2020年02月01日


「豆」は、

荳、
菽、

等々とも当てる。「豆」(漢音トウ、呉音ズ)は、

「象形。たかつきを描いたもので、じっとひとところに立つ意を含む。たかつきの形をした豆の意に転用された」

とあり(漢字源)、

大豆(中国では、黄豆)、
小豆(中国では、紅豆)、
緑豆(もやしにされる)、

の意とある(仝上)。

莢の中の種の称、

ともある(字源)。「菽」(シュク)は、

「会意兼形声。『艸+音符叔(シュク 小さい、小粒)』。小粒の実の意から、豆の総称」

とあり(漢字源)、「菽(シュク)は大豆である」(たべもの語源辞典)、とある。豆=菽であり、荳は、豆の俗字、とある(字源)。

まめに働く、

の「まめ」は、「まめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473354169.html?1580416347で触れたように、

忠実、

と当てる。「豆」は、

マメ科に属する植物のうち、ダイズ、アズキ、ソラマメ、エンドウなど、実を食用とするものの総称、またその実、

とある(広辞苑)。ただ特に、

大豆、

をいう(和名抄)、らしい。

大豆は、中国が古代にわたって来たとも、日本と中国に自生していたツルマメが原種である、とされる(たべもの語源辞典)。ツルマメは、

ノマメ、

とも呼ばれる。

ツルマメの実.jpg



古代、現住していた人たちは、ダイズを主食としていた、という(仝上)。後期弥生遺跡には栽培していたことが分かっている(仝上)。

「まめ」の語源としては、

マルミ(丸味)・マロミ(円実)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・名言通・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣・大言海・広辞苑)、

が大勢を占める。沖縄では、

マミ、

といい、

マル(マロ)→マミ→マメ、

といった転訛ということになる。

丸い実から芽を出すから、マ(丸)メ(芽)(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、

モニタリング説といっていい。その他に、

旨き+実の意(日本語の語源・日本語源広辞典・語源由来辞典)、

がある。

uma+mi→mami→mame、

とする(仝上)。その他、

外皮に実 がはめられていることから「実填め(みはめ)」の短縮(語源由来辞典)、
マミ(馬子)の義(言元梯)、
マグレツク(塗付)などのマグ、マミル(塗)などのマミから、搦みつく、まとわりつくの意の動詞マムを推定し、その未然形ママからか(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々。ひねくり廻すのは、語音に合わせようとしている感じで、如何かと思う。単純に、

まるい、

の印象から、というのでいいのではあるまいか。

「まめ」は、

オオマメ、

と呼ばれた。それを音読したのが、

ダイズ(大豆)、

である。

大豆.jpg

(大豆、日本の農業百科事典のイラスト(1804) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%BAより)


「あずき」は、

小豆、

と当てるが、大言海は、

赤小豆、

と当て、

「醫心方『赤小豆(あかつき)』、成形図説(文化)『赤小豆(あずき)、赤粒木(あかつぶき)』などの義にや。キは草の義を表し、ハギ、ススキ、フフキ(蕗)等の語成分で、またキザスの語根」

とするが、

アは赤を意味し、ツキ・ツキが溶けることを意味し、他の豆より調理時間が短いことを意味していた、地方用語でアズ・アヅとは崩れやすいという意味であり、そこから煮崩れしやすいアズキと名付けられた(日本釈名・柴門和語類集)、
アは小の義、ツキはツムキと同語で、角がある意(東雅)、
アは赤、ツキはツク(搗)か。臼でついて用いることを吉とし、またもちなどにつくる故からか(和句解)、
アツキ(赤粒草)の義(言元梯)、
アカツキ(赤着)の義(名言通・日本語原学=林甕臣)、
豆木の湯桶読みツキか(日本語源=賀茂百樹)、
アヂケ(味饌)の転。うまい食物の意(和訓栞後編・日本古語大辞典=松岡静雄)、
イツキ(斎)から出た語か(語源大辞典=堀井令以知)、
アイヌ語でantukiという。アイヌ語が日本語に入ってきてアヅキとなったか、逆に日本語がアイヌ語に入ったか、両様の解釈が可能(外来語の話=新村出)、
朝鮮語pqt-ki(小豆)からか(植物和名語源新考=深津正)、
中国からdugという音が実物のアズキとともに日本に伝えられ、dugiとなり、清音化し、接頭語アが加わった(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
「本草和名(ホンゾウワミョウ)」(平安時代)には「赤小豆」を阿加阿都岐(アカアツキ)と記述しており、後にアズキとなった、

と諸説ありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%AD、日本語源大辞典)、日本語源広辞典は、

アヅ(味)+キ(重なり)で、味を引き立てるものの意、

とする。

アズキの花.jpg


しかし、「小豆」も、古く縄文遺跡から発掘されているほか、古事記に、

殺されたオオゲツヒメの鼻から小豆が生じたとする、

し、万葉集にも、

あづきなく 何の狂言(たはこと) 今さらに 童言(わらはごと)する 老人(おいひと)にして、

と、「あづきなく」(不当に)の「あづき」に「小豆」の漢字を当てており、奈良時代からあった(仝上)、と思われる。とするなら、知られていた「豆」、つまり、

大豆、

と区別して、

赤小豆(あかあづき)、

としたことは確からしく思えるが、どう訓み、どう転訛して「あづき」→「あずき」となったかは、はっきりしない。大言海の、すすき、フキの「キ」から、

アカツブキ→アカツキ→アヅキ、

といったふうな転訛が最もあり得るように思える。

「そらまめ」は、

蚕豆、
空豆、

と当てるが、慶長年間(1596~1615)に中国から渡来したが、「蚕豆」と当てるのは、

莢の形が成熟したサヤの形にているからとも、養蚕の時節に、成熟するから、

ともいい(たべもの語源辞典)、

「空豆」と当てるのは、

その実が空に向かってつくからである(大言海、仝上)、とされる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル: 小豆 大豆
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2020年02月02日

あじけない


「あじけない」は、

味気ない、

と当てるが、

味気、

は当て字である。今日は、

味気ない世の中、
味気ない仕事、

というように、

面白くない、
つまらない、

という意味で使うが、「あじけない」は、もともと、

あぢきない、
あぢきなし、

と表記した。岩波古語辞典には、

アヅキナシの転。漢文の「無道」「無状」の訓にあてられ、秩序にはずれてひどい状態が原義。他人の行為を規範にはずれていると批判したり、相手に道理を説いてたしなめたりする意。間投詞的にも使う。また、自分自身の行動や心の動きが常軌を逸しているのに自分で規制できないことを自嘲したり、男女関係の不調について失望・絶望の気持ちを表す、

とある。

人の行為が倫理を逸脱して、どうにもならないほどひどい、無礼である(日本書紀「素戔嗚尊の為行(ふるまひ)甚だ無状(あぢきな)し」)

おろかしくひどい、しかしどうにもならない(三宝絵「碁はこれ日を送る戯なれど勝ち負けのいとなみの無端(あぢきな)し」)

(間投詞的に)なんとおっしゃる、いけません、とんでもない(「源氏物語あぢけなし。(姫君を)見奉らざらんことは胸痛かりぬべけれど、つひにこの御ため、よかるべからざらんことをこそ思はめ」)、

自分あるいは相手の対手の行為が常識に外れているので、苦々しい、なさけない(一条摂政集「あぢけなや戀てふ山は茂くとも人の入るにや我がまどふべき」)、

(運命的なものとして)苦しいがどうにもできない、仕方がない(かげろふ日記「すべて世にふることかひなくて゜あぢけなきここち、いとする頃なり」)

(漢文訓読の用法から副詞的に)思いがけず、わけもなく(源氏物語「あぢけなく見奉るわが顔にも移りくるやうに愛敬はにほひ散りて」)、

といった意味の転換がある(岩波古語辞典)。価値表現の中に、次第に対象から自分の感情表現に転じていくさまが見て取れる。

味気ない、

と当てたときは、

やるせない

なさけない

面白くない

と、ほぼ感情表現が、相手との関係への感情から、自身の感情へと転じているように思える(広辞苑)。今日は、「おもしろくない」意でしか使わない。

「あずき」について触れた「豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473371197.html?1580503032で引いたように、万葉集に、

小豆無し何の狂言(たはこと)今さらに童言(わらはごと)する老人(おいひと)にして、
面形(おもかた)の忘れ瓶(へ)あらばあづきなく男(をとこ)じものや恋ひつつ居(を)らむ、
中々に黙然(もだ)もあらましを小豆無く相見初めても吾れは戀ふるか、

等々と、「あづきなし」に「小豆」を当てている。しかし、

日本書紀の「無道」「無状」にあてた古訓や古辞書の訓みは「あぢきなし」で、平安時代以降は「あぢきなし」に一本化した。現代語の「あじけない」は、この語がさらに転じたもの、

とある(日本語源大辞典)。つまり、

あづきなし→あぢきなし→あじけなし(い)、

と転訛したものということになる。大言海が、「あぢきなし」に、

無状、

と当てているのは、ある意味原則にのっとっている。

その大言海は、「あぢきなし」について、

「アは、発語、あ附(づき)なしの義(あ清(さやか)、あ遍(まね)し、あ諄(くど)し)。橘守部の湖月抄別記、あぢきなう、アヂキナク『阿は、歎息の発語、都岐(つき)は、ヲリツキナシなどの都岐にて、只、ツキナシとも云ふ』。をりつきなし、即ち遠慮なしの意となる。」

とする。「をりつきなし」は岩波古語辞典、大言に載らないので、たしかめようがないが、「遠慮なし」の意味では、岩波古語辞典の言う、「無状」に宛てた当初の意味とは、ずれるのではあるまいか。

日本語源広辞典は、「あぢきなし」を、

ああ+つきなし(似つかわしくない)、

と、

自分で自分が嫌になる、転じて、相手が無道で手に負えない、仕方がない意になる、

とするが、これだと、主体の感情表現から、相手の価値表現へと転じたことになり、岩波古語辞典の主張とは真逆になる。となると、当初、「あづきなし(小豆無し)」は、

自分の感情表現、

情けない、

であった言葉が、

無状、無道、

に当てることで、

無礼である、
遠慮がない、

という、相手に対する価値表現に広がったことになる。つまり、

小豆無し、

を、

あづきなし、

と当てた言葉は万葉集にあった意味は、日本書紀が、

無道、
無状、

を、

あぢきなし、

と訓ませたとき、当初の「あづきなし」の意味ではない語意に変えたのかもしれない。

(あぢきなしと)アヅキナシとどちらが古いかは簡単に決めにくい(時代別国語大辞典-上代編)、

というのは、これを指しているのかもしれない。とすると、今日、

味気なし、

と、主体の感情表現になって、

面白くない、
なさけない、

という意味で使うのは、先祖返り、なのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;
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2020年02月03日

汁粉


今日「汁粉」は、

小豆の餡を水でのばして汁として砂糖を加えて煮、中に餅または白玉などを入れたもの、

とある(広辞苑)。漉(こ)し餡と粒餡のものがあり、つぶし餡を用いたものを、

田舎汁粉、

あるいは、

小倉汁粉、

とも呼び、関西では、これを、

ぜんざい、

と呼ぶ。「小倉汁粉」は「小倉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473261871.html?1579898010で触れたが、こしあんに砂糖煮の赤小豆を入れたものである。「ぜんざい」は、関東では、汁気のない餡そのものを呼ぶが、関西では、

亀山または金時、

と呼ぶ。

また、漉し餡をもちいたものを、

御前汁粉、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89。これは、関西でも「おしるこ」である。

御前汁粉に玄米餅.jpg

(御前汁粉に玄米餅 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89より)


「汁粉」は、

汁子、

とも当てる。

汁粉の語源は餡汁粉(子)餅で、その略が汁粉ともいわれるが、本来は汁の中に入れる実を汁の子、汁子と称した、

とされる(日本大百科全書)からである。大言海にも、

汁の實を子と云ふ、

とある。嬉遊笑覧(文政13年(1830))にも、

「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の實なり」

とある(日本語源大辞典)、という。

芋の子もくふやしるこのもち月夜(寛永発句帳)、

という、満月の夜に芋の子の汁の實(しるこ)を食べたという名月の句がある(たべもの語源辞典)。寛永(1624~1644)の「しるこ」とは、「汁の実」だったらしい。汁粉が庶民の食物となるのは明和年間(1764~1772)以降とみられ、『明和誌』に、

「近頃(ちかごろ)汁粉見世にて商う」

と記され、『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853年)には汁粉の種類も数品用意されていたとある。振売りの汁粉屋はそれ以前から往来していたが、値は夜鷹(よたか)そば並みの、

1杯16文、

であった。天秤(てんびん)の前後に荷箱をかけ、赤行灯(あんどん)をつるした職人の売り声は、「白玉ァおしるこゥ」「お正月やァ(餅入りの意)おしるこゥ」であった。多くは夜売りで、行灯に正月屋と書き込む汁粉屋が多かったことから、正月屋ともよばれた(日本大百科全書)、という。

しるこ屋新昇亭 歌川広重画 団扇絵(うちわえ).jpg

(しるこ屋新昇亭 歌川広重画 団扇絵(うちわえ) http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no30.htmlより)


ただ、「汁粉」の語源説には、異説もあり、

アズキの生餡(なまあん)(水を切った生餡は粉をこねた状態である)を水に溶くから汁粉とする説(日本大百科全書)
餡汁に入れる実の餅という意のシルコモチのモチが省略されたもの(暮らしのことば語源辞典)、
叡山から京へ出る道に、俗にシルタニゴエと称する泥濘甚だしいところがあり、それに似ているところから(類聚名物考)、
コはあずき餡をいう。汁にしたあずき粉の意(於路加於比)、
本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった(和菓子の系譜)、

等々。しかし、

芋の子もくふやしるこのもち月夜、

は、芋の実を指している。汁の子(實)、でいいのではあるまいか。寛永12年(1635年)の『料理物語』には、

「後段(宴会の後に出される間食で、うどんやそうめん、饅頭などが含まれる)の欄に、『すすりだんご』と称される物が載っている。これはもち米6に対しうるち米4で作った団子を小豆の粉の汁で煮込み、塩味を付けたものであり、その上から白砂糖を天盛りにした一種の汁物である。当初は甘い物ではなく、塩味で調理されており、肴として用いられる事もあった。鳥取県・島根県東部での雑煮における汁粉も、元来はこうした塩味の料理であったと考えられる。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%81%E7%B2%89。すすり団子は、

すすり団子は甘味として食べたのではなく、お酒を楽しむ際の肴(さかな)、

だった、とある(古典料理の研究、http://yurakucho.today/sweets/p9700/)。

関西で言う「ぜんざい」は、

一条兼良(1402~1481年)の『尺素往来』に、

「新年の善哉(ぜんざい)は修正の祝着」

とあり(たべもの語源辞典)、同年代頃の一休禅師も、

「善哉此汁(ぜんざいこのしる)」

と言った、とあるhttps://atsushino1.com/5039.html

「年の初めに餅を食う喜び(仏語で善哉)」

とある(たべもの語源辞典)が、「善哉」は、

「元仏教語で、『すばらしい』を意味するサンスクリット語『sadhu』の漢訳。仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、『それで良い』『実に良い』といった意味で用いられる」

とある(語源由来辞典)。「汁粉」が「善哉」と呼ばれるいわれは、「ぜんざいもち」の項で、大言海は、

或る人、始めて、小豆の汁に餅を入れて、一休禅師に供したるに、一休、賞して、善哉此汁と云ひしを名とすなど、云ひ伝ふ、

とあるが、異説もあり、

出雲地方の神事「神在祭」で振る舞われた「神在餅」を由来とする説である。「神在餅」の「じんざい」が訛り、「ぜんざい」へと変化した、

とする(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84、梅村載筆、私可多咄)説があり、松江藩の地誌『雲陽誌(うんようし)』佐陀大社の項に

此祭日俚民白餅を小豆にて煮家ことに食これを神在餅といふ出雲の国にはしまる世間せんさい餅といふはあやまりなり」とあります。その他、いくつかの古文献にも「神在餅」についての記述があるところから当社は「ぜんざい発祥の地」であるといわれています、

とあるとか(仝上)。あるいは、

あずき餅の餡を任意に湯で薄めてたべるところから、ジザイモチ(自在餅)の義(月曜通信=柳田國男)、

もある。しかし、各地に「ぜんざい」はあり、嚆矢が、

関西、

のようである。

「年の初めに餅を祝うよろこびであった。善哉餅といって、小豆を煮て餅を入れた食べ方が考えられ、関西で『ぜんざい』という名称が登場してくる」

とある(たべもの語源辞典)。それが、

「しる状の様子から、関東へは『しるこ』というよび方で伝わった」

とある(日本語源大辞典)。

当初は、「しるこ」と「ぜんざい」の区別は明確ではなかったが、

「近世後期には関東・関西それぞれにおける区別が確立し、関東では、汁気のあるものを『しるこ』、汁気が少なく餡にちかいものを『ぜんざい』とよぶ。関西では、汁気のあるもののうち、漉し餡のものを『しるこ』、つぶし餡のものを『ぜんざい』とよびわけ、汁気の少ないものを『亀山』とよぶ」

ことに落ち着く(仝上)。『守貞漫稿』は、

京坂では小豆を皮のまま黒砂糖を加えて丸餅を煮るのを善哉という。江戸では小豆の皮をとり、白砂糖の下級品或は黒砂糖を加えて切餅を煮るのを汁粉という。京坂でも小豆の皮をとったものは汁粉、または漉し餡の善哉という。江戸では善哉に似たものをつぶし餡という。また漉し餡に粒の小豆をまぜたものをいなか汁粉という、

とまとめているhttp://www.kabuki-za.com/syoku/2/no30.html

汁のあるぜんざい(関西).jpg

(汁のあるぜんざい(関西) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2020年02月04日


「柱」は、

材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)とするもの、

の意である。

真木柱(まけばしら)、讃めて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

と、万葉集にもある。「真木柱」は、

まきばしらの轉、

で、「真木(まき)」は、

槙、
柀、

とも当て、「マ」は接頭語で、

檜・杉・松・槙など、硬くて建築に適する木、

をいい、「真木柱」は、

檜・杉り立派な柱。宮殿、貴族の邸などに用いる、

とある(岩波古語辞典)。「柱」の、

上の荷重を支える材、

の意をメタファに、

頼りになる人、

の意で、

一家の柱、
計画の柱、

等々と使う。その意からか、

この三柱の神は、

などと、神・霊などを数えるのにも用いたりする。また「柱」は、図書用語で、

洋装本で、版面の周辺の余白に印刷した見出し。
和装本で、各丁の折り目に当たる所に記した書名・巻数・標題など。版心、柱刻、

の意でもある。

また「柱」は、

ヂ(ジ)、

と訓むと、琴柱(ことじ)のように、

琴などの弦楽器の弦をのせる駒、

の意となり、

チュウ、

と訓ますと、琴柱(ことじ)の意もあるが、

数学用語で、柱面もしくは柱体(ちゆうたい)のこと、

となる。

エンタシスの柱(法隆寺).jpg

(法隆寺・エンタシスの柱(円柱下部もしくは中間部から、上部にかけて徐々に細くした形状の柱) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1より)


さて、「柱」の語源である。岩波古語辞典は、

「立って本体を支えるもの、ハシ(箸)と同根」

とする。どうであろうか。「箸」は、

古くは、一条のものを折り曲げて、その両端で挟んだ、

とある(日本昔話事典)。

食事のあとなどで、神慮を祈願し、箸をだいちにさすと芽をだし、大木になったという箸杉や箸立て松の伝説が各地にある、

とあり、「柱」とつながりそうだが、そもそも、

大嘗祭などでは(一条の者を折り曲げた)形式の箸を神前に供える、

とあり(仝上)、どうも「柱」とはつながらない気がする。

大言海は、

ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞、

とする。「間(ハシ)」は、辞書には載らないが、日本語源広辞典も、

ハシ(間)+ラ、

を採り、

屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます、

とする(この説を採るものは多く、古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)。また、

ハシラ(間等)の義(言元梯)、

も同趣である。ほかに、「橋」「梯」の「はし」とからめて、

橋渡しとなるもの、二所間の媒介物としてのハシ(橋・階・梯)諸語と同じ原義(時代別国語大辞典-上代編)、
梯座の義(和訓栞)、

もあるが、橋・階・梯と柱とは違いを区別していたのではあるまいか。その他、

ハシルシ(端記)の義(名言通)、
家のアシであるところから、ハシはアシの義。ラは助辞(日本釈名)、
ハリシロ(張代)の義(日本語原学=林甕臣)、
ハシラズ(葉不知)の義(和句解・百草露・柴門和語類集)、
ハは永久の義、シラはシルシ(標)の義(古史通)、
バザラ(待日羅)の転で、堅固不壊の意(和語私臆鈔)、

等々あるが、どうだろう。意味だけで言うなら、確かに、

橋・階・梯、

も、

はしだて、

というとき、

梯立て、

と当て、

梯子を立てかける、

意であり、

樹梯(階)、
橋立、

とも当て、

立った梯子、

の意でもあり、捨てがたいが、

「宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる。」

もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1のだから、やはり、天地の、

ハシ(間)+ラ、

ということなのではないか。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:
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2020年02月05日

大黒柱


「柱」は、「柱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473416760.html?1580761859で触れたように、

材を垂直に立てて建築物の支え(ささえ)としたもの、

だが、用途、場所、役割によって呼び名が異なる。例えば、

床の間に使う装飾的な柱を床柱、門を支えるものを門柱、
塀を支える柱を控柱、
大壁を真壁に見せかけるための付け柱、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1。家の中心となるような太い柱は、

大黒柱、

と呼ばれるが、

大極柱、

とも当てる(仝上)。ただ、大言海は、

大國柱か。古事記、二祖国生「行廻逢是天之御柱」、神代紀「國中之柱、云々、國柱」とあり、大極柱は牽強なるべし、

とし、

大國柱、

とあてている。しかし、

「宮城を造営する際、君主が世界を支配するために天(神)と繋がる中心点が重要であるとして太極殿を建てた。当時を模して建てたものの代表的なものに、平安神宮外拝殿がある。 太極(中心点)が、万物の根源、陰陽の根源とつながるものと考えられ、万物には当然のごとく神が宿ることから、そこに建てる重要な柱を太極柱と呼ぶことになる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1ので、まさに、その目的、位置などによって名を変えているようである。で、

「地方によっては、大国主の神をお祀りすることから大黒柱ともいい、太い柱を大黒柱と一概にいうわけではない」

ともある(仝上)。

しかし、「大黒柱」は、

家の中央にあって、最初に立てる柱、

であるので、

建初(たてぞめ)柱、

ともいう、とある(広辞苑)。あるいは、神社などでは、

心(しん)の御柱(みはしら)、

という(大言海)。

「日本の神が、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬(ひもろぎ)としている」

故であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1

しかし、次第に、広く、民家の、

土間と床上部の間の境にある太い柱(広辞苑)、
家の上がり端の中央、土間・表・内の三合に立つ一番太い柱(岩波古語辞典)、
家の中央に立つる甚だ太き柱(大言海)、
土間と床上との境目の中央にある最も太い柱(ブリタニカ国際大百科事典)、
土間と座敷の境の中央に立てる。上棟の時に最初に立てる柱とする所もある(百科事典マイペディア)、
土間と居室部分の境目の中央にあって,他の柱より特に太い柱を指す(世界大百科事典)、
土間と床上部分との境の中央の柱、田の字型間取りの場合、中央の交差点に建つ柱をいう(日本大百科全書)、

等々を指すようになり、言い方は多少違うが、

土間と座敷の境に立つ柱、

のようである。

此の柱より棟梁始む、

ものらしい(大言海)。別に、

役柱、
中柱、
亭主柱、

等々と呼ばれる。それをメタファに、

家や組織の中心になって支えている人、

を、

一家の大黒柱、

などという(仝上)。しかし、

古くは構造上も重要な意味をもったと考えられるが,現在は長柱ではなく,棟(むね)にも達しない場合が多い。家の象徴とされ,正月の繭玉を飾るのもこの柱である、

とあり(百科事典マイペディア)、ほぼ象徴的なものに変わっている。

「大黒柱」の語源は、上記からも、

朝堂院の正殿「大極殿(だいこくでん・だいごくでん)」の柱を「大極殿柱」ということから『大極柱』になった、
室町時代から恵比寿大黒の大黒様は富を司る神様として祀られていたため、大黒天にちなみ『大黒柱』となった、
国の中の柱という意味の『大国柱』の『大国』が転化し、『大黒柱』になった、

等々とする説ある(語源由来辞典)。

大国柱.jpg

(江戸時代の民家の大黒柱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B1より)


三代実録に「元慶二年始竪大極殿柱」とあるので、

大極柱、

とする説(類聚名物考)、

この柱をもとに棟梁を定めるところから、タイキョクハシラ(太極柱)の義(東牖子・言元梯)、

とする説が目に付くが、決め手はない。ただ、

太極、

は、『易経』の、

易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず、

に由来し、

万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずる、

という意味がある。中国由来の太極殿(だいごくでん・だいぎょくでん)の意味とも重なり、最もあり得るが、後の付会ということもあって、定めがたい。

「大黒」は、

大黒天、

の意であるが、大黒天は、

マハーカーラ(摩訶迦羅)、

ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたものであり、

鬼人を降伏させる守護神、戦闘神として、忿怒の相であらわされていた(日本昔話事典)。

大黒天(マハーカーラ).jpg

(大黒天(マハーカーラ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9より)


それが中国では、

厨房の神、

として寺々に祀られていた。わが国には、この系統を継いで、平安時代初期より天台宗の寺院を中心に厨房に祀られるようになる(仝上)。その姿は、

頭巾をかぶり、小槌を握って大袋を背負い、足下に米俵を踏んで福徳円満の相、

となっている。中世以降、語音の共通から、

大国主神、

と習合がなされた(仝上)。

「大黒の『だいこく』が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は『大国主命(おおくにぬしのみこと)』の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9

七福神に加えられ、大黒信仰が広まったのは、大黒舞と呼ばれる門付け芸人たちが、正月に大黒の姿にやつして祝言を述べ歩くとともに、家々にお札や大黒像や面を配り、家々に大黒が単独で祀られるようになった、とある(日本昔話事典)ところからも、中世以降であることを考えると、やはり、

大黒柱、

と当てたのは、後のことと思われる。だから由来は、

中心の柱、

という意味の、

太極柱、

かと思われる。ただ、民間での建築として、

大黒柱、

を立てたとき、建てた側の意識は、

太極、

だったのか、

大黒天、

だったのかは、ちょっと定めがたいが、

福、竈、飲食を司る大黒天を、家屋を支える最も重要な柱、

としていた可能性は大きいのである(日本語源広辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月06日

でんぶ


「でんぶ」は、

田麩、

とあてる。「おぼろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444759095.htmlで「でんぶ」に触れたが、「おぼろ」と似た「そぼろ」との区別を曖昧なままにしたので、ここでは、「そぼろ」「おぼろ」と対比しつつ、「でんぶ」の語源を考えてみる。

広辞苑は、「おぼろ」を引くと、「でんぶ」が載り、大言海、精選版日本国語大辞典、大辞林は、「おぼろ」を引くと、「そぼろ」が載り、同一視しているものが異なる。ある意味、三者は似ているのだろうが、たとえば、「おぼろ」と「てどんぶ」を区別して、

「『おぼろ』と『でんぶ』は、まるで別物です。おぼろというのは、海老(大抵は芝海老)、を、生のまますりつぶし、砂糖、酒、醤油、などで味付けし、鍋の中で手早くかき混ぜながら火を通したものです。海老の代わりに卵の黄身を使うと、黄身おぼろになります。
でんぶというのは、火を通した白身魚の身をほぐし、水にさらして脂抜きをし、蛋白繊維だけを取り出し、これを加熱しながら甘~く味付けしたものです。
おぼろは、ほんのり甘く、しっとりしていて、口の中で溶けますが、でんぶは、シャリシャリして、かなり甘く、口の中で溶けるということはありません。」

とするhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410632719ものがあるかと思うと、

「そぼろと似ているものに、魚などをゆでて、すり鉢ですり、甘く味をつけた『でんぶ』がある。これは『おぼろ』ともいわれ、『そぼろ』は『おぼろ』より少し粒が粗いので、『粗ぼろ(そぼろ)』と呼ばれる」

とかhttps://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/218/

「より細かくほぐしたそぼろをおぼろ(朧)という。おぼろの例として田麩(でんぶ)がある」

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%BC%E3%82%8D、「でんぶ」と「おぼろ」を同一視し、より粗いものを「そぼろ」としているものもある。三者の区別は程度問題ということになるのだろうか。

鯛そぼろ.jpg



「そぼろ」は、

「現在の乱切りを細かくしたようなそぼろ切りという切り方によってつくられたものである。『おぼろ』より粗めのものをいい、『粗おぼろ』が『そぼろ』に転じたという。そぼろには、魚肉を蒸して細かく砕いて乾燥したものというような意味もある。」

とある(たべもの語源辞典)。「乱切り」とは、不規則な形に切る切り方です。形は違っても大きさをそろえることがポイントらしい。「そぼろ豆腐」というのは、豆腐を蒸して細かく砕いたものをいう(仝上)、らしい。

「そぼろは、牛や豚や鶏の挽肉、魚肉やエビをゆでてほぐしたもの、溶き卵などを、そのままあるいは調味して、汁気がなくなりぱらぱらになるまで炒った食品。そのまま米飯にのせたり、ある種の寿司や弁当の材料として使用される。また、鶏肉のそぼろをダイコンやカボチャの煮物に用いたものはそぼろ煮と呼ばれる。より細かくほぐしたそぼろをおぼろ(朧)という。おぼろの例として田麩(でんぶ)がある。ちなみに、おぼろ昆布(薄く削った昆布)、おぼろ豆腐(固まりかけの豆腐)、おぼろ饅頭(皮を剥いた饅頭)のおぼろは、このおぼろではない。 芝海老のおぼろは伝統的な江戸前寿司には欠かせない種のひとつであり、寿司屋の玉子焼の原料としても用いられる」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%BC%E3%82%8D

粗おぼろ→そぼろ、

と砕き方の荒いものを言う、ということらしい。

「おぼろ」は、

「タイ・エビ・スズキ・ヒラメなどの肉をすりつぶして、味醂・塩を少し加えて煮詰め、ボロボロにほぐして食紅で色をつけたものをいう」

とあり(たべもの語源辞典)、「おぼろ豆腐」は、豆腐を湯煮にして葛餡をかけたものである(仝上)。「おぼろ」の語源については、触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/444759095.html

鯛おぼろ.jpg



「でんぶ」は、

「タイ・ヒラメ・カレイなどの白身の魚や、またカツオでもつくる。タイのでんぶを作るには、蒸籠で蒸してから、水を入れた桶の中に取り上げ、骨皮などを取り除いて、精肉だけを移し、両手で揉んで布袋に入れて水を絞り、火に乾かす。これを『もみだい』という。これに味醂・醤油を加えて、煮あげ、火の上で乾かす」

とある(たべもの語源辞典)。あるいは、

「日本の田麩は魚肉を使うことが多い。三枚におろした魚をゆで、骨や皮を取り除いた後、圧搾して水気をしぼってから焙炉にかけてもみくだき、擂り鉢で軽くすりほぐす。その後、鍋に移して、酒・みりん・砂糖・塩で調味し煎りあげる。鯛などの白身魚を使用したものに食紅を加えて薄紅色に色付けすることもある。薄紅色のものは、その色から『桜でんぶ』と呼ばれる」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%BA%A9

「古くは、『田夫煮物』のことをいい、汁気のないように煎りつけたものであるが、次に砂糖を加え、醤油・酒などで煮るようになった」

とある(たべもの語源辞典)。あるいは製法は、今日とは異なったのかもしれない。

桜デンブ.jpg


面倒なことに、「でんぶ」は、

「江戸前寿司の店ではおぼろと称するほか、一部では力煮(ちからに)ともいうし、北海道の一部の地域などでは、単にそぼろと呼ぶ場合がある」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%BA%A9し、

おぼろでんぶ、

という名で、市場に出回っているものすらある。が、三者は、今日、作り方が、確かに違う。

「そぼろ」は、

魚肉やエビをゆでてほぐし、味を付けながら、汁けがなくなるまで炒ったもの、

「おぼろ」は、

肉をすりつぶして、味醂・塩を少し加えて煮詰め、ボロボロにほぐしたもの、

「でんぶ」は、

蒸籠で蒸してから、骨皮などを取り除いて、手で揉んで布袋に入れて水を絞り、火に乾かすもの、

である。「でんぶ」は、

食感はシャリシャリ、

しているのであり、どうして、「おぼろ」「そぼろ」と同一視されるのかはわからない。ただ、今日の製法で、

まず「そぼろ」にする工程がある(以下、http://www.japanfoodnews.co.jp/tsukudani/debu1.htmによる)。

1・茹でる、2・蒸し篭で蒸す方法、3・焙る方の方法、のいずれかの工程を経た身の小骨、皮などを丹念に除きます。2の工程の場合は水でさらして脂肪を取り去り、圧搾して水分を除いたのちに肉を砕きよく揉み解して繊維状にします。

ついで、この「生そぼろ」から、「でんぶ」にしていく。

生ソボロをを釜に入れ、調味料(一般的に水飴、砂糖、醤油を主としてそれぞれの作り手の塩梅があります)をよく攪拌しながら煎りつけます。炊き上げたものを素早く冷風台に広げて、固まらないように揉みほごしして出来上がりです。

このプロセスで言うと、「そぼろ」「おぼろ」「でんぶ」は、一連のプロセスのどこで、製品化するかの違いのように見える。

ところで、「でんぶ」の語源である。

「古今料理集」(江戸期寛文・延宝年間(1670~1674))には、

「田夫は 色々をなべに入て酒をひたひたにさしてあまみの付程にとっくと煮て、其汁をよくしため〈略〉汁のなきやうに煎付て用る事也」

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2601とあり、「料理綱目調味抄」(享保十五年(1730))に、

都春錦(としゅんきん)はでんぶなり、

とあり(たべもの語源辞典)、

ぞくにいふ田夫は、この略なり、

とある由で、「都春錦」は「でんぶ」の高級品だったらしい。しかし天明期には消えてしまったらしい。「でんぶ」を、

田夫、

と当てたのは、

「その切り方が、材料を大小不揃いで、わざと、めった切りにして、不手際に見えるように仕掛けて用いるので」

という(仝上)。「田夫」は、

農夫、
または
田舎者、

の意である。

田舎臭い、
洗練されていない、
野暮であること、

といった意味にもなる。

魚をバラバラにしてしまう、

のが不風流というので、

田夫、

と称した(たべもの語源辞典)。

その製品の本質から、

田麩、

とあてたのは、なかなかな見識と、たべもの語源辞典は評した。

とりそぼろ丼.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月07日

朝ぼらけ


「朝ぼらけ」は、

太陽が地平線上にまだ昇っていない時、
朝がほんのり明けてくる頃、
空の薄明かりが朗らかに見える頃、

等々の意である(広辞苑、大辞林)。夜明けの意で、

ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あさまだき,
あけぼの、

等々類語は多い。

「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,

陰暦十五日以後の,特に,二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが,かなり幅広い。

「あかつき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.htmlは,上代は,

あかとき(明時),

で,中古以後,

あかつき,

となり,今日に至っている。もともと,古代の夜の時間を,

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ,

という区分した中の「あかつき」(因みに,ヒルは,アサ→ヒル→ユウ)で,

「夜が明けようとして,まだ暗いうち」

を指し(岩波古語辞典),

「ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が,女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという」

とする(仝上)が,

「明ける一歩手前の頃をいう『しののめ』,空が薄明るくなる頃をいう『あけぼの』が,中古にできたため,次第にそれらと混同されるようになった」

とある(日本語源大辞典)。

「しののめ」は,

東雲,

と当て,

「一説に,『め』は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで,篠竹を材料として作られた『め』が『篠の目』と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり,転じて夜明けの薄明かり,さらに夜明けそのものの意になったとする」

と注記して,

東の空がわずかに明るくなる頃。明け方,あかつき。あけぼの、

の意で,転じて,

「明け方に,東の空にたなびく雲」

の意とある(『広辞苑』)。また、

「万葉集に、『小竹之眼』『細竹目』と表記されて、『偲ぶ』『人には忍び』にかかる、語意未詳の『しののめ』がみられる。これを、篠竹を簾状に編んだものと考え、この編目が明かり取りの用をなしたところから、夜明けの意に転じたと見る説もある」

ともあり(日本語源大辞典)、

篠の目が明かり取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、夜明け、

の意となった(語源由来辞典)、とする見方はあり得る。

「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,

陰暦十五日以後の,特に,二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが,かなり幅広い。

「あさまだき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.htmlは,すでに触れたように,

「マダ(未)・マダシ(未)と同根か」

とあり(岩波古語辞典),

「早くも,時もいたらないのに」

という意味が載る。どうも何かの基準からみて,ということは,夜明けを基点として,まだそこに至らないのに,既にうっすらと明けてきた,という含意のように見受けられる。

「朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)」(日本語源広辞典)

で,未明を指す,とあるので,極端に言うと,まだ日が昇ってこないうちに,早々と明るくなってきた,というニュアンスであろうか。大言海には,

「マダキは,急ぐの意の,マダク(噪急)の連用形」

とあり,「またぐ」は,

「俟ち撃つ,待ち取る,などの待ち受くる意の,待つ,の延か」

とあり,

「期(とき)をまちわびて急ぐ」

意とあるので,夜明けはまだか,まだか,と待ちわびているのに,朝はまだ来ない,

という意になる。

「あげぼの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.htmlは,「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」で,

「ボノはホノカのホノと同根」

とある(岩波古語辞典)。「仄か」とは,

「光・色・音・様子などが,薄っすらとわずかに現れるさま。その背後に大きな,厚い,濃い確かなものの存在が感じられる場合にいう。」

のだという。また、

「『あけ(明)』と『ほの(ぼの)』の語構成。『ほのぼのあけ(仄々明け)』とも言うように、『ほの』は『ほのぼの』『ほのか』などと同源で、夜が明け始め、東の空がほのかに明るんでくる状態が『あけぼの』である。 古くは、暁の終わり頃や、朝ぼらけの少し前の時間をいった」

ともある(語源由来辞典)。どうやら,

「夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ」

で,「あさぼらけ」と同義とある。

「あさぼらけ」は、

「夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態」

とある(岩波古語辞典)。大言海に、

世の中を何に譬へむ旦開(あさびらき)漕ぎにし舟の跡無きが如(ごと)

という万葉集の歌が、拾遺集で、「朝ぼらけ」としている、とある。ちょうど朝が開く瞬間という意になる。しかし、日本語の語源は,

「アサノホノアケ(朝仄明け)は,ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり,『ナ』が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。『朝,ほのぼのと明るくなったころ…』の意である。『ボ』が母韻交替をとげて朝開きになった」

と、大言海と真逆である。しかし、時間軸を考えると、

アサビラキ→アサボラケ、

なのではないか。

アサビラキ(朝開)の転。アケボノと混じた語(類聚名物考・俚言集覧・大言海)、
アサビラケの転(仙覚抄・日本釈名・柴門和語類集)、

とアサビラケ説に対し、

朝ホロ明けの約(岩波古語辞典)、
朝ホノアケの約(和訓栞)、

と、朝ホロ明け説があるが、これだと、ほぼ「あけぼの」と重なる。

「『あけぼの』と並んで(「あさぼらけ」は)夜が明ける時分の視覚的な明るさを表す語である。『あけぼの』が平安時代に散文語で、中世には和歌にも用いられるようになるが、『枕草子』春はあけぼの以降春との結びつきが多いのに対し、『あさぼらけ』は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつくことが多い。『あさぼらけ』の方が、『あけぼの』よりやや明るいという説もあるが、判然としない」

とある(日本語源大辞典)。さて、

あさまだき,
ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あけぼの、
あさぼらけ、

の順序はどうなのだろう。

「あさまだき」は、

「マダ(未)・マダシ(未)と同根か」

とあり(岩波古語辞典),

「早くも,時もいたらないのに」

という意味が載る。夜明けに至らないのに,既にうっすらと明けてきた,という含意のように見受けられる。だから、

あさまだき→あかつき・ありあけ、

となろうか。「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,「あかつき」も、

「夜が明けようとして,まだ暗いうち」

と広く、たとえば、「あけぼの」と比べ,

「『曙』は明るんできたとき。『暁』は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、『曙』より時間の幅が広い」

とあるhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881。とすると,古代の、

アカツキ→アシタ,

の時間幅全体を「あかつき」「ありあけ」とみると,その時間幅を,細かく分けると,

しののめ,
あさまだき,
あけぼの,
あさぼらけ,

の順序が問題になる。「あさぼらけ」には異説はあるが、

「夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。『あけぼの』より少し明るくなったころをいうか。」(デジタル大辞泉)、
「『あさぼらけ』の方が『あけぼの』よりやや明るいと見る説もあるが判然としない(精選版日本国語大辞典)、

とあるので、

あけぼの→あさぼらけ、

とみると、『東雲』の位置だけが問題になる。

『日本語の語源』がは「しののめ」について,

「イヌ(寝ぬ。下二)は,『寝る』の古語である。その名詞形を用いて,寝ている目をイネノメ(寝ねの目)といったのが,イナノメに転音し,寝た眼は朝になると開くことから『明く』にかかる枕詞になった。『イナノメのとばとしての明け行きにけり船出せむ妹』(万葉)。
名詞化したイナノメは歌ことばとしての音調を整えるため,子音[∫]を添加してシナノメになり,母音交替(ao)をとげて,シノノメに変化した。(中略)ちなみに,イネノメ・イナノメ・シノノメの転化には,[e] [a] [o]の母音交替が認められる。」

と,「篠竹」説を斥けている。そうみると,「目を開けた」時を指しているとすると,「しののめ」が、

しののめ→あけぼの→あさぼらけ,

なのか,

あけぼの→あさぼらけ→しののめ,

なのかの区別は難しいが,一応,いずれにしても,人が気付いた後の夜明け時の順序なのだから,

しののめ→あけぼの→あさぼらけ,

を,暫定的な順序としてみたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html。しかし、「しののめ」「あけぼの」「あさぼらけ」は、ほとんど時間差はわずかのように思える。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月08日

あずき粥


「あずき」については、「豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473371197.html?1580864227触れた。「小豆粥(あずきがゆ)」は、

小豆をこめにまぜて炊いた粥、

の意(広辞苑)で、小正月を祝って神に供え、人も祝ってこれを食べた。ために、

十五日粥、

とも、

また、望(もち)の日(陰暦十五日、満月の日)の節供なので、

望粥(もちがゆ)、

ともいう(たべもの語源辞典)。一年の邪気を払うものとして食べ、

さくらがゆ、

ともいう(仝上)。粥に小豆を加えたのは、

赤は陽の色で、小豆の粥は、この赤い色を食べて、冬の陰気を陽徳で消させる、

という意がある(仝上)とされるが、

「小豆を入れて煮た粥。普通の白粥と違って赤く染まるので、その色に呪力を認め、屋移りや旅立ちに災異除(よ)けとして用いられた」

ともあり(日本大百科全書)、

「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。
中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5、中国由来である。

正月十五日に小豆粥をつくって天狗を祀り、これを食べれば疫病にかからないという中国の俗信からきた、

ともある(たべもの語源辞典)。漢名では、

紅調粥、

というとか(たべもの語源辞典)。『公事根源』によると、宇多天皇の寛平年中(889~98)から始まる、

とあるという(たべもの語源辞典)。

小豆粥.jpg



『延喜式』によれば、

「小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の『七種粥』が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な『御粥』が振舞われている。これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある」

とあり、紀貫之の『土佐日記』にも、

承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5

多く餅(粥柱)を入れる、

ともある。粥柱は、

粥杖(かゆづえ)、

とも呼ぶ。小正月の粥に入れる餅(もち)をそう呼ぶ(広辞苑)が、これは、江戸時代からで、

「15日すなわち『望(もち)の日』の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになった」

とある(仝上)。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在する、という(仝上)。江戸語大辞典には、

邪気を払う効があるとて、正月十五日に食べる。また、転宅・新居落成の祝いにもこれを食べる、

とあり、広がっていることがわかる。

新しい雨の音聞くあづきがゆ、

という「新居」の川柳がある(江戸語大辞典)。

小豆粥の炊き上がり方で豊凶を占う、

ともある(広辞苑)。それを、

粥占、

という。粥占は、

かゆうら、
かいうら、
よねうら、

とも呼び、粥を用いて1年の吉凶を占う年占であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%A5%E5%8D%A0。毎年、日本各地の神社で祭礼として行われる。多くは小正月に神にあずき粥を献ずるときに行われ、

「1月15日(もしくは2月15日)に丼大の碗にアズキや塩を入れた粥を大盛りに盛り付け、神前に供える『粥炊き』『粥入れ』を行なう。数週間から約2ヶ月経ってから、神前に供えられた粥を取り出す『粥開き』を行ない、粥についたカビを神社総代や氏子総代が中心となって何人かの氏子が、神社に伝わる『御粥面図』や口伝を基に判別し、カビの色やついた場所(粥のどこについたかで地域・季節・方角などを区別して占う)、生え具合で占う。儀礼の終わった粥は、付近の井堰や川に流す。占いの結果は氏子同士が話し合って決め、そのプロセスは氏子以外の者でも自由に見ることが出来る場合が多い」

とある(仝上)。

因みに、「小正月」は、正月15日の行事であるが、

14日から16日までの3日間、または、14日の日没から15日の日没まで、または、望(満月)の日、または、元日から15日までの15日間、

ともされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%AD%A3%E6%9C%88。元日(または元日から1月7日まで)を大正月と呼ぶのに対してこのように呼び、正月の終わりとも位置づけられ、

小年(こどし)、
二番正月、
若年、
女正月(おんなしょうがつ)、
花正月、
返り正月、
戻り正月、

等々と呼ぶ地方もある(仝上)、とか。中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残りと考えられている。古くはこの小正月までが松の内だった(この日まで門松を飾った)が、江戸時代に徳川幕府の命により1月7日の大正月までとされたが、関東地方以外には広まらなかったらしい(仝上)。

小正月の行事に、「左義長」(どんど焼き)があるが、これは項を改める。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2020年02月09日

物語


大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』を読む。

物語の饗宴.jpg


本書は、

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

物語の饗宴、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』
白井喬二『第二の岩窟』
江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』
夢野久作『うやかしの鼓』
小栗虫太郎『完全犯罪』
貴司山治『舞踏会事件』
直木三十五『鍵屋の辻』
子母澤寛『名月記』
五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』
久世十蘭『母子象』
星新一『鍵』
小松左京『御先祖様万歳』
五木寛之『幻の女』
野坂昭如『浣腸とマリア』
水上勉『越後つついし親不知』
井上靖『姥捨』
由起しげ子『女の中の悪魔』

である。いわゆる「小説」としての面白さは、

由起しげ子『女の中の悪魔』

だが、

「物語」とは何か、

をわきまえているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』

である。

何かを語ることを語る、

という、

物語の構造、

をそのまま、現前化してみせている。

能、

の、

ワキ、

シテ、

という、

能の基本構造、

ワキの語りの中に登場するシテの語り、

を借りて、実に鮮やかに、

語るとは何か、

を、構造として、顕在化して見せた。『蘆刈』は、

君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき

まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。

と、こう始まる。大和物語の歌を、エピグラフのように掲げて、「わたし」の語りから始まる。まるで、ワキの語りのように始まり、中洲で観月のさなか、

「と、そのとき近くの葦の葉がざわざわとゆれるけはひがしたのでそのおとの方ほ振り向くと、そこに、やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうに゜うづくまつてゐる男があつた」

と、男と出会い、その男の語る「お遊さん」の話が、主題である。そしてしゃべり終えて、、これからお遊さんを見に出かけるという。

「わたしはをかしなことをいふとおもつてでももうお遊さんは八十ちかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがただそよそよと風が葦の葉をわたるばかりで汀いちめんに生えてゐたあしも見えずそのをとこの影もいつのまにか月のひかりに溶けて入るやうにきえてしまつた」

と、「わたし」の語りは終わる。まさに、

生きている「ワキ」と、幽霊あるいは精霊である「シテ」の出会いから始まる、

「能」の物語そのものをなぞりながら、

物語の構造、

を示している。「わたし」は、

語り手、

でありながら、「男」の語る物語の、

聞き手、

でもある。そして、この「わたし」は、

物語空間の境目、

に立っている。この「わたし」の語りも、『蘆刈』では、物語の中に入っているので、『蘆刈』は、

語られる物語を語る物語、

となる。この「わたし」の位置を、物語の外に置くと、物語の外から語る語り手になる。通常の物語は、そうして、いきなり、その語り手が語る物語になる。しかし、たとえば、

『鍵屋の辻』

では、「語り手」は、当初物語空間に登場して、下僕に腰を打たれた荒木又右衛門の技倆について云々し、

……尤も芥川龍之介に云わせると、
 「そりゃ君、又右衛門きが棒だと知っていたから、撲らしておいたのだよ」
と説明するが、

といったことを語る。しかし、この場合、こういう語りのおかげで、作品全体が、今風にいう、

実録的、

な雰囲気を出すことに成功している。

…郡山には荒木の屋敷趾が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は寺町万福寺にあって、念仏寺の河合武右衛門の墓と隣同士になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている。

と終る。しかし、別に実録ではない。やはり「語られたもの」に過ぎない。ただ語り手がおのれの見解を語って見せているだけである。同じ構造は、

五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』

にもある。『喪神』は、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる。『おお、大砲』も、似ている。

 むかし、和州高取の植村藩に、ブリキトースという威力ある大砲が居た。居た、としか言いようのないほど、それは生きもののな扱いを、家中からうけていた。

この語り口は、語り手が、物語の中へ、出たり入ったり、自在に動く。それ自体が、語りの世界、つまり、

物語、

の中のことなのだが、読者には、作家がそう語っているかのような錯覚を与え、時に、事実であるかのように思わせる、一種、これ自体が、語りの世界なのである。そういう語り手の詐術というか、操作をせず、純粋に、物語世界そのものを描き出しているものとして、

由起しげ子『女の中の悪魔』

は、出色である。

 下りの特急の食堂は、昼食の時間をすこし過ぎたところで、適度に空いていた。
 四人がけのテーブルは、高村剛三と連れの二人で占領して、一人分の席があいている。

とはじまる物語は、終始一貫、物語の時空の外に語り手は立つ、という通常の物語の方法を堅持し、堅牢な物語世界を描き切っている。

谷崎潤一郎は、こう書いている、という(あとがき)。

「筋の面白さは、言ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築の美しさである。これに芸術的価値がないとはいへない。……凡そ文学に於いて構造的美観を多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまふのである。」(饒舌録)

と。

参考文献;
大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』(學藝書林)

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2020年02月10日

左義長


「左義長」は、

三毬杖、
三毬打、

とも当てる、

どんど焼き、

のことである。別に、

とんど(歳徳)、
どんど、
どんどん焼き、
どんと焼き、
さいと焼き、
おんべ焼き、
ほっけんぎょう、
ほちじょ、
おにび、

等々の名で呼ばれる。「左義長」といえば、信長公記の天正九年、正月八日に、

御馬廻、御爆竹致用意頭巾装束致結構、思々の出立に而十五日に可罷出之旨、御触有。江州衆へ被仰付、御爆竹申付人数、北方東一番仕次第、平野土佐、多賀新左衛門、後藤喜三郎、蒲生忠三郎、京極小法師、山崎源太左衛門、山岡孫太郎、小河孫一郎、南方の次第、山岡対馬、池田孫次郎、久徳左近、永田刑部少輔、青地千代寿、阿閉淡路守、進
藤山城守。以上
御馬場入御先へ御小性衆、其次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐錦之御そばつぎ、虎皮之御行騰。蘆毛之御馬すぐれたる早馬飛鳥の如く也。関東祗侯之矢代勝介と申馬乗、是にも御馬乗りさせられ、近衛殿、伊勢兵庫頭。御一家の御衆、北畠中将信雄、織田上野守信兼、織田三七信孝、織田源五、織田七兵衛信澄。此外、歴々、美々敷御出立、思々の頭巾装束結構にて、早馬十騎・廿騎宛乗させられ、後には、爆竹に火を付け、はやし申、御馬共懸けさせられ、其後、町へ乗り出だし、御馬被納見物成群集、御結構之次第、貴賎驚耳目申也、

とあり、後の京都御馬揃えの先駆けのようなことをやっていた。

「左義長」は、

毬杖(ぎっちょう)を三つ立てたから、

という(広辞苑)、

小正月の火祭りの行事。宮中では、正月15日と18日に(御書初めの)吉書(きっしょ)を焼く儀式、清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、これに扇子・短冊・吉書などを添え、謡いはやしつつ焼いた、

とある(仝上)。吉書は、

年始・改元・代始・政始・任始など新規の開始の際に吉日を選んで奏聞する文書、

である(仝上)。

『徒然草』にも、

「さぎちょうは正月に打たる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」

とある。民間では、

「1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7

兵庫県でのとんど たつの市.jpg


この起源は、

「平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに『毬杖(ぎっちょう)』という杖で毬をホッケーのように打ち合うもの(『打毬』)」があり(仝上)、

打毬の楽で破損した毬杖を集めて焼いたのが三毬杖・三木張・三毬打の語源、

としhttp://www5d.biglobe.ne.jp/~him8man/S-history.html、平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、これは、

「3本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来するといわれている。火の上に三脚を立てそこで食物を調理したものと考えられている。」

とある(日本大百科全書)。しかし、大言海は、「三毬杖」に、

さんぎちゃう、
さんぎっちゃう、

と訓ませている。そして、「毬杖」(ぎっちゃう)で、

槌型の杖に、彩糸を絡ひたるもの。これ古へ、遊戯などなどに用ひて、木製の毬を打つとぞ、

とある。つまり、この、

毬杖を三本立てたれば、

三毬杖、

と呼んだということになる(大言海)。それが竹に代わったのである。

小正月(1月15日)に宮中で、

「山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから『三毬杖(さぎちょう)』と呼ばれた」

とある(仝上)。これも中国由来で、

正月を迎えて災いを除くため、爆竹を鳴らす風習、

が渡来したものとされる(日本大百科全書)。

左義長、

は近世以降の当て字であるが、

「仏教と道教との優劣を試みるため、仏教の書を左に、道教の書を右において焼いたところ、仏教の書が残り、左の義長ぜり(優れている)という『訳経図記』にある故事からという俗説(『徒然草寿命院抄』)がよく知られている」

によるらしい(日本語源大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年02月11日

しのぶ


「しのぶ」は、

偲ぶ、

と当てると、

過ぎ去ったこと、離れている人のことなどをひそかに思い慕う(万葉集「わが妻も絵にかきとらむ暇(いづま)もが旅ゆく我は見つつしのはむ」)、
心惹かれて(みえないところなどに)思いをはせる(「人柄がしのばれる」)、
賞美する(万葉集「あしひきの山下ひかげ髪(かづら)ける上にやさらに梅をしのはむ」)、

といった意味になる(四段活用。広辞苑、岩波古語辞典)。「賞美する」意味は、今日あまり使わない。「しのぶ」は、

忍ぶ、
隠ぶ、

とあてると、

こらえる、我慢する(万葉集「わが背子が抓(つね)みし多手見つつしのびかねつも」)、
秘密にする、かくす(源氏「しのぶるやうこそはと、あながちにも問ひて給はず」)、
(自動詞的に)人目を避ける、かくれる(源氏「惟光の朝臣例のしのぶる通はいつとなくいろひ仕うまつるひとなれば」)

とある(上二段活用。仝上)。例によって、「しのぶ」を漢字で当て分けて、意味を使い分けているかと思ったが、

偲ぶ、

は、上の用例からもわかるように、

奈良時代はシノフと清音、

とあり(仝上)、「しのぶ」と「しのふ」は別の言葉であった。しかし、「忍ぶ」は、

意味の類似から、平安時代以後、四段活用の偲ぶと混同、

し、

こらえる、我慢する(平中物語「こと局に人あまた見ゆるを、えしのばで言ひやる」「不便を忍ぶ」)、
表立たないようにする、人目を避ける(拾遺「しのばむにしのばれぬべき恋ならばつらきにつけてやみもしなまし」)、

とある(広辞苑)。大辞林には、

「本来は四段活用の『しのふ(偲)』で、上二段活用の『しのぶ(忍)』とは全くの別語であったが、亡き人・別れた人のことを静かに思い浮かべることと、そのつらさをじっとこらえる(忍ぶ)こととが相通じ、また語形も平安時代にはともに『しのぶ』となったために、両語は交錯し、いずれも四段(五段)と上二段の両方の活用をするようになった」

ともある。「忍ぶ」と「偲ぶ」は別語であったものが、まじりあったのである。音韻的にも、「しのび」(忍)の「の」は、上代特殊仮名遣の、

nö、

であり、「しのふ」(偲)の「の」は、

no、

であり(岩波古語辞典)、別語である。

漢字「忍」(漢音ニナ、呉音ジン)は、

「会意兼形声。刃(ニン、ジン)は、刀のはのあるほうを、ヽ印で示した指事文字で、粘り強く鍛えた刀のは、忍は『心+音符刃』で、粘り強くこらえる心」

とある(漢字源)「忍耐」「堅忍不抜」のように、「つらいことをしのぶ」意であるが、わが国のように「人目を忍ぶ」という、

人目を避ける、
人に目立たないように物事をする、

という意はなく、ましてや、忍者の意の、

しのび、

の意はない。「偲」(漢音し、呉音サイ)は、

「会意兼形声。『人+音符思(こまやか)』」

で、「切々偲々」というように、「うまずやすまず努力する」意や、「其人美且偲」のように「思慮が行き届いている」意であるが、わが国のように、「人を思慕する」意はない。

大言海は、「忍ぶ」は、

しぬぶの転、

とする。そして、「偲ぶ」は、

思ぶ、

とも当て、

しぬぶの転、

とし、

心に忍びて、忘れぬ意、

とする。さらに、この「しぬぶ」に、

愛ぶ、

と当て、愛でる意とし、

しぬぶ(偲)と通ず、

とする。さらに、「しのぶ(忍)」に、

隠ぶ、

と当て、

忍びてあらわざる意、

とする。「しのぶ(偲)」が「シノフ」から濁音化した後、「しのぶ(忍)」とほぼ重なっていく流れは、これでよくわかるが、両者の語源ははっきりしない。

「偲ぶ」は、

誄(しのびごと)、

に淵源するのではないか。「しのびごと」は、

しのひこと、

とも言い、

日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたたえ、追憶する弔辞。誄詞(るいじ)とも呼ばれる。大王(天皇)には殯宮で奏され、功臣の棺前にも賜ったものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%84

「『偲ふ(偲ぶ)』は『忍ぶ』とは別の語であり、『賞美する』・『おもひ慕う・懐かしむ』という意味で、『しのひこと』とは、寿詞(よごと)に通じるものであった。」

ともある(仝上)。日本書紀に、

「天皇、病(みやまひ)弥留(おも)りて、大殿に崩(かむあが)りましぬ。是の時に、殯宮(もがりのみや)を広瀬(ひろせ、大和国広瀬郡、現在の北葛城郡広陵町付近)に起(た)つ。馬子宿禰大臣(うまこのすくねのおほおみ)、刀(たち)を佩きて誄(しのびこと)たてまつる」

とある(仝上)。「偲ぶ」の含意は、ここからきているとみていい。大言海は、「誄」を、

思事(しのびごと)の義。多くは、貴人の死に、せしるが如し、

とする。思いを遣ることである。ちなみに、寿詞(よごと)とは、

「賀詞とも書く。祝賀の意を述べる朗読文。祝詞 (のりと) と同じく言霊信仰から発するが,祝詞と異なり,臣下から天皇に奏上し,天皇の長寿と治世の繁栄を祝福する善言,吉言と解される。また各民族の祖の王権への従属の伝承が語られることがあるので,単なる祝言ではなく,従属の誓詞としての性格をも含んでいる。」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

他方、「忍ぶ」の語源は、

しのぶれど色に出でにけりわが恋(こひ)はものや思ふと人の問ふまで(拾遺集・平兼盛)

のそれだが、日本語源大辞典は、「忍ぶ」は、

気持ちを抑える、痛切な感情を表さないようにする、
動作を目立たないようにする、

が「忍ぶ」の本来の意味で、

我慢する、忍耐する、

は、漢字「忍」を当てたせいで、

「感情をおさえてじっとこらえるところからの転義ともかんがえられるが、外部からの働きかけに耐える意味は、和語『しのぶ』には本来なかった。『しのぶ』が漢字『忍』の訓として定着したことで、漢語『忍』の意味が和語『しのぶ』の意味に浸透していき、次第に我慢という意味が色濃くなっていったと考えられる」

という。是非を判断はできないが、活用が、四段に転じたのとつながるのかもしれない。

この「忍ぶ」の語源もはっきりしない。

息を殺して音のしないようにする動作をいうところから、シノム(息呑)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、
石の内にある火のように心を外にあらわさないことをいうところから、シノヒはイシノヒ(石火)の略(和訓栞)、
シは柔軟の義。力を受けてこれを支えることをいう。ひそかに匿す意の古語シナムに通じる(国語の語根とその分類=大島正健)、
抵抗の義のシナフのシナと同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
シノグ(凌)の転(柴門和語類集)、
シノギオヨプ(凌及)の略(雅言考)、
外にあらわさず、シタ(内)にする意から(日本語源=賀茂百樹)、

等々、語源説は諸説あるが、ひねくり廻さないものとして、

シナム、

が面白い。

匿む、

と当て、

包み隠す、

意であり、

隠(しす)ばするの意、

とある(大言海)。

隠すの古語、

とあり(仝上)、

しなぶ、

ともいう、とある。「忍ぶ」に近い言葉に思えるが、確言はしがたい。

ところで、

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに(古今集・河原左大臣)

にある、「しのぶもじずり」(忍捩摺)とは、

忍摺(しのぶずり)の模様が乱れているからとも、捩れ乱れた模様のある石に布をあてて摺ったからともいう、

とあり(岩波古語辞典)、

しのぶずり、

に同じとある。「しのぶずり」(忍摺)とは、

忍草の葉・茎を布に擦り付けて、捩れたような模様をつけたものをいう、

とある(仝上)。

模様の乱れた形状から、しのぶもじずりともいう、

ともある(精選版日本国語大辞典)。「忍草」とは、

しのぶ(忍)、

であり、

「堪え忍ぶ」性質が強いためと言われる、

といわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%96

古くから栽培された。特に棕櫚皮などを丸く固めたものにシノブを這わせ、紐で吊るせるようにしたものをシノブ玉と呼び、軒下などに吊り下げて鑑賞した(つりしのぶまたは釣りしのぶ。夏の季語)、

とある(仝上)。

「行くさきの忍ひ草にもなるやとて露のかたみにおかんとぞ思ふ」(歌仙家集本元輔集)、
「わがやどのしのぶぐさおふるいたまあらみふるはるさめのもりやしぬらん」(古今集・紀貫之」

等々、歌が多いが、

偲種、

と当て、

思い慕う原因となるもの、心ひかれる思いのたね、

の意となり、ここでは、

忍ぶ、

は、ほとんど、

偲ぶ、

と同義で使われている。

シノブ.jpg



参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年02月12日


「梁」は、

はり、

と訓むが、

うつばり、

とも訓む。「はり」は、

うつばりの略、

とある(大言海)。「うつばり」は、

平安時代まではウツハリと清音、ウツ(内)ハリ(張)の意、

とある(岩波古語辞典)。大言海にも、「うつばり」は、

ウチバリ、

ともいう、とあり、

内張(ウチバリ)の転にて、屋根内にて柱頭に張り渡すものの意か、

とし、

ウツアシ、
ウチアシ、

ともいう、とある。

「梁」は、

上部の重みを支えるため、あるいは、柱を固定するために、柱上に架する水平材、

とある(広辞苑)。「桁」(けた)と区別して、

棟と直角にかけたもの、

を、

梁、

と呼ぶ、ともある。で、「桁」は、

建造物において柱間に架ける水平部材、

をいうが、

短辺方向に渡された横架材、

を「梁」といい、

梁と直交する長辺に渡される部材、

を「桁」というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%81_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)、とあり、

建物の桁行方向(長辺方向)に架ける水平方向の部材が、「桁(軒桁)」です。なお、妻方向に架ける水平部材を「梁」といいます、

とあるhttp://kentiku-kouzou.jp/kouzoukeisan-keta.html

梁の構造.jpg

(梁の構造 https://allabout.co.jp/gm/gc/468049/より)


「梁」には、

棟木と直行する方向に横に渡して、建物の上から荷重を支える部材、小屋梁(こやばり)、
柱と柱で支えられている、大梁(おおばり)
大梁に支えられている、小梁(こばり)
床を支える、床梁(ゆかばり)
二階の床下の梁や胴差しの隅のところに斜めに入れて、地震等による建物の変形を防ぐ部材床や小屋組に設ける、火打梁(ひうちばり)

等々がある、というhttps://allabout.co.jp/gm/gc/468049/が、大言海の言う、

家の柱の上に、棟と打違ひに亙し、棟を負ひ、屋根を支ふる材、

つまり、

棟木を受ける木、

であり、

横木の総称で、特に棟と直角に渡すものをいう、

ともある(日本語源広辞典)。小屋梁は、

小屋組の最下部に水平に配した材、

であり、小屋組は、

小屋組は家の屋根を支え受けるために組み立てた骨組、

である(広辞苑)。昔から、

大黒柱が立つと、棟梁が始まる、

という。建物の棟(むね)と梁(はり)である。ついでに、床板を支えている梁が、

床梁、

で、それを支える梁が、

大梁、

小梁、

であり、

「柱に床の荷重を伝える為に大梁は柱と柱の間にかけられます。(必ず梁間の小さい方へ掛け渡す)そうすると集中的に大梁に荷重が掛かるので、大梁の上の直角方向へ小梁を一間間隔で取り付けると床の荷重を均等に大梁へ伝えられるようになります。簡単に言うと、床の荷重→小梁→大梁→柱→土台といった感じです。」

とあるhttps://unchiku.kkf.co.jp/archives/487

ところで、漢字「梁」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、

「会意。もと『水+両側に刃のついた刀のかたち』からなる会意文字。のちさらに木を加えた。左右の両岸に支柱を立てて、その上に掛けた木の橋である。両岸にわたるからリョウといい、両と同系」

とある(漢字源)。つまり、「梁」は、左右の両岸に支柱を立ててその上にかけた木の橋、の意である。橋梁(きょうりょう)の意である。建物の場合は

家うち(内)ということで内張り(内張)となり、梁(はり)となった、

とあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/468049/

柱の上に張り渡す、

という意から、

柱の上に内から張って棟を受けることからウツバリ(内張)の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
家の中をはることから(俚言集覧)、

と、どの説も、

張り、

と関連付けている。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年02月13日

壮大な思考空間


I・カント『純粋理性批判』を読む。

純粋理性批判 上.jpg


壮大な認識プロセスについての仮説といっていい。とうてい自分のような浅学、浅薄な輩の及ばぬ世界で、すべてを理解するのは、手に負えない。当たり前だが、あくまで、自分の中に残った感想に留まるほかはない。

たしか、ゲーテが、

われわれは知っている物しか目に入らない、

といった。この、知覚したものを、

表象、

といい、これを現実ではなく、

現象、

と、カントは言った。

「つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物――換言すれば、現象としての物だけである」

ここから、人の認識プロセスの、

感性→悟性→理性、

の奥行きを徹底的に点検していく。

「感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられ」
「理性によって対象とその概念とを規定する」

あくまで、

実在、

ではなく、心の中の認識プロセスに徹頭徹尾貫徹していくところは、呆然、唖然、慄然とするしかないほどである。

「私がここに言う(純粋理性批判の)批判は、書物や体系の批判ではなく、理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に対して、理性能力一般を批判することである。」

と「序文」で述べている。批判とは、

純粋理性批判の法廷、

である、と。

ゲーテの言う、

知っている物しか目に入らない、

あるいは、さらに、誤解を恐れずに言うなら、

知っている物しか目に入らないことを知っている、

ことをも、カントは、

ア・プリオリ、

という。

「経験そのものが認識の一つの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現せられるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念に従って規制せられ、またこれらの概念と一致せねばならない」

「つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ、自分で入れるものだけである」

からである。もちろん、

「私の感官に関係するような物が私のそとにあるということの意識は、私自身が時間において規定されたものとして存在しているという意識と同様に確実だということである」

が。

では、そうした内的プロセスで、

「悟性および理性は、一切経験にかかわりなしに何を認識し得るか、またどれだけのことを認識できるか」

が、本書の主要な問題であると、カントは述べる。ちなみに、カントの言う、

経験、

は、

「対象は我々の感覚を触発し或いはみずから表象を作り出し或いは我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して感覚的印象という生の材料に手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験といわれるのである」

と、つまり、

「認識は、すべて経験をもって始まる」

のである。

純粋理性批判 中.jpg


そして、対象を認識するというのには、

直観によって対象が与えられ、
悟性概念によって対象が、考えられる、

「即ち認識には、二つの要素が必要なのである」

と、そして、

「我々は、カテゴリーがなければ、対象を思惟することができない。またこの概念即ちカテゴリーに対応する直観によるのでなければ、思惟された対象を認識することができない」

と。ちなみに、ア・プリオリなカテゴリーとして、「分量」(単一性・数多性・総体性)、性質(実在性・否定性・制限性)、関係(付属性と自存性・原因性と依存性・相互性)、様態(可能・不可能、現実的存在・非存在、必然性・偶然性)を、アリストテレスに倣って、名付け、

かかる概念が経験を可能にする、

としている。ただし、

「純粋悟性概念は、常に経験的にのみ使用せられ得るものであり、決して先験的には使用せられ得ない」

とある。この場合、「先験的使用」とは、「この概念が物一般即ち物自体に適用されること」であり、「経験的使用」とは、「この概念が現象だけに適用されること」であり、

「悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験一般の形式を先取的に認識することだけである――また現象でないものは経験の対象になり得ないから、悟性は感性の限界、つまりそのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界を踏み越えることはできない、ということである。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない」

と。そして、規則を用いて現象を統一する、

「悟性の諸規則を原理のもとに統一する能力」

が、理性になる。理性は、

直截に経験やまたなんらかの規則を原理をもとに統一する能力、

である。当然対象ではなく、悟性と関わる。理性は、

推理の能力、

なのである。

「およそ推理には、理由となる一個の命題(大前提或いは大命題)と、これから引き出されるいま一個の命題(小前提或いは小命題)即ち推論があり、最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係、結論)がある、そしてこれによって第二の命題(小命題)の真が第一の命題(大命題)の真と必然的にむすびつくのである。」

悟性の推理の場合、

「推論された判断が、第一の命題にすでに含まれていて、この判断が第三の概念(媒概念)によって媒介されなくても、第一の命題から導出される」

のに対して、理性推理の場合、

「結論を出すために、理由となる認識(大前提)のほかに、なお別の判断(小前提)を必要とする」

つまり、

三段論法、

を要する。つまり理性概念は、

推理によって得られた概念、

であるために、

正しい推論らしく見せかけて忍び込んだ、

詭弁的概念、

に陥る危険がある。

「理性の固有な原則は、一般に、悟性の制約された認識に対して無制約的なものを見出し、これらによってその統一を完成することである。だから、理性は無制約的なもの、すなわち原理の能力ではあるが、しかし対象と直接関係せず、悟性とその諸判断とのみ関係するから、その活動はあくまで内在的でなければならない。もし……認識の現実的な対象にまで高めようとするならば、それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって。超越的となる」(シュヴェーグラー)

