2020年01月02日

らくがん


「らくがん」は、

落雁、

と当てる。本来の意味は、

空から舞い下る雁、

の意であり、秋の季語である。

歌川広重 月に雁.jpg

(歌川広重・月に雁 空から、舞い降りる三羽の雁 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige292/より)

大言海には、

雁の列をなして、地に下らむとすること、

とあり、杜甫の晩行口號の、

落雁浮寒水、饑烏集戍樓、

を引く。また、「落雁」には、

米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子、

の意味もある。大言海は、

「支那の軟落甘(ナンラクカン)の和製のものと云ふ。乾菓子に、初めは黒胡麻を加へ、それが斑点をなすこと、落雁の如くありしかば名ありと」

と、その由来を解く。日本語源広辞典も、

「軟落甘」の軟を取り「落甘」としたもの、

とし、やはり、

「黒ごまをいれたのを、落ちる雁に見立てたもの」

とする。嬉遊笑覧にも、

中国菓子に軟落甘(なんらくかん)というものが明朝にあったと『朱子談綺(だんき)』(1708)にあり、その軟を略して落甘といったものがやがて落雁と書くことになった」

とある(たべもの語源辞典)、とか(ただ軟落甘とは、どのような菓子かはわかっていない)。

しかし、「落雁」には、

近江八景の「堅田の落雁」

にちなんでつけられた、とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AF

堅田落雁.jpg

(近江八景の「堅田の落雁」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AFより)


因みに、近江八景とは、

石山秋月・石山寺、
勢多(瀬田)夕照(せきしょう)・瀬田の唐橋、
粟津晴嵐・粟津原、
矢橋帰帆・矢橋、
三井晩鐘・三井寺(園城寺)、
唐崎夜雨・唐崎神社、
堅田落雁・浮御堂、
比良暮雪・比良山系、

だとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E6%99%AFに詳しい)

しかし、たべもの語源辞典は、

「一説に、もと近江八幡の平砂の落雁より出た名であり、白い砕き米に黒胡麻を点々とかき入れたのが雁に似ているからであり、形は昔州浜のさまにしたが種々の形ができたと『類聚名物考』にある。この説は、落軟甘という菓子が日本に渡ると、中国平沙の落雁を近江八景の一つ堅田落雁にこじつけて、白い砕き米に黒胡麻の散っているのを、いかにも堅田の浮身堂に向っての落雁らしくみせ、足利末期の茶道の盛んな時代であったからこれが喜ばれた」

と一蹴している。「平砂の落雁」とは、中国山水画の伝統的な画題である「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」の一に、「平沙落雁(へいさらくがん)」があり、秋の干潟に雁の群れが舞い降りる様子が描かれる。「近江八景」が「瀟湘八景」を真似たということである。

別の説もある(以下、たべもの語源辞典)。一つは、

「後小松天皇のとき、本願寺の第五祖綽如(とうにょ)上人が北陸巡遊の折、ある人が菓子一折を献じた。それが白い上に黒胡麻が散っているので、雪の上に雁が落ちてくるのに似ているとて落雁と名づけられ、当時上人からこれを天皇に奉ったところ、大変おほめのことばを賜ったということが遠近に伝わり流行菓子になった」

とする綽如上人命名説。更に他に、

「足利時代の文明年間(1469~87)のころ山城国壬生に坂口治郎というひとがいた。菓子づくりの才があって、時の後土御門天皇に献じてほめられたほどである。その子の二代目は応仁の乱の兵乱を避け、本願寺の蓮如上人に従って北国に入り、福井県吉崎に住んだが、明応年間(1492~1501)には富山県礪波郡井波に移り、(中略)天正九年(1581)以来…商人となり製菓を業とした。たまたま文禄年間(1592~96)のころ有栖川宮の命によって後陽成天皇に菓子を献じたところ、非常な御満悦で『白山の雪より高き菓子の名は四方の千里に落つる雁かな』という御歌を賜った。この菓子はうるち米を熬(い)って砂糖を混ぜ、正方形にして表面に胡麻を散らしたものであった」

という御歌から来たとする説(語理語源=寺西五郎)である。しかし、このときすでに京には落雁という菓子があったというので、菓子屋の由来書のようなもので、権威づけただけのものとみられる。

また、

「加賀名物御所落雁は茶匠の小堀遠州が意匠下ものを後水尾天皇のとき国主の小松中納言利常から献上したところ、長方形の白い地に胡麻が散っているさまを田面に落ちた雁に似てるとて落雁と勅銘を賜ったので、とくに御所の二字を冠して御所落雁と命名した」

さらには、

「表面には型模様があるが、裏面は無地なので『裏淋しい』を『浦淋しい』に通わせて、秋の浦辺を連想し、秋の空を飛んでいる雁の寂しげなことを考えて『落雁』と名づけた」

等々の六説がある、とする(たべもの語源辞典)。しかし、この他にも、

鳥の餌にもできるところから(和漢三才図絵)、

というのもある。しかし、どう考えても、菓子屋の由来書ではないかと思われる説が多く、そのコアとなる発想は、

初めは黒胡麻を加え、それが斑点になっている様を落雁に見立てたもの(類聚名物考・たべもの語源抄=坂部甲太郎)、

というものでしかない。中国由来が、さまざまに工夫されたものとみるのがいいのではないか。

落雁.jpg


落雁の製法には、

①すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの、
②加熱していない米の粉を用いて、上記同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの、

二通りあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81、らしい。

しかし、

「近松や西鶴の作品では魅力的な歌詞として登場するが、現在のものとはやや違い、『御前菓子秘伝抄』(1718)には、干飯を煎り、砂糖蜜で固めたものとあるので、いわゆる『おこし』に近かったものと思われる」

とある(日本語源大辞典)。

通常は、上記の①は落雁、②は白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである(仝上)。

「加熱処理済の粉を砂糖で固めた日持ちのよい落雁が普及すると、熱処理していない米粉を成形して蒸す白雪糕(はくせきこう)が廃れ始めた。『和漢三才図絵』は、白雪糕といいながら、その実、落雁の製法と同じものがあることを指摘している。結局、本来の製法の白雪糕は消えてしまったが、名前だけは残り、現在でも西日本には落雁の類をハクセッコー、ハクセンコーと呼ぶ地方がある」

とある(日本語源大辞典)。その製法は、

「明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81以上、「落雁」は、「軟落甘」の和製化ということである。

「糒(ほしい)を煎って粉にしたものを『落雁粉』とか『イラコ』とよんだ。落雁粉でつくった落雁の普及したのは享保(1716~36)である。(中略)炒種(いりだね)に砂糖・水飴などを加え、各種の形にほりつけた木型を水に塗らして、木べらで型に詰め込み、木型の型の一端をたたいてゆるめる。竹簀の上に型を裏返して移しあげ、ほいろにのせ、徐々に乾かす」

のである(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年01月03日


「雁」は、

カリ、

と訓ませて、和語である。

ガン、

と訓ませると、漢音である。

鴈、

とも当て、略して

厂、

とも書す(大言海)、とある。

「上代には『カリ』と呼ばれていたが、室町時代頃から『ガン』が現れた。次第に一般名として扱われるようになり、現代では『ガン』が正式名、『カリ』が異名という扱いをされるようになった」

とある(語源由来辞典)。実際、「雁」は、

「カモ目カモ科ガン亜科の水鳥のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81、日本ではマガン、カリガネ、ヒシクイなどが生息している(仝上)。

ヒシクイ(菱喰)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類され、

ヒシクイ.jpg



カリガネ(雁金)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類され、

カリガネ.jpg



マガン(真雁)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類される。

マガン.jpg



「雁」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

「会意兼形声。厂(ガン)は、かぎ形、直角になったことをあらわす。雁は『隹(とり)+音符厂』。きちんと直角に並んで飛ぶ鳥で、規則正しいことから、人間の礼物に用いられる」

とある(漢字源)。雁行という言葉があるように、カギ型の列を組んで飛ぶ。

古くは、「かり」と訓んでいたが、これは、

「カは、鳴く声、リは添えたる辞」

とある(大言海)。さらに、接尾「り」について、

「ラ、レ、ロに通ず。語の末につけて云ふ助辞」

としている。同類として、「からす(鴉)」は、

「カは鳴く声、ラは添えたる語、」

とし(「からす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459343657.htmlで触れたように、必ずしも鳴き声説ではないが)、「けり(鳧)」もまた、鳴き声+「ら」とする(大言海)。で、

「万葉集『すばたまの 夜渡る雁は おぼほしく 幾夜を歴てか 己が名を告(の)る』、風俗歌、彼乃行(かのゆく)『彼の行くば、加利か鵠(くぐひ)か、加利ならば、名告(なのり)ぞせまし』、後撰集…雁『ゆきかへり、ここもかしこも旅なれや、來る秋ごとに、かりかりと鳴く』」

と、鳴き声とする例を挙げる。「かり」の異名、

かりがね、

は、

雁之音(ね)の義、音(ね)は声なり、

とするように、「かりがね」は、鳴き声から採られている。それが転じて、

雁の異名、

となっている。だから、

「雁の声は寂しいもの。聞くと悲しく感じるものと考えられた。『かりがね』が後に雁の異名となったのは、鳴き声が雁を象徴するほど特徴があるものだったからであろう」

ということになる(日本語源大辞典)。実際、大言海以外、岩波古語辞典も採り、

カリカリと鳴く声から(滑稽雑誌所引和訓義解・可成三註・風俗歌考・類聚名物考・雅語音声考・擁書漫筆・俚言集覧・言元梯・名言通・松屋筆記・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語溯原=大矢徹)、

と多くが、声説である。しかし、日本語源広辞典は、

中国語「雁」(ガン、カン)が、kanがkariに変化、

とするし、

ガンの転呼(日本古語大辞典=松岡静雄・日本語の発想=白石大二)、

と、「ガンの転訛」とする説がある(日本語源大辞典)。そのほか、

カヘリの中略。春は北へ帰るところから(日本釈名・東雅・柴門和語類集・本朝辞源=宇田甘冥)、
秋来て春帰るので、仮に宿ることからカリ(仮)の義(和句解)、
カは水に棲む鳥を呼ぶ語(東雅)
軽く飛ぶということからカロシ(軽)の意か(万葉代匠記・円珠庵雑記)、

等々「かり」という音に合わせてたてられた説もある。しかし、

「『かへり』の説は上略や下略ではなく中略で、鳴き声の説に比べると説得力に欠け、『カ』を水に棲む鳥とするせつはカリの『り』について触れていない。『ガン』の転呼とする説も上代に『雁』を『ガン』と訓んだ例はなく、『カリ』が一般的であったことが考慮されていないことから、鳴き声の説が妥当と考えられる」

というところ(語源由来辞典)が妥当なのではあるまいか。また、「ガン」の転訛も、

「上代には『カリ』と呼ばれていたが、室町時代頃から『ガン』が現れた。次第に一般名として扱われるようになり、現代では『ガン』が正式名、『カリ』が異名という扱いをされるようになった」

ということ(仝上)から、

ガン→カリ→ガン、

では不自然である。「ガン」という訓み方が広まったのは、

「語勢を強くするために漢語『雁』の勢力が増したとする説と、鳴き声からとする説があるが、漢語『雁』の説が有力とされる。ただし、『カリ』の語源はカリガネの鳴き声に由来し、そのカリガネが減少し、『ガンガン』と鳴くマガンやヒシクイの増加によって、和語内でガンの鳴き声を受けたとの見方もある」

とある(仝上)。「ガン」も鳴き声に由来するとするのは、

「声ならむ。朝鮮語に、キロオギと云ふ」

とする大言海がある。「カリ」が鳴き声なら、「ガン」も鳴き声から由来したと見た方がいいように思える。

マガンの鳴き声https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1491.html

を聞いても、正直はっきりわからない。ただし、

「万葉集では60余首と多く詠まれているが、数多くの群れで生活し、その鳴き声や飛ぶ姿(雁行)に特徴があり、よく目立つところから、身近な鳥として見られていたのだろう。(中略)かりがねと詠っているのが多いが、これは今のカリガネではなく、雁の鳴き声のことを言っているようだ」

とあるhttp://okamoto-n.sakura.ne.jp/manyohkatyoh/tori/magan/magan.htmlし、

「日本ではガンは古くから狩猟の対象とされ、食用として賞味されるほか、文学作品のなかにも多く現れて親しまれているが、雁(がん)とあるのはかならずしも限られた鳥の名称ではなく、鴨(かも)類としての総括的な名称であったらしい。「かり」とも「かりがね」ともよぶが、これは空を渡る際の声が印象的であったことから、「雁(かり)が音」が転じて雁そのものの名称になったと思われる」

ともある(日本大百科全書)ので、「そのカリガネが減少し、『ガンガン』と鳴くマガンやヒシクイの増加によって、和語内でガンの鳴き声を受けたとの見方もある」というのは、穿ちすぎかもしれない。

伊藤若冲『芦雁図』 18世紀。.jpg

(伊藤若冲『芦雁図』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%81より)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年01月04日

かる


「かる」は、

狩る、

と当てるだけではなく、

刈る、
駆る、

等々とも当てる。「狩る」は、

紅葉狩り、

の「狩る」である。

歌川国貞の‘紅葉がりノ図.jpg

(歌川国貞・紅葉がりノ図 http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2010/11/post-5a95.html


「紅葉狩り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/429896560.htmlで触れたように、紅葉狩りは、

山野に紅葉を尋ねて鑑賞すること、観楓、

とある(広辞苑)。「狩り」は、岩波古語辞典、大言海には、

「駆りと同根」

とあるので、「追い立てる」という意味があり、本来は、

鳥獣を追い立てて獲る、

で、『大言海』では、

弓矢、鳥銃などにて、鳥獣を採り、打捕ること、

転じて、

魚など漁(いさ)り、又薬草、茸など、探りて採ること、

更に転じて、

野山に入りて、花など、探りて観ること

という意味がある。広辞苑には、

薬草・松茸・蛍・桜・紅葉などを尋ね捜し、採集、または鑑賞すること、

と、載る。いまは、紅葉狩りの他は、

ぶどう狩り、
いちご狩り、
蛍狩り、
茸狩り、
薬狩り、

等々と言った言葉に残っているが、

狩猟採集、

と対で言っていたのには意味があるらしい。

かつては、桜にも、

桜狩り、

と言ったようで、『方丈記』に、

「桜を狩り、もみじをもとめ」

という一説があり、藤原定家の和歌に、

桜狩り 霞の下に今日くれぬ 一夜宿かせ 春お山もり

という歌があるらしく(岩波古語辞典)、春の『花見』ことを『桜狩り』といっていたこともあるようだ。今では「紅葉狩り」以外に、「眺める意味」としてはあまり使われない。桜を狩る(折る)ことは、いつの間にか風習として禁止されたのも大きいかもしれない。ただ、「狩り」というのは、

