2020年02月09日

物語


大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』を読む。

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本書は、

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

物語の饗宴、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』
白井喬二『第二の岩窟』
江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』
夢野久作『うやかしの鼓』
小栗虫太郎『完全犯罪』
貴司山治『舞踏会事件』
直木三十五『鍵屋の辻』
子母澤寛『名月記』
五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』
久世十蘭『母子象』
星新一『鍵』
小松左京『御先祖様万歳』
五木寛之『幻の女』
野坂昭如『浣腸とマリア』
水上勉『越後つついし親不知』
井上靖『姥捨』
由起しげ子『女の中の悪魔』

である。いわゆる「小説」としての面白さは、

由起しげ子『女の中の悪魔』

だが、

「物語」とは何か、

をわきまえているのは、

谷崎潤一郎『蘆刈』

である。

何かを語ることを語る、

という、

物語の構造、

をそのまま、現前化してみせている。

能、

の、

ワキ、

シテ、

という、

能の基本構造、

ワキの語りの中に登場するシテの語り、

を借りて、実に鮮やかに、

語るとは何か、

を、構造として、顕在化して見せた。『蘆刈』は、

君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき

まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。

と、こう始まる。大和物語の歌を、エピグラフのように掲げて、「わたし」の語りから始まる。まるで、ワキの語りのように始まり、中洲で観月のさなか、

「と、そのとき近くの葦の葉がざわざわとゆれるけはひがしたのでそのおとの方ほ振り向くと、そこに、やはり葦のあひだに、ちやうどわたしの影法師のやうに゜うづくまつてゐる男があつた」

と、男と出会い、その男の語る「お遊さん」の話が、主題である。そしてしゃべり終えて、、これからお遊さんを見に出かけるという。

「わたしはをかしなことをいふとおもつてでももうお遊さんは八十ちかいとしよりではないでせうかとたづねたのであるがただそよそよと風が葦の葉をわたるばかりで汀いちめんに生えてゐたあしも見えずそのをとこの影もいつのまにか月のひかりに溶けて入るやうにきえてしまつた」

と、「わたし」の語りは終わる。まさに、

生きている「ワキ」と、幽霊あるいは精霊である「シテ」の出会いから始まる、

「能」の物語そのものをなぞりながら、

物語の構造、

を示している。「わたし」は、

語り手、

でありながら、「男」の語る物語の、

聞き手、

でもある。そして、この「わたし」は、

物語空間の境目、

に立っている。この「わたし」の語りも、『蘆刈』では、物語の中に入っているので、『蘆刈』は、

語られる物語を語る物語、

となる。この「わたし」の位置を、物語の外に置くと、物語の外から語る語り手になる。通常の物語は、そうして、いきなり、その語り手が語る物語になる。しかし、たとえば、

『鍵屋の辻』

では、「語り手」は、当初物語空間に登場して、下僕に腰を打たれた荒木又右衛門の技倆について云々し、

……尤も芥川龍之介に云わせると、
 「そりゃ君、又右衛門きが棒だと知っていたから、撲らしておいたのだよ」
と説明するが、

といったことを語る。しかし、この場合、こういう語りのおかげで、作品全体が、今風にいう、

実録的、

な雰囲気を出すことに成功している。

…郡山には荒木の屋敷趾が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は寺町万福寺にあって、念仏寺の河合武右衛門の墓と隣同士になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている。

と終る。しかし、別に実録ではない。やはり「語られたもの」に過ぎない。ただ語り手がおのれの見解を語って見せているだけである。同じ構造は、

五味康祐『喪神』
司馬遼太郎『おお、大砲』

にもある。『喪神』は、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる。『おお、大砲』も、似ている。

 むかし、和州高取の植村藩に、ブリキトースという威力ある大砲が居た。居た、としか言いようのないほど、それは生きもののな扱いを、家中からうけていた。

この語り口は、語り手が、物語の中へ、出たり入ったり、自在に動く。それ自体が、語りの世界、つまり、

物語、

の中のことなのだが、読者には、作家がそう語っているかのような錯覚を与え、時に、事実であるかのように思わせる、一種、これ自体が、語りの世界なのである。そういう語り手の詐術というか、操作をせず、純粋に、物語世界そのものを描き出しているものとして、

由起しげ子『女の中の悪魔』

は、出色である。

 下りの特急の食堂は、昼食の時間をすこし過ぎたところで、適度に空いていた。
 四人がけのテーブルは、高村剛三と連れの二人で占領して、一人分の席があいている。

とはじまる物語は、終始一貫、物語の時空の外に語り手は立つ、という通常の物語の方法を堅持し、堅牢な物語世界を描き切っている。

谷崎潤一郎は、こう書いている、という(あとがき)。

「筋の面白さは、言ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築の美しさである。これに芸術的価値がないとはいへない。……凡そ文学に於いて構造的美観を多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまふのである。」(饒舌録)

と。

参考文献;
大岡昇平他編『物語の饗宴(全集現代文学の発見第16巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:41| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする