2020年04月08日


「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、「もち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170で触れたように、

「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」

で,中国では,

小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,

「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)、とある。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

餌(ジ)、

と同じであり、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、

「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」

とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、

「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」

とある(たべもの語源辞典)、という。つまり、「餅」が小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチとは異なるが、借字として「餅」の字を使った、ということである。古くは、

モチヒ、

といったことは、「モチ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.htmlで触れ、その語源については触れた。

中華文明圏において、「餅(ピン)」は主に小麦粉から作る麺などの粉料理(麺餅(中国語版))全般を指す。焼餅、湯餅(饂飩・雲呑・餃子の原型)、蒸餅(焼売・饅頭の原型)、油餅などに分類され、小麦以外の稗、粟、コメなどの粉から作るものは「餌(アル)」と呼んで区別があった。「餌」を蒸した「餻(カオ)」、小さいものを「円(ユワン)」、他の食材を包んだ「団(トワン)」、日本で知られる飯粒を搗いたいわゆる餅は「餈(ツー)」と呼んだという、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85。日本はこの「餈」に相当するものが「餅」に発展した、ということのようである(仝上)。

餅つき師走の.jpg

(三代目歌川豊国「十二月之内 師走餅つき」 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no75.htmlより)


餅の記述では、『豊後国風土記』(8世紀前半)に、

富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85、あるいはその村は不作になった(日本食生活史)、ともある。古来、日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(仝上)、との見方もある。ただ、奈良時代には、農民が餅を食べる余裕はなく、貴族の菓子類であったとみられる(仝上)。この時代唐からの食品加工技術の輸入によって、

新たに澱粉性の加工菓子も作られるようになった。加工菓子は副食よりも主食とする方が多く、それは餅といってよいものであった、

とある(仝上)。正倉院文書には、

大豆餅(まめもち)・小豆餅(あかあずきもち) 豆を搗き込んだ豆餅、
煎餅(いりもち) 麦粉を練り固めて胡麻油で煎ったもので、センベイと音読した、
環餅(まがりもち) 米や麦粉を蜜や飴にまぜて固めて油で揚げた、
膏糫(おこしごめ) 蜜を米にまぶして煎ってつくった、
捻餅(むぎかた) 胡麻油で煎った、
浮餾餅(おこしごめ) 飴を使ってつくった、
索餅(むぎなわ/さくべい) 小麦粉をねり、塩を入れて固めて、うどん状にしたもの、

等々が載り(仝上)、『延喜式』は、

塩・醤・未醤で味付けした索餅(さくべい)、
米粉で作る粉熟(ふんずく)、

などが記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85。この時点では、唐風に、小麦粉の「餅」、米粉の「餈」と、そのまま使っていたことがわかる。

10世紀中頃の「和名類聚抄」に、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが(仝上)、「大鏡」(11世紀末成立)に、

醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出され、「誕生五十日の祝いに、赤子(公成)の口に餅を含ませた、

とあり、

貴族男性の結婚後は3日連続して妻の家に通い、「三日の餅(みかのもちい)」の儀式を行い、婚儀にも餅が食された、

とある(仝上)「餅」が、糯米の「もち」なのか小麦粉の「餅」や米粉の「餈」なのかがはっきりしない。たとえば、平安時代、

十月の亥の日に餅を食べて無事を祝った、

とされるが、この「餅」は、

大豆・小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖でつくった、

と「掌中記」に見えている(日本食生活史)、とあるので、「もち」ではないようなのである。しかし、正倉院文庫にあった、

大豆餅(まめもち)・小豆餅(あずきもち)・胡麻餅、

延喜式にある、

粢(しとぎ)・雑餅、

源氏物語にある、

椿餅、

等々を見ると、

糯米の他に、粳米・小麦・大豆・小豆・胡麻・栗・黍などを入れて、それぞれの名をつけた餅をつくっていた、

のであり(仝上)、

小豆の粉・栗の粉・胡麻などの色粉をふりかけたり、糖(あめ)で甘みをつけた米だけでつくられたものもあった、

とあるので、ちょうど、「餈」から「もち」への過渡にあったのかもしれない。ただ、すでに、鏡餅が、

正月の元旦から三日間の歯固(はがため)の義式(歯に堪えるものをたべて齢を固める祝い事)、

に用いられているし、鏡餅(または餅鏡)を(刃物を入れるのを嫌って)手で欠いた掻餅(かきもち)も登場しているし、三月三日にも五月五日にも草餅をつくって神に供えているほか、蹴鞠の時に携行した椿餅(餅を椿の葉で包んだ)もある。平安期に、「もち」が登場していたことは、確かである。「かがみもち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlで触れたことであるが。

餅には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(仝上)。

はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、

内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、

と呼ばれたとある。「カチン」は、

搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、

とみられる(仝上)。

三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、

は中世になってからであり、

雑煮、

は江戸時代になってからである。この時代になって、

正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、

等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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