「平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法。」

だったとされ、その意味では、紅葉だけは、「狩り」を可能にしたのが大きいのかもしれない。

梅にも、現在でも、梅狩りという言葉があるようだが、これは、梅の実を狩ることで、文字通り収穫である。

この「狩り」と当てる「かり」と、

刈、
苅、

と当てる「かる」とは、どうも使い分けられているようである。「狩り」は、上述のように、岩波古語辞典は、

駆ると同根、

で、

鳥獣を追い立てて取る、
花や草木をさがし求める、

意であるとする。日本語源広辞典も、同趣旨で、

動植物を収穫するで、動物を追い立ててトル、狩る、駆る、と、植物をカルと同源と考える、

としている。多少のニュアンスの差はあるが、

獣をカル(駆)意(名言通)、
何でもカリモトムル(駈覓)意から(雅言考)、
カイリ(鹿射)の約(言元梯)、

等々、狩猟の意にちなむものが多い。もちろん、

カはカクルか。リはトリ(取)か(和句解)、
獅子をカリといい、獅子は百獣を食うところから猟の意に転じたもの(和語私臆鈔)、

という異説はあるが。他方、

刈、
苅、

と当てる「かり」は、

稲、茅(かや)、薦(こも)など、刈り取ること、

の意で、万葉集に、

三島江の、入江の薦を、苅にこそ、吾れをば君は、思ひたりけり、

とあり、古くから使われる(大言海)。岩波古語辞典には、

(草木や毛など、伸び茂っているものを)根元を残して切ること、

の意とあり、やはり万葉集に、

少女(をとめ)らに行相(ゆきあひ)の早稲(わせ)をかる時になりにけらしも萩(はぎ)の花咲く、

と使われている。どうやら、「刈る」は、

切り離す、

意であり、日本語源広辞典は、

離る、狩る、涸る、と同源、

とする。確かに、

離(か)る、は、

切るるの義、

とあり(大言海)、「刈る」は、

切る、伐(こ)るに通ず、

とある(大言海)。「伐(こ)る」は、名義抄に、

「伐、キル・コル」

とあるので同義と見ていい。ただ、岩波古語辞典には、

「(離るは)空間的・心理的に、密接な関係にある相手が疎遠になり、関係が絶える意。多く歌に使われ、『枯れ』と掛詞になる場合が多い」

と、メタファとして使われるとし、万葉集に、

珠に貫く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離れず来るかも

とある。

「枯(涸・乾)る」は、

「カラ(涸)と同根。水気がなくなってものの機能が弱り、正常に働かずに死ぬ意。類義語ヒ(干)は水分が自然に蒸発する意だけで、機能を問題にしない」

とあり、万葉集に、

耳無(みみなし)の池し恨めし吾妹子が来つつ潜(かづ)らば水は涸れなむ、

とある。こう見ると、

刈ればそのまま枯れるという意から、カル(枯)に通じる(和句解)、

涸る、

離る、

はつながるし、

刈る、

ともつながるが、

狩る、

とは少し離れすぎている。あくまで、「刈る」は、

キル(切)、

であり、「狩る」は、

駆る、

のようである。両者、状況依存の文脈では、会話の当事者にとって、間違いようのない言葉であった、と思われる。文字化に伴って、漢字を当て分ける必要ができた。と思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年01月05日

よもぎ


「よもぎ」は、

蓬、
艾、

と当てる。

もちぐさ、
繕草(つくろいぐさ)、
蓬蒿(ほうこう)、

ともいう。成長した葉は、灸の、

もぐさ、

とする(広辞苑)。「よもぎ」で漢字を引くと、

蓬、
艾、
蒿、
萩、
苹、
蕭、
薛、

が出る。「よもぎ」の漢字表記について、

「現在日本において、ヨモギは漢字で『蓬』と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは『艾』あるいは『艾蒿』である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ。」

とあるhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm

「艾」(ガイ、呉音ゲイ)は、

「会意兼形声。『艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)』」

とあり、よもぎ、もぐさの意である(漢字源)。字源には、

よもぎ(醫草)、

と載る。「蒿」(コウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符(高く伸びる、乾いて白い))』」

とあり(漢字源)、よもぎ、くさよもぎ、艾の一種、

とある(字源)。「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、

「会意兼形声。『艸+音符逢(△型にであう)』で、穂が三角形になった草」

とあり(漢字源)、

「よもぎ(艾)の一種」

とある(字源)。「萩」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

「会意兼形声。『艸+音符秋』で、秋の草」

とあり、日本では「はぎ」に当てる。

よもぎ、くさよもぎ(蕭)の一種、

とある(字源)「蕭」(ショウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符肅(ショウ 細く引き締まる)』」

とあり(漢字源)、

よもぎ(艾蒿)、

の意とある(字源)。「苹」(漢音ヘイ、呉音ビョウ)は、

「会意兼形声。平は、屮型のうきくさが水面に平らに浮かんだ姿を描いた象形文字。苹は『艸+音符平(ヘイ)』で、平らのもとの意味をあらわす」

とある(漢字源)。浮草のようであるが、

よもぎ、蒿の一種、

ともある(字源)。「薛」(漢音セツ、呉音セチ)は、

「会意。『艸+阜の字の上部(つみかさねる)+辛(刃物で切る)』。束ね重ねて着るよもぎをありらわす」

とあり(漢字源)、

かわらよもぎ(仝上)、
よもぎ(蒿)(字源)、

とあり、「よもぎ」のようである。どうやら、「艾」「蒿」「艾蒿」が、本来の「よもぎ」の漢字のようである。たべもの語源辞典には、こうある。

「蒿(かう)もヨモギで、艾の一種。苹(へい)またはビョウとよむが、これもヨモギで、蒿の一種、蕭(ショウ)もヨモギで、蒿と同じである。漢名には、蒿艾(コウガイ)、蕭艾(シュウガイ)、指艾(シガイ)、荻蒿(テキコウ)、氷台、夏台、福徳草、肚裏屏風など」

がある、と。しかし、

字類抄「蓬、よもぎ」

とあるように、「蓬」の字を当ててきた。

和名「よもぎ」は、古く、

させもぐさ、
つくろひぐさ、
えもぎ、
させも、

等々といった(たべもの語源辞典)。「させもぐさ」は、

さしもぐさ(指焼草・指艾)の転(岩波古語辞典)、
サセモグサと云ふは、音轉なり(現身、うつせみ)、サセモとのみ云ふは、下略なり(菰筵、薦)(大言海)、

である。「さしもぐさ」は、

「夫木抄『指燃草』、注燃草の義、注(さ)すとは、点火(ひつ)くること(灸をすうるを、灸をさすと云ふ…)、モは燃(も)すの語根、燈(とも)すの、カモなり、此のモグサは、即ち艾(もぐさ)にて、灸治する料とす。」

とある(大言海)。

ヨモギ.jpg



大言海は、「よもぎ」を、

艾、
蓬、

の当てる漢字で二項別に立てている。「よもぎ(艾)」は、

「善燃草(よもぎ)の義」

とし、

「草の名。山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄『蓬、一名蓽、艾也。與毛木』、本草和名『艾葉、一名醫草、與毛岐』」

と記す。ほぼ、「よもぎ」の意である。しかし、「よもぎ(蓬)」の項では、

「葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄『蓬、ヨモキ』」

とする。「もぐさ」にする「よもぎ(艾)」と「くさもち」にする「よもぎ(蓬)」とは別、という意味なのだろうか。

日本では一般的な「よもぎ」は、

 ヨモギArtemisia princes Pamp.〔分布〕本州・四国・九州・小笠原・朝鮮
 ニシヨモギArtemisia indica Willd.〔分布〕本州(関東地方以西)・九州・琉球・台湾・中国・東南アジア・印度
 オオヨモギArtemisia montana (Nakai) Pamp.〔分布〕本州(近畿地方以北)・北海道・樺太・南千島

の三種というhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm。日本だけでも30種あるが、この3種は植物学の分類上かなり近縁の種で、

「日本全国で一般に『ヨモギ』と呼ばれている植物はこの3種のうちいずれかということになろう。」

というし、

「別名は、春に若芽を摘んで餅に入れることからモチグサ(餅草)とよく呼ばれていて、また葉裏の毛を集めて灸に用いることから、ヤイトグサの別名でも呼ばれている。ほかに、地方によりエモギ、サシモグサ(さしも草)、サセモグサ、サセモ、タレハグサ(垂れ葉草)、モグサ、ヤキクサ(焼き草)、ヤイグサ(焼い草)の方言名がある」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE、一般には、区別しているようには見えない。しかし、大言海が、是非は判断できないが、「くさもち」につかう「よもぎ」と「もぐさ」の「よもぎ」を分けているのには意味がある。

「蓬(よもぎ)は、葉は柳に似て微毛があるのでヤナギヨモギと呼ばれる。淡黄の小さい花をつけ、後に絮(わた)になって飛ぶ。ウタヨモギともいい、艾(よもぎ)とは違った植物である」

とある(たべもの語源辞典)。大言海の見識である。

さて和語「よもぎ」の語源であるが、大言海が、「よもぎ(艾)」に、

善燃草(よもぎ)の義、

としたように、

ヨ(弥)+モ(萌)+キ(草)(日本語源広辞典)

か、あるいは、

ヨクモエクサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、
弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、
ヨモギ(常世萌)の義(柴門和語類集)、

の二つが多い。語源由来辞典は、

「よもぎの『よ』は『ますます』を意味する『いや・いよ(弥)』、もしくは『よく(善)』の意味。『も』は『萌える』か『燃える』の意味で、『ぎ(き)』は茎のある立ち草の意味。つまりよもぎの語源は『いよいよ萌え茂った草』か、『よく燃える草』の意味からである」

とまとめている。この他に、

よく繁殖し四方に広がることから「四方草」と書いてヨモギと読ませる、

という説(よく繁殖し四方に広がることから「四方草」と書いてヨモギと読ませる)もあるが、「萌」「燃」には、盛んに生えるという意味がある。岩波古語辞典には、

「平安中期以後には、『むぐら』『あさぢ』などと共に、代表的な雑草として、荒廃した家の描写に使われることが多い」

とあるが、万葉集の家持の長歌には、

玉桙(たまほこ)の道に出で立ち、岩根(いわね)踏み、山越え、野行き、都辺(みやこへ)に参ゐし我が背を、あらたまの年行き返り、月重ね、見ぬ日さまねみ、恋ふるそら、安くしあらねば、霍公鳥(ほととぎす)、来鳴く五月のあやめぐさ、余母疑(よもぎ)かづらき、酒みづき、遊びなぐれど、射水川(いみづかは)、雪消(げ)溢(はふ)りて、行く水の、いや増しにのみ、…

とあり、必ずしも、荒んだという意味はない。その意味で、「よく茂る」という意味は悪い意味ではない。しかし、古名、

さしもぐさ(指燃草)、

が、艾(もぐさ)に火をつける意味だとすると、

ヨリモヤシキ(捻燃生)の義、灸に用いるところから。生は草の意(名言通)、

という、「もぐさ」と絡める説も無視できない気がする。

「モグサはモエグサ(燃草)の意である。サシモグサのサシは灸をすえるの意である」

とある(たべもの語源辞典)。「よもぎ」の名も、古名「さしもぐさ」の由来との連続性を採りたい。

「よもぎ」は、

餅草、

ともいう。草餅の材料にするからである。しかし、昔は、ハハコグサを用いた。

平安朝の『文徳実録』(八七九年)に、

野有草、俗名母子草、二月始生、茎葉白脆、毎属三月三日、婦女採之、蒸擣以為餻、伝為歳事。

とありhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm、ハハコグサを搗き入れた餅で、

母子餅、

と呼んだ。

ははこぐさ、

は、

ホウコグサ、
モチヨモギ、

といい、漢名は鼠麹草(そきくそう)、春の七草のひとつで御行(ごぎょう、おぎょう)である。

ハハコグサのつぼみ.jpg



参考文献;
神谷正太「東アジアにおけるヨモギ利用文化の研究」(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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書評;
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ラベル:よもぎ
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2020年01月06日

よもすがら


「よもすがら」は、

夜もすがら、
終夜、

等々と当てる。

日暮れから夜明けまで、
夜通し、

の意味である。

夢ぢにも露やおくらむよもすがらかよへる袖のひちてかわかぬ、

という歌もある(古今集)。

「夜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.htmlで触れたように、上代には、昼を中心にした時間の言い方と、夜を中心とした時間の言い方とがあり、

昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、
夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

と、呼び方が分けられている(岩波古語辞典)。前者がヒル、後者がヨル、ということになる。つまり、夜の時間区分は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

となる。

「夜もすがら」の「すがら」は、「しな、すがり、すがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.htmlで触れたように、道すがら、の「すがら」、

途切れることなくずっと、

という時間経過を示していて、

名月や池をめぐりと夜もすがら、

で、それが空間的に転用されと、

道すがら、

になったと、考えられる、大言海は、「よもすがら」を、

夜も盡(すがら)の意、ひねもすの対、

とする。「ひねもす」は、「ひねもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445249637.htmlで触れたように、

終日、

と当て、

朝から晩まで、
一日中、

という意味で、

ひもすがら、

とも言う。まさに、

アサ→ヒル→ユフ、

の昼間を指す。日本語の語源は、

「ヨモスガラ(夜も過がら。終夜)に対してヒルモスガラ(昼も過がら。終日)といった。その省略形のヒルモス(昼も過)は、『ル』が子音交替(rn)をとげてヒヌモスになり、さらに母音交替(ue)をとげてヒネモス(終日)になった。〈ヒネモスに見ともあくべき浦にあらなくに(見あきるような海ではない)〉(万葉)。
 ヒネモスはさらに『ネ』が子音交替(um)をとげてヒメモス(終日)になった。〈中門のわきに、ヒメモスにかがみゐたりつる〉(宇治拾遺)。」

と解している。

「ひもすがら」「よもすがら」の「すがら」は、副詞と接尾語の二用があり、岩波古語辞典は、副詞は、

「スギ(過)と同根」

として、

途切れることなくずっと、

という意味とし、接尾語は、

「時間的連続が空間的にも使われるようになったもの」

として、

…の間中ずっと、
…の途中で、

という意味とする(岩波古語辞典)。しかし大言海は、「すがら」を、語源を異にする二項を別々に立て、いずれも接尾語として、ひとつは、

「スガは、盡(すぐ)るより転ず」

とし、意味は、

盡(すぎ)るるまで、通して、

とし、いまひとつは、

「直従(すぐから)の約か」

として、

ながら、ついでに、そのままに、

の意味とする。これだと、「よもすがら」は、

夜通し、

ではなく、

夜のついでに、

の意味になる。デジタル大辞泉は、

[名](多く「に」を伴って副詞的に用いる)始めから終わりまでとぎれることがないこと。
[接尾]名詞などに付く。
1 始めから終わりまで、…の間ずっと、などの意を表す。「夜もすがら」
2 何かをするその途中で、…のついでに、などの意を表す。「道すがら」
3 そのものだけで、ほかに付属しているものがないという意を表す。…のまま。「身すがら」

