2020年05月01日

独楽


「独楽」は、孟子に、

獨樂樂、與人樂樂、孰樂、

とあるように、

独りで楽しむ、

意だが、

児童の玩具、コマ、

の意もある(字源)。しかし、

「獨楽」は古代中国で「コマ」を意味する漢字として使われていたということです。その後中国では「獨楽(ドゥーラー)」の類音である「陀螺(トゥオルオ)」が「コマ」を意味する漢字として使われるようになるとともに、「獨楽」はコマを意味する漢字としては死語となり消滅したものと考えます、

とあるhttp://www.tokorozawa.saitama.med.or.jp/machida/komanogogenn.htm。ただ、「陀螺」は、

(ひもで巻いたり、むちでしごいて回す)こま、ぶちごま.

の意https://cjjc.weblio.jp/content/%E9%99%80%E8%9E%BAとあり、「獨樂」は、

こま、こまつぶり、

とあるhttps://cjjc.weblio.jp/content/%E7%8B%AC%E6%A5%BDので、消滅したかどうかははっきりしない。

ピーテル・ブリューゲル「子どもの遊戯」の一部、子供がぶちゴマであそぶ図.jpg

(ブリューゲル「子どもの遊戯」部分、子供がぶちゴマであそぶ図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B6%E3%81%A1%E3%82%B4%E3%83%9Eより)

「独楽」には、

ひねりゴマ(軸を指で捻る事で回すもの)、
ぶちゴマ(不精ゴマ、叩きゴマ、鞭ゴマとも 鞭のようなもので叩いて回すもの)、
投げゴマ(紐巻きゴマとも 胴体部分に螺旋状に紐を巻き付け、独楽本体を放り投げることで回すもの)、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%A5%BD

ぶちゴマは、ヨーロッパではむしろこちらの方がなじまれているらしいが、日本にはなじみが薄い。しかし、

6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7 - 10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい、

とある(仝上)。どうやら、伝来らしいが、そのため、大言海は、

コマは、高麗の軍兵歌舞興楽楽をなす、此の楽を、日本紀に、コマと訓ぜり(外来語辞典)、其技の廻轉するより轉じて玩具の称となれり、

とある。この時代は高句麗(高麗(こま)と呼んでいた)は、紀元前1世紀頃~668年、この間に渡来したということになる。日本語源広辞典も、

高麗(こま)が語源、

とし、二説挙げる。

説1は、高麗の軍兵のしていた身体を回転させる舞に由来して、回転する遊び道具をコマといった、
説2は、高麗から伝えられたから、

とする。で、

和語「こま」は、「こま」の古名、

こまつぶりの略、

とする(広辞苑)。倭名抄には、

弁色立成云々、獨樂、有孔者也、古末都玖利(こまつくり)、

とあり、その箋注本には、

都无求里(つむくり)、

とあるが、大鏡には、

こまつぶり、

とある。

高麗経由で日本に渡来したらしい。円形の意のツブリに、高麗から伝来したことを示すコマを冠したコマツブリが、下略されてコマとなったと考えるのが穏当か、

とある(日本語源大辞典)。

「ツブ」は、「かたつむり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460441943.htmlで触れたように、

粒・丸、

と当て、

「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

とあり、「ツブリ(頭)」は、

「ツブ(粒)と同根」

とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、

ツビ、

とも言い、「つぶら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.htmlで触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、

粒、

と関わり、「ツブ」は、

ツブラ(円)、

と関わる。「粒」は、

円いもの、

と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。

独楽.jpg


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:独楽
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2020年05月02日


「齣」は、

コマ、

と訓む。「齣」(漢音シュツ、呉音スチ)は(字源は、シャクと訓ませる)、

会意文字。「齒(並んだもの)+句(くぎれ)」

とある(漢字源)。「齒」(シ)は、

会意兼形声。古くは、口の中の歯を描いた象形文字。のち、これに音符の止を加えた。「前齒の形+音符止(とめる)」。物を噛みとめる前歯、

である。「句」(ク)は、

会意文字。「乚型+Ꞁ型+口」。かぎ形で小さく囲ったことば、つまり、一区切りの文句を示す。区切りの区(狭い枠)と縁の近い言葉、

である(仝上)。で、中国語「齣」は、

戯曲や芝居の場面を数える言葉、

の意である。ただ、和語では、「齣」を、

セキ、

とも訓ませたり(デジタル大辞泉)、

セツ、

と訓ませたり(大言海)する。大辞林は、

セキ、
セツ、

の両方を載せる。中国語「齣」の字音の訛りである。さらには、「齣」を、

クサリ、

と訓ませると、

一齣(ひとくさり 一闋とも当てる)、

は、

音曲・遊芸・公団・物語などの段落、

つまり、

一つの区切り、

の意で使う。中国語「齣」の意味を広げているのである。

一齣、

は、

イック、
イッセキ、

とも訓ます。通常、

ヒトコマ、

と訓むが、もともと、中国語の、

一齣、

という言い方は、

一幕、
一場、

と同義である(漢字源)。ただ、日本語では、

幕、
場、
場面、
シーン、
カット、

を、次のように使い分けているらしい(小学館・類語例解辞典)。

「幕」「場」は、

一つの劇の中での場面による区切り。幕が開いてから閉じるまでを一つの「幕」とする。その「幕」の中で、同一の場面で演じられる部分を一つの「場」と呼ぶ、

「シーン」は、

「ほほえましいシーン」のように、情景、光景の意でも用いられる、

「カット」は、

映画などの撮影で、いったん写し始めてから写し終わるまでの一場面、

「場面」は、

「場」「シーン」「カット」に比べ、最も一般的な使い方をする。一シーン、一カット、一場、一幕は場面に置き換えられるという意味だろうか。

さて、中国語「齣」を、

セツ、
セキ、

と訓むのは、字音の転訛でいいと思うが、「齣」を当てた、

クサリ、

は、

鎖の義、

とある(大言海)。「鎖(くさり)」は、

部分部分がつながりあって一続きのものとなる、

意味では、「一齣」と意味が重なる。

コマ、

は、

「小間(こま)」の意か、

とある(広辞苑)。

クマ(区切り)の音韻変化、

とする(日本語源広辞典)説がいいように思うが、「クマ」はどの辞書にも載らないので確かめようがない。

「齣(こま)」の意味は、中国語の「齣」に倣うが、

(写真用語)ロールフィルム・映画フィルムの一画面(一秒に24齣)、
転じて、ある場面、局面、
授業・講義などの時間割、

とある(広辞苑)。これが正しいとすると、「齣」に「こま」と当てたのは比較的新しい時期、ということになる。

江戸時代は、

小説や戯曲の区切り・段落、節、章、

の意味で、

セツ、
ないし、
セキ、

と、漢字の字音を訛った言い方をしていたらしい(デジタル大辞泉)のである。たとえば、人情本・春色梅児誉美(1832‐33)には、

「そは第二十四齣(セキ)にいたりて満尾の段」

とある。

写真フィルム.jpg


また漫画で、

四コマ漫画、
一コマ漫画

というのは、映画のコマ割りに準えたものだと考えられる。そう考えると、「コマ」は、

小間、

のもつ、

小さな部屋、

の意ではなく、

合間小間(あいまこま 合間を強めて言う)、

という言い方をする(広辞苑)、

短い時間。ちょっとの間、

という意味なら、

一コマ、

の「コマ」はあり得るのかもしれない。たとえば、映画フィルムでは、1秒あたりサイレント時代は16コマ、トーキーでは24コマが使われているが、その1枚の映像を記録する一区画(英語ではフレームというらしい)を指しているのだとすると、

短い時間、

というのは、なかなか意味深に見える。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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2020年05月03日

瓢箪から駒


「瓢箪から駒」とは、

瓢箪から駒が出る、

とも言い、

意外なところから意外なものが現れることのたとえ、

として言われる。

ふざけ半分の事柄が事実として実現してしまうことなどにいう、

とある(広辞苑)。そこから広く、

瓢箪から駒も出でず、

という言い方で、

道理の上から、あるはずのないことのたとえ、

としても(仝上)、たとえば、

山の芋鰻にならず、ひゃうたんからこまのとびでぬ世の中に、

と使われる。

在来馬.jpg


「瓢箪」については「瓢箪鯰」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470301434.htmlで触れた。

「駒」は、

馬の子、小さい馬、

の意で。和名抄に、

駒、和名、古馬、馬子也、

とある。それが転じて、

馬、特に乗用の馬、

の意となる。

馬と同義になってからは、歌語として使われることが多い、

とある(広辞苑)。たとえば、

足(あ)の音せずゆかむこまもが葛飾の、真間(まま)の継橋(つぎはし)、やまず通(かよ)はむ(万葉集)、

というように。更に、転じて、「駒」は、

双六に用いる具、象牙・水牛角で円形に造り盤上に運行させる、

から、

将棋のコマ、

の意になり、そのメタファでか、

駒をそろえる、

というように、

自分の手中にあって、意志のままに動かせる人や物、

の意で使い、さらに、

三味線などの弦楽器で、弦を支え、その振動を胴に伝えるために、弦と胴の間に挟むもの、

の意となり、

駒をかう、

というように、

物の間にさし入れる小さな木片、

をも指すようになる。

「駒」(ク)は、

会意兼形声。「馬+音符句(小さく曲がる、ちいさくまとまる)」

で、

身体の小さな馬、二歳馬、

を意味する。

駒馬、

という言い方がある。だから、馬の総称以降の、将棋の駒等々の意味は、わが国だけの使い方である(漢字源・字源)が、

漢語に棋馬(キバ)、馬子(バシ)と云ふに因る、

とある(大言海)。ただ、「棋」(漢音キ、呉音ゴ・ギ)は、

棊、

とも書き、将棋のこま、の意もあるが、「碁石」の意味もある。

棊局、
棊子、
棊敵、
棊盤、

等々、何れも「碁」を指す。また、三味線などの弦を支えるのに、

駒、

というのは、

弦の乗るもの、

というところから来た(大言海)、と見られる。

将棋の駒.jpg


和語「こま」は、で、

コウマ(子馬)の約、

という語源説が出る(岩波古語辞典・日本語の語源・大言海)。

大言海は、「小馬(コマ)」は、

古名に、いばふみみのもの、応神天皇の御代に、百済國より大馬(おほま、約めてうま)の渡り氏しに対して、小馬と呼び、旧名は滅びたりとおぼし、神代紀の駒(コマ)、古事記の御馬(ミマ)の旁訓は、追記なり、

とし、

我が国、神代よりありし、一種の体格、矮小なる馬、果下馬(クワカバ)とも云う、

とする。「果下馬(クワカバ)」とは、いわゆる、

ポニー、

のことで、

朝鮮の済州島にて、カカバと云う、イバフミミノモノ、また小馬、

とする(大言海)。つまり、「こま」とは、

子馬、

であって、

小馬、

ではない、ということを強調している。なぜなら、「こま」の語源には、

「小+馬」の音韻変化、

とする説(日本語源広辞典)もあるからである。ただ、「高麗」と関わらせる説、

貢馬のうちで最もはすぐれていたコマ(高麗)渡りの馬を称していたのが一般化したもの(宮廷儀礼の民俗学的考察=折口信夫)、

は、「駒」の「こ」が上代特殊仮名遣いで甲類であるのに対して、「高麗」の「こ」は乙類であるので、誤りとされる(日本語源大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2020年05月04日

辟易


「辟易」(へきえき)は、今日、

うんざりすること、
閉口すること、

という意味で使うが、本来は、

「辟」は避ける、「易」は変える。避けて路を変える、

意で、

驚き恐れて立ち退くこと、

で、ある意味慌てて立ち退くという状態表現であったものが、そこから、

勢いに押されて尻込みすること、
たじろぐこと、

の意と、価値表現に転じ、それが、

閉口すること、

という心理表現に変わった、というように見て取れる。

「辟」(漢音ヘク、呉音ヒャク)は、

会意文字。「人+辛(体罰を加える刃物)+口」で、人の処刑を命じ、平伏させる君主をあらわす。また、人体を刃物で引き裂く刑罰を表すとも解される。ヘキの音は、平らに横に開く意を含む、

とあり(漢字源)、「人を平伏させて治めるひと・君主」(辟公)、「罪・体を横裂きにする刑罰」、「さける、よける」「よこしま」といった意味がある。

「易」(漢音エキ、呉音ヤク)は、

会意文字。「やもり+彡印(もよう)」で、蜥蜴(セキエキ)の蜴の原字。もと、たいらにへばりつくやもりの特色に名づけたことば。また伝逓の逓(次々に横に伝わる)にあて、AからBにと、横に次々と変わっていくのを易という、

とあり(仝上)、「次々と入れ替わる、かわる」「やすい(難の反)」いった意味がある。論語の、

少年易老学難成、

である。

「辟易」は、史記の、

人馬倶驚 辟易数里、

からきている。文字通りに解釈すれば、

横に避け身体を低めて退避すること、数里、

ということになる(仝上)。垓下(がいか)の戦いで形勢不利となった項羽軍は、漢軍の包囲を突破して東城に至った。そのとき、従う者はわずか28騎となっていた。追ってきた漢軍は数千人で、軍を4つに分け、四面を幾重にも囲む漢軍に向かわせた。項羽自らが大呼して敵陣に馳せ下ると、漢軍はみな風になびく草のようにひれ伏し、ついに敵の一将を斬った。このとき赤泉侯が漢軍の騎将として項羽を追ってきたが、項羽が目を怒らせて怒鳴りつけると、赤泉侯は人馬もろとも驚き、数里も後ずさりしてしまった、

という史記・項羽本紀の垓下(がいか)の戦いの故事による。「辟易」は、

(項羽に)恐れをなして後ずさった、

ということだろう。漢書・項籍伝の注に、

辟易、謂開張而、易其本處、

にあるとかで(大言海)、ただ後ずさるだけではなく、左右にも逃げ広がって、道を開けた、という意味のようである。

項 羽.jpg


項羽は、

姓は項、名は籍、字が羽、

一般には項羽で知られる。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年~紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、次第に劣勢となって敗死した。

垓下の戦い、

では、有名な、

四面楚歌、

の故事もあり、虞美人に送った、

力は山を抜き気は世を蓋う、
時利あらず、騅逝かず、
騅の逝かざるを奈何にす可き、
虞や、虞や、若を奈何んせん、

が垓下の歌と史記にある。ここでの、

抜山蓋世、

も故事として残る。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%B1%8D


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ラベル:辟易
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2020年05月05日

テーマとしての「性」


大岡昇平他編『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』を読む。

性の追求.jpg

現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

性の追求、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎「卍」
坂口安吾「私は海を抱きしめている」
室生犀星「遠めがねの春」
大江健三郎「鳩」
吉行淳之介「砂の上の植物群」
野坂昭如「エロ事師たち」
吉岡実「僧侶(抄)」
春日井健「未成年(抄)」
稲垣足穂「A感覚とV感覚」

である。

ここで、

性、

と言っているのは、解説の澁澤龍彦の言うように、

セクシュアリティ、

ではなく、

エロティシズム、

を指す。

「前者はいわば生物学的な概念、そして後者は多くの場合、心理学的な概念」

であり、

「心理学的な概念であるからこそ、エロティシズムは根文学をふくめた芸術一般の表現の問題と直接結びつくことが可能」

なのである。ちょっと変な言い方だが、

セクシュアリティ、

は、所詮状態表現に過ぎないが、

エロティシズム、

は、価値表現に関わる、と言い変えてもいい。だから、

「セックスはあくまで主題としてのみ文学に係わるのであって、エロティシズムのように、表現に伴って自然に発露してくるようなものではない、ということである。作家主体の側に、セックスが人間存在のなかで持っている意味を探ろうという、意識的な姿勢がなければ、ついにセックスは文学上の問題とはなりえない」

のである(澁澤龍彦「日本文学における『性の追求』」)。

しかし、ここに並ぶ作品は、発表当時、大変話題にもなり、評価の高かったものが多い。たとえば、

谷崎潤一郎「卍」
室生犀星「遠めがねの春」
吉行淳之介「砂の上の植物群」
野坂昭如「エロ事師たち」

しかし、今日、その主題においても、表現スタイルにおいても、いささか古めかしく感じてしまうのは、「性」に関して、時代がはるか先へ行ってしまっているからなのかもしれない。例は悪いが、大島渚の晩年の「性」を主題とする作品群、「戦場のメリークリスマス」はともかく、

愛のコリーダ、
愛の亡霊、
マックス、モン・アムール、
御法度、

が時代に追い抜かれてしまっていたことと似たことを感じる。もちろん、発売当時と今との半世紀近い時間差故だが、今日、このテーマは、その主題だけで、時代と拮抗するすることは難しい、と僕は思う。その意味で、当時新鮮だった、野坂の語り口も、今や陳腐化しているように、文体や、語りの構造だけではカバーしきれないものがある気がする。

その意味で、散文の陳腐化に比べ、詩や歌のもつ抽象度は、時代の中で、なお屹立しているのに驚く。春日井の、

大空の斬首ののちの静もりが没ちし日輪がのこすむらさき

学友のかたれる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空の下

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

若き手を大地につきて喘ぐとき弑逆の暗き眼は育ちたり

澄む眼して君も雑踏を歩みゐむ泉水をめぐり別れしふたり

海鳴りのごとく愛すと書きしかばこころに描く怒涛は赤き

略奪婚を足首あつく恋ふ夜の寝棺に臥せるごときひとり寝

髪きつく毟るばかりにさみしくて青銅時代はながし

武骨なる男の斧にひきさかれ生木は琥珀の樹液を噴けり

夕映えの街を暴走する車愛語に倦みし気流を裂けり

等々。散文で書くと、ちょっとドン引きしそうなことが、韻律の中で、かえって凛として立つ感じがある。ある意味韻律の中に紛れることで、辛うじて、陳腐化を免れ、半世紀を経ても、まだ読むに堪える。

本巻の中で圧倒的な存在感を示すのは、

吉岡実「僧侶(抄)」

だ。戦後詩の中でも、屹立する「僧侶」だが、現実から切り離され、まさに、自立した、

言語空間、

に立つ世界は、それ自体が、永遠の生を持つように、今なお、リアルに問い続けて、今日の現実とも対峙し続けているように見える。それは、何かのアナロジーや象徴であることを拒絶するように、一つの世界像を示し続けているように見える、「四人の僧侶」は、

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される

で始まり、最後は、

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

で終わる。浅薄な解釈を峻拒するように立ち尽くしている。

参考文献;
大岡昇平他編『性の追求(全集現代文学の発見第9巻)』(學藝書林)

ホームページ;
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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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書評;
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2020年05月06日

ほしい


「ほしい(ひ)」は、

糒、

と当てるが、

糇、

とも当て、字鏡(鎌倉時代の字書)に、

糇、乾飯也、加禮伊比、又、保志比、

とある。また、

糗、

とも当てる(岩波古語辞典)。下学集(室町時代の国語辞典)には、

糒、糗、ホシヒ、

とある(仝上)。

「糒」(漢音ヒ、呉音ビ)は、

会意兼形声。「米+音符備(ヒ そなえとしてとっておく)の略体」

とある(漢字源)。

米を干して保存できるようにしたもの、旅行の携行食、や軍隊の糧食とした、

のである(仝上)。

乾飯、
乾糧、

とも言う。

「糗」は、

ハッタイ、

とも訓ます。「はったい」は、

麨、

とも当て、

麦・米、特に大麦の新穀を煎(い)って焦がし、碾(ひ)いて粉にしたもの、

はったい粉、
麦こがし、
香煎(こうせん)、

の意である(広辞苑)。

「ほいい」は、

ホシイヒ、

の略である。「日本書紀」允恭紀7年12月壬戌(みずのえいぬ)に、

乃経七日伏於庭中、與飲食而不飡、密(しのび)に懐中(ふつころ)の糒を食(くら)ふ、

とある(大言海)。天皇の命令で派遣された中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)が、拒み続ける衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を召すため、庭先に伏して懐中の糒を食べながら衣通郎姫の受諾をじっと待ったというくだりである。

「糒」は、

炊いた飯を水で軽くさらし天日で乾燥させた食品で、古くは炊き過ぎた米を保存するためにも利用された。また、米以外にも粟や黍の糒も存在していた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3、伊勢物語の「東下り」の段で、

三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心を詠め
といひければよめる。
から衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
と詠めりければ、みな人、餉(かれい)の上に涙落として、ほとびにけり。

と、涙をこぼしてふやけてしまった旨が書かれているが、米を煎ったものには、

煸米(やきごめ)

糒、

がある(日本食生活史)、とある。煸米は、

モミのまま煎って殻をとったもの、

糒は、

糯米・粟・黍などを蒸して陽に干したもの、

とある(仝上)。これが本来の「糒」に思われる。「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.htmlで触れたように、当時、米は甑で蒸して食べていたためである、と思われる。「糒」は、

餌袋(エブクロ)に入れて塩・若布をそえ、携行し、旅先でこれに湯水をいれてふやかしやわらかくして食べた、

のである(仝上)。

なお「餉」(カレイ)は、

乾飯、

とも当て、

カレイヒ、

の約である。古くから、携行食糧として使ってきたので、「餉(カレイ)」は、

広く携行食糧、

をも意味する。

「ほしい」に、「糒」の漢字が使われるようになったのは鎌倉時代からで、それ以前は、

干し飯(ほしめし・ほしいい)、

とも呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3、とある。

そのまま水といっしょに食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したり、粉末にしてあられや落雁などの菓子の材料にも用いられた。和菓子材料の道明寺粉も餅米の糒である。また仙台糒のように地域の特産品として作られたりもしていた、

とある(仝上)。「弁当」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471815294.htmlでも、このことは触れた。なお、

「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html
「あられ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.html
「おこし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html

についてはそれぞれ触れた。この古く、

糒(ほしい・ほしいい)、
乾飯(ほしい・ほしいい)、
餉(かれい・かれいい)、

と呼ばれる保存食・非常食は、現代のアルファ化米と似ている。

天日干しなどの方法により緩やかに乾燥されているので、乾燥後の糊化度については現代のそれとの差がある可能性はある、

が、似た効能が考えられる。アルファ化米とは、

炊飯または蒸煮(じょうしゃ)などの加水加熱によって米の澱粉をアルファ化(糊化)させたのち、乾燥処理によってその糊化の状態を固定させた乾燥米飯のことである。加水加熱により糊化した米澱粉は、放熱とともに徐々に再ベータ化(老化)し食味が劣化するが、アルファ化米はこの老化が起こる前に何らかの方法で乾燥処理を施した米飯である。アルファ化米は熱湯や冷水を注入することで飯へ復元し可食の状態、となり、アルファ米とも呼ばれる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3。いにしへの人の知恵である。

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)池鯉鮒』.jpg


古代の兵士食として、「凡(およ)ソ兵士ハ人別ニ糒六斗、塩二升備ヘヨ」(軍防令兵士備糒(びひ)条)とある。六斗は30日分の食料にあたる、

という(日本大百科全書)。保存性においては、倉庫令では稲・穀・粟の保存期間を9年、その他雑穀を2年定めて規定しているのに対して、糒は20年とされている。この20年間という保存期間が伊勢神宮の式年遷宮の根拠になったという説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%8C%96%E7%B1%B3

更に蝦夷征討に関連して780年に坂東諸国と能登・越中・越後の各国に対して糒3万斛の調達を命じている。この他にも『延喜式』には、新嘗祭の供御料や最勝王経斎会の供養料として大膳職で作られた糯糒・粟糒が支出される規定がある(仝上)。

携行食としての「糒」の便利さは江戸時代でも、おむすびと共に利用されている(日本食生活史)。なお「おむすび」にいては「屯食」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474663277.html?1587323047で触れた。「糒」は、

