2020年02月21日


「寺」は、

寺院、

の意であるが、特に、

三井寺、

つまり、

園城寺、

を指す、とある(広辞苑、岩波古語辞典、大言海)。他に、寺銭、寺子屋の略でも使うが、「寺」(漢音シ、呉音ジ)は、

「会意兼形声。「寸(て)+音符之(足で進む)」。手足を動かして働くこと。侍(はべる)や接待の待の原字。転じて雑用をつかさどる役所のこと。また漢代に西域から来た僧を鴻臚寺(コウロジ)という接待所に泊めたため、のち寺を仏寺の意に用いるようになった」

とある(漢字源)。同様、

「本来、中国漢代においては、外国の使節を接待するための役所(現代でいう外務省)であったが、後漢の明帝の時にインドから訪れた2人の僧侶を鴻臚寺(こうろじ)という役所に泊まらせ、その後、この僧侶達のために白馬寺を建てさせ、住まわせたことが、中国仏教寺院の始まりである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%99%A2

法隆寺・西院伽藍遠景.jpg

(法隆寺・西院伽藍遠景 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BAより)

また、日本では、薬師、大師、不動尊は、

寺、

で、大社、稲荷、神宮、八幡、天神は、

神社、

を指す(仝上)、ということになる。

寺院の建造物は、

礼拝(らいはい)の対象を祀る「堂塔」

と、

僧衆が居住する「僧坊」

とに、区分される。「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すので、祖形は、

土饅頭型、

であったが、中国などで堂塔となり、その様式が日本に入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられた。「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設された(仝上)。

「寺」の語源は、広辞苑は、

パーリ語thera(長老)、
または、
朝鮮語chyöl(礼拝所)、

とし、大言海も、

刹(セツ)の字の朝鮮語の、chyöl(礼拝の義)の転訛とも云ひ、又、巴利(パアリ)語の、thera(長老の義)の轉とも云ふ。寺(ジ)の字は梵語vihāra(毘訶羅)の漢譯。寺はもと宮司の名なりしが、摩騰、法蘭、初めて支那に來りし時、鴻臚寺と云ふ役所に館せしめしより、僧居を指して一般に寺と云ふに至れり。

とする。「刹」(サツ、セツは慣用)は、名刹(めいさつ)、古刹(こさつ)(刹那はせつなと訓む)は、

仏教徒が寄進する旗柱、

の意で、転じて、

寺、

の意。大言海には、

梵語刺瑟胝(yaṣṭi)の瑟胝の音譯字。表相の義にして、旗幢(ハタボコ)の意となり、それを、寺の標識に建て置くに因りて、寺の事となれるなり。万葉集「婆羅門の、作れる小田を、喫(は)む鳥、瞼腫(マナブク)れて、旗幢(ハタボコ)に居り」とあるは、奈良の大安寺の婆羅門僧正が、寺田を作れるを、鳥、来たりて啄めるが、説法を聞きて、懺悔して泣く意の詠也と云ふ、

とある。「刹」は、

棒・旗竿、
あるいは、
塔の心柱、

の意。仏堂の前に宝珠火炎形をつけた竿を立て寺の標幟(ひょうじ)としたところからいう(デジタル大辞泉)、ともあるが、仏塔の中心となる柱、塔の心柱(しんばしら)の意では、日本書紀・推古元年正月一六日に、

「仏の舎利を以て法興寺の刹(セツ)の柱(はしら)の礎(つみし)の中に置く」

とある(精選版日本国語大辞典)。

寺院では仏堂の前に標幟として旗竿を立てる風があった、

ところから、

塔の心柱、

の意へシフトしたものらしい。仏教伝来のプロセスで、

朝鮮語チョル(chyöl)、

から転化したのか、それとも、パーリ語、つまり、

南伝上座部仏教の経典(『パーリ語経典』)で主に使用される言語、

の、

thera

から来たか、いずれかだと思われる。音から見ると、パーリ語だが、意味から見れば、朝鮮語に与したくなる。その他、

荘厳に照り輝くところからテラス(照)の略(和句解・日本釈名・塩尻・和語私臆鈔・言元梯・和訓栞)、

その他の異説もあるが、

朝鮮語チョル(chyöl)、

パーリ語thera、

だろう。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:
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2020年02月22日

寺銭


「寺銭」とは、

てらせん、

あるいは、

てらぜに、

とも訓み、

ばくちや花札などで、その場所の借賃として、出来高の幾分かを貸元または席主に支払うもの、

の意(広辞苑)で、正確には、

博奕場(ばくちば)を開く貸元の収入になる金。その日の賭金(かけきん)総額中の幾分かを寺銭

とし(百科事典マイペディア)、

さいころ丁半賭博の賭場では,勝った客が取得する金額の5%を寺銭とし,2個のさいころがゾロ目といって同じ目になったときだけ,10%の寺銭をとった、

とか(世界大百科事典)、

寺銭は勝ったほうからとるが、賭(か)け金の四分が原則で、ほかに、六の目がそろったときは1割、二つの目がそろったとき、または丁で2、4、6、半で7の目数が出たときだけとる、

