「干菓子」は、
乾菓子、
とも当てる。和菓子の区分では、
水分の少ない菓子、
を言い、
生菓子、
に対して言う。
押し物(落雁(らくがん)の類)、
掛け物(金平糖の類)、
焼き物(煎餅(せんべい)の類)、
等々を言い、
茶の湯では原則として薄茶に用いる、
とある(大辞林)。干菓子は、その製法で、
打ちもの みじん粉などの粉類に砂糖を混ぜ、蜜などを加えたのち木型に入れて押し固めたのち、打ち出して仕上げる。落雁など、
押しもの 打ちものに用いる素材に練り餡などを加え、木枠などに押し付けて仕上げたもの。干菓子に属するが、打ちものより水分量が多い。志ほがま、村雨など、
掛けもの 炒り豆などに砂糖液などを掛けたもの。おこし、五家宝など、
飴もの 砂糖、水飴などを原料とし、煮詰めてから冷却して固めたもの。飴玉、有平糖、おきな飴など、
焼きもの 焼いて作る。平鍋(鉄板)や焼き型を使う平鍋ものと、天火などを使うものとに大別される。干菓子には煎餅、南蛮菓子のボーロなど、
揚げもの 油で揚げて作る(油菓類)。干菓子では揚げ煎餅、新生あられ、揚げ豆、揚げ芋、かりんとうなど、
と分けられるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90)。
(砂糖を主原料とした干菓子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90より)
日本では縄文時代において、栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる独自のクッキーが食べられていた、
らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90)が、古代の日本では果実や木の実などを総称して、
くだもの、
と呼んでいたことは、「菓子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663)で触れた。やがて、砂糖を用いた菓子が登場すると、それらは、
水菓子、
として分化されることになる(たべもの語源辞典)。室町時代でも、果実を、
木菓子、
時菓子、
と言い(仝上)、厨事類記には、
干菓子(からくだもの)。松実、柏実、石榴、干棗、
とあるらしい(仝上)。
文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90)が、唐菓子八種については、「菓子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663)で触れたように、
梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、
等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、
餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、
等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)ことも触れた。この中に、後の、煎餅の始原となる、
煎餅、
おこしの始原になる、
粔籹、
もある。
たべもの語源辞典には、「干菓子」は、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)には、
白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、
とある(たべもの語源辞典)。
アルヘイ糖は、
有平糖、
と当て、
砂糖を煮て作られた飴の一種
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96)、コンペイ糖は、
金平糖、
と当て、
砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子、
であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96)、いずれも、ポルトガルより伝わった南蛮菓子である。
ちなみに「白雪糕」とは、「落雁」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html)で触れたが、
精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、
とあり(日本大百科全書)、
落雁の一種、
とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしたらしい。しかし、
金平糖、
有平糖、
を干菓子とみる見方があったことにはなる。
今日のような砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751~64)以後からのことで、
餅菓子、
蒸菓子、
と対称された、
干菓子、
の名は、宝暦以後からとされる(たべもの語源辞典)。反故染(越智為久)には、
干菓子、せんべい・松風・ぽうろ・霜柱の類。上々の菓子にて、本菓子屋もの成しが、宝暦の頃より辻売りの十枚六文に位を落とす、
とある(たべもの語源辞典)、とか。
今日の干菓子は、
和菓子の中で水分をほとんど含まない乾燥度の高い菓子、
を指し(仝上)、
落雁・塩がまの類、
おこしや五家宝(ごかぼう)の類、
煎餅や瓦煎餅、松風の類、
金平糖やかりんとうや豆ねじのような駄菓子類、
が干菓子になる(たべもの語源辞典)、とある。
文化五年(1808)に、
京都の吉田源助が中国の雲片からヒントを得て干菓子をつくったのが始まり、
ともある(仝上)。
(中国の胡麻入り雲(云)片糕 https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/211/より)
なお、
煎餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.html)、
松風(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473581577.html)、
落雁(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html)、
おこし(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html)、
和三盆(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html)、
については、すでに触れた。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95