とし、広辞苑が同じ解釈である。

「一説に、スガは『過ぐ』と同源、ラは状態を表す接尾語という」

と注記して、名詞として、

(多く『に』をともなって、副詞的に用いる)始めから終わりまで、途切れることなく通すこと、

接尾語として、

(名詞につく)始めから終わりまでの意を表す(「夜すがら虫の音をのみぞ鳴く」)、
ついでにの意を表す(「みちすがら遊びものども参る」)、
そのままの意を表す(「親もなし叔父持たず、身すがらの太兵衛と名をとった男」)、

と挙げる。どうやら、「過ぎ」が原意とすると、時間経過の、

通して、

の意味と同時に、動作の並行の意味を含み、

…しながら、

という意味があり、それは、

ついでに、

の意味にずれやすい。しかし、

身すがら、

は、『大言海』の言うように、「過ぎ」ではなく、由来の違う、

直従(すぐから)の約、

なのではないか。その意味は、だから、『大言海』が、両方載せるように、

ながら、

の意味と、

ついでに、

の意味と、

そのままに、

の意味が重なり、ダブってしまった。

「すがら」の意味の幅は、上記のようだが、「よもすがら」は、用例から見ても、

夜通し、

の、

途切れることなくずっと、

の意味とみられる。語源も、

夜も+スガラ(過ら)で、夜の間ずっとの意(日本語源広辞典)、
ヨモスグサラ(夜亦直更)の義(日本語原学=林甕臣)、
ヨモツギアル(夜次有)の義(名言通)、
ヨモスカラ(夜過間)の義(言元梯)、
夜の去り果てるの義(名語記)、

等々と、夜通しの含意とみられる。しかし、「すがら」の意味の幅から見れば、

時間的な流れ、

の意と共に、

夜もすがら一人み山の真木の葉にくもるもすめる有明の月(新古今和歌集)

と、

通して、

の意味と同時に、動作の並行の意味を含み、

…しながら、

の含意があるとみると、意味が深みを増す気がするのは、気のせいだろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
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2020年01月07日

ユリ


「ユリ」は、

百合、

と当てる。「ユリ」は、「百合」の他に、

山丹(ひめゆり)、
巻丹(おにゆり)、
車山丹(くるまゆり)、

という表現がある(三才図絵図)、らしい(たべもの語源辞典)。また、「ユリ」の異称には、

倒仙、
中達、
重箱、
摩羅、
中庭、
蒜脳藷(さんのうしょ)、
サヨリ(小百合)、
ササヨリ(笹百合)、
ムギクワイ(麦慈姑)、

等々がある(仝上)、らしい。

「ユリ」の鱗茎を食用とし、

百合根、

と呼ぶ。食用とするのは、日本・中国・蒙古で、西洋は食べない(たべもの語源辞典)らしい。

「ユリの鱗茎は無皮鱗茎のため乾燥、高温、過湿などに弱いが、皮がないので食用とする際はそのまま食用と出来る。茶碗蒸しなどに入れて食されることが多い。 漢語では『玉簪花根』と称し、薬種とする」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E6%A0%B9

ユリ根.jpg



漢名「百合」は、

球根の鱗片が数多く重なっている意のなである(仝上)、とある。ヤマユリを別名、

料理ユリ、

と呼ぶのは、鱗片が大きく、苦みが少ないから、とある(仝上)。

ヤマユリ.jpg



「オニユリ・コオニユリ・スカシユリ・ハカタユリとその系統のユリが食用として喜ばれる」

ともある(仝上)。

「ユリ」の古名は、

佐韋(さい)、

という(大言海)、とあるが、古事記に、

ユリの本名は佐韋(さい)草、

とある(たべもの語源辞典)。

ヒメユリとヤマユリ、

が「サイ」と呼ばれたらしい(仝上)。

「ユリ」は、

さゆり、
くさふかゆり、
ひめゆり、

等々と、たとえば、

涼しやと風のたよりをたづぬれば繁みになびく野辺のさゆり葉(式子内親王集)
道の辺の草深百合の花笑みに笑まししからに妻と言ふべしや(万葉集)
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ(大伴坂上郎女)

等々、歌に詠まれる(岩波古語辞典)。

「ユリ」の語源は、

「揺り」の意か、

とする説がある(広辞苑)。

風に吹かれて 花がゆらゆらすることから『ユリ(揺り)』の意味とする(語源由来辞典)、
花が大きく茎は細く風に揺れるところからユルの義(和句解・和訓栞・大言海・日本語源=賀茂百樹)、
茎高く花大きくてゆするところから、ユスリの略(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、

も、類似の趣旨である。ほかに、

ヤヘククリネ(八重括根)の義(日本語原学=林甕臣)、
花が傾くことからユルミ(緩み)の義(名言通)、
鱗茎が寄り重なることからヨリ(寄り)の義、
姿が玉に似ているところからイクルリ(生瑠璃)の略、
ヨロシキ花が、ロシの縮約でヨリになり、ユリまたユルになったとする説、
万葉集に「筑波ねのサユルの花の」とあるサユル、これがユリに転音とた、

等々、諸説ある(たべもの語源辞典、日本語源大辞典)。

別に、朝鮮語経由とする説が、

韓語からか(東雅・大言海)、
朝鮮語nariの転(植物和名語源新考=深津正)、

とある。朝鮮語では、一般のユリは、カイナリと呼んでいる(たべもの語源辞典)、という。この説について、

「最も古い説では、ユリ族の一般名称である朝鮮語の『nani』が転じたとする説がある。『揺り』などの『日本語・語源辞典』に由来する説は『nari』の説よりもかなり遅いことから、『nari』に由来することが忘れられ、日本語に語源を求めたのではないかという見方がある反面、音韻変化が不自然との見方もあり、この説も正しいとは言い切れない」

とする(語源由来辞典)見方もある。確かに、

nari→yuri

の転訛は、少し不自然ではある。日本語の語源は、独自に、

「ウルハシキ(麗しき)花の語は、ウルの部分がユル(百合。上代東国方言)になった。筑波ねのサユル(小百合)の花の(万葉集)。さらにユリ(百合)に転音した」

とする。

どれかと決めかねるが、「揺り」はどうだろう。揺れるのは「ユリ」だけではない。決め手はないので、定説がないというところだろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ラベル:ユリ
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2020年01月08日

青春時代


大岡昇平他編『青春の屈折上(全集現代文学の発見第14巻)』を読む。

青春の屈折上.jpg


現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

青春の屈折、

と題された、二分冊の前半である。収録されているのは、

梶井基次郎『冬の蠅』
中島敦『かめれおん日記』
堀辰雄『恢復期』
伊藤整『若い詩人の肖像』
中野重治『歌のわかれ』
高見順『故旧忘れ得べき』
坂口安吾『古都』『真珠』
太宰治『ダス・ゲマイネ』
檀一雄『花筐』
立原道造『萱草に寄す』
井上立士『編隊飛行』
田宮虎彦『琵琶湖疎水』
西原啓『焦土』
日本戦没学生の手記『きけわだつみの声」

である。時代の背景もあり、「わだつみの声」が掲載されているのが異色だ。

これを読みながら、ふと思い出したのは、「青春時代」という歌謡曲の、

 青春時代が夢なんて
 あとからほのぼの 想うもの
 青春時代の 真ん中は
 道に迷って いるばかり(作詞・阿久 悠、作曲・森田 公一)

というフレーズであった。

なぜなら、本巻のほとんどの作品が、何年、何十年たってから振り返る作品だからだ。

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう(「のちのおもひに」)

けふ 私のなかで
ひとつの意志が死に絶へた…
孤独な大きい風景が
弱々しい陽ざしにあたためられやうとする

しかし寂寥が風のやうに
私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く
やがてすべては諦めといふ絵のなかで
私を拒み 私の魂はひびわれるだらう(「初冬」)

二十五歳で死んだ立原道造は、まさに、青春の真っただ中で、しかし一言も「青春」を言わず、その心性を詠った。

解説の長田弘は、武田泰淳が、「かめれおん日記」の中島敦を、

「中島ははげしい狼疾をわずらってゐる。彼は指のために肩を失わんとしてゐる」

と、評したという。そひれは、まさに「道に迷っている」時代のただなかだということではあるまいか。

「何事に就いても之と同様で、竟には、失望しないために、初めから希望を有つまいと決心するようになった。落胆しないために初めから慾望をもたず、成功しないであろうとの予見から、てんで努力しようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをし度くないために、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大に類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなって了った。外へ向って展かれた器関を凡て閉じ、まるで堀上げられた冬の球根類のようになろうとした。それに触れると、どのような外からの愛情も、途端に冷たい氷滴となって凍りつくような石・となろうと、私は思った」(かめれおん日記)

は、中島敦http://ppnetwork.seesaa.net/article/446642719.htmlで触れたように、『李陵』の硬質施な文体と比べると、中国素材の作品が自分の素養である距離を取って書けているのに対して、自分を描くとき、自分との距離が定っていない。この違いは、作品と作家の向き合い方の差のように思われる。素養で書くというのは、漢文の素養で、自家薬篭中のものの如く書く、ということを意味する。そこに硬質の緊張感はある。それは、あるいは漢文というものの、独特の読み下し文の緊張感に依存する。しかし物語世界との距離は小さい『かめれおん日記』は、どこか自虐的というか、被虐的な翳がつきまとう。それが、ある意味、「指のために肩を失わんとしてゐる」ということなのではないか、と勝手に解釈する。

梶井基次郎『冬の蠅』は、自分の振幅、揺れ幅をきちんととらえている。だから、自虐的にも諧謔的にもならない。その視点がぶれていないからではないか、と思う。生き残っていた蠅がいなくなったことについて、

「私が鬱屈した部屋から逃げ出してわれとわが身を虐んでいた間に、彼等はほんとうに寒気と飢えで死んでしまったのである。私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。私が彼等の死を傷んだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がしたからであった。私は其奴の幅広い背を見たように思った。」(『冬の蠅』)

視点のぶれない文章は、対象との距離をあやまたない。

後世に書かれた作品の中で、高見順『故旧忘れ得べき』は、自虐的に書くことで、その自分を許そうとするような甘ったれを感じた。この距離感は、太宰のそれとともに、僕はあまり好かない。

伊藤整『若い詩人の肖像』と中野重治『歌のわかれ』は、好対照に思える。『若い詩人の肖像』は、実名を出し、丹念に「若い詩人」としての自分を、一定の距離で、価値観、つまり、不当な卑下も傲慢にも堕さない、視点を保ち続けている。作品の結構は、十分に練り込まれ、作り込まれている。なのに、作為を感じさせない。他方、『歌のわかれ』は、穿ちすぎかもしれないが、最初から、「歌」との離別を考えられたものに見える。しかし、前半、自分との距離が保てず、自虐や諧謔に振れて来たのに、最後になって、

「彼は袖を振るようにしてうつむいて急ぎながら、なんとなくこれで短歌ともお別れだという気がしてならなかった。短歌とのお別れということは、このさいに彼には短歌的なものとの別れということでもあった。それが何を意味するかは彼にもわからなかった」(歌のわかれ)

という決意が、作為的に見えて仕方がなかった。

「きけわだつみの声」を読みながら、不意に、京五輪男子マラソン銅メダルの円谷幸吉の遺書、

父上様 母上様 三日とろゝ美味(おい)しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄 姉上様 おすし美味しうございました。
父上様 母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒(なにとぞ) お許し下さい。

を思い出していた。川端康成は、円谷の遺書について、

「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」

と語ったというhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89。哀切な文章に違いないが、それは、遺書ということを知っているからだ。それがなければ、ありふれた日記ととらえてもいい。

原爆投下直後に、広島近くに動員されていた経験を描いた、西原啓『焦土』に、被爆して死んだ友人について、

「新井はもはや正視することができなかった。恐らく山崎が意識を失う以前に書いたと思われる数枚の大学ノートの切れはしが枕辺に散っていた。新井はあたりを憚りながらその一枚を手にしてみた。月見れば乳千々にものこそ悲しけれ わが身一つの傷にはあらねど。涙がとめどもなく新井の頬を流れ始めた。患部の痛みに苦しみぬいた山崎を想ったのではない。ついに死なねばならぬ山崎の無念を想ったのではない。他人の歌に自分の思いを託さねばならなかった山崎のエネルギーの衰弱が痛ましかったのだ」(『焦土』)

と書き、「山崎を単なる記憶に終わらせまいとする意志」が、この作品だ、というように読める。

自分の言葉で、自分を描くためには、自分に対する冷静な距離が必要なのかもしれない、と思いつつ、自分の言葉て、自分の思いを語り得る人間の能力に嫉妬した。

なお、太宰治http://ppnetwork.seesaa.net/article/451454488.htmlについては、触れたことがある。

参考文献;
大岡昇平他編大岡昇平他編『青春の屈折上(全集現代文学の発見第14巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2020年01月09日

気っ風


柳家小三治『どこからお話ししましょうか‐柳家小三治自伝』を読む。

どこからお話ししましょうか 柳家小三治自伝.jpg


10代目柳家小三治の自伝、というか自分史語り、である。別に小三治(師匠、といちいちお断りしないが、その含意で書いています)の追っかけでもないし、落語通でもないので、あくまで通りすがりにちょっと読んだ感想を述べてみたい。

前に、広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』で、小三治に触れているがhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/405538611.html、それと重なるところが少なかった気がする。

まくらの小三治、

という異名があり、「まくら」だけを集めたわけでもなさそうだが、小三治のトークを録った『ま・く・ら』『もひとつ ま・く・ら』という書籍化されたものまである。たしか、

「まくら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/421083802.html

で触れたことと重なるが、

まくら、

は、その演目に合ったものをするが、基本的には、

演じる落語の演目に関連した話をする、
現代ではほとんど使われなくなった人、物、様子などの解説をする、

2種類が骨格で、それにいろいろまぶす結果、いろいろな話が加えられるらしい。小三治のように、

まくらだけで高座が終わる、

ということもあるが、そこまで行くと、本題に入らなくて(そこで終わらないで)、このまま続けてほしい、と(観客側が)いうほどの、まくら自体が、

エンターテイメント、

になっているからかもしれない。

「マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない」

という。しかし、素人ながら、マクラの果たす役割は、ただ、

現実(この会場のこの時、この場)と噺の世界、

をつなぐ、

回路
というか、
異次元を開くまじない(「開けゴマ」みたいな)、

というだけではない気がする。もちろん、そういう意図があるにはあるが、僕は、いま、噺をしようとしている噺家その人が、その導き手で、その人の口先に乗って、一緒に噺の世界へ入って行くための、

協約関係、
というか、
共同作業関係、
というか、
同盟関係、
というか、

違う言い方をすると、

この(噺の)船頭の船に乗ってついて行っても大丈夫、

という見立ての位置づけにあるのではないか、という気がする。しかし、『ま・く・ら』に載る、

めりけん留学奮闘記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、

他の「まくら」をみると、巧まず飾らず、

どうだいこんな自分だが、

と、おのれ自身を自己開示して見せている感がある。ある意味、そこに、個性があり、人柄が出る。というより押し出す。独特の場づくりになっている。

さて『どこからお話ししましょうか‐柳家小三治自伝』である。このタイトルが、たまらなくいい。本書そのものの自然体を象徴する表現になっている。

その自然体の背後に、とてつもない努力の跡があるはずである。誰かが、

努力できるのも才能、

といった。それを随所でさりげなく語っている。読むうちに、我身を振り返って、思わず、背中に冷や汗が出る。身もだえするほど、脂汗が出る。とても評ずるどころではないのである。で、そんなところをピックアップしておくにとどめる。

お客さんに受けることについて。

「『粗忽長屋』をやってみると、最初からおしまいまで、お客さんに受けるための仕掛けが次々と出てくるんです。くやしいから全部受けようと思って、かなり完成させたんですけどね。そうしたら、師匠にピシッとやられた。噺ってものは最初ボソボソやってても、一番最後、ウワーって盛り上がっておしまいになるもんだ。お前の噺は最初から盛り上げ盛り上げしている。あれじゃあ、自分もくたびれ、客もくたびれちゃうじゃないか、と。(中略)全部うけようとしちゃあいけない。ちょっと受けたなと思ったら、次、ここは受けるはずだと思うところは受けないようにスーッと通り過ぎろとか、結構、技術的なことも言われましたね。それまでは全部受けさせていたんです。『お前のは受け過ぎだ。ただのまんだんになっちゃう。どういう噺か、なぜこの噺がおもしろいのかっていう、一番肝心なことをお前は飛ばしてしまう』って…。」

まくらが変化するきっかけについて。

「この対談(ナベサダとの)をやるまでの私は、高座では決まったマクラしかやらなかった。きちんと、どこからでも文句を言われないようにやっていた。だんだん、これでいいのかよって思うようになった。外側をつくろって、うまく聞こえるのは恥ずかしいことだっていうのは、その後、ほんとうに私のきほんですね。芸、芸術、人の生き方でもなんでも、いいじゃないの、つまずいたって。その人がなにをしようとしているのか、目指していることが素敵だったら、拍手したいよね。また、拍手できる人間になりたいと思う。それにはまず自分の側を取り去ることしかない。結局、そこに行き着いちゃった。」

「私のマクラがだんだん長くなったのは、ラジオの『小沢昭一的こころ』の影響もあるでしょうね。小沢さんの『明日のこころだあー』っていう言葉で番組が終わった途端、一緒にタクシーに乗っていた、私の師匠の小さんが『これが現代の落語っていうもんだよ』ってつぶやいたのを、私は忘れません。(中略)こういう切り口でいいんだ、っていう気持ちになったかもしれません。(中略)私のマクラはなんにでも影響受けてますね。いいと思うものはなんでもいいな、って首つっこんで行っちゃう。
 だから、(入船亭)扇橋がぐだぐだ言っているのを聞いて、私のマクラが長くなったっていうこともあるでしょう。若いころから、私よりマクラが長かった。(中略)主に自分のことなんでしょうけど、なにを言ってたんでしょうかねぇ。あいつはきっと、ほんとうのことを言ってたんでしょう。わざわざおもしろい、ギャグのようなものを並べて喜ばせようっていう漫談じゃなくて、『そんなんで、おもしれえのかよ』って思うんだけど、聞いているとなんかおもしろいような気がするんですね。だから、『こんなんでいいのかい』って私もやりだしたのかもしれません。そしたら、私のほうがながくなったちゃった。」

入船亭扇橋について。

「私が『千早ふる』っていう噺をやったときのことです。(中略)私がはなし終えて頭下げて高座をおりてくると、楽屋で障子越しに聞いていた扇橋がぽろぽろって涙をこぼして『落語ってかなしいね』って言ったんです。なにがかなしいってことは言わない。だけど、五年後ばったり出会う男と女の人生を考えると、『人生はかなしいね』ということにもつながっていくし、それを理解しながら、『噺の中に入り込んで、一生懸命はなしていくのはかなしいね』ということの、ひとつの美的表現かなあ。
 噺に出てくる人の心に寄り添わないと噺はできないって気づいたのかもしれない。それに、かなしさを笑いでまぎらしてしまおうっていう、落語そのもののかなしさっていうものもあるかもしれない。(中略)
 なんかあいつは、おれのそばにいた。なんだったんだろう。やっぱりおれのこと好きだったのかな。そう思うと、おれもあいつのこと好きだったんだねえ。まあ、困ったやつです。」

バイクから学んだこと。

「自分がいっぺんその中へ飛び込んでみると、暴走族がいいっていうわけじゃないけど、そうしなきゃならない人にはなにか理由があるんだって考え始めます。すると、世の中のどんな罪をおかした人でも訳があるんだろうって考える。人間が根本的に変わっちゃったんです。
 落語をやるときでも、そういう人間に変わっちゃった人の噺と、変わっていない人の噺では違うと思う。(中略)世の中の人を悪い人といい人に分けて、自分はいつもいい人の側にいる。その考えは違うなって思ってくると、落語も世間の人を見る目も変わってきた。
 そう見ようとするっていうより、そう見えちゃう。見えなきゃ、人間は理解できない。人間を理解できなきゃ、落語はできない。落語は、人生の、社会の縮図ですから。いつの間にか人が生きるということの根本までかんがえるようになる。」

「小言念仏」をめぐって。

「(金馬師匠の『小言念仏』からの)抜け道のひとつが、三枡家勝太郎さんです。そのやり方は、金馬師匠とはまったく違う。金馬師匠のは、エンターテインメント。いってみれば、シネラマを見ているような、会場中に小言をまき散らすようなやり方です。勝太郎さんのは、ほんとに高座の前にまあ多くても五人、三人ぐらいの家族がいるだけで、それに向かってぶつぶつぶつ言う。それ以上、声を遠くに張りはしない。その景色がおかしかった。
 私がとるのはこっちだなと思って、それをめざしてやったんですけとじ、結局は金馬師匠みたいな形になってきちゃった。そこがまことにくやしい。残念だ。(中略)ほんとうはもう誰も聞かないぐらいの声で、いちばん前の席の人に向って話しかける。いや、話しかけるっていうのがもう違う。話しかけちゃあ、いけないんですよ。」

古今亭志ん朝について。立川談志について。

「志ん朝・小三治」の落語会をやりたいっていうのは、会をやるひとたちにとってはひとつのステイタスだったみたいですけど、なかなか実現しないんです。志ん朝さんのとこへいっても。小三治のところへいっても、なかなかイエスって言わない。だれかがあるとき、マネージャーをやっていた志ん朝さんのカミサンに『どうして志ん朝さんは、小三治さんと一緒に会をやってくれないんですか』ってたずねた。そしたら『きっと、あの二人は芸が似てるから、二人ともいやなんでしょう』って言ったっていうんです。これは言い得て妙ですねえ。」

「みんなは志ん朝さんの口調に注目するけど、私は口調の奥にあるものを見ようとした。これは、だんだんその後になって気がついていくことですけど、芸の本域、芸の奥の院、神髄っていいますか、中身は結局、そこなんです。表面に表れているところより、その奥にあるものがなにかっていうことです。表面に見えているものだけで世間は評価して、感心したりしなかったり、で終わってしまうんだけど、そうじゃなくて、そのむこうにある奥でどんな会話を登場人物がしているのか。まあ、最後はそこじゃないですかねえ。そうすると、そこに演者の個性っていうものが、いつのまにか感じられるようになる。演者の個性が好きだからっていうんじゃなくて、その奥をのぞこうとしていると、いつのまにか演者の個性に動かされているっていう……ちょっと難しいですけど、これは。
 私はやっぱり口調じゃなくて、中に秘められている人柄、立場、そういうもので噺をしていかなきゃあ、人を動かんすことはできないんだなってことに、まあ、気づくことは気づいたんです。(中略)
 志ん朝さんは、若いころのテンポのいい口調のままでは、いつかいけなくなるだろうということに、晩年、ちょっと気がついてきたようでした。どうすればいいのかわからないけれども、これじゃダメだなってことを、感じ始めていました。それだけでも私は、えらいなと思いました。闘ってるなって。闘っていれば、そのうち答えがでてくるんですよ。闘わないやつにはなにも出てこない、と私は信じてるんですけどねえ。
 口調だけに頼らずにといっても、ほとんどかわらないんです。でも、なんか噺の中の人物のこころで噺を進めていくってことが見えてきた。(中略)
 談志さんには、これは言ってもわからないんじゃないかなあ。あの人を心底ひっくり返して説得しなきゃなんない。有名になりたいとか、議員になりたいとか、小三治になりたい、小さんになりたいって、そういうことがなかったら、あの人はとんでもない人になってましたね、あの先、どうなったんだろうって思いはあります。若いときから口調もしっかりしていたし、言うことや考えてることもはっきりしてたから、まともにやってまともにおもしろいひとだった。落語がおもしろいんですから。」

「青葉」をめぐって。

「受けるところは受けたいとか、短い間でわっと笑わせるとか、というもんじゃないんだということは、私がこの世界へ入ったころから言われてました。『そこがおかしいから笑うんじゃなくて、その前があるからおかしいんだ』っていうのは、いまだにこの世界に入ってきた人たちはわからないんでしょうか。…もったいないですねえ。
 伏線を敷くのも、順序だった言葉とか、そういうことではないんです。それより、自分のお庭のデザインなり、吹いてくる風の匂いなり、色なりがちゃんと見えていれば、自然にそういうものが噺に出てくる。そういうものがちょっと見えただけで、庭全体が見えてくる。そのためには、庭の設計図が自分の頭の中に出来てなきゃいけない。どこかへ行って『ここみたいなお庭かな』とか、ふだんからそういうものを拾い集めて、頭の中に入れておく。それを思い出そうとすると、その景色がふわー、ふわーって出てくる。(中略)
 ぽつ、ぽつって言ったなかで、そのぽつぽつの間を埋め尽くしていく景色がお客さんの頭の中に自然に広がっていけば、最高でしょう。お客さんと演者との間合いと間合いがうまく合ったら、そういう景色がみえてくるんじゃないですか。」

この話ぶりに見える気っ風が小気味いい。その人柄と心映えを映している。

本の帯に、こうある。

「噺家になってよかった。一歩、一歩……来ました。」

こう言いたい。

「噺家になってもらってよかった」

と。

参考文献;
柳家小三治『どこからお話ししましょうか‐柳家小三治自伝』(岩波書店)
野村雅昭『落語の言語学』(平凡社選書)
http://allabout.co.jp/gm/gc/207062/

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年01月10日

蒲焼


「蒲焼」は、

ウナギ、ハモ、ドジョウ、アナゴなどを骨を取り、串に刺すなどして、蒸して、たれを付けながら焼いた料理、

であり、

関西では蒸さないで素焼きにしたものに、たれをつける、

とある(日本語源大辞典、広辞苑)。

蒲焼.jpg



「うなぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455534185.htmlについては、すでに触れた。

「うなぎは、古名『むなぎ』が転じた 語で、『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが、『む』は『身』を、『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では、『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」

とあり(語源由来辞典)、

「①奈良・平安時代は『むなぎ』で、『万葉-十六・三八五三』『新撰字鏡』『和名抄』などに見られる。②『万葉-十六・三八五三』の家持歌に『石麻呂にわれ申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取りめせ』があった、古来鰻が栄養価の高い食品とされたことがわかる。これ以降、伝統的な和歌に詠まれることはなく、俳諧狂言などに、庶民の食生活を描く素材として取り上げられる。③調理法としては、室町時代に酢(すし)や蒲焼きが行われるようになり、これらを『宇治丸』と称した。夏の土用の丑の日に鰻を食する習慣は、江戸時代の文化年間に始まったという。」

とあり(日本語源大辞典)、

「『時代別国語大辞典-上代編』では、ムナギのナギについて、琉球語のナギ・ノーガ(虹・蛇の意)と同じであるとする説を紹介している。」

ともある(仝上)。どうやら、

「『む』は『身』を、『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説」

が有力で、

「『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」

し(日本語の語源)、音韻変化から、

「ムナガキ(身長き)魚は、ガキ[g(ak)i]の縮約でムナギ(万葉集に武奈伎)に転音し、『ム』の子音[m]の脱落で、ウナギ(鰻)になった。」

としていた。

ウナギは新石器時代頃の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたとされるが、調理方法は定かではない、という。『万葉集』には、大伴家持の、

痩(や)す痩すも 生けらばあらむを 将(はた)やはた  (むなぎ)を漁(と)ると 河に流れな
石麻呂(いしまろ)に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ

という和歌が二首収められているhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%2016-3853%20%203854.htmlが、夏痩せ対策にウナギを食していたものの、美味しい食べ物ではなかった、らしい。

蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々1匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%84%BC、というものだったらしい。

大草家料理書(室町時代)には、

「丸にて炙りて、後に切る也」

とある(大言海)。どうやらここから、

「ウナギの口から尾まで竹串を指し通して塩焼きにした。この形が、蒲の穂に似ているので、蒲焼きといったものの転訛」

という説(たべもの語源辞典、広辞苑)が、有力とされる。大言海は、

「蒲鉾焼の略、形も、黒褐(こげちゃ)色なるも、似たり」

とするのは、「丸にて炙りて、後に切」った後の形をいっているのだろうか。

その色・形が樺皮に似ているから(雍州府志・本朝世事談綺)、
焼いている香りが早く伝わることからついたカバヤキ(香疾)の義(骨董集・本朝世事談綺)、

は、「蒲」の説明と、ウナギを捌かずそのまま串刺しする調理法とのつながりが解けていない気がする。江戸初期の黒川道祐(『雍州府志』)、江戸中期の菊岡沾涼(『本朝世事談綺』)が樺(カバノキ)の皮説を採っていて、「蒲穂」説を採っている、橘守部『俗語考』、喜田川守貞『守貞謾稿』、久松祐之『近世事物考』等々が。いずれも、江戸後期なのは気になるが、

「江戸時代の前半までは、蒲焼きは『うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもの』で、塩焼きや味噌焼きにして食べるもので、その『姿形』が『蒲(がま)の穂』に似ており、その蒲(がま)が蒲(かば)に代わり『蒲焼き』とよばれた。また、そうした食べ物は、下賤の食べ物として、武士やそれなりの家の人間は食べなかった。」

というところで落着させておくhttps://www.wikiwand.com/ja/%E8%92%B2%E7%84%BC

「ウナギが、多くの庶民の口に入り始めたのは、元禄期(1688-1707年)に流通しつつあった濃口醤油の『掛け焼き』からのようである。現在の鰻の蒲焼に近いものが元禄時代から享保時代に出てくる。」

「うなぎの蒲焼きの初出は、正保年間(1640年代)に書かれた『料理物語』である。また、上方(関西)で刊行された堀江林鴻著の『好色産毛(こうしょくうぶげ)』(元禄時代 1688-1707)という本には、京都四条河原の夕涼みの画に、「うなぎさきうり/同かばやき」と記した行灯を置いた露店が描かれているという。」

「享保13年(1728年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったウナギ串が記されており、味は現在の味に近かったとされている。」

そうである(仝上)。

ちなみに、ウナギの蒲焼は、

屋台で売られていた蒲焼は一串16文、
料理茶屋で食べれば一皿200文、

であったhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-16.html。担ぎ売りや屋台では、そばと同じで一串16文なのである。

