々。初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。功成り、名遂ぐる所は、能の上がる果也。上がる所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへるは、能の下がる所なるべし。然者(しかれば)、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫する也。…初心を忘れずば、後心正しかるべし。後心正しくば、上がる所の態(わざ)は、下がることあるべからず。」

とある(仝上)。更に、時々の初心は、

「時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの頃、老後に至るまで、其時分時分の芸曲の、似合ひたる風体(ふうてい)をたしなみしは、時々の初心也。されば、その時々の風儀をし捨てし捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは身に不持。過ぎし方の一体(いってい)一体を、今当芸ににみな一能曲持てば、十体(じゅってい)にわたりて、能数尽きず。其時々ありし風体は、時々の初心也。それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや」

と(仝上)。つまるところ、

老いの入舞、

が最後の一花になるには、イチローの言葉ではないが、小さな一歩一歩を、初心として身に着けてきた果てにこそある、ということになる。

ところで、大言海は、「入舞」について、

二の舞と同趣の語、

としているが、いささか違うのではないか。

「二の舞」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449197717.htmlで触れたように、「二の舞」はただ二度目の舞の意ではない。大言海にしては、軽忽の言葉に思える。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:入舞
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2019年10月09日

鶏肋


「鶏肋(けいろく)」は、

鶏のあばら骨の意、

であるが、喩えに使われて有名になった。ひとつは、後漢書楊震伝附楊修伝、

「夫鶏肋、食之則無所得、棄之則如可惜(夫れ鶏肋は之を食には則ち得る所無し、之を棄つるには則ち惜しむべきか如し)」

からきている(故事ことわざの辞典)。初出は、他に、

『三国志』魏書「武帝紀」の注に引く『九州春秋』に記録がある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B

曹操、

が言ったとされる。

「(少しは肉があるので捨てるには忍びないの意から)大して役に立たない影棄てるには惜しいもの」

の意で使われる。

「本来はスープなどの材料であるが、一般に骨についている肉は美味いので、昔はしゃぶって食べる事もあった。しかし、肉は僅かしかついていないので、出汁にはできても腹は満たされない。このことから『大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの』を指して」

「鶏肋」というようになった、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B

この経緯は、

「漢中郡をめぐる劉備(蜀の先主)との攻防戦において持久戦をとる劉備軍に曹操軍が苦戦を強いられた時、曹操が食事中無意識に発した『鶏肋』を伝令が触れ回り、誰もその意味を理解できない中で側近の楊修は撤退の準備をさせた」

周囲はその意がわからず、問われた楊修は、

夫鶏肋、食之則無所得、棄之則如可惜

と、上述の言葉を述べたものとされる。これだと少しわかりにくいが、

「曹操は漢中を制圧し、さらに蜀の劉備を討とうとしたが、攻めるにも守るにも困難なため、大度を決めかねて、一言『鶏肋のみ』と言った」

らしい。

「鶏肋(鶏のあばら骨)は、捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほどの肉はついてない。すなわち、漢中郡は惜しいが、撤退するつもりだろう」

と楊修は解釈した。いわば、イソップの、

酸っぱいブドウ、

のような意味になる。負け惜しみと言えば負け惜しみである。

しかし、曹操は、勝手に撤退準備を始めた楊修を、軍規を乱したとして処刑したとされる。

YangXiu.jpg



三国志演義では、

曹操は夕食の最中も鶏湯を食べながら、進退を思案していた。そこへ夜の伝達事項を聞きに夏侯惇がやってくる。曹操は夏侯惇を前にしても上の空で、碗の中の鶏がらを見ながら『鶏肋、鶏肋…』と呟く。意図も分からぬまま夏侯惇が全軍に『鶏肋』と伝達すると、楊修はそそくさと撤退の準備を始める。(中略)曹操は、全軍が指図もないのに撤退準備をしていることに大いに驚き、楊修に対して「お前はどうして流言を広めて軍心を乱したのか」と激怒し、楊修を処刑し継戦を告げた」

が、結局劉備に再び敗れた撤退を決断するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%8B、とある。しかし、楊修の処刑は、撤退後であり、曹操の後継者争いで世子の曹丕でなく庶子の曹植世子に味方したこと、母親が袁術と縁続きであったこと等々によるとされる。

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「鶏肋」のもうひとつの出典は、晋書劉伶伝の、

「嘗酔、与俗人相忤、其人攘袂奮拳而往、伶徐曰、鶏肋不足以安尊拳、其人笑而止(嘗て酔い、俗人と相忤(とも)る、其の人袂を攘(はら)い拳を奮って往く、伶徐に曰く、鶏肋以て尊拳を安んずるに足らずと、其の人笑って止む)」

により、

体の弱く小さいことのたとえ、

として使われる。

どうも、「鶏肋」の喩えとしては、曹操の負け惜しみの言葉の方が、面白い。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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書評
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ラベル:曹操 鶏肋 劉伶 楊修
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2019年10月10日

てんぷら


「てんぷら」は、

天麩羅、
天婦羅、

と当てる。広辞苑は、「テンプラ」を、

têmporas ポルトガル語、

とし、

斎時の意、tempero(調味料)からともいう、

とする。同じくポルトガル語の調味料とするものに、

調理の意のポルトガル語temperoから(話の大事典=日置昌一・すらんぐ=暉峻康隆・上方語源辞典=前田勇・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

がある。日本語源広辞典も、

ポルトガル語temperp(調理)

の意とする。「斎日」に関しては、

「斎日」には、肉食が禁じられ魚料理を食べたことから、「斎日」を意味するポルトガル語のテンポラスtemporasからきたのだ、

とする説もある。それを、スペイン語・イタリア語とする、

天上の日の意のスペイン語・イタリア語のtemplaから。この日には獣鶏肉は食わないで、魚肉・鶏卵を食したところから、魚料理の名となったものか(大言海)

との説もある。天上の日とは、金曜日の祭りの日(大言海)、らしい。そのほか、

油を天(あ)麩(ぶ)羅(ら)と書いて音読したもの(外来語辞典=楳垣実)、

とする説や、

イタリア人画家が使用したテンペラという絵具は、スペイン語でテンプラ、ラテン語の混合物、あるいは攪拌する意で、昔スペイン人が日本人のかきあげを見て、うどん粉に魚類を混合するもの、攪拌する、かき混ぜて揚げるものの意、

とするもの(たべもの語源辞典)等々もある。たべもの語源辞典は、

「テンプラの語源は、テンプラリの略称であると思われる」

と断定するが、「南蛮語であろう」とするだけで、特定していない。ただ「てんぷら」に当てた、

天麩羅、

は、

麩(うどんこ)の羅(うすもの)を填めたるなり、

という意(大言海)だが、この字を当てたのは、山東京伝とされる(日本語源広辞典は付会の説とするが)。大言海は、

「天ぷらノ始リ、天明ノ初年、云々、大坂ニテつけあげト云物、江戸ニテハ胡麻揚ゲトテ辻賣アレド、イマダ魚肉アゲ物ハ見エズ、云々、利介曰、是ヲ夜見世ニ賣ランニ、ソノ行燈ニ、胡麻揚ト記スハ、何トヤラン物遠シ、云々、先生名ヲ付ケテ賜ハレト云ヒケルニ、亡兄(京傳)少シ考ヘ、天麩羅ト書キテ見セケレバ、利介、不審ノ顔ニテ、てんぷらトハ如何ナル謂レニヤト云フ、亡兄ウチ笑ミツツ、足下ハ今、天竺浪人也、フラリト江戸ヘ来テ賣始メル物故、てんぷら也。てんハ天竺ノ天、即チ揚ゲル也。ぷらニ麩羅ノ二字を用ヰタルハ、小麦ノ粉ノウス物ヲカクルト云フ義ナリト、云々、見世ヲ出ス時、行燈ヲ持チ来リテ、字ヲ乞ヒケル故、亡兄、余ニ字ヲ書カシメ給ヘリ、コハ己レ十二三頃ニテ、今(文化三年(1806))ヨリ六十年ノ昔ナリ、今ハ天麩羅ノ字モ、海内ニ流伝スレドモ、亡兄京傳翁ガ名付親ニテ、予ガ天麩羅ノ行燈ノ書始メ、利介が賣リ弘メシトハ、知ル人アルベカラズ(此説實ニ侍リ、我幼キ頃ハ、行燈ニ、モト胡麻揚トアリシ也)」

と引く(岩瀬京山「蜘蛛の糸巻」(文化))。利介とは、京伝の所に出入りしていたものらしい。もちろん、「てんぷら」という言葉は既にあったので、

「京伝が考えたのは、『てんぷら』を『天麩羅』と当て字した面白さである」

ということ(たべもの語源辞典)だろう。「天婦羅」は、「天麩羅」の当て字を換えたものと思われる(語源由来辞典)。その十年後、

「天明の初、何者か、天麩羅揚と、行燈看板に万葉仮名にて書けり」

とあり(嬉遊笑覧)、浄瑠璃昔唄今物語(天明元年)にも、

天麩羅、

とあり(大言海)、すでに「天麩羅」が膾炙している。

「てんぷら」という言葉自体は、奈良・平安時代に中国から伝来したものとして、米粉などを衣にしたものがあったらしいが、「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは、江戸時代前期の1669年(寛文9年)刊『食道記』らしい。ただ、

「『素材に衣をつけて油で揚げる』という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られる経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素揚げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域が広い。江戸時代の料理書では、これらの両方を『てんぷら』と称していた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89。更に、

「16世紀には、南蛮料理を祖とする『長崎天ぷら』が誕生している。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる『つけ揚げ』に発展する。そして、江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる『ゴマ揚げ』として庶民のあいだに浸透していったといわれている」

ので、この胡麻揚げに「天麩羅」と当てたものと、思われる。

家康が、鯛を油で揚げて食し(國師日記「家康ノ鯛ノてんぷらヲ食ス」)、にわかに発病したらしい(元和二年(1616))が、これが「てんぷら」との記述はない。しかし、後年の寛文一二年(1672)の『料理献立集』には、

「きじ、てんぷらり」

と載る(たべもの語源辞典)。更に、寛延元年(1748)の『歌仙の組糸』には、

「長皿、きくの葉てんぷら、結びそうめん、油あげ」
「茶碗、鯛切身てんぷら、かけしほ、とうからし」
「てんぷらは何魚にても、うどん粉まぶして油に揚げるなり」

等々とあり、

「菊の葉てんぷら又牛蒡蓮根長いも其外何にてもてんぷらにせん時は、うどん粉を水醤油ときぬりつけて揚るなり」

とある(たべもの語源辞典)、とか。この十三年後、京伝が「天婦羅」と当てたことになる。

嬉遊笑覧(文政一三年(1830))には、「てんぷら」について、

「蕃語ナルベシ。小麦粉ヲ練リテ、魚物ナドニツケテ油揚ゲニスルモノヲモ云フ、(てんぷらは)其形、同ジケレバ也、云々、元文三年、千前軒ガ小栗判官ノ浄瑠璃、波羅門組ト云フ悪党ノ名ニ、てんぷら長九郎ト云フアリ、然レバ、其ヨリ先、長崎ナドニハ、魚物ノ油揚ヲ然云ヘリト見ユ」

とある(大言海)。『守貞謾稿』(嘉永六年(1853))には、魚介類を揚げたものが、てんぷらで、野菜を揚げたものはてんぷらとは言わないで、「あげもの」というとし、

「京坂の天ぷらは半平の油揚げをいう。江戸の天麩羅は、アナゴ・芝えび・こはだ・貝の柱・するめ。右の類、惣じて魚類に温沌粉をゆるくときて、ころもとなし、しかる後に油揚げにしたるをいう。蔬菜の油揚げは江戸にてもてんぷらとはいはず、「あげもの」というなり」

とあるらしいhttps://wheatbaku.exblog.jp/22446076/。どうやら、

「江戸時代前期には、天ぷらは『天ぷら屋』と呼ぶ屋台において、揚げたての品を串に刺して立ち食いする江戸庶民の食べ物あった」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89

Tempura_in_Ukiyo-e.jpg

(江戸時代の天ぷら屋台。鍬形蕙斎 「近世職人尽絵巻」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%B7%E3%82%89より)

「てんぷら」屋台は、「そば」「すし」と並んで,

江戸の三味、

と呼ばれたとか。このきっかけは、明暦の大火(1657年)で、江戸の3分の2が焼けたため,大勢の職人が集まって,復興に当たった。彼らは単身赴任の男性なので,食事に困り,屋台に人気が集まった。満腹しては仕事にならないので,軽食,おやつ的な献立が好まれた。後には,男女に関係なく,生活を豊かにするおやつとして,食べ物の屋台は,江戸の街に定着していくことになるhttp://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish40.htmlとか。その食べ方は、

「屋台の天ぷらは,天つゆと大根おろしで食べた。手が汚れないように,串に刺して出した。種には,江戸前のあなご,芝海老,こはだ,貝札するめなどが使われた。技術の向上で江戸湾からの魚介類の漁獲が増えたことも,天ぷら文化の普及に貢献した」

だったらしいhttp://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish40.html

ところで、関東と関西では使用する油が違うらししい。

「関東では卵入りの衣をごま油で揚げることで、キツネ色に揚がる。一方関西では卵は使わず、衣をつけて菜種油で揚げるので仕上がりは白い。どうも関西で広まった天ぷらは野菜中心だったために、自然の味を損ねないように菜種油で揚げて塩をつけて食べていたようだ。それが関東、というより江戸に伝わり日本橋の魚河岸で水揚げされた魚介をごま油で揚げるようになった。ごま油は魚の臭みが抑えられるためだ」

とあるhttps://kusanomido.com/study/life/food/22861/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月11日

方法の実験


大岡昇平他編『方法の実験(全集現代文学の発見第2巻)』を読む。

img167.jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

方法の実験,

と題された「方法」を自覚した実験作を収録している。収録されているのは、

内田百閒『冥途』『旅順入城式』
佐藤春夫『F・O・U』
横光利一『蠅』『静かなる羅列』『時間』
川端康成『水晶幻想』
萩原朔太郎『猫町』
牧野信一『ゼーロン』
堀辰雄『ルウヴェンスの偽画』
中野重治『空想家とシナリオ』
伊藤整『幽鬼の街』
石川淳『鷹』
埴谷雄高『虚空』
神西清『月見座頭』
安部公房『赤い繭』
福永武彦『飛ぶ男』
井上光晴『地の群れ』
花田清輝『大秘事(「小説平家」より)』

である。僕は文学史に博識ではないので、この選集上梓以後五十年の間に、他にどんな「方法の実験」に値する作家が入るのか、わからないが、私見では、これに、

古井由吉『眉雨』
中上健次『奇蹟』

は確実に入ると思われる。

本書の中で、注目すべきことは、

実験、

ではない。実験は、実験であって、いわば、

習作、

に過ぎない。実験は作品ではない。その意味で横光以下、ほとんどは、

実験、

の域を出ない。実験そのものが、方法として確立し、その方法で自覚的に、

作品世界、

を構築し、その上で、作品としての評価に耐えうるのは、ぼくは、

石川淳『鷹』
井上光晴『地の群れ』
花田清輝『大秘事(「小説平家」より)』

であると思う。埴谷雄高『虚空』、安部公房『赤い繭』も挙げたいが、埴谷雄高『は虚空』よりは、やはり『死霊』だろう。安部公房は『赤い繭』より他に採るべき作品(例えば『壁』)があるように思える。

ぼくは、小説とは、

何を書くか、

ではなく、

どう書くか、

がテーマであるべきだと思っている。その時、方法は、

主題、

である、と思う。そのことを、伊藤整は、芥川龍之介に擬した塵川辰之介に、

「『何を書くか』ではないのですよ。…如何に美しく書くか、ですよ。」

と語らせている。プロレタリア文学の脅威に立ち向かっている芥川にとって、それは伸るか反るかの一大事であった。しかし、芥川は、「何を書くか」主義の潮流に抗えず、自刃した。今日もなお、

何を書くか、

という主題主義は、巨大な壁である。石川淳は、

「森鴎外」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html

で触れたように、『澀江抽斎』は、

「小説家鷗外が切りひらいたのは文学の血路である」

と言い切っている。それは,

「出来上がったものは史伝でも物語でもなく,抽斎という人物がいる世界像で,初めにわくわくしたはずの当の作者の自意識など影も見えない。当時の批評がめんくらって,勝手がちがうと憤慨したのも無理はない。作品は校勘学の実演のようでもあり新講談のようでもあるが,さっぱりおもしろくもないしろもので,作者の料簡も同様にえたいが知れないと,世評が内内気にしながら匙を投げていたものが,じつは古今一流の大文章であったとは,文学の高尚なる論理である。」

「『抽斎』『蘭軒』『霞亭』はふつう史伝と見られている。そう見られるわけは単にこれらの作品を組み立てている材料が過去の実在人物の事蹟に係るというだけのことであろう。いかにも史伝ではある。だが,文章のうまい史伝なるがゆえに,ひとはこれに感動するのではない。作品の世界を自立させているところの一貫した努力がひとを打つのみである。」

と。この小説は、

メタ小説(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html)、

で触れたように、

書くことを書く,

を方法とした、

メタ小説、

である。それは、

「作者はまず筆を取って,小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くことからはじめている。ということは,頭脳を既成の小説概念から清潔に洗っていることである。(中略)前もってたくらんでいたらしいものはなに一つ持ちこまない。…味もそっけも無いようなはなしである。…しかし『追儺』は小説というものの,小説はどうして書くかということの,単純な見本である。これが鷗外四十八歳にして初めて書いた小説である。」

石川淳の評した短編『追儺』の方法意識で、

書くとはどういうことかを書きながら,書いていったのである。本巻に、

澀江抽斎、

をこそ、納めるべきであった。

参考文献;
大岡昇平他編『方法の実験(全集現代文学の発見第2巻)』(學藝出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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ラベル:方法の実験
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2019年10月12日

豆腐


「豆腐」は、中国名をそのまま日本訓みしたもの。白壁に似ているので、女房詞で、

おかべ、

ともいう。豆腐をつくるときの皮は、老婆の皺に似ているので、

うば、

と言い、転じて、

ゆば(湯婆)、

と言い、豆腐の粕を、

きらず、

というのは、庖丁を用いなくても刻んだから、という。

おから、

である(たべもの語源辞典)。豆腐は、『本草綱目』では、

「紀元前二世紀前漢時代の淮南王(わいなんおう)で優れた学者でもあった劉安によって発明されたとしている」

とか。この人は、学者・文人を集めて著書を編纂させているが、その中の『淮南王万畢術』に、豆腐の製造方法が記述されている、という。しかしこの本は現存しない(仝上)。ただ、この時代に大豆はまだないとする説もあり、

「一説には豆腐の起源は8世紀から9世紀にかけての唐代中期であるともいわれている。実際、6世紀の農書『斉民要術』には諸味や醤油についての記述はあるものの豆腐の記述が見当たらず、文献上『豆腐』という語が現れるのは10世紀の『清異録』からである。唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)、酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(チーズ)などの乳製品が知られていた。豆腐は、豆乳を用いた、乳製品(特にチーズ)の代用品(乳「腐」から豆「腐」へ)として、発明されたと考えられている」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90

日本へは、

「遣唐使によるとする説が最も有力とされるが、その一員でもあった空海によるという説、鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない。ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代に伝来したとみる説もある。ただ、1183年(寿永2年)の奈良・春日神社の供物帖の中に『唐府』という記述がある」

とか(仝上)。室町中期、文安元年(1444)の『下学集』に、豆腐という語が載っている(たべもの語源辞典)、らしい。

当初は、寺院の僧侶等の間で、次いで精進料理の普及等にともない貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代(1393~1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透した。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていき、本格的に、庶民の食べ物として取り入れられるのは、江戸時代となるhttp://www.zentoren.jp/knowledge/history.html。ただ、「慶安御触書」には、

「豆腐はぜいたく品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。 その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていた」

らしく、ようやく庶民の食卓に普段の日でものぼるようになったのは、江戸時代の中頃、それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/01.html、らしい。

「江戸時代の豆腐は、今日でいう木綿豆腐のみであった。豆腐は庶民の生活に密着しており、江戸では物価統制の重要品目として奉行所から厳しく管理されていた。『豆腐値段引下令』に応じない豆腐屋は営業停止にされるため、豆腐屋は自由に売値を決めることは出来なかった」

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90。ちなみに、江戸で初めて絹ごし豆腐を売ったのは、いまだに続いている老舗「笹の雪」である。価格統制にかかわって、『守貞謾稿』によると、豆腐屋与八を表彰した「豆腐売り」の記事がある。

「豆腐売り 三都とも扮異なく,桶制小異あり。
 京阪豆腐一価十二文、半挺六文、半挺以上を売る。焼豆腐・油揚げ・とうふともに各二文。江戸は豆腐一価五十余文より六十文に至り、豆腐の貴賎に応ず。半挺あるいは四半挺以上を売る。価半価・四分の一価なり。焼豆腐・油揚げ・豆腐各五文。けだし京阪豆腐小形、江戸大形にて価相当す。また京都にては半挺を売らず、一挺以上を売る。
 因に記す、天保十三年二月晦日、江戸の市中に令す。江戸箔屋町豆腐屋与八、豆腐価廉に売る故に官よりこれを賞す。古来、豆腐筥制、竪一尺八寸・横九寸なるをもってこれを製す。これを十あるひは十一に斬り分けて一挺と号けるを例とす。与八のみこれを九挺に斬りて価五十二文に売る。他よりは四文廉なり、云々。当時価五十六文にて、与八のみ形大にして五十二文に売る故にこれを賞す。」

http://www.manabook.jp/aji-essay-toufu.htm

「天明二年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』には、100種類の豆腐料理が記述されており、また様々な文学でも親しまれてきた。当時より、豆腐は行商販売もされており、前述の豆腐百珍は大きな人気を得て一般的な料理であった。行商の豆腐屋はラッパや鐘を鳴らしながら売り歩いていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90が、

「『一里腐屋』という『振り売り』が街の中を売り歩きます。売り声を出して売り歩くのですが、豆腐屋さん独特の笛は時代がもっと下ってからのようです。一豆腐屋さんの声が聞こえると『一丁おくれ』というふうに買っていました」

とあるのでhttp://www.glomaconj.com/joho/edojuku1.htm、少なくとも、ラッパは明治以降のようである。

「関東地方では、明治時代初期に乗合馬車や鉄道馬車の御者が危険防止のために鳴らしていたものを、ある豆腐屋が『音が“トーフ”と聞こえる』ことに気づき、ラッパを吹きながら売り歩くことを始めたものである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90

「振り売り」とは、ざる、木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで売り歩いたので、こういう。

棒手振り(ぼてふり)、

とも言い、

油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし(図2)、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵など食品、

ほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品や子供のおもちゃ、

金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、錦鯉など愛玩動物、

相撲の勝負の結果を早刷りにして売る「勝負付売り」、

等々を売り歩いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2

summer_gourmet11_l-thumbnail2.jpg

(『守貞謾稿』江戸時代の豆腐売り、京阪と江戸では異なった https://edo-g.com/blog/2017/08/summer_gourmet.html/summer_gourmet11_lより))


「豆腐」の「腐」を嫌って、「根ぎし 笹乃雪」では、9代目当主が、20世紀前半頃、食品に「腐る」という字を用いることを嫌って

豆富、

と表記し、それが広まったが、中国でも「腐」を避け、

菽乳、方壁、小宰羊(宰羊:羊の肉)

等の異名があったとある(『豆腐百珍』)。しかし「腐」は、

「腐るという意味だけでなく液状のものが固形状になったやわらかいもの、という意味」

もあり、そこからきているhttps://j-town.net/tokyo/news/localtv/269715.html?p=all

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年10月13日

豆腐小僧


「豆腐小僧」というのがよくわからない。たとえば、

「『豆腐小僧』は、大きな傘をかぶった大頭の5才位の子どもの妖怪で、紅葉印のある豆腐を載せたお盆を持ち歩くと言われています。豆腐小僧が出てくる一番古い文献は、安永8(1779)年の黄表紙(大衆的な絵入り小説本)『妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)』【207-1754】で、その後、天明期や寛政期の黄表紙によく登場します。特徴がわかりやすいのは北尾政美の『夭怪着到牒(ばけものちゃくとうちょう)』【208-500】ですが、ここでは「大あたまこぞう(大頭小僧)」と書かれており、他でも一つ目小僧などと混同されていることもあるようです」

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.htmlあり、「大頭小僧」と同一視されている。あるいは、

「豆腐小僧(とうふこぞう)は日本の妖怪の一つで、盆に乗せた豆腐を手に持つ子供の姿の妖怪。江戸時代の草双紙や黄表紙、怪談本に多く登場する妖怪であり、幕末から明治時代にかけては凧の絵柄、すごろく、かるたなどの玩具のキャラクターとしても親しまれていた。一般には頭に竹の笠をかぶり、丸盆を持ち、その上に紅葉豆腐(紅葉の型を押した豆腐[6])を乗せた姿で描かれている。身にまとう着物の柄は、疱瘡(天然痘)除けとして春駒、だるま、ミミズク、振り太鼓、赤魚などの縁起物や、童子の身分を著す童子格子に似た格子模様も見られる」

とあるhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%B1%86%E8%85%90%E5%B0%8F%E5%83%A7

Masasumi_Tofu-kozo.jpg

(竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「豆腐小僧」 https://www.wikiwand.com/ja/%E8%B1%86%E8%85%90%E5%B0%8F%E5%83%A7


「豆腐小僧」は、

「特別な能力などは何も持たず、町のあちこちに豆腐や酒を届けに行く小間使いとして登場することが多く『豆腐小僧ハ化ものゝ小間使ひ』と川柳にも詠まれている。人間に対しては、雨の夜などに人間のあとをつけて歩くこともあるが、特に悪さをすることもなく、たいして人間に相手にされることもない、お人好しで気弱、滑稽なキャラクターとして描かれている。悪さをするどころか、軟弱な妖怪としてほかの妖怪たちにいじめられる例もある」

とあるhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%B1%86%E8%85%90%E5%B0%8F%E5%83%A7し、

「人間を怖がって逃げだす際に大事な豆腐を落としてしまったり(京伝『怪物ばけものつれつれ草ぐさ』)、他の妖怪にいじめられている場面(桜川慈悲成作 ; 歌川豊国画『大昔化物双紙おおむかしばけものそうし』)などもあります」

ともあるhttps://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.html

他方に、上記のように、「豆腐小僧」と同一視されている「大頭小僧」(おおあたまこぞう)というのがいる。

「黄表紙『夭怪着到牒』(1788年)などに描かれている。頭部の大きな子供の姿をした妖怪。『夭怪着到牒』では『豆腐屋を驚かして豆腐を持って来た』といった内容を作中のせりふとして語っており、特徴的な大きな頭を見せ人間を驚かす妖怪であると考えられる。桜川慈悲成『化物夜更顔見世』(1791年)では、ちょろけん、ちょろけん小僧という名で頭部の大きな子供の妖怪が登場しており、同様の妖怪が江戸時代に描かれていたことをうかがうことが可能である」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%83%A7、一応「豆腐小僧」とは区別されている。水木しげるは、「大頭小僧」は、大きな頭と獣のような裸足が特徴であり、「豆腐小僧」とは別の妖怪であると明記し(『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』)、

「紅葉豆腐を持っているのは『大頭小僧』であるという解説および豆腐小僧とは別物であるという分類を敷衍解釈し、紅葉豆腐を持つ妖怪を大頭小僧、それ以外の豆腐(絹豆腐など)を持つのが豆腐小僧であると解説されることもある」

とか(仝上)。『続妖怪事典』には、

「雨がしとしと降っているとき、竹やぶに、大きな笠をかぶった子どもが現れて、手に持ったおぼんに豆腐がのっていたら、それは“豆腐小僧”である。いかにもおいしそうだが、それにつられてうっかり食べてしまうと、身体中にかびがはえてしまう」

とある。

MasayoshiTofu-Kozo.jpg

(北尾政美『夭怪着到牒』 大頭小僧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%83%A7より)


確かに図を見る限り、「豆腐小僧」と「大頭小僧」は別のように見える。豆腐小僧は、

見越し入道を父、ろくろ首を母とする、

説があるが、大頭小僧は、『夭怪着到牒』で、

見越入道の孫、

という設定で、

雨のしとしと降る夜に、豆腐屋を驚かせて豆腐を一丁せしめてくる

とあるhttp://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2017/09/26/190000のだから、少なくとも、黄表紙『夭怪着到牒』では、両者を、区別をしていたとみていい。しかし、

「豆腐を持ち運んでいる様子が描かれていることから『豆腐小僧』として『夭怪着到牒』の『大頭小僧』の図版が使用されることが増え、それ以前の豆腐小僧イメージとの置き換えまたはイメージの混同が見られた」

もののようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%83%A7

「豆腐小僧」の憎めないキャラクターは、あるいは、

「豆腐屋や豆腐売りが一般化する江戸時代中期以降に『豆腐小僧』が作られたとみられるものの、その経緯は明らかになっておらず、豆腐屋の販売促進のために作られたキャラクターという説もあります」

というのがオチらしいhttps://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/2.html

参考文献;
水木しげる『続妖怪事典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月14日

蛇女房


へびhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/433628380.htmlについては触れたことがあるが,「蛇」は、

クチナワ、
ナガムシ、
カガチ、

等々と呼ばれ、古来神聖な動物として崇められてきた。阿部正路氏は,

「蛇の古語はナビ=奈備である。それを鎮めて神奈備とし,日本の神の基本に据えたのも所詮蛇への畏怖である。」

とし、妖怪の「濡れ女」にしても,「ろくろく首」にしても,蛇を根底においた妖怪,であるらしい。『俵藤太物語』には,大蛇に頼まれて近江国三上山の巨大な百足を退治する話が出ているが,

「蛇と水と龍はひとつながりの存在であり,蛇が人間の力を借りて百足を退治するのは,足のない妖怪の足を持つ者への限りない恐れを暗示する」

という。しかし,思うに,

「竜蛇の力こそ人間にとって理想の怪力をもたらすもの」

と思われていて(仝上)、

「特に湿地帯に生息するゆえに水の神とも観じられたきた」

のである(日本昔話事典)。

「蛇女房」は、

異類婚姻譚(いるいこんいんたん)、

のひとつである。つまり、

人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称異種婚説話、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E8%AD%9A。この「動物」には、慣例的に、架空の山姥、鬼、河童、天人等も含まれるらしい。関敬吾氏による分類では、

援助 - 例:動物を助ける。
来訪 - 例:動物が人間に化けて訪れる。
共棲 - 例:守るべき契約や規則がある
労働 - 例:富をもたらす。
破局 - 例:正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
別離

と、六つの要素で構成される(仝上)。そこには、

異類婿譚、

異類女房、

とがあり、「異類婿」は、

「人間の女と動物の婚姻。何かと引き替えに、女性が一種の人身御供として異類と結婚する羽目に陥る。女性自ら婚姻が破綻する様に画策し、破局させる話も多い」

とあり(仝上)、

蛇婿、
猿婿、
犬婿、
河童婿、
馬婿、
鼠婿、
一寸法師、

等々があり、「異類女房」は、

「人間の男と動物の婚姻。異類婿よりは比較的悲惨でない話が多い。見るなのタブーを犯すことで離別する結末を迎える話も多い」

とあり、

蛇女房、
竜宮女房、
魚女房、
蛤女房、
亀女房、
鶴女房、
天人女房、
狐女房、
猫女房、
蛙女房、
雪女、
木霊、
山姥、
クモ、
河童、
鬼、
鉢かつぎ、

等々がある(仝上)。

「蛇婿」は、「蛇」と交換可能な、

狐、狸、猫、蛙、いもり、たら、うなぎ、魚、たにし、蜘蛛、むかきで、けむし、

と、他の動物と交替しただけの説話があるのに対して、「蛇女房」に替わる動物の話はない(異類婚姻譚に登場する動物)。このことに何か意味があるのかどうか。

「蛇女房」とは、

「ある若者が蛇を助け、やがて美しい女がやってきて若者と夫婦になる。女房は妊娠し、覗いてくれるなと部屋に入ってお産をするが、つい夫が覗くと大蛇が赤児を産んでいる。女房は見られたことを悟り、自分は池の主で助けられた蛇であると告げ、子供を育てるための玉(片目)を置いて去る。(その玉をしゃぶって無事成長するが)その玉が有名になり殿様に取り上げられてしまう。夫は困って池へ行き事情を話すと、母親の蛇が現れてもう片方の目を与え、これで盲目になってしまい時もわからないので、寺に鐘を寄進して朝夕衝いてくれと夫に頼む(または、夫と子供を安全なところに逃がした後、洪水を起こして殿様に復讐する)」

という話である(日本昔話事典、日本伝奇伝説大辞典)。全国に百以上分布している、という。「お産の時部屋を見るな」という

産屋の禁忌、

は、古く『古事記』の、

豊玉姫神話、

に遡るが、この型の話にしか残っていない、という(日本昔話事典)。

この説話は、蛇が水の神と関連する霊的な動物とされるため、水を支配する蛇の存在を表現しているが、伝説として語られるため、たとえば、蛇の頼んだ鐘は、近江の、

三井寺の鐘、

とする例も多い。また

鴻の池(徳島)、
龜ケ池、龍泉寺(奈良)、
鏡ケ池(栃木)、
お仙ケ淵(岩手)、

と、池の伝説と結び付けられている例もある(仝上)。

蛇の目玉は、

「動物ことに魚の目が精力を強めるという(民間)信仰」

と関係がある、との見方もあるが、蛇の棲む淵を、

座頭淵、

と呼んだ例もあり、この種の説話の分布には、

「盲人、座頭が参与したのではないかと思われる。座頭は古くから水の神の信仰と関係があった」

とするのはなかなか興味深い(日本昔話事典)。ちなみに、この子はのちに、

俊仁将軍(御伽草子「田村の草子」)、
あるいは、
安倍晴明(長崎)、

となる、という出世譚もあるが、豊玉姫神話の、

鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、

になるのをなぞっている、ともいえる。

参考文献;
阿部正路『日本の妖怪たち』(東京書籍)
中村とも子・弓良久美子・間宮史子『異類婚姻譚に登場する動物』https://ko-sho.org/download/K_010/SFNRJ_K_010-09.pdf
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年10月15日

納豆


「納豆」は、豆腐と違い、日本語である。

「寺納豆に起り、納所の僧の豆の義化と云ふ。いかがか」(大言海)

で、

「古製なるは濱名納豆」

とある。「納所」(のうしょ/なっしょ)とは、年貢などを納める所の意だが、ここでは、

寺院で、施物を納め、また会計などの寺務を取り扱うところ、またそれをつかさどる僧、

の意である。

「僧侶が寺院で出納事務を行う『納所(なっしょ)』で作られ、豆を桶 や壷に納めて貯蔵したため、こう呼ばれるようになったとする説が有力とされている。『なっ』は呉音『なふ』が転じた『なっ』で、『とう』は漢音『とう』からの和製漢語である」(語源由来辞典)

「濱名納豆」は、

「遠州濱松(旧名、濱名)の大福寺の製に始まる」

とあり(大言海)、

「黒大豆を煮て、小麦粉を衣として麹とし、砕きて煎じたる鹽汁に浸し、生姜、山椒皮、陳皮、紫蘇葉、芥子などを刻みて加へ、圧して数十日の後、乾して成る。此の種にて一休納豆、味最も美なり」

とする。どうやら、今日の「納豆」、つまり、

糸引き納豆、

とは別種で、

塩辛納豆、
浜納豆、
大徳寺納豆、
寺納豆、
唐納豆、

等々とも呼ばれる。

「奈良時代より宮内省大膳職で作られた『鼓(くき)』の一種であるといわれる。室町時代になると納豆、唐納豆、寺院で作ることが多いところから寺納豆とも呼ばれた。京都の大徳寺納豆、浜名湖畔大福寺の浜名納豆が有名である」

とある(日本語源大辞典)。これは、

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

「茶菓子としても利休以下多くの茶人に愛され、京菓子の中には餡の中にこの納豆をしのばせたものもある」

とか(仝上)。

02.jpg

(濱名納豆 https://ymy.co.jp/hamanatto.phpより)


今日の日常食する納豆は、淡鼓を簡単に作ったもので、これは、

日本の発明、

である(仝上)、とか。その由来には、

利休が馬屋の藁の中に落ちていた味噌豆にカビが生えているのを見て発明した、
八幡太郎義家が東北地方の征伐に出陣した時、その家来が偶然豆が糸を引くことを発見し納豆を発明した、
神棚に供えておいた豆が納豆に変化したのを見てその製法を考えた、

等々諸説あるが、

「東北地方に古くからあり、九州地方にもあった。これは東北の発明を九州へもっていったからだという」

とある(仝上)ので、民間で、古くから自然発酵法で行われたものと思われる。11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』の中で、

「『精進物、春、塩辛納豆』とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、「糸引き納豆」は、

「室町中期になると、公家の日記などに登場する(『大上臈御名之事』に『まめなっとう、いと』)、『御湯殿上日記・享禄二年一二月九日』に『いとひき』などの例があり、女房詞で『いと』『いとひき』と呼ばれていた。当時の生産地が近江であることなどを考え合わせると、近畿で創出された可能性も高い」

とある(日本語源大辞典)。さらに、

「室町時代中期の御伽草子『精進魚類物語』が最古のものと言われる。なまぐさ料理と精進料理が擬人化して合戦する物語だが、『納豆太郎糸重』という納豆を擬人化した人物の描写は藁苞納豆と通ずるものがある」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、室町期には、ある程度、一般化していたものらしい。その起源は、

「糸引き納豆は、『煮豆』と『藁』の菌(弥生時代の住居には藁が敷き詰められていた。また炉があるために温度と湿度が菌繁殖に適した温度になる)がたまたま作用し、偶然に糸引き納豆が出来たと考えられているが、起源や時代背景については様々な説があり定かではない。『大豆』は既に縄文時代に伝来しており、稲作も始まっていたが、納豆の起源がその頃まで遡るのかは不明である」

とあり、一部で使われていた可能性は残る。

納豆が庶民の間で広く食されるようになったのは江戸時代、それも、一年中納豆を手に入れることができるようになったのは江戸時代中期。それ以前は主に冬に食べられていたため、納豆は冬の季語とされている。納豆が庶民に食されるようになるのは、江戸時代である。

「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思はる」(江戸自慢)

との記述もあるhttps://style.nikkei.com/article/DGXMZO30208400Y8A500C1000000?page=3し、

納豆と蜆(しじみ)に朝寝おこされる、

という川柳もある(仝上)。

「各町内の木戸が開くのは明け六つ(朝6時頃)。夜が明ける時刻が明け六つですから、このころから湯屋(銭湯)の男湯がにぎわいだします。なんたって、廓(くるわ:遊郭のこと)帰りや、商家のご隠居、道楽者などが、朝湯にどっと繰り出します。長屋の木戸が開くと聞こえてくるのは、浅利売り、納豆売りの声です。『明星(金星)が入ると納豆売りが来る』」

といった具合だったらしいhttps://edococo.exblog.jp/9088724/

こんな文章もあるhttp://www.natto.or.jp/bungakushi/s07.html

「霜のあしたを黎明から呼び歩いて、『納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ』と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、『オウ、一つくんねえ』と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、『先ず有難え』と漸く安心して寝衣のままに咬(くわ)え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、『番ッさん、ぬるいぜ!』、なぞは何処までもよく出来ている」(柴田流星『残された江戸』(明治44年))

豆腐50文、
そば16文、

に対し、

納豆4文、
シジミ一枡10文、
冷や水4文、

とあるhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/25/news108.html。納豆は安い。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年10月16日

ショウガ


「ショウガ」は、

生姜、
生薑、
薑、

と当てる。

1024px-堀上げたばかりのショウガPC090165.jpg

(掘り上げたばかりのショウガ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%ACより)


原産地はインドを中心とした熱帯アジアと推定されているが、野生種は発見されていない。古い時代に中国に伝わり、三世紀以前に日本に渡来したらしい。

「日本には二、三世紀ごろに中国より伝わり奈良時代には栽培が始まっていた。『古事記』に記載があるように早くから用いられている

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC、古くはサンショウと同じく「はじかみ」と呼ばれ、区別のために「ふさはじかみ」「くれのはじかみ」とも呼ばれた、ともある。この経緯は、

「漢名が薑(きょう)、訓でハジカミとよむ。ハジカミとは山椒の古名。生姜の異名でもある。ショウガもハジカミも一つではあるが、ハジカミはショウガではない。ハジカミの中で、ショウガは、その部分が土の中にあることを示した名がツチハジカミであり、穴をあけてとるところからアナハジカミともいい、その部分がかたまりになっているのでクレノハジカミとも称した。クレノハジカミを生姜または生薑と書き、ショウガと称したのである。薑はハジカミまたはショウガである。乾薑(ほしかじかみ)が『和名鈔』にある。これは一名定薑ともよばれるもので、これに対して生薑と書いてクレノハジカミの名とした。薑は、キョウとよむが、姜もキョウまたはコウとよむ。それで画数の少ない姜を用いて生姜(ショウキョウ)とした。生姜はショウコウともよまれる。これがショウガとなった」

とある(たべもの語源辞典)ので、「ショウガ」は、

ショウキョウ(生姜)→ショウコウ(生姜)→ショウガ、

の転訛と見える。大言海も、

「生と云ふは、乾薑(ホシハジカミ)に対するならむ。ガは、薑、姜の呉音、カウの約ト云ふ」

とするし、語源由来辞典も、

「しょうがを中国では『薑』と書き、生のものを『生薑』、干したものを『乾薑』という。このうち生のショウガを表す『生薑』を音読みした『シャウキャウ(シャウコウ)』が転じ、『ショウガ』と呼ばれるようになった。『キャウ(カウ)』が『ガ』の音になったのはミョウガの影響によるものと考えられる」

とするhttp://gogen-allguide.com/si/syouga.htmlが、別に、

「ショウガは、その形が蘘荷(めうが)に似ているので、女香(めか)と呼んだのに対し、生薑を兄香(せか)と称した。これがセウガと訛ったのは、女香(めか)が『めうが』と訛ったのとおなじである」

と(たべもの語源辞典)、

セカ(兄香)→セウガ→ショウガ、

の転訛とする説もある。同じく、

「大陸からミョウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを『兄香(せのか)』、弱いほうを『妹香(めのか)』と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛したとする説がある」

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC説もある。しかし、「せうが」の表記は見られないのが難点である。

「室町時代にはシャウガとハジカミが併用されていた」

ともある(日本語源大辞典)。中国伝来の由来から見ると、乾した薑に対する、

生(なま)

の、薑(はじかみ)の意と見るのが妥当のようである。

なお、「ショウガ」は、大きさ別に、

大生姜・中生姜・小生姜の3種類、

に分けられるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%ACが、

「小ショウガには谷中(やなか)や金時(きんとき)など、中ショウガには三州(さんしゅう)や近江(おうみ)ショウガなどの品種がある。小ショウガと中ショウガの品種は、日本で栽培され、分化したものである。大ショウガは江戸時代以後に渡来したと考えられ、印度(インド)生姜、広東(カントン)生姜などの品種がある」

という(日本大百科全書)。

ちなみに、山椒の古名でもある「はじかみ」は、

「味が辛いところから生姜もさすようになった。なお、実のなる山椒はナルハジカミ、中国渡来の生姜をクレノハジカミと呼び分けることもあった」

とある(日本語源大辞典)。

なお、「ショウガ」には、

吝嗇の人をあざける称、

の意があるらしいが、江戸語大辞典には、

芝居者用語、

としか載らないが、

「食用に用いられる根茎が、人が手を握った時の形に似ているから」

とある(語源由来辞典、大言海)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月17日

ミョウガ


「ミョウガ」は、

茗荷、
蘘荷、

と当てる。旧仮名では、

めうが、

と表記される。岩波古語辞典の「めうが」の項には、

「ミョウガの芽を多く食べると馬鹿になるという俗説」

から、

馬鹿、阿保、愚者、

の意がある、とする。ミョウガは、

「日本の山野に自生しているものもあるが、人間が生活していたと考えられる場所以外では見られないことや、野生種がなく、5倍体(基本数x=11、2n=5x=55)であることなどから、アジア大陸から持ち込まれて栽培されてきたと考えられる。花穂および若芽の茎が食用とされる」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

「高さは一メートルになる。全体が薑(しょうが)に似ている。葉の幅がやや広く、根から鱗状の苞のある白花を生ずる」

が(たべもの語源辞典)、

「通常『花みょうが』『みょうが』と呼ばれるものが花穂で、内部には開花前の蕾が3〜12個程度存在する。そのため、この部分を『花蕾』と呼ぶ場合もある。一方、若芽を軟白し、弱光で薄紅色に着色したものを『みょうがたけ』と呼ぶ。『花みょうが」は、晩夏から初秋にかけ発生し、秋を告げる風味として喜ばれ、一方『みょうがたけ』は春の食材である。地面から出た花穂が花開く前のものは『みょうがの子』と呼ばれる。俳句では夏の季語で、素麺の薬味などとして食される』

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

Mioga.jpg



「ミョウガ」の「茗荷」は、当て字である。蘘荷(じょうか)は、

「『魏志』の倭人伝に『蘘荷』とあるので、これが日本のミョウガに関する最古の記載である」

とある(仝上)。日本で古くから栽培されてきた野菜の一つで、延喜式・大膳には、

「正月最勝王経斎会供養料(略)蘘荷漬、菁根漬各二」

と載る。更に、和名抄に、

「蘘荷(略)和名米加」

とあるので、古くは「メカ」と呼ばれていた(日本語源大辞典)。そこで、ミョウガの語原は、

メカ(芽香)の転、

とする説がある(広辞苑、日本語源広辞典)。ミョウガの香りに由来すると思われる。

めか(芽香)→めうか→みょうが、

という音韻変化を採る。しかし、「ショウガ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470901666.html?1571168100でも触れたように、

「大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強い方を「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだ。これが後にショウガ・ミョウガに転訛した」

との説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%AC

めのか(妹香)→みょうが、

の転訛とするのである。これについて、語源由来辞典は、

「みょうがは、古名を『めが』といい、奈良時代には『売我』『女我』と表記され、平安中期から中国名の漢字が使われた。『めが』の語源は、その香りから『芽香(メガ)』の意とする説と、ショウガを『兄香(セガ)』といったことから、男の称『セ』に対し女の称『メ』を当てた『女香(メガ)』とする説があるが、『芽香(メガ)』の説が一般的である。この『めが』が拗音化して、『みょうが』となったとされるが、(中略)平安中期には、『メガ、又はミャウガ』と記されており、『めが』が音変化して『みょうが』となったとすれば、この当時は『メウガ』と書かれるはずで、『ミャウガ』は『メガ』の音変化とは別とするものである。この問題をうめる説として、中国漢字の『めが』が、日本では漢音で『ジャウガ』、呉音で『ニャウガ』と発音されていたため、『ニャウガ』が『ミャウガ』となり、『ミョウガ』になったとする説があり、最も有力な説といえる」

と、「めか」説を否定している(大言海は「みょうが」を「めうが(蘘荷)」の誤りとしているので、「めうが」の表記がないというのは解せない)。ただ、「中国漢字の『めが』が、日本では漢音で『ジャウガ』、呉音で『ニャウガ』と発音されていたため、『ニャウガ』が『ミャウガ』となり、『ミョウガ』になったとする説」は、生姜(薑)が「乾薑」と対なので、ちょっと受け入れがたい。やはり、「芽香」と、香りに由来するとみるのが普通であろう。

なお、「茗荷」の当て字は、

「遅くとも室町期には『文明本節用集』に『名荷 みゃうか』、『運歩色葉』に『名荷 茗荷 蘘荷』とあるところから、ミョウガとよばれると共に、あて字『茗荷』が用いられ始めた」

ようだ(日本語源大辞典)。

「ミョウガ」を食べると、物忘れするといわれるのは、

「中国の蘇東坡の『東坡詩林』に『庚申三月十一日薑の粥食ふに甚だ美なり、歎じて曰く吾れ薑食ふこと多し』とある。つまりショウガを多く食べたので愚とになったというのである。それがショウガとミョウガを混同してしまって、ミョウガを多く食べると物忘れする、馬鹿になると言い出したものである」

とある(たべもの語源辞典)が、別に、

「釈迦の弟子で周梨槃特の塚から生えた草を愚鈍草と名付けた。槃特は、自分の名も覚えられないので、その名を書きつけた物を荷って歩いたところから、名を荷う、名荷とは、愚鈍草のことだ、という」

とある(仝上)。しかし南方熊楠によると、槃特比丘が性愚鈍だということを書いたものはあるが、名荷の話は日本人の創作である、という(仝上)。「茗荷」に当てて以降の作り話である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年10月18日

ガルゲン・フモール


大岡昇平他編『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』を読む。

img003 (2).jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

黒いユーモア,

と題された「ユーモア」に関わる作品を収録している。収録されているのは、

内田百閒『朝の雨』
石川淳『曽呂利咄』
井伏鱒二『白毛』
飯沢匡『座頭H』『崑崙山の人々』
深沢七郎『楢山節考』
武田泰淳『第一のボタン』
富士正治『雑談屋』
織田作之助『世相』
安部公房『棒』
平林彪吉『鶏飼ひのコミュニスト』
尾崎翠『第七官界彷徨』
佐木隆三『ジャンケンポン協定』
泉大八『アクチュアルな女』
坂口安吾『あヽ無情』
野坂昭如『マッチ売りの少女』
花田清輝『鳥獣戯話』
今村昌平・山内久『果てしなき欲望』

である。花田清輝は、本巻の解説で、「黒いユーモア」、すなわち、

ガルゲン・フモール(Galgen humor)、

「ガルゲンは絞首台、フモールは諧謔。窮余の諧謔。曳かれ者の小唄」

とする。とすると、このアンソロジーに、

井上光晴、

の作品がないのは、いささか画竜点睛を欠くかに見える。この意味の「黒い」と題されたユーモアに値するのは、本巻掲載作品の中では、

井伏鱒二『白毛』
深沢七郎『楢山節考』
武田泰淳『第一のボタン』
安部公房『棒』
平林彪吉『鶏飼ひのコミュニスト』
野坂昭如『マッチ売りの少女』
花田清輝『鳥獣戯話』

かと思われる。特に、

野坂昭如『マッチ売りの少女』

は、アンデルセンの童話の、寒空の下でマッチを売っていた少女のラスト、マッチの炎に現れた祖母の幻影が消えるのを恐れた少女は、急いでマッチ全てに火を付け、自身も火と燃えるストーリーを頭の片隅に置くと、一層その「窮余の諧謔」ぶりが目立つ。

がさつな僕には、

尾崎翠『第七官界彷徨』

の繊細な少女の揺れる、

第七官、

はうまくつかみ取れない。少女の微妙な心情を描く環境として、特異な環境を設定した意図は、よく見えなかった。結果からみて、本当に、このシチュエーションが必要だったのだろうか、という疑問はぬぐえない。ガサツなせいかもしれないが。

やはり本巻の中で出色なのは、

花田清輝『鳥獣戯話』

である。巻末の解説を書く花田清輝自身が、この作品についての平野謙の、

「『群猿図』においてすら、あれの終わったところから小説ははじまるというような感想をいだかされた私としては、『孤狐紙』はますます後退してしまった、と思わざるを得ない。小さなことをいうようだが、作者は〈ないでもない〉とか〈らしい〉とか〈のようである〉というような言葉をさかんに使っているけれど、そういう作者自身のコケンのようなものをかなぐりすてたところに、小説世界はそれみずからを全肯定的によみがえらすのではないか」

という文芸時評の一説を引き、

「いくぶん、ほめかたがたりないような気がしないでもなかった」

と嘯く。おそらく、平野謙の小説観そのものと対峙するところに、花田清輝の小説世界はある。

〈ないでもない〉
〈らしい〉
〈のようである〉

という仮説というか、推測というか、曖昧化、によって事柄の中に多様な像を多重写しにして、その中の一つを可能性として取り上げ広げていく、この筆法自体が、小説世界になっている、ということを平野謙は認めなかったのである。例は悪いが、

春秋、

は、孔子の正邪の判断を加え、

些事をとりあげて、間接的な原因を直接的な原因として表現する、

ところから

春秋の筆法、

と言われる。しかし、それも歴史記述の一つである。事実の選択一つ、書き手の判断に俟たないものはないのではないか。

メタ小説(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html

で触れたように、鴎外の『澀江抽斎』は、

史伝、

という範疇に入れるしかなかったが、

「著者はこの伝記の稿に筆を下すに当たって,先ず如何にして自分がこの作品の主人公とめぐりあったか,どうしてその人に関心をいだき,伝記を立てる興味をおこしたか,そしてこの著述に如何にして着手し,史料は如何にして蒐め,また如何にして主人公に就いての知識を拡大して行ったか,その筋みちを詳しく説明してゐるのである。言ってみれば著者はここで伝記作者としての自分の舞台裏をなんのこだわりもなく最初から打ち明けて見せてゐるのであり,著述を進めてゆく途上に自分が突き当たった難渋も,未解決の疑問も,一方探索を押し進めてゆく際に経験した自分の発見や疑問解決の喜びをも,いささかもかくすことなく筆にしてゐる。これは澀江抽斎といふ人の伝記を叙述してゐると同時に,澀江氏の事蹟を探ってゆく著者の努力の経過をもまた,随筆のやうな構へを以て淡々と報告してゆく,さうした特異な叙述の方法にもとづいて書かれた伝記である。」

と、解説者(小堀桂一郎)自身が説明しているように、まさに、平野謙の言う、

あれの終わったところから小説ははじまる、

という作品である。しかし、

小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くこと、

自身がテーマなのである。卓見の石川淳は、それを、

「小説概念に変更を強要するような新課題が提出」
「小説家鷗外が切りひらいたのは文学の血路である」

と評した(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html)。

花田清輝の作品は、ある意味で、鴎外の切り開いた血路の先にある。しかし、鷗外自身はその新地平について気づいていなかったらしい。

「鷗外自身は前期のいわゆる小説作品よりもはるかに小説に近似したものだとは考えていなかったようである。たしかに従来の文学的努力とは性質のちがった努力がはじめられていたにも係らず,そういう自分の努力と小説との不可分な関係をなにげなく通り越して行ったらしい点に於て,鷗外の小説観の一端がうかがわれるであろう」

と石川淳は評した(仝上)。花田清輝は、それを意識的に切り開いている。だからこそ、平野謙の、

あれの終わったところから小説ははじまる、

を、

ほめ方が足りない、

と嘯いたのである。

参考文献;
大岡昇平他編『黒いユーモア(全集現代文学の発見第6巻)』(學藝出版)
石川淳『森鷗外』(ちくま学芸文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月19日

山椒


「山椒」は、

さんしょう、
あるいは、
さんしょ、

と訓ませる。

「サンショウ(山椒、学名:Zanthoxylum piperitum)はミカン科サンショウ属の落葉低木。別名はハジカミ。原産国は日本であり、北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部にも分布する。若葉は食材として木の芽の名称がある。雄株と雌株があり、サンショウの実がなるのは雌株のみである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6

ブドウ山椒.jpg

(ブドウ山椒(雌木)の雌花 http://www.e-yakusou.com/sou/sou230-2.htmより)
花山椒.jpg

(山椒 雄木の雄花(花山椒) http://www.e-yakusou.com/sou/sou230-3.htmより)


「山椒」の「椒」(ショウ)の字は、

「会意兼形声。『木+音符叔(小さい実)』で、小粒の実のなる木」

とある(漢字源)。山椒の意味もあるが、「胡椒」の「椒」でもある。

「実が丸く、味が辛い」

からとある(仝上)。ただ「椒」には、

「芳しいの意があり、山の薫り高い実であることから「山椒」の名が付けられたと考えられる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6。語源由来辞典には、

「『椒(ショウ)』の一字でも『山椒』を指していたが、山で採れる意味で『山』が冠されて『山椒』となった。その漢字を音読みしたのが『サンショウ』で、『生姜』に『ハジカミ』の名を奪われたため、この名が定着していった」

とある。ただし、

「サンショウは、山に多くあるはじかみ(椒)ということで山椒と書き、それを音読みしちものである。したがって山椒は漢名ではない」

とある(たべもの語源辞典)。

なお、山椒は、

「原始時代から日本列島にあった。記紀の歌にも椒(はじかみ)の名が出てくる。まぶたに物もらいができたとき、宵に山椒の実を丸のまま五粒飲んで寝ると翌朝できものが治っている、といわれた」

とある(たべもの語源辞典)。たとえば、

「垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ) 口ひひく」(『書紀』では「垣本(かきもと)に 植ゑし山椒(はじかみ) 口疼(ひび)く」)

と載る(「柿の下に植えた山椒は口がひりひりする」という意味)、とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%AD%8C#cite_note-%E6%AD%8C-1

山椒の古名は、

ハジカミ、

でもあることは、生姜http://ppnetwork.seesaa.net/article/470901666.html?1571168100で触れたが、

「呉薑(クレノハジカミ)、渡来して、別して、皮ハジカミとも云ふ。辛皮(カラカハ)を食ふに因るなり。生(なる)ハジカミ、房ハジカミとも云ふ」

とある(大言海)。「ハジカミ」を生姜にも当てたため、区別したものである。

「ハジカミ」は、

ハジカミラの略、

「ハジははぜるの意で、カミラはニラの古名である。果実の皮がはぜ、また味が辛くてニラの味に似ているところからきた」

とする(たべもの語源辞典)。似たものに、

ハジカラミの略。ハジは、花がハゼて実が出るところから。カミラは韮の古名で味が似ているところから(箋注和名抄)、

がある。大言海も、

罅裂子(はじけみ)、

とし、日本語源広辞典も、

ハジケ+ミ(実)、

とはじける説を採る。

辛くてハ(歯)がシカム(蹙)ところから(雅言考)、

という説は、

「この葉や実を噛むと歯がうずき痛むからであるというが、歯がうずく辛さのものは他にもある」

として、たべもの語源辞典は否定する。

「味が辛いところから生姜もさすようになった。なお、実のなる山椒はナルハジカミ、中国渡来の生姜をクレノハジカミと呼び分けることもあった」

とある(日本語源大辞典)。生姜と区別するため、山椒は「結実」するという意味で「ナルハジカミ」や、実が房状になる意味で「フサハジカミ」などと呼ばれたものである(語源由来辞典)。

山椒の中の、

朝倉山椒、

は、

「丹波越前などから出る。元但馬国朝倉村の産なのでこの名がある。普通の山椒よりはが大きく、期には棘がない。果実の大きさは山椒の三倍ある。辛味が強く香気が高い。これは朝鮮から但馬に渡ってきた」

ものらしい(たべもの語源辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:山椒
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2019年10月20日

八寸


「八寸」は、

1寸の8倍の長さ。約24.2センチ、

の意味だが、

八寸角の折敷(をしき ヘギ製の角盆)、

を指す(たべもの語源辞典)。「折敷」は、

片木(へぎ)を四方に折り廻して作った角盆、食器を載せるのに用いる。杉などのほか種々の香木でつくる、

とある(広辞苑)が、

「四角でその周囲に低い縁をつけたもの,すなわち方盆のこと。その名は,上古に木の葉を折敷いて杯盤にしていたことが残ったものであるといわれる。高坏(たかつき)や衝重 (ついがさね) よりは一段低い略式の食台として平人の食事に供されたもので,8寸(約 24cm)四方のものを『大角』または「八寸」,5寸(約15cm)四方のものを『中角』,3寸(約9cm)四方のものを「小角(こかく)」といい,角(かど) 切らないものを「平折敷」,四隅の角(すみ)を切ったものを『角切の折敷』あるいは『角』と呼び,ほかに足がつけられた『高折敷』『足付折敷』などの種類もみられた」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

108308.jpg

(折敷 デジタル大辞泉より)


「折敷」(をしき)は、

ヲリシキ(折敷)の約で、柏、椎などの葉を折り敷いて食物を盛った古の風俗から(大言海・名語記・万葉代匠記・和字正濫鈔)、

が由来とみられる。「へぎ」は、

削ぎ、

で、

「減ると同根。一部を削り取る意」(岩波古語辞典)

からきていると思われる。名詞「へぎ」には、

片木
片器、

と当て、

薄く削いだままの板で作った折敷、

とある(仝上)。大言海は、「へぎ」に、

折、

を当て、

折(へ)ぐこと、また、ヘギイタ、ソギ、片木、

としている。

「八寸」は、寸法の意から、「折敷」の意となり、さらに、

それに盛られる取肴、

意となり、さらに、

料理献立の一つ、

となる。

「懐石料理(茶料理)で主客が盃のやりとりをするとき、木地の八寸四方の片木(へぎ)盆に取肴を盛って出したので、『八寸』という器に盛る肴が、決まった」

らしい(たべもの語源辞典)。懐石料理の中の八寸は、たとえば、

「八寸…に、酒の肴となる珍味を2品(3品のこともある)、品よく盛り合わせる。2品の場合は、1つが海の幸ならもう1品は山の幸というように、変化をつけるのがならわしである。亭主は正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物椀の蓋を器として取り分ける(両細の取り箸が用いられ、それぞれの端が酒肴によって使い分けられる)。酒と肴が末客まで行き渡ったところで、亭主は正客のところへ戻り、『お流れを』と言って自分も盃を所望する。その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合う。亭主は正客の盃を拝借するのが通例である。正客は自分の盃を懐紙で清め、亭主はその盃を受け取り、そこに次客が酒を注ぐ。その次は、同じ盃を次客に渡し、亭主が次客に酒を注ぐ。以下、末客が亭主に、亭主が末客に酒を注ぎ合った後、亭主は正客に盃を返し、ふたたび酒を注ぐ。このように、盃が正客から亭主、亭主から次客、次客から亭主、と回ることから、これを『千鳥の盃』と称する。客が上戸の場合は、さらに『強肴』(しいざかな)と称される珍味が出される場合もある(強肴は『預け鉢』の前後に出される場合もあり、『預け鉢』そのものを『強肴』と称する流派もある)」

という具合であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

「一汁三菜(さらにあれば預け鉢)などの食事が済み箸洗いが出たあと、亭主と客が酒の献酬(けんしゅう)をする際に肴(さかな)として珍味などを盛った(八寸)を亭主が持ち出し、客に一人ずつ取り分ける。動物性のものと植物性のもの2種を盛ることが多い」

ともある(食器・調理器具がわかる辞典)。

IMG_5469.jpg

(八寸盛り付け例 【春】蛍いか旨煮、菜の花昆布じめ https://oisiiryouri.com/hassun-imi/より)


IMG_9623.jpg

(八寸盛り付け例 【秋】さばの小袖、干し柿鳴門巻き https://oisiiryouri.com/hassun-imi/より)


「八寸」の考案者は、利休で、

京都洛南の八幡宮の神器からヒントを得て作ったといわれる、

らしいhttps://kyoto-kitcho.com/event/madrid_fusion_05/mf_008_jp.htmlが、はっきりしない。ただ、上記にあるように、

「一期一会の好機を得て主となり客となった喜びをこめて、亭主と客が盃をかわす場面でだされるものをいいます。正式には八寸四方の杉のお盆を使い、酒の肴として、海のもの(生臭もの)と山のもの(精進もの)を合わせて出すことが決まりとされています。「八寸」は、十分に湿らし、右向こうに海のもの、左手前に精進のものを盛り、手前に両細の青竹箸を濡らし、露をきって添えます。また、客の数よりも多く(通常、お客さんの人数+御代わり1名分+亭主用1名分)盛り付けるようにします。」

ともある(仝上)。

その後、明治になって、「八寸」は、

「八寸四方の片木盆に盛るといった八寸ではなく、八寸という献立の中の名称であって、その料理は、煮物でも焼物でも何でもよい。つまり、焼物といえば、魚鳥肉を焼いたものといった風に、その料理法は決まっているが、八寸と称したとき、その料理法に決まりはなく、何か一つの料理を出すための看板として八寸という名称が用いられるようになったといえよう。その器も、八寸四方の片木盆など昔のことはまったく忘れられて、八寸皿とよぶ器に盛られるようになった」

という献立に変わってしまった。ただ、懐石料理に「八寸」はあるが、会席料理にはないようである。

ちなみに、「へぎそば」は、へぎ(片木)」と呼ばれる、剥ぎ板で作った四角い器に載せて供されることからこの名が付いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B8%E3%81%8E%E3%81%9D%E3%81%B0

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:折敷 八寸
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