2019年12月01日

きじやき


「きじやき」は、

雉焼、
雉子焼、

とも当てる。

雉焼豆腐の略、
雉が美味なので、それに似せた料理。カツオ・マクロなどの切身を醤油と味醂を合わせた汁に浸して焼く、
鴫焼に同じ、

と載る(広辞苑)。或いは、

マグロ・カツオなどの魚の切り身を、生姜(しようが)の汁を入れた醬油でつけ焼きにしたもの、

とも載る(大辞林)。鴫焼と同じと載る(広辞苑・大辞林)が、鴫焼http://ppnetwork.seesaa.net/article/471514070.html?1573674929で触れたように、山椒味噌をつけるか、醤油付焼にするので、どこかで、混同されたのかもしれないが、同じではない。「しぎやき」の項で、

「江戸での呼称であったことが《料理網目調味抄》(1730)などに見える。もともとはシギそのものを焼いた料理であったが,きじ焼がキジの焼物から豆腐,さらには魚の切身の焼物へと変化したのと同様,ナスの料理へと変わったものである。」

とある(世界大百科事典)ことには触れた。

「鴫焼は茄子の田楽、…醤油で味つけしたものは、どちらかといえば『きじ焼き(雉焼き)』に近いのではないでしょうか?」

ということhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/392518.htmlからの、混同なのかもしれないが。

「雉焼」は、

「本来は、名前通り美味で知られる雉の肉を焼く料理であったが、徐々に変化して今では雉を使うことはほぼ無く、献立名だけが残った例である。鳥類で最も美味しいのが雉であるとされた為で、これも『あやかり料理』の一種といえよう。始めのうちは身の色が似ている『カツオ』の漬け焼きを雉焼きと呼んでいたが、徐々に対象が広がり、サバ、ブリ、マグロも範疇に。その後鶏肉、獣肉でも『雉焼き』の対象になって今に至る。つまり正確には『雉肉ふう・・・』である。赤身の魚は焼くと身がパサつくので、ごま油等油を塗り補助する。油で揚げずに油を塗って、生から焼いてもよい」

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/010.htmlのが正確のようである。

「焼きものの一つで、とり肉や、かつお、ぶり、さばなどの魚の切り身などの材料を、しょうゆ、みりん、酒で作った漬け汁に漬けて焼いたもののこと。室町時代から江戸時代まで、きじは鳥類の中では美味とされ、そのきじの肉を味わってみたいというところから生まれた擬似料理が始まりといわれる。材料は、一般では魚、精進料理では豆腐が使われた。」

ともあるhttps://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/211/。岩波古語辞典には、「きじやき」は、

「豆腐を小さく切り、塩または薄醤油を付けて焼き、燗酒をかけた料理。雉焼き料理」

としか載らない。ところが、江戸語大辞典は、

「まぐろ・鰹の切身を醤油に付けて焼くこと、またその物」

とのみ載る。江戸時代、既に、雉は使えなかったようである。大言海は、

「元は、雉の肉を鹽焼にしたるを用ゐき、その料理法の魚肉、豆腐に移りたるなり鴫焼、狸汁皆同じ」

と載せ、併せ、「きじざけ(雉酒)」の項で、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」

とある。

足利時代の天文年間(1532~55)の『犬筑波集』という山崎宗鑑の蓮歌本に、精進の汁にまじって不精進の雉焼があったが、よくよくみたら豆腐だったという作がある(たべもの語源辞典)、という。寛永二十年(1642)の『料理物語』に、

「きじやきは、豆腐を小さく切って塩をつけて焼いたものだとある」

ともあり(仝上)、この時代、「きじやき」は、

豆腐料理、

であったようだ。

雉焼田楽.gif

(雉焼田楽 豆腐に醤油をかけて焼いただけのシンプル http://www.tofu-ya.com/t-hyakuchin/th-002.htmより)


つまり、「雉子焼」とは、

雉子焼豆腐の略、

であった(仝上)。大言海は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ。正月の佳例に供したり」

と書く。

「きじの肉が白いので豆腐の白をこれにたとえた」

ともいわれる(世界の料理がわかる辞典)。しかし、

「他に鮪・鰹などの魚の切身を醤油でつけやきにしたものも、きじやきといった。料理名には『きじやきでんがく』などあり、豆腐に串をさして狐色に焼いて猪口に煮返しの醤油に摺柚子を添えて出した。ただの豆腐のきじやきは、塩をつけて焼いたところに熱い酒をかけて食べた」

とある(たべもの語源辞典)。

野鳥は古くから食用にしており、焼きキジのおいしさは昔から一般に知られていた。このキジの味に近い味をほかの材料を用いてつくり、それをきじ焼きと名づけた、ということらしい。

「現在は魚鳥肉を用いてしょうゆのつけ焼きにかじ焼きの名称をつけることが多く、色彩だけが似ている場合もある」

とある(日本大百科全書)。なお、「きじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459827203.htmlについては触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月02日

雉も鳴かずば


「きじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459827203.htmlについては、触れたことがあるが、少し補足的に追加しておきたい。

「雉」(漢音チ、呉音ジ)は、

「会意兼形声。『隹+音符矢(シ・チ)』で、真っすぐ矢のように飛ぶ鳥の意。転じて、真っすぐな直線をはかる単位に用いる」

とある(漢字源)。

「矢は直線状に数十mとんで、地に落ちる。つまり雉とは『矢のように飛ぶ鳥』という意味である。特に雄キジの飛び方をよく表している」

とあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、『ケーン』と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、『母衣打ち(ほろうち)』と呼ばれる。メスは『チョッチョッ』と鳴く」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

「きじ」は、

日本の国鳥、

であるが、国内の多くの自治体で「市町村の鳥」に指定されているにも関わらず、国鳥が狩猟対象となっているのは、世界でも珍しい例、とされる。

「日本のキジは毎年、愛鳥週間や狩猟期間前などの時期に大量に放鳥される。2004年(平成16年)度には全国で約10万羽が放鳥され、約半数が鳥獣保護区・休猟区へ、残る半数が可猟区域に放たれている。(中略)放鳥キジには足環が付いており、狩猟で捕獲された場合は報告する仕組みになっているが、捕獲報告は各都道府県ともに数羽程度で、一般的に養殖キジのほとんどが動物やワシ類などに捕食されていると考えられている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

キジ(オス).jpg

(キジ(オス) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8より)


「『記紀』において天津神が天若日子(あめのわかひこ)のもとへ雉を遣わしたように、古くから神の死者とみなされていたらしく、『名言わずの鳥』という忌詞があり、特に白雉は吉兆あるものとされた」

とある(日本昔話事典)と同時に、味が美味なために、食用としても重用され、平安時代、

「宮中では、炭火で焼いた雉肉を燗酒に入れた『雉酒』を祝い酒としてふるまう習慣もあった」

とされる。「雉焼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471882162.html?1575144670)で触れたように、「雉酒」は、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」(大言海)

が、「雉焼」の略である「雉焼豆腐」は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ」(大言海)

のは、この「雉酒」の名残のようである。「きじ」は歌にも登場し、

春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人にしれつつ(大伴家持)
武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵より背(せ)ろに逢はなふよ(不明)
春の野のしげき草葉の妻恋にとびたつ雉子のほろほろとなく    (平貞文)

等々と歌われる。

和語「きじ」は、すでに触れたように

古名きぎしの転、

である(岩波古語辞典)。古名には、

キギス、

もあるが、

「古名には『キギス』もあるが、『キジ』よりも新しく、『キギシ』の方が古い」

ようだ(語源由来辞典)。「きぎ」は、おそらく、

鳴き声、

から来た擬音語で(岩波古語辞典・語源由来辞典)、「キギシ」「キギス」の「シ」「ス」は、「カラス」「ウグイス」「ホトトギス」でなじみの、鳥を表す接尾語である。

「キギは鳴く聲。キキン,今はケンケンと云ふ。シはスと通ず。鳥に添ふる一種の音。…キギシのキギスと轉じ(夷(えみじ),エビス),今は約めてキジとなる」(大言海)

「万葉東歌,記紀歌謡の仮名表記には『きぎし』とあり,古くは多く『きぎし』と呼ばれていたが,『古今六条』には『きじ』が六首,『きぎす』が二首見られる。後者は共に万葉の歌だが,『きぎし』から『きぎす』に移行した時期は不明」(日本語源大辞典)

ということのようだ。

「雉」は、馴染みの鳥でもあるが、神の使者でもあり、桃太郎に雉が登場するのも、そんな由来からのようである(日本昔話事典)が、そのせいか、雉にまつわる諺は多い。

朝雉が鳴くは晴れ、夜鳴くは地震の兆(きざし)、
雉が三声つづけて三度叫ぶと地震あり、
雉、鶏が不時に鳴けば地震あり

と地震予知に関するものもあるが、

雉の草隠れ、
焼け野の雉子、夜の鶴、
多勢に無勢、雉と鷹、
雉子(きぎし)の頻使い、

と雉にからむ諺は少なくない(たとえば、http://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm、故事ことわざの辞典)。しかし、

ものいわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射たれざらまし、

の歌に由来する、

キジも鳴かずば射たれまい、

の諺ほど有名なものはあるまい。「長柄(ながら)の人柱」という伝説に由来する。

現在の名柄橋.jpg



「むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、『袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう』とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は『ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし』という歌を残して淀川に身を投じてしまった。」(神道集)

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8Bが、異説も多く、室町時代の『康富記』には、長柄橋に、子を負った女の人柱を立てた伝、男の人柱を立てたと伝える猿楽のある旨が記されている(日本伝奇伝説大辞典)。また、元禄年間の地誌『摂陽群談』に、

「西成郡垂水村の長者岩氏が人柱になったとある。岩氏には光照と呼ばれるほど美貌の娘がいたが、唖のように言葉を発することなく成長した。嫁いでもものをいうことがなく、実家に送り帰されることになった。その道中、夫が雉を射るのを見てはじめて声を発し、『物言じ父は長柄の橋柱鳴かずば雉子も射られざらまし』と吟じた。後に出家、自ら不言尼と称して父の後世を弔った」

とある(仝上)。また、あるいは、

「昔、摂津の長柄川で橋を架ける工事が行われたが、幾度、架けても流されるので、人柱を立てようということになった。そのとき、長柄の里の長者が『袴につづれのある者を人柱に立てよう』いった。ところが、袴につづれのあったのは言い出した長者自身だった。
 里人たちは、有無を言わせず、長者を捕らえて、長者を人柱にし、橋が出来上がった。長者には河内に嫁いだ娘がいたが、その娘は、この話を聞いて一言も口をきかなくなった。愛想をつかした夫は、摂津まで送り返そうと連れだって家を出て、交野まで来たとき、草むらで、『ケン ケン』とキジが鳴いた。夫は弓矢で射ろうとすると、娘は、懸命に止めた。夫は、いぶかしそうにしていると、娘は、口を開き、こんな歌を詠んだ。『ものいはじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし』。夫は心をうたれ、娘にわび、二人で河内にもどり、仲良く暮らしたという。」

という話もあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

長柄橋は、

「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8B、長柄橋の名は、古代より存在した。現在の橋は、大阪市大淀区と東淀川区との間にかかっているが、往古は、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされている、が、正確な場所についてははっきりしない(仝上)。攝津名所圖會(寛政年間)には、

「此橋の旧跡古来よりさだかならず、何れの世に架初めて、何れの世に朽壊れけん、これ又文明ならず、橋杭と称する朽木所々にあり、今田畑より掘出す事もあり、其所一挙ならず」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。にもかかわらず、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった(仝上)。

ながら、ふる、朽つなどの意味を引く句として、

わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき(赤染衛門)
君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん(藤原家隆)

等々(仝上)、多くの歌人に詠まれたが、

時代が下がるにつれて、跡や跡なしに用いられるにいたる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年12月03日

めし


「めし」は、

飯、

と当てる。「飯」(漢音ハン、呉音ボン)は、

「会意兼形声。『食+音符反(バラバラになる→ふやける、ふくれる)』で、米粒がふやけてばらばらに煮えた玄米のめし」

とある(漢字源)。

米を炊いたもの、

の意から、

時を定めてする食事、

の意に広げて使う。「めし」にあたる同意のことばには、

「ごはん・ごぜん・おぜん・こご・やわら・まま・まんま・いい・ひいめし・おだい(御台)・だいばん・おもの・ぐご(供御)・ごれう(御料)・おほみけ(大御飯)」

等々がある(たべもの語源辞典)。

漆器のお椀に盛りつけた御飯.jpg

(漆器のお椀に盛りつけた御飯 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AFより)


万葉集にも、

家にあれば笥(け)に盛るいひを草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る、

と歌われている「めし」は、

「『食ふ(食う)』の敬語のうち尊敬語である『召す』に由来する。日本語に継続的に生じている『敬語のインフレーション』(初めは尊敬を込めた表現でも、長く使っているとありがたみが薄れて普通またはそれ以下の表現になる)という現象により、現在はややぞんざいな表現になった。敬語のうちの丁寧語では『御飯』(ごはん)。幼児語は『まんま』。老人語は『まま』。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF。大言海は、

「聞食物(キコシメシモノ)の略。何によらず、身に受け納めるるをメスと云ふ。飯は其第一にて、人の尊びて云ひししに起こる」

と書く。

「室町時代にそれまでのイヒに代わって現れた。語源には諸説あるが、動詞メス(召す)の名詞化という説が有力である。『召す』は『呼び寄せる』『着る』『食べる』『乗る』など複数の用法を持っていたが、名詞としてはそれらの意味を共存させず、『呼び寄せること』の意味から『食べるけもの=飯』の意へと交替した」

とあり(日本語源大辞典)、本来「メス」は、

「『見(ミ)』スの尊敬語」

であった(岩波古語辞典・大言海)が、

「室町後期にはすでにオメシのようにオ(御)を冠した形も認められる」(日本語源大辞典)

と敬語の意識がなくなっていたらしい。上述のように、「めし」の語源は、「召す」とする説が大勢だが、

「中国の漢字から考えると、飯とはかならず蒸したものである」(たべもの語源辞典)

と考えると、

ムシ(蒸)の義、

とする説も、ちょっとムシ(無視)できない気がする。

ところで、日本人が米の飯を食べたのは弥生時代だが、米の飯を炊く初めは、此花開耶姫(このはなさくやひめ)が浪田(なだ、沼田)の稲を用いて飯をつくったのが最も古いことになっている(たべもの語源辞典)が、中国では、『周書』に、

黄帝が穀を蒸して飯となすとか、穀を烹(に)て粥となす、

とある(仝上)。

「穀類を煮たり蒸したりすることを古くは〈炊(かし)ぐ〉といい,のち〈炊(た)く〉というようになった。〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり,古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び,水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた。」(世界大百科事典)

とあり、

「飯を固粥(かたかゆ)または粥強(かゆこわ)とよび、今日の粥を汁粥(しるかゆ)といった。また固粥は姫飯(ひめいひ)とも称した。蒸した飯は強飯(こわいい)である」

とある(たべもの語源辞典)ように、飯は、

甑(こしき)、

を用いて蒸してつくられた(たべもの語源辞典)。伊勢物語に、

「飯をけこ(ざる・かご)の器物に盛ってたべるとある」

が、蒸した強(こわ)い飯であったことがわかる(たべもの語源辞典)、とある。

「甑(こしき)は古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。需とも。竹や木などで造られた同目的のものは一般に蒸籠と呼称される。 日本各地の遺跡で発見されており、弥生時代には米を蒸すための調理道具として使われていたと考えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91

「昔かなえ(鼎)の上に甑をのせて飯をかしいだことが『空穂物語』にある。室町時代になると、かなえを『かま』とよんだ。飯はかしぐといい、粥は煮るというが、かしぐとは甑をつかうからであろう」

とある(たべもの語源辞典)ので、

ちょうど「こしき」が「かま」に転じるころ、「いひ」が「めし」に転換した時期のようである。

「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だが、さらに、

食(い)ふ、

とも当て、

口にする意でもある(仝上)。「イヒ」の語源には諸説あり、大言海は、

忌火(イムヒ)に縁のある語か、

と、少し曖昧だが、その説をとるのは、

イミヒ(忌火)の義(名言通)、

その他、

イは接頭語、ヒは胎芽を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イは発語、ヒは良しの意(東雅)、
イヒ(息霊)の義、息をつなぎとめるヒ(霊)というが、ヒは実の義であろう(日本語源=賀茂百樹)、
煮ることから、ユヒ(燖)の転(言元梯)、
ユイ(湯稲)の転後(柴門和語類集)、
「粒」の別音ipがihiに転じた語(日本語原学=与謝野寛、日本語源広辞典)

等々あるが、言ふ、食ふ、イヒ(飯)、と関連させる語源に魅力がある。言葉の音から辿るのは、語呂合わせになるきらいがある。

現在は「めし」も広く使われているが、「ごはん」という呼び方が一般的である。「ごはん」は、

「漢文の影響のうかがわれる軍記や室町時代の物語から用例」

が現れ始め(日本語源大辞典)、

「やがて女房ことばとしてこれに『お(御)』を加えた『おばん(御飯)』という語が現れる。そしてこれが広まり、江戸時代末期には『お』を『ご』に替えた」

とありhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=393、『ごはん』の形になるのは、近世末期のようである(日本語源大辞典)。

「『飯』の呼び方の変遷は、イヒからメシへ、メシからゴハンへと、意識の上でより丁寧な言い方を指向した」

ようである(仝上)。「めし」が日常語として用いられるのは江戸時代以後のことである。『召す』は尊敬の動詞であるから、『めし』にも敬語意識が伴っていたと考えられる(語源由来辞典)。「めし」が位置を落として後も、確かに、「ごはん」という言い方には、なにがしか丁寧な語感がある。

「ゴハンは16世紀前半に例が見られるが、『飯』を音読したハン(日葡辞書)に、敬語の接頭語「御」をつけた語と考えられる。ゴハンは現在でも、メシに比べて上品な表現と考えられている」

とある(暮らしのことば新語源辞典)。

ところで、「めし」の、

「メという字は、芽・妻(め)・目・群(め)を意味している。また、メは未来の意を表す助辞でもある。芽はめぐむ、妻は孕むもの、目はめがでる、群はものが聚(あつ)まるという意味。シは、汝(シ)・己(シ)・其(シ)で、汝と己(おのれ)であり、指示するときに出る声である。『めし』という音には未来の喜びを示すものがある」

とある(たべもの語源辞典)。これと関連すれば、「いひ」が、

言ふ、
食ふ、

とつながるのもありえるのではないか。なお、

こめhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/454757401.html
いねhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/454779702.html

については、それぞれ触れた。

参考文献;
山口佳紀編『暮らしのことば新語源辞典』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年12月04日

醤油


「醤油」と「味噌」は深くつながる。「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.htmlについては、すでに触れた。

「醤油」の成語の初見は、慶長二年(1597)の『易林節用集』とされる(たべもの語源辞典)。そこで、

「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。比較的新しい。

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」

で、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「醤は、シシビシオである。シシは肉、だから肉の塩漬のことである。ヒシオのヒは隔つる義で、醸して久しくおくと塩と隔つのでその名とする説、また、浸塩(ひたししお)の意との説もある。またミソともよむ。漿(コンツ)と同じである。」

とある(たべもの語源辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。

味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし,寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」

の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」

ことで、

「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」

ということになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「多聞院日記」の1576年の記事では、

「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」

と考えられる(仝上)。つまり、

「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」

つまり、「たまり醤油」である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、

「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」

との記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述も同書にあり、天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている(仝上)。「たまり」の発祥は、

「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」

と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、

「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」

があるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、

「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。しかし、その他に、

「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」

とする説、

「500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体『清醤』の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した」

とする説等々もある(仝上)。

この時代のたまり醤油は、

「原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった」

が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、

「麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに『すみ醤油』という名前で現れている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。これが今のヒガシマル醤油である。

「龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい『うすくち醤油』が発明」

された、とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html。兵庫県龍野は淡口醤油発祥の地、

「もともとは酒造業が発達した地域であったものの、鉄分を含まない揖保川の水や播州赤穂の塩、播州平野の大豆など、醤油造りに適した土地柄でもありました。領主の脇坂氏の積極的な産業推進もあり、次第に醤油造りに移っていったのです」

とありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、龍野の醤油造りを担ったのが、地元で酒造りをしていた、または灘へ出稼ぎに出ていた播州杜氏たちであり、龍野の醤油造り唄の中には、

〽この寒いのに洗い番はどなた かわいい殿ごでなけりゃよい
〽かわいい殿ごの洗い番の時は 水は湯となれ風吹くな(龍野の醤油造り唄)

の一節があり、灘の歌にも、

〽寒や北風今日は南風 明日は浮名の巽風
〽今日の寒さに洗い番はどなた かわいい殿さの声がする
〽かわいい殿さの洗い番の時は 水も湯となれ風吹くな(丹波流酒造り唄)

というのがありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、酒造りの作業を醤油造りでも応用していたことがわかり、木桶を通した酒蔵と醤油蔵の関係や、蔵人たちの人的交流を通した技術の継承によって、「うすくち醤油」につながったものとみられる(仝上)。

うすくち・こいくち醤油.jpg

(うすくち醤油(左)、こいくち醤油(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9より)


甘酒http://ppnetwork.seesaa.net/article/470325231.htmlで触れたように、甘酒は,「昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」のである。

淡口醤油と称する色の薄い醤油は、

「煮物に色がつかないので関西料理に愛好された。江戸では『下り醤油』と称して関西から船で運んでくる醤油を用いていたが、やがて関東の野田、銚子の醤油を用いるようになった。」

とある(たべもの語源辞典)。永禄年間(1558~70)に、武田方にたまり醤油が野田から納められた、という記録がきろくがある、という(仝上)。

いわゆる濃口醤油は、

「紀州の浜口儀兵衛が湯浅醤油(濃口醤油)の生産を関東の銚子で始め,江戸市場をバックに醤油醸造を成功させ,現在のヤマサ醤油になっている。関東平野での大豆・麦の産地を控えて,作った醤油を水路で江戸に運搬する利便性をもとに,銚子と野田が醤油の生産地として発展していった。そして濃口醤油の利用は江戸の料理の特徴にもなっていく。」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。また、天明元年(1781)に、

「玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9

ところで、俗に、調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの、

さしすせそ、

に当たる「せ」を、

せうゆ、

とするが、歴史的仮名遣いでは、

しやうゆ、

が正しいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9が、「せうゆ」は、いわゆる許容仮名遣として広く行われていたものらしい(仝上)。

江戸時代の醤油・塩売.jpg

(守貞謾稿・江戸時代の醤油・塩売 たべもの語源辞典より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:醤油
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2019年12月05日

いふ


「いふ(う)」は、

言う、
云う、
謂う、
曰う、
道う、

等々と当てる。「言」(漢音ゲン、呉音ゴン)は、

「会意。『辛(きれめをつける刃物)+口』で、口をふさいで、もぐもぐいうことを音(オン)・諳(アン)といい、はっきりかどめをつけて発音することを言という」

とある(漢字源)。漢字は、使い分けられていて、

「言」「謂」の二字は、義略々同じ。
「言」は、心に思ふ所を、口に述ぶるなり。言論・言説などと熟す、
「謂」は、報也、告也と註す。人に対して言ふなり。「子謂顔淵曰」の如し。又、人に対して言ふにあらずして、其の人を評して言ふにも用ふ。「子謂子賎」の如し。又、謂は、おもへらくとも訓む。心に思ふことは、必ず口にあらはるればなり、
「曰」「云」の二字は、義略々同じ。正字通にも「云與曰、音別義同、凡経史、曰通作云」とあり。但し、云は、意稍重し。云の字、文の終におきて誰氏云との如く結ぶことあり。これは誰が此の如く云へりとの意なり。かかる所に、曰の字を用ふることなし、
「道」は言と同じ、ただ言は多く実用にして重く、道は虚用にして軽し、孟子に、「道性善、言必称堯舜」また「非先王之法言、不敢道」の如し、

と明確である(字源)。

「言ふ」は、

必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう、

とあるが(広辞苑)、

「『言う』は『独り言を言う』『言うに言われない』のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、『日本という国』『こういうようにやればうまく行くというわけだ』など引用的表現にまで及ぶ。」

と幅広く使われる。

「話す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148で、言葉を口に出す,という言い回しの,「言う」「話す」「申す」「述ぶ」「宣る」「告ぐ」についてで触れているが、岩波古語辞典は「言ふ」を、

「声を出し,言葉を口にする意。類義語カタリ(語)は,事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意。ノリ(告)は,タブーに触れることを公然と口にすることで,占いの結果や名などについて用いる。ツグ(告)は,中に人を置いて言う語。マヲシ(申)は,支配者に向かって実情を打ち明ける意」

とし、「めし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html?1575318322触れたように、「めし」の古名「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

であり「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だけではなく、さらに、

食(い)ふ、

とも同根で、

口にする意でもある(仝上)。日本語源広辞典は、「言う」は,

「『イ(息)+プ(唇音)』です。イ+フゥ,イフ,イウとなった語」

とし,『日本語の深層』では,

「『イ』音の最初の動詞は『イ(生)ク』(現代語の『生きる』)です。名詞『イキ(息)』と同根(同じ語源)とされ,『イケ花』『イケ簀』などと姻戚関係があります。(中略)おそらく/i/音が,…自然界で現象が『モノ』として発現する瞬間に関わる大事な意味を持っているので,この『イ』を語頭にもつやまとことばがたくさんあるのでしょう。『イノチ(命=息の勢い)』『イノリ(斎告り)』などにも,また「い(言)ふ」にもかかわって意味を持ちます。」

とあり,あるいは,息ではなく,「言葉」が発語された瞬間の重要性をそこに込めているのかもしれない。

「いま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442558118.htmlで触れたように,「イ」は,

「『イ』は口を横に引いて発音し,舌の位置がほかの四つの母音よりも相対的に前にくるので,一番鋭く響きますし,時間的にも口の緊張が長く続かない,自然に短い音なので,『イマ』という『瞬間』を表現できるのです。」

とある(仝上)。「いう」の「い」の意味は深い。

ちなみに、「息」は、

生くと同根(岩波古語辞典・日本釈名)、
イはイデ(出)、キはヒキ(引)から(和句解)、
イキ(生気)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、
イは気息を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、生きると関わり、「生く」は、

息と同根(岩波古語辞典)
イキ(息)の活用(大言海・国語溯原=大矢徹・日本語源=賀茂百樹)、
イキク(息来)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々、「息」「生き」とつながる。

食ふ、
言ふ、
イヒ(飯)、

とつながるのは当然のように思える。なお、

「いきる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465742517.html
「かたる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.html
「はなす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148

については、それぞれ触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
熊倉千之『日本語の深層』(筑摩書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2019年12月06日

皮膜の広がり


大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』を読む。

存在の探求下.jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、

存在の探求,

と題された後半である。収録されているのは、

石上玄一郎『自殺案内者』
野間宏『暗い絵』
島尾敏雄『摩天楼』『夢の中での日常』
坂口安吾『白痴』『堕落論』
大岡昇平『野火』
安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』
石川淳『無盡燈』
三好十郎『胎内』
吉田一穂「極の誘い」「穀物と葡萄の祝祭」「野生の幻影」
花田清輝「沙漠について」「楕円幻想」

である。

『自殺案内者』は、僕には作意が過ぎ、それが透けて見えるようで、とても好きになれない。小説は虚構だが、その結構が作為的では、ちょっとついていけない、と思った。あくまで憶説だが。これを「ゆたかな虚構」という評価もありえるが、僕は採らない。戦争文学の金字塔とされる『野火』は、敗走する日本兵の無残さを余さず描く。230万の戦死者の六割とか七割が餓死者といわれる、戦争指導者そのものの失策の附けを、兵卒が荷わされた惨状を、象徴的に描くのは、人肉を食うというシーンだ。捕虜となった主人公は、

「彼らを殺したけれど、喰べなかった。殺したのば、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志で喰べなかった。」

と言う。そう言わしめたのは、この国の指導者である。十分の補給も確保できないまま、机上で戦線を拡大した連中の無為無策、無能ぶりを、後に、大岡は、『レイテ戦記』でその実態を詳らかにした。

ただ、僕は、この小説の結構を、狂人日記としたのは不満である。「三七 狂人日記」以降は、蛇足ではないか。もちろん、時代の制約はある、と認めたうえで、なお小説の結構としては、斜めに逃げず、真正面から描くべきではなかったかと、惜しむ。

花田清輝の『復興期の精神』からとられた、二編は、戦争中に書かれたという点でも、出色である。精神は自在に、虚実の皮膜の隙間を泳ぎ回っている気配である。すでに、戦後の活躍の胚珠を抱えている。

島尾敏雄の『夢の中での日常』の、

「私の頭にはうすいカルシウム煎餅のような大きな瘡が一面にはびこっていた。私はぞっとして、頭の血が一ぺんにどこか中心の方に冷却して引込んで行くようないやな感触に襲われた。私はその瘡をはがしてみた。すると簡単にはがれた。しかしその後で急激に矢もたてもたまらないかゆさに落込んだ。私は我慢がならずにもうでたらめにきかきむしった。始めのうちは陶酔したい程気持がよかった。しかしすぐ猛烈なかゆさがやって来た。そしてそれは頭だけではなく、全身にぶーっと吹き上って来るようなかゆさであった。それは止めようがなかった。身体は氷の中につかっていた首から上を、理髪の後のあの生ぬるい髪洗いのように、なめくじに首筋を這い廻られるいやな感触であった。手を休めると、きのこのように瘡が生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に強烈な腹痛が起こった。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい胃の中のものをえぐりだそうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ、その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられてきたのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き通って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。」

という体感覚と、一瞬で裏返る自分という、我々のありようの別の貌を意表を突く形で現出してみせた。ここには、作家が、夢の文脈をなぞりながら、ただ、「私」の体感覚に一体化しているのではなく、その「私」をも、突き放す視点を持っている証である。それは、安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』の、

「不意に舞台の両袖で気負い立った足音がしました。どこから現れたのか、グリーンの服の大男たちでした。立直るまもなく二人は左右から襲いかかり、力いっぱいぼくの背中を突きとばしました。ぼくはスクリーンの中に顔からつっこんでいきました。
 と、ぼくは―というよりももはや彼はと言わなければならないでしょう―そのままスクリーンをつきぬけて画面の中にはいりこみ、部屋の中に倒れているのでした。」

と、映画のスクリーンの中に入り込むシーンとつながる。この時、作家は、「ぼく」も「彼」も、等間隔で眺める視点で、ずっと描いてきていることが、ここでわかるのである。それは、作家の、虚実皮膜の、皮膜の拡大と言ってもいい。そして、ひっくり返った「私」を見る位置と、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、ほぼ同じである。

解説で、埴谷雄高が、

「この方法的な領域において私達はまだ極めて僅かな歩幅の踏み出ししか行っていないのである。(中略)仮象の体操法とでも名づけるべき領域において、より僅かな踏み出ししかおこない得ないことに比例するかの如く、さて、さらに視点を遠くに投げて、存在の変容といった課題へ目を移せば、まことに寥々たる仕事しか見当たらないのである。」

と嘆いているのは、なにも、島尾や安部の試みた、変身や時空移動を指しているのではない。それは、作家の前の皮膜の幅の拡大である。かつて、

「世界像」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html

「メタ小説」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html

で触れたように、鴎外は、

小説を書くことを書く、

ことによって、格段に皮膜の世界を広げた。そのことを言及した石川淳は『無盡燈』で、

「そこで、弓子の心願の正體を突きとめにかかるとすれば、わたしはわたしといふ質點に於て傾斜して來たところの、ひとりの女の心情曲線を微分して行くことになるだろう。そして、わたしが無藝の一つおぼえにもつている思考の方法は散文よりほかは無いのだから、この微分の操作をつづけて行つた揚句はしぜん小説の形式に出來上つてしまふかもしれないだらう。」

と書き、それが『無盡燈』という作品であるかのごとき体裁をとっている。むろん、それは、

「どこまで行つても地上のくされ縁がたたき切れずに、行つたさきから振出しに跳ねかへつて來るやうなぐあひに、所詮作者の生活に還元されてしまふことを見越しながら、書かれるであらう作品としいふものはむ、わたしの小説観にとつてぞつとしないしろものである。」

と書くように、作家自身を「私」とするような、皮膜が虚ではなく、実によりそうような、狭苦しい作品世界でなく、このために設えられた世界であることは、当然である。

そして、この各自分を書く位置と、ひっくり返った「私」、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、重なるのである。皮膜の奥行きとは、このことである。

参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年12月07日

さるまた


「さるまた」は、もう死語かもしれない。たしか、松本零士の漫画(『男おいどん』だったか)に「サルマタケ」というのが出てきたが、あれは70年代、それ以降聞かない。

「さるまた」は、

猿股、
申又、

と当てる。広辞苑には、

男子が用いる腰や股をおおうももひき。さるももひき、西洋褌、

とあるが、

ぱっち、

とも呼ぶ。僕の記憶では、漫画で、「サルマタ」と呼んでいたのは、

トランクス型の下着のパンツ、

であった。どうやら、「さるまた」は、

短い股引、

を指していたものらしい。

ユニオンスーツ.jpg

(1902年に作られたとされる、ユニオンスーツのカタログ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlより)

「19世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着であった。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%82%A1

「ユニオンスーツ」は、上下がセットになった下着で、は腕や足までカバーできるものもあり、どちらかというと全身タイツのような外見であったhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlらしい。胸から股間のあたりまでボタンが並んでおり、前部分が開閉できた(仝上)、とある。さらに、

「一体型の下着であったユニオンスーツが1910年代に上下に分離化され、第一次世界大戦前頃(1914年)よりショートパンツ化されたことで、日本に出現したのは大正期以降ではないかと推測される」

ともある(仝上)。とすると、「さるまた」は、近代以降のものということになる。しかし、「さるまた」は、

猿股引(さるももひき)、

ともある。大言海は、「さるまた」は、

猿股引の、股を股(また)と読みたるなり、

とする。江戸語大辞典も、「猿股引」は、

膝下一、二寸の長さの股引、

とある。とすると、「股引」は、

猿股引の略、

ともある(広辞苑)ので、「さるまた」は、

股引(ももひき)、

モモヒキ(股引).gif

(モモヒキ(股引) http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)


と重なる。「股引」は、

両の股を通してはく狭い筒状の下ばき、

で、

ももはばき(股脛巾)、

ともいい大言海)、

股着(またはき)の転なるべし、脚絆に対して、股まではく、

とある(仝上)。脚絆は、脛に着け、小幅の長い布を巻き付けて紐で留める。

こうみると、確かに「さるまた」は、西洋由来かもしれないが、その土壌になる「股引」があったことになる。しかし、その「股引」自体、

ポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)が原形、

とされるが。

「さるまた」は、猿股引の略とする以外、

生地は薄茶色のメリヤス地、

で、そのため「さるまた」の「さる」は、

サラシ(晒)のサル(衣食住語源辞典=吉田金彦)、

という説もあるが、

京都や山梨県北都留郡では下部の短い猿股をキャルマタ、ケエロマタ(蛙股)といっており、それがサルマタと聞こえた(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、
マタシャレという袴の一種を逆さに言ったという説(世界大百科事典)、

等々という説もある(日本語源大辞典)。しかし、股引からきて、猿股へつながった流れから見ると、

猿股引の略、

でいいのではあるまいか。「股引」は、

「江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。紺木綿の無地に浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ袷(あわせ)仕立てにしたが,夏用には白木綿や縦縞の単(ひとえ)もあった。すねにぴったりと細身に作るのを〈いなせ〉(粋)とし,極端なものは竹の皮をあてて踵(かかと)をすべらせなければはけないほど細く仕立てた。後ろで打ち合わせてつけ紐で結ぶのが特徴で,腰の屈伸が自由で機能的な仕事着である」

とあり(世界大百科事典)、さらに、

「脚の膨らみにあわせるように、後ろに曲線裁ちの襠(まち)が入っている。腰を包む引回しに特徴があり、裁着(たっつけ)、もんぺなどと構成を異にする。」

ともある(仝上)。

「江戸時代には武家、町人ともこれを用い、江戸末期になると、半纏(はんてん)、腹掛け、ももひき姿は職人の制服のようになり、昭和初期まで続いた。ももひきの生地(きじ)は盲縞(めくらじま)の木綿、商人は千草色、浅葱(あさぎ)色などで、武家用のは小紋柄(がら)であった。」

ともある(日本大百科全書)。

足代の不二.jpg

(北斎『富獄百景』三編 足代の不二 江戸時代の職人の股引姿 http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)


「股引」は、

股脛巾(ももはばき)の変化した語、

とされる(貞丈雑記)が、上述したように、安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)と呼ばれる衣服が原形とされる。これが日本の伝統的ボトムスであり、下着としても使われた。腰から踝まで、やや密着して覆い、腰の部分は紐で締めるようになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95。江戸時代には鯉口シャツ(ダボシャツとも)や、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に職人の作業服となり、農作業[や山仕事などにも広く使われた(仝上)。

この変形に、

半股引(はんだこ)、

と称する、膝上までのハーフパンツに似た形のものがある。祭りなどで着るものである。

半ダコ.jpg



これが、

ステテコ、

の原型であるが、「ステテコ」は、

パッチ、

と呼ばれるものとつながる。「パッチ」という言葉は、18世紀頃には日本語として定着していた。

「京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸では(宝暦ごろから流行し始め)チリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)、または猿股引(さるももひき)と呼んで区別する事もある。パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。」

とあるhttp://www.steteco.com/archives/history.html。また、

「筏師(いかだし)の間では極端に細いももひきが好まれ、これを川並(かわなみ)といった。はくときに竹または紙をくるぶしにあててはくほどの細さであった。これに対して五分だるみ、一寸だるみのものもあり、これを象ももひきといった。火消(ひけし)の者は江戸では釘(くぎ)抜きつなぎ、上方(かみがた)ではだんだら模様を用いた。」

ともある(日本大百科全書)。

つまり、「股引」から、「パッチ」「ステテコ」「半タコ」と経て、「さるまた」「トランクス」と変じてきたことになり、原形は、「股引」ということになる。その原型は、カルサオ(カルサン)である。

カルサオ(カルサン).jpg

(カルサオ(カルサンとも) https://pt.wikipedia.org/wiki/Cal%C3%A7asより)


「ステテコ」は、着物や袴の下に穿く下着として、明治以降の日本の近代化に伴い全国的に普及したが、

1880年頃、初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸「ステテコ踊り」の際に着物の裾から見えていた下着であったためとする説、

着用時に下に穿いた下着の丈が長く、裾から下が邪魔であったため裾から下を捨ててしまえでステテコと呼ばれるようになった説、

等々に語源があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%86%E3%82%B3、といわれているが、圓遊のはいていたのは、「パッチ」らしく、ステテコ踊りなので、

ステテコパッチ、

と呼ばれ、略して、

ステテコ、

になった(上方語源辞典=前田勇)、ともある。こちらのほうだろう。

「ぱっち」は、朝鮮語由来とされ、

朝鮮語ba-jiは男性がはくズボン状の服、

とある(日本語源大辞典)。

ぱっち.jpg

(パッチ 「金々先生栄華夢」日本語源大辞典より)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年12月08日

何れ菖蒲


「何れ菖蒲」は、

何れ菖蒲か杜若、
菖蒲と杜若、

とも言う。

いずれあやめかかきつばた、

とは、

どちらもすぐれていて、選択に迷うことのたとえ、

とされるが、この諺の出典は、平安時代末期に『源三位(げんざんみ)』と称された源頼政の、

五月雨に沢べのまこも水たえていずれあやめと引きぞわづらふ、

という歌に由来する。それは、

「頼政がぬえ退治の賞として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜るとき、十二人の美女の中から見つけ出すようにいわれて詠んだとされる」

という『太平記』の話に基づく(故事ことわざ辞典)。

アヤメ.jpg



「あやめ」は、

菖蒲、

と当てる。「菖蒲」は、

ショウブ、

と訓ませると、「あやめ」は、

しょうぶの古称、

である。これは、あやめとは、葉の形が似るだけでまったくの別種(サトイモ科ショウブ属)。五月の節句に用いる「しょうぶ湯」の「ショウブ」。武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることかららしい。これは、

「晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlように、薬草で、

和名は同属のセキショウ(漢名・石菖)の音読みで、古く誤って菖蒲に当てられたらしい(仝上)。本来、「菖」(ショウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)』で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物」

の意で、「菖蒲」の意。「ショウブ」は、「白菖」という。「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、

「会意兼形声。『艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)』」

で、「がま」の意。「あやめ」は、だから、「ショウブ」の古称として、

文目草の義、

とし(大言海)、

「和歌に、あやめ草 文目(あやめ)も知らぬ、など、序として詠まる、葉に体縦理(たてすぢ)幷行せり。アヤメとのみ云ふは、下略なり」

とする。しかし、岩波古語辞典は、

菖蒲草、

と当て、

「漢女(あやめ)の姿のたおやかさに似る花の意。文目草の意と見るのは誤り」

とし、

「平安時代の歌では、『あやめも知らぬ』『あやなき身』の序詞として使われ、また、『刈り』と同音の『仮り』、『根』と同音を持つ『ねたし』などを導く」

とする。いずれとも決めがたいが、「ショウブ」の別名として、

「端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。(中略)中国名は白菖蒲といいます。」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlので、

菖蒲草、

と当てる方に与しておく。

ショウブの花.jpg

(ショウブの花 https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlより)


同じ「菖蒲」を当てるためややこしいが、「あやめ」は、アヤメ科アヤメ属。「ショウブ」と区別するため、

はなあやめ、

と呼んだ。「あやめ」が、

はなあやめ、

の意と、

ショウブの古名、

の意と重なるため、どちらの語源を言っているのかが、曖昧になる。たとえば、「ショウブ」は、

「葉はハナショウブに似ており、左右から扁平で中央脈が高く、基部は左右に抱き合うように2列に並び、芳香がある」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96
「葉にはアヤメのような扁平な剣状(単面葉)で、中央にはっきりした中肋(ちゅうろく)があります。」https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html

という葉の特徴から、

葉脈に着目して、その文目の義(名言通・古今要覧稿・大言海)、
アヤベ(漢部)の輸入した草だからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アヤメ(漢女)草の義(和訓栞)、

は、「ショウブ」(古名あやめ)を言っていると思われ、

アヤはあざやか、メは見える意。他の草より甚だうるわしく鮮やかに見える(日本釈名)、

は、どちらともとれる。「あやはあざやかなり、めはみゆるなり、たの草よりあざやかにみゆるなり」の記述からすると、花の意のようである。

菖蒲の冠をした女が蛇になったという天竺の伝説から、蛇の異名であるアヤメを花の意とする(古今集注)、
アハヤと思いめでる花の意から(本朝辞源=宇田甘冥)、

は、「はなあやめ」のことを言っているらしい。決め手はないが、しかし、

花弁の基部に筋目模様があることから、「文目(あやめ)」の意、

とされるのが自然なのではないか。

肥後系ハナショウブ.jpg


ハナショウブ.jpg



日本語の語源は、例によって、

「紫または白色の上品な様子をアデヤカナルミエ(貴やかなる見え)といった。見え[m(i)e]が縮約されてアヤメになった」

とするのは、いかがなものだろう。

さらにややこしいのは、

はなしょうぶ(花菖蒲)、

と呼ばれている、水辺に咲く植物。これも、アヤメ科アヤメ属。「ハナショウブ(花菖蒲)」は、

葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから、

そう呼ぶ。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多いのも、アヤメ科アヤメ属だからまちがいではないものの、輪をかけてややこしい。ハナショウブは、

ノハナショウブ、

の園芸種で、花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。

その系統を大別するとhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96

品種数が豊富な江戸系、
室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、
原種の特徴を強く残す長井古種、

の4系統に分類でき、他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある(仝上)、とか。

「カキツバタ」は、

燕子花、
杜若、

と当て、やはりアヤメ科アヤメ属である。借りた漢字、「燕子花」はキンポウゲ科ヒエンソウ属、「杜若」はツユクサ科のヤブミョウガを指す。ヤブミョウガは漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものらしい(仝上、語源由来辞典、日本語源大辞典)。

ふるく奈良時代は、

かきつはた、

と清音であった、とされる(岩波古語辞典)

「カキツバタ」は、

書付花(掻付花 かきつけばな)の変化したもので、昔は、その汁で布を染めたところからいう、

とするのが通説らしい。「汁を布に下書きするのに使った」(日本語源広辞典)ところからきているが、「音変化が考えにくい」(語源由来辞典、日本語源大辞典)と異論もあるが。

カキツバタ.jpg



万葉集は、

垣津幡、

と当てている。

垣下に咲く花(東雅)、
カキツバタ(垣端)の義(本朝辞源=宇田甘冥)、

も的外れではないかもしれない。

「カキツバタ」は、江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立していたが、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなくなったらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
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2019年12月09日

三日


「三日」は、

さんじつ、
みか、
みっか、

等々と訓ませる。

みっか、

は、

みかの音便、

であり、本来は、

みか、

と訓んだらしい。万葉集に、

月たちて ただ三日(みか)づきの 眉ねかき け長く戀ひし 君にあへるかも」

とある「みかづき」の「みか」である。

「三日」は、「みっか」と訓むと、

日の数三つ。また、連続したその期間、
暦の月の三番目の日。また特に、正月三日、
漠然と、わずかな期間、

という意味だが、「みか」と訓むと、

三つの日数。みっか、
月の第三の日。みっか、
結婚後第三日目。三日(みか)の餅(もちい)(「三日の夜、御かはらけ取りて」(宇津保)、
誕生後第三日目。また、その日の祝い(「御うぶやしなひ、三日は例のただ、宮の御わたくし事にて」(源氏)、

と(大辞林・広辞苑)、特殊に、

三日(みか)の餅(もちい)、
産養(うぶやしない)の、第三夜(五夜、七夜、九夜と行われる)、

の意味で使われる。

さんじつ、

と訓ませると、

みっか。特に、正月の元日・2日・3日、
江戸時代の毎月の式日で、朔日(ついたち)、15日、28日の称。諸大名・旗本などは、この日麻裃(かみしも)で総登城した、

と(大辞林・広辞苑)、さらに特殊な意味である。

それにしても、「三日」というのは、特別な意味が持たされ、

わずか数日、

ながら、その数日で、

三日先さき知れば長者、

と先見の明の喩えにされ、

三日見ぬ間(ま)の桜、

は、変化の激しい喩えとされ、

三日にあげず、

は、

間をおかない意味で使われる。

漢字「三」(サン)の字は、

「指事。三本の横線で三を示す。また、参加の参と通じていて、いくつもまじること。また杉(サン)・衫(サン)などの音符彡(サン)の原形で、いくつも並んで紋様を成すの意味を含む」

とある(漢字源)。ちなみに、

「日本では、奈良時代にはサムと音訳し、三位(サンミ)・三線(サムセン)といった。三郎(サブロウ)のサブはその転音である」

とか(仝上)。

「三」には、「みっつ」という意味と「三番目」という意味の他に、

三三五五、

というように、

いくども、
たびたび、
再三

の意味があるが、

三易、
三戒、
三行、
三諫、
三鑑、
三儀、
三光、
三思、

等々三でまとめる言葉は無数にある(字源)。「三」で、すべてを言いつくしているという含意なのかもしれない。

「三日」には、

三日天下、

のように、短いという含意と、

三思、

のように、すべてという含意の他に、

三々九度、

というように使われるものがある。これは、

「三三九度は婚礼の中で、夫婦および両家の魂の共有・共通化をはかる儀式である。日本の共食信仰に基づく。また、古代中国の陰陽に由来する儀式で、陽の数である三や九が用いられた」

という意味があるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%89%E4%B9%9D%E5%BA%A6。この背景には、「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れた、本膳料理の、

式三献(さんこん、さんごん)、

の、

中世以降の酒宴の礼法。一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの、

という作法がある(デジタル大辞泉)。ここでも、「三」である。

「易の基本観念は陰陽の二爻であり(爻とは効(なら)い交わるの意。天地の現象に効って互いに交わり、また他に変ずるの意)、これを重ねること三にして、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦を成す。」

とあり(易経)、卦は爻と呼ばれる記号を三つ組み合わた三爻によりできる。たとえば、

「乾坤をもって父母とし、…一陽二陰の卦を男子、一陰二陽の卦を女子」

とする。八卦は、

「三爻を以って成るのは、陰陽の変によって天地人三才の道を包尽せんとす易の根本思想にのっとり、三才の道ここに備わらざるなきをしめしている」

とある(仝上)。「三」という数値は、ただ「三つ」ではなく、その意味で天地人の「すべて」をも含意している。

とすると、

三日相見(まみ)えざれぱ旧時の看を為すことなかれ、

とか、

士別れて三日まさに刮目して相俟つべし、

の三日とは、以後の長い年月すべてを含めている。たかが三日、されど三日である。

三日先知れば長者、

なのである。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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ラベル:三日
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2019年12月10日

羊羹


「羊羹」は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子で、寒天の添加量が多くしっかりとした固さの、

煉羊羹(ねりようかん)、

と、寒天が少なく柔らかい、

水羊羹(みずようかん)、

があり、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは、

蒸し羊羹、

と呼ばれる。単に「羊羹」という場合、煉羊羹を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、とある。

水羊羹(右)と葛饅頭(左).jpg

(水羊羹(右)と葛饅頭(左) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9より)


しかし、「羹」(漢音コウ、呉音キョウ、唐音カン)は、

あつもの、

の意で、

「会意。『羔(丸煮した子羊)+美』」

とあり、

肉と野菜を入れて煮た吸い物、

である。大言海は、

「カンは支那音羹(キャング)なるべきか。或は羹(カク)の音轉か(庚申(カウシン)、かんしん。甲乙(カフオツ)、かんおつ。冠(カウブリ)、かんむり。馨(カウバシ)、かんばし)。支那にて羊羹と云ふは、戦国策、中山策に、『中山君饗都士大夫、云々、羊羹不遍』とあり、羊肉のあつものなれば、固より當らず、是れは羊肝糕にて(糕は餅なり)、羹、糕同音なれば、通はせ用ゐたるまなり(羹を糕の意とし菓子の名とすと云ふ)。羊肝とは其形色、羊の肝に相似たれば云ふ。牛皮糖の如し」

とする。牛皮糖とは、求肥(ぎゅうひ)のことである。もともとは「羊羹」は、

「読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が『羊羹』を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる。冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となる。『羹』の通常の音(漢音)は『こう(かう)』で、『かん』は唐音」

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

羹に懲りて膾を吹く、

という諺の「羹」である。

「羹とは、古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」

ともあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/。「あつもの」で引くと、

臛(カク 肉のあつもの)、
懏(セン 臛の少ないもの)、

と載る(字源)。

「羊肝糕(ようかんこう)は紅豆白糖を以て剤となす。牛皮糖は糯粉糖(じゅふんとう)を以て超して滷(こ)して餅となすべし」

と中国の『金門歳節』にあるという(たべもの語源辞典)。

「羊肝は羊の肝で、糕(こう)は餻(こう)と同字、むし餅の類である。紅豆は赤小豆で白糖は白砂糖である。これは羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくったむしもちのようなもの」

である(仝上)、とある。唐書に、

「洛陽の人家、重陽に羊肝餅をつくる」

とある由で、唐代には、九月九日の重陽に羊肝餅をたべたのである(仝上)。

鎌倉・室町時代に、禅宗文化渡来とともに、日本に伝わった。しかし、

「獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国にある『羊羹』という料理名を用いた」(仝上)

が、その謂われには、諸説ある。

「羊肝こうが日本に伝来した際、『肝』と『羹』の音が似ていたことから混同され。『羊羹』の文字が使われるようになった。」(語源由来辞典)
「羊肝糕の糕と羹は同音であるから羊羹とした」(たべもの語源辞典)、
「羹は糕と同音なる糕というべきものも誤りて羹とかけり」(嬉遊笑覧)、

しかし、

「カンは唐音」(広辞苑)、

という説もあり、「カウ(コウ)」→「カン」の転音はあるのだろうか。さらに、獣を不潔とするので字を改めたとしても、「羊の字を変えなかったのは、どうしてだろうか」(たべもの語源辞典)、という疑問は残る。