江戸時代には旅人が持って行き、旅館に泊まればそれを煮て飯にしてもらい、お菜を持参した。したがって薪代だけを払えば飯代はそれですむ、

のである(日本食生活史)。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年05月07日

面妖


「面妖」は、

不思議なこと、
奇妙なこと、

という意である(広辞苑)。

「めいよう(名誉)」の転。「面妖」は当て字、

とどの辞書にも載る。で、「めいよう(名誉)」を見ると、

メイヨの転、

とあり、

ほまれ、
奇妙、不思議、

の意が載る(広辞苑)。で、「めいよ(名誉)」を見ると、

ほまれ、
名高いこと、
すぐれていると認められて得た尊厳、体面、面目、
功績をたたえて与えられる称号、身分などを表す名詞に付けて用いる、
有名であること、名高いこと(善悪ともにいう)、
すぐれていること、上手なこと、
不思議であること(さま)、奇妙、

と載る(大辞林)。つまり、「めいよ(名誉)」に、

めんよう、

の意が既にあるのである。「名誉」は、漢語である。

名聲、
名聞、

とほぼ同義、

ほまれ、

の意である。「列子」天瑞に、

矜功能、修名誉、

とある。

大言海には、「めいよ(名誉)」とは別に、

めんよ(名誉)、
めんよう(名誉)、
めんよう(面妖)、

がそれぞれ別に項を立てている。

めいよ(名誉)→めんよ(名誉)→めんよう(名誉)→めんよう(面妖)、

と転訛していったとみられる。片言(慶安)に、

名誉、メイシャウ、メンヨ、

とある。「名誉」を、

メイシャウ、

とも訓んだらしい。すでに江戸初期には、

メンヨ、

と訛っていたことがわかる。式亭三馬の「浮世床」(文化)には、

名誉男と云ふものは、新しい着物が出来ると、古いのには目もかけねえよ、

とあり、「名誉男」の「名誉」に、

メンヨウ、

と訓ませている。更に、同時期の式亭三馬の「浮世風呂」(文化)には、

たった今汲んできたが、はてめんようナ、

と、「面妖」の意でも使っている。

ほまれ、

の意が、

体面、面目、

称号、

の意を含み、

すぐれていること、上手なこと、

の意から、善悪両用に、

名高いこと、

になったあたりから、

奇妙さ、
不思議感、

の含意が生じたものだろうか。

名誉、

では言い尽くせず、

面妖、

と字を当てたことで、

名誉、

の意味の紐が切れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:面妖
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2020年05月08日

しっとり


「しっとり」は、

湿る程度に濡れていたり、適度に水分穂を含んでいたりするさま、

という状態表現と、

落ち着いていて風情があるさま、

という価値表現と、二つの意味がある。日葡辞書には、

シットリトシタヒト、

と後者の意味が載る(広辞苑)。普通に考えれば、状態表現から価値表現へと意味が転じたと見ることができる。後者は、人の、

落ち着いてしとやかなさま、

と、雰囲気の、

しずかで落ち着いているさま、

の意にも使われる(大辞林)。更に、

むつまじいさま、

の意で、類義語「しっぽり」の意でも使われている(岩波古語辞典)。たとえば、

せめて逸年しっとりと一つ寝臥しもしたいぞ、

というように(近松・夕霧)。

「しっとり」は、擬態語のように思う。似た言葉に、

しっぽり、
しっくり、
じっとり、
しとしと、
じとじと、
じくじく、
じめじめ、

等々あり、

しっぽり、

しっくり、

はつながるし、

しっとり、

しんみり、

もつながる。湿気や水っ気とかかわる、

「しっとり」は、

しとしと、

と関係がある(擬音語・擬態語辞典)、との見方がある。湿気や水っ気にかかわるのは、

じっとり-じとじと、
ぐっしょり-ぐしょぐしょ、
びっしょり-びしょびしょ、

等々がある(仝上)。

しっとり-しとしと、

は、関連性が高い。「しとしと」は、略して、

しとど、

とも言う(岩波古語辞典)。「しとしと」は、

細かい雨が静かに降り続く様子、
程よく湿った様子、
しずしず、しとやかなさま、

といった意味で、日葡辞書には、

シトシトモノヲスル、

と、

物事をきちんとするさま、
しとやかなさま、

と、「しっとり」の意味とも重なるところがある。「しとしと」の「しと」は、

しとやか、

の「しと」とも通じる(擬音語・擬態語辞典)、とみなされる。「しとど」を、

しとと、

と濁音を消すと、

したたかに、
ぴったりと密着するさま、

と意味が変わる(仝上)。「しっとり」の濁音を付けた、

じっとり、

は、

したたりそうなほど湿った様子、

で、

じっとりと汗ばむ、

などと使うが、江戸時代には、

あまりはすはでないじっとりしたおなご(浮世風呂)、

と、「しっとり」とほぼ同義の、

しとやかで落ち着いた様子、

の意味で使っている(擬音語・擬態語辞典)。

しっとり
じっとり、
しっぽり、
しんみり、
じとじと、
じくじく、

の違いについて、

「しっとり」は、

潤う程度の心地よい湿り気、

「じっとり」は、

湿度が過剰で汗ばむようなイメージ、

「しっぽり」は、

十分濡れなじんだ快な湿り気、

「しんみり」は、

落ち着いた雰囲気の「しっとり」に対して、寂しくてしめやか、

「じとじと」は、

粘りつくような不快な湿気、

「じくじく」は、

水分が表面に滲み出るような湿り気、

を表す(仝上)、とある。「しっぽり」は、

しめやかなさま、
春雨などのしとしとふるさま、
男女の仲のこまやかなさま、

の意だが(広辞苑)、江戸時代の遊郭では、

しんみり落ち着いた様子、

を、

しっぽり、

と言い、

しっぽり客(情趣の細やかな客)、
しっぽり酒(しんみり飲む酒)、

という言い回しをして、「しっとり」の意と重なる使い方をしていた(擬音語・擬態語辞典)、らしい。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2020年05月09日

しどろもどろ


「しどろもどろ」は、

甚だしく乱れ、もつれたさま、

の意で、

中納言しどろに酔ひて、

というような使い方(宇津保物語)をする。しかし、今日だと、

問い詰められて、シドロモドロになる、

というように、

話し方などが、筋が通らず、あっちにつかえ、こっちにつかえるさま、
まとまりがなく支離滅裂、

な意味で使うことが多い。「しどろもどろ」は、

平安時代から見られ、広く無秩序な様子を表した。ただし、『源氏物語』は独特で、光源氏の筆づかいが自在である様子を表している、

とあり(擬音語・擬態語辞典)、それは、

中古・中世の用例では、乱れていること全般を表し、特にマイナスの意は強くはなかった、

ということに通じる(日本語源大辞典)のだろう。それが、

中世後期には、特に足取りがたよりないことに多く用いられ、

やがて、近世には、

あわてたり動揺したりして話し方が円滑さを失った様子に偏るようになった、

とある(仝上)。話す様子に使うようになったのは、江戸時代以降ということになる。

「しどろもどろ」の「しどろ」自体、

秩序なくみだれたさま、
とりとめないさま、

の意で、

しどろ足、

という言い方で、

よろよろした足取り、
整わない足つき、

の意で、

はつと気も消え立ち止まり、進み兼ねたるしどろ足、

というように(国姓爺合戦)、使う。あるいは、

しどろなし、

と形容詞で、

乱雑である、
秩序がない、

意でも使う。たとえば、

お年の参らぬは物事にしどろなしうて悪う御座る、

というように(狂言・釣針)、使う(以上広辞苑)。この「しどろなし」で類推するのは、「しどけなし」である。「しどけなし」は、

(服装・態度・性格などについて)少しもとりつくろわず、無造作である、
首尾順序などが整わない、

意で、要は、乱雑、という意だが、この「しど」は、

シドロのシドと同根、ケは気。ナシは甚だしい意、

とあり(岩波古語辞典)、「しどろ」とつながる。

しどろも無し、

という言い方が、江戸語大辞典に載る。これは、

「しどろ」と「しどもない」または「しだらもない」との混交した語か、

とする(江戸語大辞典)。「しだら」は、

ていたらく、
始末、

という意で、

梵語で、秩序の意のstūraからとも、「自堕落」の転ともいう。多く悪い意味に使う、

とあるので、「しどろ」とは別系統の由来と見ていい。「しだらもなし」は、そこから、

しまりがない、
だらしがない、

意になっているので、「しどろなし」と、意味の上で混交したものと思われる。

「しどろもどろ」の「しどろ」は、

シトロモトロ(過所戻所)の義(言元梯)、

という異説もあるが、

乱れている、

意でいいと思われる。で、「もどろ」は、

マダラ(斑)の母音交替形(岩波古語辞典)、
足取り戻(モドロキ)の略轉(大言海)、
マトワル(纏)意のモトホルから(和歌色葉)、
モドロは紛然として混乱する意(音幻論=幸田露伴)、

と種々ある。また、

「もどろ」は「まぎれる」「まどう」意味の動詞「もどろく」の「もどろ」で、「しどろ」に語呂を合わせることで、意味を強めたもの(語源由来辞典)、

は、

マダラ(斑)の母音交替形(岩波古語辞典)、

と同趣である。「もどろく」は、

斑く、

とあて、斑になる、意である。

しかし、「もどろ」は、

同義・同脚韻の語を重ねた強調語、

で、

「しどろ」を強めていう、

という(江戸語大辞典)のでいいのではあるまいか。たとえば、

ひっちゃかめっちゃか、
めちゃくちゃ、

というような、

ことばのリズムと語呂合わせ、

ではないか。「しどろもどろ」は、

四度路戻路、

と当てられたりするようだが、ここまでくると、「しどろ」「しどけない」とは無縁に、言葉遊びになっている。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2020年05月10日

成仁


武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』を読む。

秋風秋雨人を愁殺す.jpg


秋瑾(しゅうきん)、字は、璿卿(せんけい)、号は競雄。鑑湖女俠と自称した。浙江(せっこう)省紹興の人。清末の女性革命家である。タイトルの、

秋風秋雨人を愁殺す(秋風秋雨愁殺人)、

は、彼女の絶命詞と伝えられる。しかし、本書によると、「秋瑾集」では、

秋雨秋風、

となっており、当時の新聞紙上でも、みな、

秋雨秋風、

となっているし、西湖畔に建てられている記念碑も、

秋雨秋風、

となっている。彼女の親友呉燦芝のみが、

秋風秋雨、

としている、とか。

日本留学中に光復会に入り、浙江で武装蜂起を計画したが、発覚して捕縛された。

取り調べに際して、

秋風秋雨愁殺人、

とのみ書き記しただけで、何の発言もせず、

秋女士は「革命党人は死なぞおそれやしない。殺したければ殺すがいい」と豪語して、歯をくいしばり目をつぶり、酷刑(ごうもん)にたえているので、革命側の秘密をさぐり出せぬ幕友(書記とか秘書の役で政治家につきそう知識人)は、仕方なくなり、ニセの供述書をこしらえ、それに無理やり指の印をおさせた。

という。翌日六月六日午前四時に、斬首された。

日本留学当時の秋瑾.jpg

(日本留学当時の秋瑾 本書より)

本書には、秋瑾だけではなく、それと連携し、僅か前の五月二十八日蜂起した、徐錫麟についても、詳しく触れている。

徐錫麟、字は伯蓀、号は光漢子。浙江省山陰県出身。彼は、

安慶起義を計画、巡警学堂の卒業式典に際し恩銘を殺害、清軍と4時間にわたる戦闘を展開したが、圧倒的な武力の清軍に破れ捕虜となった。裁判に際しては満族駆逐を志すこと10年にして目的を達したと陳述、翌日生きながらに割腹される酷刑により死刑となった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E9%8C%AB%E9%BA%9Fが、本書には、

たまたま藩、県、道の三長官ならびに幕友が、みな紹興の生まれ、つまり錫麟とは同郷であった。殺すにしてもそれほど長時間の苦痛をあたえたくない。そこで、あらかじめ徐錫麟の陰嚢を打ちやぶってしまったので、割頭剖心(生体解剖をして、胸部を裂き心臓をひきずり出す)のむごたらしい手術(死刑)が行われるときには、すでに犯人は、感覚も失った冷たい物体と化していたのだそうである。

とある。この背景には、

山陰の知県の李宗嶽(おそらく、これは李鐘嶽のことではなかろうか)が、「秋瑾ヲ殺シタルガタメニミズカラ縊レ死ス」という……。

清朝の官吏(漢人)のなかにも、満州族の支配に反感をいだきつつ、しかも漢人革命家をころさねばならぬ立場に立たされ、結局、手を汚してからあと自殺するハメになった男はいたのである。また、そのような、うしろめたい汚れた手をもちつづけるのを拒否して、あらかじめ革命派に加勢していた、コミットしていた官吏諸君も、いるにはいたのである。たとえば、金華の鎮台提督だった蕭という男(名は不明)は、この二大事件(秋と徐の蜂起)のさい龍華会に関係があったため、刀を用いて自殺している。

等々といった漢人の支配層にも複雑な心理状態があった。ちなみに、「龍華会」とは、

別名を龍半山と称し、本部を金華におき、秋瑾が義軍の旗あげを企てるさいに、もっともたよりにし、この会を、大本営とする予定であった。

とある。秘密組織である。

これは、1907年のことである。武昌で武装革命が成功し、孫文が新政府の大総統にえらばれたのは1911年のことになる。いわば革命の魁であった。烈士を形容する言葉に、

成仁(仁を成す)、

がある。身を殺して仁を成す意である。まさに秋瑾は先駆であった。

魯迅は、1925年、「『フェアプレイ』は早すぎる」で、こう書いている。

「秋瑾女子は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは『女侠』としてたたえられたが、今ではもはやその名を口にする者も少ない。革命が起こったとき、彼女の郷里(紹興)には、一人の都督―すなわちいまの督軍―が乗りこんできた。彼は彼女のかつての同士であった。その名は王金発。彼は、彼女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類をあつめ、その仇に報いんとした。だが、結局、その首謀者を釈放してしまった。と申すのは、すでに民国になったからには、おたがい昔のうらみを洗いたてるべきではない、という理由かららしい。しかるに第二革命が失敗するや、この王金発自身が袁世凱の走狗のために銃殺されている。その有力なる関係者の中心には、彼が釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった。この男もいまでは『天寿を全う』した」

と。

秋瑾の蜂起計画は結構杜撰で、チャップリンの、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

の言葉とは逆に、

クローズアップで見れば喜劇だが、ロングショットで見れば悲劇、

の様相である。辛亥革命の先駆として、歴史の中では悲劇なのである。しかし、場違いながら、中島みゆきの、

ファイト、闘う君の唄を、闘わない奴等がわらうだろう、ファイト、冷たい水の中を、ふるえながらのぼってゆけ、

を思い出した。

匹夫も志を奪う可からず(論語)、

あるいは、

匹夫の賤にも与って責め有るのみ(顧炎武)、

なのである。清末の革命派のスローガンは、

国家の興亡は匹夫にも責めあり、

であった、という。

参考文献;
武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女士伝』(筑摩叢書)
井波律子『論語入門』(岩波新書)

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2020年05月11日

ちんぷんかんぷん


「ちんぷんかんぷん」は、

珍紛漢紛、
珍紛漢糞、

などと当てる(広辞苑)。

ちんぷんかん(珍紛漢)、

とも言う。「ちんぷんかん」は、

珍糞翰、

とも当てる(仝上)。

わけのわからないことば、
また、
それをいう人、

の意である。大言海は、

唐人の寝言、

の意とも言う。「唐人の寝言」は、

何を言っているのかわけのわからないことば、
また、
筋の通らないことをくどくど言うことのたとえ、

の意で、「ちんぷんかんぷん」とほぼ同義である。

もと儒者の用いた漢語を冷やかした語に始まる、

また、

長崎の人が紅毛人の語のわからないことから言い始めた、

という説が載る(広辞苑)。因みに、「紅毛人」(コウモウジン)は、広く白人を指すが、江戸時代は、

オランダ人、

を指し、南蛮人は、

ポルトガル人、スペイン人、

を指した。

もともと、

「ちんぷん」(珍紛・陳紛・陳糞)、

という言葉があり、

唐人のちんぷんと鼻をうごめきつくる詩(俳諧・破枕集序)、

というように、

近世、中国人の発音を形容した語、

という意味で使われ(岩波古語辞典)、それが、

心皆蓮歌なれども詞をば俳諧めかしちんぷんといふ(俳諧・佐夜中山)、

というように、

訳の分からないことばの意でも使うようになる(岩波古語辞典)。

とすると、やはり、「ちんぷんかんぷん」「ちんぷんかん」は、

主として漢語・漢文をさしていう、

という(江戸語大辞典)のが正しいのではあるまいか。

「ちんぷんかん」に「ぷん」をつけて、いわば語調をととのえた感じであろうか。あるいは、「ちんぷん」に「かんぷん」と続けて、同じ効果を狙ったという見方もできる。

ひっちゃかめっちゃか、

といったふうに。

ただ、中国語由来という説もある。

中国には聞いてもわからないという意味の「チンプトン」、見てもわからないという意味の「カンプトン」という言葉があり、「チンプトン、カンプトン」から、見ても聞いてもわからない意味になった(語源由来辞典)、

聴はティンと読み「聴く」、看はカンと読み「見る」の意味です。そうしますと、聴不得看不得はティンプタ・カンプタと読めるhttps://ameblo.jp/chandan-neko/entry-12394199117.html

等々。ただし、

「チンプトン」、「カンプトン」「は、チンブトン(ティンブトン)」「カンブトン」(puではなくてbuなど)と表記する場合もある、

とありhttps://wisdom-box.com/origin/ta/chinpunkanpun/、ちょっと肯い兼ねる気がする。仮に、中国語でそう言ったとしても、もともと「ちんぷん」という言葉があったとすれば、

ちんぷん、

に、語呂で、

かん、

ないし、

かんぷん、

を加えたというのでいいのではないか。「ちんぷんかん」の「珍紛漢」の、

漢、

は、

門外漢、

というように、

男、

を指す。その意味では、

ちんぷんな言葉をしゃべる奴、

と、

漢、

を当て、その言葉の流れで、

ちんぷんかんぷん、

と「ぷん」を加えた、ということではないか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年05月12日

哲学史


A・シュヴェークラー『西洋哲学史』を読む。

西洋哲学史.jpg


本書は、「アリストテレスがそうしているように」、

哲学史をタレスからはじめる、

とし、

古代哲学(ギリシャ、ローマの哲学)、
(中世の哲学)、
近世哲学、

の区分に従い、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ヘーゲルへと至る哲学史である。

特に、第一の古代哲学は、

ソクラテス以前の哲学(タレスからソフィストまでを含む)、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
アリストテレス以後の哲学(新プラトン主義までを含む)、

と詳細である。

本書は、まず哲学の定義から始まる。

哲学するとは考えること、事物を思考によって考察することである、

と。では、実際的な活動においての思考、あるいはその他の諸科学の思考と、哲学のそれとはどう違うのか。

哲学を経験的な諸科学から区別するものは哲学の素材ではなくて、その形式、方法、認識の仕方である。個別的な経験科学はその素材を経験から直接にとりあげる。それを眼の前に見出し、見たままにとりあげる。哲学はこれに反して、与えられたものを与えられたままにとりあげるということは決してしない。それは与えられたものをその最後の諸根拠にまで追求し、あらゆる個別的なものを究極原理に関係させ、知識の総体のうちにおける制約された一分肢として考察する。まさにこのようにすることによって哲学は、個別的なもの、経験のうちに与えられたものから。直接性、個別性、および偶然性という性格を除去するのであり、経験的な個別性の大洋から普遍的なものを、無数の秩序のない偶然事から必然的なもの、一般的な法則をとりだすのである。要するに哲学は、経験的なものの総体を思想的に組織された体系という形で考察するのである。

これだとわかりにくいが、これを私的に注釈するなら、

経験や具体的な諸科学のメタ科学、

ということなのではないか。あるいは、

科学のメタ科学、

と言ってもいい。

形而上学(metephysic)、

とは、ギリシャ語で、

Meta+physika(自然学)、

である。ある意味、

思考することを思考する、
思想することを思想する、

つまり、

考えることを考えること、

なのではあるまいか。だから、

経験的諸科学と交互作用をなしていること、

その意味で、

哲学は一方には経験的諸科学を制約するとともに、他方にはまた哲学自身がそれらによって制約されるということである、

のであり、その意味で、

完成された哲学、

はあり得ず、

さまざまに相継いであらわれる時代哲学という形でのみ存在する、

のである。だから、哲学史は、

これらのさまざまの時代哲学の内容、順序、および内的連関、

ということになる。結果、上述の区分で哲学の流れを俯瞰していくのが、本書である。

哲学に無縁なぼんくらな人間には、なかなか前後の道筋をたどりきれないが、その都度の、シュヴェークラーのコメントがなかなかワサビがきいていて楽しめる。たとえば、

ソクラテス以前の哲学に共通な傾向は、自然を説明する原理を見出すことである、

と、その中のエレアのゼノンの逆説(アキレウスと亀、飛ぶ矢は動かず)について、

物質と空間と時間の無限分割性という概念のうちにある困難と二律背反を、はじめて少なくとも部分的には正しく指摘したものであるが、アリストテレスはゼノンをこれらの議論のために弁証法の創始者と呼んでいる。ゼノンはまたプラトンにも根本的な影響を与えた。

プラトンとソクラテス、アリストテレスへの流れについて、

プラトンによってギリシャ哲学は、その発展の頂点に達した。プラトンの体系は、自然的および精神的宇宙の全体を一つの哲学的原理から最初に完全に構成したものである。それはすべての高い思弁の原型であり、形而上学的および倫理的観念論の原型である。ソクラテスによっておかれた単純な土台に立って、哲学の理念は、ここではじめて包括的に実現された。ここで哲学は完全な自己意識に達した……、しかしそれと同時にプラトンは、哲学を与えられた現実に観念的に対立させた。(中略)これはより実在論的な物の見方によって補われなければならなかった。そしてそれはアリストテレスに始まるのである。

結局古代哲学は、

プラトン=アリストテレス的哲学の二元論(中略)を克服しようとして挫折したのである。キリスト教はこの問題を再びとりあげたのである。それは、古代の思考が実現しえなかった理念、神の彼岸性の廃棄、神的なものと人間的なものとの本質的統一を自己の原理とした。神が人となったということ……がキリスト教の思弁上の根本理念であって、(中略)この時からずっと一元論が近世哲学全体の特徴となり根本傾向となっている。

そして近世哲学は、

古代哲学が立ちどまっていたその点から出発したのである。思考、自己意識が自分のうちへしりぞいたのがアリストテレス以後の哲学の立場であったが、これはデカルトにあって近世哲学の出発点をなしており、近世哲学はここから出発して、古代哲学が脱却しえなかったあの対立を思考によって媒介し融和させるにいたったのである。

さて、そのデカルトは、

第一に、まったくの無前提という要求を出したことによって、哲学の新しい時代の創始者である。すなわちデカルトは、思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆるあたえられた真理に対して絶対の抗議を要求したのであるが、これはそれ以後ずっと近世の根本原理となっている。第二に、デカルトは、自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理を提示したが(デカルトは、精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた)、これは古代の知らなかった新しい原理である。第三に、デカルトは存在と思考、存在と意識との対立を提示して、この対立の媒介を哲学的課題として宣言したが、これは近世哲学全体の問題となっている。

デカルトの切り離した精神と物体、意識と存在を解決する一つの方法は、

二つの実体と見ないで、一つの実体の現象形態とみること、

である。それを、

神のみが実体で古物はすべて偶有的である、

と、整合的に言い表したのがスピノザである。スピノザの体系が、

デカルトの体系の完成であり真理である、

とされる所以である。

スピノザの体系は、考えうるかぎりもっとも抽象的な一神論(むしろ一元論)である。

しかしそれは、

人々の普通の観念には実在と見えるすべてのものをその視野からしりぞけ……、その欠陥は実体のこの否定的な深淵を存在と生成の肯定的な根拠に変えることを知らない点にある。

デカルトの二元論を克服する道には、

物質の側に立つか、
観念の側に立つか、

である。

一面的な観念論、

一面的な実在論(経験論、感覚論、唯物論)、

の、二つの試みは同時に始まる。実在論的発展系列の創始者は、ジョン・ロックである。

経験論が精神的なものを物質的なものの下位におき、精神的なものを物質化しようとする努力によって導かれていたとすれば、観念論は逆に、物質的な物を精神化すること、すなわち物質的な物がその下に包摂されるように精神の概念を理解することに努める。(中略)後者のそれは(ライプニッツやバークレでは)…すなわち精神(心)と表象(観念)のみが存在するという命題である。……観念論の立場は精神的な存在、自我を実体とする。

実在論と観念論を、カントは、次のように統一する。

自我は実践的な自我としては自由であり自律的であって、自分自身の無制約的な立法者であるが、理論的な自我としては受容的であり経験の世界によって制約されている。しかしそれはまた理論的な自我としてもそれ自身に二つの側面をもっている。なぜなら、一方、我々のあらゆる認識の素材が経験に由来し、経験こそわれわれの認識の唯一の領域であるかぎりにおいて、経験論が正しいとすれば、他方、経験するためには、経験によっては与えられずア・プリオリにわれわれの悟性のうちにふくまれている概念が必要であるから、合理主義が認識のア・プリオリな要因および素地を強調するのは正しいのである、

と。なお、カントの『純粋理性批判』については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473549212.html

カントのアンチテーゼであり、フィヒテがカントの直接の帰結である。

カントはなお二元論的であって、それによれば、自我は一方では理論的自我として外界に隷属し、他方では実践的自我として外界の主人である。言いかえれば、自我は客観に対してあるいは受容的にあるいは自発的にふるまう。フィヒテは、実践理性の優位を強調することによってこの二元論をとりのぞいた。すなわち、フィヒテは、理性をひたすら実践的なもの、意志、自発性と考え、客観にたいする理性の理論的、受容的な態度をさえ、ただ活動の減少、理性そのものによって定立された正言と考えるのである。

フィヒテから出て、フィヒテと対立したシェリングの根本欠陥は、

絶対者を抽象的に客観的なものと理解したことであった。絶対者はまったくの無差別、同一性であった。このような無差別からは、第一に、規定されたもの、実在的なものへ移っていくことは不可能で、したがってシェリングは後になると絶対者と実在する世界との二元論におちいった。第二に、このような無差別のうちでは自然的なものにたいする精神的なものの優位性がなくなり、両者は同等のものとされて、観念的なものと実在的なものとのまったく客観的な無差別こそ両者よりも高次のもの、したがって観念的なものより高次のものとして定立されていた。このような一面性を反省するところからヘーゲル哲学は現れたのである。

で、ヘーゲルは、その方法によってその先行者と根本的にちがっている。

絶対者はヘーゲルによれば、存在ではなく発展である。すなわち、それはさまざまな区別と対立とを定立するが、これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく、個別的なもの各々もその全体も絶対者の自己発展の内部にある諸契機にすぎない。したがって絶対者が自分自身のうちに、区別―といっても絶対者内の諸契機をなしているにすぎないような区別―へ進む原理をもっていることが示されなければならない。この区別は、おのれが絶対者へ付加するのではなく、絶対者が自ら定立するのでなければならず、そしてそれはふたたび全体のうちへ消失して、絶対者の単なる契機であることを示さなければならない。

つまり、ヘーゲルの方法は、

各々の概念はそれに固有な対立、固有な否定を自分自身のうちにもっている。それは一面的であり、その対立をなしている第二の概念へ進んでいくが、この第二の概念もそれだけでは第一の概念と同様に一面的である。かくしてこれらが第三の概念の契機にすぎないこと、そして第三の概念ははじめの二つの概念のより高い統一であり、両者の統一へと媒介するより高い形態のうちで両者を自分に含んでいることがわかる。この新しい概念が定立されると、それはふたたび一面的な契機であることがわかり、この一面的なものは否定へ、そしてそれとともにより高い統一へ進んでいく。概念のこの自己否定が、ヘーゲルによれば、すべての区別と対立の発生である。

だから、ヘーゲルの方法とは、

絶対的なものは単純なものではなく、最初の普遍者のこのような自己否定によって生まれる諸契機の体系である。この諸概念の体系もまたそれ自身抽象的なものであって、たんなる概念的な(観念的な)存在の否定、実在性、(自然における)諸区別の独立的実在へと進んでいく。しかしこれもまた同様に一面的であって、全体ではなく一契機にすぎない。このようにして独立的に存在する実在もふたたび自己を止揚して、自己意識、思考する精神のうちで概念の普遍性へ復帰する。思考する精神は、そのうちに概念的存在と観念的存在とを包括して、それらを普遍と特殊のより高い観念的統一としている。このような概念の内在的な自己運動、

なのである。

本書は、ヘーゲルまでしか語られない。しかしヘーゲルの、この観念の巨像はある意味、逆立ちしている。たとえば、

キリスト教がはじめて神と世界とを積極的に融和させる。それはキリストという人格のうちに、神的なものと人間的なものとの統一の実現である神人を見るからであり、神を、自分自身が外化(人間化)しそしてこの外化から永遠に自分のうちへ帰る理念として、すなわち三位一体の神としてとらえるからである。

というヘーゲルの絶対精神の考えは、やがて、フォイエルバッハによって、こう転倒されることになる。

神的本質(存在者)とは人間的本質以外の何物でもない。またはいっそうよくいえば、神的本質(存在者)とは人間の本質が個々の人間―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。

ここから、マルクスの唯物史観が始まるが、同じく人間へと取り戻そうとしたキルケゴールは、

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

と書いた。それが実存主義へとつながっていく。

ヘーゲルは、逆立ちした観念の巨像、総合体系である。いわば、哲学のギリシャ以来の到達点であると同時に、ある意味でコペルニクス的な転換点でもあることがよくわかるのである。

西洋哲学史(下巻).jpg


参考文献;
A・シュヴェークラー『西洋哲学史』(岩波文庫)
フォイエルバッハ『キリスト教の本質』(岩波文庫)
キルケゴール『死にいたる病』(中央公論社)

ホームページ;
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2020年05月13日

とんでもはっぷん


「とんでもはっぷん」は、

とんでもハップン、

とも表記されるが、

相手のことばを強く否定する意をこめて発することば、

意味である(精選版日本国語大辞典)。

ハップンはhappen、思いがけなく生じる意を「とんでもない」に結びつけて作った語、

とされる(仝上)が、「ハップン」については、

トンデモナイという強調のことばと、英語の「ネバーハップン(Never happen)」(決して起こらない)ということばが1つに合体したものである、

とあるhttps://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20161207/dms1612070830001-n1.htm。また別に、

「とんでもない」と、英語の「What happened?」(何が起こったんだ?どうしたんだ?)がくっついたもので「とんでもハップン」と「カタカナ書き」します、

との説もあるhttps://www.ytv.co.jp/michiura/time/2011/06/post-790.html。日本語源広辞典は、前者を採り、

トンデモナイと英語Never happenとを結びつけた学生語、

としている。いずれにしろ、

Happen、

を加えて、語呂を合わせた語ではある。今日、ほとんど死語である。

もともとは、

第二次世界大戦後、学生の間で使われていたことばであるらしいが、獅子文六の小説『自由学校』で、「飛んでも、ハップン! いけませんよ、ユリーにチャージさせるなんて」と使われてから流行語となった、

とある(精選版日本国語大辞典)。獅子文六の新聞連載小説『自由学校』では、

女「ハマ(=横浜)へ遊びにいく意志なんか、全然、ありもしないのに、そんなこといってサ。あんた、今日ピンチなんでしょう。ピンチならピンチと、正直に仰有(おっしゃ)いな。あたしは、持ってるのよ。ハマで中華料理ぐらい食べたって、平チャラなのよ」
男「飛んでも、ハップン!いけませんよ、ユリーにチャージさせるなんて・・・」
女「それが、きらい!そんなヘンな形式主義、ネバー・好きッ!」

等々というやり取りがあるらしい(明治・大正・昭和の新語・流行語辞典)が、「ネバー・好き」(「大嫌い」の意)が使われているところを見ると、「飛んでも、ハップン」の「ハップン」も、「ネバーハップン」からきているのかもしれない、という気がしないでもない。

さて、「とんでもハップン」の、

とんでも、

については、二つの考え方があり得る。ひとつは、

とんだ、

からきたというもの、いまひとつは、

とんでもない、

からきているというもの、である。「とんだ」は、

「とんだ孫右衛門」http://ppnetwork.seesaa.net/article/418161213.html
「とんだ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452166903.html

で触れたが、多く、

飛んだ、
飛び離れた、

と当て、

飛び離れている、

意から(広辞苑・岩波古語辞典)、あるいは、

順を追わず飛んだの意、

から(江戸語大辞典)、

普通と違った、
思いがけなく重大だ、思いもよらない、

の意で使われる。獅子文六の文中では、

飛んでも、ハップン!

と使われているので、「とんだ」から、

思いもよらないこと、

という意味で使われている可能性はある。

他方、「とんでもない」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452135728.html?1501012456の「とんでも」については、

「途(と)でもない」の転、

とあり(広辞苑)、さらに、

上方語「とでもない」を移入後、撥音化したものか。一説に「飛んだ」の強調形とするには従い難い。「つがもない」「そでない」と同義、

ともある(江戸語大辞典)。

とても考えられない、思いがけない、途方もない、
(相手のことばを強く否定して)そんなことはない、

と意味である(仝上)。後者はともかく、

とても考えられない、
思いがけない、
途方もない、

は、同じ意味ではない。「途(と)でもない」の、

途、

は、

みち、
道筋、

という意味である。

帰国の途につく、
途中、
前途、

という使い方をする。この「途」は、漢字「途(漢音ト、呉音ド)」から来ている。意味は、

みち、

である。

「辶(行く)+音符余(おしのばす)」

で、長く延びる意を含む、とある。とすると、

道でもない、

という原意から、上記の意味の外延を、

とても考えられない→思いがけない→途方もない→そんなことはない、

と、広げていく、ということになる、と推測される。

しかし、「とんだ」も「とんでもない」の「とんでも」も、日本語の語源によれば、

「トホウ(途方)は、『すじみち。条理』とか『手段。方法』という意である。『どうしてよいか手段・方法が分からないで、困りきる』ことを『途方に暮れる』という。
 『途方もない』は『情理にはずれている。めちゃくちゃである。とんでもない』という意味である。上方語ではトーモナイ、トームナイとか、トーナイに転音して『トーナイえらいめにおうた』という。あるいはトヒョーモナイという。
『途方もない』を漢語化してムトホウ(無途方)といった。撥音を強化するときムテッポー(無鉄砲)になった。『無法。むこうみず』の意である。
 語頭を落としたテッポーはデンポー(伝法)になった。『悪ずれがして荒っぽいこと。無法なことをする人。勇みはだ』『仁侠をまねる女。勇みはだの女』のことをいい、『浮世風呂』『浮世床』に用例が多い。(中略)
 トテツ(途轍)は『すじみち。道理』という意味の言葉で『途方』と同類語である。トテツモナイ(途轍も無い)は『いじみちがない。途方もない。とんでもない』という意味の言葉である。『ツ』を落としてトデモナイ(菅原伝授)といい、撥音を添加してトンデモナイ(浄・職人鑑)になった。
 さらに、下部を省略してトンダになったが原義を温存していて〈トンダめにあいの山〉(膝栗毛)という。」

と転訛の流れを解説して見せる。これによれば、

トテツモナイ→トデモナイ→トンデモナイ→トンダ、

と、「とんでもない」も、「途轍もない」の転訛で、「とんだ」は、「とんでもない」の下略、ということになる。つまり、

とんでもハップン、

の「とんでも」は、「途轍もない」の転訛ということになる。意味は変わらないが。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年05月14日

めちゃくちゃ


「めちゃくちゃ」

は、

滅茶苦茶、
目茶苦茶

などと当てる。当て字である。

めちゃめちゃ(滅茶滅茶)、
めたくた、
めためた、
めっためた、

というのも同義である。

秩序・道理などがひどく乱れていたり統一がとれていなかったりするさま、
原形を止めないくらいものが徹底的に破壊されている様子、
程度が非常に大きいさま、

といった意で使われる(擬音語・擬態語辞典)。

秩序・道理などがひどく乱れていたり統一がとれていなかったりするさま、

が本来の意味で、そこから、

原形を止めないくらいものが徹底的に破壊されている様子、
程度が非常に大きいさま、

の意味が派生したと考えられる(仝上)。

原形を止めないくらいものが徹底的に破壊されている様子、

意では、

めためた、

という言い方もする。「めちゃくちゃ」は、

近世からみられる語。道理に合わないことを表す「めちゃめちゃ」と紙などが無造作に丸められて皺だらけである「くちゃくちゃ」とが合わさってできた語だと思われる、

とある(仝上)。「めちゃくちゃ」の類義語、

めちゃめちゃ、

は、

どちらかといえば、「めちゃくちゃ」の方が乱れる程度が大きく、

原形を止めないくらいものが徹底的に破壊されている様子、

の意は、木っ端微塵に破壊される感じがある(仝上)、とある。

めちゃくちゃ、

めちゃめちゃ、

も、いずれも、

めちゃ(滅茶・目茶)、

を強調して、「くちゃ」「めちゃ」と語調を整えるために添えたと思われるが、かつては、

めちゃ、

だけで通用した、とされる(仝上)。江戸末期、「めちゃ」の訛った、「めっちゃ」の、

めっちゃ踊り、

という言い方があった(江戸語大辞典)。この、

めちゃ、

は、

むちゃ、

の転訛で、

ムチャ(無茶)は、「ム」の母交[ue]でメチャになった。これを重用して「メチャメチャ」(滅茶滅茶)という。メチャ(滅茶)はメッタ(滅多)に転音、

となる(日本語の語源)。江戸期、擬人化した、

むちゃ助、

という言葉が、

物を知らない、
ばか、

の意で使われている(江戸語大辞典)

「めちゃめちゃ」「めちゃくちゃ」は、

むちゃくちゃ、

が変化したものだが(仝上)、「むちゃ」は、

無茶、

と当てる。これももちろん当て字である。「むちゃ」については、

仏教語の無作(因縁によってつくられたものではない)が語源とする説、

がある(国語音韻論=金田一京助・上方語源辞典=前田勇)が、こじつけではないか。他に、

ムタイ(無体)が語尾を落としたムタは「タ」の拗音化でムチャ(無茶)になった。原義の「すじみちが通らない。道理をかえりみない」から、「度合いが強い。たいへん」に転義して多用されている、

という音韻変化説がある(日本語の語源)が、この方が自然ではないか。

なお、「無体」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464167011.html、については、触れた。

ここからは少し憶説かもしれないが、

めためた、

という言葉に着目したい。

多勢が無勢に、または、強者が弱者に攻撃を加え、物や秩序が原形を止めてはいられないほど、徹底的に壊したり乱したりする、

という意だが、転じて、

むやみやたら、
めちゃくちゃ、

の意でも使う(広辞苑。日本永代蔵「名医に替へてみしにめためたと悪くなり」)。「めためた」は、室町時代から見られる語で、日葡辞書には、

「人を殺すために大勢でその家に撃ちかかったり襲いかかったりする様子、または、物を倒したり崩したりする様子」という解説がある。ただし、必ずしも暴力的でなく、単に程度が悪い方に甚だしいことを表すこともあった、

とあり(擬音語・擬態語辞典)、古くは、

めた、

だけで程度の甚だしさを表した。その意味で、

めた、
と、
めちゃ、
むちゃ、

とは意味が重なる。程度を表す言葉には、

めった(滅多)、
めったやたら(滅多矢鱈)、

もある。どうも、

めた→むちゃ→めちゃ、
か、
めた→めちゃ→むちゃ、

という転訛もあり得るのではないか、という気がした。「めたくた」は、過渡期の言い回しに思える。いずれも、擬態語由来と考えていい気がする。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2020年05月15日

ひっちゃかめっちゃか


「ひっちゃかめっちゃか」は、

しっちゃかめっちゃか、

の訛りとされる。

混乱・散乱したさま、

をいうが、

めちゃくちゃ、

と同義である。めちゃくちゃhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/475079100.html?1589394948と同様、擬態語と思われ、乱雑度は、

めちゃくちゃ、

よりは勝る、というニュアンスである。他に、

しっちゃぐっちゃ、
しっちゃごっちゃ、
しっちゃがめっちゃが、
しっちゃがめんちゃが、
しっちょくわっちょ、
やっちゃぐっちゃ、

といった訛もあるらしいhttp://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/ibaraki-si.html

「しっちゃかめっちゃか」について、触れたものはあまりないが、その語源について、

古代の弦楽器「弛衣茶伽(ちゃいか)」の弦が23本もあり、ちょっとやそっとでは演奏できない難物であったから、
不器量な女性を意味する隠語「しっちゃか面子(めんつ)」から、

https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E3%81%97%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%8B%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%8B挙げるものがある。ただ、

弛衣茶伽(ちゃいか)、

については、はっきりわからないことと、

しっちゃかめんつ、

は、

しっちゃかめっちゃか、

があって意味を成す言葉の様に感じるので、先後が逆かもしれない。

憶説になるが、「めっちゃか」は、

めちゃ(滅茶)、

の促音化、

めっちゃ、

と関わるのではないか、という気がする。

「しっちゃか」は、まったく当たりのつく言葉がないが、江戸語大辞典に、

しっちなぐる、

という言葉があり、

引きしゃなぐる、

の転訛とし、

ひっしゃなぐる→しっしゃなぐる→しっちゃなぐる→しっちなぐる、

と訛ったとする。「引きしゃなぐる」とは、

引きちぎって取る、
掻きむしって取る、
ひったくるようにして取る、

といった意味で、

むしり取る、

という意味である。もし、この「ひったくる」含意が「しっちゃか」にあるとすると、

しっちゃかめっちゃか、

は、単に状態表現ではなく、

むしりとって滅茶滅茶にする、

という、主体の行為を表しているのかもしれない。とすると、

しっちゃかめっちゃか→ひっちゃかめっちゃか、

の転訛ではなく、

ひっちゃかめっちゃか→しっちゃかめっちゃか、

の転訛ということになる。他に、方言で、

引き裂く、

という意味で、

しっちゃぐ、
しっちゃく、

と言い、

裂ける、
破れる、

という意味で、

しっちゃげる

という言い回しもある(仝上)。そういえば、

ひっちゃぶる、
しっちゃぶる、

という言い方で、

裂く、
破る、

を強調する言い方もある。この「ひっ」は、「引く」の促音である。やはり、「ひっちゃか」「しっちゃか」は、

引く、

ということで、その動作の主体の意志を強く言い表している含意に思われる。もちろん憶説だが。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年05月16日

奉書焼


「奉書焼」とは、

魚介類や野菜・きのこ類などの材料に薄塩をして奉書紙に包んで蒸し焼きにした料理。香りづけに松葉やゆずの輪切りなどをのせることもある。島根の郷土料理、すずきの奉書焼きが知られる、

とある(世界の料理がわかる辞典)。

島根の郷土料理、スズキの奉書焼は、宍道湖でとれるスズキが、有名で、淡水のためとある(たべもの語源辞典)。藩政時代、宍道湖畔の漁師たちが、真冬の湖上でとれたばかりのスズキを熱い灰の中に入れて蒸し焼きにして食べていたものを、時の藩主不昧公(松平治郷)が、この荒っぽい丸焼きを賞味してみたいといわれたのを、いくら何でも灰まみれでは畏れおおいと奉書紙に包んで灰に埋めて焼いて差し上げたところ、大変喜ばれた、という(仝上)。ために、それ以来、

不昧公料理、

といわれ、維新まで、「お止め料理」とされてきた、という。

スズキの奉書焼き.jpg

(スズキの奉書焼き http://kyoudo-ryouri.com/food/737.htmlより)

その由来をみても、奉書で包むことが「パイ包み焼きのような、味を引き出すため、又は相乗効果を狙った手段」とは言えず、したがって「飾りの類」と考えるべきであろう、

ともあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9992_K/01.html。現在ではスズキに限らず様々魚介を使い、野菜・きのこ類や栗、銀杏、輪切り柚子などを加えてオーブンで焼いたりする。また、焼きだけではなく他の調理法を使うこともあり、「奉書巻き」という献立名もある。揚げたものは「奉書揚げ」である(仝上)、とある。

「奉書」(ほうしょ)とは、

主人の意を受けて従者が下達する文書。天皇の意を受けた場合は綸旨(りんじ)、上皇の場合は院宣(いんぜん)、親王の場合は令旨(りょうじ)、三位以上の場合は御教書(みぎょうしょ)、

である。

古文書の一種。高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に1度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8のがわかりやすい。平安時代中期以後こうした文書が見られる、という。差出者の意思と一致する直筆の書状、

直札(じきさつ)、

に対して言う。ちなみに、直札は、

直状(じきじょう)、
あるいは、
直書(じきしょ)、

ともいうが、

高貴な身分である差出人本人が直に署判・署名を行って差し出す書札様(しょさつよう)文書(もんじょ)、

である。「家臣」が代理して差し出す奉書(ほうしょ)や本文ではない副状(そえじょう 添状)に対して用いる。

鎌倉幕府では執権・連署は奉書が原則であったが、室町期、征夷大将軍の御判(ごはんの)御教書(みぎょうしょ 将軍自身の花押もしくは自署を加える直状形式)をはじめ、幕府・守護職が出す多くの公文書が直札形式となった。戦国大名・武将の文書もほとんど直札形式となったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%AD。家臣による「副状」を添付するのが典型とされる。

なお、「書札様文書」(しょさつようもんじょ)は、

(書札および書札様)文書を作成する際に守らなければならない儀礼(形式)と故実(こじつ)(作法)を指す。その様式は、はじめに要件等の本文、本文の終わる次行に日付、日付の下に差出書(さしだしがき)、日付の次行上段に充名書という構成を基本にしている。

「奉書紙」(ほうしょし、ほうしょがみ)は、

もともとは原料を楮とする和紙である楮紙のうち、白土などを混ぜて漉きあげたもので、日本の歴史上、奉書などの古文書で使用されたので、

奉書、

とも略す。

「奉書紙」の言葉がはじめて登場する史料は戦国時代後期に興福寺大乗院の門跡であった尋憲が著した『尋憲記』元亀四(1573)年正月27日条の「奉書かみ」を越前で買い求めたという記事であり、このことから一般に奉書紙は江戸時代のものとされる、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8%E7%B4%99、奉書紙の言葉はなくても、中世の古文書で使われた料紙の多くは奉書紙の系統に属すると考えられる、とある(仝上)。大言海には、

檀紙の、肌、美にして、皺なきもの、楮皮の精製なるに、米粉を加へ、のりのき(又、ねりのきとも云ふ、山地に多き、ユキノシタ科の落葉灌木)の液を糊として、厚く製す。純白なり。多く奉書に用ゐたればこの名あり。大奉書紙、中奉書紙、小奉書紙あり。越前の丹羽郡の産を上品とす。略して、ほうしょ、又、略延して、ほうしょう、