のであり、カントは、無制約的な推理には、論理学の、

定言的推理、
仮言的推理、
選言的推理、

から導き出して、

心理学的、
宇宙論的、
神学的、

と三つの理念に分ける。これは、「我々の表象のもち得る」関係が、

主観に対する関係、
現象における多様な客観に対する関係、
あらゆる物一般に対する関係、

であるが、この表象の綜合的統一をこととする理念は、

思惟する主観の絶対的(無条件的)統一を含み、思惟する主観(「私」)は心理学の対象、
現象の条件の系列の絶対的統一を含み、現象の総括(世界)は宇宙論の対象、
思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一を含み、物(一切の存在者中の存在者)は神学の対象、

とする理性推理に分野分けする。そして、その誤謬を、心理学の、

「私は多様なものをいささかも含んでいないような主観という先験的概念からこの主観そのものの絶対的統一を推論する。しかしこのような仕方では、私はかかる主観に関して如何なる概念も持ち得ない」

ので、この種の推理を、

先験的誤謬推理、

といい、宇宙論の、

「与えられた現象一般に対する条件の絶対的全体という先験的概念の設定を旨とするものである。そして私は、一方の側の系列の無条件的、綜合的統一について自己矛盾する概念を持つところから、これに対立する統一のほうが正当であるという推論をする。しかしそれにも拘らず私は、この統一についてなんら知るところがなく、従ってなんの概念ももち得ない」

という推理を、

アンチノミー、

といい、神学の、

「私に与えられ得る限りの対象一般を考えるための条件全体から、物一般を可能ならしめるための一切の条件の絶対的、綜合的統一を推論する、――換言すれば、単なる先験的概念によっては知り得ないような物から、一切の存在者中の存在者というようなものを推論する。しかし私は、超越的概念によってはかかる存在者を尚さら知り得ないし、またその無条件的必然にいたっては、それについてまったく知りようがない」

という推理を、

理想、

と名づける。

その詳細をここで展開しても意味がないが、この「理性」の広大な広がりに魅せられ、埴谷雄高が『死霊』を着想したのは、有名である(『死霊』http://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.htmlについては触れた)。

「恐らく、思考の訓練の場としてこれほど広大な場所はないのである。勿論、この領域は吾々を果てなき迷妄に誘う仮象の論理学としてカント自身から否定的な判決を受け、そこに拡げられる形而上学をこれも駄目、それも駄目、あれも駄目と冷厳に容赦なく論破するカントの論証法は、殆ど絶望的に抗しがたいほど決定的な力強さをもっている。けれども、自我の誤謬推理、宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能の課題は、カントが過酷に論証し得た以上の苛酷な重味をもつて吾々にのしかかるが故に、まさしくそれ故に、課題的なのである。少なくとも私は、殆んど解き得ざる課題に直面したが故にまさしく真の課題に直面したごとき凄まじい戦慄をおぼえた」

と書いている(あまりに近代文学的な)。

僕は、誤謬推理の中で、コギト批判の部分に強く惹かれた。

我思う、ゆえに我あり、

である。ここに、

実体化、
単純化、
同一化、
物体と相互的、

の罠がある、と。

「私は、単に思惟するだけではいかなる対象も認識しない、対象の認識は、与えられた直観を意識の統一に関して想定することによってのみ可能である。そしてまたおよそ思惟は、かかる意識の統一によって成立する。それだから私は、思惟する私を直接に意識することによって、私自身を認識するのではない。私は、直観において与えられた私を、思惟の機能に関して規定されているものとして意識するときに、私を認識するのである。従って思惟における自己意識の様態は、いずれもそれ自体まだ対象に関する悟性概念ではなくて、単なる論理的機能にすぎない。しかしかかる論理的機能は、思惟に認識の対象をあたえるものではない、従ってまた私自身をも認識の対象として与えるわけにはいかない」

「われわれが思惟だけにとどまっている限り、我々は実体即ちそれ自身だけで自存する主観という概念を、思惟する存在者の自分自身に適用する必然的条件をもたない」

「『私は考える』という命題は経験的命題であり、この命題はまた『私は実在する』という命題を含んでいる。しかし私は、『思惟する一切のもの(存在者)は実在する』と言うことはできない、もしそうだとしたら。『思惟する』という特性が、この特性をもつ一切の存在者を必然的存在者にすることになるからである。従って私は私の実在を、『私は考える』という命題から推論されたものとみなすことはできない、ところがデカルトはそれができるとおもったのである」

「それだから私が思惟によって表象するところの『私』は、あるがままの私でもなければ、私に現れるままの私でもない、この場合の私は、客観を直観する仕方を度外視して、自分自身を客観一般としてのみ考えるのである」

と。「われ思う」は、自己意識である。そのことで、実体としての私の存在の証明にはならない。あくまでデカルトは、

そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない、

ところに力点を置き、自我の自立を想定していたのかもしれないが。しかし、この心の作用の実体化は、今日も根強い。「我思う」は、

「単なる意識、すなわちあらゆる表象および概念に伴ってそれらを統合し担っているところの心の作用である。この思考作用が今や誤って物と考えられ、主観としての自我が客観、魂としての自我の存在とすりかえられ、前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである」

と(仝上)。この綜合的と、分析的も、カント独特の用語である。

「述語Bが主語の概念の内にすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属する」

ものを、

分析的、

といい、

「述語Bは主語Aと結びついているが、しかしまったくAという概念の外にある」

ものを、

綜合的、

という。主語Aから演繹できるものを分析的、主語Aを相対化し、俯瞰(帰納)しなくては、綜合的ではない。そこから、「我思う故に我あり」の、「我思う」に、分析的に「我あり」が含まれていなければ、「我思う」自体を相対化し、「我」の外から俯瞰しなくては、明らかにできない、というふうにも言えるのである。

純粋理性批判 下.jpg


参考文献;
I・カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』(岩波文庫)
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月14日

饅頭


「饅頭」は、

マンジュウ、

と訓むと、

小麦粉・そば粉・上新粉などを練った生地で餡(あん)を包み、蒸すか焼くかした菓子、

を指す(大辞林)が、

マントウ、

と訓むと、

小麦粉を水で練った生地を老麺(ラオミエン)と呼ばれる発酵種を用いて発酵させ、丸めて蒸した国の蒸しパン、

を指す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD、世界の料理がわかる辞典)を指し、

包子(パオズ)に対し、中に何も入れないものをいう、

とある(デジタル大辞泉)。中国料理の点心の一種になる。

日本では、「饅頭」を、

饅重、
万頭、
蛮頭、
曼頭、

とも当てる。

薯蕷饅.jpg

(上用饅頭(薯蕷饅頭) https://www.nanyoken.co.jp/fs/kuriya/c/gr62より)


日本の饅頭の起源には二つの系統があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD、とある。ひとつは、

「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」

とあり、もうひとつの系統は、

「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」

とあるが、大言海は、

「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」

とし、語源由来辞典も、

「1349年に宋から渡来した林浄因(りんじょういん)が奈良でつくった、『奈良饅頭』が始まりといわれる」

とし、

「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」

と、江戸前期の見聞愚案記にもある。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、

「南北朝時代の初期興国年間(1340~46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」

とある。林和靖は、中国北宋の詩人林逋、没後に北宋の第4代皇帝仁宗により和靖先生の諡を贈られたため、林和靖とも呼ばれる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%80%8B。塩瀬饅頭は、今日も、塩瀬総本家としてあるhttps://www.shiose.co.jp/user_data/about_history.php

室町時代の「七十一番職人歌合」の十八番「まんぢう賣」に、

「うりつくす、たいたう餅や、まんぢうの、聲ほのかなる、夕月夜かな」

とあり、同五十七番「調菜」に、

「いかにせむこしきにむさる饅頭の思ひふくれて人の恋しき、さたうまんぢう、いづれもよくむして候」

とある。この当時、

砂糖饅頭、

菜饅頭、

があったことがわかる(たべもの語源辞典、大言海)。

「後者は現在の肉まんに近い物と考えられているが、仏教の影響もあって、近在以前の日本ではもっぱら野菜が餡として用いられた。仏教寺院ではいわゆる点心(ここでは軽食や夜食)の一種類とみなされ、軽食として用いられていた」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD

「米飯や麺類が主食として存在し、とくに麺類(うどん、そば、素麺など)が早くから軽食として存在した一般社会では、製法の煩雑さなどからほとんど定着せず、甘い饅頭や麺類のように菜饅頭を専門の業者が製造する事もなかった。ただ、寺院における食事の記録には記載されている事が多く、江戸時代に入っても『豆腐百珍』に「菜饅頭」として製法が記載されている事から、寺院等では軽食として長い間食べられていたようである」

とも(仝上)。「大草殿より相伝之聞書」に、

「箸をもって食べ、汁を吸って」

と、「まんぢう」の食べ方が載っているとか(たべもの語源辞典)で、食事のお菜として食べていたらしい。

野菜餡の饅頭は人気が悪く、いつか滅び、饅頭と言えば、餡饅頭になったが、砂糖は、

「日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされている。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたことにより、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。精糖技術が伝播する以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた。
 平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に『砂糖』と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

ため、代わりに、

甘茶、

を用いた餡を作った(たべもの語源辞典)。「甘茶」は、灌仏会(花祭り)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられたが、

「甘味成分としてフィロズルチンとイソフィロズルチンを含み、その甘さはショ糖の400あるいは600 - 800倍、サッカリンの約2倍」

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%B6

「『源氏物語』にある椿餅というのは甘茶を用いたもの」

であるとされる(たべもの語源辞典)。

「饅頭」は、中国の「マントォウ(man-tóu)」(北京語)に由来する。中国では、中身のあるものを、

パオツー(包子 pao-tzŭ)、

饅頭類を、

タオツー(餡子 táo-tzŭ)、

と呼ぶ(仝上)。饅頭の、

「饅は、小麦餅の類をいい、頭は、頭期(第一期)、頭等(第一等)、頭号(第一号)、頭妻は初めての妻となるように、最初の意があり、饅頭とは、宴会の最初に出る小麦餅であった。宴会の最初に出るものが主役の料理になっていた中国であるから、饅頭は重要なたべものであった」

とある。もっとも今日では、中国料理では、饅頭は最後に出すようになったらしいが(仝上)。

蒲鉾型のマントウ(手前と奥のものは包子).jpg

(蒲鉾型のマントウ(手前と奥のものは包子)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)より)


この「饅頭」の起源は、北宋時代の『事物紀原』に、

「3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が、南征の帰途に、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという。これが饅頭の起源とされている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD

孔明のつくったのは、肉入蛮頭である。「蛮」(マン)は野蛮人という意味があり、同音の「饅」にしたというものである(たべもの語源辞典)。他にも、

インドにマンタ―という麦粉を牛乳で練って丸くした菓子があり、それが中国に入ってマントーとなった、
曼頭と書かれたのは、曼とは皮膚のキメがこまかくつやつやしている意であり、食べ物なので、饅の字に改めた、

といった説もある(仝上)し、

「『事物紀原』などの説が後の明代に書かれた説話『三国志演義』に収録され広く知られるようになったため、その内容を解説されることが多い。『七類修稿』では中華思想で南方の異民族を南蛮と呼ぶので、蛮人の頭を意味する『蛮頭』が語源であるとする。『因話録』では『神をだまし、本物の頭だと信じ込ませる』ことから『瞞頭』(繁体字: 瞞頭; 簡体字: 瞒头; ピン音: mán tóu、発音は同じマントウ)と最初呼ばれたという。その後、饅頭を川に投げ入れるのがもったいないので祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったと言われている。」

とあるが、結局流布したのは、孔明起源のようである。

この「マントウ」が、「マンジュウ」に転訛したのは、どういう経緯か。

「頭は、トウまたはヅであって、ヂュウとは訓まない」

のである(たべもの語源辞典)。一説に、

ヂウは唐音(国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄)、

もあるが、

「現在中国では頭トォウとよまれている。これは饅頭をマントォウとよみ、また、頭をヅとよんで、マンツといったものが、日本に入ってから訛って、マンジュウとなったものであろう」

という(たべもの語源辞典)、のが妥当なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:万頭 饅頭
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2020年02月15日

松風


「松風」は、

しょうふう、

とも訓むが、

まつかぜ、

とも訓ませる。いずれも、

松の木に吹く風、またはその音、

つまり、

松の梢にあたって音をたてさせるように吹く風、

をいい(たべもの語源辞典)、

松籟(しょうらい)、
松韻(しょういん)、
松濤(しょうとう)、

ともいうが、「まつかぜ」と訓ませた場合、そのほか、それに準えて、

茶の湯で、釜の湯のたぎる湯相の音、

を、

まつかぜの音、

という。さらに、

小麦粉に砂糖・水飴を加えてまぜ、水で溶きのばし、鉄板で上から強く焼いて、罌粟粒を散らしつけた干菓子、

にも、

まつかぜ、

の名を付ける。また、

まつかぜ、

と訓ませ、

能の演目、世阿弥(ぜあみ)改作。「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」という在原行平の歌を主軸に、行平を恋慕する二人の海女(あま)の姉妹、松風と村雨の情熱を、夢幻能の構成で幽玄に脚色する、

の意であったりする。ここでは、干菓子の、

松風、

である。菓子の「松風」は、

味噌松風(みそまつかぜ)、

とも呼ばれ、

小麦粉・砂糖・水あめ・白みそなどを混ぜ合わせ、上になる面にけしの実やごまなどを散らし、天火などで焼いたもの。カステラのようにスポンジ状に作って切り分けるもの、せんべいのような薄い板状のものなどがある、

とある(世界の料理がわかる辞典)。

松風(丸状に焼き上げ、短冊状に切り分けた松風).jpg

(松風(丸状に焼き上げ、短冊状に切り分けた松風) http://kameyamutsu.jp/products/matukaze.htmlより)

裏には何もつけないので、「浦さびし」の意から名づけた、

という(大辞林)が、名物を名乗る店ごとに、由来が異なるが、古いのは、京都の亀谷陸奥で、

「応永二八年(1421)の開業で、織田信長が石山本願寺の地を手に入れようとして顕如上人に断られると、六万の大軍で取り囲んだ。この籠城の上人に家臣の大塚治右衛門春近が松風を献じた、十一年にわたり法城を護り、やがて信長と和した上人が京都六条の下間少進の邸に宿ったとき、邸内の古松『かたろう松』に吹きわたる松風を聞いて、『わすれては波のおとかとおもふなりまくらに近き庭の松風』と詠まれ、籠城の時に食べた菓子に松風という名をつけた」

とある(たべもの語源辞典)。同社のホームページにも、

「元亀元年(西暦1570年)に始まり、11年間続いた織田信長と石山本願寺(現在の大阪城の地) の合戦のさなか、当家三代目大塚治右衛門春近が創製した品が兵糧の代わりとなり、 信長と和睦の後に顕如上人が、
わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風
と、京都六条下間(しもつま)邸にて詠まれた歌から銘を賜り、 これが『松風』のはじまりだと伝わっています」

と載せるhttp://kameyamutsu.jp/products/matukaze.html。同社では、

「小麦粉、砂糖、麦芽飴そして白味噌を混ぜ合せて自然発酵させて出来上がった生地を 直径約45.5cmの一文字鍋に流し込み、表面にケシの実を振りかけて焼き上げて大きな丸状の 松風が出来上がります」

と紹介している(仝上)。初めは、

「名もなき菓子であったが、松風という名がつき、次第に改良されて今日の名菓になった。今の『六条松風』と同じものである」

とある(たべもの語源辞典)。亀谷陸奥には、

「石山合戦の折に兵糧として考案された『松風』は、文禄(西暦1592~1595年)の頃『六條松風」と呼ばれ、 本願寺門信徒の間で大変親しまれていました。この『六條松風』を偲び、往時の味を求め、辿り着いたのが『西六條寺内松風』です」

とあるhttp://kameyamutsu.jp/products/6jyoumatu.html

西六條寺内松風.jpg

(西六條寺内松風 http://kameyamutsu.jp/products/6jyoumatu.htmlより)


たとえば、岐阜の郷士牧野右衛門が、宝暦三年(1752)につくった「松風」は、

「稲葉山の松風から名を付けたというが、これは、在原行平の『立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへり來む』の歌にあるいなば山は、因幡の山だが、同名の(岐阜の)いなば山ということからである」

と、あれこれ後発組は理屈をこねているが、

江戸後期の田宮仲宣の随筆「東牖子(とうゆうし)」(1803年)には、

「干菓子の松風は、初京都より制し出し、或御方へ御銘を乞奉りしに御覧有て、まつ風と号(なづけ)給ふ。其心は表に火のつよくこげあと、泡立し跡、けしをふりなどし、いろいろのあやあれど、うらはぬめりとして模様なし。うらさびしきと義によりて松風とはなづけ給へりとかや」

とある(たべもの語源辞典)。

「松風」「浦」「寂し」が縁語などとして慣用的に用いられることから、「浦」と「裏」を掛けたもの。京都で作られはじめ、表は焼き色が濃く、けしの実を振って趣があるが、裏は模様もなく「うら寂しい」ので名づけたという、

という(世界の料理がわかる辞典)のは、その故である。たべもの語源辞典は、

「松風というたべものは、表にケシの実をふるとか、にぎやかに化粧してあるが、裏には何も細工をしない。裏が淋しいを浦さびしとして、浦とは、海岸・海辺であるから、浦さびしき風情を考えると、松があってそこに風が吹いて、音を立てる。浦のさびしさは、松風によるものと思えば、松風とよんだのは天晴れである」

と評している。

「松風」という名のつくのは、

松風鶉団子、
松風鱚(キス)、
松風玉子、
松風豆腐、
松風長芋、
松風麩、
松風焼き、

等々あるが、いずれも、

「表側を飾って裏側には手を加えない淋しい感じのするもの」

である(たべもの語源辞典)。

たとえば、「松風焼き」は、

「肉のすり身やひき肉に卵などのつなぎと調味料を混ぜて型に入れ、和菓子の『松風』のように上になる面にけしの実やごまなどを散らし、天火などで焼いた料理。普通、鶏ひき肉で作り、おせちにも用いる。『松風』と略す。鶏のものは『鳥松風』ともいう」

とある(世界の料理がわかる辞典)ように、

和菓子の松風のような見た目をした料理、

である。おせち料理の一つになっているが、黒豆や紅白の蒲鉾、栗きんとんや海老等々は、それぞれに健康長寿だったり金運だったり、子だくさんだったりと縁起に良い意味が込められている、が、松風焼きは、雨や風に耐えて寿命が長いおめでたい松の木に因み、裏には何もない状態から、

裏には何もない、隠し事のない正直な生き方が出来るように、

という意味があるとされているhttps://kikuichi.hamazo.tv/e7719078.html、とか。

松風焼き.jpg

(松風焼き https://kikuichi.hamazo.tv/e7719078.htmlより)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:松風
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2020年02月16日

猫にマタタビ


猫にマタタビ(木天蓼)、

という。

猫に木天蓼お女郎に小判、

とか、

猫に木天蓼女郎衆に小判犬に握り飯走って来い、

と続いたりする。

猫に木天蓼泣く子に乳房、
猫に木天蓼犬に伏苓(フクリョウ サルノコシカケ科のキノコ)、

ともいう。似た意味で、

牛の子に味噌、

ともいう。

大好物のたとえ、

としていう。

「ネコ科の動物トラ・ヒョウなどが喜ぶのは、茎・葉・実の中にあるマタタビラクトン・アクチニジンという成分が、ネコなどの大脳や延髄を麻痺させるからである。雄猫は非常に喜ぶが、コネコ雌猫は、雄猫ほどは喜ばない」

という(たべもの語源辞典)。

「マタタビ」は、

木天蓼、

と当てるが、

藤天蓼、

とも書き、

キマタタビ、

ともいう。

「この若葉を食用にするが、タデ(蓼)のように辛い。サルナシ科の蔓性の落葉灌木なので、木天蓼と書いた。雌雄別株で六、七月頃五弁の白い花が咲き夏になると三センチくらいのナツメのような実がなる。花か梅花に似ているので夏梅とか夏椿とも称する。秋、実は熟すると黄色になり、辛味があるが、熟した実はうまい」

とある(たべもの語源辞典)。

マタタビの両性花.jpg



と当てるが、「もくてんりょう」と訓み、漢方で、

中風やリュウマチの薬、

として、

マタタビの果実を乾燥させたもの、をいう。

「マタタビは民間的に神経痛やリウマチに応用され、薬用としては一般には『またたび酒』としての利用がよく知られています。市販品の瓶の中に入っている原材料を見ますと、薬用部位が果実であることがわかります。「またたび酒」には砲弾型をした正常な果実が使用されますが、乾燥して市販されているのはタマカの仲間の刺傷によりゴツゴツとした虫こぶとなった果実です。わが国ではこれを『木天蓼実』、『木天実』、あるいは単に『木天蓼』と言って薬用に供していますが、実は中国では蔓性の茎(昨今は枝と葉)を薬用にしてきました。」

とあるが、中国では、違うらしい。

「木天蓼が本草書に初めて記載されたのは唐代の『新修本草』で、『味辛温小毒有り。積聚(臓腑中に気が停滞集結して散らない病態)、風労(感冒による衰弱)、虚冷(虚して冷えること)を主(つかさど)り、苗藤を切って酒に浸すか或いは醸して酒にして服すると大いに効果がある』とあり、薬用酒を造る部位は茎であるとあります。ただ果実に関しては、『大棗のようで定まった形がなく、茄子のような種子をもち、味が辛くて姜や蓼に当てる』と記載があり、生姜やタデの代用食にされていたようで、味が辛いことから薬用としても『天蓼子は身体を温め、風湿を除くのに使う』と同じ唐代の『薬性論』に茎と良く似た薬効が記載されています。わが国でもっぱら果実を薬用にするのはこうした薬効の類似性と見た目の良さに依っているのかも知れませんが、虫えい(虫瘤)が好まれるようになった理由は定かではありません。あるいは虫えいの方が単に水分が少なくて保存性に勝っていたからなのかも知れません。」

https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=071、中国とわが国では、薬用にした部位が異なっているようである。ちなみに、「虫えい(虫癭)」とは、

虫こぶ(虫瘤)

の意で、

植物組織が異常な発達を起こしてできるこぶ状の突起のこと、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%81%93%E3%81%B6。葉や細枝、花や果実などにも見られるとある。

さて、「マタタビ」は、古名は、

ワタタビ(蒟醤)、

きんま(蒟醤)、

であり、一名、

萆発(ひはつ)、

であり、

木蓼、
天蓼、
辛椿、

いずれも「またたび」である、とある(たべもの語源辞典)。「マタタビ」は、

ワタタビの転、

である(仝上、大言海)。古くは『本草和名』(918年)に、

和多々比(わたたひ)、

『延喜式』(927年)に、

和太太備(わたたび)、

の名で見えるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%93、とある。

マタタビの実.jpg



「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというのは、俗説である。

長い実と平たい実と二つなることから、「マタツミ」の転訛(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
アイヌ語の、「マタタンプ(マタは冬、タンプは亀の甲の意味)」が転じた(秋田の方言で、「マタタンブ」という。「ワタタビ」も、「マタタンプ」の転)(牧野新日本植物図鑑、語源由来辞典)、
和製漢語の天蓼、アマ(ヤマ)+タデ(蓼)に、接尾語ビ(ヒリヒリ辛味)の音韻変化(日本語源広辞典)、

等々諸説あり、

アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである、

としhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%93

「『牧野新日本植物図鑑』によるとアイヌ語で、『マタ』は『冬』、『タムブ』は『亀の甲』の意味で、虫えいを意味するとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保)によると『タムブ』は苞(つと)の意味であるとする」

とある(仝上)。しかし、たべもの語源辞典は、

「(ワタタビの)ワは、本物でないもの、偽のものという意味で、タタは蓼、ビはミがなまったものである。女房ことばにタデの辛い葉の汁をタタミジル(蓼水汁)と呼んでいる。古くはタデをタタといった。ワタタミ(偽蓼実)がワタタビ・マタタビとなった」

としている。アイヌ語を採らなくても、「木天蓼」と「蓼」を使っている以上、蓼との関連があると思うのが自然ではないか。似た説に、

ワルタダレミ(悪爛実)の転。ワルはワサビのワと同じ。タダレはタデ(蓼)と同じ(名言通)、

もあるが、「蓼」の語源説に、

爛れの意にて、口舌辛きより云ふ、

とある(大言海)。ならば、「タダレ」でなく「タデ」でよいのではないか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月17日

蓼食う虫


「蓼食う虫」は、

蓼食う虫も好き好き、

ともいう。どうも、

蓼食う虫は辛きを知らず、

は、

蓼虫不辛(りょうちゅうぼうしん)、

ともいい、大言海には、

孔叢子(くぞうし)、蓼蟲賦「是蟲幼長、斯蓼不為辛」
白氏長慶集、自詠「食蓼蟲不知苦是苦」

が挙げられているが(叢子は魏晋の頃の偽書とされるし、白氏は唐の人であるので)、

邊城使心悲、昔吾親更之
冰雪截肌膚、風飄無止期、
百裏不見人、草木誰當遲、
登城望亭燧、翩翩飛戌旗、
行者不顧反、出門與家辭、
子弟多俘虜、哭泣無己時
天下盡樂土、何為久留茲、
蓼虫不知辛、去来勿與諮、

という王粲の詩「七哀詩」の一節、

蓼虫不知辛、

が出典ではないか、とみなされる。

人の好みはそれぞれで、一概には言えない、

という意味であるが、

人の好き好き笑う者馬鹿、
面面の楊貴妃、
割れ鍋に綴じ蓋、

等々も似た意味になる。ちなみに、王粲は、

中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。曹操から招かれて丞相掾となり、関内侯の爵位を授けられた。後に軍謀祭酒へ昇進した。建安18年(213年)、曹操が魏公になると侍中に任命された。王粲は博学多識であり、曹操が儀礼制度を制定するときは、必ず王粲が主催した。建安22年(217年)、41歳で病死した。

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B2%B2。「七哀詩」は代表作の一つ。

南宋時代の「鶴林玉露」には、

氷蚕は寒さを知らず、火鼠は厚さを知らず、蓼蟲は苦さを知らず、蛆虫は臭さをしらず、

とある(語源由来辞典)、とか。

「蓼」(リョウ)は、

会意兼形声。翏(リョウ)は、ばらばらに離れる意を含む。蓼はそれを音符に艸を加えた字で、細い葉がバラバラに生えた草、

とある(漢字源)。「たで」の意である。

タデ(蓼)は、

タデ科イヌタデ属の総称

であるが、狭義にはサナエタデ節の、

ヤナギタデ(柳蓼)、

を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87、とあり、本来の「タデ」はこの種で、「蓼食う虫」の蓼もこの種であるらしい(仝上、語源由来辞典)。

ヤナギタデの花.jpg

(ヤナギタデの花 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87より)


ヤナギタデは、別名、

マタデ、
ホンタデ、

といい、

カシコグサ(蓼草)、

ともいう(たべもの語源辞典)。

石龍、
苦菜、
辛菜、
紅草、
葒草、
天蓼、

とも書く(仝上)。

「特有の香りと辛味を持ち、香辛料として薬味や刺身のつまなどに用いられる。野生の紅タデがもっとも辛く、栽培種の青タデは辛さが少ない」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87

「茎葉ともに赤みを帯び、葉の形が丸いものは、柔らかで辛味が強く、葉の厚いものは辛味は辛味は少ない」

とある(たべもの語源辞典)。かつて、武士はその宅にタデを多く植えてもっぱら飯の菜にした、という。松平伊豆守も武士の宅には蓼を多く植えるべきだと訓(おし)えている、とか(仝上)。

ヤナギタデの葉.jpg

(ヤナギタデの葉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87より)


さて、「たで」の語源であるが、

二葉のときから辛味をもってでるところから、タテ(持出)の義(柴門和語類集)、
葉の色がホテル(火照)からタテ(たべもの語源辞典)、
病を絶つところの草というのでタデとなった(仝上)、
シタアジアレ(舌味荒)という意からタデとなった(仝上)、
トカタケ(咎闌)の転訛(仝上)、
十勝のアイヌ語で「蓼」をダンテという(北海道あいぬ方言語彙集成=吉田巌)、

と、諸説あるが、たべもの語源辞典は、

「『ダデ食う虫も好き好き』ということわざがあるように、これを噛むと口中がタダレルほど辛いというタダレ(爛れ)がタデとなったというのが良い」

とし、大言海も、

爛れの意にて、口舌に辛きより云ふと云ふ、

と同説を採る。

タダアレ(直荒)→タダレ(爛れ)→タデ(蓼)の変化(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、

も同じである。この感覚が語源とするのでよさそうである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年02月18日

ぺけ


「最下位の意味の『ぺけ』(中略)も使うが、ふだんは最下位の意味では『びり』を使うことが多い。(東京女子大学教授の)篠崎(晃一)氏によれば『びり』は東日本に多い言い方ではあるが、全国に広がっていて共通語に近いという。ちなみに西日本では『どべ』が優勢だそうだ」

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=110が、

「ぺけ」は、

どべ、
びり、

とは異なり、

×、

の意が強い気がする。「×」は、

かける、

の意もあるが、

ばつ、
ぺけ、
ばってん、

と訓むことが多い(一般的には関東ではバツ、関西ではペケと読む傾向がある)。また、「ぺけ」は、「びり」の、

一番下の順位。最下位の者、

を表す東京での言い方として、

「かけっこでペケだった」

というように使い、他方関西では、「×」のしるしを、

「ぺけをつける」

というように表現する、とある(大辞林)。

ところで、江戸語大辞典には、「ぺけ」は、

マレー語ベッギ(pergi)の訛り。横浜の居留地で外国商社の売買手合わせが破談になることをいうにはじまる、

とある。

だめ、
ばか、

の意とある。

「少しぺけさね。ト新助を見て嘲笑ふ」(万延元年・縮屋新助)

という用例が載る。大言海は、

馬來語。ベッギ(pergi)より出づと云ふ説、

と並べて、

支那語「プコ」(不可)の転訛なりと云ふ説、

の二説を挙げ、

されど、前説を是とすべし(新村出の説)、

と、マレー語説を採り、

「かんじんの間にあはねへじゃ、ペケだとだらふし」(文久「滑稽道中膝車」)、

の用例を載せつつ、

「元治元年刊の、横濱みやげ、巻末附載の異国言葉語彙表に、『きにいらぬ、ものをすてる、人をかいす、じゃまになる、うりかひはたん(商談破裂)に、ペケの語をあてたり』」

とある、とする。これで決まりのようだが、多く、

中国語のbuke不可から、
と、
マレー語のpergiで「あっちへ行け」の意から、

の二説が並立している。広辞苑も、日本語源広辞典も、由来・語源辞典も、二説併記する。

日本語源大辞典も、

マレー語pergiの転訛(外来語の話=新村出・大言海・ことばの事典=日置昌一・上方語源辞典=前田勇)、
中国語「不可(puko)」の訛(ことばの事典=日置昌一・すらんぐ=暉峻康隆・外来語辞典=楳垣実後)、

と各語源説の主張者を整理している。

ところで、隠語大辞典は、「ぺけ」に、

不可、

を当て、

①支那語不可の訛、よからぬこと。悪しきこと。「ぽこぺん」。
②不可。不成立。破談。悪い。などの意。不可の支那音の訛りとも、又馬来語Pergiの転化なりともいふ。横浜神戸辺の商業用語としては、買主(主に外国商館)が商品買取りの談合を中止し受渡しを拒絶する事を云ひ、その商品を「ペケ品」などといふ。
③駄目だといふこと。支那語のぽこぺんから転訛したもの。
④駄目だといふこと。
⑤マレイ語のpergiの転じたものであるといはれ、又和蘭人が馬鹿をBakaと記したのを英人がペケと誤読したのだといふ説もある。明治初年横浜の居留地から起つた言葉である。可からずといふ意で、愚案、失敗、拒絶、不採用、軽い排斥等の意味がある。
⑥マライ語のPergiの転訛したもので、不可、不成立、破談など駄目なることに広く用いられる。

と、諸説を併記するhttps://www.weblio.jp/content/%E3%81%BA%E3%81%91。「ぽこぺん」は、

中国語で「元値に足りない」の意味から、

話にならない、

という意で、

「ポコペンは兵隊シナ語と呼ばれている言葉の一種であり、日清戦争の時代に既に使われていた言葉でもある。語源は清朝時代の中国語の『不彀本』(元値に足らずの意)が有力である。森鴎外の『うた日記』の中には『不彀本(ぷうこおぴえん) 很貴(へんくい)と 値(ね)をあらそひて さわぐ聲(こゑ)』とある (很貴は『とても高い』の意)」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3。「ペケ」と似た意味で、

取るに足らない、くだらない、だめ、

という意味で使われる(これが転じて、屋外で行う遊びの一種「缶けり」や、それに似た遊びをポコペンと呼ぶ場合がある)。

「大阪弁」は、「ぺけ」「ぺけぽん」を、

「『×』印。たすき印。不可、悪しの意。江戸時代末期に外国商社との破談で使われはじめた。近畿、東海、山陽、北四国での表現。土佐、甲信、関東、南奥羽で「ばつ」、北陸、北奥羽、紀伊、安芸、九州で『かけ』『かける』、山陰で『しめ』、出雲で『じぃもんじ』、津軽で『えっきす』などという」

とあるhttps://www.weblio.jp/content/%E3%83%9A%E3%82%B1?edc=OSAKA。仮名垣魯文の「安愚楽鍋」(1871‐72)に、

「相談のできかかったきゃくにペケにされたり」

とあるように、この言葉は、どうやら、幕末開国以後に起こったようである。どちらとも決めがたいが、大言海に載る、

横濱みやげ、巻末附載の異国言葉語彙表、

を見る限り、マレー語『由来・語源辞典』見ていいのではないか。中国との交易は江戸時代を通して続いていたのだから、不可説は、後の付会に思える。

「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)」には、

(当時の横浜居留民が商用のために一種の私生児的な言葉を案出していて)中でも、マレー語の駄目(ペケ)peggi、破毀(サランバン)は大きな役をつとめ、

とある由http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/71-1a75.htmlで、peggiはpergiと思えるので、マレー語由来の傍証にもなりそうである(仝上)。

なお、「びり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454260852.htmlについては、触れたことがある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年02月19日

求肥


「求肥」は、

こねた白玉粉(または餅粉)を蒸し、砂糖・水飴を加え、火にかけて練りかためた菓子、

で、柔らかく弾力がある。

「蒸したもち米を搗くことで粘りを出す餅に対し、求肥は粉にしたもち米に水と砂糖を足して火にかけて練ることで粘りを出す。生地粉に対して大量の砂糖や水飴が使用されているため(白玉粉または餅粉1に対して砂糖2、水飴1の配合が多い)、糖のもつ保水性により製造してから時間が経過しても柔らかく、食べる際の加熱調理が不要である。」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5。求肥の作り方には、

・水練り 白玉粉やもち粉に水を加えて練り上げ、次に、砂糖や水あめをプラスします。その後、加熱をしながら練っていく製法です。しっかりと練り上げることで、滑らかな食感になり、柔らかな仕上がりになります。
・茹で練り 白玉粉やもち粉をしっかり練ります。1度茹でた後に、砂糖や水あめを加えて、さらに練る製法です。
・蒸し練り 白玉粉やもち粉を1度蒸した後に、砂糖などを加えて、更に練る作り方です。水練りに比べて日持ちしやすいのが特徴、

とあるhttps://wagashi-season.com/%E6%B1%82%E8%82%A5/

求肥.jpg



「求肥」は、

求肥飴、
求肥糖、
明糖、

ともいう。もともと「求肥」は、

牛皮、

と当てた。中国から渡来したが、

牛脾、

と書き、

祭祀に用いられていたものが、牛のなめし皮のように柔らかいところから、

牛皮、

と書かれた(たべもの語源辞典)。あるいは、

昔の求肥はもち米の玄米で作られていたため浅黒く、牛の皮をなめしたように柔らかいことからの名、

とある(語源由来辞典)し、

昔は黒砂糖や赤砂糖を用いたので色が汚らしく牛皮と呼ばれ、御所ことばでは「うし」とも書かれた、

ともある(たべもの語源辞典)。だから、

牛皮、
牛肥、
牛皮飴、

と書かれた、とある(仝上)。ただ、

中国の類似の菓子で、砂糖に澱粉を加えて煮て作る飴が「牛皮糖」と呼ばれることから、日本への伝来当時は牛皮であった、

とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%82%E8%82%A5)。書言字考節用集(1717年)に、

「牛脾飴(俗作)求肥、蓋牛脾、支那祭祀所用者、今制据焉」

とある(大言海)。志のぶ草に、

「求肥飴、初メテ唐より渡りし時には、牛皮と、銘有りしを、院の聞こし召しあげられし時、字を書きかふべしとの命有りて、改め給ふ」

とある(大言海)。

飴は脾腹を肥やすという意味から求肥とした、

と(たべもの語源辞典)、いう。ただ、

牛皮を求肥と書き換えたのは上杉家で、軍用食料品として保存がきくので求肥と命名した、

という説もある(仝上)。同諏のことは、

「江戸時代では上杉家が、軍用食糧品として保存が効くので、牛皮を求肥と命名したともいわれ、このころはくず粉・わらび粉・玉砂糖を 餅米粉に入れて火にかけてねり水飴を混ぜて冷やしたものだったそうです」

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317673943

「寛永年間(1624~44)に上使(幕府から武臣を禁廷の上す)出雲の松平越中守直政が求肥飴を召されて、江戸に変えられてから、この菓子を尋ねられたが、そのころ江戸に求肥を作る者がなかった。そこで京都から中島浄雲という京都菓子司を呼んで求肥をつくらせた。この子孫が丸屋播磨の店名で継承したので、求肥屋と称した」

とある(仝上)。

なお、江戸時代の初期には、

「葛粉・蕨粉・玉砂糖の三味を糯米粉に入れて火にかけて煉り、さらに水飴を混ぜて煉って冷ましてから菱型に切った。糯米を主材料にしたので求肥餅とよばれたが、次第に餅より飴に発達して文化・文政(1804~30)のころにはその技術は最高となり、加工品もできた。餡を求肥で包んだものは、羽二重餅といった」

という(仝上)。

羽二重餅.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:求肥
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2020年02月20日

寺納豆


「納豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.htmlについては触れたが、その由来に、

寺納豆に起り、納所の僧の豆の義かと云ふ、

という説がある。大言海自身、「いかがか」と疑問符を付けているが、「寺納豆」とは、

寺院で製造する納豆、歳暮に檀家へ贈る、

とされ(広辞苑)、この名がある、という。「納豆」という言葉は、

「平安中期の『新猿楽記』の中で『精進物、春、塩辛納豆』とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

「納豆は精進料理として主に禅寺の納所(なっしょ、寺院の倉庫)で作られた食品で、これが名前の由来という説が『本朝食鑑』(1697年刊)という書物に載っている。納所に勤めていた僧侶が納豆作りをしていたので、納所の字をとって『納豆』になったという。ただし、『本朝食鑑』では、禅の伝来以前に『新猿楽記』に名があることから寺社起源説には疑問符をつけている」

大言海の疑問符は、この故と思われる。しかし、

「この納豆の名称は、『納所豆』が納豆になったという説がある。納所(なっしょ)というのは、寺院の給食関係までを含めた事務を執る部署で、この納所で給食用に製造した大豆加工品が、納所豆といわれ、それが納豆になったというのである」

とある(たべもの語源辞典)し、

「僧侶が寺院で出納事務を行う『納所(なっしょ)』で作られ、豆を桶 や壷に納めて貯蔵したため、こう呼ばれるようになったとする説が有力とされている。『なっ』は呉音『なふ』が転じた『なっ』で、『とう』は漢音『とう』からの和製漢語である」

ともある(語源由来辞典)。遣隋使、遣唐使また留学生、留学僧などによって中国からもたらされたもので、

「寺院や宮廷貴族の間で珍重され、当時の国分寺などでも作られたので、鎌倉・室町時代には、広く用いられ、大徳寺の大徳寺納豆や浜松の名産になっている『浜納豆』がその名残である」

とある(たべもの語源辞典)。当時の文化の最先端である寺院で主として作っていた、というのでいいのかもしれない。

ただ、「寺納豆」と呼ばれるものは、今日の「納豆」、つまり、

糸引き納豆、

とは別種で、

塩辛納豆、
浜納豆、
大徳寺納豆、
唐納豆、

等々とも呼ばれる。

大豆を蒸煮して、煎った小麦粉を加えて発酵させ、食塩水につけ、さらに香辛料を加えて長期間乾燥させた粒状の納豆。味噌に似た風味がある。

とある(精選版日本国語大辞典)。

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキ(久喜)としてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

とある(日本語源大辞典)。これは、

「茶菓子としても利休以下多くの茶人に愛され、京菓子の中には餡の中にこの納豆をしのばせたものもある」

とか(仝上)。

納豆大徳寺.jpg



「糸引納豆が登場したのは中世以降のことであり、それ以前の定義で「納豆」とは、麹菌を使って発酵させた後に乾燥・熟成させたものであった。製法も風味も味噌や醤(ひしお)に近い」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

ただ、この「くき」と呼ばれたものは、

「奈良時代頃に醤の一種として伝来したのではないかとされ、つまり元来の納豆は調味料の一種であった。古い史料では『久喜』(くき)の名で言及されているが、平安時代には「納豆」という名でも呼ばれるようになった。なお、『塩豉』のほかに『淡豉』という名のものがあったらしいが、これは平安時代以降姿を消している」

ためhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86、今日「寺納豆」として残っているものは、室町時代、

「北宋や南宋に渡航した僧たちが塩辛納豆を持ち帰り、再度国内に紹介した。寺院内でも盛んに生産したことから、これらは寺納豆とも呼ばれるようになった。こうした伝統を持つものが今でも京都の大徳寺(大徳寺納豆)、天龍寺、一休寺や浜松の大福寺などで作り続けられており、名物として親しまれている。このうち浜松地方で作られる塩辛納豆は浜納豆の名称で販売されている」

とあるところ(仝上)から見ると、かつて「くき」と呼ばれていたものの流れの直系ではなく、あるいは、再度輸入されたもの、ということになる。

室町期になると納豆,唐(から)納豆と呼ばれ,のちには寺院でつくることが多かったため寺納豆ともいった、

とある(世界大百科事典)。この頃、「糸引き納豆」は、

「室町中期になると、公家の日記などに登場する(『大上臈御名之事』に『まめなっとう、いと』)、『御湯殿上日記・享禄二年一二月九日』に『いとひき』などの例があり、女房詞で『いと』『いとひき』と呼ばれていた。当時の生産地が近江であることなどを考え合わせると、近畿で創出された可能性も高い」

とあり(日本語源大辞典)、糸引納豆が広く知られるところとなり、日常食として消費されるようになるとともに、「納豆」という言葉もまず糸引納豆を意味するように変化していった。で、区別するために、「寺納豆」「唐納豆」という名が付いた、とみられる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:寺納豆 納豆
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