めいぶつ大かばやき.jpg

(近藤清春「江戸名所百人一首」・深川八幡社「めいぶつ大かばやき」http://www.unasige.com/unagizatugak-rekisi.htmlより)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:蒲焼
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2020年01月11日

かがみもち


「かがみもち」は、

鏡餅、

と当てる。

鏡餅.jpg



平たく円形の鏡のように作った餅。大小二個重ね、正月に神仏に供え、または吉例の時などに用いる。

とあり(広辞苑)、古くは、

餅鏡(もちひかがみ)、

といい、

かがみ、
おそなえ、
おかざり、
円餅、
もちい、
ぐそくもちい、

ともいう(仝上)、とある。「もち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.htmlで触れたように、「もち」は、古くは。

モチイヒ、

といい、「もち」は、

「『モチイヒ』の略で『モチヒ』とよばれていた。鎌倉時代に入ってもモチヒの形が見られるが、平安時代中期にはハ行転呼の現象により、既に『モチヰ』の形をとっていたと思われる。②鎌倉時代にはヰとイの混乱が生じており、『モチイ』は末尾の母音連続を約して『モチ』となった。③室町時代の辞書類を見ると、モチ・モチイ両方の形をのせているものが多い。」

とある(日本語源大辞典)。

円鏡との関係からか、

円鏡の形に似ているのでいう、

とする説(岩波古語辞典)が、他にも多く、

大きさと形が鏡に似た餅(日本語源広辞典)、
形が鏡に似ているから(滑稽雑談・本朝世事談綺・物類称呼・歴世女装考)、
鏡餅は、丸く平らで鏡の形に似ていることからこの名がついた。 現代の鏡は四角いもの が多いが、古くは円形で祭具として用いられ、特別な霊力を持つものと考えられていた。 現在でも神社の御神体として、円形の鏡が祭られている(語源由来辞典)、

等々多数派である。しかし大言海は、

元旦の歯固(はがため)のモチヒカガミを略して、カガミと云ひしに、再び、下に、モチを添えたる語ならむ」

とする。

もちかがみ→かがみ→かがみもち、

ということらしい。源氏物語には「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて」32.の一節があることによるのかもしれない。鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85、とされる。

しかし、餅鏡、鏡餅のいずれにせよ、

鏡、

の円に準えたものに違いはない。かつての銅鏡を考えるまでもなく、鏡は円であった。

方格規矩鏡.jpg



日本においては、

「鏡は神道の信仰の対象となっている。日本神話に登場するものとしては、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。
平安時代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展した」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1、鏡は神体であったり、神代、神器として、信仰の対象であった。鏡餅にしろ、鏡餅にしろ、

「昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿である」

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85

「穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、『年神(歳神)』の依り代である」(仝上)。

なお、和漢三才図会(1712年)には、

「天武天皇4年からの習俗として、『しとき餅』の項に『御鏡是也』と解説された祭餅の図がある。これは、稗や黍餅のことで、稗(きび)団子の類。古人は黍や稗を多用したが、江戸時代には鏡に似せて糯米で円形に作るため、俗に御鏡と呼ばれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%A4%85、とか。

鏡餅飾りを神棚、具足、床の間、鏡箱と信仰するところや愛好する具に供えることが流行したのは江戸時代、

という(たべもの語源辞典)。

「鏡餅の上置きとして、ダイダイ・コンブ・クシガキなどを載せ、関西では櫛型に切った豆腐を載せた」

とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:かがみもち
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2020年01月12日

不慮の儀


諏訪勝則『明智光秀の生涯』を読む。

明智光秀の生涯.jpg


相次いで、何匹目かの泥鰌を狙って、光秀ものが上梓されている。その中で、陰謀論を主張する著者は避けたら、
「黒田官兵衛」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163528.html
「古田織部」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435235025.html
を書いた著者のものがあったので、取り上げてみたい。

何か特徴を出さないと、ということだろうか、

「既出の史料をもとに新たな史料を加味して光秀の履歴を再検討することにした。あまり顧みられることのない文芸の側面からも光秀の立ち位置を探ってみようと思った」

と述べる。その高い素養は、

「一朝一夕に身につくものではなく、…幼い頃から、教養高き知識層の許で育ち、文芸に関する修養に努めたとみて間違いないであろう。決して低い階層の出身ではない」

その光秀の教養は、

「光秀が美濃土岐氏の文化圏にその淵源が求められると思料する。…土岐氏は、清和源氏の頼光流で鎌倉末期に土岐頼貞が美濃守護に補されてから、同国の文芸活動の中核として歴代土岐当主が牽引役を果たした。…頼貞は、玉藻・風雅・新千載・新拾遺・新後拾遺の各勅撰和歌集に入集するなど、『歌人、弓馬上手』と伝えられる。…政房の代には、中世随一の文学者である公家の三条西実隆との交流がみられるなど文芸活動が活発に行われた。(中略)また、守護代斎藤一族の文芸活動も看過できない。(中略)
かくして、美濃国において土岐・斎藤氏により文芸活動が盛んに行われ、家臣たちもこぞって嗜んだのである。」

そして光秀は、美濃出身なのである。『兼見卿記』に、

「明智十兵衛尉折帋を以て申し来りて云く、濃州より親類の方申し上ぐる也」

とあり、また、『立入左京亮入道隆佐記』にも、

「美濃国住人、ときの随分衆也」

とあり、さらに、光秀室も美濃妻木氏出身で、

「美濃出身で土岐氏の家臣であったことを補う情報といえる。また、光秀の重臣斎藤利三が美濃出身ということから、光秀も美濃国に縁があって利三との関係が成り立っていると考えて間違いないであろう」

と、著者は見る。また、『光源院殿御代当参衆幷足軽以下覚』の「永禄六年初役人附」に、足軽衆の中に、明智の名があることについて、

「足軽衆として『山口勘介・三上・一卜軒・移飯・沢村・野村越中守・内山弥五太兵衛尉・丹彦十郎・長井兵部少輔・薬師寺・柳本・玖蔵主・森坊・明智』の名が列記されている。ここにみられる『明智』を光秀に捉えて間違いないと思われる。足軽といっても、下級の武士層を指すものではない。
 たとえば、山口甚介(勘介)は、諱を秀景と称し、もともと公家の葉室家の侍で、その後将軍義昭に仕えた人物である。『言継卿記』元亀元年(1570)九月二十七日条には、『武家御足軽山口甚介』と記されており、甚介のように公家に奉公するなど相応の立場の者が足軽衆に名を連ねていたことがわかる。(中略)そうなると、光秀はこれらの人々に交じって名を連ねるからには、将軍の側近になるのに相応しい資質・素性であったと思料される」

とする。「足軽」とは、

平時は雑役、戦時には歩兵となり、足軽組(足軽大将の下に鉄炮足軽、弓足軽、鑓足軽に編成)に属する最下層の武士、

である。武士というのは、主人持ちであるが、

武家の従者は、

地位の高い郎党(等)、
地位の低い従類、

に分ける。主人と血縁関係のある一族・子弟は、

家子(いえのこ)、

と呼ぶ。

家子・郎等・従類などを合わせて、

郎従(ろうじゅう)、

という。郎党(ろうどう)は相伝の所領を持たない家臣。家子は自己の所領を持ち独立の生計を営みながら、主家と主従関係で結ばれている。従類は、郎党の下の若党、悴者(かせもの)を指す。家子・郎等・従類は、皆姓を持ち、合戦では最後まで主人と運命を共にする。この下に、戦場で主人を助けて馬を引き、鑓、弓、挟(はさみ)箱等々を持つ下人(げにん)である、

中間、小者、あらしこ、

がいる。身分は中間・小者・荒子(あらしこ)の順。あらしこが武家奉公人の最下層。姓を持たない。中間の上が、悴者(かせもの)、若党(わかとう)、その上が郎党(ろうどう)となる。つまり、光秀は、最下層に近い位置にあったといえる。将軍直属の足軽衆である。いわゆる「足軽」よりは高い地位にあるとみていい。

ちなみに、同じ義昭の家臣であった細川藤孝は、

相伴(しょうばん)衆、

である。格段の差がある。

しかし、光秀は、

「美濃国で培った教養人としての素養」

があったから、朝倉氏に受け入れられたし、義昭にも受容されるだけ資質があった、と著者はみなす。たしかに、その教養は、信長にしたがって入京した直後、「中央における蓮歌会の総帥里村紹巴とその一門を中心とした」蓮歌会に参会しているのである。そこには当代最高の武家文人細川藤孝も出席している。この会で発句を詠んだのは、明院良政、信長の祐筆である。その素養を武器に、光秀が、中央文人の中に地位を占めていく、ともいえるのである。この蓮歌会の意味について、著者は、こうまとめている。

「一点目は、上洛後間もない段階において、中央文人と交流をしていることである。蓮歌を詠むためには、高い教養が必要である…。光秀は、この段階ですでに蓮歌に関する知識・技量を身につけていたことになる。朝倉氏のもとに逗留していた際には、さまざまな蓮歌会に出席していたとみて間違いないであろう。その基礎は、美濃で育ちその幼少期に育まれたと考えられる。
 二点目は、信長の祐筆として、この時期に庶政に当たった良政と交流するからには、光秀も織田政権においては早い頃から相応の立場につき、職務を遂行していたことがわかる。」

いま零落しているが、それなりの素養を積める環境で育った、ということである。この点は、ある面、光秀像の一つのイメージとも重なる。光秀の出自を教養面から補強したのが、本書の特色といっていい。

さて、信長の命で、秀吉救援のために中国出陣に先立ち、光秀は、五月二十八日蓮歌を催し、有名な、

ときは今あめが下知る五月哉、

と発句を詠み、

国々はなほ長閑時、

と挙句を詠んだのは、光秀嫡男光慶である。

それにしても、この謀叛は、杜撰である。本能寺襲撃後、信忠をも殺害した直後、光秀は、

「瀬田を本拠地とする山岡景友・景猶兄弟に同心を求めるが、拒絶された。山崎兄弟は、瀬田の橋に火をつけ山中に退いたのである。光秀にとって誤算というより、最初から計画性がなかったことがわかる」

直後、細川藤孝に与同を求めた手紙を書くが、そこに、

吾等不慮の儀、

と書いた。

おもいがけない、
とか
意外、

の意である。自分で起こしながら、意外とは、とぼけているというか、随分無責任な言い条である。突発的な、あるいは発作的な決断に見える。理由はいろいろあるかもしれないが、大義名分があってのことではなさそうである。著者は、四国政策の転換を一応のきっかけとみなしている。

著者は謀叛を考えるためのキーワードを、この、

不慮の儀、

の他に、

謀叛随一、

を挙げる。『言経(ときつね)卿記』に、

日向守内斎藤内蔵助、今度謀叛随一也、堅田ニ窂籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条河原ニテ被誅了、

とある、山科言経が「謀叛随一」とみなしていた、ということである。

「公家衆の記録には、『かれなと信長打談合衆也』『今度謀叛随一也』ときされていて」

公家社会では利三を首謀者としている。

当初長宗我部氏との取次をしたのは光秀である。

「光秀の重臣斎藤利三の兄石谷頼辰の義妹が長宗我部元親の性質という関係から担当したのであろう」

しかし、前年位から四国政策が変化する。「信長主導のもとに三好康長を中核として四国政策を推進」し、本能寺の変直前には、信孝を総大将とする四国侵攻が決定している。光秀は、信長の四国政策の「蚊帳の外」におかれている。この少し前、信長は老臣佐久間信盛らを突然粛清した。

「粛清には、主君として、台頭してくる者の排除と不要な家臣の処分がある。…信長は猜疑心が強く猜疑心が強いとされる。それが故、粛清と反逆が繰り返された。(中略)信長の家臣たちはそれぞれ処分されることを想定していたことは間違いない。天正八年の佐久間信盛ら主要家臣の粛清後、四国政策と秀吉の実力の伸長があり、光秀の心は動揺していたと思う。おびえていたのかもしれない。」

「計画性のない無謀な戦いを強力に推し進め、光秀の気持ちを後押ししたのは、斎藤利三ではないかと考えられる。利三としても、兄石谷頼辰を保護するためにも信長の排除が必要になったのであろう」

と推測する。是非はわからないが、その決断を促す要因に、

「洛中近辺には、光秀の軍勢以外に、織田軍の主力部隊がいない…空白の状況」

が、あった。戦国武将なら、天下取りの野望はある。これを奇禍として、不意に決断された、と見る。計画性が欠けている所以である。

本書で、もうひとつ面白いのは、光秀と秀吉を随所で比較しているところである。

「秀吉は気性が激しい信長に対して、危機を回避する対処能力に優れていた。」

とし、例えば、勝家と対立し、独断で戦線離脱し、信長に激怒されながら、

「『播磨国中、夜を日に継いで懸けまはり、悉く人質執り固め、霜月十日比には播磨表隙明申すべきの旨』と(信長公記に)記録されていて、秀吉は、播磨侵攻に際し、昼夜を分かたず奔走し、播磨の諸将から人質を集めたとある。この秀吉の尋常では考えられない迅速な活きに対して信長は秀吉を認め、播磨から一時、離れて帰国するように朱印状をもって伝えた。しかし、秀吉は、まだ働きが足りないとして但馬方面を攻め、山口岩淵の城を陥落させ、竹田城を攻略させている」

という、「猛烈な行動力のアピール」というか、パフォーマンス力は、到底光秀にはない。それは、毛利と和睦して上洛するとき、摂津の中川清秀に、

「仍ただ今、京より罷下候者慥申候、上様并殿様何も無御別儀、御きりぬけなされ候、ぜゝか崎へ御退きなされ候内ニ、福平左三度つきあひ、無比類動にて、無何事之由、先以目出度存知候、我等も成次第、帰城候状、猶追々可申承候、云々」

と、平然と信長存命の手紙で嘘八百を並べ立てていく。

「瞬時の対応には、感服せざるをえない。秀吉は行動が迅速であり、即座に何をしなければならないか分析し対応する能力に長けている」

と。すでに、山崎での合戦の前に勝敗は決していたようである。

光秀については、

「謀叛」http://ppnetwork.seesaa.net/article/399629041.html
「光秀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469748642.html
「信長殺害」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472831218.html?1578548959

等々でも触れた。他の書に比べると、本書は、書き急いだせいなのか、少々粗笨なのが目に付いたのが気になった。

参考文献;
諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:不慮の儀
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2020年01月13日

かがみびらき


「かがみびらき」は、

鏡開き、

と当てるが、

鏡割り(かがみわり)、

ともいう。

「『開き』は『割る』の忌み詞」

とある(広辞苑)。

「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dが、鏡餅は割って祝う。

「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」

とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった」

でもある。

鏡餅は、

「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」

からである(語源由来辞典)。

楊洲周延 『千代田之御表』御鏡開ノ図.jpg

(楊洲周延 『千代田之御表』御鏡開ノ図(明治30年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dより)


江戸語大辞典には、

「正月十一日に鏡餅を下げて雑煮・汁粉などに作って祝う行事。もと武家で男子は具足、女子は鏡台に供えた鏡餅を下ろして祝ったのが、一般の風習となったもの」

とある。鏡餅を供えることは、室町時代から、という(語源由来辞典)。

江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

なお、「鏡開き」には、

祝宴などで菰(こも)を巻き付けた酒樽(菰樽という)の蓋を木槌で割って開封すること、

を言うこともある。

鏡抜き、

ともいうが、これは、

酒屋では酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいた、

ことに由来するという。

「酒屋では、酒樽の上蓋のことを鏡と呼んでいました。古くから日本酒は、神事を営む際に神酒として供えられ、祈願が済むと参列者でお酒を酌み交わし、祈願の成就を願うことが習慣となっています。神酒が樽で供えられた時には樽の鏡を開いて酒を振る舞います。」

とあるhttps://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/qa/sake/sake06.html。ただ、鏡抜きと呼び、

「『鏡開き』と呼ぶのは誤りだという説もある」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D。確かに、

「祝い事などで『酒だるのふたを開ける』ことは、『鏡を抜く』というのが本来の言い方です。『鏡開き』は、もともとは『鏡もちを下げる』正月行事を指します。『酒だる』については、放送ではできるだけ『鏡開き』を使わないで、具体的に『四斗(しと)だるを開ける』などと言いかえるようにしています。」

としているとあるhttp://web.archive.org/web/20050318085349/http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/kotoba_qq_01010101.html。しかし、酒造メーカーのホームページには、

「鏡開きの由来については、定かではありませんが、昔、武士が出陣の際に、味方の気持ちを鼓舞しようと、振舞酒として酒樽を割ったことから来ていると言われています。清酒の樽のふたを、古くから、まるくて平らな形から「鏡」と呼んでおり、そんなことから、 樽のふたを割って、酒をみんなで飲み交わすことを『鏡開き』と呼んでいます。
同じく丸い形で『鏡』の名を持つものに『鏡餅』があり、新年に一年の健康を願って、鏡餅を食べることも『鏡開き』といいます。また、『鏡』は昔から魂が宿る大切なものとされていましたので、『割る』ということをきらい、 鏡餅も清酒の樽も『鏡』を『開く』と表現しています。」

とあり、確かに、行為としては「抜く」だが、「開く」の方が、

「樽の中のお酒ですが、“よろこび”ごとに欠かせないお酒の語源も一説には“栄える”から“栄え水(さかえみず)”の名が起こり、のちに“さかえ”から“さけ”となったと言われています。 運を開き、栄える酒をわかちあう『鏡開き』は“よろこび”の場面に欠かせません。」

とある(仝上)ことからも、相応しい気がする。

なお「さけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.htmlで触れたように、「さけ」の語源は諸説あるが、酒の古名は「き」であり、「さけ」の「け」は、「き」の音韻変化のようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年01月14日

かがみ


「かがみ」は、

鏡、
鑑、
鑒、

等々と当てる。「鑑」と当てるのは、映す鏡のメタファで、

手本、
模範、

という意味の時に当てる。「鏡」(呉音キョウ、漢音ケイ)は、

「会意兼形声。竟は、楽章のさかいめ、くぎりめをあらわす。境の原字。鏡は『金+音符竟』。銅を磨いて、明暗のさかいめをはっきりうつしだすかがみ」

とある(漢字源)。「鑑(鑒)」(漢音カン、呉音ケン)は、

「会意兼形声。監は『伏し目+人+皿に水を入れたさま』の会意文字で、水のかがみの上に顔をうつすことをあらわす。のち青銅をみがいたかがみを用いるようになったので、金へんを添え、鑑の字となった。鑑は『金+監』」

とある(仝上)。

「昔は水かがみを用い、盆に水を入れ、上からからだを伏せて顔をうつした。春秋時代からのちは、青銅の麺らを平らに磨いて姿をうつした」

ともあるので、あるいは、「鑑(鑒)」の方が、古い「かがみ」を意味しているのかもしれない。字源には、「鏡」を、

銅、又は玻璃にて作る、

とある(玻璃はガラスの異称)ので、「鏡」は、銅鏡以降のものを意味する。

人物画像鏡 5- 6世紀(癸未年在銘).jpg

(人物画像鏡 5- 6世紀(癸未年在銘)・隅田八幡神社所蔵 国宝) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1より)


鏡は、弥生初期に銅鏡が、中国・朝鮮から伝来した。とされる。古代、鏡は、祭祀道具であり、権力を象徴する財宝でもあった(日本昔話事典)。

「天孫降臨では天照大御神は『此の宝鏡(八咫鏡)を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし』(この鏡を私だと思って大切にしなさい)との神勅を出していることから、古代から日本人は鏡を神聖なものと扱っていたと思われる。」

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1。弥生中期、

「北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。銅鏡は宝器として珍重され、後期になって副葬され始めるようになった後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が鋳出され、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1し、古墳時代、

「邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち内行花文鏡、三角縁神獣鏡などの銅鏡を意味する)を贈られた故事がある。これは、彼女がシャーマン的な支配者であったことと結びつける研究も多い。鏡は神道や皇室では、三種の神器のひとつが八咫鏡であり、神社では神体として鏡を奉っているものが多数存在する。」

というほど、鏡は神聖視されてきた。長く鏡は貴重品で、一般化するのは、江戸期に、水銀をかぶせた鏡が量産化されてからのことであり、ガラス製は近世末期になってからとなる(日本昔話事典)。

合わせ鏡のおひさ.jpg

(喜多川歌麿「合わせ鏡のおひさ」寛政の三美人のひとり高島屋おひさ https://kanazawabunko.net/works/866より)

さて、「かがみ」の語源である。

「カガはカゲ(影)の古形。影見の意」(岩波古語辞典)

とする説が有力らしい。「かげ(影・陰・蔭)」は、

「古形カガの転。カガヨヒ・カグツチのカガ・カグと同根。光によってできる像。明暗ともにいう」

ともある(仝上)。「かぐつち(迦具土・火神)」は、

「カグはカガヨヒノカガと同根。光のちらちらする意」

であり、「かがよひ」は、

ガキロヒと同根、

で、

静止したものがキラキラと光って揺れる、

意である。「かぎろひ」の「ヒ」は「火」の意で、

揺れて光る意、

とある(仝上)。不安定な水鑑や銅鏡の映し出す映像を思い描くとき、この説は魅力がある。

カゲミ(影見)の義(志不可起・類聚名物考・百草露・言元梯・名言通・和訓栞)、

と、主張する説は多い(日本語の語源も)。

カゲマミ(影真見)の約轉(和訓集説)、

も同趣であろうか。

しかし、大言海は、

「赫見(かがみ)の義。鑑の初は、日神の御光を模して造れると伝ふ、古語拾遺に、八咫鏡に『鋳日像(ヒノミカタ)之鏡、(神代紀に同じ)初度所鋳不合意』。大倭本紀(釈紀所引)に、此御鏡を天懸(アマカカス)神となづくとあり、天赫(あまかがはす)なり」

と、かがやく(赫・輝)を採る。だが、この説明は、神話に基づいていて、今一つ説得力を欠く。しかし、日本語源広辞典も、

「カガ(眩い・輝く意)+ミ(見るもの)、

とする。

カガミ(赫見・炫見)の義(古事記傳・箋注和名抄・和訓栞)、

と、この説を採るものも少なくないが

不安定な揺らめく影を見ている銅鏡は、

かぎろひ、
かぐつち、

の「かが」「かぐ」と重なるとみる説の方が、説得力がある。銅鏡の鈍い輝きは、

かがやく、

という語感とはちょっと違う気がしてならない。ただ、

かが(爀爀)、

を、

影(かげ)と通ず、

としている(大言海)ところを見ると、

かがやく、
かがよふ、
かがり(篝)、

の語根として、結局、同じことを言っていることになるが。

南天柄鏡.jpg

(「南天柄鏡」京都国立博物館蔵 https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kinkou/54dokyo.htmlより)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:かがみ
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2020年01月15日

トリ


「トリ」は、「とり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458483418.html?1577499423で取り上げた「鳥」ではなく、

取り、

と当てる、

寄席で、最後に出演する者、

の意である。これをメタファに、

最後に上映または演ずる呼び物や番組、又それを演ずる人、

の意に広げて使われる(広辞苑)。「寄席」は、

「講談・落語・浪曲・萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せる興行小屋」

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E5%B8%AD

「始まりは18世紀中頃で、演目は浄瑠璃、小唄、講談、手妻(手品)などで、寛政年間(18世紀後半)以後、落語が主流となった。場所が常設小屋になったのは文化年間(19世紀初頭)ごろからで、天保の改革で数が制限されたが、安政年間(19世紀後半)には約400軒と急増した)」

とあり(仝上)、古いのは講談らしい。寄席の起源は、

「一般的には江戸初期に神社や寺院の境内の一部を借りて、現在の講談に近い話を聞かせる催し物が開かれていたもの(講釈場)である。ただ、これは不定期に催されるものであったようである。これが原型となって、初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政10年(1798年)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものとされ、当神社には現在の定席四席による寄席発祥の石碑がある。当初は『寄せ場(よせば)』と呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。」(仝上)

「トリ」とは、

興行の一番最後に出る芸人。主任ともいわれる、

と落語芸術協会のホームページhttps://www.geikyo.com/beginner/dictionary_detail.html#toriには載る。だから、

「主任格であることから『トリ』には『主任』が当てられていた」

ともある(語源由来辞典)。

「トリ」は、

真打、

の意ともある(広辞苑)。で、日本語源大辞典には、

主任格の真打は当夜の収入を全部取り、芸人たちに分けていたところから取り語りまたは真ヲ取ルの略(すらんぐ=暉峻康隆)、

と載る。日本語源広辞典も、「トリ」は、

取り前、

の意とし、

寄席で、一晩の収入を、会場費と真打の取り前とに、分けて取ります。これがトリです。不入りの時、自腹を切って出演費の面倒を見ます。そこで、真打の俗称となりました、

とする。「トリ」は、真打の意である。トリを取れるから真打というわけである。江戸語大辞典には、

真を打つ、

と載り、

眞は心、中心の意。一座の中心になって最後に出演する。打つは。演ずる、興行する意、

と載る。あるいは、

落語、講談などの一座の主任、またはその格式ある者をさす、

とある。「心打」と当てたりするが、「心」の意の、

真ん中、中心、

の意のようである。ただ別に、「真を打つ」は、

「昔、夜の寄席での高座の明かりはすべてロウソクでした。寄席で最後の演者が落語を終える時に、明かりのロウソクの火を消すためにロウソクの芯を切り落としていた様子から真打と伝えられています。つまり、真打とは高座で主任(トリ)を勤めることができる実力のある噺家のことを指します。落語の修業の成果を自分の師匠だけでなく数多くの落語関係者に認められ、たくさんのご贔屓さんができた結果、真打となることが許されます。」

ともあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/207013/

和蝋燭.jpg


ローソク云々の是非はともかく、「真打」は、不入りなら、自腹で賄うだけの力量があるからこそ、

トリをとる、

ことができる、ということなのだろう。

「真打」は、今日、

前座→二ツ目→真打、

と、落語家の資格制度のような意味合いになっているが、本来は、

トリ、

と同義で使われていたようである。前出の落語芸術協会には、「真打」は、

落語家の位。真打ちになると寄席で主任になれる。また、弟子を取ることもできる、

とある。確かに資格としての「真打」を言っている。

「この語は、天保(1830‐44)ごろから使用されるようになった。現在は、前座、二ツ目、真打と昇進するが、大正時代までは、二つ目の古参で真打目前の者を三つ目、準真打と称した」

とある(世界大百科事典)。

なお、寄席の舞台を、

高座、

と呼ぶが、

「もとは仏教語で、釈尊(しゃくそん)が成道(じょうどう)したという金剛宝座をかたどり、説教のときに一般席より高く設けた台。これが話芸の世界に導入され、落語や講談など寄席芸を演ずる者が座る台をいうようになった。文化四年(1807)講釈師の初代伊東燕晋(えんしん)が(徳川家康の偉業を読む尊厳を理由にした出願を寺社奉行が許可し)畳1枚(三尺×六尺)の大きさの固定した高座をつくったが、文化・文政(1804‐30)ごろの初期の寄席は高座がないのが普通で、小さな壇がある程度だった。天保(1830‐44)ごろから、間口9尺(約2.7m)から2間(約3.6m)、奥行9尺ぐらいの高座ができ、明治以後現在までの大きな寄席では、間口3、4間となった。」

とある(日本大百科全書、世界大百科事典、http://www.rakugo.or.jp/kouza-kamishimo.html)。

因みに、前座は、

仏教における前座(まえざ)説教、

が語源。二ツ目は、

前座と真打の間。前座に続き、二番目に高座に上がるため、

そう呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%AE%B6、とか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:トリ 真を打つ
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2020年01月16日

まくら


柳家小三治『ま・く・ら』『もひとつま・く・ら』を読む。

小三治・まくら.jpg


今更めくが、柳家小三治『どこからお話ししましょうか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555という柳家小三治自伝を読んだついでに、「まくら」だけを集めたものがあると知って、読み始めた。

柳家小三治は、噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もあるとか。

「まくら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/421083802.html
「気っ風」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473027032.html?1578515555

で触れたことと重なるが、

まくら、

は、その演目に合ったものをするが、基本的には、

演じる落語の演目に関連した話をする、
現代ではほとんど使われなくなった人、物、様子などの解説をする、

2種類が骨格で、それにいろいろまぶす結果、いろいろな話が加えられるらしい。小三治のように、

まくらだけで高座が終わる、

ということもあるが、そこまで行くと、本題に入らなくて(そこで終わらないで)、このまま続けてほしい、と(観客側が)いうほどの、まくら自体が、

エンターテイメント、

になっているからかもしれない。しかし、それは、噺家としての力量が前提で、個人的には、まくらでその力量が見える気がする。

「マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない」

という。しかし、素人ながら、マクラの果たす役割は、ただ、

現実(この会場のこの時、この場)と噺の世界、

をつなぐ、

回路
というか、
異次元を開くまじない(「開けゴマ」みたいな)、

というだけではない気がする。もちろん、そういう意図があるにはあるが、僕は、いま、噺をしようとしている噺家その人が、その導き手で、その人の口先に乗って、一緒に噺の世界へ入って行くための、

協約関係、
というか、
共同作業関係、
というか、
同盟関係、
というか、

違う言い方をすると、

この(噺の)船頭の船に乗ってついて行っても大丈夫、

という見立ての位置づけにあるのではないか、という気がする。独演会が多いので、初めから、その噺家を目当てに出かける場合、それは不必要に見えるかもしれないが、寄席で、次々と噺家がとっかえひっかえ(失礼、入れ代わり立ち代り)登壇する場面を想定すると、

まくら、

は、ある意味、リアルに噺家の人柄と力量とを見極める手がかりになっているのではないか、という気がする。

「マクラはお客さんが本編に入りやすい状態にほぐす役割を兼ねているのです。このマクラは落語にとって前フリなのです。また、マクラは『話す』のではなく、『振る』といいます。なぜなら、まずはこのマクラでお客さんを『振り向かせる』ということでしょう。」

とある。しかし、当たり前だが、まくらにその噺家の技量と力量と器量が反映している。これも、前にで書いたが、

まくら、

に個性があり、人柄が出る、というよりも、噺そのものに人柄が出るというか、極端に言うと、噺が、

人柄で変る、

という意味では、「まくら」は、その人柄のリトマス試験紙なのかもしれない。しかし、活字で読むのは、「まくら」の内容で、本来、

その場、
その時、
その雰囲気、

を共有するその時その場の観客と共に、聞かなければ、口調も、テンポも、声音もわからない。それでも本書は可笑しい。著者自身が、「あとがき」で、

「たしかに自分で高座でしゃべったものには違いないのだけれど。聞いて下さっているお客さんは興味を持って眼を輝かせたり、わらってくれてはいましたよ。その反応に乗せられてついつい長い枕話になったり、だけどそれは、その時その時空間に消えてしまう私とお客さんとの瞬間瞬間の共有時間であり、お互いのその場限りの楽しい時間、としてのおしゃべりだったのです」

と本人自身が語っている通り、本来活字化されるはずのないものが活字化された。それでも、

「読んでみると自分ながら面白ぇこというヤツだなァコイツァ。と笑っちゃったりして。とてもみっともない」

と書いているほどではあるのだが。

読み通してみて感じたのは、たぶん、その場では、この何十倍もおかしかったであろうことは、たしか、

めりけん留学奮闘記、

を当時NHKで観たときの、捧腹絶倒をよく記憶しているので、想像がつく。

ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、
ミツバチの話、
熊の胆の話、
小さんにも事務員さんにもなる名前、
笑子の墓、
パソコンはバカだ!!

等々、別に作り話ではなく、

「ここに載ってるのは全部自分が実際に出会ったり感じたことばかり、そのまんま。第一、枕としてしゃべっているということは、『このあとは落語をおしゃべりさせていただきますよ』という前提があっての枕ですから」

とある通り(あとがき)自身の体験を話しているだけだが、なぜが可笑しい。句会の仲間でもある故小沢昭一は、

「ある一つの材料を語るのに、もう根ほり葉ほり、いろんな角度から、しつこくイジル。腰をすえて、ああもこうも、オモシロイことを見つけてこだわっていく。そういうネバッコイ話運び」

が真骨頂と、評する。オーディオ、オートバイ、塩、熊の胆、ハチミツ等々、それがそのまま話になっていく。

ふと、僕は、

お伽衆、

のことを思い出した。御伽衆(おとぎしゅう)は、

「室町時代後期から江戸時代初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名である。雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人。御迦衆とも書き、御咄衆(おはなししゆう)、相伴衆(そうばんしゅう)などの別称もあるが、江戸時代になると談判衆(だんぱんしゅう)、安西衆(あんざいしゅう)とも呼ばれた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BC%BD%E8%A1%86#cite_note-ko-1

咄(はなし)相手を主としたから御咄衆とも言うが、正確には御伽衆の中に御咄衆が含まれる。御伽衆は、語って聞かせる特殊な技術のほか、武辺談や政談の必要から相応の豊富な体験や博学多識、話術の巧みさが要求されたため、昔のことをよく知っている年老いた浪人が起用されることが多かった、ともある(仝上)。

慶長年間(1596年‐1615年)に御伽衆の笑話を編集した『戯言養気集』(ぎげんようきしゆう)には、

「御伽衆の講釈話が庶民に広がって江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われるので、御伽衆は落語家の祖でもある」

と、まさに、落語の先祖である。豊臣秀吉の御伽衆の一人、

曽呂利新左衛門、

は、実在を疑われているが、

「落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%91%82%E5%88%A9%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80。こんな逸話がある、とか。

秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。
秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と、日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。
ある時、秀吉が望みのものをやろうというと、口を秀吉の耳に寄せた。諸侯は陰口をきかれたかと心落ち着かず、新左衛門に山のような贈物を届けたという。

等々(仝上)。この曽呂利に擬されているのは、落語の祖とされる、

初代曽呂利新左衛門.jpg



安楽庵策伝、

で、安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたのが、元和9年(1623年)の、

『醒睡笑』

である。収載された話は約1、000話に及び、

「収載された話は最後に落ち(サゲ)がついており、策伝はこの形式で説教をしていたと考えられている。『醒睡笑』には現在の小咄(短い笑い話)もみられ、また、この本に収載された話を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれているところから、策伝は『落語の祖』といわれる」

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E8%AA%9E

もひとつ ま・く・ら.jpg


なにやら、小三治の「まくら」を読むと、軽口・頓智に富み、狂歌の達人として人気者だったという、

曽呂利新左衛門、

のことを思い出す。本書所収の、

めりけん留学奮闘記、
ニューヨークひとりある記、
玉子かけ御飯、
駐車場物語、

は、まさに御伽衆の笑話を思い出させる。

参考文献;
柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)
柳家小三治『もひとつま・く・ら』(講談社文庫)
野村雅昭『落語の言語学』(平凡社選書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:まくら
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2020年01月17日

ちょろまかす


「ちょろまかす」は、

①一時のがれのうそを言って、その場をごまかす。言いまぎらわしたり、だましたりする(浮世草子・好色盛衰記(1688)「ちょろまかすといふ時花(はやり)言葉も是おかし。西南ふたつの色所より、役者・末社のいひ出して、一座の興にもなるぞかし。罪にならざる当座の偽を、まぎらかすといへる替詞と聞えたり」)、
②人の目をごまかして物を盗む。かすめ取る。ごまかし取る(浮世草子・西鶴置土産(1693)「むかし残りてさもしき心にて紙一枚、ちょろまかすといふ事なし」)、
③女をだまして肉体関係を結ぶ。女をたらす。女を誘惑する(浄瑠璃・猿丸太夫鹿巻毫(1736)「沢といふ妼、大宮司のねそ殿がいつの間にやらちょろまかし、腹がれこさ」)、

という意味がある、とされる(精選版日本国語大辞典)。いずれも江戸期の言葉らしいが、今日③の意味は使われていないようだ。江戸語大辞典には載るが、広辞苑、大辞林、デジタル大辞泉等々には、①②の意味しか載らないし、大言海にも、載らない。栄花咄(貞享)に、

「ちョろまかすと云ふ流行詞、云々、罪にならざる当座の偽を、まぎらかすといへる替詞と聞えたり」

とある(大言海)。江戸時代の流行語であるらしい。

「ちょろまかす」の語源については、ネット上は、二説が溢れている。たとえば、

「一つ目は「好色一代男」で知られる江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、また俳諧師であった井原西鶴の著作『好色盛衰記』に『ちょろまかす』が当時の流行言葉として紹介されているところから。その由来は『ちょろりと誤魔化す事』と書かれているとか。
もう一つの説は、同じ江戸時代の伝馬船、…『ちょき船』と呼ばれていたそうですが、それよりも小型で速い船を『ちょろ』と呼んでいた。『ちょろ』を負かすほど素早く動く様を『ちょろ負かす』と言い表し、さらにそこから『素早く動いて相手に悟られない』という意味になった」https://www.yuraimemo.com/4381/

「1688(元禄元)年に書かれた井原西鶴の『好色盛衰記』の中には《ちょろまかすと言ふ流行言葉も是れおかし》と、はっきりと流行語だと書かれていたりします。ここで井原西鶴はこの言葉の語源を『ちょろまかすとは、チョロリとごまかす事』と書いています。
別の説も存在します。江戸時代に荷物などを運搬する船のことを《伝馬船》と呼んでいて、それの小型の船の事を《猪牙》船と呼んでいたのです。この猪牙船は一人乗りでその軽量なことからかなりのスピードが出せたのです。しかし、それより小型でスピードの出る船と言うのも存在していて、それの事を《ちょろ》と呼んでいたらしいのです。そんなムチャクチャ早いスピードを出す《ちょろ》を負かしてしまうほど素早く動くことを《ちょろ負かす》と言うようになり、次第に素早い動きで相手に悟られないように行動することを《ちょろまかす》と言うようになったという説があります。」http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%A4%C1%A4%E7%A4%ED%A4%DE%A4%AB%A4%B9

「(1)『ちょろい』と、『ごまかす』『だまかす』などの『まかす』が組み合わさった造語という説があります。本来、『ごまかす』『だまかす』から『まかす』だけを取り出すのは文法的には間違いなのですが、…要するに、〈ちょろちょろっとごまかす〉〈ちょろっとだます〉という意味合いのことばをつくったということです。
(2)江戸時代に、荷物の運送に使われた『猪牙船(ちょきぶね)』というかなり小さな船がありました。小回りがきいて、船足も速い船で、『ちょろちょろ』と走り回っていたので『ちょろ』とも呼ばれたそうです。その『ちょろ船』よりももっと素早くという意味合いで〈ちょろを負かす〉くらいに〈すばやくごまかす〉ということで『ちょろまかす』という言い方ができた、という説です。」https://mobility-8074.at.webry.info/201605/article_1.html

西鶴の「ちょろりと誤魔化す事」というのはともかく、「ちょろ船」という説は、ちょっと信じがたい。「ちょろ船」は、

ちょろ、

ともいい、

船脚の早い猪牙舟の呼称、東海地方以西でいう、

とあり(広辞苑)、猪牙船と同じ意である。大言海は、「猪牙舟」の項で、

「ちョきは櫓の音の形容。…ちョろと云ふ小舟もこれならむと云ふ。或は云ふ、長吉と云ふ者、作り始む、故に長吉船とも云へりと。或は、形、猪牙に似たれば云ふと云ふは、皆、付会なり、猪牙と云ふ湯桶訓あるべくもあらず」

とする。

ちょきぶね.bmp

(猪牙舟 精選版日本国語大辞典より)

中央に描かれた屋根のないのが猪牙舟.jpg

浮世絵『江戸名所草木尽くし 首尾の松』  中央が猪牙舟。右は屋根船(屋形船の小型版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%89%99%E8%88%9Fより)


猪牙舟は、

「往時、専ら江戸、山谷通(さんやがよひ)に用ゐたり。進むこと至りてはやければなり。されど甚だしく動揺せり。櫓を二挺立てて漕ぎたるは更に早し、因りて舟を二挺立てとも云ひ、此舟に屋根を付けたたるを、キリギリスと云ひき。舟揺れて二挺の櫓の、キリキリと鳴る故なり」

と説明する(大言海)。「山谷通」とは、「江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた」山谷堀(さんやぼり)を、

「江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通い」

を言ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E5%A0%80

となると、西鶴が紹介した「ちょろりと誤魔化す事」が有力となる。

擬態語チョロ+ごまかす(日本語源広辞典)、
擬態語チョロ+接尾語めかす、
擬態語チョロ+まぎらかす(上方語源辞典=前田勇)、
形容詞チョロイを動詞化したもの。チョロイは擬態語チョロチョロから(すらんぐ=暉峻康隆)、

と、その語源説には、いくつかある。

「擬態語チョロ+接尾語まかす」について、

「擬態語『ちょろ』に接尾語『めかす』が付いたのなら『ちょろめかす』となるはずであるが、中近世には、だますを意味する語として『まぎらかす』『たるまかす』『だまかす』『ごまかす』など『…かす』『…まかす』の形をとるものが多く、恐らく、この形への類推によって『ちょろまかす』の形が生じたものと思われる」

と、「まかす」からの変化を説明する説もある(日本語源大辞典、精選版日本国語大辞典)。

「『まかす』は、『ごまかす』や『だまかす』など『だます』という意味あいのある言葉との連想で加えられた接尾語ではないかとされている。」

という説明が的を射ているのかもしれない(笑える国語辞典)。

「ちょろ」は、

ちょろちょろ、
ちょろり、
ちょろと、

等々、もとは、

液体が少し流れ出る、

様をいう擬態のように思われる。それが、

小動物などが素早く小刻みに動く様子、
素早く行動する様子、

の意味になる。「ちょろり」には、ただ素早いだけではなく、

特に、相手に気づかれないうちに、相手からとがめられる前に、ほんのちょっとの間をうまく利用はするニュアンスを伴うことがある、

とある(擬音語・擬態語辞典)。これが、「ちょろい」「ちょろまかす」に共通するようである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2020年01月18日

大道無門


西村恵信訳『無門関』を読む。

無門関.jpg


読んだ程度で何かが会得できるわけではないし、浅学の者の生悟りが叶うわけでもない。無門は、

何ぞ況や言句に滞って解会(げえ)を覓(もとむ)るをや、

と戒めている。

通りすがりに、いくつか感じたことがある。それを書き留めておく。

大道無門、千差路有り、
此の門を透得せば、乾坤に独歩せん、

とある。しかし、

参禅は須らく祖師の関を透るべし、

ともある。そして、祖師は問う、

趙州和尚、因みに僧問う、狗子(くす)、還(は)た仏性有りや、州云く、無。

と。

如何が是れ祖師の関。只だ者(こ)の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり、遂に之れを目(なず)けて禅宗の無門関と曰う、

そして、

平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ、

と。本書の編者無門慧開(1183~260年)自身が、自著で、

老拙もまた一偈有り。諸人に挙示(こじ)せん。敢えて道理を説かず。若し也(ま)た信得及(しんとくぎゅう)し挙得(ことく)熟せば、生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得ん。無無無無無、無無無無無。無無無無無、無無無無無」

と書いているように、この「無」の字に苦しんだ、とか(本書解説)。無門は、

狗子仏性、全提正令、
纔(わずか)に渉れば、喪身失命せん、

と曰う。有無どちらかに偏ることを嫌うと見た。

本書には、四十八の公案が載るが、その多くは、答えを出そうとしても出せない。般若心経の、

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、

ではないが、一種矛盾、二律背反の中に、答えを求めるものが多い。

声、耳畔(にはん)に来るか、耳、声返(しょうへん)に往くか、(中略)若し耳を将(も)って聴かば応に会し難かるべし、眼処に声を聞いて、方始(はじ)めて親し。

語黙離微に渉り(語れば微に陥り、黙すれば離に陥る)、

口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪す、

是れ風の動くにきあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、

即心即仏、非心非仏、

是れ一か是れ二か、

語黙対せざれ、

言、事(じ)を展(の)ぶること無く、語、機に投ぜず、
言を承(う)くるものは喪し、句に滞(とどこお)るものは迷う、

有語なるを得ず、無語なるを得ず、速かに道(い)え、速かに道え、

你(なんじ)に拄杖子(しゅじょうす)有らば、我你に拄杖子を与えん。你に拄杖子無くんば、我你が拄杖子を奪わん、

百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし、

等々。この中では、「百尺竿頭」http://ppnetwork.seesaa.net/article/426438375.htmlで触れた、

百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も、未だ真を為さず。百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし、

が、強く心に残る。理屈ばっているせいかもしれない。

心は是れ仏ならず、智は是れ道ならず、

といい、

若し心を認(と)めて決定(けつじょう)すれば、是れ仏ならず、若し智を認めて決定すれば、是れ道ならず、

というとある。無門の言う、

是れ一か是れ二か、

つまり、

一でもあり、二でもある、

ということは理屈ではない境地なのだろう。ちょっと僕には分からない。

ところで、

雲門、因みに問う、如何なるか是れ仏。門云く、乾屎橛。

という乾屎橛は、通常、「べらぼう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/421256499.htmlで触れたように、クソ掻き箆とされてきたが、本書では、棒状のまま乾燥したクソそのものをいう、としている。たいして意味は変わらないが。。。

参考文献;
西村恵信訳『無門関』(岩波文庫)

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2020年01月19日

ちょんぼ


「ちょんぼ」は、

うっかりして犯した失敗やミス、

とあるが、どこか、

ズルをする、

という含意があるような気がする。大辞林には、

麻雀用語。あがりの牌を間違えること、

とあり、

マージャンのツォーホー(錯和)から、

ともあり(精選版 日本国語大辞典)、

故意ではなく、杜撰さ、

を指しているように見える。僕は麻雀を知らないので、よくわからないが、「錯和」は、こういうことらしい。麻雀は、

「文字や柄の描かれた牌を集め、牌の特定の組み合わせによって『役』を作ることで勝敗を付けるゲームです。この『役』が完成された状態を「和了」(あがり)といい、「和了」で一旦勝敗が決します。ところが「役」が揃っていないのに誤って『和了』を宣言してしまうことを『錯和』あるいは『冲和』(ちょんぼ)と言います。『錯』は『錯覚』の『錯』、『冲』は『冲虚』という言葉もありますが『虚』と同じように『むなしい』という意味です。間違って『和了』したから『錯和』、成立しない『和了』ということで『冲和』です。」

とあるのがわかりやすいhttps://www.alc.co.jp/jpn/article/faq/04/120.html。これが転じて誤って何かをすることを「ちょんぼ」というようになったようである。なお、

「『錯和』は中国語で「ツァホウ:cuohuo」、『冲和』は「チョンフォウ:chonghuo]ですから『ちょんぼ』はより音の近い『冲和』のなまったものである」

と推測している(仝上)。

因みに、列子に

冲和之気(ちゅうわのき)、

という言葉がある。

沖和之気、

とも当てる(沖と冲は同義)。「冲」は虚しい意もあるが、柔らかいという意もあり、

天地の間にある調和されて穏やかな気のこと。「沖和」はやすらかなこと、
陰と陽が交わるところにあるものとされ、人間そのものを言い表す言葉、

とあるhttps://yoji.jitenon.jp/yojig/3068.html

元へ戻すと、麻雀の反則行為では、麻雀におけるルール違反、いわゆる、

チョンボ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80%E3%81%AE%E5%8F%8D%E5%89%87%E8%A1%8C%E7%82%BA。あくまで、ミスであり、牌を隠す・すりかえるなど、故意の重大なルール違反は反則行為ではなく、

不正行為(イカサマ)、

と区別する(仝上)、ともある。

麻雀で反則行為を行った場合には罰則(ペナルティ)を科される。「罰符(ばっぷ)」というのは、

「重大な反則に対して科せられる罰則で、反則者が対戦相手3人に対して罰符と呼ばれる一定の点数を支払ったうえで、通常は元の局をやり直す。主として局の続行が不可能となるような反則に対して適用される。このような重大な反則を特にチョンボという」

とある(仝上)。チョンボがあった場合、

「チョンボした者が罰符の支払い(多くは満貫払い)をしたあと、『ノーゲーム・ノーカウントとしてその局をやりなおす』のが一般的である。その局に出されたリーチ棒などの供託点は出した者に戻り、積み棒は積まずに局をやり直す。親も移動しない」

とある(仝上)。僕は麻雀をやらないので、よくわかっていないが、

「発覚せずに次の局に移行した場合は、後で発覚したとしても罰則を適用しないのが一般的である」
「和了(あがり)と同時に発生した場合は和了が優先となり、チョンボは不問となる」

ともある(仝上)。故意か単なるミスかは、微妙なところがある気がする。

「ちょんぼ」は、元来、上記のように、

「『間違った和了』の意味であり、和了の条件を満たしていないにも関わらず和了を宣言したような場合(誤ロンあるいは誤ツモ)をチョンボと呼んだ」

が(仝上)、罰符が適用される反則行為にとどまらず、麻雀における反則行為全般についてチョンボと呼ぶ場合があり、それが転じて、

不注意による失敗をチョンボ、

というようになった、とみられる(仝上)。1970年代後期に、うっかりミスや間違いのことを「ちょんぼ」というようになり、また一部では万引きという意味でも使われる(日本語俗語辞典)、という。意味が、故意にシフトしたようである。もともと微妙にそんな含意があったのかもしれない。

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2020年01月20日

しょぼい


「しょぼい」は、

勢いがない、さえない、ぱっとしない、みすぼらしい、

といった意味である(大辞林)が、どちらかというと、

貧乏臭い、

という含意がある気がする。ほぼ、

ちんけ、

と同義ではないか。「ちんけ」は、

さいころばくちで1の目を『ちん』ということから、

貧相な様、器量の小さいさま、

の意で使う(広辞苑)、とあるが、

程度の低いさま、
あるいは、
最低であるさま、

の意味が強い(精選版日本国語大辞典)。

「しょぼい」は、擬態語から来たとみる。たとえば、

しおしお、
しょぼしょぼ、
しょんぼり、

等々。「しおしお(しほしほ・しをしを)」は,「すごずご」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452569207.htmlで触れたように、

萎萎,

と当てる例もあるが,

しとしとと濡れるさま,涙・雨などについていう,

とあり,どうやらその状態表現が転じて,というか,その状態をメタファに,

悲しくさびしそうなさま,悄然,

あるいは、

しかられたり、うち負かされて元気がなく、しおれている様子、

に意味を広げていったと見える。当然,

しおたれる(塩垂れる・潮垂れる),

という言葉が類推される。「塩垂れる」は,『広辞苑』には,

塩水に濡れて雫が垂れる,
転じて,涙で袖が濡れる,

さらに意味が転じて,

元気がない様子になる,

という意味になる、とあるが,『岩波古語辞典』には,

雫が垂れる,ぐっしょり濡れる,
涙にくれる,
みすぼらしい様子になる,貧相に元気のない様子になる,

の意味を載せる。「塩(潮)」は当て字ではないか。「しおたれる」に似た「しおれる」について,『日本語源広辞典』は,

「シホル(生気を失う)の下二段口語化」

とある。「しほる」は,

しをる,

であり,『岩波古語辞典』には,

「植物が雪や風に押されて,たわみ,うなだれる意」

とある。『大言海』は,

「撓ひ折る意か,或いは荒折(さびを)るるの約かと云ふ」

とある。つまり,

しおれた,

という状態表現なのである。このあたりが「しおしお」の由来と思われる。『擬音語・擬態語辞典』には,

「『源氏物語』の『しほしほと泣き給ふ』の『しほしほ』は,涙に濡れる様子を,江戸時代の女房詞『しほしほ』は涙の意を表した。室町末期の『日葡辞書』の『しをしを』には,『人が力をおとしたり,意気消沈したりして萎れるさま』とある。
 『しおしお』は,草木などが生気を失う意を表す『しをれる』の『しを』と関係がある。」

とし,「すごすご」「しょぼしょぼ」と「しおしお」を対比して,

「『しおしお』は元気なくしおれるような様子を表すのに対して,『しょぼしょぼ』は元気なく寂しそうで,しぼむような様子。『すごすご』は,目的が達成できず元気なくその場を立ち去る様子を表す。」

としている。

「しょぼしょぼ」「しょんぼり」、あるいは「しょぼん」は、「しおしお」の類義語になる。

「しょんぼり」は,

気落ちして沈んでいる様子,

だが,『日本語源広辞典』によると,

「しょぼしょぼ(擬態語)+り(副詞化)」

とあるし,『大言海』にも,

「ションボは,ショボショボの,ショボの音便化」

ともある。つまりは,「しょんぼり」は,「しょぼしょぼ」から転化した語ということになる。「しょぼしょぼ」は、

雨が弱々しく陰気に降り続けること(古くは「そぼそぼ」と言った),
木や髪,髭がまばらに生えていて,みすぼらしい様子,
疲労・眠気・涙・まぶしさ・心労・老化などのために,目を見開いていられず,力なくまばたきをする様子,
体力や気力が衰えて,弱々しく哀れな様子,

という意味がある(擬音語・擬態語辞典)が、この派生語の,

しょぼん,
しょんぼり,

と比較すると,

「『しょぼん』は,『しょぼしょぼ』よりも急に,勢いや元気をなくす様子,『しょんぼり』は『しょぼしょぼ』よりもはっきりと気持ちのおちこみが外側に現われている様子」

なのだという(仝上)。

雨が弱々しく陰気に降り続けること、

を、江戸時代「しょぼしょぼ雨」といい、

疲労・眠気・涙・まぶしさ・心労・老化などのために,目を見開いていられず,力なくまばたきをする様子、

を、やはり「しょぼしょぼ目」といった、とある(仝上)。「しょぼい」は、この、

しょぼ、

を形容詞化したものとみられる。

しょぼつく、
しょぼくれる、
しょぼたれる、

はいずれも、

侘しく、寂しげ、

な含意がある。「しょぼい」は、

悄然,

の価値表現がこめられている気がする。

江戸語大辞典に、

しょぼくない、

という言葉が載る。誤植でなければ、

塩垂れたさま、転じて、老衰したさま、また、気力のないさま、しょぼしょぼしたさま、

の意が載る。「しょぼい」には、

しおしおとした、

含意もある。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:しょぼい
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2020年01月21日

ちょっかい


「ちょっかい」は、

ちょっかいをかける、
ちょっかいを出す、

といった言い回しをする。

曲がって委縮した手、

という意味が、室町末期の日葡辞書に載る(精選版日本国語大辞典には「曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手」(日葡辞書)と載る)。で、前後は不明ながら、

相手の腕や手をののしって言う語、

という意味があり、

猫などが前の片足で物を掻き寄せること、

という意味があり、その状態表現をメタファに、

横合いから干渉すること、

という意味がある(広辞苑)。

相手の腕や手をののしって言う語、

という意味は、

手、特に手首から先の部分を卑しめていう語、

ともある(大辞林)。意味の先後がよくわからないが、江戸語大辞典には、

手、腕、
手首から先、手首、転じて三味線の撥を持つ手、撥はばき、
ちょっかいを出すの略、

とあるので、どうやら、元々手、腕を指したものらしい。用例としては、

「ちょっかいの廻る長(だけ)」(天明三年・絵本見立仮譬尽)、

が載る(仝上)。ただ、日葡辞書の掲載から見ると、もともと、

曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手、

を指していたものかもしれない。

「己このちょっかいにて色々の悪戯をまつり」(1702頃浄瑠璃・信田小太郎)
「わが-を俺が懐中ふところへつつ込む間には」(歌舞伎・男伊達初買曽我)

等々の用例(精選版日本国語大辞典、大辞林)を見ると、ニュートラルな言葉ではなく、

腕、手、手先を卑しめていう語、であるのだから。

更に価値表現を加えると、

手首から先、

の意から転じて、

撥さばき、

の意となる。

「ちょっかいが動いてくると猫で張り 木賀」(文化三年・柳多留)

「能廻るちょっかいならば土佐ぶしをさあひき給へ猫の皮にて」(狂歌・若葉集(1783))

等々という用例がある(精選版日本国語大辞典、江戸語大辞典)が、それと、

「ちょっかいにたつ名ぞ惜(をし)き猫の夢〈友吉〉」(俳諧・洛陽集(1680))

という用例の、

猫が前の片足で物をかきよせるような動作をする、

意とは、「ちょっかい」の意味に、揶揄のニュアンスが加わっている。猫の動作を指す意味は、後のことかもしれない。その猫の動作から、

ちょっかいを出す、

という言葉遣いが派生したものと想像する。

水槽の金魚を狙うネコ.jpg

(水槽の金魚を狙うネコ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3より)


「ちょっかいを出す」は、

脇から干渉や手出しをする、
おせっかいをする、

意があり、その派生で、

たわむれに異性に手を出す。特に、男がたわむれ心で女性に言い寄る、

意を持つ。「ちょっかいをかける」もほぼ同義である。

「未だ爪を隠さぬ新造猫より化けそうな年増猫まで、みなちょっかいを出して客をひきかかんと欲す」(洒落本・猫謝羅子)、

では、猫の振る舞いと異性へのそれとが意味が重なり合っているように思える。

「ちょっかい」は、何から出て来たのか。江戸語大辞典は、

ちょっ掻きのイ音便かとも、手出しの訛りかとも、

と二説挙げている。日本語源広辞典は、

ちょっかき(猫が手を出してちょっと掻く)、

を取る。しかし、「ちょっかい」のもつ、日葡辞書の意味、

曲がり縮んだ手。また、指が曲がって動かない手、

は、説明できない。大言海は、

一能掻(イチヨクカイ)の義か、

とするか、少し苦しくないか。

猫の仕草から、「ちょっかい」が出た、とすると、

ちょっかき→ちょっかい、

の転訛は、確かに説明できる。しかし、それより前、日葡辞書にのせる「ちょっかい」の意味の説明がつかない。

三味線は、成立は15世紀から16世紀にかけてとされ、戦国時代に琉球(現在の沖縄県)から伝来した。

「琉球貿易により堺に宮廷音楽や三線がもたらされ、短期間の内に三味線へと改良された。現存する豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線『淀』は、華奢なもののすでに基本的に現在の三味線とほとんど変わらない形状をしている。伝来楽器としての三線は当道座の盲人音楽家によって手が加えられたとされ、三線が義爪を使って弾奏していたのを改め彼らが専門としていた『平曲(平家琵琶)』の撥を援用したのもそのあらわれである。彼らは琵琶の音色の持つ渋さや重厚感、劇的表現力などを、どちらかといえば軽妙な音色を持つ三味線に加えるために様々な工夫を施したと思われる。」

とある。ここからは憶説だが、

三味線を弾く女(喜多川歌麿「江戸の花 娘浄瑠璃」 .jpg

(喜多川歌麿「江戸の花 娘浄瑠璃」享和3年(1803年)) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%91%B3%E7%B7%9Aより)


指が曲がって動かない手、

は、撥さばきの手つきと重ならなくもない。

腕、手、手先を卑しめていう語、

が、転じて、

撥さばき、

の意となる経路と、

猫の仕草、

が転じて、

手出しする、

意となる流れとは、別経路なのかもしれない。

「古くは、腕や手、特に手先を卑しめていう言葉として『ちょっかい』が用いられており、1603年の『日葡辞書』には、『歪み曲がってちぢかんだ手』とある」

意味と、

「ネコが物を掻き寄せる動きから、余計な手出しをすることを『ちょっきかい』と言うようになり、口を出すなど側から干渉する意味、さらに異性に言い寄る意味で使われるようになった」

意味の広がり(語源由来辞典)とは、乖離がありすぎる気がする。「撥さばき」の意では、今日ほとんど使われないが。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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