2019年10月06日
なう
「あきなふ(う)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470686640.html?1570218138)で触れたように、「あきなう」の「なう」は、
接尾語、
とみられる(広辞苑)。これは、
おこなう、
あがなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、
等々でも使われる。
「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」
とあり、
「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」
ともある(岩波古語辞典)。「綯う」は、
縄と同根、
とある(仝上)。「綯う」は、
数多くの線を交へ合はせゆく、
左右相交ふ、
あざなふ、
撚る、
意である(大言海)つまり、
撚り合わせる、
意である。その意味から見ると、
縄と同根、
がわかりやすいが、
あわせる意のナラフ(効)の義(名言通)、
ナフ(永延)の義(言元梯)、
ナヨラカによる意から(国語の語根とその分類=大島正健)、
等々の他説は、「なう」の同義語から探ろうとしている。やはり、「縄」が妥当に思える。「縄」は、
朝鮮語noと同源、
とする説(岩波古語辞典)もあるが、
綯藁(なひわら)の略ならむ。直(なほ)に通ず、
とある(大言海)。これが自然に思える。
「綯う」は、いずれにしても、限定された、
撚り合わせる、
意であったものが、
手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする、
意に転じたとすると、合成語の成り立ちを見て、その意の転化が見えてくるだろうか。たとえば、
おこなう(行う)、
は、大言海は、
「興行(おこな)ふの義にて(贖なふ、罪なふ)、事を起こしゆく意」
としているが、同趣ながら、
「オコはオコタリ(怠)のオコと同根。儀式や勤行など、同じ形式や調子で進行する行為」
の方が、「なう」が生きる。日本語源広辞典は、
「オコ(起動)+ナフ(継続)」
とするが、ちょっと説明不足な気がする。「怠る」の「オコ」については、
「オコナヒ(行)のオコと同根。儀式や勤行など同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは、同じ調子で進む、その調子が落ちる意」
とある(岩波古語辞典)。
「あがなう(贖う)」の「あが」は、
贖(あが)ふの語根、
である(大言海)。ただ、奈良・平安時代はアカヒと清音であったらしい(岩波古語辞典)。「あがなう」は、
贖う、
と当てる、「罪の償いをする」意と、
購う、
と当てる、「何かの代償として別のあるものを手に入れる」「買う」意とは、同じである。代償として何を出すかの差のようである。
「になう」(担う)、
は、
「ニは荷。ナヒはむ動作を表す接尾語」
とあり(岩波古語辞典)、大言海の、
荷を活用す、
も同じである。
ともなう(伴う)、
は、
「トモは伴・友」
であり、「主と従とが友のように同行する」、つまり、
同伴、
の意である(岩波古語辞典)が、
「トモ(共)+ナフ(行動する)」
の方(日本語源広辞典)が妥当ではないか。
つぐなう(償う)、
は、「つぐのふ」で、室町時代まで「つくのふ」と清音。「受けた恩恵、与えた損害、犯した罪や咎などに対して、代償に値する事物・行為なとで補い報いる」(岩波古語辞典)意、っまり、
埋め合わせる、
意だが、多少解釈が異なり、
賭(ツク)のものを出す義(大言海)、
ツクはツキ(調)の古形。ノヒは…ナフ母音交代形(岩波古語辞典)、
継ぐ+ナヒ(行動)。「欠けたものを継ぐ行為」(日本語源広辞典)
ツク(給)ノフ(日本語源=賀茂百樹)、
等々あるが、埋め合わせの解釈の差である。
いざなう(誘う)、
は、誘う、勧める、勧めて連れ出すといった意だが、
率(いざ)を活用せしむ(珍(ウヅ)なふ、宜(うべ)なふ)。イザと云ひて引き立つるなり」
とある(大言海)。「いざ」は、
率、
去来、
とあて、
「イは発語、サは誘うの聲の、ササ(さあさあ)ノ、サなり。イザイザと重ねても云ふ(伊弥(イヤ)、イヤ、伊莫(イナ)、否(イナ))発語を冠するに因りて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率(そつ)の字は、ヒキイルにて、誘引する意。開花天皇の春の日、率川宮も、古事記には伊邪川(イザカハの)宮とあり、去来の字を記す」
のは、「かへんなむいざ(帰去来)」に由来するらしい。「かへんなむいざ」は、
「帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが、語の下にあるなり。史記、帰去来辞など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり」
とある(大言海)。つまり、
イザ(さあ)+ナフ、
であり、
「積極的に相手に働きかけ、自分の目指す方向へと伴う意。類義語サソフは、相手が自然にその気持ちになるように仕向ける意」
とある(岩波古語辞典)。
おぎなう(補う)、
は、「おぎぬふ」の転。「おぎぬふ」は、
「平安時代はオキヌフと清音。アクセントを考えると、オキは置くで布を破れ目の上に置く意。ヌフは縫フ意。室町時代オギヌフと濁音化。またオギノフ、オギナフの形も現れた」
とある(岩波古語辞典)ので、「おぎなう」の「なう」は、
置く+縫う、
と(日本語源大辞典)別系かもしれない。
そこなう(損なう)、
は、
「殺(そ)ぎを行う義」
とあり(大言海)、
ソコ(削)+ナフ」
も(日本語源広辞典)、同趣で、「完全であるものを不完全にする」、つまり、傷つける意となる。
うべなう(宜う)、
は、
「ウベ(宜)を活用させた語」
で、「うべ」は、もっともである、という意である。平安時代、
mbe、
と発音されたので、「むべ」と書く例が多い、とある(岩波古語辞典)が、
「ウは承諾の意のウに同じ。ベはアヘ(合)の転か。承知する意。事情を受け入れ、納得・肯定する意。類義語ゲニは、所説の真実性を現実に照らして認める意」
とある(岩波古語辞典)。
うらなう(占う)、
は、うらなう(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように、「卜する」意であり、
ウラ(心,神の心)+ナウ
となる(日本語源広辞典)。
こうみると、「なふ」は、他の語の行動を示す、というより、ついた言葉の動詞化の役に転じている。ように見える。ある意味で重宝な言葉だといえる。こんにち、
晩御飯なう、
と使われる言葉は、nowの意味から、ingの意味に転じ、
~している、
を言う言葉になっているのと、どこか似ている。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95