などいろいろな方法が行われている(日本大百科全書)が、

賭博の勝負毎にその縄張の親分に奉る口銭で、これは普通中盆が集め寺箱に納めて親分に届けるものである、

とある(隠語大辞典)。「中盆」(なかぼん)というのは、

盆の中央丁の側に座し賭金の賭け合せの指図、賭金の受渡及寺銭の徴集を為す役、

を指し、

胴元の助成者。賭場の議事進行係ともいうべきもので賭博運行には絶大の権力をもつている。振子が壷を振つて伏せるのは中盆の号令による。又寺銭を集めて寺箱を親分の代理に保管するのも中盆である、

とある(仝上)。「胴元」とは、

賭博の開帳者、

で、

寺銭をとる者、

であるが、

胴親、
胴取、

ともいう。

賭博の胴即ち壷皿の権利を持つてゐる親分の意、

である(仝上)。「寺銭」は、

寺金(てらきん)、

とも、単に、

てら、

ともいう(広辞苑)、とある。江戸語大辞典の言うように、

賭博開帳者の徴収する口銭、

つまり、

手数料、

である。「寺銭」の語源は、

江戸時代に寺社の境内を賭博を行う場として選び、賭博による儲けの幾らかを寺社に寄進していたことからこう呼ばれるようになったという

説が多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%8A%AD。寺社の敷地内は寺社奉行の管轄であり、違法な賭博が開催されても町奉行による捜査・検挙が困難だったからだ(仝上)、というのである。

江戸時代に取締りがゆるやかだった寺社奉行支配下の寺社の境内に,仮設の賭博場をつくり,賽銭勘定場と称し,手数料のもうけを寺へ寄進する形式をとったことに由来するという。のちに一般の賭博場でも寺銭というようになった。関西ではカスリともいう、

ともある(世界大百科事典)。別に、

寺銭は、その賭博場を縄張りとする親分が開帳したときの名称で、他人の縄張りを借りて開帳したときは「かすり」といい、親分が隠居したのち新しい親分から隠居料として利益の何割かを受け取るのを「こく取り」という、

ともある(日本大百科全書)。この方が正確であろうか。

確かに、

寺銭という名称は江戸時代につくられたもので、その由来については、寺で賭博を開帳したから、寺の建立費にあてたから、

などといわれる(仝上)が、どうもこういう語源が、理屈ばっているときは当てにならない。寺でやっているから、寺銭というのは、いかがなものだろう。

サイコロ.jpg


江戸語大辞典は、

寺は照の意で、灯を照らす料金の意、

とする。あるいは、

盆の上を白い布で覆うところから、褞袍(どてら)のてらと同じく、布をてらといい、盆茣蓙(ござ)の上の手数料という意味でてら銭といったとする、

説がある(日本大百科全書)。他にも、

ドテラ(温)、テテラ(褌)などのテラと同義で、布や布団の意味である、

としているものがあるhttp://www.usamimi.info/~kintuba/zingi/zingidic-ta.html

しかし、隠語として、「てら」の意は、

火ノコトヲ云フ、
燈火ノコトヲ云フ、

とあり(隠語大事典)、さらに、「テラ」を、

宿ノ主人ノコトヲ云フ、

というのもある(仝上)。どれもそれらしく思えるが、「寺銭」は、

博徒の親分が賭場を開帳した節、そのバクチ場に集まってきた多くの人々を保護する代償として、客人の利益の内から、頭をはねるその銭のこと、

であり、

昔は賭博場の灯火代として「照銭」を集めたのがいつか寺銭となったもの、

とある(仝上)のを採りたい。江戸語大辞典の説である。

「てら」は「照す」の意にて接尾語、接頭語として諸種の言葉を作る。例へば「てらあがる」と云へば「日が上る」との意にて「たかてら」と云へば、「提灯」のことである、

ともある(仝上)のである。この「てら」からきているのではあるまいか。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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ラベル:寺金 胴元 中盆 寺銭
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2020年02月23日

証言としての文学


大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』を読む。

証言としての文学.jpg


現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

証言としての文学、

と題された巻である。収録されているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』
開高健『裁きは終わりぬ』
梅崎春生『私はみた』
広津和郎『松川裁判について』
秋山駿『想像する自由』
李珍宇『手紙』

である。

開高健『裁きは終わりぬ』は、アイヒマン裁判、梅崎春生『私はみた』はメーデー事件、広津和郎『松川裁判について』は松川裁判の、それぞれ傍聴記録、証言、論証である。しかし、ノンフィクションであれ、フィクションであれ、日記であれ、見聞録であれ、いずれ、カメラで言うなら、フレームを決めた画像でしかない。フレームを決めた瞬間画像は客観的ではない。その瞬間、大なり小なり、私的パースペクティブを免れないのである。その意味で、

証言としての文学、

などというものは成り立たない。文学が、

思想の伝達手段、

でないように(プロレタリア文学をめぐる茶番で実証済み)、

事実の証言手段、

でもあり得ない。文学は、

虚実皮膜、

の時空にある。意識的に虚構を立てるのと、意識的に事実を語ろうとするのとは、程度の差でしかない。

ぼくは、どんな情報も、大なり小なりフェイク、であると思っていて、そのことは、

「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm

で触れた。つまり、

それがフィクションであれノンフィクションであれ、
証言であれ偽証であれ、
事実の報告であれ虚報であれ、

発信者が、事実と思っていることを、自分の観点から言語化しているにすぎない。それは、意識的に嘘を報告することと、程度の差でしかない。

情報の構造.gif

事実そのものは、情報にはなり得ない。ユカタン半島に巨大隕石が落ちても、それを人が情報化するまで、それは人に伝わることはない。だが、それが情報化(フィクション化であれノンフィクション化であれ、科学レポートであれ娯楽情報であれ)されたとき、

「情報は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された『事実』は,私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)」

のであるhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/prod092.htm。だから、

証言としての文学、

などというタイトルは、

自家撞着、

以外の何物でもない。そのことを、本作品群が、例証している。

あとは、文学として、

虚実の皮膜、

で自立しているかどうかだけだ。事件や現実に依拠している限り、作品世界は自立していない。その意味では、

李珍宇『手紙』

は作品ではない。

収録されたものの中で、作品として、自立できているのは、

大岡昇平『俘虜記』
原民喜『夏の花』
吉田満『戦艦大和の最期』
長谷川四郎『シベリヤ物語』
藤枝静男『イペリット眼』
富士正晴『童貞』
堀田善衛『曇り日』
石上玄一郎『発作』
西野辰吉『C町でのノート』
木下順二『暗い火花』

である。突出しているのは、

大岡昇平『俘虜記』

である。ある意味で、私的フレームの中で、ひとつの作品世界を自立せしめている。戦後の出発点にふさわしい、といっていい。

石上玄一郎『発作』

も、この作家らしい構造化された作品だが、僕にはこの人がいつも作りすぎる虚構に、嘘を感じてしまう。その意味では、自立が状況に依存している、と思わせる。

長谷川四郎『シベリヤ物語』

は、独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている。

吉田満『戦艦大和の最期』

は、日記の体裁をとりながら、

片仮名表記、
と、
文語体表記、

で、一定の距離感をもち、多少情緒過多ながら、一応の日録の体裁を保ち、自立する世界を保ち続けている。しかし、『戦艦大和の最期』の、

「初霜」救助艇ニヒロワレタル砲術士、左ノゴトク洩ラス、

として、最後に追加した文章、

救助艇タチマチニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、スデニ危険状態ニ陥ル 更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク(中略)シカモ舩ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇ク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス……

について、

初霜短艇指揮官・松井一彦の反論や、吉田に削除を求める書簡、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F、また、大和乗組員の生き残り八杉康夫が、

内火艇は船縁が高くて海面に顔を出している様な漂流者の手は届かないから基本的にありえないことで、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むこともありえないという。また艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それに駆逐艦に救助された大和の乗組員たちは皆横瀬に軟禁され、お互いが体験したことを話し合っていたから、酷い行為があれば一遍に話題になっていたはずだが、そんな話は全くなかった、

と答えている(仝上、https://news.nifty.com/article/domestic/society/12280-535250/)し、八杉に詰問されて、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる(仝上)とか、さまざまに異論が出ている。あくまで、作家の体験に終始している限り、実名を出しているからと言って、誤解や勘違いで済む。しかし、伝聞を載せたことで、いろいろ異論が出た。ま、大なり小なり、フェイクなのは仕方がないが、この部分は、本論とは関係ない部分で、ちょっと欲を出したとしか言いようのない、蛇足である。これで、全体の印象が変わるのは、残念な気がする。

秋山駿『想像する自由』

は、李珍宇『手紙』によって、

内部の人間、

という概念の演繹をしているだけで、僕には、自閉された空間を堂々巡りしているようにしか読めなかった。始めに、「内部の人間」ありきで展開する論旨の外に、李珍宇『手紙』は、秋山の手を逃れて自立している、と見えた。

参考文献;
大岡昇平他編『証言としての文学(全集現代文学の発見第10巻)』(學藝書林)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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2020年02月24日

ねむい


「ねむい」は、

眠い、

と当てる。形容詞である。「ねむい」は、

ねむりたい気持ちである、
ねむたい、

という主観表現の意味と同時に、

眠りたくなっている状況、

という状態表現の意である。「ねむい」の同義語、

ねむたい、

は、古く、

ねぶたし、

であり、

「ねぶ(眠)りいた(甚)し」の変化した語、

とある(学研全訳古語辞典、岩波古語辞典)。とすると、

ねぶたし→ねむたし→ねむし、

と転訛したとも考えられるが、もうひとつ、憶説だが、「むむい」の文語、

ねむし、

は、

ねむりたし、

が、

ねむし、

に転訛したのではないかという気もする。「たし」は、

鎌倉時代に入ってから多く文献に現れ、希求の意を表す、

とあり、動詞の連用形につく、とある(岩波古語辞典)。そして、

「まほし」と同様に、話し手の希望を表すだけでなく、客観的に第三者の希望をも表すことができる、

とある。

ところで、「ねむる」(眠る・寝る・睡る)自体、

ねぶるの転、

であり、かつて、

ねぶる、

であった。

この「ねぶる」(寝る・眠る)は、

寝経るの転かと云ふ、いかがか、

と大言海は、いささか疑問符を付けている。日本語源広辞典は、

ネブル(寝+経る)、寝た後次第に時間がたつ意、

と共に、

ネニブル(寝+鈍る)、寐た後、いつしか感覚が鈍くなる意、

を挙げる。語源は、理屈だっているものは大概、語呂合わせと決まっている。「いつしか感覚が鈍くなる」というのは、いかがなものだろうか。この他、

ネフル(寝振)の義か(和句解)、
ネム得るの意。ネは収まり静まる意(国語本義)、
夢の国に遊ぶ意のネミ(寝見)を活用させた語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

があるが、

寝経る、

が順当か。ところで、「ねる」の、

ね、

自体が、

寝、

と当て、

横になる、
臥す、
寝る、

といった意味であり、これは、

ぬ、

ともいい、

つれもなく人をやねたく白露の起くとは歎き寝(ぬ)とは忍ばむ(古今集)、

という用例がある(大言海)。さらに、

なし(寝し)、

の「な(寝)」ともいい、

寝(ね)の尊敬語、

とあり(岩波古語辞典)、

門に立ち夕占(ゆふけ)問ひつつ吾(あ)を待つとな(寝)しすらむ妹(いも)を逢ひて早見む(万葉集)、

という用例がある。さらに、

いぬ(寝ぬ)、

の「い」も、

寝、

と当て、

イは睡眠、ヌは横になる意(岩波古語辞典)、
寝(イ)を寐(ス)る意(大言海)、

と解釈が分かれるが、「い」は「寝」の意であり、

大原の古りにし里に妹をおきて我寝(い)ねかねつ夢に見えこそ(万葉集)、

という用例がある。

つまり、「ねる」の「ね」は、

い、
ぬ、
な、

と転訛をしつつ、「ね」に落ち着いたと見える。確かに、「ね」と「ぬ」「な」は、転訛しやすいと考えると、古形は、

い(寝)、

ではないかと思ったが、「い」と「ね」は使い分けられていたらしいのである。「い(寝)」は、

人間の生理的な睡眠。類義語ネ(寝)は体を横たえること。ネブル(眠)は時・所・形にかまわずする居眠り、

とあり(岩波古語辞典)、

朝寝(あさい)、熟寝(うまい)、安寝(やすい)などの熟語になるか「い(寝)をぬ(寝)」「い(寝)も寝ず」など句として使っている、

とある(仝上)。

股(もも)長にイは寝(な)さむを(記紀歌謡)、
妹を思ひイ(寐)の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて(万葉集)、

いつの間にか、

い(寝)、眠る、
ね(寝)、横になる、

の区別は消えてしまったらしい。

居眠り.jpg

(居眠り 鳥居清長 https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0167-001より)


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;
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2020年02月25日

寝耳に水


「寝耳に水」は、

寝耳に水の入(い)る如し、

ともいう。

寝ている耳に水を注がれるような、思いがけない出来事、また不意の知らせを聞いて驚くたとえ、

の意である(故事ことわざの辞典)。別に、

寝耳に擂粉木、
寝耳にすっぽん、

という言い方もする(仝上)。多少の異同はあるが、

水の音が聞こえる説、
寝ている時に耳に水が入る説、

の二つがあるhttps://career-picks.com/business-yougo/nemiminimizu/。日本語源広辞典は、

睡眠中に、突然大水だという知らせに、びっくりする意、
と、
睡眠中に耳に洪水が襲ってきて、びっくりする意、

と、少しニュアンスが違い、洪水そのものを指している。語源由来辞典は、

寝耳に水の「水」は、洪水などの濁流音で、「耳」は「耳にする」など、聞こえる意味で使 われる「耳」である。 治水が完全でなかった頃は、よく川の水が氾濫した。それが寝ている時であれば、なおさら驚くことになり、「寝耳に水」となった、

とする。となると、

大水だ、

という知らせなのか、

大水の音、

なのか、

洪水そのもの、

なのかということだが、

元来は、眠っている時に耳に水音が聞こえてくることをいったが、のち、水が実際に耳に入ると解されるようになった、

とある(故事ことわざの辞典)ので、水音の方かもしれない。

眠っているうちに、大水が出てその流れの大きな音を耳にしたときのようだという意味であった。それが不意の事態にあわてふためくことに使われていくうちに、聞こえる意の「耳に入る」が、実際に耳の中に水が入ると受けとられるようになり、「寝耳にすりこ木」のような表現も現われたと考えられる。「吾吟我集」例なども耳に水が入るという理解にもとづいている、

と(精選版日本国語大辞典)、

寝耳に擂粉木、
寝耳にすっぽん、

という言い方自体が、耳に水が入る解釈から、作り出された言い回しと見ることができる。

ところで、

寝耳、

自体が、

眠っている時の耳、

を指し(広辞苑、岩波古語辞典)、

夜一夜、ののしりおこなひ明かすに、寝も入らざりつるを、後夜などはてて、すこしうちやすみたる寝耳に、その寺の仏の御経を、いとあらあらしう、たふとくうち出でよみたるにぞ、いとわざとたふとくしもあらず、修行者だちたる法師の、蓑うちしきたるなどがよむななりと、ふとうちおどろかれて、あはれにきこゆ(枕草子)

という用例もあるが、大言海は、踏み込んで、

夜眠れる間に、聲の耳に聞ゆること、夢うつつに聞くこと、

ととる。「寝耳」の用例も、ただ、

眠っている時の耳、

ではなく、

夢うつつに聞こえること、

の意と見ていい。

中納言はうちやすみたまへるネミミニ、聞きておどろきながら(宇津保物語)

と同じである。さらに、

寝耳に入(い)る、

という言い方もある。

眠っているときに耳に聞こえる、

という意であり(岩波古語辞典)、

盗人よと、言ふ声寝耳に入り(西鶴・桜陰比事)

と使われるが、この意が転じて、

思いがけず手に入る、

意となって(広辞苑)、

百銭ころりとに耳に入るぞ(浄瑠璃・椀久末松山)、

と使われたりする。

寝耳に水、

はこの延長線上の展開と考えれば、寝耳に入る、

物音、
聲、

と考えるのが順当であろう。「寝耳に水」について、

眠れる中に、洪水、俄に到れるが如き、不意なること、

とするのが、的確かもしれない。

「寝耳」は、字面からは、耳そのものが眠っていて何の音も聞いていないと解釈することもできそうだが、残念ながら耳は、目のように蓋を閉じられないので眠ることができない。したがって「寝耳」は、人が眠っているときも、声や音を聞いている耳と考えるのが妥当、

という(笑える国語辞典)のが常識的だろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年02月26日

どんぶり


「どんぶり」を引くと、擬音語の、

大きくて重みのある物が、水中に落ちる音、

の意で、

どぶん、
どぼん、

と同義の意味が載る(広辞苑)。もっとも、「どぶん」は、

水中に飛び散る感じ、

で、「どぼん」は、

水中に深く潜り込む感じ、

と微妙に違うが(擬音語・擬態語辞典)。さらに、「どんぶり」は、

丼、

と当てて、三つの意味が載る。一つは、

どんぶり鉢、

の意で、

深い厚手の陶製の鉢、

の意で、二つ目の意味は、

更紗、緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋、

の意。

懐中用の大きな袋。江戸時代、若い遊び人が好んで用いた、

とある。

「ゑぞにしきで大どんぶりをこしらへてこよう」(黄表紙・悦贔屓蝦夷押領)、

といった用例がある。三つめは、

職人などが着ける腹がけの前かくし、金などを入れる、

の意である(広辞苑)。

当てられた「丼」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

「会意文字。『井(四角い井戸のわく)+・印(清い水のたまったさま)』で、清らかな水をあらわす。青(すみきってあおい)の下部に含まれる。ただし、のちには、井戸の清水を示す丼は井と書かれるようになった。枠を示す井(ケイ)は、かたちを変えて形・型にふくまれる」

とあり(漢字源)、井戸の意で、「丼」に、どんぶり鉢や、腹がけの丼などの意で使うのは、わが国だけである。いつごろから使われ出したかは、はっきりしないが、「丼」は、

「もともとは『井』の異体字として使われていたものらしい」

とあるhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000175771が、集韻に、「丼」を、

投物井中聲、

とあり、もともと、

井戸に物を投げ入れた音、

の意がある。これは「どんぶり」の語源ともかかわってくる。

丼.jpg



「どんぶり鉢」の意の「どんぶり」の語源は、基本的に二つある。ひとつは、

物を深い水中に投げ入れる音、ドボン、ドブンの転訛。深い水の意から転じてどんな料理でも入る、深くて大きい投企の食器、

であり、いまひとつは、

上方の婦女子の番袋(雑多な物入)の転訛が、ダンブクロで、これにならって、何でも入る大きな鉢をダンブリ鉢、丼鉢といいはじめた、

とするものである(日本語源広辞典)。

前者の擬音説は、

「丼 寛文ごろの江戸で、ケンドンヤの名で、盛切りのめし、そば、うどんを売る店があった。客に突けんどんに盛切りのたべものを出したから、慳貪(けんどん)の名が付けられたという。盛切りの鉢をケンドン振りの鉢といったのが、上略してドンブリ鉢となり、ドンブリとなった。丼の字は、井戸の中に小石を落とすとドンブリと音がする意で作られた」

とあり(堀井令以知『語源大辞典』)、たべもの語源辞典も、

「元禄時代の二十年ほど前、寛文(1661~73)ころ江戸に、けんどん屋という名称で、盛切りのめし・そば切・うどんなどを売る店ができ、繁盛した。当時の流行歌に『八文もりのけんどんや』(見頓屋)というような文句がみえる。けんどん屋という名称は、盛切り一杯のたべものを出すことが、客に対して,突けんどん(慳貪)だということから、名づけられた。けんどん屋が盛切り一杯にした器、つまり鉢を『けんどん振りの鉢』と呼んだ。鉢は皿よりも深くて、すぼんでおり、瓶よりよりも口の開いた器の名称である。けんどんぶりの鉢が、どんぶり鉢と呼ばれ、鉢を略して、どんぶりとなった。丼という字は、中国文字であるが、井戸の中に小石を落とすとドフリと音がするということから、この字をどんぶりとよんだ」

とする。しかし、語源由来辞典は、

「丼の語源は、江戸時代、一杯盛り切りの飲食物を出す店を『慳貪屋(けんどんや)』と 言い、そこで使う鉢が『慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)』と呼ばれていた事から、それが略され『どんぶり鉢』になったといわれる。 慳貪とは『けちで欲深い』という意味で、慳貪屋で出されるものは『慳貪めし』や『慳貪そば』と呼ばれ、それを運ぶものは『慳貪箱』といった。八丈島で『どんぶり鉢』を『けんどん』と言い、この名残と考えられている」

としつつ、

「しかし、江戸時代、更紗や緞子などでつくった大きな袋も『どんぶり』と呼ばれている。そのことから、『慳貪振り鉢』の略ではなく、物を無造作に放り込むさまを表したもので、『どぶん』『どぼん』と同じ、物が水中に落ちる擬音語の『どんぶり』とも関係すると考えられる」

と後者の「袋」説を採る。同様に、

「駄荷袋(だにぷくろ)がなまった語の、だんぶくろからきた」

とする説https://wajikan.com/note/donburi/もある。しかし、

「天保(1830~44)ころには『けんどん』という食べ物はなくなっていたが、天明(1781~89)の頃には、鼻紙袋という携帯用の入れ物の名称としてどんぶりという名が用いられた。さらに、胴巻とか腰掛けについているかくしも、どんぶりとよばれるようになった」

とあるので、「どんぶり」という言葉だけが、残ったとみている(たべもの語源辞典)。で、

「安房では、居(すえ)風呂のことを『どんぶり』というし、越中地方では財布のことをどんぶりといい、中国地方では130~40石積の商人船をどんぶりとよんでいたが、いずれもいれもの(容器)と関係がある」

とし(仝上)、どんぶり鉢が、口が広くて何でも入るから、袋や財布の名になり、風呂はドブンとはゐる音からきて、商人船も、入れるほうからきている(仝上)のではないか、とする。大言海も、「どんぶり」は、

居(すえ)風呂の称、

とし、

出雲にて、風呂屋をドンブリ屋と云ふ、

とする。この説の時代考証が正しいのなら、

けんどんぶりばち→どんぶり鉢→どんぶり、

の転訛が、

口が広くて何でも入るから、

という意味から、他のものにも名づけられた、ということになる。他方、袋の意の、「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2

等々とあり、「だんぶくろ」からきている「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは由来を異にするのではないか。

腹かけ.jpg

(腹掛け)


「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、
幕末、様式訓練のとき兵が用いたズボン。袴を改良したもので、幅が広く、ゆったりしている、

とある(仝上)。

段袋.jpg

(西洋式細袴。上衣を筒袖といったときに、下衣を段袋といった 日本大百科全書より)


江戸語大辞典は、

段袋を連想させるのでいう、

として、

上部は腰板の袴と同じく、下部は股引のように筒になったもの、

とし、守貞謾稿には、

「本名不詳、俗にだんぶくろ、或いはとびこみ袴など云、文久元年の頃、江戸新に講術所を建つ、此所へ出て習兵の士用之、同三年始之未だ正名備わらず、多くは舶来の紺ごろふくりんにて作之、云々」

とある。幕末のズボンの意の「だんぶくろ」は別にして、

だんぶくろ→どんぶり、

と結果として、

丼、

を当てはめたためややこしいが、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは別系統と考えるのが妥当に思える。しかし、

口が広くて何でも入る、

という意で、両者は、今日、ほぼ重なってしまったのではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月27日

どんぶり勘定


「どんぶり勘定」は、

予算を立てたり決算をしたりせず、手元にある金にまかせて支払いをすること、またそれに似た、大まかな会計、

の意とあり(広辞苑)、この「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」ではなく、「どんぶり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473755393.html?1582660985で触れた、

更紗・緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋の意、



職人などの着ける腹かけの前かくし、金などを入れた意、

からきている、とする。

「どんぶり烟草入りに落とし木綿、手拭長にもふきたらず」(耳袋)

の用例だけでは、いずれとも決めかねるが、大言海は、「どんぶり」の項で、

職人の腹掛の前に附けたるかくし。即ち、布帛もて、小長方形にて一方口なる袋を作り、金子、紙何となくいれおくもの、

の用例としているので、腹かけの「かくし」、つまりポケットを採っている。つまり、

職人の腹かけの隠しの別名を、何でも入れておくのでドンブリといいました。その丼+勘定が語源で、大雑把な金の出し入れをすることを言います、

とする(日本語源広辞典、語源由来辞典)のや、

昔の職人が前掛けの腹の部分についていたポケット(どんぶり)から金を出し入れしていたところからきた言葉、

とする(笑える国語辞典)のが、ひとつの考え方である。他方、

「丼」は江戸時代に、お金や小物を入れて懐に持ち歩いていた大きめの袋のことで、この袋にお金を入れて、無造作に出し入れしたことから「丼勘定」という言葉が生まれたとされる、

とする(由来・語源辞典)のが、もう一つの考え方である。

しかし、どんぶりhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473755393.html?1582660985で触れたように、この袋の意の「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2

等々とあり、「だんぶくろ」からきている。「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、

である。その袋から、

腹かけのかくし、

を、「どんぶり」と呼んだものと思われるが、「どんぶり勘定」の語感からすると、職人の腹かけの隠し、から無造作に出し入れするイメージの方があっている気がする。

腹掛けをつける大工.jpg

(腹掛けをつける大工。紐を背中でクロスしている。歌川国芳『東都三ツ又の図』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91より)

ちなみに、腹掛けは、

胸当て付きの短いエプロンのような形状で、背中部分は覆われておらず、紐を背中で交差させることによって体に密着させる。腹部には『どんぶり』と呼ばれる大きなポケットが付いており、腹掛けそのものをどんぶりと呼ぶこともある。古くは火消し、大工、商人などが着用していた。素肌の上にそのまま着用することもあれば、着物の上から着用することもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91が、

小児用と職人用がある、

とあり(江戸語大辞典)、

かみなりをまねて腹掛やつとさせ(明和二年)、

という句もある(柳多留)

子供用の腹掛け.jpg

(子供用の腹掛け。湖龍斎『犬にまたがる童子』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91より)

地域によって、

どんぶり、
寸胴、
前掛け、

等々の呼び名があり、子供用は、

正方形の布を斜めに使い、紐をつけて、首、腰の部分で結ぶようにした、

とある(仝上)。

松浦氏伝来の紅糸素懸威腹当.jpg

(松浦氏伝来の紅糸素懸威腹当 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%BD%93より)

腹当姿.jpg

(鎌倉時代『十界図』に描かれた腹当姿 図説日本甲冑武具事典より)


腹掛けは鎧の腹当と似た形状をしており、やはり背中で紐を交差させている。腹当は、

胸部と腹部を覆う胴鎧に小型の草摺を前と左右に3間垂らした形状で、着用者の胴体の前面及び側面腹部のみ保護する構造となっている。軽量で着脱は容易であるが、防御力は低い。のちに腹当の胴体を防御する部分が背部まで延長し、腹巻に発展していったと考えられている。鎌倉時代ごろに、主に下級兵卒用の鎧として発生したとみられ、室町時代の後半には軽武装として広く使われるようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%BD%93。腹掛けの出自は、腹当かもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年02月28日

どら焼


「どら焼」は、

銅鑼焼、

と当てたりする、

小麦粉・卵・砂糖を原料とした銅鑼形に焼いた皮二枚の間に粒餡を挟んだ和菓子、

のことである(広辞苑)。その形が「銅鑼」に似ていることから名付けられたが、 関西では奈良の三笠山に見立てて、

三笠、
三笠山、

とも呼ばれる(語源由来辞典)。

どら焼き.jpg



「どら焼」の由来には、

「文治三年(1187)源九郎義経が奥州へ逃れたとき、武蔵坊弁慶は手傷を負って、武蔵野の一民家で療養していたが、出立のさい銅鑼と手紙を残していった。その銅鑼で焼いたのが、『どら焼』の伝説的起源」

という俗説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。もちろん、この説は

「鎌倉時代に小豆餡が出来たと言われることから、1189年に死んだとされる武蔵坊弁慶との関わりは矛盾する」

とことわる(仝上)までもなく、伝説である。

饂飩粉を水にこねて、圓片とし、焼きて表裏二枚の中に餡を包みたるもの。銀つば(金鍔焼の類)の変なり。形を小さくしたるを金鍔と云ひ、四方を焼き、好き餡を用ゐたるを、ミメヨリと云ふ。見目り心の意ならむ、

と大言海にあり、これは、文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、ということを指す。

江戸語大辞典は、「どらやき」について、

初め金鍔と称したが、その称は後に銅鑼焼の小型のものに変わった、

とし、

きんつば焼どら焼のうへをゆき(安永四年(1774)「当世爰かしこ」)、

と載せる。というのも、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(たべもの語源辞典)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

なのである。このどら焼きは、

「皮を一枚だけ用い、端の部分を折りたたんだため四角く、片面の中央はあんこがむき出しであった」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D。まさに、現在のきんつばに似ている。

きんつば.jpg



嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔ト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と書いている(仝上、大言海)。助惣のどら焼は四角であったが、明治初年、日本橋大伝馬町の梅花亭の盛田清が、

丸型の新どら焼をつくった。銅鑼の形をした菓子で、餡に天ぷらの衣をつけるようにして皮を焼いた、

とある(仝上)。これは、

鶏卵に砂糖を加えてよくかき混ぜ、小麦粉に膨張剤を加えたものをふるい込んで、水でどろどろに溶き、種汁をつくる。この種汁を平鍋(ひらなべ)に円型にたらし、焼き目がついたら裏返して小豆(あずき)のつぶし餡(あん)をのせ、別に用意した同形の焼き皮をかぶせ(中略)、青えんどうのつぶし餡を用いるのが特徴

とある(日本大百科全書)。現在の「どら焼」は、

編笠焼、

という焼菓子で、上野黒門町に大正三年(1914)に開店した「うさぎや」が始祖である(たべもの語源辞典)。

「どら焼」が小さくなって、「きんつば」になったのか、「きんつば」が「どら焼」の元祖なのか、はっきりしないが、最初の「どら焼」が、薄い皮の、「きんつば」に紛らわしいものだったことは確かである。

現在の「きんつば(金鍔)」は、

寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる「角きんつば」であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:どら焼
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2020年02月29日

きんつば


「きんつば」は、

金鍔、

と当て、

鍍金(きんめっき)した鍔、
あるいは、
金で装飾した刀の鍔、

の意であるが、

近世、若衆、野郎の好んで用いたもので伊達とされた、

とある(広辞苑)。「野郎」については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/431378141.html。その金鍔の形状に似ているから名づけられた、

きんつば焼きの略称、

で、和菓子のひとつである。どら焼http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、「きんつば」が「どら焼」の元祖であるとも言われるし、逆に、「きんつば」がどら焼きに変じた、とも言われるように、どら焼きと深くつながる和菓子である。

きんつば.jpg



現在よく見られるのは、

「寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる『角きんつば』であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0ように、

日本刀のつばのように円く平らな円型、

である。「どら焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔トト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と(仝上、大言海)、

銅鑼の形に似たどら焼→小さくなって→金鐔、

と主張している(たべもの語源辞典)。しかし、「きんつば」には、元があり、

「天和・貞享年間(1681~88)にうるち米粉の皮で赤小豆の餡を包んで焼いたものが京都に現れた」

とある(たべもの語源辞典)。これが、

ぎんつば(銀鍔)、

であり、

後のきんつば(金鍔)の元祖、

とある(仝上)。「銀鍔」は、

銀でつくった刀の鍔、

である。「銀鍔焼」は、

粳米の粉を練って小豆餡を包み、油をひいた金属板の上で焼いたもの、

とある(広辞苑)。うるち米の粉というのが鍵で、後に、享保年間(1716~36)に江戸に移り、

「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由、

からhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0か、

あるいは、

銀貨主体の上方に対して金貨主体の江戸では銀より金ということになった、

からhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.htmlか、

銀鍔は周りに米の粉をまぶして焼いたので焼き色がつきにくかったことから銀鍔でしたが、江戸では小麦粉を水溶きにして、それをまぶして焼いたため、若干焦げ色がつき、金色にみえたこと、

からhttps://www.wagashi.or.jp/monogatari/shiru/yurai/か、

名前が「きんつば」に変わり、

皮が米粉から小麦粉、

に変わる(たべもの語源辞典)。

水でこねた小麦粉を薄く伸ばして小豆餡を包み、刀の鍔のように円く平たくし、油を引いた鉄板の上で焼いた、

とある(広辞苑)。文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、という。吉原土手付近や日本橋魚河岸付近に屋台店が出されて人気を博したと言われているが、

日本橋魚河岸(旧地)で屋台店で金鍔焼を売っていたのが、今の榮太楼の元祖、

とある(仝上)。

銅鑼焼と金鍔焼は似ており、

どら焼が時代がたつにつれて小さくなったものがきんつば、

という説があるのは、「どら焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、「どら焼」は、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(仝上)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

と呼ばれたからである。「きんつば」の名は、

刀の鍔に大きさが似ていた、

からで、当初の「どら焼」と、麩と小麦粉と素材は違うが、

四角にたたむ、

のは同じである。やはり、

銅鑼焼(麩の焼)、

の小さくなったものという見方はあり得るが、「どら焼」が素材と形を変えたように、「きんつば」は、形はともかく、大きさも、素材も変わり、別のものとして登場したと見た方がよさそうである。

さすが武士の子金鍔を食いたがり(柳多留)

と江戸川柳にあるhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.html、とか。

刀の鍔(つば)のように丸形に焼かれたものから、角形の六方焼ききんつばに変えたのは、本高砂屋らしく、そのホームページには、

本高砂屋が売り出すまでは、きんつばは丸形であった。そもそもは刀の鍔に似ていることから名前がついた菓子で、表面に指で押して模様をつけ、鍔に見立てたものだった。この江戸きんつばを、一度に多く焼けるように改良を加え、四角の高砂きんつばとして売り出したのが、創業者杉田太吉である、

とあるhttps://www.hontaka.jp/archives/story/08.html

角きんつば.jpg



なお、「きんつば」の祖型は、中国らしい。

「三輪山から発掘された唐菓子の模型に『つば』というのがあるが、これは刀の鍔である。刀の鍔の形の菓子をつくるというヒントは、唐菓子からということも考えられる」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:52| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする