2020年03月21日

砂糖


「砂糖」の原料の一つ、サトウキビの原産地は現在のニューギニア周辺の島々だとされるが、「砂糖」は

インドが起源だとされ、英語名 Sugar は、サンスクリット語の Sarkara(砂粒の意味)が語源だとも云われ、それがインドで最初に作られたとする根拠となっています。ニューギニア原産のサトウキビが、いつ頃インドに伝わったかは、定かではありませんが、紀元前の古い仏典に砂糖(薬品として)に関する記述があるそうなので、かなり時代を遡ることは確かです、

とあるhttp://www.in-ava.com/satou.html。大言海の記述がおもしろい。

梵語sarkara(甘藷、沙糖、仏語sucre、独語Zucker、英語sugar、甘精saccharine)の首音を取りて、支那にて、庶と音訳し、味の甘きを以て、漢語の糖(あめ)の字を添へて、庶糖と熟語にしたる、梵漢雙擧の語なり(閩部疏に、飴蔗と見え、又、甘蔗(かんしや)と云ふ、共に、雙擧なり)。後に草なるに因りて、蔗とし、其形の、沙(すな)の如くなる意に寄せて、沙糖とし、又、沙の俗字なる、砂と記すなり、今習慣により、俗字を用ゐる、

と。本草和名(延喜)に、

沙糖、甘庶汁作之、唐、

とある。説文には、

唐、飴なり、

とあり、塵袋(弘安)には、

沙唐は、唐のあめ也、

とあり、本草綱目「沙糖」には、

笮甘蔗汁、煎成紫色、李時珍云、法出西域、唐太宗、始遣人傳其法入中国、

とある(大言海)。李時珍とは、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき「本草綱目」等々を著したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%99%82%E7%8F%8D。宋の陸游の「老学庵筆記」によると、中国でも古くは砂糖はなく、唐の太宗のとき外国から伝えられた、とある(日本語源大辞典)。

砂糖黍.jpg

(サトウキビ http://www.in-ava.com/satou.htmlより)


甘庶、
あるいは、
甘蔗、

は、

カンショ、
カンシャ、

と訓み、

さとうきび(砂糖黍)の漢名、

である。

砂糖は奈良時代に鑑真によって日本伝えられたとされている。鑑真東征傳には、

奈良朝、天平勝寶六年、唐僧鑑真、来朝す、其本國を發はする時、舶齎の數百品を載す、其中に蔗鎕等五百餘斤、甘蔗八十束(太宗より百余年後なり)、

とある(大言海)。

当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていたが、平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

日本国内で砂糖が作られるようになったのは、1453年沖縄の長嶺陵正によってからだと思われる。その後、「農業全書」(1696)、「和漢三才図絵」(1713)等により甘蔗の栽培と製糖法が紹介され、1727年には将軍吉宗により、琉球国から(平賀源内の「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)の記述では薩摩から)甘蔗苗が求められ、本州・九州で栽培・製糖がおこなわれるようになって、やがて民間へも普及するようになった、

という(日本語源大辞典)。この経緯は、「和三盆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html?1584646648でも触れたように、

金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために江戸時代の将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビをとりよせて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96。ちなみに、長嶺陵正は、

長嶺按司陵正、

といい、長嶺グスク(城跡)の案内によると、

尚金福王の時代(1450~53)に中国に渡り、砂糖製造法を習い受け、ハー帰国後龍気宇国内に製糖法を教え広めた、

とされたhttps://ja.monumen.to/spots/7447、という。

ところで、砂糖は製糖の過程によって、

糖蜜分を含む分蜜糖(ラニュー糖、上白糖等々)、

糖蜜分を分離した含蜜糖(黒砂糖、メープルシュガー、パームシュガー等々)、

に分けられる。日常使用されているのは、ほとんどが分蜜糖であるが、和三盆は、黒糖と共に、

含蜜糖に分類、

する説http://sanuki-hiyori.jugem.jp/?eid=6と、

分蜜糖に入れる、

説があるhttps://taberugo.net/1090が、和三盆の特徴は、

粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから淡く黄色がかった白さとなる、

ので、含蜜糖に入れるのが妥当に思えるが、微妙のようである。

砂糖の結晶.jpg



参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月22日

楊枝


「爪楊枝」は、

小楊枝(こようじ)、

ともいうが、「楊枝(ようし)」は漢語である。隋書(眞臘傳)に、

毎旦澡洗、以楊枝浄歯、讀誦経呪、又澡灑乃食、食罷還用楊枝浄歯、又讀誦経、

とあるように、「楊枝」は、奈良時代、仏教とともに伝来した、とされる。

仏教では、僧侶が常に身につけておくべきその第1に楊枝が出てきます、

とありhttp://www.cleardent.co.jp/siryou/index2.html

歯木、

と呼ばれ、

お釈迦様(紀元前500年頃)が、弟子たちにこの歯木で歯を清潔にすることを教えたのが始まり、

とされておりhttp://www.sanshu-ind.co.jp/youji-gogenn1.htm、もともと

仏家(ぶっか・ぶっけ)では浴室で身体を清浄にする七物の一つ、

とされており(岩波古語辞典)、

七つの物を用ゐるといふは…こまやかなる灰と楊枝と帷(かたびら)となり(三宝絵詞)、

とある(仝上)。で(日本語源大辞典)、

中国において楊柳(ようりゅう)でつくられたことからきている。この漢語が現物とともに日本に渡来し、そのまま「ようじ」と音読され普及した、

のである(日本大百科全書)。

平安時代中期の分類体辞典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にすでに楊枝の名称がみえ、……10世紀なかばに藤原師輔(もろすけ)が記した『九条殿遺誡(くじょうどのいかい)』には、子孫に与える訓戒として、毎朝楊枝を使えといっているので、少なくとも貴族社会には普及していた。大きさについて室町時代中期の辞書『嚢鈔(あいのうしょう)』は、「三寸(約9センチメートル)ヲ最小トシ、一尺二寸(約36センチメートル)ヲ最大トス」と記し、現在の妻楊枝よりもかなり長いものであった、

とある(仝上)。これは、

ヤナギの枝を細長く削り、先をとがらせたもの、

で、

本来は歯ブラシのように使用する、

もので、

楊柳の枝に呪術的な意味があり、病を治し、歯痛を止める効果があるとされたために、楊枝がつくられたと考えられる、

とある(日本語源大辞典)が、

鎮痛解熱剤としてもちいられる「アスピリン」という物質がヤナギ科の植物に含まれていることから、噛むことは虫歯の痛みにきく、

という説(語源由来辞典)もあり、もしそうなら、実用的でもあった。

庶民の間に普及したのは、江戸初期(1624~1704年)で、柳や黒文字の木の一端を木槌で叩き、針を並列した器具で梳いて繊維状にした、

総(ふさ)楊枝、
房楊枝、

が生まれhttps://www.dent-kng.or.jp/museum/ja/hanohaku02/た。房楊枝の考案は、京都の郊外の猿屋が商品として売り出した、とされる(仝上)。で、小さいものは、

小楊枝、
爪楊枝、

と呼び、歯磨き用と区別した。「つまようじ」を、

黒文字、

と呼ぶのは、黒文字の木で作られた楊枝を指して言ったからだが、柳の他、

杉、竹なども用いられたが、江戸時代には特に黒文字を皮をつけたまま楊枝としたものが貴ばれた。大きさも三寸から六寸以上のものもあり様々であったが、中世後期には尖端を削ってとがらせた小さなものが作られ、ふさ楊枝などの大きなものに対して爪楊枝、小楊枝と呼ばれることになった、

とある(日本語源大辞典)。なお、

使用後には折って使い捨てにしないと悪いことが起こる、

という俗信があったらしい(仝上)。

「爪楊枝」とあてている「つま」については、「つまようじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444901278.htmlで触れたことと重なるが、「つま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.html?1477684696で触れたように、

「端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ」

で、「端」は、

「物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ」

で、その意は、「つま(妻・夫)」を見ると解(げ)せる。

「結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意」

つまりは、「妻」も、「端」につながり、「つま(褄)」も、

「着物のツマ(端)の意」

「つま(端)」につながる、とする説と、もう一方、「つま(端)」は、

「詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意」

で(大言海)、「間」とは、

「家の柱と柱との中間(アヒダ)」

の意味がある。さらに、「つま(妻・夫)」も、

「連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ」

とあり(仝上)、さらに、「つま(褄)」も、

「二つ相対するものに云ふ。」

とし(仝上)、「つま(妻・夫)」の語意に同じ」とする説がある。これと関わる言葉に、

爪櫛(つまぐし)、

というのがあり、それは、

歯の目の細かい櫛、

の意だが、

ツマ(爪)は櫛の歯が密で、閒が迫っている意(古事記伝)、

という解釈もある(日本語源大辞典)。

つまり、「つま」には、

はし(端)説、

あいだ説、

があるのである。その意味で、「つまようじ」の「つま」を、「爪」としていいかどうかは疑問がある。

妻楊枝、

と当てているものもあるが、これも「つま」の由来から考えると、間違いではない。日本語源広辞典は、「つま」を、

説1は、『ツマ(物の一端)』が語源で、端、縁、軒端、の意です、
説2は、『ツレ(連)+マ(身)』で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、

と二説挙げるように、つまようじ」の「つま」が、

はし、

関係(間)、

と、「端」の意味に、(歯の)「間」という意味が陰翳のように付きまとっているという気がしてならない。どちらと決めない陰翳が、面白いのかもしれない。

房楊枝で歯を磨く女.jpg

(房楊枝を使って歯磨き 月岡芳年『風俗三十二相』 https://edo-g.com/blog/2016/01/tooth.htmlより)


ところで、最近の楊枝の、「こけし」様のものは、

つまようじは、もともとノコギリで切断して生産されていました。ところが、このような作り方だと精度が悪く、切断面が必ずざらざらした状態になってしまい、ケバだってしまいました。
そこで今度はグラインダー(砥石)で切断するようになりましたが、そうするとケバ立たなくなったものの、摩擦で黒く焦げてしまうようになりました。そこで、この黒い焦げ目を逆手に取り、ごまかすために、オマケのみぞをつけて「こけし」に見立てて装飾したのがそのはじまりだったようです。
切断のついでにミゾをつけるので、特別なコストはかからず、しかも綺麗に仕上がるため業者としては、都合がよく、以後日本のつまようじにはこけしが装飾されるようになりました。

とあるhttps://mag.japaaan.com/archives/94846

現代のつまようじ.jpg

(現代のつまようじ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%AA%E6%A5%8A%E6%9E%9Dより)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月23日

なます


「なます」は、

膾、
鱠、

と当てる。「膾」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。會とは「あわせるしるし+増の略体」の会意文字で、あわせて増やす意を含む。膾は「肉+音符會(カイ)」。會(会)と同系の言葉で、赤や白の肉を細く切り、それを彩りよく取り合わせた刺身、

の意であり、「さしみ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453881536.htmlで触れたように、「刺身」は、

「指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた」

のである(たべもの語源辞典)。倭名抄には、

鱠、奈萬須、細切肉也、

とある。

「膾」は、「生肉」で、「鱠」は、「魚肉」、

漢字の「膾」は、肉を細かく刻んであわせた刺身を表す字なので、「月(肉)」が用いられている。その後魚肉使うようになり、魚偏の「鱠」が用いられるようになった、

ということである(語源由来辞典)。万葉集に、

我れは死ぬべし大君に我れは仕(つか)へむ我が角は御笠(みかさ)のはやし我が耳は御墨(みすみ)の坩(つぼ)我が目らは真澄の鏡我が爪はみ弓の弓弭(ゆはず)我が毛らは御筆はやし我が皮は御箱の皮に我が肉(しし)は御膾(みなます)はやし我が肝も御膾(みなます)はやし我が眩(みげ)は御塩(みしお)のはやし老いたる奴(やつこ)我が身一つに七重(ななへ)花咲く八重(やへ)花咲くと、

と長歌(乞食者の詠)がありhttps://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/21e888f916a3b5e3bb97772b67e3a1b6、「みなますはやし」は、

御鱠料、

と当て、

魚介や動物の肉を薄く切り、塩でしめて食す料理、

を意味する。上記歌は、鹿の立場から「わが肉は御鱠はやしわが肝も御鱠はやし」と詠い、

鹿の様々な部位が天皇のために利用されることを喜び「大君にわれは仕へむ」と詠んでいて、禽獣にも奉仕される天皇を言祝ぐ内容となっている、

とあるhttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68905。「乞食者の詠」の「乞食者」とは、

寿詞を唱えて食物を請う芸能集団であるが、この歌は、宮中への鹿肉献上の際に詠われたかといわれる、

とある(仝上)。

今日、わが国で「なます」は、

大根・人参などを細かく切って酢で和えた食べ物、

を指すが、わが国だけの使い方のようである。広辞苑に、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、
薄く切った魚貝を酢に浸した食品、
大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などで和えた料理、

の意味が載るのは、わが国での「なます」の意味の変遷である。

野菜や果物だけで作ったものは「精進なます」と呼ばれ、魚介類を入れないことや、本来の漢字が「膾」であることから、「精進膾」と表記される、

とある(語源由来辞典)のは、「膾」の本来の意味から区別のためと思われる。初めは、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、

で、日本書紀・景行紀に、

白蛤(うむぎ)為膾而進之、

とあり、やがて魚の「なます」が多くつくられるようになり、

鱠、

が多く用いられるようになり、室町時代の「下学集」には、

膾は魚を調すること、

とある。さらに、

平安時代後期に魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わり、日本独自の発展を遂げていきます、

とありhttps://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-1511_06/?__ngt__=TT106662437005ac1e4ae86fHWmjI-luNTto7lmsW0WpJQ、その頃のなますは、煎り酒という日本酒に鰹節や梅干しを加えて煮詰めた調味料を用いて作られていた、(仝上)とある。

江戸時代まで「膾」は膳におけるメインディッシュとしての扱いを受けており、膳の中央より向こう側に置かれることから「向付」(むこうづけ)と呼ばれるようになった、

ともある(仝上)。これは、

なますが元々は魚肉を使用して作られていたことが背景にあるため、

だったからといわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BE。長く「鱠」と当てたが、

精進なます、

のときには、

膾、

の字を用いるようになった(たべもの語源辞典)、ともある。

紅白なます.jpg

(紅白なます https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BEより)


大言海は、

生切(なますき)の略か、

とするが、これまでの経緯をみると、

肉は「しし」とよむ。生肉を細かに切ったものが、なますなので、ナマシシとよんだ。生肉をナマシシ(生宍、宍(しし)肉の古字)ともいった。このナマシシがナマスになった、

とする(たべもの語源辞典)が妥当に思われる。

ナマシ(生肉)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ナマは生、スはシ(肉)の転(小学館古語大辞典)、

も同趣である。

ナマス(生酢)の義(日本語源広辞典・東雅・和語私臆鈔・和訓栞)、

という説は、

酢を用いるようになったのは室町時代である。鱠の字は平安時代から盛んに用いられており、後付けということになる。

「それにしても、「なます」をめぐる諺は多い。たとえば、

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、
人口に膾炙(かいしゃ)する、
膾に斬る、
膾に叩く、

等々。

なお、「あつもの」については、「羊羹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.htmlで触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月24日

あらい


「あらい」は、

洗い、

と当てる。

洗い膾、

のことである。「膾」は、「なます」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.html?1584905399で触れたように、

ナマシシ(生肉)、

の意で、古くは

生魚の肉を細かく切ったもの、

を膾(なます)と呼んでいた(たべもの語源辞典)からである。「洗い」と当てるのは、

コイ、フナなどの川魚、スズキ、ヒラメ、鯛、アジなど白身の魚等々

を下ろし、

そぎづくりや糸つくりなど薄切りにし、流水やぬるま湯で身の脂肪分や臭みを洗い流した後、冷水(氷水)にさらし漬けて身を引き締めて(身は、縮まり、ちりりと「はぜる」。)から水気を切って提供する、

からであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E3%81%84。カニの刺身をさっと湯引きしたものを洗いと呼ぶ地方もある(仝上)、とか。

鯉の洗い.jpg


洗鱸(あらいすずき)、
洗鯉、

等々といい、「洗鱸」には、

古酒に醤油、鰹節、塩などを加えて煮詰めた煎酒と称する酒を添える、

とある(たべもの語源辞典)。

氷塊を添えて供する、

ので、夏の料理として喜ばれる(たべもの語源辞典)。タイ、スズキ・コイの他、

フッコ、クロダイ・コチ・ボラ、

等々が使われ、

つまには、青ジソの葉を刻んだもの、穂ジソなどを添え、ワサビ醤油で食べる、

とあり、淡水魚には、酢味噌か芥子酢味噌がよい、

とある(たべもの語源辞典)。

ところで「あらう」に当てた、「洗」(セン、漢音セイ、呉音サイ)は、

会意兼形声。先は「足+人」の会意文字で、人間の足先を示す。跣(セン はだしの爪先)の原字で、指の間に細い隙間が空いて離れている意を含む。洗は「水+音符洗」で、細い隙間に水を通すこと、

とあり(漢字源)、「あらう」というよりは、「すすぐ」という含意があるが、「洗濯」の「濯」(漢音タク、呉音ダク)は、

会意兼形声。翟(テキ)は「羽+隹(とり)」の会意文字で、キジが尾羽を高く抜きたてたさま。濯はそれを音符とし、水を加えた字で、水中につけた物をさっと抜きあげてあらうこと、

で、「あらう」意だが、じゃぶじゃぶとあらう、という含意になる。「あらい」に、「洗」を当てたのは頷ける。

「あらふ」について、大言海は、

新(あら)を活用せしむ(荒(ありら)、あらぶ)。新たにする義(浚ふも、更にする義ならむ)。或は、和訓栞に、拂ふと音義通是りと云ふ(頒(あが)つ、はがつ。溢る、はふる)、汚れを除き去る義となるか、

とする。日本語源広辞典も、

アラ(更・新)+う、

と、似た説を立てる。意味的には、あっているが、理が先立つときは、往々にして、後付け解釈の気がして、ちょっと納得しがたい。「あら」は、

生(あ)るの名詞形、アレの転(曝(さ)れぼふ、さらばふ。荒らぶ、あれぶ。賓客(まれびと)、まらびと)、新たと云ふ語も、生立(あれたち)なるべし、生まれ出でたる意、

とあり、「生(あ)る」は、

生(な)るに通ずと云ふ(豈(あに)、何(なに)。などか、あどか)、新たに生(な)る意、

と(大言海)、理屈はますます合うのだが、他は、

ハラフ(払)から(和訓栞、和句解、日本語原学=林甕臣)、

と、「払う」とする説だから、確かに、「更・新」説が、とは思えるのだが。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:あらい 洗い
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2020年03月25日

痛し痒し


「痛し痒し」は、

掻けば痛いし、掻かねば痒いしの意、

で、

片方を立てれば、他方に差しさわりが生ずる状態で、どうしたらいいか迷うときにいう、

とあり、

どのようにしても、結局自分に具合の悪い結果になる、

とある(広辞苑)。ジレンマを言い表す似た言い方に、

頭押さえりゃ尻上がる、
あちらを立てればこちらが立たず、
彼方を祝えば此方の怨み、
彼方に良ければ此方の怨み、
出船に良い風は入船に悪い、
河豚は食いたし命は惜しし、
右を踏めば左があがる、
両方立てれば身が立たぬ、

等々あるが、いずれも、決断を迷っている状態を指しているが、

痛し痒し、

のもつ、

どっちをとっても不都合さの含意はなく、むしろ、強いて言うなら、

前門の虎閘門の狼、

の方が似ているのではないか、という気がする。

痛し痒しの痘瘡、

という言い方もあるらしいhttp://kotowaza-allguide.com/i/itashikayushi.htmlが、この語意の通りとすると、リアルすぎる。

痛し痒しも瘡にこそよれ、

という言い方は、

痛し痒しと迷っていられるのも、そのできものの程度によるのであって、本当にひどいときは苦痛のためにその余裕はない。どうしていいか判断に迷うときは、時と場合による。危急の差異まで優柔不断というわけにはいかない、

と、「痛し痒し」の反対の意味になる。

痛くも痒くもない、

となると、

痛痒を感じない、

つまり、

少しも感じない、

意になる。

痛いところを衝く、

というと、

相手の弱点を捕えて攻める、

意になり、

痒いところへ手が届く、

となると、

細かな点にまで行き届く、

意になる。

隔靴掻痒、

は、

靴の上から足の痒いところを掻くように、はがゆい、もどかしい、

意味になる。

「痛い」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454441352.htmlについては、触れたが、

甚い,

とも当て、大言海は,「いたし」を,

痛,

を当てる項と,

甚(痛・切),

を当てる項とを区別し,後者については,

(前者の)転意,事情の甚だしきなり,字彙補「痛,甚也,漢書,食貨志,市場痛騰躍」(痛快,痛飲)、

としている。前者については,

至るの語根を活用せしむ(涼む,すずし。憎む,にくし)。切に肉身に感ずる意。…身に痛む感じありて,悩まし(痒しに対す)、

とある。しかし,日本語源広辞典は,

イタイ(程度が甚だしい)、

が語源とし,激しい程度の意を先とする。日本語源大辞典も,

「痛むと同根の,程度の甚だしさを意味するイタから派生した形容詞、

とする。とすると,必ずしも,痛みを指していたのではなく,

ひどい,
はげしい,
はなはだしい,

という状態を指していた状態表現から,「傷み」や「悼み」という感情表現(価値表現)が分化してきた,ということになる。岩波古語辞典の「いた」では,

極限・頂点の意。イタシ(致)・イタリ(至)・イタダキ(頂)と同根。イト(甚・全)はこれの母音交替形、

とあり,どうやら,大言海の「至る」とも重なることになる。

「痒い」は、大言海は、

掻かま欲しき意の語、

とする。日本語源広辞典も、

カ(痒)+ユシ(形容詞化)です。皮膚を掻きたい気持ちの表現、

と、ほぼ同趣旨である。

カキユユシ(掻忌々)の義(言元梯)、
掻ユスル(和訓栞)、
カキユルシキ(掻動如)の義(名言通)、

等々、多く「掻く」とつなげている。まさに、

痛し痒し、

なのである。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月26日

落首


「落首」は、

らくしゅ、

と訓むが、

おちくび、

とも訓ますらしい(デジタル大辞泉)。「落書」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437464845.htmlで触れた、

落書(らくしょ)、

の一種で、

一首、

の意で、

諷刺、嘲弄、批判の意をこめたむ匿名の戯歌、政道批判の手段としてしばしば行われた、

とある(広辞苑)。たとえば、

花よりも団子の京とぞなりにける 今日もいしいし明日もいしいし(醒睡笑)、

は、永禄十二(1569)年二月、織田信長は将軍となった足利義昭の新御所(室町邸)の築造を開始、京都の町衆をその石垣普請に徴発し、巨石の藤戸石を義昭邸に数日間かけて運ばせた。これはその際、毎日石を引きずって運ぶ音がうるさかったことから、あるいたずら者が書いた落首という。「いしいし」とは女房言葉で「団子」を意味する、

とあるhttp://www.m-network.com/sengoku/uta/uta01.html。江戸時代なら、これは狂歌だが、

白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼戀しき、

がある。白河とは寛政の改革を主導した松平定信を指し、田沼意次の時代を懐かしんでいる。

「落首」は、

ラクショ(落書)の訛か、
落書の一首の意、

の二説がある(大言海)が、「落書」という言葉があり、あえて、

落首、

という以上、

詩歌の形式によるものは,とくに〈落首(らくしゆ)〉といいならわしてきている、

ともある(世界大百科事典)ので、

ラク(落書)+シュ(短歌)、

と見ていいのではないかと思う。「落書」は、

落文(おとしぶみ)、

とも言い、というより、

「おとしぶみ」の漢字表記「落書」を音読したもの、

であり(精選版日本国語大辞典)、「おとしぶみ」は、

現(あらは)に言い難き事を、誰が仕業としられぬやふに、文書にして、路などに遺(のこ)しおく、

とある(大言海)ので、「落書」は文章、「落首」は詩歌、と言えそうだが、「落書」自体に、

時事や人事などを批評・諷刺あるいは告発する匿名の詩歌や文書、

とある(岩波古語辞典)ので、「落首」は、「落書」の範疇に入るのだろう。

「落首」は、

平安時代から江戸時代にかけて流行した表現手法の一つである、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%A6%96

公共の場所、特に人の集まりやすい辻や河原などに立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開する。封建制度においては言論の自由というものは存在せず、政治や君主に対する批判は極めて危険性の高い行為だったが、匿名での公開によって、読み書きができる者なら誰でも自由に言論活動を展開することができた、

とある(仝上)。

歌川国芳の『荷宝蔵壁のむだ書き(にたからぐら かべのむだがき)』.jpg

(歌川国芳の『荷宝蔵壁のむだ書き(にたからぐら かべのむだがき)』 https://usakameart.syuzyu.com/entry/2019/09/23/184517より)


「落書」は、

らくしょ、

と訓むが、

らくがき、

と訓むと、

楽書、

とも当てる、

壁・塀などにするいたずら書き、

の意に取ることが多い。

落書(らくしょ)を文字読して、意を轉ず、

とある(大言海)ように、「落書(らくしょ)」とは異なり、

嘲弄、罵詈の語、又は畫などを書き散らす、

意が強い。「落書」は、歴史的には以下のように二つの意味をもつ、とある(日本大百科全書)。ひとつは、

養老律(ようろうりつ)の編目の一つである「闘訟律(とうしょうりつ)」に「匿名の書を投げて罪人を告発する者は徒(ず)二年」とあるように、落書は本来犯罪人を告発する投書をさすものであった。平安から室町時代にかけての寺社では、犯罪者を決める無記名投票が制度化しており、とくにそのなかで起請(きしょう)の形式をとったものを落書起請といった、

とあり、いまひとつは、

時局の風刺や権力者を批判、嘲笑(ちょうしょう)した匿名の文章や詩歌。……衆人の注目しやすい場所での貼(は)り紙、捨て文、投書によって、間接的に人々に噂(うわさ)を流布させることをねらったもので、政治の動揺期に数多くみられ、公然と政治を批判することのできない民衆の憤りの発露としてつくられた、

ものを指す(仝上)。この嚆矢は、

平安時代の初期には既に貴族階級の間で既に広まっており、確執のある官僚同士の昇任や栄転をめぐる政争道具として用いられていた。9世紀ごろの嵯峨天皇の時代の落書「無悪善」は小野篁が「悪(さが=嵯峨天皇)無くば善(よ=世)かなりまし」と解読したことで世間一般に知られる事となった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E6%9B%B8、これを、

匿名の投書で他人の罪状を告発するシステムとしても機能、

させ、

中世以降の荘園支配・管理に積極的に落書が活用されるようになり、領内犯罪者の摘発に大きな効果をあげた。鎌倉時代に入るとこのシステムは次第に制度化され、虚偽の無いことを神仏に誓わせる「落書起請」とあわせて強制的に実施されるようになった、

ものらしい(仝上)。

1310年、法隆寺で盗難事件が発生した際には、付近の17もの村を対象に落書を実施。その結果、600余通もの落書が集まり、最終的に2名の僧侶が盗人と決定した。いわば犯人を決める住民投票である。寺側は、この落書を非難し、2人の僧に犯人を捜させた結果、後に真犯人を捕まえた、

とある(仝上)。

「落書」で有名なのは、建武の新政当時の混沌とした世相を風刺した、「二条河原(にじょうがわら)の落書」で、

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)

とはじまり、88節にわたる長文である。歴史の教科書にも載るが、専門家の間でも、

最高傑作と評価される落書の一つ、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8らしい。

今日でいうと、「落書き」とされるのかもしれないが、正体不明の覆面アーティスト、バクシーであろうか。

バクシー.jpg

(バクシー https://media.thisisgallery.com/20188939より)


彼が残す作品には、反資本主義・反権力など社会風刺的なメッセージや強い願いが込められ、見る人々を魅了すると同時に、私たちの生活に警鐘を鳴らしいています、

とあるhttps://media.thisisgallery.com/20188939。「落書」の系譜である。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:落首 落書
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2020年03月27日

政治と文学


大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』を読む。

政治と文学.jpg


現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

政治と文学、

と題された巻である。収録されているのは、

中野重治『五勺の酒』
武田泰淳『審判』
野間宏『顔の中の赤い月』
椎名麟三『深尾正治の手記』
田中英光『地下室から』
井上光晴『書かれざる一章』
佐多稲子『夜の記憶』
倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』
本多秋五『芸術・歴史・人間』
荒正人『原子核エネルギー(火)』
林達夫『反語的精神』
平野謙『政治と文学』『「政治の優位性」とはなにか』
福田恆存『一匹と九十九匹と』
中野重治『批評の人間性』
竹内好『日本共産党批判』
小林秀雄『政治と文学』
伊藤整『組織と人間』
埴谷雄高『政治の中の死』
奥野健男『「政治と文学」理論の破綻』
針生一郎『「革命運動の革命的批判」の問題点』
佐多稲子『松川無罪確定の後』
高橋和己『政治と文学』

である。戦後の様々な局面で論争されてきた「政治と文学」だが、今日、文学作品として、読むに堪えうるのは、

倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』

のみである。『パルタイ』は、非常に意識的に抽象化された視点、言い変えると、遠くから眺めているために、一種、

パロディ、

であるが、「証言として文学」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.htmlで触れた、長谷川四郎『シベリヤ物語』と似た手法である。そこで、

独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている、

と書いたことが、ここでも当てはまる。その距離が、感情をも、漉す。

真継伸彦『石こそ語れ』

は、どちらかというと、私小説の流れの書き方の多い「プロレタリア文学」系の作品に対して、意識的な方法、

死につつある転向者、

に視点を置いた、その、

独自の方法、

がよい。多少作為的なところは、やむを得ないが、文学とは、

何を書くかではなく、どう書くか、

であるという見本のような作品である。

他の作品は、その時代背景抜き去ると、文学作品として、ほとんど読むに堪えない。

本巻は、「政治と文学」と題しただけに、評論が多いが、政治の季節の時代、右も左も、ほとんど作品として、大したものがなかった、ということだろう。井上光晴は、

どう描くか、

を獲得して以降、『ガダルカナル戦詩集』『虚構のクレーン』『死者の時』『地の群れ』等々で、おのれを示した。むしろ党派性にかかずらう以上に、政治と直面しているし、あるいは戦時下発禁を食った、石川淳「マルスの歌」こそが、本巻に納められるにふさわしいと思う。

「政治と文学」は、何も、マルクス主義文学運動、だけではないはずである。戦時下、軍部のお先棒を担いだ文学者たちの作品だってあるはずである。それはちょうど裏表の関係なのだ。たとえば、

作家同盟解散後、党の政策の下請け機関と化した芸術運動に愛想づかしをし、作家の実践は創作以外にないと叫んだ徳永直、林房雄、森山啓らは、やがて革命運動そのものからはみだして、支配機構の網の目に期辛味取られていったのである(「革命運動の革命的批判」の問題点)。

確かに、高橋和己の言うとおり、

「私自身も、文学の自律性というものに関する過大な幻想はもたないほうがいいと考えている。権力というものは、虱をおしつぶすように人間をおしつぶすことぐらい朝飯前にできるものであり、文学者の精神を鞭と牢獄、あるいは幣束ではりとばして、ねじまげることぐらいは残念ながら簡単にできることである。ちょっと節操を守ることすら、どんなに恐ろしい犠牲を覚悟せねばならないかということに無智な、大義名分論を、私はあまり信用しない。

その通りである。しかし、ここでは、

文学者の仕事、

文学の仕事、

がごちゃごちゃになっていないか。文学者は押しつぶされるかもしれないが、文学は押しつぶされない。文学は、虚構の世界である。政治的圧迫があっても、「マルスの歌」発禁後、「一休咄」「曽呂利咄」等々の世界に進んだ石川淳がいい例だ。林達夫が言うように、

思想家の今後にのこされた道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはない……、

のである。それを、

コンフォルミスム・デギゼ(仮想せる順応主義)、

と、林は名づける。戦時下、

哲学には、今や隠退するか、討死するか、でなければ何らかの形のコンフォルミスムの道に歩み入るか―この三つの途しかのこされていません、

が、

思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう。あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変わりなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。もちろんそのような英雄主義を、私はいちがいに貶そうとするものではない。ただそれは私の好みではなく、また思想闘争には個性の数だけ先方があるということである。

と(反語的精神)。それをするのは、現実の文学者である。そこで、文学の仕事として、

どう書くか、

が問われてくる。

参考文献;
大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』(學藝書林)

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2020年03月28日

ラッキョウ


「ラッキョウ」は、

辣韮、
薤、
辣韭、

等々と当てる。別名、

オオニラ、
オオミラ、
サトニラ、
ヤマムラサキ、
タマムラサキ、

とある(たべもの語源辞典)。古く、「薤」を、オオニラ、「韮」をコニラと称したが、オオニラはラッキョウ、コニラはニラである、とある(仝上)。漢名は、

火葱(かそう)、
菜芝(さしい)、
白華、
守宅、
家芝、
白薤(はくきょ)、
葷菜(ぐんさい)、
鴻薈(こうかい)、

等々とある(仝上)。

ニンニク、
ネギ、
ヒル、
ニラ、

と共に、

五葷(くん)のひとつとされる(仝上)。「葷(クン)」(「艸+音符軍(なかにこもる、むれる)」)は、

ねぎ、にら、などにおいの強い菜、また味の辛い菜、

の意味である。

ユリ科ネギ属の多年草。中国、ヒマラヤ地方の原産。白色または紫色を帯びた白色の鱗茎を食用とする。中国で紀元前3世紀以前から栽培され、日本へは9世紀までには中国から伝来し、ナメミラ、オホミラなどとよばれ、古くは薬用に、江戸時代ころには野菜として全国的に普及した。

とある(日本大百科全書)。「ラッキョウ」の名は、

中国名の一つ辣韮(らっきゅう)に由来するが、平安時代はニラ(美良(みら))に対応して於保美良(おほみら)(大ニラ)とよばれた。ニンニク、ニラ、ネギ、ショウガとともに五葷(くん)の一つとされ、禅寺では「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と、持ち込みを嫌った、

とある(仝上)。

ラッキョウ.jpg


辣韮、
薤、
辣韭、

と「ラッキョウ」に当てる、「辣」(漢音ラツ、呉音ラチ)は、

会意兼形声。「辛+音符刺(ラツ さすようにいたむ)の略体、

で(漢字源)、「ぴりりとからい」意。「韮(韭)」(キュウ)は、

象形。地上に、にらが生え出た姿を描いたもの、

とある(仝上)。「にら」の意である。「薤」(漢音カイ、呉音ゲ)は、

会意文字。「艸+歹(死人の骨)+韮(にら)」、

で(仝上)、「にら」の意だが、「らっきょう」の意である。で、中国語、

辣韮(韭)、

の音、

ラッキュウの転、

が、

ラッキョウ、

である(大言海)。

ラッキョウの花.jpg


鱗茎(りんけい)は狭卵形で、葉を束生する。葉は細長く約20センチメートル、断面が五角である。秋に葉の枯れた鱗茎から50センチメートル余りの花茎を出し、先端に美しい紫色の小花を球状につける。しかし種子はできない。古い鱗茎には数個の新しい鱗茎ができて繁殖する。冬を越して初夏に鱗茎が成熟して休眠に入るので、このころに掘り上げて収穫する、

とある(日本大百科全書)が、秋咲く紫小花は。ニラ(韮)より大きい、とある(大言海)、たべもの語源辞典)。ニラについてはすでに触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/461598032.html

タマムラサキ、
ヤマムラサキ、

の名は、この花からきている(たべもの語源辞典)。

ニラの花.jpg



ラッキョウは品種が少なく、

ラクダ、

八ツ房、

の二種しかなく、新品種の、

玉ラッキョウ、

が花ラッキョウ(両端(ハナ)を切るからそう呼ぶ)の原料になる(仝上)、らしい。ちなみに、

ギョウジャニンニク、

と呼ばれるものは、

深山に生えるものを修行中の行者が食用にすることで名づけられたが、ラッキョウとは別物で、漢名は、

茖葱、

とある(仝上)。

ギョウジャニンニク.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月29日

利休煮


「利休煮」の「利休」は、千利休を指すが、利休が作ったものではない。「利久煮」の他にも、

利休蒸、
利休焼、
利休和、
利休蒲鉾、
利休善哉、
利休煎餅、
利休醤(びしお)、

等々利休の名の付くものは多いが、利休考案のものはひとつもない(たべもの語源辞典)、らしい。

茄子の利休煮.jpg

(茄子の利休煮 https://oceans-nadia.com/user/17/recipe/1716より)


「利休煮」は、

魚貝を醤油・味醂・砂糖味で煮詰め、白ごまを煎ったものを振りつけたもの、

とある(仝上)。

利休焼、
利休和、

なども胡麻を用い、

料理法で利休の名の付くものは、胡麻を使ったものが多い、

ともある(仝上)。で、

利休煮、

は、胡麻を加えたから名づけられた、と見られている。

「利休好みだろうとか、利休にふさわしかろうということで利休の名をつけたものである。初めは利休なら喜ぶだろうと考えてつけた利休煮が、胡麻を使ったものを利休焼、利休蒲鉾などと呼び始めると、利休とは胡麻のことだというようなことになり、胡麻を使えば利休となづけられるようになった」

とあり(仝上)、それは、

千利休が取り入れた精進料理には胡麻豆腐、胡麻和えなど、胡麻を使ったものが多いことから(利休の死後)、利休が愛したであろう料理として、「利休」の名がつけられた、

と考えられるhttps://www.shinsei-ip.ne.jp/rikyu/concept.html、ともある。

だから、和食用語では、

利休、

を使わず、

利久、

を使い、

通常はゴマを使った料理の名称、

https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html

ごま煮、
南部煮、

ともいう(世界の料理がわかる辞典)、とある。これは、

南部せんべいで知られる南部地方(南部氏の旧領地である岩手県と青森県にまたがる地域)が胡麻の産地であることから名がつけられています、

とあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/rikyuuni-gogen-yurai/

なお、「ごま」については、「ごまをする」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464781102.htmlで触れた。

利休ではなく「利久」と表記するのは、

休の文字が商売を行う人々にとって忌み言葉だからだと云われる、

とある。「利休」にあやかったのだろうが、後世の人々が「利休好み」として考案したものが殆どで、

「利久煮」や「利久焼き」「利久玉子」のほか、汁の「利久仕立て」、ゴマ(又は揚げ油が胡麻)衣の「利久揚げ」、切り胡麻を振って蒸す「利久蒸し」、菓子では「利久まんじゅう」など、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな「利久切り」という切り方もあれば、懐石箸の名称も「利久箸」という。

とある(仝上)。「利休好み(ごのみ)」とは、

利休の好んだ作法・道具・色彩、利休箸・利休鼠の類、

とあり(広辞苑)、広く、

茶人風、

を指す。「利久焼(りきゅうやき)」は、

材料に胡麻(ごま)をまぶしつけた焼き物や仕上げに練りごまを塗ってあぶる料理の名称、

であるhttps://kondate.oisiiryouri.com/japanese-food-rikyuuyaki/

この他、「利休」の名の付くものには、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな

利久切り、

という切り方もあれば、懐石箸の名称も、

利久箸、

というhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html。「利休箸」は、

杉で作った、両端を細く削った箸。千利休が用いたのでこの名があるとされる。利休は客を招く日の朝に自ら杉材の箸の両端を細く削り出してその芳香をもてなしとしたと伝えられる。懐石に用いるが、一般にあらたまったもてなしや祝儀の膳にも用いる。元来は杉材のものをいった

とある(食器・調理器具がわかる辞典について)。一応、

千利休考案、

とされ、

中央部をやや太く、割れ目に溝を加工して、両端を細かく削り、面を取った”中平両細”の両口箸、

が特徴で、

八寸利久箸(21cm)、
九寸利久箸(24cm)、

があるhttp://web1.kcn.jp/hasikumi/syurui.html、とか。

杉 利 久 箸 (すぎりきゅうばし).jpg

(杉利休箸 http://web1.kcn.jp/hasikumi/syurui.htmlより)

「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlについては前に触れた。

この他、色彩にも、江戸時代に考えられた、

利休色、
利休鼠、
利休茶、

というのがあり、それぞれの色は文献によって多少のばらつきがある、

利休色…灰みを帯びた黄緑色(抹茶色よりも彩度の低い渋い色)
利休茶…やや緑みを帯びた茶色
利休鼠…やや緑みを帯びた灰色

とされるが、それぞれの説明は、バラバラで、利休色(りきゅういろ)は、

緑色を帯びた灰色(広辞苑)、
緑みのある茶色https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm
緑みの茶色(色名がわかる辞典)、
黒みがかった緑色(デジタル大辞泉)、
暗い灰緑色(大辞林)、
緑色を帯びた灰色(日本国語大辞典精選版)、

等々と色々であるが、今は、たとえば、

Webカラー値・#8F8667
RGB・143 / 134 / 103

などと決まっている。

「利休鼠」は、色としては、

りきゅうねず、

というらしいが、これも、

利休色の鼠色を帯びたもの(広辞苑)、
緑みを帯びた鼠色https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm
緑みの灰色(色名がわかる辞典)、
利休色といわれる灰色がかった黄緑色に、鼠色が加わったもの(日本大百科全書)、

等々と説明されるが、現在は、たとえば、

Webカラー値・#888E7E、RGB・136, 142, 126、

などと決められている。

利休鼠.png

(利休鼠 https://www.i-iro.com/dic/rikyunezuより)


この「利休鼠」は、北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」で、

雨はふるふる城ヶ島の磯に
利休鼠の雨がふる

で歌われている。

「利休茶」も、

利休色の茶がかったもの(広辞苑)、
色あせた挽き茶のような緑がかった薄茶色https://irocore.com/rikyucha/

等々と説明されるが、

Webカラー値・#98906e、RGB・152、144、110、

と決められている。

利休茶(りきゅうちゃ).png

(利休茶 https://www.i-iro.com/dic/rikyuchaより)


また、「利休下駄」というものもあるが、

日和下駄の一種で、木地のままで薄い歯を入れたもの、

とある(広辞苑)が、「雪駄」も、

千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A7%84、利休の名はつかないが、利休ゆかりである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月30日

菓子


「菓子」は、

木の実・果物の意、

であり(岩波古語辞典)、「菓」(カ)は、

会意兼形声。「艸+音符果(丸い木の実)」

で、「果」と同義。食料とされる果物、木の実の意である。「おかし」の意味で使うのは、わが国だけである。

「菓子」は、

木菓子、

ともいった(日本食生活史)。

古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

平安期になると、広く、

間食の品、

を、

くだもの、

とよんだ(仝上)。今日の意味の菓子は、

唐菓子(からかし)、
唐菓(果)子(からくだもの)

とよんだ(仝上)、とある。

奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかとも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90

「木菓子」と呼ばれたものは、

橘・柚子・搗(カチ)栗・扁栗・焼栗・削栗・干柿・熟柿・梨・梅・李・石榴・枇杷・唐桃・蜜瓜(アマウリ すいす・まくわうり)・覆盆子(イチゴ)・棗・椎・杼(トチ)・柏の実・松の実・枝豆・芋・蓮・蒟蒻、

等々があり(仝上)、平安期、木菓子は、

「病人が食欲がなくなったときには、蜜柑の一種である柑子(こうじ)さえもたべられなくなったとたとえられるほど好まれた」

と、源氏物語にも、

「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたう くづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたることと、泣き嘆く人びと多かり。

とある(薄雲)。

初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、現代の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

記紀には、

垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされている、

とある(仝上)。「唐菓子」は、古く、

文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2が、それより古く、

古墳時代末期の古墳から高坏(たかつき)に盛られた唐菓子を模った(かたどった)土製品が出土している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90。この果実・木の実とその加工品を、

くだもの(果子・菓子)

と記述していたことが、嗜好品を菓子と記述する由来になった、と思われる(仝上)。

「唐菓子」は、はじめは、植物の菓子に似せて、

糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、

らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、

八種唐菓子(やくさからがし)、

と呼ばれ、

これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。これらは日常的に作られていなかったようで、製法が詳細に記述された文献がある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90。なお、団喜は、

歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、

ともいい、

現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、

とある(仝上)。

清浄歓喜団.jpg



ちなみに、アマヅラ(甘葛)は、甘味料のひとつである。

一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9。このことは、

「甘茶」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473914947.html

で触れた。この他に、

餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。

室町時代になると、公家や僧侶が今日の昼食に当たる中間食を取るようになる。かれらは、この間食品を、

点心、
茶子(ちゃのこ)、
菓子、

にわけた(日本食生活史)、という。

「点心」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90についてはすでに触れたが、輕空腹をみたすためのもので、食べる方に重点が置かれ、「尺素往来(せきそおうらい)」には、

点心の菜を数多くすることを元弘様と称して、当世では物笑いである、

と指摘しているとかで(仝上)、元弘(1331~33)年間から、点心が流行していたらしい。点心として好まれたのは、

羊羹、
饅頭、
麺類、
豆腐、

等々であるが、いずれも精進物である。饅頭の食べ方について、

饅頭の食やう。一つ取て押しわりて、なから(中央)をば、残たる饅頭の上に置き、なからを食ふべし。さて残たるを食いたくば食ふべし。苦しからず候。年寄たる人は、丸ながらも食ふべし、

とある(宗五大草紙)とか(仝上)。

「茶子」は、

茶請、

で、唐菓子ではなく、点心の後に食べる淡白な量の少ないものを指し、喫茶に重きを置いた。前述の「尺素往来」は、「茶子」として、

麩指物、
零余子指(のかこざし)、
炙麩、
豆腐上物(あげもの)、
油炙(いり)、
唐納豆、
挫栗(かちぐり)、
干松茸、
結昆布、
泥和布(ぬため)、
出雲苔(のり)、
胡桃、
串柿、
干棗、
鳥芋(くわい)、
興米(おこしごめ)、

等々を挙げている。

「菓子」は、くだものの意で、今日の、

水菓子、

で、食後に出された。

蜜柑、
林檎、
枇杷、
石榴、
桃、
杏子(あんず)、
柿、
桃、

等々。

水菓子.jpg

(現代においても会席料理などでは、このようなフルーツのことを「水菓子」と呼ぶ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90より)


やがて、

茶道とともに発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた、

が、

江戸時代も後期になると、京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90

文化・文政期(1804~30年)になると、……和声の黒砂糖が作られ、これが菓子に使用されるようになる。(中略)江戸時代の菓子は従来の自然菓子などではなく、すべて加工菓子を指して呼び、代用食であった。お茶の子といって江戸では毎朝売りに来るものがあり、それを買って朝飯の代用にする者も多かった、

とある(日本食生活史)。ここで「茶の子」とは「茶請け」、つまり、

茶を飲むときに食べる菓子又はその代用品、

の意である(江戸語大辞典)。菓子の種類は、

蒸菓子。
練菓子、
干菓子、

等々であるが、砂糖が普及したため、

饅頭、
団子、
煎餅、
餅類、

等々に、特殊なものが作られるようになる(日本食生活史)。この時期の、

羊羹http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.html
饅頭http://ppnetwork.seesaa.net/article/473566185.html
きんつばhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473803819.html
どらやきhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html
落雁http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html
おこしhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html

等々についてはそれぞれ触れたし、

和三盆http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html
砂糖http://ppnetwork.seesaa.net/article/474151591.html)、

についても触れたし、「餡」については、

小倉http://ppnetwork.seesaa.net/article/473261871.html
汁粉http://ppnetwork.seesaa.net/article/473399881.html

でそれぞれ触れた。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月31日

水菓子


「水菓子」は、

果物、

の意である。「果」(カ)は、「菓」と同義、

象形。木の上に丸い実がなったさまを描いたもので、丸い木の実、

とある(漢字源)。果物、木の実の意である。名義抄は、

果、コノミ・クダモノ、

としている(岩波古語辞典)。

水分の多い菓子という意で、果物を食用にするときのみずもの・果実・こだね・このみなどが同じ意味に用いられる、

とあり(たべもの語源辞典)、

乾(ヒ)菓子、餅菓子に対す、

とあり(大言海)、

蒸菓子・干菓子などの人造菓子に対する、

とある(たべもの語源辞典)。果物を茶うけとして用いる場合に、

水菓子、

といった(仝上)。このことは、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、室町以降のことで、

蜜柑、
林檎、
枇杷、
石榴、
桃、
杏子(あんず)、
柿、
桃、

等々が用いられた。果実は、

菓実、

とも当て、京阪では、これを、

くだもの、

と訓ませ、江戸では、

水がし、

といった(たべもの語源辞典)、とある。

果物.jpg



菓子http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、「菓子」とは果物のことを言ったが、和名類聚鈔に、承平(931~38)年間の菓物(くだもの)類を、

石榴、
梨子、
檎子(ヤマナシ)、
柑子(カムシ)、
木蓮(イタヒ)、
獮猴桃(シラクチ)、
榛子(ハシバミ)、
栗子、
杭子(ササクリ)、
椎子(シヒ)、
櫟子(イチヒ)、
榧子(カベ)、
松子(マツノミ)、
胡頽子(グミ)、
鸚実(ウクヒスノキノミ)、
杏子(カラモモ)、
㮈子(カラナシ)、
林檎(リウコウ)、
湯梅(ヤマモモ)、
桃子、
冬桃(俗に霜桃)、
李子(スモモ)、
麦李(サモモ)、
李桃(ツバキモモ)、
棗、
橘、
橙(アヘタチバナ)、
柚(ユ)、
梅、
柿、
鹿心柿(ヤマガキ)、
杼(トチ)、
枇杷、
椋子(ムク)、

等々。他に、苽類(くさくだもの)を、

瓜、
瓣(ウリノサネ)、
青瓜(アヲウリ)、
斑瓜(マダラウリ)、
白瓜、
黄瓜(キウリ)、
熟瓜(ホゾチ)、
寒瓜、
冬瓜(カモウリ)、
胡瓜(ソバウリ、キウリ)、
茄子、
郁子(ムベ)、
蔔子(アケビ)、
蓮子(ハチスノミ)
覆盆子(イチゴ)、

等々挙げる。では、

果物、

と当てた和語「くだもの」は何から来たのか。岩波古語辞典は、

木(ク)の物の意。ダは連体助詞ナの転。ケダモノ(毛だ物・獣)の類、

とし、日本語源広辞典も、似ていて、

ク(木)+ダ(の)+もの、

とする。

大言海は、

木種物(こだねもの)の略轉と云ふ(かたねなし、結政(カタナシ)。金兄(かねのえ)、庚(かのえ))、或は、木之物の轉(黄金(こがね)、くがね。熱海(あつみ)、アタミ。礫(たぶて)、つぶて)。之(つ)を濁るは、己之自(おのづから))。獣(けだもの)も、毛之物なり。ナリクダモノと云ふは、唐菓子(からくだもの 菓子)を単にクダモノとも云へば、それに別ちて、木に成るクダモノと云ふなり(成山椒(なるはじかみ)、成瓢(なりひさご))、乾菓子に対して水菓子と云ふ、同じ、

と回りくどいが、

木之物、

を採る。「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、平安期、

菓子は果実の意であり、これを「木菓子」といったが、この時代になると、間食の品をクダモノとによんだ、

のであり(日本食生活史)、だから、

木之物、

が妥当かもしれない。それは、

平安期には木の実に限らず、草の実や芋、蓮根などもさし、更に植物性の食品に限定されず酒肴など副産物や間食まで意味した。これは「木だ物」という語原意識が希薄になっていたこと、現実に酒肴や間食に用いるのが植物性のものである場合が多かったことなどが原因と考えられる、

とある(日本語源大辞典)。もっぱら果実の意で「くだもの」を用いるのは、江戸中期頃のようである(仝上)。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:水菓子
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