2020年03月27日

政治と文学


大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』を読む。

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現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

政治と文学、

と題された巻である。収録されているのは、

中野重治『五勺の酒』
武田泰淳『審判』
野間宏『顔の中の赤い月』
椎名麟三『深尾正治の手記』
田中英光『地下室から』
井上光晴『書かれざる一章』
佐多稲子『夜の記憶』
倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』
本多秋五『芸術・歴史・人間』
荒正人『原子核エネルギー(火)』
林達夫『反語的精神』
平野謙『政治と文学』『「政治の優位性」とはなにか』
福田恆存『一匹と九十九匹と』
中野重治『批評の人間性』
竹内好『日本共産党批判』
小林秀雄『政治と文学』
伊藤整『組織と人間』
埴谷雄高『政治の中の死』
奥野健男『「政治と文学」理論の破綻』
針生一郎『「革命運動の革命的批判」の問題点』
佐多稲子『松川無罪確定の後』
高橋和己『政治と文学』

である。戦後の様々な局面で論争されてきた「政治と文学」だが、今日、文学作品として、読むに堪えうるのは、

倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』

のみである。『パルタイ』は、非常に意識的に抽象化された視点、言い変えると、遠くから眺めているために、一種、

パロディ、

であるが、「証言として文学」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.htmlで触れた、長谷川四郎『シベリヤ物語』と似た手法である。そこで、

独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている、

と書いたことが、ここでも当てはまる。その距離が、感情をも、漉す。

真継伸彦『石こそ語れ』

は、どちらかというと、私小説の流れの書き方の多い「プロレタリア文学」系の作品に対して、意識的な方法、

死につつある転向者、

に視点を置いた、その、

独自の方法、

がよい。多少作為的なところは、やむを得ないが、文学とは、

何を書くかではなく、どう書くか、

であるという見本のような作品である。

他の作品は、その時代背景抜き去ると、文学作品として、ほとんど読むに堪えない。

本巻は、「政治と文学」と題しただけに、評論が多いが、政治の季節の時代、右も左も、ほとんど作品として、大したものがなかった、ということだろう。井上光晴は、

どう描くか、

を獲得して以降、『ガダルカナル戦詩集』『虚構のクレーン』『死者の時』『地の群れ』等々で、おのれを示した。むしろ党派性にかかずらう以上に、政治と直面しているし、あるいは戦時下発禁を食った、石川淳「マルスの歌」こそが、本巻に納められるにふさわしいと思う。

「政治と文学」は、何も、マルクス主義文学運動、だけではないはずである。戦時下、軍部のお先棒を担いだ文学者たちの作品だってあるはずである。それはちょうど裏表の関係なのだ。たとえば、

作家同盟解散後、党の政策の下請け機関と化した芸術運動に愛想づかしをし、作家の実践は創作以外にないと叫んだ徳永直、林房雄、森山啓らは、やがて革命運動そのものからはみだして、支配機構の網の目に期辛味取られていったのである(「革命運動の革命的批判」の問題点)。

確かに、高橋和己の言うとおり、

「私自身も、文学の自律性というものに関する過大な幻想はもたないほうがいいと考えている。権力というものは、虱をおしつぶすように人間をおしつぶすことぐらい朝飯前にできるものであり、文学者の精神を鞭と牢獄、あるいは幣束ではりとばして、ねじまげることぐらいは残念ながら簡単にできることである。ちょっと節操を守ることすら、どんなに恐ろしい犠牲を覚悟せねばならないかということに無智な、大義名分論を、私はあまり信用しない。

その通りである。しかし、ここでは、

文学者の仕事、

文学の仕事、

がごちゃごちゃになっていないか。文学者は押しつぶされるかもしれないが、文学は押しつぶされない。文学は、虚構の世界である。政治的圧迫があっても、「マルスの歌」発禁後、「一休咄」「曽呂利咄」等々の世界に進んだ石川淳がいい例だ。林達夫が言うように、

思想家の今後にのこされた道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはない……、

のである。それを、

コンフォルミスム・デギゼ(仮想せる順応主義)、

と、林は名づける。戦時下、

哲学には、今や隠退するか、討死するか、でなければ何らかの形のコンフォルミスムの道に歩み入るか―この三つの途しかのこされていません、

が、

思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう。あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変わりなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。もちろんそのような英雄主義を、私はいちがいに貶そうとするものではない。ただそれは私の好みではなく、また思想闘争には個性の数だけ先方があるということである。

と(反語的精神)。それをするのは、現実の文学者である。そこで、文学の仕事として、

どう書くか、

が問われてくる。

参考文献;
大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:25| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする