2020年05月19日

史記の世界像


武田泰淳『司馬遷―史記の世界』を読む。

司馬遷―史記の世界.jpg


本書は戦前に書かれたものなので、今日その位置づけが、どうなっているかはわからない。しかし、本書が、小説家ならではの明晰な史記の「世界像」を、描き出していることは、確かである。

『春秋』のような編年体ではなく、紀年体(きでんたい)のスタイルを編み出した「史記」の構造は、

十二本紀(ほんぎ)
 ↓
三十世家(せいか)
 ↓
七十列記(れつでん)、

という構造になっている。花田清輝が、「司馬遷が、権力のピラミッドの頂点に注目し、それからしだいにかれの視線を底辺にむけていったのは―すなわち、かれの『史記』を、まず『十二本紀』、つぎに、『三十世家』、おわりに『七十列伝』といった構成で書きすすめていったのは理由のないことではありますますい」と評したのは、武田の着眼に基づいてのものであった。

本紀は、

帝王一代の事跡、

を記したものであり、世家は、

諸侯など、世襲の家柄の記録、

列伝は、

人臣の伝記を並べた記録、

である。

史記が、ピラミッド型の階級構造にしたのは、ひとつは、その世界が頂点に立つ帝王からピラミッド構造を成していたからではあるが、いまひとつは、司馬遷が、歴史を動かすものは人間とみた、からである。

世界の歴史は政治の歴史である。政治だけが世界をかたちづくる。政治をになうものが世界をになう。「史記」の意味する政治とは「動かすもの」のことである。世界を動かすものの意味である。歴史の原動力となるもの、世界の動力となるもの、それが政治的人間である。政治的人間こそは「史記」の主体をなす存在である。政治的人間は、世界の中心となる。そのために「十二本紀」がつくられた。政治的集団は分裂する集団となる。そのために「三十世家」がつくられた。政治的人間は独立する個人となる。そのために「七十列伝」がつくられた。「本紀」についても、「世家」に於いても、また「列伝」に於いても、司馬遷は人間を政治的人間としてとりあつかうことを忘れなかった。人間が世界の中心となり、分裂する集団となり、独立する個人となるためには、政治的人間にならなければならない。政治的人間としてとりあつかわれた人間だけが、歴史の舞台に於いて、一つの役目をもつことができる。そして役目をもたされた人物として、歴史劇に出場することが許される。かくして、この人物は、あの人物と関係をもち、この役は、あの役と連絡し、そして「史記」全体ができあがるのである。

と武田は記す。そして、

「人間」の歴史が司馬遷の書こうとするところである。「人間」の姿を描くことによって、「世界」の姿は描き出される。(中略)根気よくあせらずに、あたえられた記録により、自分の眼や耳のはたらくかぎり、「人間」の姿を追い求め、「人間」の動きを見失うまいとつとめているうちに、司馬遷の世界構想はおのずと出来上がって来る。

と。だから、出来事の編年体では描き切れないので、

世界の中心となった者の本紀

それを支えた者たちの世家

個々の歴史に登場した個人としての列伝、

という、人の連鎖による「空間的構造」という「史記」世界像は、

世界の『史記』学者の誰も言わなかった、

卓見である(山本健吉)、らしい。

当然ながら、

「本紀」は時間的に継続し、かつ交替したが、各「世家」は空間的に並立し、一世界を形成している。しかもその並立はやはり、周囲から「本紀」を支える並立である。

という「本紀」と「世家」の複雑な関係を示す例として、武田は「陳杞(ちんき)世家」を挙げている。

舜の子孫は、周の武王がこれを陳に封じた。その陳を楚の惠王が滅ぼした。陳については「世家」に記載してある。禹(ウ)の子孫は、同じく武王がこれを杞に封じた。この杞を楚の恵王が滅ぼした。杞については「世家」に記載してある。契(セツ)の子孫は殷となった。殷については「本紀」に記載してある。殷が滅亡して後、周はその子孫を宋に封じた。その宋を斉(セイ)の湣(ビン)王が滅ぼした。その宋については「世家」に記載してある。后稷(コウショク)の子孫は周となった。その周を秦の昭王が滅ぼした。周については「本紀」に記載してある。皐陶(コウヨウ)の子孫の或る者は、英と六(リク)とに封ぜられた。その英と六を楚の穆(ボク)王が滅ぼした。これらについては系譜がない。伯夷(ハクイ)の子孫は、周の武王に至って再び斉に封ぜられた。封ぜられた人は太公望と曰う。この斉を陳氏が滅ぼした。斉については「世家」に記載してある。伯翳(ハクエイ)の子孫は、周の平王の時に至り封ぜられて秦となった。その秦を項羽が滅ぼした。秦については「本紀」に記載してある。垂・益・虁(キ)・龍(リョウ)はその子孫が何処に封ぜられたか不明である。手がかりがない。
右舜から龍まで十一人は、いずれも唐虞(トウグ)の際に功積徳行で有名な臣である。そのうち五人の子孫は皆帝王となった。その余の者の子孫も立派な諸侯になった。

「唐虞の際」とは、中国の伝説上の聖天子である陶唐氏(尭)と有虞氏(舜)二人の治めた時代を指す。ということは、その後の、

呉・斉・魯・燕・管・蔡・陳・杞・衛・宋・晉・楚・越・鄭・趙・魏・韓、

等々は、すべて、尭舜の時代の人々の枝葉であるが、それは「本紀」から出て、面白いことに、「功積徳行」のあった十一人のうち五人は「本紀」に載り、他のものが「世家」扱い、ということである。「本紀」と「世家」の関係がよくわかる記述である。それを、武田は、こう記す。

「本紀」継続がすでに、人間闘争を縦に貫くものであったが、「世家」並立はこれを横につらねたものと言える。「世家」分裂の出発点が、呉、斉、周型であろうと、趙、魏、韓型であろうと、分裂した以上、排他相剋の運命は免れぬ。「本紀」のみが史記世界を充たすのではないことは、「本紀」を読むだけでよく呑み込めた事実であるが、いよいよ「世家」に入ると、世界並立現象の物凄さが、身にしみてわかるのである。

「列伝」は、伯夷列伝からはじまる。その最後に、

天道は公平で、いつも善人の味方をするという者がいる。しかし伯夷、叔斉の如きは、善人と謂えないであろうか。仁をつみ行いを清くし、しかもかくの如くに餓死したではないか。孔子の弟子七十人のうち、孔子はただ顔淵だけを薦めて、學を好む者とした。それだのに顔淵は屡々貧乏で、糟糠さえ充分に食べられず、そのまま若死をしている。天の善人に報ゆるやり方とは何であるか。盗跖は毎日無辜の民を殺し、人の内臓を膾にし、暴戻無残、徒党数千人を聚めて天下を横行したが、ついに天寿をもって終わっている。これは一体何の徳があってのことか?これらはハッキリ誰にでもわかる例である。近世に至っては、素行が治まらず、悪事を犯して、しかも終身逸楽し、富貴が親子代々つづいている者がある。また、行動をつつしみ、言語をつつしみ、邪道をふまず、公明正大なことでなければ憤発しないでいて、しかも禍に遇うものが数え切れない。ここに於いてか余は惑わざるをえない。天道、是か非か、とは真実ではないか。

とある。これが、「史記」を貫く思想とされる所以である。

天道すら信じられないならば、人は何を信じたら良いのか? 司馬遷は何を信じたら良いのか? 自分である。自分の歴史である。「史記」である。天すら棄てたもの、天のあらわさなかったもの。それらの人物をとりあげ、あらわすのは、我司馬遷である。我を信ぜよ。我が歴史を信ぜよ。極端な絶望の淵に沈みながら、もりあがってくる自信力で、「伯夷列伝」は私達をおどろかすのである。伯夷の絶対否定が、かえって司馬遷の勇気を増すのである。「こころに鬱結するところがあって、その道を通ずることが出来ず、往事をのべて来者を想うのである」(太史公自序)。自ら、読者のために「天道」をつくる。自ら「天道」となって、歴史を照明する、不敵な決意である。

これは、腐刑という屈辱を被った司馬遷の心を読んだ著者の心でもある。天ではなく、往事に、天道があり、未来がある、と。

司馬遷.jpg


なお、「史記・列伝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447234854.htmlについては、触れた。

参考文献;
武田泰淳『武田泰淳全集第十一巻』(筑摩書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:35| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする