2019年11月21日

点前


「手前」は、「手前味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471631451.html?1574193427で触れたように、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。茶道では、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

の意で使う。手元で、

茶を点(た)てるから、

点前、

というのかもしれないが、茶道では、お茶を点てることを、

点前(てまえ)

と呼び、

お茶を点てる道具を茶席に運び出して置きつけ、客の前で茶器、茶碗などを清め、茶碗をお湯で温め、そこへ抹茶を入れ、湯を注ぎ、茶筅でかき回す。点てた抹茶を客へ出す、最後に使った道具をもう一度、清めて、元の場所へ片付け、道具を持ち帰る、

という茶を点ずるための順序,手続、作法を、

点前、

と呼ぶ。もっともどの範囲を指すかは、素人にはわかりにくく、

茶道の作法のうち茶を点てたり,炉や風炉に炭を入れる所作(炉または風炉に炭を入れる所作は炭手前)、

という言い方(デジタル大辞泉)と、

茶の湯において茶を点(た)てたり、炭を置く行為、

という言い方がある(日本大百科全書)。運び入れ、運び出しは、入れないようであるが、準備と後片付けを入れないのは、茶道という限り、ちょっと納得しかねるのだが。

「点前」は、古くは、

手前、

と当てていたが、現在は、炭を置く行為である、

炭手前、

にのみ手前の字を使い、ほかはすべて点前の字をあてている。たとえば、

盆点前、
運び点前、
棚点前、
茶箱点前、

等々。「点」について、

「『小さな目印』という意味。つまり「少量のお茶を作る事」という意味で「点前」という漢字が使われるのです。
『点』という文字は『点眼』『点鼻』などにも使われますよね。どれもみんな『少量をさす』という意味があると思います」

という説明https://plaza.rakuten.co.jp/kaporinfukufuku/diary/200706080000/があったが、ちょっと疑わしい。

チャヲタツル、

という言い方が室町末期の日葡辞書に載る。

かき回して整える、

意とある(広辞苑)が、「立つ」http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.htmlで触れたように、「立つ」の語源は、

タテにする、
地上にタツ、

である。「たつ」の意味の、

抹茶を点てる様子.jpg

(抹茶を点てる様子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6より)


上方へ向かう運動を起こさせて、目立たせる、
とか、
行為や現象の度合いを高めて、目立たせる、

といった含意の中、

薬を水に立てて、

という用例のように、

かき混ぜて、泡立たせる、

意である(この場合「点つ」と当てる)。「茶を点てる」とは、そのままの意ではないか。大言海も、

茶を立つとは、抹茶を湯にかきまづ、

としている。あるいは、日本語源広辞典の、

湯気をまっすぐ立ち昇らせる、

意とするのも、「たつ」の含意から見てあり得る。「点前」は、

「中国宋(そう)代の茶書『茶録』に『点茶』とあって、点前の語の初見となっている」

とあり(日本大百科全書)、炭手前の他は、流派によって違うが、

ふつうの点前を平(ひら)点前

といい、

薄茶(うすちゃ)点前

濃茶(こいちゃ)点前

とがある、とか。

竹台子総飾りを客付き(台子の正面に向かって右側)からみたもの.jpg

(竹台子総飾りを客付き(台子の正面に向かって右側)からみたもの https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AD%90より)


『南方録(なんぽうろく)』によると、茶の湯の点前が初めて行われたのは、

「将軍足利義教が後花園(ごはなぞの)天皇を招いて饗応したあと、寵臣赤松貞村(さだむら)が水干(すいかん)・折烏帽子(おりえぼし)姿で披露した台子(だいす)点前が最初であったということになっている。それは、天皇拝領の唐物(からもの)道具を使った台子による3種極真荘(ごくしんかざり)の点前であった。現存する『室町殿行幸御餝記(おかざりき)』(徳川美術館蔵)によると、永享(えいきょう)9年(1437)10月21日のことであって、二か所に茶湯所がしつらえられており、そこで点前が披露されたことになる。『海人藻屑(あまのもくず)』(1420)に「建盞(けんさん)ニ茶一服入テ、湯ヲ半計(なかばばかり)入テ、茶筅(ちゃせん)ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるので、貞村の点前とはこうした点て方であったと考えることができる」

とある(仝上)。ちなみに、「台子・臺子」(だいす)は、

茶道の点前に用いる茶道具で、水指など他の茶道具を置くための棚物の一種。真台子・竹台子をはじめとして様々な種類がある、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AD%90。こののち、やがて、

「草庵(そうあん)茶の成立とともに炉(ろ)の点前が考案されていった。興福寺別当光明院の実堯(じつきょう)による『習見聴諺集(しゅうけんちょうげんしゅう)』に記載された『古伝書』(1604、05写)には、「いるり(囲炉裏(いろり))の立様之事」「薄茶之立様之事」があって、台子を使った風炉(ふろ)と炉の濃茶と薄茶の両様の点前が記述されている。その後、わび茶の大成するにつれて茶席の極小化が行われ、千利休(せんのりきゅう)による「一畳半の伝」といわれるような運び点前が成立し、点前の基本がすべて整ったのである」

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:点前 手前
posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月22日

戦いの痕


大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』を読む。

存在の探求上.jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、

存在の探求,

と題された前半である。収録されているのは、

梶井基次郎『櫻の木下には』『闇の繪巻』
北條民雄『いのちの初夜』
中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異』
稲垣足穂『彌勒』
椎名麟三『深夜の酒宴』『スタヴローギンの現代性』
埴谷雄高『死霊』『存在と非在ののっぺらぼう』『夢について』『可能性の作家』『不可能性の作家』
武田泰淳『ひかりごけ』『滅亡について』

である。いずれも、何回か読んだことがある。この中で、群を抜くのは、

埴谷雄高『死霊』

である。これについては、別途触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.html?1574308068が、存在とのかかわりを、自己意識側から、広げるだけ広げて見せたというところは、他に類を見ない。特に、本書に納められた、一~三章は、文章の緊張度、会話の緊迫度、無駄のない描写等々、のちに書き継がれた四章以降とは格段に違う、と僕は思う。

俺は、

と言って、

俺である、

と言い切ることに「不快」という「自同律の不快」とは、埴谷の造語であるが、少し矮小化するかもしれないが、

自己意識の身もだえ、

と僕は思う。埴谷は、自己意識の妄想を極限まで広げて見せたが、「存在」との関わり方には、

自分存在に限定するか、
世界存在に広げるか、

その世界も、

現実世界なのか、
或いは、
自然世界なのか、

で、方向は三分するように思う。『いのちの初夜』は、自分の癩に病にかかったおのれに絶望して、死のうとして死にきれず、

「ぬるぬると全身にまつわりついてくる生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それはとりもちのような粘り強さ」

の生命を意識する。そして同病の看護人の佐柄木に、

「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」

と言われる。その生命そのものになった己を受け入れよ、と言われる。

「あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこからくるか、考えてみて下さい。ひとたび死んだ過去を捜し求めているからではないでしょうか」

似た発想は、稲垣足穂『彌勒』にもある。主人公、

「江美留は悟った。波羅門の子、その名は阿逸多、いまから五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、さきの釈迦牟尼の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと」

ここにあるのは、自己意識の自己救済の妄想である。しかし、それは、叔父の用意した紅白の、輪を作った綱を示されて、

「咄嗟に思いついて、その綱の輪を首にかけた。そしてネクタイでも締めるようにゆるく締めてから二、三度首を振った」

主人公の、現状の悲惨な状況を無感動に受けいれているのと、実は何も変わってはいない。

「そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生まれてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきり予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止った。そして何となくあたりを見廻したのだった。すると瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立止って何となくあたりを見廻したことがあるような気がした。……この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化も何の新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。……たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ―と僕は自分に尋ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった」

「認識」と己に言い切らせる限りで、自己意識は、まだおのが矜持を保っているが、それはそのまま今のありように埋もれ尽くすという意味では、より絶望的である。それは、

絶望を衒う、

といってもいい。

それにしても、しかし、いずれも、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのように、

神の作ったこの世界を承認することができない、

という、

「僕は調和なぞほしくない。つまり、人類に対する愛のためにほしくないというのだ。僕はむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえ僕の考えが間違っていても、あがなわれざる苦悶と癒されざる不満の境に止まるのを潔しとする」

境地から後退してしまうのだろう。埴谷も椎名も、ともに投獄の経験を持ち、そこから後退したところで、身もだえしているように見える。確かに、

戦いの痕跡、

はある。しかしそれで終わっていいのだろうか。そこには、日本的な、余りにも日本的な、

自己意識の自足、
か、
自然への埋没、
か、

しかないのだろうか。今日の日本の現状を併せ考えるとき、暗澹たる気持ちになる。

参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2019年11月23日

うつらうつら


「うつらうつら」とは、今日、

しきりと眠りを催し、浅く眠ったり覚めたりするさま、

の意で使う。

うとうと、
うつうつ、
うつっ、
とろとろ、
とろり、

等々の類語がある。しかし、「うつらうつら」は、万葉集では、

なでしこが、花取り持ちて、うつらうつら、見まくの欲しき、君にもあるかも(船王〈ふなのおおきみ〉)

と歌われ、そこでは、

まのあたりにはっきりと、

という意味である。「うつつ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/415235904.htmlで触れたように、この「うつ」は、

現(うつつ)、

の意味である。「うつつ」は、ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた

「ウツ(現実)+ウツ(現実)」

の約で,目覚める意であった。しかし,『古今集』で「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。そのため、「うつらうつら」の「うつ」を、

現、

の意とする説がある。つまり、

「うつ(現)し」などの「うつ」に接尾語「ら」の付いた「うつら」を重ねた語(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「うつうつを約めて、うつつ(現)と云う。うつに助辞のらの添はりたる語」(大言海)、

で、本来の意は、

目の当たりにはっきり、

という意味であるが、「うつつ」の意味が、夢うつつの状態に変わったのに合わせて、

うとうと、
とろとろ、

の意になった、とするものである。しかし、別に、

「『うつ(空)』に接尾語『ら』の付いた『うつら』を重ねた語」(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「『うつろな目』など『空虚』を意味する『うつ』」(語源由来辞典)、
あるいは、
「『ウツロウツロ(意識が空)』」

とする説がある。しかし、この意味は、はじめから、

浅い眠りにひきこまれるさま、

の意で使われており、あるいは、由来を別にするのかもしれない。半ば眠り半ば冷めているような状態の意で「うつらうつら」が使われ始めたのは、室町時代で、

「本来は、『うつらうつらと~する』のように、気の抜けた状態で何らかの行動をする時に用いた」

が(擬音語・擬態語辞典)、

「江戸時代になってから、特に睡眠と結びつき、現在のような意味で用いられるようになった」

とある(仝上)。こうみると、「うつらうつら」は、

現(うつつ)、

の意味のそれと、

空(うつ)、

の意味とは、別の由来と思われる。

「『目もうつらうつらに鏡に神の心をこそはみつれ』(はっきりと鏡に映るように神の本心を見た)』(土佐日記)のように、古くは全く逆の意味で使われていた。これは『現(うつつ)』を語源とする別の語と言われる」

とあるように(仝上)、「うつらうつら」の「うつ」は別であったが、「うつらうつら」の意味が、「うとうと」の意味に転じたとき、重なってしまったもののようである。

「うとうと」は、大言海は、

「うつらうつらのらを略したる、うつうつの轉なり(鴇(つき)、トキ)、ウを略してツラツラが、とろとろと轉じ、トロリと眠るなどと云ふ」

とする(大言海は、「とろとろ」も「うつらうつら」の略轉としている)が、これだと、「うつらうつら」が「現」由来なら辻褄が合うが、「空」由来なら、帳尻があわない。やはり、

「『うとうと』の『うと』は『う(っ)とり』の『うと』と同じく『うつ(空)』の変化した『うと』を重ねた語で、原義は『意識がなくなっている状態』を表す」

という説明(擬音語・擬態語辞典)が妥当に思える。「うとうと」が気の抜けた状態を意味したせいか、

「江戸時代には『うとうととありく春日野の里 座頭の坊三笠に杖をくくり付』(犬子集)のように、『歩行などがたどたどしいさま』の意を表す『うとうと』もあった。江戸時代、身体の機能が十分でない様子をいった『疎い』と関連する語と思われる」

との説明もある(仝上)。「疎(うと)し」は、

「空遠(うつとほ)しの約にもあるか」(大言海)、

なら「うつ(空)」と関わるが、

「ム(身)ト(外)シの転か。わが身が対象に対して疎遠な状態にある意」(岩波古語辞典)、

となると、「うとうと」の語源を改めて考えなくてはならない。しかし、

「『うと』は『うつろ』『うつほ』の『うつ』と同じく、空虚・からっぽを意味する」(日本語源大辞典)、

で落ち着きそうである。

日本語語感の辞典によると、「うとうと」は、

「『うつらうつら』よりさらに意識が薄れている状態」

らしい。

「『うとうと』は浅い眠りが持続する状態で、…『うつらうつら』は浅く眠ったり、覚めたりを繰り返す状態」

という(擬音語・擬態語辞典)。

ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、「とろける」の「とろ」である。

「トロはとろく(蕩く)のトロと同じ」

であり(岩波古語辞典)、室町末期の日葡辞書には、

「溶け、または軟化するさま」

とあり、「とろとろ」「とろり」は、蕩けた状態をメタファに、

心の締まりがなくなる

気持ちよくうとうと眠る

避けに快く酔ったさま、

のような使い方をしたもののようである。ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、

「眠気を催したり浅い眠りに入る様子を表すのに対して、『うとうと』は心地よい半眠りの様子」

とある(擬音語・擬態語辞典)。「とろとろ」は「うつらうつら」に近い。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:01| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月24日

味噌


「味噌」の字については、手前味噌http://ppnetwork.seesaa.net/article/471631451.html?1574193427で触れた。「味噌」そのものの起源には、

中国伝来説、
日本独自説、

の二説があるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C

味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市のまるや八丁味噌).jpg

(味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市のまるや八丁味噌) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)


中国伝来説は、

古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説、

である。醤(ひしお)は、中国語では同文字を jiàng (チァン)と発音するペースト状の調味料で、原料によって、肉のものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、穀物のものは穀醤と呼ぶ。日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当することになる(仝上)。

「語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、『主醤』という醤を管理する役職の記述もある」(仝上)

日本独自説は、

古く弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている(仝上)。

「現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に『未醤』(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また『末醤』とも書かれ、『大宝令』(大宝元年(701年))の『大膳職』条では『末醤』と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は『謹啓今忽有用処故醤』、裏には『及末醤欲給恐々謹請 馬寮』と書かれた木簡が発掘されている」(仝上)

中国由来説は、豉(くき)をミソの前身とするものである。「豉」については、

納豆http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.html)、

で触れたように、

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

鑑真が持ってきたのは、豉ではないか、とする(たべもの語源辞典)。で、たべもの語源辞典は、味噌日本独自説を、こう展開する。

「日本列島の原住日本人は、海水から塩をとることを発見していたが、この保存に苦しんだ。海水からとった塩は、岩塩と違って、ニガリが多く、空気中の湿気をすぐとけて液体となり、流れ去ってしまう。この保存法として塩と食物を一緒にすることを考えついた。ダイズと塩を合わせることは、最も早く行われた。ダイズは、日本列島にコメよりも早く栽培されていた。アメリカのダイズは、日本のダイズをもっていったものである。醤というたべものは塩の保存法として生まれた。完全な醤になる前の状態のもの、未完成のものという意味で未醤(みそ)という名称が生まれた。(中略)中国から豉が入り韓国からも醤が入ってくる。これらを参考として日本のミソは生まれたものである」

と(仝上)。つまり、「味噌」の原点は、にがりの多い、海水由来の塩をどう保存するかから生まれた、という発想は、是非はともかく面白い。

「醤」から始まっても、日本独自に発展したにしても、「未(末)醤」から、

「未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、『倭名類聚抄』(934年頃)や『塵袋』(1264-1287年頃)という辞書に書かれている」

と、「味噌」は始まることになる(仝上)。古く、

「天平二年(730)、尾張の醤・未醤が奈良朝廷に納めたという記録がある」

とか(たべもの語源辞典)。

鎌倉時代の『塵袋』には、

「味噌という字は正字かあて字か、正字は末醤であり、書きあやまって未醤となった」

と(たべもの語源辞典)し、

「末というのは搗抹することで、未せぬものは常のヒシホで、末したものがミソである」

と論じているとか。しかしこの論は、誤りとするのが江戸後期、文化末年(1818)の『松屋筆記』(小山田與清)で、

「未とすべきを味とし、醤を曾とし味噌となった」

とする。江戸中期、享保四年(1719)の『東雅』(新井白石)は、

「高麗醤を弥沙(ミソ)という、醤をヒシホというが、ヒがミに転じ、シホはソと転訛シタノガ、ミソである」

としているという(たべもの語源辞典)。大言海が「みそ」に、

味噌、
味醤、

と当て、

「韓語なり。東雅『宋の孫穆の鶏林類事に、醤を密祖と云ふ』とあり、今も然り、和名抄に、高麗醤の称あり、證とすべし、同書に末醤(マツシヤウ)を未醤(ミシヤウ)と誤れりとの説、或いは、唐僧、鑑真、嘗めて未曾有と称したるに起こるなど云ふ皆付会なり」

とするのは、東雅に基づいている。和名抄には、確かに、

「未醤、高麗醤、美蘇、俗用味噌二字」

とある。

朝鮮語miso(密祖)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

も同説である(日本語源大辞典)。江戸初期の、慶長一九年(1614)の『慶長見聞集』(三浦茂信)に、殿上人がミソをヒクラシというから味噌を虫というのだと書いてある(たべもの語源辞典)が、これは、

「古く味噌を香(かう)ともいうが、香の名に『ひぐらし』があるので味噌をヒクラシとよんだ」

ところによるらしい(仝上)。

鑑真が嘗めて、未曽有といったとか、文徳天皇のときに唐僧湛誉が来朝して献上した等々はみな誤りのようで、

「天平時代日本において独自の製法が工夫され、日本的に完成されていた」

と、たべもの語源辞典はいう。ただ、経緯から、それが、

未(末)醤、

なのか、

味噌、

なのかの区別は、後世ではつかない。「味噌」の語源として、

蒸し→みそ、

とする説がある。

「お蒸しmusi、omusiが、音韻変化によりmiso、omisoになった」(日本語源広辞典)
「秋大豆を蒸してつき砕くところから、岡山県・滋賀県神埼郡では味噌のことをムシ(蒸し)という。女性語のオムシ(お蒸し)は近畿・福井・大垣・岡山県小田郡・四国で用いられ、石川・三重県阿山郡では転音してオモシという。このムシ(蒸し)の転音がミソ(味噌)であった」(日本語の語源)

しかし、この言葉は、後世のものとみられる。

(左から)麹味噌・赤味噌・合せ味噌.jpg

((左から)麹味噌・赤味噌・合せ味噌 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:味噌
posted by Toshi at 05:07| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

みやげ


「みやげ」は、

土産、

と当てる。

ミアゲ(見上げ)の転、

とあり(岩波古語辞典、広辞苑)、

見上げ、

の項で、

ミヤゲの古形、

とあり、

よく見、えらんで、人に差し上げる品物、

とある(岩波古語辞典、広辞苑)。

しかし、日本語源大辞典は、

「『見上げ』の転といわれるが、『みあげ』『みやげ』の前後関係は明らかでなく、したがってその語源もはっきりしない」

と否定的である。「見上げ」とは、

上の方に視線を注ぐ、仰ぎ見る、

意で、そのメタファで、

人物・力量などが優れていると認める、

意であり、名詞としては、

まびさし、

つまり、

兜の鉢の前方から。庇のように出て、額を深く覆うもの、

と、やはり、「見上げる」に関わる言葉である。それと、

お土産、

の「みやげ」とのつながりははっきりしない。大言海は、

「都笥(ミヤコケ)の義。宮倉(ミヤケ)より都へ持って上がれる由にて、云へるにかと云ふ」

とする。

ミヤケ(宮笥)の義か(志不可起)、
ミヤケ(宮倉)の義か(三余叢談)、
ミヤケ(都帰)の義(言元梯)、
ミヤコケ(都笥)の義(日本釈名・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

も、ほぼ同趣旨とみられる。日本語源広辞典は、

宮(伊勢神宮)+ケ(筐)、

とする代参の御礼の意、とする説も載せるが、同趣の説を、

「寺社仏閣を参詣した証拠の品として、神札などの授かりものを故郷に持ち帰るのが、おみやげの原初的な形態。伊勢神宮で購入された神札「神宮大麻」もおみやげの元祖のひとつ」

と載せる(https://jisin.jp/life/living/1658791/)ものもある。

しかし、「土産」を、

ドサン、
あるいは、
トサン、

と訓ませると、

土地の産物、

の意であり、

みやげ、

の意もある。この「土産(ドサン)」は、中国語である。宋史・張齊賢傳に、

「齊賢詢知云々、虔州土産銅鐵鉛錫之數」

遼史・食貨史に、

「太平初幸燕、燕民以年豊、進土産珍異、上禮高年、恵鰥寡、賜酺連日」

とある(大言海)。「土産」は、「どさん」と訓んで、

土地の名産、

の意で用いていたので、「みやげ」とは別の言葉であった。「みやげ」の意では、万葉集の大伴家持の歌に、

家苞に貝そ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど

と、「家苞(いへづと)」という言葉があった。「家苞」は、

家へ持ち帰る「みやげ」であった。「みやげ」の言葉の由来は、どうも明確ではないが、「土産」に当てられたのは、

「『易林節用集』に『土産』の訓として『ミヤゲ』『ドサン』があり、『日葡辞書』には、『ミヤゲ』『トサン』に同様の語釈が施されていることなどから、『とさん』と混用され、『みやげ』に『土産』の字を当てるようになったのは室町末期以降と考えられる」

というところのようである(日本語源大辞典)。

「土産」は、

土産物の略、

ともある(諸橋大漢和)ので、たとえば、

「『旅先で求めて持ち帰る、その土地の産物』をミヤゲモノ(土産物)という。その語源は、モチカヘリアゲルモノ(持ち帰り上げる物)で、その省略形ノモチアゲモノが、モチ[m(ot)i]の縮約で、ミアゲモノになり、『ア』に子音[j]が添加されてミヤゲモノになった」

という音韻変化を辿る(日本語の語源)のも正攻法かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:みやげ 土産
posted by Toshi at 05:14| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月26日

點心


「點(点)心(てんしん)」は、

てんじん、

とも訓む。中国語である。

あひだぐひをする、

の意で、河東記に、

「板橋三娘子、置新作焼餅干食牀上、與客點心」

とある(字源)。また、転じて、

其の食物、菓子の類、

ともあり(仝上)、輟畊(てつこう)録に、

今以早飯前及午前後小食為點心、

とある(仝上)。つまり、

早飯前と飯後・午前・午後に食べる小食のこと、

であり、どうやら、

一時の空腹をいやすための少量の食事、

のことである(たべもの語源辞典)、らしい。中国の食事は、大きく分けて、

飯(主食),
菜(副食),
湯(スープ)、
点心(間食,小食)

となる(世界大百科事典、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83)。「点心」は、

ツァイ(菜,料理の意)に対するもので,麺(めん)類,シューマイ,ギョーザなどの軽食や菓子、

をいう(百科事典マイペディア)が、「点心」は、

鹹(かん)点心(塩味),
甜(てん)点心(甘味),
小食(鹹,甜以外のもの),果物

に、分類される(世界大百科事典)、という。「点心」は、解釈が多く、たとえば、

「めん類,ギョーザなどは,食べる時により飯になったり点心になったりする」

ので、食べる時間帯によって

早点(朝御飯)
午点(おやつ)
晩点(夜食)

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83が、

間食,非時の食,小食、

としておくのがいいようである(仝上)。

「点心」という名前は

「禅語『空心(すきばら)に小食を点ずる』からきたという説や、心に点をつけることから心に触れるものと言う説がある。明確な定義はないが、食事の間に少量の食物を食べることなので、菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれる。中国の朝食は点心ですまされる事が多い」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83、間食や軽食をさすという意味では、

茶の湯の料理である懐石も,本来は同義、

と考えられる(百科事典マイペディア)。

日本には室町時代に伝来し、朝食と夕食の間に食べる箸休めの品とされ、

「『間食』の意に用いられる語となった」(たべもの語源辞典)

が、当時は1日2食が普通だったので、朝と夕の間、と幅が広い。

『七十一番職人尽歌』(室町時代)だと、

饅頭を点心とよんでいる、

とある(たべもの語源辞典)。「点心」は、

「字義は、胸に点ずるという意味で、僅かなものをすすめるということで、茶のこ、茶うけなどといい、小食をとることと同じ意味」

である(仝上)。『庖丁聞書』(16世紀後半)、『禅林小歌』(応永年間(1394~1427))には、

点心とは、腹心に点加する意であり、禅家では、昼食の意に用いるようになる、

とあり、『浮世草紙』(元禄期)には、

「侍は中食といひ、町人は昼食といひ、寺がたは点心と云、道中はたご屋にては昼息といひ」

とあり、「点心」は、どうやらこの時期、

昼食、

の意に落ち着いてきたようである(たべもの語源辞典)。

で、『貞丈雑記』(天保四年(1843))には、

「朝夕の飯の間のうどん又は餅などを食ふをいにしへは点心と云今は中食(ちゅうじき)又むねやすめなどといふ」

とあり、『類聚名物考』(宝暦三年(1753)~安永九年(1780))には、

点心は、俗にいう茶子(ちゃのこ)である。飯粥の類ではない、菓子の類で、心を点改する故に点心という。禅家のことばとのみ思ってはいけない。唐の時にすでにあったことばである、

とある。『嬉遊笑覧』(文政十三年(1830))には、

点心は、食後の小食である、蒸菓子の類を点心とする、

とある。

なお、「点心」には、豆沙包子(あんまん)、桃包(タオバオ、桃饅頭)、月餅等々の甜点心(てんてんしん)、餃子、焼売、春巻、ラーメン、チャーハン等々の鹹点心(かんてんしん)があるが、詳しい内容は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83に譲る。

ついでながら、

飲茶(ヤムチャ)

とは、

お茶を飲むこと、

であり、

中国茶を飲みながら点心を食べる行為、

を指す。

香港の飲茶.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:点心 飲茶
posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月27日


「麩」は、

ふすま、

と訓むと、

小麦をひいて粉にするとはに残る皮の屑、

を指し、

麬(フ)、

とも当てる。

もみじ、
からこ、
むぎかす、
こがす、

ともいう。

洗い粉、牛馬の飼料にする(広辞苑)。普通小麦 100に対し,22~25%の比率でできる、という(ブリタニカ国際大百科事典)。

「麩」(フ)は、

「形声。『麥+音符夫(皮)』で、平らに散りしく穀皮の意」

とあり(漢字源、日本語源広辞典)、「麩」は、

ふすま、
むぎかす、

の意である。いわゆる「おふ」の意で使うのは、わが国だけらしい。大言海は「麩」の項で、

「ムギカス。小麦粉のフスマ。即ち、洗粉に用ゐるもの。中世、誤りて、豆腐皮(トウフノウバ)に此字を用ゐたり(鹿苑日録)」

と記す。「麩」は、中国では、

麺筋(麪筋、めんきん、麵筋/面筋、miànjīn)、

と呼ばれ、宋代に書かれた『夢渓筆談』にもその名が登場する。日本では、

「『麩』という字で麬(ふすま)を指し、後にその加工品である麪筋にもこの字が当てられた(『本朝食鑑』)また、小麦そのものが中国大陸から伝来されたことから唐粉(からこ、殻粉)とも称した。鎌倉時代には唐粉を宮廷に貢納する供御人(唐粉供御人)がいた。「麩=ふ」としての最古の記録は南北朝時代に書かれた『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に登場する「フ」の記述である」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9

いまの製法は、

「小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。生麩を油で揚げると揚げ麩になる。生麩を煮てから成形して乾燥させると乾燥麩になる。(中略)グルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。」

とある(仝上)が、昔の作り方は、

「小麦粉のフスマと分離しない粗い粉を桶に入れて水でこねる。足で踏んでねばり気が出てから桶の下にざるを置いて、その上でこね粉を取り入れて、水をかけながらもむと、澱粉はほとんど洗い流されて、ざるの目から桶の底に沈む。これが『しょう麩』になり、ざるの中に残ったねばったものが『なま麩』になる」

とある(たべもの語源辞典)。

中国では麩の原料のグルテンを、

麩質(ふしつ、麩質/麸质、fūzhí)、
もしくは
麩質蛋白(ふしつたんぱく、麩質蛋白/麸质蛋白、fūzhídànbái)、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9らしいが、

「麩質は主に外皮の内面にある。麩(フスマ)と分離せぬ粗粉を用いる」

のは、そのためのようである(たべもの語源辞典)。室町時代初期に明から渡来した禅僧によって製法が伝来したが、

「僧院がこれを用いたので、在家では、精進のたべものと考え、仏事・法要以外には常用しなかった」

もの(たべもの語源辞典)が、次第に、貯蔵食品として重用され、年中食べ物で、乾燥四天王、

麩、
湯葉、
凍豆腐、
椎茸、

のひとつとなった(仝上)。

麩の種類は、

生麩(なまぶ、俗に蒸麩(むしふ)ともいう)、
焼麩(やきふ)、
揚げ麩(あげふ)、
乾燥麩、

等々があるが、生麩には、

「竹輪形にした竹輪麩、すだれでおしつけた形のある簾麩、すだれふに似て厚い相良麩、また御所麩とよばれるものもある」

焼麩には、

「四角の板形の板麩、角麩、渦を巻いた黄渦麩(うづぶ)、菊の花形をした菊麩、切った切麩、主に金魚の餌になる金魚麩、車の形にした車麩、丸形にして中に筋模様のある観世麩、小型の罌粟麩、七色の色分けになった七色麩、牡丹の花型をした牡丹麩、紅葉の形をした楓麩(もみじぶ)がある」

とある(たべもの語源辞典)。

一般的な焼き麩.jpg

(一般的な焼き麩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル: ふすま
posted by Toshi at 05:01| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

にわか


「にわか」は、

俄、

と当てる。

急に変化が現れる、

意で、

だしぬけ、
すぐさま、

という意である(広辞苑)。「俄」(ガ)は、

「会意兼形声。我(ガ)は、厂型に折れ曲がり、ぎざぎざの刃のついた熊手のような武器を描いた象形文字で、われの意に用いるのは当て字。俄は『人+音符我』で、何事もなく平らに進んだ事態が、急に厂型にがくんと折れ曲がる意を含む」

とあり(漢字源)、「にわかに」「急に」の意である。昨今、

俄ラグビーファン、

が急増したという使い方で、おなじみである。語源は、

イマカ(息間所)の義(言元梯)、
急なことは、一、二と分かずの意か(和句解)、
ニはニヒ(新)から分化した語か。カは形容語尾(日本古語大辞典=松岡静雄、国語の語根とその分類=大島正健)、

等々諸説あるが、はっきりしない。ただ、この

にわかに、

の意からきていると思うが、「俄」は、

俄狂言、

の意で使われる。「俄」は、

仁輪加、
仁和歌、
二和加、

等々、さまざまな当て字を使う、

宴席や路上などで行われた即興の芝居、

の意だが、

またの名を茶番(ちゃばん)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84のは、後世、混同されたのちのことで、本来、

茶番(狂言)、

俄(狂言)、

とは別である。そのことは、茶番http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.htmlで触れた。

茶番、

にわか、

は、素人芸としてひとくくりにされているが、「俄」は,

「俄狂言の略。素人が座敷・街頭で行った即興の滑稽寸劇で,のちに寄席などで興業されたもの。もと京の島原で始まり,江戸吉原にも移された。明治以後,改良俄・新聞俄・大阪俄といわれたものから喜劇劇団が生まれた。地方では,博多俄が名高い。茶番狂言。仁輪加。」

とある(広辞苑)。岩波古語辞典に、「にはか」について、

「もと、座興のために素人が演じた…洒落、滑稽を主とした一種の茶番狂言。享保頃遊里に発生し、後、専門の芸人が演ずるようになった」

とある「一種の茶番狂言」という言い方が正確である。あるいは、

「俄、つまり素人が演じたことからこう呼ばれる。あるいは一説に、路上で突然始まり衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84通り、

「享保年間(1716~36)、大坂住吉神社の夏祭の行列で、素人が行った即興劇を起源とするという」

ともある(日本語源大辞典)。あるいは、

「享保元文の頃、二羽屋嘉平次の頓作をはやして『二羽嘉』と称したところから思いついて、提灯に『二〇加』と書いて頓作を流して歩いたことから」

という説(話の大辞典=日置昌一)もある。すでに、

「天和時代の京島原遊廓に源流の芸が存在した。安永時代 (1772 – 1780年)の諸書に俄の芸が登場する」

らしい(仝上)。いずれにしても、関西発祥で、大阪で最も盛んにおこなわれ(仝上)、各地に俄が伝わり、

大阪俄、
博多俄、
肥後俄、
佐賀俄、

等々があるらしいが、各々の地域が俄と呼んでいる内容は

①オチのついたコント、②踊り、③獅子舞、④仮装、⑤行列、⑥山車や屋台などの造り物、

と多岐にわたる、という(歌舞伎研究者・佐藤恵理、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84)。

それが江戸にも伝わった。大言海には、こうある。

「俄に趣向をつけて、当意即妙、道化滑稽(おどけ)の事を演ずるもの。江戸、新吉原にては、男女芸者、廓内の街道を演じて行く。これ毎年、秋期、陰暦八月おこなはるるなり」

と。

歌麿 青楼仁和嘉全盛遊.jpg

(喜多川歌麿「青楼仁和嘉全盛遊 豊年太神楽」吉原で8月の最大の行事、仁和嘉(俄)の一場面を描く。即興の狂言や踊りながら練り歩く様は人気を呼び、天明、寛政の頃に最高潮に達した。歌麿は同じ表題で寛政中期と享和期に2種類の揃物を描いている。後者は俄踊りの外題と演ずる芸者の名前が記される。本図は豊作を祈願あるいは感謝する神楽に基づく俄を取材している http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/ukiyoe/esi/kitagawa/d_kitagawa12.htmlより)

歌麿 青楼仁和嘉 女芸者之部.jpg

(喜多川歌麿 青楼仁和嘉 女芸者之部 江戸時代青楼すなわちここでは吉原の各種行事に際して、男女の芸者たちが思い思いの扮装をこらして郭内を練り歩き、行事ににぎわいをそえたそうだが、この図はいわゆるこの吉原俄における当時売れっ子の女たちの若衆姿を描いたものであろう。浅妻船、扇売、歌吉とある http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/goods/02070419.htmより)


しかし、「茶番」は、「茶番」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.htmlで触れたように、山東京山『蜘蛛の絲巻』(弘化)が、

「天明元年の十二月,ある所なる勢家にて,年忘れとて茶番ということありしに,云々,茶番の題は,鬼に金棒,二階から目薬,猫の尻へ木槌など云ふ卑俗の諺なり」

と書くように(大言海)に,お題が,諺から与えられて,何かを演ずる,ということらしい,

「江戸にて,芝居の役者共,顔見世の頃,楽屋にて,茶番,餅番,酒番などとて,其番にあたりし者より饗することあり,色々たはれ(戯)たる趣向を尽くす。此時茶番に当たりし役者の,工夫思ひつきに,景物を出してせしを,云いひなるべし。略して,ちゃばん,にはか(京都)」

と,「茶番」の出自が明らかになっている。大田覃「俗耳鼓吹」(天明)は,

「俄と茶番とは,似て非なるもの也」

としているように、茶番は、あくまで、

江戸歌舞伎の楽屋内、

で発生したもので、

「下手な役者が手近な 物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などをつかいオチにしたことから,この芝居を『茶番狂言』と呼ばれるようになった。此の寸劇では,オチに使ったものを,客に無料で配っていたため,見物客の中には,寸劇ではなく,くばられる品物を目当てに訪れる者もいたといわれる。」

それには、

口上茶番

立ち茶番

とがあったらしい(大辞林)。「口上茶番」は,

身振りを入れず,座ったまま、せりふだけで演じる滑稽を演じるもの,

「立茶番」は,

「かつら・衣装をつけ,化粧をして芝居をもじったこっけいなしぐさをする素人演芸」

となる。

どちらかというと、俄はお座敷芸だが,茶番は,歌舞伎役者の内々の芸,あるいは,落語の前座の芸比べといった雰囲気で,俄が,「喜劇劇団」になっていくのに対して,茶番は,実体を失い,

茶番劇,

と,出来レースというか,見えすいた小芝居,と喩えられる言葉の中にのみ,かろうじて生きている,という感じである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:18| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月29日

弁当


「弁当」は、

外出先で食事するため、器に入れて携える食品、またはその器、

を意味し、転じて、

外出先で取る食事、

の意になった(広辞苑)。「弁当」自体に、「器」の意味があるので、

弁当箱、

というのは、重複した使い方になる。

「弁当」は、

行厨(こうちゅう)、
厨傳(ちゅうでん)、
簞食(たんしょく)、
乾飯(かんぱん)、
破籠(はちょう)、
樏子(るいこ)、

等々の類語がある(日本類語大辞典)、らしいが、和語では、

餉(かれい)、

で、

餉、
乾飯、

とも当てる(岩波古語辞典)。「かれい」は、

乾飯(かれいひ)、

の略で、

旅などに携行した干した飯、

転じて、

携行食糧、

にもいう(広辞苑)。その容器は、「餉(かれい)」を入れる「笥」(け)」で、

餉笥(かれいけ、かれいげ)、

で、

樏子、

とも当てる(仝上)。「わりご」である。「わりご」は、

破子、
破籠、
樏、
割子、
割籠、

等々とも当てる(仝上)。平安頃は、昼弁当を

昼養(ひるやしなひ)、

といった(たべもの語源辞典)。宇治拾遺に、

「奈島の丈六堂の辺にて昼破籠を食ふに」

と載り、「破籠」(わりご)を用いた。

「たべものを入れる器で、その中にしきりがある。割ってあるから『わりご』と呼んだ。今日の折箱のように手軽なものであったから、竹笥(たけささえ 酒・茶・などを入れる物)とともに使い捨てにされたものである。この破子に飯・菜を盛って出したのが弁当」

とある(仝上)。「わりご」は、

「ヒノキなどの白木を折り箱のようにつくり,中に仕切りをつけ,飯とおかずを盛って,ほぼ同じ形のふたをして携行した。古くは携行食には餉 (かれいい),すなわち干した飯を用い,その容器を餉器 (かれいけ) といったが,『和漢三才図会』には『わり子は和名加礼比計 (かれいけ),今は破子という』」

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、

「平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した」(百科事典マイペディア)

らしい。「弁当」の初出は、江戸初期の『老人雑話』(江村専斎)に、

「信長の時分は辨当と云物なし、安土に出来し辨当と云物あり」

とある(大言海)が、これは、

「安土城作事の時、食事の配当に弁ずる」

者の意味であったとする説もある(日本語源広辞典)。また、江戸中期の『翁草』(神沢貞幹)には、

「安土に出来て弁当と云ふ物有り、小さき内に諸道具をさまる」

とある(仝上)し、江戸後期の『和訓栞(わくんのしおり)』にも、

「昔はなし、信長公安土に来て初めて視(み)たるとぞ」

とある。織田信長が安土城普請で、大ぜいの人にめいめいに食事を与えるとき、食物を簡単な器に盛り込んで配ったが、そのとき、

配当を弁ずる意、

当座を弁ずる意、

で、初めて弁当と名づけた(日本大百科全書)ということらしい。しかし、ただ江戸後期の『松屋筆記』には、

「宗二が節用集(饅頭屋本節用集、明応五年(1496)十一代足利義澄のころ)に弁当あれば室町の代の製にて、信長よりも以前の物也」

とあるので、嚆矢は、時代が少し遡るかもしれないが、室町末期の『日葡辞書』には、「bento」が弁当箱の説明で記載されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93ので、この時代には、弁当という器物ができて、それに納められるたべものが一般的に弁当とよばれるようになった(たべもの語源辞典)、ということのようである。

では、この「べんとう(べんたう)」の由来は何か。

岩波古語辞典は、

便当、

と当て、

「不便の対。『便道』『弁当』などは当て字」

とし、

便利なこと、
豊かで不自由のないこと、

の意とし、

弁当、

と当て、

外出などの時、食物を入れて携行する容器、またその食物、

とする。「便利」な意味から、「弁当」として使われた、という趣旨らしい。日本語源大辞典も、

「『弁当』の意は、その由来を中国南宋ごろの俗語『便当』に求めることができる。日本でも『便利なこと』の意で中世の抄物などに用いられている。『便利なこと→便利なもの→携行食』といった意味の変化によって生じたと考えられる」

としている。

「『便道』『弁道』などの漢字も当てられた。『弁えて(そなえて)用に当てる』ことから、『弁当』の字が当てられ、弁当箱の意味として使われた」

と考えられる(語源由来辞典)。

辨えてその用に当てる意。弁当の飯の略(柳亭記)

も同趣である。大言海は、

「面桶(めんとう)の轉。面桶(めんつう)に同じ。漢呉音の別なり」

とするが、

「『飯桶(めしおけ)』を意味する『面桶(めんつう)』を漢音読みした『めんとう』から『べんとう』になったとする説もあるが、歴史的仮名遣いは『べんたう』なので考え難い」

ようである(語源由来辞典、日本語源大辞典)。

弁当と酒を携えて花見を楽しむ江戸時代の人々。歌川広重「江戸名所 御殿山花盛」.jpg

(弁当と酒を携えて花見を楽しむ江戸時代の人々。歌川広重「江戸名所 御殿山花盛」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93より)


江戸時代になると、弁当はより広範な文化になり、旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。

「腰弁当とは、おにぎりをいくつかまとめたもので、竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした」

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93、「幕の内弁当」は、江戸時代に始まった。

「能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)にこの特製の弁当を食べていたため、『幕の内弁当』と呼ばれるようになったという説が有力である」

とある(仝上)。江戸時代になり弁当は大いに発達し、容器もいろいろくふうされてきた。提重(さげじゅう)というような豪華なものもできたが、一般には漆器、陶器、木箱などの弁当容器が使われた(本大百科全書)。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景  東海道品川御殿山ノ不二」.jpg

宴に興じる三人.jpg

(葛飾北斎 「冨嶽三十六景  東海道品川御殿山ノ不二」 桜の花の下で弁当を広げ、宴に興じる三人が描かれている https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai038/より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:15| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2019年11月30日

五反百姓出ず入らず


五反百姓出ず入らず(ごたんびゃくしょうでずいらず)、

という諺がある(臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』)。手元のことわざ辞典にも載らないが、

五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言う事、

とあるhttp://the-kotowaza.seesaa.net/search?keyword=%E4%BA%94%E5%8F%8D

反(段)、

とは、

三百歩(坪)、

で、約千(991.7)平方メートル。十反で一町、約百(99.17)アールである。

江戸時代の農村.jpg



寛政六年(一七九四)の『地方凡例録(じかたはんれいろく)』(大石久敬)「作徳凡勘定之事」では、

「農夫作徳(サクトク)の儀ハ、賦税の高下、土地の善悪、米穀并に肥養價(ヒヨウアタヒ)の尊卑、用水掛引の損益等にて、国々村々一定せずして作徳の多少ハ悉く差(タガヒ)あり……一概の勘定ハ會て成りがたしといへども、国政に携ハる人は此大旨を知ずんばあるべからず、故に此概略(アラマシ)を左に記す。仮令バ上州群馬郡(グンバゴホリ)辺両毛作の場所に小百姓壱軒ありて、此家内を五人暮しとなし、其内老幼不用のもの弐人、耕作の働等をなすもの三人としたる凡そ積りの勘定左の如し」

として、以下のように、田畑五反五畝歩の農家の収支試算をしている。

 収入は、
中田四反歩-米六石七斗二升、此代金八両。麦六石四斗、此代金四両一分二朱永四十二文七分。
中畑一反五畝歩-麦二石四斗、此代金一両二分永百文。雑穀類等(大豆・稗・粟・小豆・芋)、此代金一両三分二朱永二十二文五分(他に菜・大根・茄子・大角豆の類の収穫があるが計算外)。
合計金十五両三分二朱永三十九文三分
 支出は、
年貢、作方諸雑用費(雇人夫・雇馬・肥料代)、合計金七両永六十七文一分。
 差引残金八両三分永九十七文二分。
 作徳の分
  此遣方
 金八両一分永十文(麦十二石三斗九升)
 一家五人の一人平均一日七合宛の一年間の食用分
 金二両 一家五人の塩・味噌・薪・衣帯・農具修復等の諸雑費
 合計金十両三分永十文

 とし、差引不足が一両一分二朱永三十七文八分としている(飯野亮一「地方書による近世農民の食生活」)。

この不足について、久敬は、

「右の作徳勘定ハ不足立て、百姓世話に引合がたしと雖も、夫食(ブジキ)の儀は麦計り食するにもあらず、粟(アハ)・稗(ヒエ)・菜物・木葉・草根をも加へ、又は米拵への砕(クダケ)・粃(シイナ)の落溢(ヲチアブ)れも取集めて食するこ
となれバ、前書積(ツモ)り丈の夫食(ブジキ)入用ハ掛らず」

と、麦に粟や稗などを混ぜた雑穀食を食べることにより、この不足分は補えるとしている。また、諸雑費二両については、

「家内五人暮しの者の諸雑用(ショゾウヨウ)ハ金弐両にては不足なれども、何国(イヅク)にても農業の外に少し充(ヅヽ)の稼(カセギ)ハあるものなり、分て上州ハ蚕飼(カイコ)あり煙草作(サク)あり、又何れの村々にても縞木綿(シマモメン)を織出し、自分の着用にもし、又売出す処もあり、或ハ筵(ムシロ)を織り縄を綯(ナ)ひ、山方ハ材木を伐(キリ)出し炭薪(スミタキギ)を出し、海川附の村々は漁猟(ギョレウ)をもいたし、都合の近里(キンリ)ハ菜園を重に作りて売出し、其外農業の間(イトマ)男女とも其処に仕馴たる相応の稼(カセギ)ありて、少々の助成(ジョセイ)を以て取つづくことなり」

と説明している、とある(仝上)。随分な言いようであるが、田畑五反五畝歩で、この体たらくである。ぎりぎりの分水嶺である。

五反百姓出ず入らず、

の、トントンとはこの程度を指す。ちなみに、

地方凡例録(じかたはんれいろく)、

は、高崎藩主松平輝和(てるやす)の命令を受けた郡奉行大石久敬が著した地方書(じかたしょ)。つまり(地方(じかた)支配(所領支配)に関する手引書である。内容は、

総論から始まり、石高・検地・新田開発・度量衡・義倉など、領主及びその代官・役人が地方(領地)支配を行うにあたって重要な事柄についての解説がほぼ網羅されている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%87%A1%E4%BE%8B%E9%8C%B2

作徳(さくとく)、

とは、年貢を支払った後に手元に残る分の意。夫食(ぶじき)は、農民の食料一般をさす。夫食は米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主食とした地方もある。中田、中畑とあるのは、土地の等級が、田だと、上田、中田、下田、荒田、畑なら、上畑、中畑、下畑、とある中の「中等」の意。

「近世では一人前の男が一年に消費する米の量は一石(玄米で一五〇キロキグラム)から二石、また夫婦と子供・親の五人から六人の家族が自らを自力で維持していくことのできる標準的な規模は、裏作も可能な田畑を合わせて五反五畝程度、石高にして八石前後の所持であった。表作の米は年貢・諸役(貢租)として徴収され、裏作の麦を主食としながら、である。麦は米とほぼ同じ収量を期待できるから、五反以上の高持百姓は再生産が可能で、上手くやれば、いくらかの蓄積も可能なる。但し、これは裏作の不可能な地域では通用しない。
それに反して、五反(約八石)以下の百姓はかなり苦しい。五反が家族を含めた自給自足の限度、再生産経営の一般的基準である」

とあるが(渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究』)、たとえば、江戸時代初期、田5反、畑5反の小農。家族は夫婦と子供1人、下男の構成で、

収入
田(5反) 米 7.5石
畑(5反) 雑穀 15.0石
 収入合計 22.5石
支出
年貢 4.5石 三ツ取(三公七民として)
飯料 12.0石 馬1匹分2石を含む
衣類、下人給金、馬損料、農具・馬具その他の雑費 6.0石 金4両相当
支出合計 22.5石 差し引きなし

という例があるhttp://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J071.htm。これでトントンだが、四ツ取(6石)とすると1.5石の不足になる。何かあれば、窮する状態である。

「高持百姓である以上、所持高の多少に関わりなく年貢や諸役の負担がある」のである。高持百姓、つまり、

本百姓、

とは、

高請地(たかうけち)、つまり、

検地帳に登録され年貢賦課の対象とされた耕地(田畑)および屋敷地、

を所持し、検地帳に登録された農民は、江戸時代中・後期になると、商品経済の波にのまれ、このレベルでさえ、かつかつである。しかもこれ以上は少数派、過半は、三反、四反以下、飢饉がくればひとたまりもない。ましてそれ以下、無高百姓、水飲百姓の窮乏は目を覆うばかりである。

高持百姓http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.htmlで触れたように、

「不勝手之百姓ハ例年質物ヲ置諸色廻仕候」

と,

「春には冬の衣類・家財を質に置いて借金をして稲や綿の植え付けをし,秋の収穫で補填して質からだし,年貢納入やその他の不足分や生活費用の補填は再度夏の衣類から,種籾まで質に入れて年越しをして,また春になればその逆をするという状態にあった」

のであり、つまり、

「零細小高持百姓の経営は危機的であった」(仝上)

のである。摂津国を例にしているが,寒冷地では,もっと厳しい状態で,近世慢性的に飢饉が頻発した背景が窺い知れるのである。

近世の飢饉http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html

についてはすでに触れた。

参考文献;
臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』http://the-kotowaza.seesaa.net/article/448845714.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究 』(佛教大学研究叢書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする