2019年11月01日

わび・さび


無粋な人間なので、

わび、
さび、

についてほとんど関心を持ったことがなかったが、

茶の湯は貧の真似(ひんのまね)、

ということわざがある。

「茶の道は『侘び』の心が基本にあるとされています。その心を理解できない者が、派手なことを嫌って貧乏の真似ごとをしているようだと例えたことわざです」

との説明http://www.ocha.tv/words/ta_07/index.htmlは、本当だろうか。むしろ、

「茶道は、わびを主として、はでなことをきらい、まるで貧乏の真似をしているのと同じようだ」

との解釈(故事ことわざの辞典)が的確に、その意を衝いているように思える。少なくとも、

「茶湯は貧の真似。但風雅の上盛也、可習嗜。併近奢侈故禁誡、実以座席飲食会釈无此上」

ともあり(譬喩尽(たとえづくし)、仝上)、それ自体が贅沢であったことに間違いはない。

黒楽茶碗.jpg



「わび」は、

侘び、

と当てる。「わび」は、

「わぶ(貧しく暮らす)の連用形」

とある(日本語源広辞典)。しかし、「わぶ」(詫・侘)は、必ずしも、

不如意な生活をする、
貧しく暮らす、

という意味だけではない。

「失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意」

とし、

気落ちした様子を外に示す、落胆した様子を見せる、
困り切った気持ちを示す、
つらがって嘆く、
不如意な生活をする、貧しく暮らす、
世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる、閑雅を楽しむ、
(困惑のさまを示して)許しを乞う、あやまる、
(動詞連用形について)~する気力を失う、~しきれない、~しずらくなる、

といった意味を持つ(岩波古語辞典)。いわゆる「わび」は、

「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」(日本大百科全書)
「簡素の中に見いだされる清澄・閑寂な趣。中世以降に形成された美意識、特に茶の湯で重視された」(デジタル大辞泉)

を指す一種の価値表現である。確か、定家が、

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

と歌った時、それまでの、花や紅葉とは別のところに、価値を見出したのと相通ずる。千利休の師匠、武野紹鴎は、この歌こそがわび茶の心であると評した(南方録)とされるのも、価値の転換を表現しているからである。

ある意味、マイナスな意味の「わぶ」に、プラスの価値を与えたということができる。それを、山上宗二は、

「上をそそうに、下を律儀に(表面は粗相であっても内面は丁寧に)」

と表現(山上宗二記)し、

「単に粗末であるというだけでなく質的に(美的に)優れたものであることを求める」

ようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3、とある。

侘び茶人、

を、

「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)

と記し、

「貧乏茶人」のこと、

とし、後の千宗旦の頃になると「侘」の一字で無一物の茶人を言い表すようになる(仝上)、とある。宗二は、

「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」

とした。それは、

「『佗タ』は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた」

のではないか、という見方もある(仝上)。「わび」は、

「茶の湯の中で理論化されたが、『わび茶』という言葉が出来るのも江戸時代である。特に室町時代の高価な『唐物』を尊ぶ風潮に対して、村田珠光はより粗末なありふれた道具を用いる茶の湯を方向付け、武野紹鴎や千利休に代表される堺の町衆が深化させた」

のである(仝上)。

「茶室はどんどん侘びた風情を強め、張付けだった壁は民家に倣って土壁になり藁すさを見せ、6尺の床の間は5尺、4尺と小さくなり塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は備前焼や信楽焼きを好んだし、利休は楽茶碗を創出させた。日常雑器の中に新たな美を見つけ茶の湯に取り込もうと」

したものらしい。たとえば、京都六条堀川に作ったと伝えられる方丈の茶室、

珠光四畳半(じゅこうよじょうはん)

がある。

jyukouyojyouhan01.jpg

(東大寺の四聖坊に残る古図に「珠光好地蔵院囲ノ写」と書込みのある四畳半座敷 http://verdure.tyanoyu.net/cyasitu020401.htmlより)


jyukouyojyouhan03.jpg

(『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた四畳半図 http://verdure.tyanoyu.net/cyasitu020401.htmlより)


「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。秘蔵の円悟の墨跡をかけ、台子をかざり給ふ。その後炉を切て弓台を置合られし也。大方、書院のかざり物を置かれ候へども、物数なども略ありしなり。床にも、二幅対のかけ絵、勿論、一幅の絵かけられしなり。前には卓に香炉、花入、あるひは小花瓶に一色立華、あるひは料紙、硯箱、短尺箱、文台、或は盆山、葉茶壷など、これらは専かざられしなり」

とある(南方録)。その形は古図に残されている。

「珠光四畳半は、東大寺の四聖坊に残る古図に「珠光好地蔵院囲ノ写」と書込みのある四畳半座敷が画かれ、それによると一間床で、檜角の床柱、勝手付間中に柱を立てて壁とし、勝手口は一間二本襖を建て、入口に縁が付き、縁に面して障子四枚があります。
珠光四畳半は、東京芸術大学所蔵の『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた四畳半図があり、その四畳半座敷は、一間床で、床框(とこがまち)は栗の四角、一尺七寸炉、勝手との間に襖二枚、壁は張付壁(はりつけかべ)で長押(なげし)が打たれ、天井は竹縁の蒲天井、入口に縁が付き、縁は半間幅で堅板張(たていたばり)、縁先に二ッ割りした竹を打並べた落縁がついたものです」

とあるhttp://verdure.tyanoyu.net/cyasitu020401.html。宗二は、

「光かヽりは、北向右かつて、坪の内に大なる柳一本在、後に松原広し、松風計聞く、引拙は南向右勝手、道陳は東向右勝手、宗達右勝手、何も道具に有子細歟、又台子をすくか、将又紹鴎之流は悉く左勝手北向也、但し宗易計は南向左勝手をすく、当時右かつてはを不用と也、珠光は四帖半、引拙は六帖敷也」

と書き残している。それは、

「右勝手(逆勝手)の茶室で、隣接する部屋との関係で客の入口の位置は異なりますが、同じ間取りで、一間床、入口に縁が付き、縁に面して障子を建て、勝手口は二本襖、右勝手(逆勝手)となっていて初期の四畳半の形式を表している」

という(仝上)。貧しい家屋をただ真似ているだけではないことは確かである。そこには、珠光の美意識がある。しかし、それに贅を尽くす、財力を必要とすることは確かである。

一方、「さび」は、

寂び、
然び、

と当てる。「わび」は、「さぶ」の名詞形だが、

錆、
寂、荒、

と同源である。つまり、「さぶ」は、

「生気・活気が衰え、元の力や姿が傷つき、痛み、失われる」

意の「荒ぶ」「寂ぶ」と、

古びてさびてくる、

意の「錆」とが、同源であり(岩波古語辞典)、

然ぶ、

は、

「サは漠然と放校様子を示す語。ビは行為を人に示す意。カナシビ、ウレシビのビと同じ」

で、体言について、

そのものにふさわしい、
そのものらしい行為や様子をし、またそういう状態にあることを示す」

言葉で(仝上)、大言海は、

然帯(さお)ぶの訳なるべし、

とし、

都(みや)び、鄙(ひな)びも、都帯び、鄙帯びの約なり、

とする。「さぶ」も、

荒れる、荒涼たる様になる、
古くなる、古びる、
心が荒涼となる、
さびる、
古びて趣がある、

等々どちらかというとマイナスの意味の言葉である。それにプラスの価値を見出そうとする姿勢が、

不足の美を表現する新しい美意識、
老いや枯れの中に趣を見る、

という価値表現へと転換させた。だから、「然ぶ」と当てる意味について、

「本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。漢字の『寂』が当てられ、転じて『寂れる』というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。さびの本来の意味である『内部的本質』が『外部へと滲み出てくる』ことを表す為に『然』の字を用いる」

とする考え方もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3

で話をもとへ戻すなら、僕には、「わび」には、もともと、

貧を衒う、

ところがなくもなかった、と思えてならない。「衒う」は、

照らふの意、

とあり(広辞苑)、

輝くようにする、
見せびらかす、

含意が、もともと、なくもない。だから、

茶の湯は貧の真似(ひんのまね)、

という言い方には、ある意味、ただ貧を真似ているのではなく、そこに積極的な価値を見出したという点では、草創期には、「わび・さび」に確かな価値表現の意味があった。しかし、それが理論化され、権威化され、「わび茶」という言葉が出来た江戸時代、

「多くの茶書によって茶道の根本美意識と位置付けられるようになり、侘を『正直につつしみおごらぬ様』と規定する『紹鴎侘びの文』や、『清浄無垢の仏世界』とする『南方録』などの偽書も生み出された」(仝上)

とき、多くは、「茶の湯」は、大店の主や隠居の手慰みとなり、形式をなぞり、それを真似るだけの趣味に化し、落語『茶の湯』のように、どこか、

貧を衒う、

つまり、

貧者の真似、

としか見えない風情に堕していたのではないか。その限りで、必ずしも、

その心を理解できない者、

のたわ言とは言い切れない、ある種、そういう茶の湯を揶揄する面を持っていたのではないか、という気がしてならない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年11月02日


「酢」は、

す、

と訓ませるが、漢字「酢」(サク、漢音ソ、呉音ス)は、

「形声。『酉+音符乍』。醋(月日を重ねて発酵した汁をねかせておく)と同じ」

とある(漢字源)。「醋」(サク、漢音ソ、呉音ス)も、

「会意兼形声。『酉+音符昔(日を重ねる)』で、月日を重ねて、発酵した汁を寝かせておくこと」

とある(仝上)。「酢」も「醋」も、「す」「すっぱい液体」の意である。大言海は、「す」に、

酢、
醋、

を当てている。和名抄には、

「酢、字亦作醋、須」

とあり、「須」とも当てたらしい。「酸」も、「す」と訓まれた(たべもの語源辞典)、とある。

酢という漢字の成り立ち.gif

(「酢」の成り立ちhttps://okjiten.jp/kanji1882.htmlより)


別に、

「会意兼形声文字です(酉+乍)。『酒器』の象形と『木野小枝を刃物で切り除く』象形(『作る』の意味・『組』に通じ(「組」と同じ意味を持つようになって)、「積み重ねる」の意味)から、『酒を皿に作って、「す」にする』、『す』、『客が主人に酒をすすめる(返杯する)』を意味する『酢』という漢字が成り立ちました」

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1882.html。「酢」「醋」ともに、「むくいる」意があり、「客が主人に盃をすすめる(返す)」意となる。この逆は、「献」で、主人が客に酒をすすめる言葉になる。

「酢」は、古くから調味料として使われ、

「『万葉集』にも『醤酢(ひしおす)』として酢が出てくる。酒造技術とともに中国よりもたらされた調味料で、地帯化の改新時(645)には酢を作る役人ができ、平安時代には米からの製造技術が生まれ…江戸時代には…米酢が作られるようになった」

とある(たべもの語源辞典)。古くは、

からざけ(辛酒)、

と呼ばれた(仝上、大言海)。和名抄には、

「酢、…鄙語、謂酢為加良佐介」

とある。

大言海は、「す(酢)」の語源を、

「スガスガシ、スズシの意」

とする。たべもの語源辞典も、

「スという音は、清(スガ)という意味からつけられたもので、その味が清酸であることによって、スと名付けられた。中国では苦酒(くしゅ)と書かれた」

とする。語源由来辞典は、

「口に含んだときにスッとする感覚の『す』であろう。『すずしい』や『すがすがしい』の『す』を語源とする説もあるが、口に含んだ時の感覚を『すがすがしい』や『すずしい』と形容した 説なので、ひとまとめにスッとする感覚と捉えて良いであろう」

と、「すがすがしい」を「スッ」とする感覚でまとめている。

日本語源広辞典は、

すし(酢し)の語幹、

とするが、「酢し」自身が、「す(酢)」を前提にしているので、前後が逆ではあるまいか。しかし、

スシ(酸)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
朝鮮語suil、満州語zuなどに由来するか(衣食住語源辞典=吉田金彦)、

と同種の説は少なくない。岩波古語辞典が、

朝鮮語sïと同源、

とするが、この是非は判別できない。その他、

スク(透)の反(名語記)、
肉などにかけると縮まり、また人が吸うと口がスボルところからスボムルの義(和句解)、
物事の落ちつくさまをしめす語根スから。酒の浮遊物が落ちついてできた清い液の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
「酒」を口にしたときに、酸っぱくなっていて思わず口を「窄(すぼ)めた」から(http://www.marukan.com/health/sub/kotoba.html)、

等々あるが、語感からいうと、たしかに、「スッ」とする感覚というのが妥当に思える。

酢屋.jpg

(酢屋・人倫訓蒙図彙より https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/01jinrinkinmo/11.htmlより)


酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代、

「お酢の製法が全国各地に広まり、それとともにお酢をつかった料理もたくさん生まれました。 はじめてお寿司が生まれたのもこの頃。ごはんに酢を混ぜて押し寿司にする『早ずし』と呼ばれるものです。幕末になると、『にぎり寿司』や『いなり寿司』が誕生し、庶民にも大変な人気だった」

そんな江戸時代、「酢屋」の看板がなかなかユニークだった。

「小竹を編んだもの、つまり簀(す)を軒先に掛け、酢に通じさせたともいう。古いものでは、酢売りの瓶の絵を買いて示した。また、木片を丸くした曲物の輪をぶら下げた。これは的をねらって矢を射ても通り抜けてしまう。つまり素矢(すや)という意を表して酢屋に通わせた」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
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ラベル:
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2019年11月03日


「巣(巢)」は、

鳥・獣・蒸しなどの住処、

を指すが、ほかに、

窼、
栖、

とも当てる。

キジバトの巣.jpg

(キジバトの巣 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A3より)

「巣(漢音ソウ、呉音ジョウ)」は、

「会意。『鳥のすのかたち(のち西と書く)+木』で、高い木の上の鳥のすのこと。高く浮いて見える意を含む」

とある(漢字源)。「栖」(漢音セイ、呉音サイ)は、

「会意兼形声。西は、ざる状をした鳥のすを描いた象形文字。栖は『木+音符西』で、ざるの形をした木の上の鳥のす」

とある(仝上)。「窼」(カ)も「鳥の巣」、

「穴中にあるを窼、樹上にあるを巣といふ」

とある(字源)ので、「巣」「栖」「窼」は、ともに、もともと鳥の巣を指していた、とみられる。

巣の字の成り立ち.gif



和語「す」は、

住居(スマヒ)を占むる意、

とある(大言海)。これだと意味が定かではないが、

「本来の一音節語ス(鳥の巣)です。あきス、ふるス、スむ、スまう、スごもる、などと同根と思われる」

とある(日本語源広辞典)と、照らし合わせると、腑に落ちてくる。

スミカ(栖)の義(日本釈名・和訓栞)、

も同趣である。とするなら、逆に、

スム(栖・住)の義(和句解・言元梯・言葉の根しらべ=鈴江潔子)、
スム(住)の語根スが名詞に転じた語。スは、物事の落ちつくさまを示す(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「すむ」が先にある、と見る方が妥当に思えてくる。

「すむ」は、

住む、
棲む、
栖む、

と当て、

「スム(澄む)と同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き、定着する意」

とあり(岩波古語辞典)、「すむ(澄)」は、

清む、
済む、

と当て、

「スム(住)と同根。浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意。濁るの対」

とある(仝上)。当然、「住む」は、「巣」とかかわらせて、

巣から出た動詞か(小学館古語大辞典)、

等々という説もあるが、日本語源大辞典は、

「『巣』『住む(棲む)』『据う』、さらに…『澄む』の語幹スには、『ひと所に落ち着く』といった共通の意を読み取ることが可能である」

とし、そこから、

落ちつく意の語感スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説にも通じ、その「落ちつく」は、

「『終わる』『かたづく』ことであるとも考えられるから、『すむ(済む)』の語幹ともなった」

と考えられる、としている。

つまり、「住む」「澄む」はほぼ同じ意味の外延に入り、「澄む」もその端につながる。とすると、「住む」の「す」が先か、「巣」の「巣」が先かは定かではないが、日本語源広辞典のいう、「す」の持つ意味の広がりの中に、「巣」も「住む」も「澄む」も「済む」も入るということができる。

その意味で、「巣」の語原に、

スキ(透)の義か(名言通)、

も的を外してはいないのである。

ちなみに、

「平安時代の声点を見てみますと『スクフ(巣)』のスの声点は去声になっていて、『スム(住)』のスが平声、『スク(透)』のスが上声であったのとはアクセントが違い、区別されていた(類聚名義抄四種声点付和訓集成)ことが判ります。『巣』と同じ去声のスの声点が付けられているのは『簀』『スロ(棕櫚)』ですね。棕櫚は南九州原産の植物で、枕草子にも出て来るので『スロ』が和語である蓋然性もあり、『ロ』が『カブラ』の『ラ』のような接尾辞とすれば本体は『ス』になるので、あるいは『ス(巣)』の原義は棕櫚だったのではないかとも思われます」

との説https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12162627907もあるが、それよりも、「す」がアクセントで区別して使われていたことは、注目される。文字を持たない時代の、会話の名残と見ていい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:栖む 棲む 住む
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2019年11月04日

スカ


「スカ」は、

当てが外れること、
見当違い、
(籤などの)はずれ、
へま、

の意で、

すかまた、

ともいう。ただ、「すかまた」は、

当ての外れること、
見当違い

意のほか、

まのぬけたこと、
すかたん、

の意もある。なお、

「類義語にスカタン(スコタンとも)・スカマタがあり、前者は上方語、後者は江戸語とみられる」

とある(日本語源大辞典)が、江戸語大辞典には、「すかまた」は、

芝居用語、

とあり、

透脵、

と当て、

間違い、見当違い、へま、
当て外れ、

の意が載る。

「すかたん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455401916.html?1512678172で触れたように、「すかたん」は、

あてのはずれること,だまされること,また,まちがい,の意の他に、

見当違いのことをした人をののしって言う、

のにも用いる。「すかたん」の「たん」は「すか」に付けた接尾語とみえる。

大言海は,「すかたん」の項で,

「賺(すか)されたる意」

とあり,

くひちがふこと,欺くこと,待ちぼうけること,すかを喰はすこと(だしぬく),

とある。「食い違い」が原意に見える。つまり,「食い違い」が思惑の違いなら,「当て外れ」になるし,意図的なら,「だまされる」となる。さらに,何らかの基準に外れるなら,「間違い」になる。それを人に当てはめれば,「当て外れ」は期待外れ,になり,「へま」「すか」にも転ずる。この「すか」は,はずれくじやはずれ馬券などに使う「すか」でもある。それを人に当てはめれば,罵りに転ずるはずである。しかし,どこか,罵倒にはならないのは,天に唾するようなもので,期待した自分に返ってくるからである。

そして,『大言海』は,『名言通』を引く。

「鶍〔いすか〕,(鳥名)行過ぐるなり,行過ぐるは,その嘴の上下,嚙(く)ひ差ふを云ふ。俗,スコタンなど云ふ。スコも同じ。スコタン或は,スカタンとも云ふ。又,スヤスとも,ソヤスと云ふ。皆,轉なり」

どうも、ちょっと付会ではあるまいか。

「スカ」は、

すかす(透・空)の語幹、

のようである(日本語源広辞典・日本語源大辞典・江戸語大辞典)。

「すかす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455423106.htmlで触れたように、

賺す、

と当てる「すかす」は、

他人の心に透きをいれる(日本語源広辞典)、
他の用心に透きあらしむる意(大言海)、
他の心に,隙を生ぜしむ(岩波古語辞典)、

となる。その語幹「すか」は、

「もともとは大阪の駄菓子屋から来ています。『すか』は『すかし』という意味からきているそうです」

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128435442が、江戸語大辞典に載り、どうやら、字義通り、

すきま、
空(くう)、

というのが原義のようである。それが、それをメタファに、

当て外れ、
肩透かし、

の意になり、さらに、

籤などの外れ、

の意となったもののようである。吉原詞で、

すかや、

は(「や」は詠嘆の終助詞)、

好かん、
好かない、

意で使われ、

スカを食う、

と使うと(「スカマタを食う」「すかたんを食う」とも言う)、

当て外れ、
肩透かしを食わされる、
裏をかかれる、

意で使った(「名古平蹴倒そうとするを切平身をかはし、名古平スカを食らって雪に辷ろうとして」元治元年・曽我綉侠御所染)。なお、「スカ」の語源について、

「弓で、的を射そこなうさまをスカという。関係があるか」

とある(日本語源大辞典)。

「すかすか」という言い方があるが、今日の、

隙間だらけ、

の意ではなく、「すかと」を、

「高いところを超えて通るさま、矢で的を意損なう様」

と室町末期の『日葡辞書』は書くので、当時の、

すっかりと、
すかりと、

が同義で、

高いところを通るさま、
矢で的を射そこなうさま、

と意味が重なる(日葡辞書)。「透かす」の意味に、

間をあける、
間引く、
透けるようにする、

意と並んで、

的を外す、

意があるので、やはり「すかす」の「すか」と関わるとみていい。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年11月05日


「洲」は、

州、

とも当てる。「州」(シュウ)は、

「象形文字。川の中になかすのできたさまを描いたもので、砂地の周囲を、水が取り巻くことを示す。欠け目なく取り巻く意を含む」

とあり、「砂がたまって水面に出た陸地」「す」の意味であり、「洲」(シュウ)は、

「会意兼形声。州は、川の流れの中のなかすを描いた象形文字。洲は『水+音符州』」

とあり、「川の中の小島」「なかす」の意である(漢字源)。ただ、

「本来は州が中州を意味したが、州が行政区画も意味するようになったので、さんずいを加えて中州の意味を明らかにした字が洲である。しかし、古くから互いに通用できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9E

中州.jpg



「洲」は、

水流に運ばれた土砂が堆積して、河川・湖・海の水面に現れたところ、

であり(広辞苑)、

「河口付近などの比較的浅い場所にできる」

とある(デジタル大辞泉)。

砂洲、
とか
中の島、
とか
中洲、

と言ったりする。和名抄に、

「洲、水中可居者曰洲…四方皆有水也、須」

とある(岩波古語辞典)。

大言海は、「洲」を、

「巣、栖と通ず、人の住む所を云ふと云ふ。或いは云ふ、清(スガ)の義。沙に汚泥無きを云ふと、或いは云ふ、洲(シウ)の音の約なりと」

と並べて、確言していない。「巣」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471317902.html?1572723897で触れたように、「巣」の「ス」と、「住む」の「ス」と、「澄む」の「ス」、「済む」の「ス」は同根で、「すむ」は、

住む、
棲む、
栖む、

と当て、

「スム(澄む)と同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き、定着する意」

であり(岩波古語辞典)、「すむ(澄)」は、

清む、
済む、

と当て、

「スム(住)と同根。浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意。濁るの対」

である(仝上)。で、「住む」は、「巣」とかかわり、

「『巣』『住む(棲む)』『据う』、さらに…『澄む』の語幹スには、『ひと所に落ち着く』といった共通の意を読み取ることが可能である」

とし(日本語源大辞典)、そこから、

落ちつく意の語幹スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説にも通じ、その「落ちつく」は、

「『終わる』『かたづく』ことであるとも考えられるから、『すむ(済む)』の語幹ともなった」

と考えられる、としている(仝上)。その意味で、「洲」も、流れ来った砂が、

ひと所に落ち着く、

と共通する意味が読み取れなくもない。

巣の義か(本朝辞源=宇田甘冥)、
動くものの落ちつくさまを示す語根スから(国語の語根とその分類=大島正健)、

も同じ説を採る。もちろん異説も、

「洲」の音シウの反(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
砂に汚泥が無いところからスガ(清)の義(箋注和名抄)、
清くて、気がスイとするものであるところから(本朝辞源=宇田甘冥)、
スナ(砂)の義(言元梯)、
スヒヂ(沙土)・スナゴ(砂子)などスと同源、砂と通じる意を持つ(角川古語大辞典)、
スヱ(末)の義か(和句解)、
水が浅く蘆が生えたところをいうアセフ(涸生)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々あるが、「巣」の「ス」と、「住む」の「ス」と、「澄む」の「ス」、「済む」の「ス」と意味の共通する外延の中の、

ひと所に落ち着く、

意の「ス」のつながりに、「洲」もあるとみるのが妥当ではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年11月06日

ちゃぶだい


「ちゃぶだい」は、

卓袱台、

と当てるが、この他に、

茶袱台、
茶部台、
食机、
餉台、
食卓、

等々とも当てる。洋風化したため、今日はほとんど見かけない。

「四本脚の食事用座卓である。一般的に方形あるいは円形をしており、折り畳みができるものが多い」

もので、

「1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、…1895年(明治28年)ごろになると折畳み式の座卓に関する特許申請が出るようになり、徐々にではあるが、座卓が家庭へと進出し始めた1920年代後半に全国的な普及を見た。しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0が、既に、

「1870年(明治3年)に仮名垣魯文が著した『萬國航海西洋道中膝栗毛』に既にチャブダイという言葉が西洋料理店の食卓を指す俗語として登場していることから、名称としてはこの頃には広まっていた可能性がある」

ともある(仝上)。

卓袱台折り畳みの.jpg

(折り畳みの卓袱台 https://www.yuraimemo.com/4327/より)

この語源には、

チャブは「茶飯」の中国音Cha-fanの訛り、
チャブは「卓袱」の中国音Cho-fuの訛り、
中国料理をいう米国語Chop-sueyの転、

等々諸説ある(日本語源大辞典)。大言海は、

食卓、

と当て、

チャブ(喫飯)、或いは卓袱台の支那音の訛、

とする。「チャブ(喫飯)」について、

「チャブは、茶飯の支那音(cha-fan)の訛か、或いは云ふ、支那語卓袱(チャオフ Cho-fu)の訛か、又、米国辺にて支那料理のことをチャブスイ(Chop-suey)と云ふより、転ぜしならむと」

としている。諸説を並べた形になる。「卓袱(しっぽく)」は、

テーブルクロスの意の中国音zhuō fú、

からきて、転じて、

食卓、

の意となったもので、「茶飯」は、

吃飯(チャフン、ジャブン)、

と表記し、

ご飯を食べること、

を意味する。「チャブスイ(チャプスイ)」は、

中国人移民からアメリカへ広まった料理(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0、という。

「ちゃぶだい」は、

卓袱台、

と表記するように、

しっぽく(卓袱)、

と関わるとみる説が多い。たとえば、

「卓袱台と書くように,卓袱(しつぽく)料理(卓袱)の食卓を日常生活に導入したもので,〈チャブ〉とは卓袱の原義であるものという。伝統的に銘々膳方式の食事をしていた日本人にとって,数人で一つの卓を囲み料理をとり分ける卓袱の食事形式はかなり特異で衝撃的なものであったが,やがてその利点を認識する階層も広くなり,日常的に身分差別を必要とせぬ家庭生活の中で使われるようになった」

とする(世界大百科事典)し、

「『ちゃぶ台』の『ちゃぶ』という言葉は、中国料理の食卓を意味していた『卓袱(zhuo-fu)』の読みから来ているというのが有力な説である。中国語の『卓袱』はほんらいは、食卓にかける布、つまりテーブルクロスのことで、それがテーブルの意味にも用いられるようになったものらしいが、現代中国語ではなじみの薄い言葉である」

とある(笑える国語辞典)し、

「中国語の『卓袱(テーブルかけ)』に台を加えたもの」

とある(日本語源広辞典)。

「ちゃぶだい」の呼称は、地域によって異なり、

「富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイ」

とある(仝上、https://www.yuraimemo.com/2773/等々)ところを見ると、「卓袱(しっぽく)」との関連が、やはりありそうである。

日本語の語源は、

「タブルダイ(食ぶる台)をチャブダイ(卓袱台)」

とするが、「ちゃぶだい」に「卓袱台」と当てるには、「卓袱(しっぽく)」が、食卓の意味であることを承知していたからこそではないか、と思える。

「撥脚台盤などといった大きな食卓を使う習慣は、奈良時代には既に中国より入っており、貴族社会においては同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた。
江戸時代に入ると出島などでオランダ人や中国人などの食事風景を目にする機会が出るようになり、それらを真似た洋風料理店では座敷や腰掛式の空間に西洋テーブルを置き、食事を供する場が登場しはじめる。享保年間以降はこうした形式の料理屋が江戸や京にも出現し始め、そこで用いられるテーブルや座卓を『シッポク台』とか『ターフル台』などと呼称するようになった」

という経緯https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%B6%E5%8F%B0もあり、また江戸語大辞典には、「しっぽく」の項で、

中国風の食卓、

の意で載り、

「高さ三尺余、四脚、朱漆で塗り周りに布帛を垂らす」

とあり、

しっぽく台、

とも言ったとある。この前提で、「ちゃぶだい」が名付けられたと考えていいのではあるまいか。ただ音は、

吃飯(チャフン、ジャブン)、

に近い。大言海が、三説併記したのがわかる気がする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年11月07日

卓袱


「卓袱」は、

卓袱台(ちゃぶだい)、

の「卓袱」でもあるが、

しっぽく、

と訓ませると、

卓袱料理の、

「卓袱」である。「卓袱」は、「ちゃぶだい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471364060.html?1572983256で触れたように、

卓袱、

は、

テーブルクロスの意の中国音zhuō fú、

からきて、転じて、

食卓、

の意となり、

卓袱料理、

の意でもある。

「『卓』の字をシツと訓むのは、広東か東京(トンキン)の方言かと言われる。卓(シツ)・袱(ポク)、いずれも唐音である」

とある(たべもの語源辞典)。

「中国語で『卓』はテーブル、『袱』はクロスの意味(袱紗など)を持つ。また、長崎奉行所の記録には『しっぽく』は広南・東京(トンキン)方面(現在のベトナム中部、北部)の方言と記されている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

ただ、卓袱料理は、

料理の種類でなく、卓やテーブルを使う食べ方を意味する、

と見た方がいいのかもしれない(仝上)。たとえば、

「和食、中華、洋食(おもにオランダなど)が盛られたコース料理を大勢で囲んで食べるもの。別名「和華蘭料理(わからんりょうり)」とも呼ばれる、長崎に伝わる国際色豊かな宴会料理。中国料理同様に円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各自が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本スタイル」

とかhttp://local-specialties.com/gourmet/000337.html

「大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式をもつ。和食、中華、洋食(主に出島に商館を構えたオランダ、すなわち阿蘭陀)の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理(わからんりょうり)とも評される。日本料理で用いられている膳ではなく、テーブル(卓)に料理を乗せて食事を行う点に特徴がある。 献立には中国料理特有の薬膳思想が組み込まれていると考えられている」

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

「和食、洋食、中華料理が融合した国際色豊かなコース料理で、大きな円卓に多くの料理を並べる長崎県の郷土料理です。別名『和華蘭(わからん)料理』とも呼ばれ、長い歴史の中で異国の影響を受け続けてきた国際都市『長崎』だからこそ生まれた料理ともいえます。『卓袱料理』は一つの大きなテーブル、円卓に大皿を並べて大勢で各自が取り分けて食べるのですが、同じ形式の料理は中華料理にあり、『卓袱料理』の基本は中華料理にあります。中華料理のように大きなテーブルに料理をのせた大皿を並べて、料理にはポルトガルやオランダ(蘭)など西洋の洋食、そして日本の伝統の和食文化を取り入れたのが「卓袱料理」というわけです」

とかhttps://kyoudo.kankoujp.com/?p=40

「長崎の郷土料理で、ひとつの円卓を囲んで大皿に盛られた料理を各自がとり分けて食べる中国の食事様式をとり入れたもの。料理は椀以外は人数分を大皿に盛る。お鰭(ひれ)という吸い物で始まり、大皿や大鉢に盛られた刺身、豚の角煮、長崎天ぷらなどの料理が続き、最後は「梅椀」と呼ばれる汁粉などの甘味となる」

とか(日本の郷土料理がわかる辞典)、要は、

「1つの卓を囲んで,大きな皿に盛った料理を,各自が小皿に取分けて食べる様式。中国から伝わった同形式の普茶料理が精進であるのに対し,魚介・肉類を用いるのが特徴」(ブリタニカ国際大百科事典)

というスタイルになる。長崎における卓袱料理の起源ははっきりしていないようだが、

「元和・寛永期(1615年-1643年)に崇福寺、興福寺などの唐寺が建立、徳川幕府により朱印船が廃止、対中国貿易が長崎港に限定されたため、かなりの中国人が滞在していたものとみられる。1689年(元禄2年)に唐人屋敷が整備されるまでは、中国人と日本人が市中に雑居しており、互いに招きあい、食事をする機会も多かったと考えられている。また、海外から運ばれた砂糖や香辛料、オランダ語が語源とされるポン酢など、出島を拠点に行われたポルトガルやオランダなどとの貿易によってもたらされた食材の影響も少なくない。ポルトガル由来の南蛮料理、南蛮菓子は卓袱料理の発展の下地となり、出島に居住するオランダ人と交流する機会のあった江戸幕府の役人を通してオランダの食文化が少しずつ長崎に広まっていった。このような異文化の交流の中から、卓袱料理の形態が生まれたと言われている」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86。さらに、

「1761年、長崎に入国していた清国人・呉成充が山西金右エ門を船に招いて中国式の料理でもてなしたという『八遷卓宴式記』の記述が、卓袱料理についての最古の記録である」

とあり、それが、

「文化・文政期(1804年 - 1829年)前後には江戸で一大ブームになる。ひとりひとりに膳が出されるのが普通であった当時の人々にとっては、一つのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったという。江戸古典落語に登場する『百川』は卓袱料理屋として創業したと伝えられる」

とある(仝上)。江戸や京都で流行した卓袱料理は次第に廃れ、後に長崎で復興して、1900年代に現在の卓袱料理の様式と献立が成立し、今日に至ることになる。

卓袱.jpg

(「しっぽく料理」 たべもの語源辞典より)


日本人は。各自が一人前の膳に向って食事をしていたから、卓を囲んで食事をする風習に強い印象を受けたと思われる(たべもの語源辞典)。

「『しっぽくだい』とか『しっぽこだい』とよび、この食卓を用いて出す長崎料理のことを『しっぽく』といった。享保(1716-36)年中に長崎から上京して京都祇園の下河原に佐野屋嘉兵衛という者が長崎料理を始めた。これが食卓(しゅっぽく)料理店の初めである。このとき、大椀十二の食卓(しゅっぽく)を広めた。大椀は大平(おおひら)なので、蕎麦切を大平に盛って、上にかまぼこ・きのこ・野菜などをのせたものを『しっぽく』と呼ぶようになった」

とあり(仝上)、これが江戸に伝わったのは、宝暦・明和(1751-72)のころで、浮世小路の百川茂左衛門が京都に模してはじめた、とある。

ただ、江戸に伝わった「卓袱」は、「卓袱料理」ではなく、いわゆる「しっぽく」、「蕎麦切」の「しっぽく」ではあるまいか。

「卓袱料理のなかに、大盤に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上にいろいろな具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、そばを台に売り出したのが『しっぽくそば』ということになっている。」

とあるhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/。どうやら、

「しっぽく料理そのものは享保(1716~36年)頃に京都に移植され、それが大坂をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大坂はいうまでもなく、うどん文化圏だ。とすれば、まず京坂のうどん屋がいち早くしっぽくうどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになった」

しっぽくうどん.jpg

(讃岐のしっぽくうどん https://www.pref.kagawa.lg.jp/nousui/aji/3/195.htmより)


という流れらしい(仝上)。天保から嘉永(1830~54年)頃の風俗を記した『守貞謾稿』では、

「具は玉子焼き、かまぼこ、シイタケ、クワイなどとなっており、具の内容はだいたいこのへんに落ち着いていたようである。ただし、これらの具は京・大坂のうどん屋が出しているしっぽく(うどん)の解説であり、江戸のそば屋のしっぽくについては具体的な説明はなく、『京坂と同じ』としているだけである。」

とありhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/、安永4年(1775)の『そば手引草』には、

「マツタケ、シイタケ、ヤマイモ、クワイ、麩、セリを具とする」

とある、とかhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/47/

江戸の夜そば売りは「しっぽく」を売り物にし、

「しっぽくとはいっても、せいぜいチクワか麩をのせただけだったようだが、どの時期からのことだったのかははっきりしない。しかし文化(1804~18)頃になると、ネギと油揚げをのせたなんばん、油揚げがメインの信田、海苔をのせた花巻、そうめんを温めたにゅうめんなども売っていたようだ。天保・嘉永期(1830~54)の記録である『守貞謾稿』は、『一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也』と記している」

とあるhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

つまり、「しっぽく」とは、

ソバ切、または、うどんなどのつゆに、マツタケ、シイタケ、カマボコ、野菜などを加えて煮た、

料理の名前。「しっぽく料理」は、

中国風の食事様式を取入れた長崎の名物料理。1つの卓を囲んで,大きな皿に盛った料理を,各自が小皿に取分けて食べる様式。中国から伝わった同形式の普茶料理が精進であるのに対し,魚介・肉類を用いる、

和華蘭料理のこと、である。両者が混同されているところがある。

この「しっぽく料理」は、

「かつては、大きな皿や鍋に料理を盛り、皆でつついて食べるものであったが、次第に種々の器に盛る者になっていった。これは、懐石料理の影響によるもの」

と考えられている(日本語源大辞典)。

なお、今日の通常の卓袱料理(コース料理)の順序は、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E6%96%99%E7%90%86

に詳しい。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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2019年11月08日


「膳」は、

料理、調菜の具はりたるもの、

の意で、

膳部、
御膳、

の意であり、転じて、

食事の器を載する盤、即ち折敷(おしき)、脚あるものをも云ふ、

とある。室町末期の日葡辞書には、

ゼンヲハス(据)ユル、

と載る(大言海)。

食膳、

である。さらに、

一膳飯、

というように、

椀に盛った食物(特に飯)を数える、

のに使い、さらに、

塗箸一膳、

というように、

箸二本を一対ちとして数える、

のにも使う(広辞苑)。さらに、

膳夫、

というように、「膳」を、

カシハデ、

と訓ませ、

供膳、
饗膳、

の意であるが、

饗膳を司る人、

の意にも使う(漢字源)。「かしわで(膳・膳夫)」は、

古代、カシワの葉を食器に用いたところから、

いう(デジタル大辞泉)が、

中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制、

に転じ、

供膳、
饗膳、

の意となる。「かしはで」は、

膳部、

と当てると、

大和朝廷の品部(しなべ)で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事を調製を指揮した下級官人、

である(広辞苑)。なお、この意味の変転は、

「律令制下の大膳職(だいぜんしき),内膳司(ないぜんし)あるいは《延喜式》にみられる膳部(かしわでべ)などが飲食をつかさどる官名であることによっても知られるように,膳は本来,料理や食事そのものをさす言葉であったが,しだいに食事をそなえた盤,台の類を意味するようになり,やがてそれが転じて食台一般をさすようになったとされる。その時期はつまびらかでないが,1295年(永仁3)以降の成立とされる《厨事類記(ちゆうじるいき)》には,膳と食台とをなお明確に区別しており,膳が食台を意味するようになるのは,本膳料理が儀礼の料理として完成する南北朝以後であると考えられる」

とある(世界大百科事典)。

漢字「膳」(呉音ゼン、漢音セン)は、

「会意兼形声。善は『羊+言』の会意文字で、ゆったりとゆとりがある意、もと亶(セン ゆったりと多い)と同系のことば。膳は『肉+音符善』で、いろいろとゆたかにそろえた食事。転じておいしいごちそうをいう」

とある(漢字源)。「膳」は中国語である。「ごちそう」の意以外は、日本だけで使う用例である。

別に、「膳」の字について、

「会意兼形声文字です(月(肉)+善)。『切っ多肉』の象形と『羊の首の象形と、取っ手のある刃物の象形と口の象形×2(原告と被告の発言の意味))(羊を神の生贄とし、両者がよい結論を求めるさまから、『よい』の意味)から、よい肉を意味し、そこから、『供え物』、『供える』、『すすめる』を意味する『膳』という漢字が成り立ちました』

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2186.html

という字膳.gif



この方が、端緒の由来の説明になっているのかもしれない。

食膳としての「膳」は、

「日本料理独特のもので,古く平安時代から食事の際に使われた。種類も今日の食卓と同じような大きな4脚つきの台盤 (だいばん) ,1人用の懸盤 (かけばん) ,1人用で脚のない折敷 (おしき) ,あるいは高い脚のある皿様の高坏 (たかつき) などがあった。これらは主として会食用として用いられ,膳の上の食物の配置なども決められていた。この風習は近年まで伝えられ,1人用の膳は懐石料理,本膳料理などに欠かせないものとなっている」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)

膳浮世絵に見る.jpg

(広重「木曽街道六十九次」宿屋の膳 http://www.21j.jp/freek69/より)


「膳」は、「折敷」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470985757.htmlの発展形らしい。1200年ほど前の平城京跡から出土した食器や食具の中に、ひのきで作られた折敷(おしき)が発見されている。平安時代になると、

「貴人達は高杯(たかつき)を用いるようになります。折敷の四方に、宝珠形の穴をくり抜いた台をつけた衝重(ついかさね)が出てくるのもこの時代です。宴会の場合は案や机を用い、スツールに坐ることもありました。室町時代になると、衝重は三方とか供饗(くぎょう)と呼ばれるようになり、 折敷に足をつけた脚打ち折敷が生まれ、それが膳の原形となります」

とあるhttp://www.komenet.jp/bunkatorekishi06/37.html

「わが国では古くから檜(ひ)の片木板(へぎいた)を折り曲げてつくった折敷(おしき)、木具(きぐ)、三方(さんぽう)、懸盤(かけばん)などの曲物(まげもの)の角膳が使われていた。膳は折敷の変化したもので、食器をのせる盤台を膳とよぶようになったのは、のちに挽物(ひきもの)や指物(さしもの)の盤台が使われるようになってからであろう。木地師が木地をひいてつくる挽物膳は、丸膳とか木地膳とよばれる。スギ、ヒノキなどを材料とし漆を塗って仕上げる指物膳には、四足膳、両足膳、平膳、箱膳などの種類がある。四足膳は盤の四隅に足をつけたもので、この足の形によって蝶足(ちょうあし)膳(内朱外黒の漆塗り、祝儀用)、宗和足(そうわあし)膳(茶人金森宗和好みの内外朱または黒漆塗り、客用)、猫足(ねこあし)膳・銀杏足(いちょうあし)膳(ともに黒漆塗り、略式)などがある。二つ割りにしたクルミの殻を足とした胡桃足(くるみあし)膳は下人用であった。足なしで会席に用いる会席膳は、明治以降一般家庭で客膳として使用された。蓋(ふた)付き箱形の箱膳は、かつては町家や農家で普段の膳として広く使用され、家族各人がそれぞれ自分のものをもっていた。中に1人分の食器を入れておき、蓋を裏返して盤とし、その上に食器を並べて食事をする。食後はふきんでぬぐって食器を中に納める」

とある(日本大百科全書)。本来,料理や食事そのものをさす「膳」が、食事をそなえた盤,台の類を意味するようになる経緯は、はっきりしないが、

「1295年(永仁3)以降の成立とされる《厨事類記(ちゆうじるいき)》には,膳と食台とをなお明確に区別しており,膳が食台を意味するようになるのは,本膳料理が儀礼の料理として完成する南北朝以後であると考えられる」

とある(世界大百科事典)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年11月09日

蕎麦切


「蕎麦切」とは、

そば粉を練ったかたまりであるそばがきなどに対し、こんにち一般的な麺の形状のものであることをいう場合に用いることが多い、

とある(世界の料理がわかる辞典)。つまり、

麺にした蕎麦、

の意である。「そば」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437123006.htmlで触れたが、

「食品としての『そば』は、そば粉に熱湯を加えてかき混ぜた『ソバガキ』が、江戸時代以前には一般的であった。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は『ソバギリ』と呼ばれた」

のである(語源由来辞典)。大言海の「そばきり」の説明が秀逸である。

「蕎麦粉を、水に捏ねて、延べて、細く切りたるもの。製法、饂飩に同じ。又、蕎麦粉のみにて、同様に製し、沸湯に煠(ゆ)でて、冷水にて洗ひ、再び蒸籠にて蒸すを、ムシソバキリと云ふ。これを、汁に浸し、或は、汁に煮て、食ふ。略して、ソバ」

と。そして、

河漏、

ともいう、と。

深大寺蕎麦.jpg

(深大寺蕎麦(じんだいじそば) 斎藤長秋(さいとうちょうしゅう)編・長谷川雪旦(はせがわせったん)画『江戸名所図会』(天保5年(1834)~天保7年(1836) https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=260より)


河漏(かろう)、

とは、

河漏麺(かろうめん)、

のことで、

「小麦粉またはそば粉をこね、箱形の容器の底板に小さい穴をあけたものから、煮たっている鍋の中へ押し出して作ったうどん様のもの」

を言い(精選版 日本国語大辞典)、

「中国の河漏という船着場の茶店で、たくさん売っていたところから」

いうらしい。日本では、蕎麦切のことをいった、とある(大言海)。

「中古、二百年以前の書、諸々の書物を詳に記せるにも、そば切の事、見えず、ここを以て見れば、近世、起こる事也、モロコシ、河漏津と云ふ、船著の湊の名物、茶店に多くこれを造る、よって、河漏と云ふ、是れ、日本のそば切の事也、江府のそば切の盛美には、諸国共に、及難し」

ともある(本朝世事談綺)。しかし、

「蕎麦、此云蘇泊、作麪、縷切者、云蘇泊幾利、即、蕎麦麪、一名河漏、一名河洛、是也。團入湯者、云蘇泊禰利、即、黒兒也、松岡元達食療正要、以黒兒為蘇泊禰利、以河漏蘇泊禰利者、誤矣」

とあり(秇苑日渉)、同一視したのは、誤解かもしれない。蕎麦は、

「蕎麦及ビ大小麦ヲ種樹シ」

と『続日本紀』の「備荒儲蓄の詔」にあるから、古くから食べられたが、

「蕎麦粉をこねて団子にして焼餅として食べるとか、やや進んで蕎麦かきとして食べた」

ものである(たべもの語源辞典)。「蕎麦切」の名は、

「粉を水でこねて、麺棒で薄くのばして、たたみ、小口から細長く切り、ほぐして熱湯の中に入れてゆで、笊ですくって冷水につける。そして水を切った」

という製法からつけられた。

「現在のような蕎麦が作られるようになったのは、慶長年間(1596-1615)といわれる」

が(たべもの語源辞典)、その発祥地には、

森川許六の編集した『風俗文選』宝永三年(1706)にある「蕎麦切の頌」から信濃の国、本山宿という説、

天野信景の『鹽尻』「蕎麦切は甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに、米麦の少なかのし故、そばをねりてだごとせし、其後うどむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」から甲州発祥説、

の二つがある。大言海は、

「そば切は甲州より始る」

と鹽尻説を載せる。

明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、煮売り(振売り)が急増、その中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた、というhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かった、らしい(仝上)。「かる口」(貞享)には、

「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」

とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、

「むしそば切、一膳七文」

とある。これは、「夜鷹そば」とよばれたものもの値段に思われる。元文(1736~41)頃から、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる、とある。売り物は温かいぶっかけ専門だった、らしい(仝上)。天保・嘉永期(1830~54)になると、「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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2019年11月10日

しじみ


「しじみ」は、

蜆、

と当てる。「蜆」(ケン、漢音ケン、呉音ゲン)は、

「会意兼形声。『虫+音符見(=現、あらわれる)』。浅瀬に姿を現す小さい貝」

で(漢字源)、「蜆」の意である。

「しじみ」は、淡水域や汽水域に生息する小型の二枚貝、殻は三角形で、通常殻長約三センチメートル。日本には、純淡水産のマシジミ、海水のまじる河口付近にすむヤマトシジミ、琵琶湖水系にすむセタシジミ、奄美諸島以南にすむ大形のヒルギシジミガイなどが生息している(精選版 日本国語大辞典)。

琵琶湖のものは、室町時代に、

ししみ取る堅田の浦のあま人よこまかに言はばかひぞあるべき(為尹千首)、

という堅田のものを詠んだ歌があり、、近世には瀬田の名産とされた、とある(仝上)。

ヤマトシジミ.jpg



「しじみ」は、縄文・彌生の遺跡からも多く出土し、播磨風土記にも、履中天皇がシジミを食した記事があり、万葉集にも、

住吉の粉浜の四時美(シジミ)開けも見ず隠りてのみや恋ひ渡りなむ、

とあるなど、古くから食用にしてきた。江戸時代から、黄疸(おうだん)に効くと言われ、

シジミ売り 黄色なつらへ 高く売、

という川柳もある、とかhttp://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/83-shijimi.html。守貞漫稿には、

江戸には殻を去りたる蜆無之、

とあるが、

蜆は京坂にては或は貝のまま売るあり。或は石灰を交へ煮て殻を去て売るもあり、

とある(精選版 日本国語大辞典)。

「殻付きで味噌汁にすることが多いが、関西では剥き身を佃煮や和え物にすることもある」

とある(日本語源大辞典)。

しじみ売り.jpg

(しじみ売り 『諧風種瓢』(1844) たべもの語源辞典より)

「しじみ」は、「棒手振」・「棒手売」(ぼてふり)と呼ばれた「物売り」が売りに来た。後の事だが、

しじみ売りは「スズメガイホー」と呼び歩いた、

とある(寺田寅彦『物売りの声』)が、蜆浅蜊売りは、

しじみーあさりー、

と売り歩いたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A。一升、

六文、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-15.html。後に、十文になる。江戸のいろはかるたには、

貧乏ひまなししじみ売り、

の句があり、きわめて零細な元手で商売できるところから,ぼてふりのしじみ売りは貧乏人の典型とされたようである(世界大百科事典)。

さて、「しじみ」の語源であるが、大言海は、

縮貝(しじみかひ)の義、

とする。日本語源広辞典も、

「シジ(縮小)+ミ(接尾語 貝)」

で、縮小したような貝の意、とする。これは、

通常目にする二枚貝のうちでは小型なので「縮み」が転じて名づけられた、

ものとする説であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%9F。しかし、似ているが、身ではなく、殻の皺を指している、とするのは、たべもの語源辞典で、

「貝殻の表面に横しわが多数あって、それが縮んでいるように見えるので縮貝とした。チヂムを古語でシジムといい、シジムがシジミになった」

とする。大言海の「縮貝」は、こちらの意かもしれない。「しじむ」は、

蹙、

とも当てる(古語大辞典)。音韻から見ると、この説が妥当に思える。その他に諸説あるが、

「煮ると実が縮むからシジミだという説(和句解)は、貝の身は丸くなるのであり、縮むという感じは少ないから、これは良くない。また、繁群(ししむ)れているところからだ(日本語源=賀茂百樹)とか、ササミ(少々身)の転だ(和語私臆鈔)という説もあるが、面白くない。マタ、シジミのシは、清水の意で、ミは棲みつくとか、あるといういであるから、清水におる貝というところからシジミになったという説もあるが、シジミが清水に棲むというかんじはもてない」

とたべもの語源辞典は一蹴する通りである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2019年11月11日

死霊


埴谷雄高『死霊』を読む。

img009.jpg


『死霊』の一~三章までは、何度も読んだ記憶がある。その後、四、五章が二十数年ぶりに執筆され、一巻にまとめられた時、各章にタイトルがついた。

第一章 癲狂院にて
第二章 《死の理論》
第三章 屋根裏部屋
第四章 霧のなかで
第五章 夢魔の世界

さらに、その後、

第六章 《愁いの王》
第七章 《最後の審判》
第八章 《月光のなかで》
第九章 《虚體》論―大宇宙の夢

と書き継がれ、一応未完ながら、死の直前書き終えられた。今回、改めて、全部を読み通してみた。率直な感想を言うなら、文庫では、第一巻が、

第一章 癲狂院にて
第二章 《死の理論》
第三章 屋根裏部屋

第二巻が、

第四章 霧のなかで
第五章 夢魔の世界
第六章 《愁いの王》

第三巻が、

第七章 《最後の審判》
第八章 《月光のなかで》
第九章 《虚體》論―大宇宙の夢

と分けられているのに倣っていうと、

第一巻(一~三)は、快作、
第二巻(四~六)は、怪作、
第三巻(七~九)は、懈作、

という印象である。特に、

七~九

は、作家自身が死期を意識してか、言いたいことを言い急ぐ感じで、小説としての結構を崩してしまっている。『死霊』は、基本、

対話、

を中心にして成り立っている。しかも、会話の主張の多くは、

喩え、

たとえ話、

アネクドート、

で語られる。それ自体が閉鎖的である。あるいは、

自己完結

したものである。それは、

自己意識の妄想、

にふさわしいのかもしれないが、僕には新しさを感じなかった。書評家の大森望氏が,

「現実的で論理的なのがミステリー、非現実的で論理的なのがSF、現実的で非論理的なのがホラー、非現実的で非論理的なのがファンタジー」

と定義したのに倣うなら、『死霊』は、一種、

ファンタジー、

である。ある意味、自己意識の語る、

壮大な自己実現の夢想、

である。埴谷は、「不可能性の作家」で、「吾思う故に我あり」の「思う」に、

「理解する、欲する、想像する、知覚するなどの広い意味」

で理解し、その思惟作用に、

推理する、

も加え、

「幾段かのより高くなりゆくその種の推論を飛躍している裡に、想像力はもはやまったく客観的な対応物を自身のなかに失って…これまで嘗てなく、またこれからも決してないだろうところの唯一無二の事物に到達した不可能性の作家」

は、ドストエフスキーとポーしかいないとし、そのボーの『メエルストロームの渦』について、

「そこに夢より幻想、幻想より想像力、想像力より推論が打ち勝ち…、そこに在るものを描くのではなく、そこに決してないものを創り出してしまう」

衝迫力について書いていた。言葉を換えれば、非現実の中に描き出した世界である。

その意味で、僕から見れば、

存在のホログラフィー、

でしかない自己意識の身もだえに近い、『死霊』の、

儚い夢物語、

の世界は、やはり、

ファンタジー、

である。その意味で、

喩え、

で語るのはふさわしいのかもしれない。しかし、「喩」は,所詮、

何かのアナロジー、

である。その何かを直截語れないので、メタファーや逸話で語るしかないのである。それは,語れない時点で、方法の敗北ではあるまいか。

世界を「喩え」で語っても,世界は語り尽くせない。いや語れないから、喩えたのである。しかし,それで完結させようとしている,というふうに見える。だからこそ、また、

ファンタジー、

である。『死霊』とほぼ同時期に出た、『嘔吐』で、サルトルは、

ロカンタンの日記、

のスタイルをとり、ラスト、

一編の小説、

を書こうと決意するところで終わる。その一片の小説が、

嘔吐、

という作品である、というように受け止められる。この方法自体を別段斬新とは思わないが、方法としては、二十世紀的である、と僕は思う。

小説は、何を書くか、

ではなく、

どう書くか、

こそが主題である、と僕は思うが、対話と喩えで終始する『死霊』は、僕には、十九世紀的であると思えてならない。多くの論者が、この中で論じられている「何」を中心に語り過ぎでいる。小説は別に、思想を述べる手段ではない(そんな議論はプロレタリア文学論争で疾うに終わっている)。何が書かれているかは、本来どうでもいい、それがどう書かれようとしているかこそが、問われるべきなのではないか。

対話で成り立っている全体のうち、一~三は、対話となっている。両者が絡み合い、響きあいながら、世界が描けている。しかし、四~六になると、それが怪しくなり、七~九になると、ほぼ一方的な語りに終始する。それは、既に、対話を方法としたこの作品の結構が破綻しかけている証である。僕には、

神格化の一~三、

に対して、地に降りた、

普通化の四~六、

であり、ついに、

破綻化の七~九、

に見える。大江健三郎は、この作品は、

「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」

だと主張した、という。それに倣うなら、いささか古風なところの垣間見える埴谷雄高の男女感からみれば、僕には、

津田安壽子の恋、

という方が叶っているとも見える。未完の九章のラスト、

―ほう、何が、はじめて全宇宙に創出されるのでしょう……?
―与志さんの、虚体、です!
と、さっと頬全体に紅い帯を掃かせながら、津田安壽子は鋭く叫んだ。

の、一言に安壽子の思いが籠り、作品全体と釣り合っているように見えるから。

ちなみに、「死霊」は、

シリョウ、

とは訓ませず、

シレイ、

と訓ませる。埴谷雄高自身が、

「日本語は怨霊のリョウなんだけれども、そうすると恨めしやという感じになっちゃうんだよ。日本の怨霊は全部或る個人に恨めしやという感情をもって出てくるんだね。ぼくのあそこに出てくる幽霊はみんな論理的な、しかも一見理性的で全宇宙を相手にするような途方もない大げさなことばかりしゃべる。そうした理性的幽霊しか出てこないから、いわば『進歩した』現代の語感をもってシレイと読ませているんだ」

と語っている(『二つの同時代史』)し、

「死霊」は革命で死んだ死者、

の意であり、主人公は、

五章(夢魔の世界)で出てる、

という発言(仝上)から見ても、

死霊(しりょう)、

のことのようだが、僕には、それぞれの自己意識の妄想は、

死霊、

ではなく、三輪与志、高志、首猛夫、矢場徹吾等の

生霊(いきりょう)、

のように見える。そして、当たり前だが、ここでの宇宙論は、

人間原理、

そのものである。

参考文献;
埴谷雄高『死霊』(講談社)
大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店)

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2019年11月12日

しぐれ煮


「しぐれ煮」は、

時雨煮(しぐれに)、

と当てる。略して、

時雨、

と呼ぶことも多い。

志ぐれ煮、

と表記されることもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%9B%A8%E7%85%AE

生姜を加えた佃煮の一種、

「貝類のむきみにショウガ・サンショウなどの香味を加えて醤油・砂糖などで煮しめた料理」

とある(広辞苑)が、本来は、

「蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの」

を指す(たべもの語源辞典)。今日は、生姜を入れた佃煮を、「時雨煮」と呼んでいるが。

時雨蛤.jpg


元は、桑名・四日市地方の名物、

時雨蛤(しぐれはまぐり)、

が有名になって、時雨煮が世に知られた(仝上)。そういえば、桑名は江戸時代からハマグリが名物であり、

その手は桑名の焼きはまぐり、

という俗語が古くから知られていた。時雨蛤の命名は、芭蕉の高弟(で、芭蕉の遺書を代筆した)各務支考(かがみしこう)だとされる(語源由来辞典)。

「時雨とは、晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨、曇りがちの空模様を言う。通り雨の『過ぐる』が語原とも。しぐれは『し』と『くれ』に分けて、『くれ』は『暗し』と解釈し、『し』を『しばし』とか、『し』は風のことだと説いたりする。蛤の佃煮を食べていると蛤の味が醤油の辛さのうちに通り過ぎていく。この時雨煮は、簡単にのみこめるものではないから、降ったり止んだりする時雨のように口中で味の変化、過程を楽しめる。これが時雨煮とした理由と考えられる」

とする説(たべもの語源辞典)は、なかなか趣がある。ただ理屈ばっているのが気になるが、もし支考の命名というなら、あり得るかもしれない。

その他に、

時雨の降る時期がもっともハマグリがおいしくなる季節だから(語源由来辞典)、
江戸時代の料理書には、短時間で仕上げることがしぐれ煮作りの特徴として記されており、むき身をたまり醤油に入れて煮る調理法が、降ってすぐ止む時雨に似ているから(仝上)、
時雨のころの草木の枯れ色に仕上げたから(由来・語源辞典)、

等々諸説あるが、

口中で味が変化することから時雨にたとえた、

とする説に肩入れしたい。

同じ「時雨」を採った、

時雨饅頭、

というものもあるらしい。

「時雨饅頭は、小豆のこし餡をそぼろにして蒸したしぐれ羹で餡を包んだものである。そぼろからしぐれを思わせるからである」(たべもの語源辞典)

また、

時雨餅、

というものもあるらしい。

「小豆餡・みじん粉・砂糖を混ぜ合せてそぼろにして蒸しあげる。そぼろにしたところがしぐれと名づけるりゆうである」(仝上)

しぐれ餅.jpg



「しぐれ」と名づけるには、「そぼろ」になっているのがみそである。「そぼろ」は、

ばらばらで細かいこと、

を意味するが、そぼ降る雨というような、

雨がしとしと降るさま、

の意がある。しかし、「時雨煮」はそぼろではない。

「時雨は『しぐれ色』と称して、時雨で色づいた草木の色を取り上げることもある。だから、時雨煮とは、しぐれ色に煮上げたものと考える人もある。蛤とか牡蠣とか、時雨煮にするとき醤油で煮染めるとか、生姜を加えて佃煮にするとか、どんなものを煮ても味を濃くして口に入れたとき味が変わっていく、通り過ぎていく味を感ずるこの味つけが時雨煮の本領なのである」

という、味わいから来たとする説(たべもの語源辞典)に、やはり肩入れしよう。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2019年11月13日

時雨


「時雨」は、

しぐれ、
じう、

と訓ます。

液雨(えきう)、
霂、

ともいう(大言海)。

秋の末から冬の初めころに降ったり病んだりする雨、

の意で使う。で、時雨が降る天候に変わることを、

時雨れる(しぐれる)

という(広辞苑)。この意が転じて、

(時雨に掛けて)さっと涙がこぼれる、

という使い方もする。しかし、「時雨」は、漢語としては、

ほどよいときに降るよき雨、

を意味し、禮記にも、

天降時雨、山川出雲、

とある。それが転じて、

時雨之化、

というように、

教化の普く及ぶをいう。草木の好雨を得て発生するに喩う、

意で使う、とある(字源)。「しぐれ」の意で使うのはわが国だけである。

和語「しぐれ」は、

志ぐれの雨の略、

とある(大言海)。その動詞「志ぐる」は、

「志は、風雨(シ)、クルは、暮る、時雨と書くは、時(しばしば)降る雨の意。時鳥(ほととぎす)の如し」

とする。同趣は、

祝詞などにある風の異称シナトノカゼ(シは風、ナは「の」の意の古い連体助詞、トは場所)等から古く風の意のシがあったとみられ、これとシグレのシを関連づける(暮らしのことば語源辞典)、
シは風の義、クレは狂ひの転か(音幻論=幸田露伴)、
シは風の義。クレは晩の義(和訓集説)、

がある。その他に、その暗くなる空模様から、

シバシクラキ(しばらくの間暗い)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
シバシクラシ(荀昧)の義から(柴門和語類集)、
シバクラ(屡暗)の義(言元梯)、
シクレアメ(陰雨)の略(東雅)、
シグレ(気暗)の義(松屋筆記)、
頻昏の義(和訓栞)、
シキクレ(頻暮)の義(日本語原学=林甕臣)、
シキリニクラシの訓(関秘録)、
シゲククラム(茂暗)の義(志不可起)、
シゲクレ(繁昏)の義〈名言通〉、
シは添えた語。クレは、空がクラクなるところから(和訓栞(増補))、
シは水垂下の義。クレは雨、あるいは陰、あるいは暗晦の義という(箋注和名抄)、

等々あるが、どうも語呂合わせにすぎる。「しぐれ」は、

時雨(しぐれ)の雨、間(ま)なくな降りそ、紅(くれなゐ)に、にほへる山の、散らまく惜(を)しも
時待ちて、ふりし時雨の、雨止みぬ、明けむ朝(あした)か、山のもみたむ

と、万葉集にうたわれているように、古くからある言葉で、もっとシンプルなのではないか、と思う。たとえば、広辞苑、日本語源広辞典は、

「『過ぐる』から出た語で、通り雨の意」

とする。同趣は、

過ぎ行く雨であるところから、スグル(過)の転(語源をさぐる=新村出)、

もある。さらに、日本語の語源は、

「秋の末から冬の初めにかけて降ったり止んだり定めなく降る通り雨をスギフル(過ぎ降る)雨といった。ギフ[g(if)u]の縮約でスグル・シグル(時雨る、下二)になった〈けしきばかりうちシグレて〉(源氏 紅葉賀)。連用形の名詞化がシグレ(時雨)である。〈長月のシグレにぬれとほり〉(万葉)」

とする。

すぐる→しぐれ、

と転訛したとみるのが、自然ではないか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2019年11月14日

しぎやき


「しぎやき」は、

鴫焼、

と当てる。

「ナス(茄子)の皮をむいて約一センチくらいの厚さに輪切りにし、胡麻油で揚げて串にさして焼き、山椒味噌を塗ったもの。また醤油付焼にしても良い。油で揚げないで、油を塗って焼いても良い。切り方も、ナスを縦に二つ割にする法がある。形がこのほうがよいという人もある。若くて柔らかなナスなら皮つきのまま金串にさして切り口にさっと胡麻油を塗って炭火でこがさないように両面から焼いて、練味噌を切り口に塗り、ちょっとあぶる程度にして串を抜いて、器に盛って粉山椒をふりかけて熱いうちに供する」

とある(たべもの語源辞典)。『日本料理法大全』には、

「ナスを輪切りにして、油でさっと揚げ、串にさして焼いてかわかし、山椒味噌をつけるか、醤油付焼にする油で揚げずに油を塗って、生から焼いてもよい」

とある(仝上)。『日本料理法大成』では、

「ナスを茹でて適当に切って、串にさし、山椒味噌をつけて焼く」

とある(仝上)。これは、寛永の頃の作り方らしく、『料理物語』(寛永)に、

「鴫やき、茄子を煠(ゆ)で、よき比に切り、串にさし、山椒味噌を付けて、焼くなり」

とある、とか(大言海)。別に、

茄子田楽、
炙田楽、

ともいい(大言海)、

ナスのみそ田楽の別称、

ともある(世界大百科事典)。「しぎやき」は、

「江戸での呼称であったことが《料理網目調味抄》(1730)などに見える。もともとはシギそのものを焼いた料理であったが,きじ焼がキジの焼物から豆腐,さらには魚の切身の焼物へと変化したのと同様,ナスの料理へと変わったものである。室町後期の《武家調味故実》に〈しぎつぼ〉という料理があるが,これは塩漬にしたナスの内部をくりぬいて壺状にし,そこへシギの肉を切って詰め,カキの葉で蓋(ふた)をして,酒で煎(い)るというもので,シギのくちばしを蓋にさして供した」

とある(仝上)。大言海にも、

「元は、鴫の肉なりしなるべし、狸汁の、蒟蒻となりしがごとし」

とある。

「しぎやき」という料理は古くからあり、それ以前の作り方がいろいろあった。

「今の茄子の鴫やきといふものは、鴫壺焼といふことより転(うつ)れるなるべし。包丁聞書に鴫壺焼と云は生茄子(なす)のうへに、枝にて鴫の頭(かし)の形をつくりて置也。柚味噌(ゆみそ)にも用とあり」

とする(喜多村信節『瓦礫雑考』)、とか(たべもの語源辞典)。『武家調味故実』(天文四年(1535))には、

「鴫壺(しぎつぼ)の事、漬けなすびの中をくり抜き鴫の身を作りて入るべし、柿(かき)の葉を蓋(ふた)にしてかいぐることあり、藁(わら)のすべにてかいぐるなり、石鍋(いしなべ)に酒を入れて煮るべし。折びつに耳かわらけにいためた鹽を置いて供す」

とあり(仝上、日本大百科全書)、「しぎやき」の起源は、

茄子をくりぬいて壺をつくって、鴫の身をいれ、冬には柚子を使って壺にした、

のが原型、その後、「しぎやき」は、鴫を食べた名残りか、

生茄子の上に板で鴨の頭の形を作って置いた、

が、慶長(1596~1615)頃から、現在の形になった(仝上)。『寛永発句帳』には、

鴫やきやなすびなれどもとり肴、

という句があり、いまの形になっている。なお、茄子の代わりに、柚子を壺にしてつぼ焼きにしたものは、

柚壺、

という料理となった、とある(たべもの語源辞典)。現在の肉抜きになった経緯には、

「獣肉を食べられなかったお坊さんが鴫を焼いたものに似せて、味噌で味つけした」

という説もあるhttps://www.yuraimemo.com/1258/らしい。精進料理の感じではある。

鴫焼.jpg



「しぎやき」の語源には、

「しぎ」というのは、調理されたなすの形が鴫に似ていることから、
切り取った茄子のヘタが鴫の頭部に似ていたから、

という説もあるが、「鴫壷焼」という鴫肉と茄子を用いる料理があったのだから、

鴫壷焼→鴫焼→茄子田楽、

と、鴫の肉の入れ物から、茄子が主役になった、という転化でいいのではあるまいか。なお、

「ナス」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459202304.html

については既に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:鴫焼 しぎやき
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2019年11月15日

証言者


大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』を読む。

二つの同時代史.jpg


戦後派の巨人二人の、1982年の一年余にわたる対談である。当時、埴谷雄高は72歳、大岡昇平は九ヶ月年長の73歳。いわゆる文士という言葉が当てはまる最後の世代である。すでに、椎名麟三、武田泰淳、竹内好もないが、まだ『死霊』を書き継ぐ埴谷、森鴎外の『堺事件』に対する批判の『堺港攘夷始末』を始めようとしている大岡昇平と、七十を過ぎてなお、現役であり続けていた二人の対談は、埴谷自身が、

「後世の史家からいえば、とにかく日本が近代化していく過程においてインテリゲンチャがどういう境遇に上以降まれ、そのなかでどういうことを考えてきたかということがこの対談のなかに象徴的に反映しているのではないかと思う」

というように、戦前、戦中、戦後と、文学者がどう生き抜いてきたか、の証言者となっている。

一人は、刑務所に、一人は捕虜収容所に、それを「ゼロ時点」として、それぞれの文学的スタートとしたという意味で、面白い企画の対談である。

小林秀雄に近く、鎌倉派にいたはずの大岡が、戦後、いつのまにか左翼の埴谷と近い位置になるほど、日本が右傾化し、大岡が左翼と目されるほどに、社会が変化した流れは、今日もっとひどくなり、いまやいっしょくたにパヨクとひとくくりにされる時代になっているのを見ると、戦後一貫した時代の右傾化の中で、今日の位置があることに、改めて気づかされる。日本は、戦後から、終始一貫して、戦前回帰をめざしてきた、と。

時代の証言者としての面で面白いのは、記録の中だけではわからない体験談だ。たとえば、埴谷が、「新経済」という雑誌を作った経緯が面白い。

「昭和十六年に……偶然、経済連盟の調査課長をしていた帆足計が統制会というものを作ろうと言い始めたんだよ。彼は郷誠之助の子分みたいなもんだが、やはり旧左翼だよ。その彼が『統制会の理論と実際』という本を書いた。それが『新経済』社の最初の出版物で、あたかも『新経済』社は統制会の宣伝機関みたいになったわけだ。われわれもそれなら統制会の応援をしようというんで、初めは会と二人三脚のようにして出発したんだよ。唐島基智三、帆足計、郷司浩平、島田晋作、奥村綱雄、工藤昭四郎、野田信夫などが『新経済』社の顧問だった。また木村禧八郎も顧問だったことがある。その九人の顧問のうち、奥村綱雄は、戦後野村證券の社長兼会長になったし、工藤昭四郎は都民銀行の頭取、郷司浩平は生産性本部の親玉になったから、要するに、半分は戦後、資本主義の主要人物になったわけだ。それから帆足計と島田晋作と木村禧八郎は、戦後社会党の代議士になったし、野田信夫は成蹊大学の学長、唐島基智三は政治評論家になったから、もう半分は幾分社会党系といってもいいかもしれない。とにかく自由派も社会派も全員厭戦家だった」

その彼らは、「経済」を隠れ蓑に、外務省の短波情報を得て、スターリングラードの攻防の結果や、ノルマンディ上陸成功、アトミック・ボム投下の情報をも、的確につかんでいた。終戦の詔勅については、

「木原(通雄)が書いたんだよ。あれは安岡正篤が後で見たんだけど、原文は木原が書いている。彼は国民新聞にいて、おれたちの『新経済』の顧問だった唐島基智三のすぐ下のきれものの部下だった」

とも語っている。さらに、戦後のGHQの検閲についても、埴谷は、『近代文学』に掲載予定の原民喜『夏の花』の事前検閲をめぐって、こう証言している。

「GHQといったって内閣も検閲もアメリカ人が読むわけじゃないんだよ。GHQの下には日本人の事実上の検閲係がいて、それで、読んだあと、こんな原子爆弾のことを書いたらとうていだめだって、返されちゃった。日本人が日本の作品を『自己規制』してるんだよ。アメリカの占領方針をすっかり自分が体しているつもりになっているんだが、日本人は茶坊主型が実に多いんだよ。あとで問題が起きたとき責任が自分にかからないように、これはアメリカの占領方針に反するだろうと、できるだけ拡大解釈して、ほんとに小さなことでもチェックして、これはだめだと返してくる。そして、上のアメリカ人に尤もらしく報告するんだな。仮に、日本がアメリカを占領して、アメリカの新聞や雑誌を検閲するためにアメリカ人を使ったとしても、その使われたアメリカ人が、占領軍の方針を勝手に忖度し拡大解釈して『上官の日本人の気にいられる報告』ばかりこれほど出そうとはおそらくしないと思うな。おれは、権力者に対する茶坊主ぶりでは、日本人は世界のベストテンのなかにはいると思っているよ」

まさに「忖度」とは、茶坊主の心性ということだ。七十年たっても変わっていないのである。

文学者の証言でも、なかなか鋭いものが随所にある。たとえば、大岡は、梅崎春生をめぐって、

「梅崎も武田(泰淳)も吉本隆明や高橋和巳と同じ伏目なんだよ。ぼくはそういうのを全部、“伏目族”と名付けている(笑)。“伏目族”は本来全部弱者で、その弱者であることによって逆に強者になるというタイプなんだよ。
 つまり全部見るのはいやだけれども、見た瞬間にその見た瞬間にその見たものの何か本質をつかまなくちゃいけないという感じになるらしいんだな。この弱者が強者に転化するいちばんいい例は、武田の例の『風媒花』で、竹内毛沢東に対して、自分は人民裁判にかけられる小毛で、武田小毛はせいぜい小毛なりに精一杯生きている、何も竹内毛沢東だけが偉いんじゃないんだというふうに言って、武田は最底辺の弱者を頂上にいるもの以上の強者に転化させたわけだ」

と語る。その鋭い観察に敬服する。

また酔っぱらうと「バカヤロー」が口癖の石川淳のエピソードも笑える。

「(中薗英助が)石川淳が『バカヤロー』といったとき、『あのバカヤローといったジジイをおれがやっつけてやる』といって石川淳の前に座って、『わたしはどうですか』っていったんだよ。そうしたら石川淳は『おまえもバカヤローだ』といった。そこで中薗が『きさまもバカヤローだ』って怒鳴ったとたん、石川淳はぱっと立ち上がってサーッと玄関へ出ていっちゃった。あわてて送っていった安部公房がびっくりして『ああ、石川さんはけんかがうまい、逃げるのが』といっていたね。中薗が怒鳴った途端にサッと立ち上がると、靴をはいてスーッと出て帰っちゃった。すごいもんだよ」

と。小柄の石川淳の逃走姿が、目に見えるようで可笑しい。

政治的な発言も随所にあるが、こんなやり取りもある。

大岡 …日本という国は韓国とも中国とも接し、ソ連とも接している。海はいまはなんでもないから、アメリカとも接しているんで、こういう国は珍しいんだ。ここで第九条というSF的な理想を掲げて永遠に貫くのはいいと思うよ。
埴谷 それはいい。これは自縄自縛に役立っている。ただ僕は必ずしも憲法改正に反対ではないんだよ。僕は天皇制を廃止するというのをまず入れた憲法にする改正なら大賛成なんだ。そういう廃止をやってもらいたい。ロベスピエールがフランス革命のときにつくったのは、『政府が人民の諸権利を侵害した場合、蜂起は人民にとって、また人民の各部分にとって、その諸権利のうちもっとも神聖な権利、その諸義務のうちもっとも不可避なぎむである』という憲法なんですよ。」

硬骨な二人は、

大岡 人間はだいたい二十五までに考えいたことからでられない、とベルグソンがずっと前に言っているな。
埴谷 着想は全部そうだ。
大岡 それを仕上げるのに一生かかっても足りないという。われわれは随分長く、七十何年も生きて来た。むかしより平均寿命が延びているから、やりとげられるさ」

と言い合った通り、埴谷は1997年、八十七歳まで生き、『死霊』を曲がりなりにも完成させて往った。大岡は、その十年前1987年に亡くなっているが、『堺港攘夷始末』をほぼ完成させて往った。成し遂げていったのである。

二人が終始嘆いていた、「時代がどんどん悪くなる」は、もはやティッピングポイントを越えてしまった。この現状にお二人はどんな顔をしておられるやら。

参考文献;
大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店)

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2019年11月16日

しぎ


「しぎ」は、

鴫、
鷸、

と当てる。「鴫」は、国字。「鷸」(漢音イツ、呉音イチ)は、

「会意兼形声。矞(イツ)は、すばやく避けるとの意を含む。鷸はそれを音符とし、鳥を加えた」

とあり、「しぎ」の意だが、「カワセミ」の意も持つ。

鷸蚌(いつぼう)之争、

という諺がある。鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)が、くちばしと貝殻を互いに挟みあって争っているうちに、両方共漁師につかまった、という喩えである。戦国策に、

「趙且伐燕、蘇代為燕、謂恵王曰今日臣来過易水、蚌方出暴、而鷸喙其肉、蚌合而箝喙、鷸曰、今日不雨、明日不雨、即有死蚌、蚌亦謂鷸曰、今日不出、明日不出、即有死鷸、両者不肯相捨、漁者得而幷擒之、今趙且伐燕、燕趙久相支以敝大衆、臣恐強秦之為漁父也、恵王曰、善、乃止」

とある。漁夫の利である。

鷸蚌之弊(ついえ)、

ともいう。「しぎ」に関しては、

鴫の看経(かんきん)、
鴫の羽搔(はがき)、

等々という言い回しや、

鴫の羽返(はがえし)、

といった舞の手、さらに剣術・相撲の手の言い回しに使われている。

ヤマシギ.jpg



「しぎ」は、シギはシギ科に属する鳥の総称で我国では50種類以上もみられるそうだが、代表的には、イソシギ・タマシギ・アオアシシギ・アカアシシギ・ヤマシギなど、日本には旅鳥として渡来し、ふつう河原・海岸の干潟(ひがた)や河口に群棲する。古事記で、

「宇陀の 高城に 志藝(シギ)わな張る 我が待つや 志藝(シギ)は障らず いすくはし 鯨障る」

と歌われるほど馴染みの鳥で、食用にした。田にいるシギの飛び立つ羽音を詠むこともあるが、

「しぎの羽根掻き」を踏まえて、女の閨怨の譬えに多く用いる、

とある(精選版 日本国語大辞典)。「鴫の羽掻(はがき)」とは、

「鴫がしばしば嘴で羽をしごくことから、物事の回数の多いことのたとえ」

の意で使われる。大伴家持に、

「春まけて もの悲しきに さ夜ふけて 羽振(はぶ)き鳴く鴫 誰(た)が田にか棲む」

の歌があり、西行に、

「心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」

という歌があるが、飛び立つ姿を詠むようになるのは、源兼昌の、

「我門の おくてのひたに おどろきて むろのかり田に 鴫ぞ立つなる」

以降だそうだが、歌では「鴫」の鳴き声を詠むことは稀である(仝上)、という。飛び立つ時には「ジェー」というしわがれた声を出すせいかもしれないhttps://manyuraku.exblog.jp/10705489/

さて、「しぎ」の語源だが、大言海は、

「繁(シゲ)の転、羽音の繁き意と云ふ。字は、和名抄に、一云、田鳥(たどり)とある。合字なり」

とある。田に居るから、田と鳥を付けた作字、ということらしい。しかし、ヤマシギも、イソシギいるのだが。確かに、和名抄は、「しぎ」を、

「之木、一云田鳥、野鳥也」

とあるが。日本語源広辞典も、

シゲ、羽音が繁々し(回数が多い)、

を採っている。他には、

羽をシゴクところから、シゴキの転か(名言通)、
ハシナガキ(嘴長)の義(和句解)、
サビシキの略(滑稽雑誌所引和訓義解)、

がある。

鴫の羽搔(はがき)、

という言い回しは、羽のしごきの多さからきている。それが「しぎ」の特徴とするなら、

しごく→しごき→しぎ、

もあるのではないか。

鴫の看経(かんきん)、

は、

鴫がじっと立っている姿を経を読んでいる様(さま)に見立てたものだが、寂しさの含意がなくもないが、一茶に、

「立鴫とさし向かいたる仏哉」

という句があるらしいhttps://manyuraku.exblog.jp/10705489/ので、ちょっと違うかも。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
https://manyuraku.exblog.jp/10705489/

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2019年11月17日

おでん


「おでん」は、

御田、

と当てる。

田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、

である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。

田楽とは、

豆腐に限って言った、

ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、

豆腐、

と決まっていた。

「豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた」

のであり、これが、

おでん、

であった(仝上)。

味噌田楽.jpg

(味噌田楽 https://senzaki.jp/note/archives/1770より)

「田楽」という名前の起こりは、

「炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、ともいう」

とある(仝上)。「高足」(たかあし、こうそく)とは、

「田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3。高足を串に見立てた意味がよくわかる。

「田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた」

とある(日本大百科全書)。

時代は、永禄(1558~70)の頃、とされる。その後、元亀・天正(1570~92)頃には、流行していた。

天正五年(1587)の『利休百会』に、豆腐の料理を挙げて、

「とうふくずに、とうふのうば(ゆば)、とうふのでんがく」

とある、らしい(仝上)。「豆腐田楽」は、一串二文と安い。今日の三十数円、という感じである。

天明(1571~89)の頃になると、「田楽」は多種類になる。

「こんにやく」の田楽は、元禄(1688~1704)頃で、宝暦十年(1760)の『献立筌』に、

こんにゃくの田楽、

が載る。こんにゃく田楽は、豆腐の田楽のように、

「串に刺して、茹でて、味噌をぬった」(仝上)。

天明二年(1782)の『豆腐百珍』には、

「木の芽田楽、ふたたびでんがく、はじやきでんがく、葛田楽、うにでんがく、浅ぢでんがく、まゆでんがく、みの田楽、たまごでんがく、あこぎ田楽、つぶて田楽」

等々が載る(仝上)。各田楽の詳細は、http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-9.html
に詳しい。翌年の続編『豆腐百珍』、翌々年の『豆腐百珍余録』が上梓され、

「目川でんがく、今宮のすな田楽、衛士田楽、青みそ田楽、みたらし田楽、あづま田楽、なんばん田楽、小野田楽、煮取田楽、女郎花田楽、小倉田楽、しののめ田楽、出世田楽、太平でんがく」

等々が載っている(仝上)。これはすべて、

豆腐田楽、

のバリエーションである。

「(江戸では)田楽豆腐を『短冊豆腐』とか『田楽焼』といった。冬のたべものだった田楽が、木の芽を使うようになると初夏の名物の一つとなった。京都の四季という唄に『二本差しても柔らかい祇園豆腐の二軒茶屋』とあるが、上方の田楽は串を二本指してった。江戸では串は二本であった。しかも京阪の串は股のあるもので、白味噌に山椒の若芽をすりこんだが、江戸で股のない串を通して赤味噌を塗って木の芽をのせた」

とある(たべもの語源辞典)。

豆腐田楽を作る美人〕. 絵師:歌川 豊国.jpg

(豆腐田楽を作る美人・歌川豊国 棚の中に串に刺した豆腐と味噌壺がある https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/detail/post010.htmlより)


この間に、野菜を材料にした田楽が現れる。

野菜田楽、

である。享保十五年(1730)の『料理綱目調味抄』には、

「大根、かぶ、牛蒡、山のいも、芋、栗、かしゅう、蓮根、くわい、瓜、唐茄子、冬瓜、松茸、ししたけ」

の味噌田楽が載っている、という。豆腐が田楽の元祖であるためか、

「豆腐の形に切れるものは、豆腐のように見せて焼いて味噌をつけたものが多い」

とある(享和・文化・文政(1801~30)に三分冊が上梓された『素人庖丁』)。野菜が出れば、当然ながら魚類の田楽が出る。

魚田(ぎょでん)、

という。前出の『料理綱目調味抄』に、

「ゑひ、うなぎ、はぜ、小ぶな、あわび、あかがひ、はまぐり、たいらぎ、かき、えび、たい、ひらめ」

が載る。それぞれ、

何々みそ付焼、
醤油付焼、

とある。やはり、切れるものは、長方形や四角に切っている。まだ豆腐の味噌田楽の尾を引きずっている。

文化・文政・天保(1804~44)年間には、

「串に刺したこんにゃくを味をつけて煮込むようになってきた」

という(仝上)。これが、

煮込みおでん、

の始まりである。一説に、

田楽に菜飯(なめし)が付き物であったように,おでんには茶飯が付き物とされた、

とあり、

「菜飯に田楽を添えて提供する『菜飯田楽』は寛永の頃から流行をはじめ、まもなくこんにゃくの田楽が登場し、これがオデンの略称で呼ばれるようになったとする。『浪花の風』(安政三年(1856)頃から文久三年(1863)頃)によれば『この地(上方)にても、蒟蒻の田楽をおしなべておでんと呼ぶ』とある。この頃のこんにゃくおでんは味噌田楽であったが、菜飯田楽の流行から煮込みのこんにゃくがつくられ『煮込みおでん』と言われたものが、むしろこちらが名前を奪い煮込み野菜類にハンペンや信田巻きなども加えて広くおでんと呼ばれるようになった」

とする(平凡社大百科事典)。『守貞謾稿』(1837年)には、「上燗おでん」という振り売りがあり、

「酒燗と蒟蒻の田楽であり、江戸のものは芋の田楽も売る」

と紹介されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93。結果、「おでん」は、

煮込み田楽、

を指し、「田楽」は、

焼き田楽、

を指すことになった。この「おでん」は、

「蒟蒻を三角に、里芋を二つに切り、焼蒲鉾、蓮根ヲ厚さ二分ほどづつに輪切にし、何れも一つづつ竹串に刺し、煮出汁に醤油、砂糖、漉味噌少し入れたるに、串のまま浸して、温火(とろび)にて煮て成る。多くは行商す」

とある(大言海)ように、串に刺してある。「煮込み田楽」の背景には、醤油がある。

「元禄期に銚子ではじまった醤油醸造は、やがて江戸経済圏の発展とともに香りと味の良い醤油を盛んに供給するようになり、削り節に醤油や砂糖、みりんを入れた甘い汁で煮込んだ『おでん』が作られるようになった。外食産業が盛んであった江戸では、『おでん燗酒、甘いと辛い、あんばいよしよし』の掛け声で売る『おでん・かんざけ』と書いたのれんを掲げたおでんの振売や屋台が流行した。

四文屋.jpg

(文化年間(1804~17)四文均一の飲食物を売った屋台店。串に刺した「おでん」のような食べ物を売っていた https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/04syokuninzukushiekotoba/05.htmlより)


本格的に、今日のような「おでん」となったのは、明治以降のことで、

「上方では、田楽が『お座敷おでん』として客座敷に出されるようになったが、種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる『焼かない田楽』と区別するために『関東炊き/関東煮』(かんとだき)と呼んだ。その後の関東煮は、昆布・クジラ・牛すじなどでダシをとったり、薄口醤油を用いたりと、関西風のアレンジが加えられていった。これを『関西炊』と呼ぶ人もいる」

とある(仝上)。

おでん.jpg


関東煮の語源には、

「かんとうふ煮」説、
中国広東の煮込み料理に由来する「広東煮」説、

もある(仝上)。

ところで、「茄子の味噌田楽」と「茄子の鴫焼」とどう違うのだろう。

揚げ茄子の味噌田楽.jpg



たとえば、田楽は、

田楽味噌をのせて焼く焼き物の総称、

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.4/1/09.html。「おでん」は、

煮たもの、

で、それと関係がありそうなのが、

風呂吹き大根、

だが、茄子を輪切りにしたとき、「茄子味噌田楽」は、ほぼ、鴨の肉抜きとなった、

茄子の鴨焼き、

と重なるのではないか。どうみわけるのだろうか。

「鴫焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471514070.html?1573674929については、前に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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書評;
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2019年11月18日

田楽


「田楽」は、「おでん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471576969.html?1573934882で触れたように、

田楽豆腐、

の意だが、その由来は、平安時代中期に成立した、

田楽、

という芸能に由来する。

「もと、田遊び・田植祭など田の豊作を祈願する民俗から発展し、平安時代末期から室町にかけて盛行」

した(古語大辞典)という。豊作祈願の、

田舞、

が発展したもので、それを演ずる者を、

田楽法師、

田楽法師.jpg



といい、

「仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

田楽能、

と呼ばれたが、室町後期には、世阿弥による猿楽能に押された衰退した(古語大辞典)。

各地に、民俗芸能として伝わったが、その共通する要素は、

びんざさらを用いる
腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である
単純な緩慢な踊り、音曲である
神事であっても、行道のプロセスが重視される
王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD

びんざさら.jpg

(びんざさら(こきりこささら) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%95%E3%82%89より)


「法師は神社の祭礼などにも出た。笠は飾りの藺笠で、風流(ふりゅう)といって蓬萊鶴亀等がつくられている。このようにつくり物をすることが、やがて後に、変化しながら祭礼に出る傘鉾や、つくり山にもなる」

とあるhttps://costume.iz2.or.jp/costume/510.htmlが、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』には、

「田楽法師が下に白袴をつけ、上に色ある物をうちかけ、鷺足に乗って踊る姿が、白い豆腐に味噌を塗る形に似ている」

との記述https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C%E7%94%B0%E6%A5%BD#cite_note-3があり、

「白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師。彼らは単に踊るだけではありません。竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするのも中にはあったのです」

とかhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/15.html

「田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせ」

とか(日本大百科全書)が、由来の説明としては、妥当のようである。

「おでん」で触れたように、この、

「白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る」

恰好https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C%E7%94%B0%E6%A5%BDが、

白い豆腐に変わりみそを塗った串焼き、

に似ているというので、「田楽」と名付けたのであった。

「田楽法師の鷺足に乗るに、白袴に色ある衣を着たるのに、豆腐に味噌を塗りたるが似たれば」

とある通りである(大言海)。たべもの語源辞典には、

「田楽法師が七尺(二・一メートル)ばかりの棒を付けたものに乗って踊るさま」

と具体的にある。

この「田楽」という名称は、

「もと南都興福寺と東大寺両寺の僧語」

である(仝上)。しかし、「田楽」の由来には、

田植えのときの楽であるところから(俚言集覧・芸能辞典)、
田はいやしい意で、正しく風雅な楽でないという意(貞丈雑記・安斎雑考・和訓栞)、
田野の学の義、また申楽の申が田の字に転じたものか(和訓栞)、
田舎の猿楽の義(能楽考)、

などの諸説があるけれども、

「田はいやしい意」

込めていることは確かのようである。しかし、猿楽より人気で、

「鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%A5%BD。さらに、

「田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、『当道の先祖』として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている」

とある(仝上)。しかし、

田楽は 昔は目で見 今は食ひ

という川柳に残るほど、いつのまにか、「田楽」は、

田楽豆腐、
田楽焼、

となった。『宗長手記』(大永六年(1526)))に、

田楽、
田楽たうふ、

とある(仝上)、とか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:田楽 田舞 田楽能
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2019年11月19日

奇を衒う


「奇を衒う」は、

一風変わったことをして見せる、
わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする、

といった意味である。しかし、

奇を好んで奇なること能わず、

という諺もある。

突飛なことを望んで、結局平凡な結果に終わる、

ことはままある。

揚子雲之文、好奇而卒不能奇也、故思苦而詞難、善為文者、因事以奇出、江河之行、順下而已、至其触山赴谷風搏物激、然後盡天下之変、子雲惟好奇、故不能奇也

とある(後山詩話)。

事に因りて以て奇を出だす、江河の行くや、下るに順うのみ、其の山に触れ谷に赴き風搏ち物激するに至りて、然る後に、天下の変化を尽くす、

でなくてはならないようだ(故事ことわざの辞典)。

「てらう」の「衒」(漢音ゲン、呉音ケン)は、

「会意兼形声。玄(ゲン)は、細くて見えにくい糸をあらわす。よく見えない、あいまいである意を含む。衒は『行(おこなう)+音符玄』で、相手の目をごまかして、真相がよく見えないようにする行いのこと」

である(漢字源)。「てらう」意であり、

学問・才能や外見を、(あるようにごまかして)みせびらかす、

意となる。

和語「てらふ(う)」は、

照るを他動詞に活用す。韻會「衒、自矜(ほこる)也」、

と載る(大言海)。

自矜、

とはなかなかうまい言い方である。字鏡には、

「衒、亂也。天良波須、又賣也」

とある。古語大辞典に、「てらふ」の意味として、「みせびらかす」以外に、

買い手をつのる、
売る、

とある。四声伊呂波韻成に、

「売、ウル・ヒサグ・テラフ」

とある(古語大辞典)。売るために、己を誇示する、という含意が、「てらう」にある。しかし「照る」には、

四面に強い光を放つ、光る、
つやがある、
(光を受ける意で)うつむく、あおむく、
(面照ルの略)能楽で顔面が少し上向きになる、

等々の意はあるが、「売る」意はない。「てらう」のみが持つ意味のようである。

「衒う」の語源は、

「照る」の他動詞、

とあるが、岩波古語辞典、広辞苑は、

照らふの意、

とある。つまり、

光を当てる、

意であるが、「照る」には、いくつかの解釈がある。

人にテラス(照)義(名言通・和訓栞・大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、
ひけらかし売る意で「照る」の他動詞形(日本語源=賀茂百樹)、
「てらふ」の意(小学館古語大辞典)、
テリ(光)ハヒの約。ハヒは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

どうも、元々の意は、

自矜、

と、自らを売り込むために、自分を光り輝かせる、という意味であったのではあるまいか、と疑問を感じたが、元々の「衒」という漢字自体が、

通じて眩に作る、

とあり(字源)、

誇衒、

という言い方で、見せびらかす意のほかに、

自ら己をとりもちて世に広告する、自ら行きて、てらひ賣る、

という意味がある。

估衒、

というように、

衒女不貞、衒士不信(越絶書)、

と、

自己の美貌学才などを自ら世に広告する者、

の意で使われる。「売る」という意味は、「てらふ」に、

衒う、

と当てて以後、「衒」の漢字の意味から出たのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;
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2019年11月20日

手前味噌


「手前味噌」は、

手味噌、

ともいう。

自分のことを誇ること、
自慢、

の意である。一般には、「手前味噌」の語源は、

自前の味噌、
自家製の味噌、

の意味とされる。「手前」は、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

に特定されたりするが、点前は、手前とも当てるので、あるいは逆に、点前の用例から、腕前の意になったのかもしれない。さらに、内々の意から、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。その意味では、「手前味噌」の「手前」は、

自前、
あるいは、
自家製、

といった意味であったとみられる。それは、

昔は味噌は各家庭で作られており、それぞれがおいしくなるようにと工夫を凝らしていました。
そして、おいしく出来た味噌を「手前(わたし/自家製)の味噌おいしくできたから食べてみて」と自慢し合うようになった、

とみるhttps://eigobu.jp/magazine/temaemisoのが自然である。戦前までは、多くそうであった。もう少し踏み込めば、

自家製の味噌を独特の味があると自慢する、

意とみる(デジタル大辞泉)、ことになる。

赤味噌の一つ・江戸甘味噌(左)と淡色系の信州味噌(右).jpg

(赤味噌の一つ・江戸甘味噌(左)と淡色系の信州味噌(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)

しかし、異説を、

「手前味噌という際の「手前」は、…『自家製』や『自前』、また一人称の『自分』のことである。 手前味噌の『味噌』は食品の味噌のことだが、現代でも『ポイント』の意味で『味噌』が使われるように、『味噌』には『趣向をこらしたところ』の意味がある。これは各家庭で味噌を作り、それぞれかよい味を出すために工夫を凝らしていたためで、近世には『趣向をこらしたところ』の意味から、人に自慢する様子にも『味噌』が使われた。『手前どもの味噌は…』と自家製の味噌を自慢することから、『手前味噌』という言葉が生じたとするのも間違いではないが、『味噌』という言葉自体に、『自慢』の意味が含まれることから、自分を自慢する言葉として『手前味噌』が使われるようになったと考える方がよいであろう」

と述べるものがある(語源由来辞典)。しかし、逆ではあるまいか、

手前味噌、

という言い方があったから、それをメタファに、

特色とする点、
得意に思っている箇所、

という意味でも使われるようになっただけなのではないか。ことわざに、

手前味噌で鹽が辛い、

というのがある。

自分で作った味噌なら、塩が辛くてもうまいと思うこと、

転じて、

自慢話ばかりするので聞いていて苦しいことのたとえ、

の意である。

「味噌」の「噌」(漢音ソウ、呉音ショウ、慣ソ)は、

会意兼形声。「口+音符曾(層をなして重なる)」

としかない(漢字源)が、別に、

「噌」の字.gif

(「噌」の字 https://okjiten.jp/kanji2400.htmlより)


「会意兼形声文字(口+曾)。『口』の象形(「言葉」の意味)と『蒸気を発する為の器具の上に、重ねたこしきから、蒸気が発散している』象形(「かさねる」、「かさなる」の意味)から、『言葉が積み重なる』、『やかましい』を意味する『噌』という漢字が成り立ちました」

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2400.html

「味噌」は、わが国だけで使うようである。字源には、

大豆を煮て米又は麦の麹と鹽とを和して醸す、

と載り、

豉(シ)、

と同じとある。「豉」は、

豆と鹽とを和して作りし食品(幽尗)、味噌の類、

とある。「豉」は、

くき、

と訓ませ、新撰字鏡に、

「豆を原料とした食物。味噌・納豆(なっとう)の類とも、たまりの類ともいう」

とある(精選版 日本国語大辞典)が、「納豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.htmlで触れたように、

「中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ」

ので(日本語源大辞典)、

塩鼓、

つまり、

浜名納豆、
寺納豆、
大徳寺納豆、

の意味である。「味噌」については、項を改める。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:手前味噌
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