「中国で羊の丸煮をいう羊羹に似せて作ったところから(たべもの語源抄=坂部甲次郎)、

という説が、あながち無理筋ではなく見えてくる。「羊羹」の初出は室町時代に書かれた『庭訓往来』の「点心」に、

羊羹・砂糖羊羹・筍羊羹・猪羊羹、

の名が挙がっている(たべもの語源辞典)。

「初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。また、当時は砂糖が国産でできなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。だが、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

煉羊羹が最初に作られたのは、京都で、天正十七年(1589)で鶴屋(岡本善右衛門)が、

「テングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9、たべもの語源辞典)。寛永三年(1626)に金沢で遠州流茶人金物屋忠左衛門が煉羊羹をつくり、宝暦年間(1751~64)に、

「(加賀藩の)十代藩主重教の江戸出府に従って、本郷の加賀下屋敷赤門に近い日影町に店を構え、『藤むら』の屋号で、ユリ羊羹など二七種つくりだす(たべもの語源辞典)。

江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われた

寛政の初めころ(1792)には、日本橋通一丁目横町字式部小路で売り出された「喜太郎羊羹」は評判となり、天保六年(1835)の『江戸名物詩初篇』には、鈴木越後、金沢丹後の羊羹が載っている(仝上)し、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

「茶の湯の口取に煉羊羹うばたまなどは紅粉や志津磨始て製す寛政の頃よりなり」

と載る(たべもの語源辞典)。煉羊羹の全盛になると、一方、

「初期の製法の羊羹(蒸し羊羹)は、安価な下物(煉羊羹の半値)になり、その一部は丁稚羊羹と称したものもある。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食された」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%BE%B9

ちなみに、羊羹を一棹、二棹と数えるのは、

「寒天を加えられたものを船型の箱に流し込んで凝結させ、これを細長く切るからで、江戸でも、大阪でもこれを棹物とよんだ」

ことによる(たべもの語源辞典)。

羊羹.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:羊羹
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2019年12月11日

湯葉


「湯葉」については、「豆腐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470815274.htmlに触れた時、

「豆腐」は、中国名をそのまま日本訓みしたもの。白壁に似ているので、女房詞で、

おかべ、

ともいう。豆腐をつくるときの皮は、老婆の皺に似ているので、

うば、

と言い、転じて、

ゆば(湯婆)、

と言い、豆腐の粕を、

きらず、

というのは、庖丁を用いなくても刻んだから、という。

おから、

である(たべもの語源辞典)、と書いた。しかし、

うば→ゆば、

の転訛とは限らないようだ。少し補足しておきたい。

「湯葉」は、言うまでもなく、

「豆乳を加熱した時、ラムスデン現象によって液面に形成される膜」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0、竹串などを使って引き上げる。精進料理の材料である。ラムスデン現象とは、

「牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により表面に膜が張る現象である。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって起こる。豆乳でできる膜は湯葉と呼ぶ。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1

「湯葉」は、

湯波、
油皮、
湯婆、


等々とも当てる。また、

イトヤキ、
豆腐皮(とうふかわ)、

とも呼ぶ(たべもの語源辞典)。中国では、

豆腐皮、
腐皮、

と書く(仝上)。中国では、

「シート状に干した「腐皮」(フーピー)と、棒状に絞ってから干した「腐竹」(フーチュー)が多く、日本の湯葉のような巻いた形状で市販されることはまれである。結んだ状態の「腐皮結」(フーピージエ)は中国でも作られている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0

はじめ、

うば、

と呼ばれ、

姥(うば)、

の字を当てたり、

豆腐の皮(うば)、

とも称した(たべもの語源辞典)。

液面の膜がゆばである.jpg

(液面の膜がゆばである https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0より)


豆腐との最大の差は製造方法である。

「豆腐はにがり等の凝固剤を使用して、大豆の植物性蛋白質を凝固(塩析)させたものであり、ゆばは凝固剤を使用せず、加熱により大豆の蛋白質が熱凝固したものである。凝固剤を使用しないため、大豆から製造できる量は豆腐の約10分の1程度と少ない」

とある(仝上)。日本の「湯葉」は、

「約1200年前に最澄が中国から仏教・茶・ゆばを持ち帰ったのが初めといわれ、日本最初のゆばは、滋賀県大津市に位置する比叡山の天台宗総本山の延暦寺に伝わり、比叡山麓の坂本…に童歌『山の坊さん何食うて暮らす、ゆばの付け焼き、定心房』として唄われたことが歴史的な記録に残っている。」

とある(仝上)。

「日本で最初にゆばの伝わった比叡山麗の京都や近江、古社寺の多い大和、そして日光、身延といった古くからの門前町が産地として有名で、京都と大和、身延では『湯葉』、日光では『湯波』と表記する。」

薄膜を竹の串で掬い上げ、くしごと棚にかけるが、

「日光湯波は、細い棚にかけ、二枚に分かれた湯波の裏表をつけて一枚に仕上げる。京湯葉は、くしで上げて棚にかけるとき、幅のある棚に渡して一枚を二枚に分ける。だから、二枚に切ったときトイ(戸樋)の部分ができ、この湯葉のトイを京では売っている。日光には折れ目に残るトイの部分がない。日光湯波は厚みが京湯葉の倍はある」

という(たべもの語源辞典)。京湯葉は一枚なのに、日光の/湯波は二枚重ねということになる。身延では湯葉を何枚も重ねて固めた「角ゆば」も作られているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%B0、とか。

さて、「ゆば」の語源であるが、大言海(日本語源広辞典)は、

うば(豆腐皮)の転(ゆだる、うだる。ゆでる、うでると同趣)、

とするが、「豆腐皮」をなぜ「うば」と訓ませたかの説明がない(たべもの語源辞典)。もちろん、

姥(うば)の訛りであり、黄色く皺のある様が姥の面皮に似ていることからそう言われるようになった、

というのは単なる語呂合わせの俗説。ほかに、

豆腐の上物の略のトウフノウハをさらに略したウバの転か(骨董集・上方語源辞典=前田勇)、
湯張の義(語簏)、
上端の意味で「上(うは)」から変化して「うば」となり、『ゆば』になった(語源由来辞典)、

等々あるが、その製造プロセスから見れば、

ウハ→ウバ、

の転訛とみるのが自然であるようだ。山東京伝『骨董集』が、

「ユバの本名はウバである。(中略)『異制庭訓往来』に、豆腐上物とあるのが本名だろう。豆腐をつくるとき上に浮かぶ皮であるからといったので、それを略して豆腐のウハバといい、音便には文字を濁ってウバといった。ウバとユバとウとユと横にかよへば、甚だしい誤りではない」

といった(たべもの語源辞典)、とある。『うば』が『ゆば』と呼ばれるようになったのは18世紀の終わり頃という(語源由来辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:湯婆 油皮 湯波 湯葉
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2019年12月12日

いざよい


「いざよい」は、

十六夜、

と当てると、

十六夜の月、

の意である。

十三夜月(十三日月)

小望月(十四日月)

満月(十五日月、望月)

十六夜月(十六日月、既望)

立待月(十七日月)

居待月(十八日月)

寝待月(十九日月、臥待月)

更待月(二十日月)

下弦の月(二十三夜月)

と続く、陰暦十六日月である。

十六夜の月.JPG

(十六夜の月)


満月よりも遅く、ためらうようにでてくるのでいう、

とある(広辞苑)。

月の出を早くと待っても、月が猶予うという気持ちから、

ともある(岩波古語辞典)。大言海は、

日没より少し後れて出づるに因りて、躊躇(いさよ)ふと云ふなり。イサヨフは、唯、やすらふの意の語なれど、特に此の月に云ふなり。…和訓栞、いさよひ『ヨヒを、青に通ハシ云ふ也』。十七夜の月を立待の月と云ひ、十八夜の月をゐまち(居待)の月と云ふ、

とする。「いさよふ」とあるのは、「いざよう(ふ)」が、

上代ではイサヨイと清音。鎌倉時代以後イザヨイと濁音。

であることによる(岩波古語辞典)。「十六夜月」も、

いさよひ、

と清音であった。「いざよふ」は、

(波・雲・月・心などが)ぐずぐずして早く進まない、動かず停滞している、

という意味である(仝上)が、「いさよふ」の語源を、岩波古語辞典は、

イサはイサ(否)・イサカヒ(諍)・イサヒ(叱)と同根。全身を抑制する意。ヨヒはタダヨヒ(漂)のヨヒに同じ、

とし、大言海は、

不知(いさ)の活用にて、否(イナ)の義に移り、否みて進まぬ意にてもあらむか。ヨフは、揺(うご)きて定まらぬ意の、助動詞の如きもの、タダヨフ(漂蕩)、モコヨフ(蜿蜒)の類、

とし、微妙に違う。「よひ」は、

ただよひ、
かがよひ、
もごよひ、

などの「よひ」で、動揺し、揺曳する意(岩波古語辞典)として、「いさ」は、

否、
不知、

と当て、

「イサカヒ・イサチ・イサヒ・イサメ(禁)・イサヨヒなどと同根。相手に対する拒否・抑制の気持ちを表す」

とあり(仝上)、相手の言葉に対して、

さあ、いさ知らない、
さあ、いさわからない、

という使い方をしたり、「いや」「いやなに」「ええと」など、相手をはぐらかしたりするのに使う(岩波古語辞典)、とある。これだと、月が、

はぐらかしている、

という含意になる。どちらとも決めかねるが、個人的には、「はぐらかす」よりは、「出しぶる」意味の方がいいような気がする。

日本語源大辞典は、

「いさ」は感動詞「いさ」と同根。「よふ」は「ただよふ(漂)」などの「よふ」か、

とする。「いさ」は、

さあ、

と人を誘うときや、自分が思い立った時、

の言葉だが(岩波古語辞典)、通常、

いざ、

と濁る。大言海は、

率、
去来、

と当て、

イは、発語、サは誘う声の、ささ(さあさあ)の、サなり。いざいざと重ねても云ふ。…発語を冠するによりて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率の字は、ひきゐるにて、誘引する意。開花天皇の春日率川宮も、古事記には、伊邪川(いざかはの)宮とあり、

とする。そして、「いさ」(不知)と「いざ」(率)と混ずべからず、としている(大言海)。やはり、感嘆詞は、無理があるかもしれない。

因みに、「いざ」に、

去来、

と当てるのは、「帰去来」からきている。帰去来は、

かへんなむいざ、

と訓ませるが、

訓点の語、帰りなむ、いざの音便。仮名ナムは、完了の助動詞。來(ライ)の字にイザを充(あ)つ。來(ライ)は、助語にて、助語審象に『來者、誘而啓之之辞』など見ゆ(字典に『來、呼也』、周禮、春官『大祝來瞽』。來たれの義より、イザの意となる)。帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが語の下にあるなり。史記、帰去来辞(ききょらいのことば)、など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり、

とある(大言海)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2019年12月13日


「蓮」(はす)の地下茎は、

蓮根(れんこん)、

という。ハスの花と睡蓮を指して、

蓮華(れんげ)、

といい、仏教とともに伝来し古くから使われた。「蓮」は、

芙蓉(ふよう)、
水華(すいか)、
渓客(けいきゃく)、
君子花(くんしか)、
水宮仙子(かいきゅうせんし)、
不語仙(ふごせん)、

といった中国名があるが、

草芙蓉(くさふよう)、
露堪草(つゆたえぐさ)、
ツマナシキグサ、
ツレナシグサ、
水堪草(ミズタエグサ)、

等々の名もあり、古名には、

水の花、
池見草(いけみぐさ)、
水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、

等々の異称をもつ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9、たべもの語源辞典)。日本での古名は、

はちす、

で、花托の形状を蜂の巣に見立てた、

蜂巣、

の意である(岩波古語辞典)。「はす(蓮)」は、

ハチスの転訛、

とされる(仝上)。

「ハスの実の入っている花托には孔がたくさんあって、そこに実が収まっているのだが、その形がハチの巣によく似ている」(たべもの語源辞典)

ハスの花托。蜂の巣状に見える.jpg

(ハスの花托。蜂の巣状に見える https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9より)


ためである。ただ、

「『色葉字類抄』の『荷 ハチス 俗ハス』の記述から、平安後期にはハチスが正しく、ハスは俗語意識されていたことがわかる」

とあり(日本語源大辞典)、「ハチス」が正式な名であった。

和名抄には、

蓮子、波知須乃美、

本草和名には、

藕實、波知須乃美、

とある(大言海)。

「蓮」(レン)の字は、

「会意兼形声。『艸+音符連(レン 連なる)』。株がつらなって生えているからいう」

とある(漢字源)。漢字では「蓮」の他に、

荷、
藕、

とも当てる。「荷」(漢音カ、呉音ガ)は、

「会意兼形声。『艸+音符何(人が直角に、荷物をのせたさま)』で、茎の先端に直角に乗ったような形をしているハスの葉のこと。になうの意は、もと何と書かれたが、何が疑問詞に使われたため、荷がになう意に用いられるようになった」

とあり、「荷」が「ハス」の総称。「藕」(グウ、漢音ゴウ、呉音グ)は、

「会意兼形声。『艸+耒+音符禺(グ ならぶ、似た物)』。同じ形をした根茎が次々と並ぶ植物」

とあり、はすの根の意である。

水面に繁殖するハス.jpg


「茎の上にT型に乗った形で花や葉がつく。実を蓮(レン)といい、根を藕(グウ)といい、ともに食用にする」

とある(漢字源)。で、

蓮根、

という言葉は、和製語である。

レンコン.jpg



日本国内においては、考古学資料として大賀ハスの例があり、2,000年以上前の縄文時代に既にあった、

とする説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3。万葉時代、

はちす葉はかくこそ有るもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うら)のはにあらし、

という歌があり、わが家の蓮は芋の葉のようだと謙遜し、主人のものをほめているhttp://www.pref.nara.jp/45517.htm。『常陸国風土記』(718年)には、

「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%B3。『延喜式』(927年)には、蓮の根がでてくる、らしい(たべもの語源辞典)。

「ハスの花は紅と白がある。紅花の蓮根は俗に『みはす』といい、大きいが粘りが少ない。白花の蓮根は通常『もちはす』と称して、小さいが粘りが多くおいしい。関東地方のハスは品質が優れている。九州地方は大きいものを産するが、味はやや劣る。そこでその大きな穴に芥子を詰めた『芥子蓮根』などが創作された」

とある(たべもの語源辞典)。

ハスには薬効がある。

「切ったハスが空気に触れて黒くなるのは、鉄分とタンニンによるのだが、このタンニンが止血作用を持っている。このしぼり汁には咳止めの効果もある。鉄分は貧血の人に良く、しぼり汁はカリウムが多いから血圧の上昇を予防する。食塩などのナトリウムの多い物をとったとき、カリウムがその排泄を促すことになる。ビタミンCが多いことも高血圧の予防になる」

と(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:はちす 蓮華 蓮根
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2019年12月14日

法被と半纏


「法被」と「半纏」については、「取締り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/416259870.htmlで、三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』に触れたことがある。

捕物出役に出かけていく際、当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えているが、

「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」

「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」

という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。

この記述から見える、与力の供の、

草履取が法被、
槍持が半纏、
同心が半纏、
同心の供の物持ちが法被、

という、法被と半纏が着分けの原則が全く分からない。

法被は、

半被、

とも当て、半纏は、

袢天、
半纏、
絆纏、

とも当てる。

「法被」(ハッピ)は、元々、

ハフヒ(法被)の音便、

とある(大言海、岩波古語辞典)。

禅家で椅子の背にかける布、

を指した。禅林象器箋に、

法被、覆裏椅子之被也、

とある。それが、

もと武家にて、隷卒(しもべ)の表衣に着する羽織の如きもの。家の標など染付く。今一般に、職人などこれを用ゐる。しるしばんてん、カンバン、

という意味をももつようになる、とする(大言海)。しかし、どうも「羽織の如きもの」に当てる「法被」は、当て字で、禅家の「椅子の背にかける」ものとは別物ではないか、と思われる。

「法被」の前史は、肩衣(かたぎぬ)であり、「法被」は、その変形らしい。

肩衣袴姿の信長.jpg


最も原始的な服として、肩から前身(まえみ)と後身(うしろみ)とを覆い、前は垂領(たりくび)に引き合わす上半身衣を、ふるくから肩衣と呼んで一般に使用され、『万葉集』にも、木綿(ゆう)肩衣・布肩衣の名称がみえている。朝廷においては、大嘗会の儀の出納の小忌衣(おみごろも)にその俤を存する他、もっぱら下層の者に用いられた。
 そしてまたこの両脇を縫い塞いだものを手無しとも胴衣(どうぎ)とも称して、もっぱら労働の用とし、肩衣は主として小袖などの上にはおって、上着として用いた(有職故実図典)、とある。

『装束着用之図』(国立国会図書館蔵)より「素襖」の図。.jpg

(『装束着用之図』より「素襖」の図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E8%A5%96より)


室町時代末期になると、世も乱れ、室町幕府も衰微し、恒例の行事、儀式は行えず、服装も簡略化し、もっぱら

一重革紐のいわゆる素襖(すおう)、

で用を足すようになる。しかし、袖の大形なのは行動に不便なため、時に応じては内側に深く折りたたんだが、なお面倒であることから、ついに袖付より切り離して、再び原始の形に戻り、その形象が似ていることから、

半臂(はんぴ)、

といい、

法被、

とも書いた(仝上)、とある。禅宗のいう、

法被、

とは別由来であり、別物である、と考えていい。やがて、それが、元の肩衣に復し、略式礼装として登場し、戦国武士に好んで用いられ、肩衣は、徳川時代武家の正装とされるに至る(仝上)。

この「半臂(はんぴ)」といい「法被」といったものが、江戸時代の武家社会で、今日の「法被」として出現することになる。

「武士が家紋を大きく染め抜いた羽織を着用したことが法被の始まりのようです。当時は衿(えり)を返して着用していたようですが、江戸時代の末期になり、庶民に広がると衿を返さないで着るようになった」

とあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/のは、少し説明をはしょりすぎのようである。

羽織.png



上述の三田村鳶魚の話にあるように、上級武士(たとえば与力)は羽織袴を着る。「羽織」は、

「安土桃山時代から戦国武将に戦場での防寒着として鎧の上から陣羽織が着用されるようになり、便利であったためかすぐに日常でも着用されるようになった。この頃は『羽織』という名称ではなく『胴服』といわれていた。服装の順位としては将軍へのお目見えの時に使う直垂・大紋・素襖、士分の制服ともいえる裃より下にランクされる物で、普段着の扱いであった。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94

あるいは憶説かもしれないが、陣羽織は、袖がなく、肩衣の脇を縫い閉じたものとほとんど変わらない。肩衣ではなく、陣羽織から、法被が再登場したと見えなくはない。

羽織は、室町時代後期頃から用いられたが、現在のような形の、

丈の短い、防寒・礼装などの目的から、長着・小袖の上にはおって着る、

形の羽織が一般的になったのは近世に入ってからである(仝上)。動詞「はおる」の連用形が名詞化したもので、羽織は当て字、とある(仝上)。

で、主人が、

羽織、

着用なのに対して、

仲間(ちゅうげん)や下級武士が着用したのが、

法被、

ということになる。羽織の代用という感じである。

家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源、

とあるhttp://www.so-bien.com/kimono/syurui/happi.html。本来の「法被」は、

襟を返して着用、

し、まさに羽織のように、

胸紐つきの単(ひとえ)だった、

ようであるhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/。それを職人や町火消なども着用するようになった。しかし、幕府から一般庶民に羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織や法被の代わりに、

襟を返さないで着用する法被、

が庶民の間で普及したhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/。つまり、

襟を折り返すのが羽織、
襟を返さないのが法被、

と区別し、さらに袖も、

羽織は袂(たもと)袖、
法被は筒袖、

と区別しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8F

襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた、襟を返さない法被、

が、

印半纏、

と呼ばれるようになる。ここに、「半纏」と「法被」が重なる要因がある。

半纏(四時交加).jpg

(半纏 日本語源大辞典より)


「半纏」は、

袷(あわせ)、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%A2%AB

由来は、「法被」とは異なり、語源は、

袖の丈が半分程しかないことから「半丁(はんてん)」となづけ、この「半」に「纏う(まとう)」の字を足して、「半纏」と書く(仝上)、
ふつうの袖の半分の幅であることから、袖のある衣服と袖なしとの間の意でいうハンテ(半手)の音便(筆の御霊)、
長さがふつうの着物の半分であることから(木綿以前=柳田國男)、

等々とされる。大言海は、

羽織に似て、…半襟など掛け、胸紐を用ゐず、賤人の用なり、ヌノカタギヌ、

とする(大言海)。「賤人の用なり」というのは、

「江戸時代、とくに18世紀頃から庶民の間で着用されるようになった。主に職人や店員など都市部の肉体労働者の作業着として戦後まで広く使用され、労働者階級を示す『半纏着(の者)』という語があった。種類については袖の形による広袖袢纏、角袖袢纏、筒袖袢纏、デザインの面では定紋や屋号などを染めつけた印袢纏などがある。印半纏は雇い人に支給されたり、出入りの職人などに祝儀に与えられることも多く、職人階級では正装として通用し、俗に窮屈羽織とも呼ばれた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8Fところからきている。それと今日使う、「半纏」つまり、綿入りのそれは、

「袷(あわせ、表地と裏地の二重)にしてその間に綿を入れたもので、衿は黒繻子をかけたものが一般的である。主に室内用の防寒着として用いられ、男性・女性に限らず着用される。」

という(仝上)ところから、同じ「袢纏」と称してもまったく違う用途の発祥とみられ(仝上)、「半纏」は、

実は江戸時代では庶民の間で着用されるようになった防寒着のこと、

とする説もあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/。実のところ、半纏の由来ははっきりしていない。

それにしても、半纏と法被の違いは、なんだろう。たとえば、「法被」を引くと、

しるしばんてん、

と載り、「半纏」を引くと、

印半纏の略、

と載り、ほとんど、法被と半纏の区別がつかなくなっている。

「法被が生まれたのは江戸時代初期の頃でした。法被は(中略)元々は羽織のひとつとして、家紋などを染め抜いたものを武家が着用し始めたのが起源とされています。その見た目は当時の一般庶民の間でも格好良いと憧れを抱く存在であったようですが、当時の身分制度の維持を図るために、身分相応以上の服装をしてはいけないという法令があり、武家よりも下の身分の者にはこの法被の着用は許されておりませんでした。
そこで作成されたのが安い袢纏です。
当時の法被は羽織と同様、襟を返すものでしたが、半纏は襟を返さず、またその法令に触れないような木綿などの素材で作られました。そのため法被の中には広袖のもの存在しますが、半纏にはそれがないのもそういった理由からのようです。そしてその袢纏は次第に庶民の生活に深く密着した普段着や作業着となっていったのです。」

という説明https://www.gfmd2008.org/infomation/tigai.htmlが、比較的推移を正確に描いている感じである。こう見ると、襟を着返さない法被が、もともとあった防寒用の半纏と重なって、印半纏になったのかもしれない。

「袢纏は逆に庶民・町民・職人を中心に日常生活で着用された。江戸時代に一般庶民は羽織禁止令が出たため、襟を返す羽織(当時の法被も襟を返して着用)の代わりに法被が形を変え、その末端で袢纏との混同が始まったようだ。」

というhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/のも、そのあたりの経緯を憶測させる。

衣食住之内家職幼絵解之図.jpg

(錦絵にみる仕事着 印半纏・股引姿の大工。歌川国輝画 『衣食住之内家職幼絵解之図』http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=807より)

上述の、鳶魚の説明の与力、同心の出役の出で立ちで、与力の供の、

槍持が共襟の半纏に結びっきり帯,
草履取が勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯、背中に大きな紋、

であり、同心も、

羽織袴に,麻の裏のついた鎖帷子の上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏、

を着ている。つまり、半纏も、法被も、ともに、武家の供の者、あるいは足軽級(同心は足軽)の武士が着ていた、とされるのは、あるいは、すでに、半纏と法被の混同が始まった後のことのように思われる。

上述のように、法被は、

「広袖もしくは筒袖で、腰~膝丈の上着で、襟を羽織のように折り返して着ます。もともとは武家の仲間や大店の下僕、職人などが、主の紋や屋号のついたものを着用しました。」

が、幕府の禁制前は、襟を返して(折って)着ていた。

「羽織禁止令が出たため、庶民は衿を返す羽織や法被の代わりに、『衿を返さないで着用する法被』を着るようになりました。それは『印半纏』とも呼ばれ、江戸の人々の生活に根付いていきました。」

とあるhttps://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/

法被.png



しかし、敢えて勘ぐるなら、町人が、

法被、

ではなく、

半纏、

だというために、

印半纏、

と呼んだのかもしれない。半纏は、

「羽織に似るが、実生活向きに簡略化されて、腋に襠(マチ)がなく、丈もやや短めで胸紐をつけて、襟も折り返さないで、着る」

とある(日本語源大辞典)のは、そんな傍証に見えてくる。

赤い綿入れ袢纏.jpg

(赤い綿入れ袢纏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%A2%E7%BA%8Fより)


法被、半纏の区別は曖昧になっているので、たとえば、

「防寒用の『綿入り半纏』『どてら』と、襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた『印半纏』は、基本的にまったく違う用途と文化があり、『法被=印半纏』というのが、現在の一般的な見解のようです。当社で製作している半纏は、いわゆる「法被」であり、「印半纏」です。」

と言い切るところもあるhttps://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:半纏 法被
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2019年12月15日

ういろう


「ういろう」は、

外郎、

と当てる。

「ういろう」というと、歌舞伎の外郎売りの、

親方と申すは、お立ち合いの内に御存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名乗りまする。元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで、御手に入れまする此の薬は、昔、ちんの国の唐人、外郎(ういろう)という人、わが朝(ちょう)へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒(いちりゅう)ずつ、冠(かぶり)の隙間より取り出だす。依って其の名を帝より、透頂香(とうちんこう)と賜わる。即ち文字には、頂(いただき)、透(す)く、香(にお)いと書きて、とうちんこうと申す云々、

と続くセリフを思い出すが、これは、享保3年(1718)江戸森田座の「若緑勢曽我 (わかみどりいきおいそが) 」で二世市川団十郎が初演。外郎売りが妙薬の由来や効能を雄弁に述べる。

二代目市川団十郎.jpg

(歌舞伎十八番 外郎 二代目市川団十郎・勝川春章 https://www.benricho.org/kotoba_lesson/Uirouri/Nishikie/より)


しかし、「ういろう」には、

外郎薬、

外郎餅、

と、薬と菓子の二つがある。また、「ういろう」を売る「外郎売り」の略の意でもある。

ういろう、

は、唐音らしく、たとえば、

元の人、礼部 (れいほう) 員外郎 (いんがいろう) 陳宗敬が、応安(1368~1375)年中、日本に渡来し、博多に住んで創薬した薬。その子 陳宗奇は京都西洞院に移って外郎家と称し、透頂香 (とうちんこう) の名で売り出し、のち、小田原に伝えられ、江戸時代に評判をとる。痰の妙薬で、口臭を消すのにも用いる、

という薬の意味と、

菓子の名。米の粉・砂糖・葛粉などを混ぜて蒸したもの。元は黒砂糖を使い、色が透頂香に似る。山口・名古屋の名産、ういろうもち、

とある(広辞苑、デジタル大辞泉)。

「ういろう」(ういらう)とそのパッケージと説明.jpg

(「ういろう」(ういらう)とそのパッケージ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%86_(%E8%96%AC%E5%93%81)より)


戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った、とあり、

「1539年(天文8年)に宇野藤右衛門は北条氏綱から河越城郊外の今成郷を与えられ、『小田原衆所領役帳』にも今成にて200貫465文を与えられた馬廻衆の格式で記載されるなど、小田原外郎家は後北条家から所領を与えられて御用商人としての役割を果たしたとみられている。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%86_(%E8%96%AC%E5%93%81。外郎は、いまも、外郎家が経営する薬局で市販されているhttp://www.uirou.co.jp/kashi1.html

なお、歌舞伎十八番の一つ外郎売りは、

「曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない」

という(仝上)。「外郎薬」の由来には、別説もある。

「大覚禅師(鎌倉、建長寺の始祖)が宋から来朝したとき、この薬を伝えたとも、大覚禅師に随行して宋からきた官人が京都に止まって、この薬を売り始め、宋音で外郎の『外』を『ウイ』と発音したのに始まる」

と(たべもの語源辞典)。

なお、「透頂香 」の「とうちん」は宋音、らしい。

小田原のういろう.jpg

(「東海道名所圖會」(竹原春泉斎)「外郎家」の店構え https://www.benricho.org/kotoba_lesson/Uirouri/Nishikie/より)


この、

ういろう餅、

の由来が、透頂香と重なるらしいのである。たとえば、

「陳外郎の子孫である外郎家がもてなしに使った菓子も評判となり「外郎」として広まったのだとか。また、外郎薬の口直しに用いた菓子だったからとか、薬の形や色に似た菓子だったから、「外郎」と呼ぶようになった、ともいわれています。」https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-802/

「陳外郎の子孫である外郎家がもてなしに使った菓子も評判となり「外郎」として広まったのだとか。また、外郎薬の口直しに用いた菓子だったからとか、薬の形や色に似た菓子だったから、「外郎」と呼ぶようになった、ともいわれています。」https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-802/

等々、ただ外郎薬に色が似ていただけでなく、外郎家とつなげ「菓子のういろうの名の由来については、この外郎家が製法を伝えたため」とする説さえある。

しかし、他方、

「ういろうもちの現在の製法は、室町時代に、周防山口の秋津次郎作が考えた」http://gogen-allguide.com/u/uirou.html
「美濃の高須に平屋と云へる外郎屋ありしが、当地袋町五丁目の餅屋水谷文蔵は、之と親戚なるを以て、其製法の秘を得、元治元年、試験的に売り始め、普通餅の製造の余業とせり、其後間もなく外郎発売を主としたり」(名古屋市史)、

等々、「ういろう」の名産地での創作の説がある。その「餅文総本店」のホームページには、

「名古屋に伝わったのは、尾張の御用商人だった初代の餅屋文蔵が二代目藩主徳川光友の知恵袋として仕えた明の国出身で書、医学、菓子の知識が深かった陳元贇から製法を教わったのが始まり」

とあるhttp://www.mochibun.co.jp/。この「陳元贇」が「外郎薬」の陳とつながるかどうかははっきりしない。しかし、

「天和二年(1682)八月来朝した朝鮮通信使饗応の献立の中に『外郎餅』がある」

とある(たべもの語源辞典)。山口・名古屋・広島・糸崎・小郡など、に外郎に似たものがある。無理に「外郎薬」の由来とつなげず、

「これが菓子の名になったのは、昔、『たん切り』という餅菓子があって、この『外郎』というたん切りの妙薬と色も形も似ていたからである」

とする(たべもの語源辞典)のが無難のようである。ただ、銀の粒の「外郎」薬からは、「ういろうもち」とどこが似ているのかは、ちょっとわからない。『東海道中膝栗毛』で主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを買い、袋を開けると小さな粒で、それを食べてしまって苦い顔をする場面、ここでは明らかに銀の粒のようである。

小田原のういろう(株式会社ういろう).jpg

(小田原のういろう(株式会社ういろう) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%86_(%E8%8F%93%E5%AD%90)より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月16日

よね


「米」は、

こめ、

と訓むが、漢字では、

ベイ(漢音)、
マイ(呉音)、

と訓み、共に日本語でも、

米価・米穀・米作・米飯等々、

外米・玄米・産米・新米・精米・洗米・白米・飯米・禄米等々、
と、

それぞれ訓む。また「米」は、

よね、
めめ、

とも訓む。「めめ」は、

女房詞、

で(岩波古語辞典辞典)、

めを重ねたる語、

で(大言海)、「こめ」を言い換えたものに思われる。では、

よね、

と訓むのは何か。

米沢、
米山、
米子、

等々、「よね」とつながる地名も多い。

こめhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/454757401.htmlで触れたように、

「契沖は,脱穀したものがコメ,更に精白したものがヨネではないかとしている(『随筆・円珠庵雑記』)。しかし,中古・中世の文献によると,漢文訓読および和文的な作品でヨネが多く,説話や故実書,キリシタン文献などでコメを用いている。これはヨネが雅語的・文章語的性格を有したのに対して,コメが実用語的・口頭語的な性格が強かったからではないかと解釈される。方言でヨネの類がほとんど見当たらないのも,話し言葉では早くからコメが用いられていたことを意味する。」

とあり(日本語源大辞典)、「こめ」と「よね」は、並立して使われた来たらしい。

葛飾北斎の『富嶽三十六景』に描かれる水車の流れ水で米を研ぐ農夫.jpg

(葛飾北斎の『富嶽三十六景』 水車の流れ水で米を研ぐ農夫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3より)

「稲(しね)の死ねに通ふのを忌みて、吉(よ)ねと云ふなりと云ふ。葦(悪)をよし(善)と云ふが如し」

とある(大言海)。これだけだとわからないが、「しね」を引くと、

「天爾波(てにをは)のシニ、稲の約まりたるが付きたる語か」

とあり(仝上)、

熟語にのみ用ゐる(大言海)、
他の語の下につくときに使う(岩波古語辞典)、

とある。たとえば、

十握稲穂(トツカシネノホ 顕宗即位前紀)、
和稲荒稲(ニギシネアラシネ 大忌祭祝詞)、
御稲(みしね)つく女(おみな)(神楽歌)

等々(大言海、岩波古語辞典)。用例から見ると、ふるく、

シネ、

と訓んでいたらしい。その流れで、

雅語的・文章語、

の文脈では、

よね、

と訓ませたもののように見える。

他の語源説を見ると、

ヨキタネ(嘉種)の義(東雅)、
ヨキイネ(美稲・味稲)の中略(類聚名物考・和訓集説)、
ヨキネ(良米)の義(名言通)、

等々、「良い」と関わらせる説が多い。他に、

ヨネ(世根)の義(柴門和語類集・折口学への招待=高橋正秀)、
ヨはヨハヒ(齢)のヨ。ネは根の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ユミ(小子)の義。コメ(米)に通ず(言元梯)、
イナホザネ(稲穂実)の義(日本語原学=林甕臣)、
イトノベ(糸延)の反(名語記)、
ヤナグヒ(箶簶)と同源のヤナから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々があるが、「ヨネ」の語呂合わせにしか見えない。それなら、

イナ(稲)の母音交替形ヨナの転(岩波古語辞典)、

の方が筋が通る。「いな」は、「いね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454779702.htmlで触れたように、

イネの古形、

である。憶説だが、

イナ→ヨナ→ヨネ、

という転訛ではあるまいか。「よな」の訓みの古さから考えても、また「こめ」と並行して使われていたことからも、あり得ると思うがどうだろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:よね
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2019年12月17日

うどん


「うどん」は、

饂飩、

と当てる。

うんどんの転、

とある(岩波古語辞典)。つまり、

饂飩、

の音読みである。

「饂は温なるに、飩の食偏に連れて、連字改偏旁せしなり、輻湊を輻輳、爛漫を爛熳とする類」

とある(大言海)。

「奈良時代に渡来した唐菓子に『混沌』というものがある。『混沌』は物事のけじめがつなかいさまをいうが、小麦粉の皮に餡(肉や糖蜜など)を包んで煮たもの(丸いワンタンのようなもの)で、丸めた団子はくるくるして端がないことから『こんとん』とよばれた。たべものなので食偏に改めて『餛飩』と書いた。熱いたべものなので『温飩』と書くようにもなり、これが、また食偏に変わって『饂飩』になった」

ということである(たべもの語源辞典)。

「丸い形のものだったので、それを切って細くしたとき、切麦(切麺とも書く)というよび名も生まれた。…熱したものを『あつむぎ』、冷やしたのを『ひやむぎ』とよんだ。オントン(温飩)がウントン(饂飩)になって、室町時代に。ウドンというよび名が使われ始めた。しかし江戸時代になっても、ウンドンというよび名がウドンとともに用いられていた」

とある(仝上)。

江戸時代のうどん売り.jpg

(江戸時代のうどん売り・守貞謾稿 http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/7.htmlより)


ちなみに、切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれてきたが、

「細い物などは『冷麦』『素麺』と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はなく、細い麺であっても『稲庭うどん』の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については『きしめん、ひもかわ』と称してよいと規定があり、これらもうどんの一種類に含まれる」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93

「うどん」発祥については、

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。青木正児の「饂飩の歴史」によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩」(コントン)と書き、またこれを「餫飩」(ウントン、コントン)とも書き、これが同じ読み方の「温飩」(ウントン)という表記になり、これが「饂飩」(ウドン)となったとする(仝上)、

上記の説以外にも、

平安時代に空海が唐から饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという説、
平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「はくたく」を食べたという「小右記」の記述から、発祥は奈良とする説、
仁治2年(1241年)に中国から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、「饂飩・蕎麦・饅頭」などの粉物食文化を広めたとする説(承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑がある)、
中国から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説(奥村彪生によれば、麵を加熱して付け汁で食するものは中国には無く、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別ものであり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする)、

等々がある(仝上)。特に、日本発祥かどうかは別に、

「小麦粉の皮に餡を包んだワンタンのようなものと、そば状の『うどん』とは、まったく別種のたべものなので、渡来したとき、初めからこの二つは別々のものとしてはいってきたのではないかと考える」

とする説(たべもの語源辞典)もある。だから、

こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、

の変化とは別系統の、

索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、

という流れがある、とする説がある。それによると、

「西アジアから伝わった小麦文化は、中国で麺の原型となる食べものに変化します。中国で『麺(ミエン)』というのは、もともとは小麦粉のことを指し、日本でいう『麺』にあたるものは『麺条(ミエンテイアオ)』と呼ばれていました。小麦を加工した食品には他に『餅』がありますが、これは日本の『もち』ではなく『ピン』といって、その後登場する麺の原型となった食べものです。」

「『餅(ピン)』には、練った小麦粉を現在の饅頭や焼売のように蒸した『蒸餅(ツエピン)』、パンや煎餅のように焼いた『焼餅(サオピン)』、小麦粉に『みょうばん』や『かんすい』などの添加物を加えて棒状にねじって油で揚げた『油餅(イウピン)』、スープの中に入れてゆでた『湯餅(タンピン)』の4種類があります。この4種類の中で、「ゆでる」という調理法が現在の「麺」に発展していくのです。」

https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.htmlし、餅(ピン)が「うどん」に変化していく、とする。

まず、「索餅(さくべい)」という、中国最古の麺と呼ばれる、小麦粉と米粉を混ぜて塩水で練り、縄状にねじった太い麺がある。

「日本でも奈良時代にはたくさんの「索餅」が作れていたようです。小麦粉の大量生産のために大型の回転式臼を使用していたといわれ、東大寺境内の古井戸からは臼の破片が発見されています。また平安時代には、長寿祈願の食べものとして宮中でも供応されていたといわれています。」(仝上)

清の時代に書かれた書物には、

「『索餅は水引餅(すいいんべい)のことである』と書かれています。「水引餅」とは、紐状にした麺を水につけてから人差し指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように薄く手延べしたものを指します。これをスープに入れてゆでて食べる」

らしく、うどんの直接の原型とみられている(仝上)。

太い縄状にねじった太い「索餅(さくべい)」の次に現れるのは、それを細く伸ばした、「麦縄(むぎなわ)」になる。

「『索餅』の『索』という漢字には『縄』という意味があり、『麦縄(むぎなわ)』という文字は『索餅』の直訳で、同じ食べものを指します。」

そして、「切麦」となる。

「小麦粉を水でこねて細く切った『切麦』という、うどんの原型が登場します。中国では小麦粉を使わずに麺がグルテン化しない素材(米、そば、緑豆等)を、円筒形の筒から直接湯の中に入れてゆでる食べ方があります。さらに中国の麺作りの進化の過程で、包丁で麺を切り出す方法が生まれます。宗の時代にはこれを『切麺(チェミェン)』と呼び、『切麦』のルーツといわれています。」

という流れで見るhttps://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.htmlと、やはり、ワンタン状の

こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、

というの変化には無理があり、別系統の、

索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、

という、

太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→切麦(うどん)、

の方が自然に思われる。

なお今日では、「うどん」はとうがらしだが、江戸時代中期までは、薬味はコショウで、必ず梅干しが添えられていた。江戸時代後期にトウガラシ栽培が軌道に乗るに連れ、その地位を奪われることになる(たべもの語源辞典、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93)。

「そば」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437123006.html
「蕎麦切」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.html

についてはすでに、それぞれ触れたが、由来から見ると、歴史的には蕎麦(蕎麦切り)よりうどんの方が古い、ということになる。

茹であげた状態のうどん.jpg

(茹であげた状態のうどん https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:饂飩 うどん
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2019年12月18日

へぼ


「へぼ」は、

へた、わざのまずいこと、またそのひと、
野菜・果物などのできのわるいもの、

という意味が載る(広辞苑)。大言海は、

つたなきこと、へっぽこ、平凡、
転じて、野菜などの出来損じたるもの、

と載る。しかし、

へた、
とか
技の拙さ、

の意は、

へぼ将棋、
へぼな絵、

という言い方で、相手の拙さをあざける含意がある。しかし、そこから転じても、

へぼキュウリ、

というような、

できそこない、

の意になるだろうか。

大言海も広辞苑も、「へぼ」を、

平凡の略、

とする。

技が拙いこと、

は、意味としてかろうじて「平凡」に掠るが、しかし、それが、

できそこない、

の意に点ずるとは到底思えない。しかし、語源由来辞典も、

「平凡の略 という。主に俗語を集めた江戸末期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には、『 へぼ、下濁、下手をヘボと云う』とある。へぼいは、へぼが形容詞化されたもの。」

と、やはり、

平凡、

とする。日本語源広辞典は、二説挙げ、平凡の略の他に、

「へ(浅薄)+ボ(男)」

で、

つまらない男、

の意とする。しかし、それでも、それが、

技の拙さ、

には、つながらないし、まして、

できそこない、

には、つながる気が、あまりしない。

「へぼ」は、岩波古語辞典には載らないが、江戸語大辞典辞典には、

屁坊の短呼か、

と載る。

拙劣、
下手、
無力、

の意である。江戸語大辞典には、

へぼ隠居(無力の隠居)、
へぼ学者(学力の乏しい学者)、
へぼ拳(下手な拳、またその打ち手)、
へぼ将棋、
へぼ浄瑠璃、
へぼ太夫(へたくそな浄瑠璃語り)、
へぼ役者(へたくそな芝居役者、地位の低い芝居役者)、
へぼ流(技の拙劣なるを一流派の如く言いなした戯言)、

と、拙い意味で使う例が載る。野菜については、

へぼ瓜、

が載るが、

蔓の末端に生った瓜、最も貧弱な売り、

と載る。どうみても、「へぼ」は、

平凡、

ではなく、

その技倆をあざけり、揶揄している。だから、

へぼ瓜、

は、

出来損ない、

というよりは、

使い物にならない、

という含意がある。そこから、

へぼ茄子、

と意味が転化するのは筋が通る。問題は、「へぼ」というとき、

平凡、

などと云う貶め方ではないことだ。

へぼくた(朽)、

という言い方が載る。

「へぼ」の強調語、

で、

下手くそ、

と「くそ」を付けたのと似ている。語源が、

屁坊、

かどうかは別に、

へぼ役者、

とあざけった時、それは、

かなりの程度に下手糞だと言っているのである。少なくとも、

平凡、

でないことは確かである。

ここからは憶説であるが、「へぼ」に似た言葉で、

へっぽこ、

という言葉がある。

技倆の劣った者、役に立たない者をののしっていう、

という意味で、「へぼ」と重なる。

へっぽこ役者
と、
へぼ役者、

は同義である。

屁っぽこ、

とあてる(江戸語大辞典)。

へっぽこ(heppoko)→へぼ(hebo)

の転訛ではあるまいか。「屁坊」の「屁」は、ののしり、あざけりの意を込める。

へっぴり(屁放)役者、

といえば、

放屁するしか芸のない役者、

の意である。「へっぽこ」「へぼ」には、そこまでの嘲りはないが。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月19日

へなちょこ


「へなちょこ」は、

埴猪口、

と当てたりする。

未熟なもの、取るに足らないものをあざけって言う語、

とある。いくつか説がある。

ヘンナオトコ(変な男)はヘナチョコとなり、未熟者をあざけっていう(日本語の語源)、
弱小な様をいう語で、ヘナはヘナヘナ、チョコはチョコリの意(上方語源辞典=前田勇)、
「へな」とは「埴土(へなつち)」(粘土を多く含んだ土で、壁などを塗るのに使われる)のこと。「へなちょこ」とは、へなつちで作った猪口、つまり出来の悪い猪口(デジタル大辞泉)。
ヘナチョコ(埴猪口)の義、明治十四五年の頃、山田風外、野崎左文等四五人、神田明神の境内なる開花樓にて酒宴す。其席にて使用せる盃は、内部に於多福、外部に鬼面の楽焼にて、面白ぎものなりき。これは酒を入るれば、ジウジウと音して、酒を吸ひ、ブクブク泡立つ土製の猪口なり。衆呼びてヘナ猪口と云ひしとぞ(大言海)、

等々。ふつうに意味から考えれば、「へな」は、

へなへな、

が思い浮かび、「ちょこ」は、

猪口才、

の「猪口」が思い当たる。ちょこざいhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/422842891.htmlで触れたように、猪口才の語源は、

「ちょこっとした(少ない・軽少な)+才能」

「ちょこ(猪口)+才(才能)」

の二説があるが、「ちょこ」は、「ちょこちょこ」とか「ちょこまか」とか「ちょこっと」といったときに使う、「ちょこ」であり、つまりは、小さいを意味する。

小才、

は、まだ気が利くが、

小利口、

はちょっと、気に障る。

猪口才、

は、もっと目障りになる、という感じであろうか。それに「へなへな」の「へな」がついて、

小才の役に立たなさ、

を言っている、ともとれる。あるいは、おっちょこちょいhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/445524884.htmlで触れた、「ちょこまか」の「ちょこ」としても、「すこし」「ちいさい」意である。

しかし、「埴猪口」は自分の造語だという人がいる。明治時代の新聞記者で狂歌師でもあった、

野崎左文(のざきさぶん)、

である。野崎左文『私の見た明治文壇』「昔の銀座と新橋芸者」に、

「其頃新橋ではいろいろな流行語があつた、挟み言葉やツの字言葉も用ひられ『アラよござい』『シンだねへ』『十銭頂戴』其外いくらもあつたやうだが今急には思ひ出されぬ、今日でも用ひられて居る唯の事を『ロハ』一円を『円助』半円を『半助』秘密を発く事を『スツパヌキ』劣等又は粗悪を意味する『ヘナチヨコ』などは盛んに唱へられたものだが、此ヘナチヨコといふのは実は私共の作つた新語で、それは明治十三四年の夏風雅新誌の山田風外翁と私等四五人が同年神田明神に開業した今の開花楼に登つて一酌を催した時、銘々の膳に附けて出した盃は内部がお多福、外部が鬼の面で、その鬼の角と顎とが糸底代りになつて居る楽焼風の気取つたものであつた、是は面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注がせると、こは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が立ち酒が盃の中に吸込まれた、イヤ是れは見掛けに寄らぬ劣等な品物だ、ヘナ土製の猪口だから以来ヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが始まりで、爾来外見ばかり立派で実質の之に伴はないものを総てヘナチヨと称して居たのが忽ち新橋の花柳界に伝はり終に一般の流行言葉となつたのである」

とあるhttp://www.kikuchi2.com/mzasshi/hena.html、という。また、同氏の「ヘナチヨコの由来」では、

「(『集古』の)前号の『猪尾助の由来』といふ記事を読んでふと思ひ出した儘茲にヘナチヨコの由来を白状する、それは明治十四五年の夏の事で当時風雅新誌の社主であつた山田風外氏とおのれ等四五人で同年神田明神に開業した今の開花楼に登つて一酌を催した、其時銘々の膳に附けて出した盃は内部がお多福外側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた、是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が立つた、イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑もの始まりで、それから以後外見ばかり立派で実質の之に伴はぬものを総てヘナチヨと呼びヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨコ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひたのが忽ち新橋の花柳界に伝はり又落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め終に東京一般の流行言葉となつたのである、云々」

と述べる(仝上)、という。

文脈から見れば、

ヘナ土製の猪口だからヘナチヨコ、

と呼ぶ、としたのだが、この背景には、「へなへな」の「へな」という言葉を、意識して掛けたかどうかは別として、同座の面々に意識されていたことは確かなのではないか、という気がする。でなければ、

へな土製だからへな猪口、

では当たり前すぎて、

呵々大笑、

とはなるまい。

「へなへな」は、

力を加えると曲がったりしなったりして弱弱しい様子、
頼り甲斐なく弱弱しい様子、

という意味で、江戸時代から見られる(擬音語・擬態語辞典)。

鮪売り根津へへなへなかつぎ込み(誹風柳多留)、

という句もある。この言葉の含意があってこそ、

へなちょこ、

は駄洒落となったのではあるまいか。とすると、「へなちょこ」は、

へな土製の猪口、

という意味で尽きるようだ。

猪口.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月20日

卯の花


「卯の花」は、

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

という童謡でお馴染みの、

うつぎ、

の別名であり、「うつぎ」は、「うづき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/457762501.htmlで触れたように、

空木、

の意味で、茎が中空であることからの命名であるとされる。しかし、異説もあり、

ウ(兎)の毛のような白い花が咲くから(名語記・本朝辞源=宇田甘冥)、

ともある(日本語源大辞典)。陰暦四月の、

「卯月」は、

卯の花月、

とも呼ばれ、「卯月」の由来は「うつき」とする説があるほどである。ただ、「卯の花」説は、他の月の命名との一貫性が損なわれる気がするので、ちょっと難点があるが。

ウツギ.jpg



また「卯の花」は、

おから、

の別名でもある。さらに、

襲(かさね)の色目、

の意ともされる。「色目」とは、

十二単などにおける色の組み合わせ、

をいい、

衣を表裏に重ねるもの(合わせ色目、重色目)、
複数の衣を重ねるもの(襲色目)、
経糸と緯糸の違いによるもの(織り色目)、

等々があるhttp://www.kariginu.jp/kikata/kasane-irome.htm。その代表的なものは表裏に重ねる、

襲の色目(かさねのいろめ)、

がある。

卯の花襲(かさね)、

とは、

は女房装束の袿(うちき、うちぎ)の重ねに用いられた襲色目に、四月薄衣に着る色のひとつとしてあるhttp://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htm、山科流では、表は白、裏は萌黄(もえぎ)。四五月にもちいる、という(広辞苑)。

卯の花襲.gif



当時の絹は非常に薄く裏地の色が表によく透けるため、独特の美しい色調が現れる。襲色目は、http://www.kariginu.jp/kikata/5-2.htmに詳しい。

おから.jpg


「おから」を、「卯の花」と呼ぶのは、

「絞りかすの意味。茶殻の『がら』などと同源の『から』に丁寧語の『御』をつけたもので、女房言葉のひとつ。『から』の語は空(から)に通じるとして忌避され、縁起を担いで様々な呼び名に言い換えされる。白いことから卯の花(うのはな、主に関東)、包丁で切らずに食べられるところから雪花菜(きらず、主に関西、東北)などと呼ばれる。『おから』自体も『雪花菜』の字をあてる。寄席芸人の世界でも『おから』が空の客席を連想させるとして嫌われ、炒り付けるように料理することから『おおいり』(大入り)と言い換えていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%82%89

「おからのカラ(空)をきらって、ウ(得)の花としたという説もあるが、これは良くない。ウは『憂』に掛けたりすることが多い」

と一蹴したたべもの語源辞典は、

「雪花菜というのも、雪の白いことで、雪見菜は白い花、卯の花も白い花である。白い卯の花をおから(白い色が似ている)と見立てたのが正しい」

と言う。ひねくらず、卯の花に見立てた心持でいいのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:卯の花
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