とある。書言字考節用集に、

越前所産紙、堅硬純白、以堪充其用(ホウショをさす)、故謂之奉書紙、

とあり、日本山海名物圖繪には、

越前奉書紙、奉書、餘國よりも出れども、越前に及ぶものなし。越前奉書、其品多し、

とある(仝上)。「檀紙」(だんし)とは、

古く、みちのくがみ、まゆみのかみ。紙の一種。上品なるもの。古へ、檀(マユミ)にて製せりとぞ、今は、楮なり。厚くして白し、面に細かき皺文(しぼ)あるを、高檀紙(又は鷹檀紙)と云ふ、

とある(仝上)、

ちなみに、「奉書焼」を家庭で作るには、

500~600gのスズキのウロコ・エラをとって、腸(わた)は胃だけとりのぞき、きれいに洗う。奉書紙を2~3枚水でぬらして、スズキを包む。焙烙か天火にいれて蒸し焼きにする。熱すぎると紙が焦げるし、低すぎると水気が出ておいしくない。煮返して醤油にもみじおろしを付けて食べる、

とある(たべもの語源辞典)。この調理法だと、はらわたが特にうまいので、胃以外をとらないようにして焼く、とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年05月17日

しぼ


「しぼ」は、

皺、

と当てる。

縮(ちぢみ)・縮緬(ちりめん)などの織物の表面に表れた細かい凹凸。また、皮革や紙につけたしわ、

の意であるが、特定的に、

烏帽子(えぼし)の表面に作られたしわ、

を指す。その「しぼ」は、

さび、

とも言う。

「皺」(慣音シュウ、漢音スウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。「皮+音符芻(スウ まぐさをぐっと引き締める、縮む)」、

であり、「しわ」や「表面が縮む」意である。

「しぼ」は、語源を記すものが少ないが、大言海は、

搾りの語根、

とし、

烏帽子(えぼし)の肌に作り為す皺の称、

とある。更に、

粗きを大しぼと云ひ、密なるを、小しぼなどと云ふ、

とある。烏帽子については後述するとして、「しぼ」の語源であるが、「皺」と当てた「しわ」はどうかというと、

萎れたるものの儀、

とある(大言海)。他に、

萎縮の意のシワムから(類聚名物考)、

というのがある。

シオルなどと同源、

ともある(日本語源広辞典)。つまり、その形から、

しぼむ(萎)、
しおる(萎)、

とつながる。「しぼむ」は、

シフ(廃)に通ず(大言海)、
シは緊縮の義をもつ語根(国語の語根とその分類=大島正健)、
シはシハ(皺)、ホムはクホム(窪)か(和句解)、

等々があるが、日本語源広辞典は、

シボ(縮み皺)+る、

とする。「しぼ」は、大言海の、

しぼる(絞る・搾る)、

というよりは、

しぼむ、
しおる、

の、しぼんだ状態表現からきていると見たほうがいいのではあるまいか。

皺がよる、

という状態表現を言い表す、

しわむ(皺む)、

という言葉があるが、

皺を活用した語、

であり(大言海)、

しわむ(撓む)、

という言葉は、

たわむ、

意もあるが、

しをる、
しなふ、

意で、

しおる(萎)の転、

とある(大言海)。

この「しぼ」を烏帽子に特定して用いたのは、もともと「烏帽子」は、

烏塗(くろぬり)の帽子、

の意であり、羅・紗などで袋型に作り、薄く漆をひして張りをもたせたものなので、

烏帽子全体が、柔らかであるために皺が生じた、

からである(有職故実図典)。

大錆.gif


柳錆.gif



後に、

皺の名残を形式化して、ことさらに皺を立てて漆で塗り固め、これを「さび」と呼んで、その大小により、「大さび」「小さび」「柳さび」、

などというようになって、

さび(皺)烏帽子、

といったので、なおさら「しぼ」が代名詞となった(仝上)。

江戸時代以降の立烏帽子の例.gif

(江戸時代以降の立烏帽子の例 http://www.kariginu.jp/kikata/2-2.htmより)


このように形式化した烏帽子を、

立烏帽子(たてえぼし)、

といい、天子・摂関家以下の公卿の平常服である直衣(ナホシ 直(ただ)の服、つまり平常服の意、宿衣(とのいぎぬ)である衣冠の対)の烏帽子とされた(仝上)。

立烏帽子:広橋兼勝肖像.jpg

(立烏帽子:広橋兼勝肖像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90より)

この立烏帽子が、

風に吹かれて折れた形状をそのまま固定して形式化したもの、

を、

風折(かざおり)烏帽子、

という。狩衣(かりぎぬ 野外遊猟に際して用いた衣)には、立烏帽子の他に、風折烏帽子を用いた。

風折烏帽子.gif

(風折烏帽子 左折り http://www.kariginu.jp/kikata/2-2.htmより)

この風折烏帽子よりさらに細かく折ったものを、

折烏帽子、

といい、武士が好んで用いたので、

侍烏帽子、

とも言う。直垂(ひたたれ 水干と同様袴の下に着籠めて着用した)に用いた。直垂は、武士にとって鎧の下に着るのに都合がよかったので用いるようになり、室町時代には礼服に準ずるようになる(仝上)。

烏帽子古式の侍.jpg

(古式の侍烏帽子 http://www.kariginu.jp/kikata/2-2.htmより)

「さび」は、

さぶ(荒)の名詞形、

とあり(大言海)、

秋や深き月の光もさびえぼし頭の上に影の成ぬる(七十一番職人歌合)、

とあり、

きらめきえぼし、

に対し、

荒びたるゐならむ、

とある(大言海)。

古びて趣の出た、

という含意であろうか。昔、学帽を、わざと古びさせたのと似たマインドであるようだ。

折烏帽子:多賀高忠肖像.jpg

(折烏帽子:多賀高忠肖像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90より)

今日では、

シボ加工、

という表面処理のひとつとして、物理的にシワ模様(シボ)をつける。「シボ加工」は、

金属やプラスチックなどの素材の表面に細かい凹凸の模様(パターン)を付けて質感を表現する加工法

のことである(IT用語辞典バイナリ)が、いわゆる「梨地」や、細かく擦った跡のような筋目を入れる「ヘアライン加工」なども、シボ加工の一種となる。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:しぼ
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2020年05月18日

くちはばったい


「くちはばったい」は、

口幅ったい、

と当てる。

身の程も考えないで大きなことや生意気なことを言う態度、

の意(広辞苑)で、

偉そうな口のききよう、
身分不相応でなまいきな口のきき方、

といった意(大辞林)である。

口幅ひろし、

という言い方もする。「はばったい」は、

幅が広い、
はだかっている、
張る感じである、

という意(広辞苑)になるが、「はだかる」とは、

開かる、

と当て、

広がり開く、
手足などを広げて立つ、前をふさぐように立つ、

という意になり、「はばったい」自体に、

幅いっぱいに広がっている感じである、
偉そうにしている、

という意があり、

両手を広げて立ち開かるような口のきき方、

という含意となる。

口幅ったいとは、偉そうな口の利き方である様子。「幅ったい」は、幅いっぱいに広がっている様子を言う。狭い道を幅いっぱいに広がってやってくるヤツの態度を見ればわかるように、「偉そうにしている」ということである、

という意味合いになる(笑える国語辞典)。

同義の、

差し出口、
差し出口をきく、

の、

分を超えて口出しする、

というよりは、

僭越、

という、

身分・地位を超えて出過ぎる、
でしゃばる、

に近い含意に思える。大言海は、

口幅甚(いた)しの轉、

とし、「はばったし」も、

幅甚(いた)しの轉、

とする。

ひどく張った感じ、

である。その是非を云々できないが、

憚(はば)し、

という言葉がある。

はばかられる、

という意である。憶説ながら、

口はばし→口はばったし、

の転訛はないのだろうか。「はばかる」は、

阻むの自動か(大言海)、
ハバメ(阻)と同根。相手の力や大きさに直面して、それを恐れ、あるいはそれを障害として意識して、相手との間に距離を置くのが原義(岩波古語辞典)、

とある。もし、

口憚る、

なら、

差し出がましいですが、
僭越ながら、

と前置きするのと同じように、

口憚られますが、

という使い方になる。「口幅ったい」だと、

口幅ったいようですが、

という言い方で、

お言葉を返すようですが、

といった含意になる。

差し出がましいですが、
僭越ながら、
口憚られますが、

は、その差し出た振舞い自体をあらかじめ断っている感じだとすると、

口幅ったい、

は、内容について、反論する、という含意なのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2020年05月19日

史記の世界像


武田泰淳『司馬遷―史記の世界』を読む。

司馬遷―史記の世界.jpg


本書は戦前に書かれたものなので、今日その位置づけが、どうなっているかはわからない。しかし、本書が、小説家ならではの明晰な史記の「世界像」を、描き出していることは、確かである。

『春秋』のような編年体ではなく、紀年体(きでんたい)のスタイルを編み出した「史記」の構造は、

十二本紀(ほんぎ)
 ↓
三十世家(せいか)
 ↓
七十列記(れつでん)、

という構造になっている。花田清輝が、「司馬遷が、権力のピラミッドの頂点に注目し、それからしだいにかれの視線を底辺にむけていったのは―すなわち、かれの『史記』を、まず『十二本紀』、つぎに、『三十世家』、おわりに『七十列伝』といった構成で書きすすめていったのは理由のないことではありますますい」と評したのは、武田の着眼に基づいてのものであった。

本紀は、

帝王一代の事跡、

を記したものであり、世家は、

諸侯など、世襲の家柄の記録、

列伝は、

人臣の伝記を並べた記録、

である。

史記が、ピラミッド型の階級構造にしたのは、ひとつは、その世界が頂点に立つ帝王からピラミッド構造を成していたからではあるが、いまひとつは、司馬遷が、歴史を動かすものは人間とみた、からである。

世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界をかたちづくる。政治をになうものが世界をになう。「史記」の意味する政治とは「動かすもの」のことである。世界を動かすものの意味である。歴史の原動力となるもの、世界の動力となるもの、それが政治的人間である。政治的人間こそは「史記」の主体をなす存在である。政治的人間は、世界の中心となる。そのために「十二本紀」がつくられた。政治的集団は分裂する集団となる。そのために「三十世家」がつくられた。政治的人間は独立する個人となる。そのために「七十列伝」がつくられた。「本紀」についても、「世家」に於いても、また「列伝」に於いても、司馬遷は人間を政治的人間としてとりあつかうことを忘れなかった。人間が世界の中心となり、分裂する集団となり、独立する個人となるためには、政治的人間にならなければならない。政治的人間としてとりあつかわれた人間だけが、歴史の舞台に於いて、一つの役目をもつことができる。そして役目をもたされた人物として、歴史劇に出場することが許される。かくして、この人物は、あの人物と関係をもち、この役は、あの役と連絡し、そして「史記」全体ができあがるのである。

と武田は記す。そして、

「人間」の歴史が司馬遷の書こうとするところである。「人間」の姿を描くことによって、「世界」の姿は描き出される。(中略)根気よくあせらずに、あたえられた記録により、自分の眼や耳のはたらくかぎり、「人間」の姿を追い求め、「人間」の動きを見失うまいとつとめているうちに、司馬遷の世界構想はおのずと出来上がって来る。

と。だから、出来事の編年体では描き切れないので、

世界の中心となった者の本紀

それを支えた者たちの世家

個々の歴史に登場した個人としての列伝、

という、人の連鎖による「空間的構造」という「史記」世界像は、

世界の『史記』学者の誰も言わなかった、

卓見である(山本健吉)、らしい。

当然ながら、

「本紀」は時間的に継続し、かつ交替したが、各「世家」は空間的に並立し、一世界を形成している。しかもその並立はやはり、周囲から「本紀」を支える並立である。

という「本紀」と「世家」の複雑な関係を示す例として、武田は「陳杞(ちんき)世家」を挙げている。

舜の子孫は、周の武王がこれを陳に封じた。その陳を楚の惠王が滅ぼした。陳については「世家」に記載してある。禹(ウ)の子孫は、同じく武王がこれを杞に封じた。この杞を楚の恵王が滅ぼした。杞については「世家」に記載してある。契(セツ)の子孫は殷となった。殷については「本紀」に記載してある。殷が滅亡して後、周はその子孫を宋に封じた。その宋を斉(セイ)の湣(ビン)王が滅ぼした。その宋については「世家」に記載してある。后稷(コウショク)の子孫は周となった。その周を秦の昭王が滅ぼした。周については「本紀」に記載してある。皐陶(コウヨウ)の子孫の或る者は、英と六(リク)とに封ぜられた。その英と六を楚の穆(ボク)王が滅ぼした。これらについては系譜がない。伯夷(ハクイ)の子孫は、周の武王に至って再び斉に封ぜられた。封ぜられた人は太公望と曰う。この斉を陳氏が滅ぼした。斉については「世家」に記載してある。伯翳(ハクエイ)の子孫は、周の平王の時に至り封ぜられて秦となった。その秦を項羽が滅ぼした。秦については「本紀」に記載してある。垂・益・虁(キ)・龍(リョウ)はその子孫が何処に封ぜられたか不明である。手がかりがない。
右舜から龍まで十一人は、いずれも唐虞(トウグ)の際に功積徳行で有名な臣である。そのうち五人の子孫は皆帝王となった。その余の者の子孫も立派な諸侯になった。

「唐虞の際」とは、中国の伝説上の聖天子である陶唐氏(尭)と有虞氏(舜)二人の治めた時代を指す。ということは、その後の、

呉・斉・魯・燕・管・蔡・陳・杞・衛・宋・晉・楚・越・鄭・趙・魏・韓、

等々は、すべて、尭舜の時代の人々の枝葉であるが、それは「本紀」から出て、面白いことに、「功積徳行」のあった十一人のうち五人は「本紀」に載り、他のものが「世家」扱い、ということである。「本紀」と「世家」の関係がよくわかる記述である。それを、武田は、こう記す。

「本紀」継続がすでに、人間闘争を縦に貫くものであったが、「世家」並立はこれを横につらねたものと言える。「世家」分裂の出発点が、呉、斉、周型であろうと、趙、魏、韓型であろうと、分裂した以上、排他相剋の運命は免れぬ。「本紀」のみが史記世界を充たすのではないことは、「本紀」を読むだけでよく呑み込めた事実であるが、いよいよ「世家」に入ると、世界並立現象の物凄さが、身にしみてわかるのである。

「列伝」は、伯夷列伝からはじまる。その最後に、

天道は公平で、いつも善人の味方をするという者がいる。しかし伯夷、叔斉の如きは、善人と謂えないであろうか。仁をつみ行いを清くし、しかもかくの如くに餓死したではないか。孔子の弟子七十人のうち、孔子はただ顔淵だけを薦めて、學を好む者とした。それだのに顔淵は屡々貧乏で、糟糠さえ充分に食べられず、そのまま若死をしている。天の善人に報ゆるやり方とは何であるか。盗跖は毎日無辜の民を殺し、人の内臓を膾にし、暴戻無残、徒党数千人を聚めて天下を横行したが、ついに天寿をもって終わっている。これは一体何の徳があってのことか?これらはハッキリ誰にでもわかる例である。近世に至っては、素行が治まらず、悪事を犯して、しかも終身逸楽し、富貴が親子代々つづいている者がある。また、行動をつつしみ、言語をつつしみ、邪道をふまず、公明正大なことでなければ憤発しないでいて、しかも禍に遇うものが数え切れない。ここに於いてか余は惑わざるをえない。天道、是か非か、とは真実ではないか。

とある。これが、「史記」を貫く思想とされる所以である。

天道すら信じられないならば、人は何を信じたら良いのか? 司馬遷は何を信じたら良いのか? 自分である。自分の歴史である。「史記」である。天すら棄てたもの、天のあらわさなかったもの。それらの人物をとりあげ、あらわすのは、我司馬遷である。我を信ぜよ。我が歴史を信ぜよ。極端な絶望の淵に沈みながら、もりあがってくる自信力で、「伯夷列伝」は私達をおどろかすのである。伯夷の絶対否定が、かえって司馬遷の勇気を増すのである。「こころに鬱結するところがあって、その道を通ずることが出来ず、往事をのべて来者を想うのである」(太史公自序)。自ら、読者のために「天道」をつくる。自ら「天道」となって、歴史を照明する、不敵な決意である。

これは、腐刑という屈辱を被った司馬遷の心を読んだ著者の心でもある。天ではなく、往事に、天道があり、未来がある、と。

司馬遷.jpg


なお、「史記・列伝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447234854.htmlについては、触れた。

参考文献;
武田泰淳『武田泰淳全集第十一巻』(筑摩書房)

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2020年05月20日

ちぎっては投げ。。。


粉川哲夫編『花田清輝評論集』を読む。

花田清輝評論集.jpg


本書は、編者粉川哲夫氏が、

「1949年刊行の『二つの世界』から、遺著となった1974年刊の『箱の話』にいたる九冊の著書から、二九篇のエッセーを選び、ほぼ発表年次順に並べたもの」

であるが、それは、

「花田清輝の文体の多様さや思考の飛躍のあざやかさが端的に表れているものを優先した」

と「解説」で記す。理由は、

「花田清輝にとって、文体は、つねに『内容』と深く結びついているのだが、花田清輝の世界の魅力に接するには、『内容』からよりも文体から入る方がこの作者の流儀にかなっていると思うからである」

としている。そのせいか、僕には、『復興期の精神』『鳥獣戯話』『小説平家』『室町小説集』等々のフィクションに比べると、いまひとつのれなかった。大庭みな子氏が、いつも「くっ、くっ、くっ、」と笑いながら愛読した、というほどの切れ味を感じられなかった。

思うにそれは、編者言う、

「花田清輝の文章は、ことごとく、政治的・文化的な状況に触発されながら書かれている。文壇青磁から国際政治まで、書の文化からテレビ文化までのあらゆる日常的現象から刺激を受けながら、彼が『乱世をいかにいきるか』で言った『ちぎっては投げ、ちぎっては投げ』という批評活動」

の、肝心の文脈を共有できないからに違いない、という気がした。その点、フィクションは、そもそも共有できる文脈の上で展開されるのだから、格段に違うのかもしれない。それと、フィクションの中では、記憶で書くので間違っているかもしれないが、『鳥獣戯話』の中に、れっきとした史書にまぎれて偽書(『逍遥軒記』だったか)を史書の如くに引用して、煙に巻いていたようなことは、現実相手にはむつかしいせいかもしれない。

その中では、1959年刊行の

「柳田國男について」

は、出色であると思った。柳田國男の姿勢を、

前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものを超えようとする、

態度とみる。それはまた、花田自身の方法論とも重なる。だから、

「わたしは、どちらかといえば、柳田史学よりも柳田民俗学に―柳田民俗学によってあきらかにされたわが國におけるさまざまな芸術のありかたに、ヨリ多く興味を持つ。なぜなら、わたしには、それらの芸術のありかたを否定的媒介にしないかぎり、近代芸術をこえた、あたらしい革命芸術のありかたは考えられないからである」

と書いている。それは柳田國男が『藁しべ長者と蜂』で、

「國の文芸の二つの流れ、文字ある者の間に限られた筆の文学と、言葉そのままで口から耳へ伝えていた芸術と、この二つのものの連絡交渉、というよりも、一が他を育み養ってきた経緯が、つい近頃まで心附かれずに過ぎた。昔話のやや綿密なる考察によって、始めて少しずつ我々にわかってきたのである。いわゆる説話文学に限らず、歌でもことわざでも、もとは一切が口の文芸であり、今でもまだ三分の一はそうだ。現にカタリモノなどは、活字になってもなおカタリモノと呼ばれている。即ち少しも筆を捻らぬ人々の隠れたる仕事のあと始末だったのである。それが文人を尊敬するの余りに、悉く椽の下の舞になってしまった。読者という者の文芸能力を無視して、大衆はアレキサンドル大王の兵士の如くでどこへつれて行って討死させてもよいもののようになった」

と述べているのに触れて、

創造者としての大衆の主体性を過小評価、

しているとして、かつての「芸術大衆化論争」を批判しているのだが、それは、今日死語に近いので省くとして、柳田が、

「活字文化以前の視聴覚文化と、以後の視聴覚文化とのあいだにみいだされる対応」

に着眼し、

「前者を手がかりにして後者を創造することによって、活字文化そのものをのりこえていく」
「民間説話などに代表されるかつての視聴覚的表現を手がかりにして、ラジオやテレビなどの未来の新しい視聴覚表現をつくりだし、文学的表現の限界を突破していく」

という問題意識は、半世紀たった今日、確かに、今日、ネットやゲームを含めたデジタル映像文化や漫画が活字文化を凌駕しているのを見るとき、たぶん花田清輝が想定したものとは違ったものになっているはずである。花田の想定した「のりこえ」像はわからないが、活字文化は、(活版印刷の時代の)「活字」という言葉自体が死語になりつつあるのを考えると、最早文字単独で世界をつくる文学以上のことが、視聴覚、あるいは視聴触覚で、表現できる、それが技術的に可能になっているということははっきりしている。そのコンテンツが、活字文化のそれを超えているかどうかは別だが。

花田は、この中で、桑原武夫の、

「日本文化のうち西洋の影響下に近代化した意識の層があり、その下に封建的といわれる、古風なサムライ的、儒教的な日本文化の層、さらに下にドロドロとよどんだ、規定しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわるような、シャーマニズム的なものを含む地層がある」

を紹介しているが、分解して見せた文化地層の、最下層のどろどろした地層こそ、柳田が探求し続けた世界である。今日でも、表層の積み重なりがあろうとも、突然何かの折に吹き出てくるようなマグマとして、あることは確かである。

2020年の春、コロナ禍の最中、疫病よけに効くとされる妖怪「アマビエ」がネットを中心に注目を集めたのも、文化地層の底からの蘇りの気配ではある。

アマビエの出現を伝える瓦版.png

(アマビエの出現を伝える瓦版(弘化3年(1846)4月中旬(5月上旬) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%93%E3%82%A8より)

しかし、そのマグマは、あるいは、視聴覚化した瞬間、例えば、鳥山石燕『画図百鬼夜行』や、水木しげるの『妖怪事典』のように見える化した瞬間、怖くもなんともなくなるということはある。そこに文学の可能性は、僕は残っているし、それは口承文芸と共通する、想像力に依拠した文脈だと感じているのだが。

ところで、もうひとつ本書で取り上げておきたいのは、

「ダイダラ坊の足跡」

ので触れている、南方熊楠である。その巨人ぶりは、今や知らぬ人はいないが、

「日本の学者、口ばかり達者で、足が動かぬを笑い、みずから率先して隠花植物を探索はすることに御座候」

と言いつつ、馬にけられて膝関節を痛めながら、歩くのを諦めぬ姿を書き記す花田には、イロニーも、皮肉もない。珍しいことである。

最晩年、遺著に納められた「箱の話」に、

ひるがえって考えるならば、ここに、こうして立っているわたし自身が、無数の先祖の『生きている墓』であって、べつだん、かれらは、石でつくった、墓らしい墓を欲しがってはいなかったのかもしれないのだ」

とある。それは服部之総の、

「子供のない夫婦はあるが、父と母をもたぬ子供はいない。そうだとすれば、鼠算というものは、子供に関するかぎり不確実であるが、祖先に関するかぎり確実にふえていくものである」

を受けてのものだが、不思議と印象深い。、

なお花田清輝の作品については、

「鳥獣戯話」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470946114.html
「復興期の精神」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472034541.html
「小説平家」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470800504.html

についてそれぞれ触れた。

参考文献;
粉川哲夫編『花田清輝評論集』(岩波文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:33| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする