2020年05月31日

剣豪小説


「歴史小説」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470502694.htmlで触れたように、世情、歴史小説と時代小説とは区別されている。

歴史小説は、

主として歴史上に実在した人物を用い、ほぼ史実に即したストーリー、またはその時代を設定して、その中での空想上の物語が書かれたものが展開される小説、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC。たとえば、司馬遼太郎の作品のほとんどは歴史小説の範疇に入る。一時凝って、ほぼ全作品を読んだが、時に、小説を歴史そのものの如く振舞うのに、辟易した。小説は小説であって、歴史にはなれない。この歴史小説に対して、

時代小説は、

架空の人物(例えば銭形平次)を登場させるか、実在の人物を使っても史実と違った展開をし(例えば水戸黄門)、史実と照らし合わせるとかなり荒唐無稽、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%B0%8F%E8%AA%AC。その時代小説の一ジャンルとして、

剣豪小説、

なる分野がある(仝上)、らしい。最近のものはわからないが、かつて読んだものとしては、吉川英治『宮本武蔵』、五味康祐『喪神』、中里介山『大菩薩峠』、柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』、池波正太郎『剣客商売』等々が代表的だ。

大菩薩峠 都新聞版.jpg

そんなに熱心な剣豪小説ファンではない。最初に読んだのは、

中里介山『大菩薩峠』

である。その後、何冊か間にあったかもしれないが、御多分に漏れず、

吉川英治『宮本武蔵』

である。

宮本武蔵・吉川英治.jpg

しばらくは藤沢周平に凝って、ほぼ全作品を読んだ。剣豪小説の部類に入るのは、隠し剣シリーズの、

『隠し剣孤影抄』
『隠し剣秋風抄』
『たそがれ清兵衛』

ではないかと思う。「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼ノ爪」「盲目剣谺返し」「必死剣鳥刺し」は映画化された。

隠し剣秋風抄.jpg

「神業」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163234.htmlで触れたことだが、昔読んだ剣豪小説の中で、決闘のシーンというか、果たし合いのシーンで、印象に残っているのは、

第一は、中里介山の『大菩薩峠』で、詳しいことは覚えていないが、土方歳三率いる新徴組の手練れが、清川八郎を襲撃しようとして、襲うべき駕籠を間違え、乗っていた島田虎之助に襲いかかり、結局島田一人に十数人の使い手全員が倒され、土方も翻弄される、すさまじい戦いシーンがあった。その迫力は、ずっと記憶に残っている。襲撃の一隊に加わった主人公、机龍之介は呆然、手をつかねて立ち尽くしていた、と記憶している。

第二に、指を折るのは、吉川英治の『宮本武蔵』で、確か武蔵が、柳生石州斎の屋敷に紛れ込み、柳生の四天王と、刃を交えるシーンがあった。その気迫と、立ち会う面々との間合いは、一瞬で決着する吉岡兄弟との立ち会いも、一条下がり松のシーンも、般若坂の決闘も、巌流島の決闘も、かすむほどの緊迫したものだと記憶している。

その他は、以上の作品ほどには印象深くないが、

五味康祐の『柳生連也斎』

での連也斎と武蔵の弟子鈴木綱四郎との立ち会いシーンも記憶に残る。

秘剣・柳生連也斎 (新潮文庫).jpg

しかし、事実は小説より奇なり、実際の剣豪は、こんなものではなかったらしい。甲野善紀氏は、江戸時代の剣客で、夢想願流の松林左馬助無雲のエピソードを紹介している。

ある夏の夕方、蛍見物に川べりを門弟とともに散歩していた無雲を、門人の一人が川へいきなり突き飛ばした。無雲は突き飛ばされたなりフワリと川を飛び越え、しかも、突き飛ばした門人も気づかぬ間に、その門人の佩刀を抜き取っていた…。

それは遠い江戸時代の話ではなく、現代の武道家にもいる、という。たとえば、柔術家の黒田泰治師範は、警察の道場で、寝転んだまま力士五人に体中を押さえさせ、よもやと思っていたら、あっという間に、いとも簡単に起き上ってみせた…。

あるいは、親戚男谷信友の弟子の島田虎之助の元で修業した勝海舟が、幕末の剣豪白井亨についてこんなことを語っている。

此人の剣法は、大袈裟に云えば一種の神通力を具えていたよ。彼が白刃を揮うて武場にたつや、凛然たるあり、神然たるあり、迚も犯す可からざるの神気、刀尖より迸りて、真に不可思議なものであったよ。己れらは迚も真正面には立てなかった。己れも是非此境に達せんと欲して、一所懸命になって修行したけれども、惜乎、到底其奥には達しなかったよ。己れは不審に堪えず、此事を白井に話すと、白井は聞流して笑いながら、それは御身が多少剣法の心得があるから、私の刃先を恐ろしく感ずるのだ。無我無心の人には平気なものだ。其処が所詮剣法の極意の存在する処だと言われた。己れは其ことを聞いて、そぞろ恐れ心が生じて、中々及ばぬと悟ったよ。

その白井は、平和時の武術を晴天の雨具にたとえ、なるべく目立たぬことを心掛けるように説いたという。

雨でもないのに、これみよがしに剣術家然として歩くのは、晴れているのに雨具をつけて歩くようなもので、人々の顰蹙をかうだけだ、と。

そういう実態をみると、どうも小説は、少し立ち合いが派手だ。机竜之介は、音無しの構えだ。とは、

相手が討ってくるまで動かずに、相手がしびれをきらして斬りかかってきたところを討つ技である。相手の刀と一度も刃を合わさないので音が鳴らないので音無しという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BA%E7%AB%9C%E4%B9%8B%E5%8A%A9。眠狂四郎の「円月殺法」に似ていなくもないが、むしろ、竜之介の粗野で粗暴なところは、その静かに待つ剣法とは合っていないように思えてならない。

「円月殺法」は、

眠狂四郎無頼控(一).jpg

陽刀の変化の妙である。したがって、その鋒がおそろしいのであって、刃はおそるるに足りない。ということは、上段や青眼で、これを防ぐには魔神にひとしい迅速の術をそなえていなければならぬ。陰刀をもって、おのれの目から円月をはばむのこそ、最も適切というほかはない。陰刀の場合、刃が威力を含み、鋒は大した役に立たないからである。
 右近の無眼唯心流は、実に、狂四郎の円月殺法に勝つために編まれたかとさえ思いなされる奇怪の構えであった。
 やむなく、狂四郎は、円月殺法をすてて、刀を下段から青眼に移した。陰刀を制するには、気根を青眼に罩めるのみである。
 全身に満たした鋭気を、太刀の鍔もとより、刀身の髄 を通して、鋒までつらぬかせ、技を超えた石火応変の風心刀法を使うが肝要となる。
 狂四郎は、敵の攻撃を誘うべく、ゆっくりと、右へ右へとまわりはじめた(「眠狂四郎無頼控」)。

こう見ると、ただ受動ではない。

坂本龍馬を斬ったという今井信郎は、北辰一刀流の皆伝、榊原健吉から直心影流を学んだが、片手打ちという我流の実践剣法で、ひと打ちで相手を倒したらしいが、その彼が、こう言っている。

免許とか、目録とかという人達を斬るのは素人を斬るよりははるかに容易、剣術なぞ習わない方が安全、と。

追い込まれた人が、窮鼠猫を噛む状態の予想外の膂力とスピードの方が、対応できないということらしい。言ってみると、剣術というのは、一定の枠組みの中で、双方想定した枠内でやっているということなのかもしれない。

そういう通常の剣法に対して、いわゆる「相ぬけ」を究極の形として目指した異色の剣法に、「無住心剣術」がある。頂点は、相打ちではなく、相ぬけという。

剣術の勝負は、勝か負けるか、相打ちになるか、そうでなければ意識的に引き分けるか以外ない武術の鉄則を超え、お互いが打てない、打たれない状態で、たとえば、一雲と巨雲の師匠と弟子では、一方は太刀を頭上に、一方は太刀を肩の上にかざして、互いにすらすらと歩み寄り、いよいよの間合いに入ってから、互いに見合って、「ニコッ」とわらってやめた、という。しかし他流には負けたことはない、という。

「他流を畜生心によるもの」

と開祖・針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)がいう。

「無住心剣術」の稽古法は、片手打ちで、特有の絹布や木綿でくるんだ竹刀で、ひたすら相手に向かって真っすぐ入り、相手の眉間へ引き上げて落とす、相打ちから入る。

よく当たるものはよくはずれ、よくはずるるものはよく当たる、

という言葉があり、相手はこっちの姿をみて打ち込んでくるが、こちらは敵を敵として認識せず、敵の気からはずれて出ていくため、意識的に打ち込むものほどはずれてしまい、こちらは相手の気筋を外してでるため、相手には不意に目の前にあらわれるように感ずるらしい。

心にとかくの作為があって勝負に臨めば、勝負にとらわれて、足がなかなか進まず、立ちが相手に届かない、

ともいう。

いわば、「常の気のまま」を尊重する流儀のようで、相手を打つも自分が相手を打つというよりも、自然の法則(天理の自然)が自分の体を通して行われた、という理法のようだが、その太刀の威力は、すさまじく、竹刀打ちを兜で受けたものが、吐血したというほどのものだ。従って、無敗の剣とも言われる。

双方に戦う気があれば、相抜けにはならず、相打ちになる。「相抜け」とは夕雲が用いた用語で、「無住心剣」による立ち合いの理想を説いたものとされる。

双方が傷を負う相打ちとは異なり、相抜けは互いに空を打たせて、無傷の分かれとなる。むしろ高い境地に至った者同士であれば、互いに剣を交える前に相手の力量を感じ取り、戦わずして剣を納めるというもの、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9D%E3%83%B6%E8%B0%B7%E5%A4%95%E9%9B%B2

「兵法を離れて勝理は明らかに人性天理の自然に安坐するところに存する」

と、刀の勝負より心の勝負を説いたものとされる。ここまで行くと、もはや剣法というよりは悟達に近い。しかし、それはすべての流派に通じるものらしい。

「眠狂四郎独歩行」にこんなシーンがある。

 池泉に浮いた沢渡り石の上で、 一間をへだてて、眠狂四郎と樋口十郎兵衛は、剣を把って、対峙していた。
 対峙してから、すでに、半刻が過ぎていた。
 流れのはやい雲を縫う下弦の月が、東側の水面から、西側の水面に移っていた。
 狂四郎は、地摺り下段。
 十郎兵衛は、上段。
 その半刻の間に、狂四郎は、一回、円月殺法を、月光の満ちた宙に、描いていた。
 十郎兵衛は、その妖しい誘いに乗って来ず、不動であった。
 馬庭念流の剛剣は、先の太刀である。それが、円月殺法を能くふみこたえて、斬り込もうとしないのであった。
 これは、狂四郎としても、はじめての経験であった。これから、さらに、半刻、いや一刻を費やしても、この対峙は崩れまい、と思われた。
 ふっと──。
 狂四郎は、自嘲をおぼえた。
 十郎兵衛が、構えたまま、半眼で、睡っているのを、さとったのである。
 真剣の試合をし乍ら、睡るとは!
 まさに、未だ曽てあり得ない不敵の振舞いといわなければならぬ。
 狂四郎は、いきなり、右足の草履を、対手の顔面めがけて、蹴りとばした。
 刹那──かっと、双眼をひき剝いた十郎兵衛は、颶風のような熱気を噴かせて、
「ええいっ!」
 と、沢渡り石を蹴って、躍った。
 狂四郎は、幻影のように、音もなく、後方の石へ、跳び退った。
 剛剣は、狂四郎が跳び退りつつ、ぬぎとばした左足の草履を、両断した。
 再び、円月殺法の地摺り下段と、馬庭念流の上段が、対立した。しかし、こんどは、ものの五秒とつづかなかった。
「眠狂四郎氏、止そうか」
 十郎兵衛は、おちつきはらった声音で、言った。
「わしは、睡気が去った。睡らずに居れば、お主の殺法をふせぐことはできぬ。……まだ、死にたくはない」

まるで、この立ち合いは、「相ぬけ」のパロディのようになっているのが面白い。

柴田錬三郎のいう、

 剣の道は、流派の如何を問わず、必ず「それ兵形は水に法る」という意味の教義を立てる。心形一致の水の妙形をもって「流」の極意とするところに、何々流「法形」が成る。この法形の神秘を悟った兵法者の眼光は、仏語的にいえば、所観の理に能観の知を対照会通して、微塵のくもりがない。すなわち、鏡のように全く澄みきって、対手の心を写しとる(「眠狂四郎無頼控」)、

とは、

奥に達するに三路、一は心形刀、一は形刀心、一は刀形心、

という言葉(常静子剣談)に通じる。

心(気)を磨くこと、
姿や動きを磨くこと、
刀法を磨くこと、

であるhttp://yamazakinomen.mizutadojo.com/joseishikendan.html。島田虎之助も、

「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学ぶべし」

と言っている(仝上)、とか。

最近のものをほとんど読んでいないので軽々に言うのは、はばかられるが、柴田錬三郎の文章に比べると、池波正太郎の『剣客商売』のそれは、いささか荒っぽい気がしてならない。場合によっては、脚本化されたテレビドラマの方が数段奥深くなっていたりするのは皮肉である。たとえば、

 肉薄したが、こちらが動じなかったのを見るや、平助は飛び退って下段につけた。それを見て、
 (突いて来る……)
 と、感じた瞬間、(秋山)大治郎が、わずかに左足を引き、腰を沈めた。
 その大治郎の動きに乗じて、
 「鋭!!」
 気合声を発した鷲巣見平助が、木刀を下段につけたまま突進しつつ、
 「たあっ!!」
 一気に剣尖を垂直に伸ばし、大治郎の喉元を目がけて突き入れた。
 猛烈きわまる突きの一手であった。
 大治 郎の体がくるりとまわった。
 一瞬、
 (突かれた……?)
 と、見ている人びとの目には映ったやも知れぬ。
 二人の体が、もつれ合ったようになり、道場の床板を踏み鳴らしつつ、見所の前まで移行し、そこで左右に飛びはなれたとき、
 「う……」
 鷲巣見平助が片ひざをつき、頭をたれた。
 大治郎は腰を沈め、木刀を正眼半身に構えている。

と(「剣客商売」)。

剣客商売一 .jpg


なお、五味康祐『喪神』は、「物語」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473489712.htmlで触れたように、

 瀬名波幻雲斎信伴が多武峰山中に隠棲したのは、文禄三年甲午の歳八月である。この時、幻雲斎は五十一歳―。
 翌る乙未の歳七月、関白秀次が高野山に出家、自殺した。すると、これは幻雲斎の隠棲を結びつける兎角の噂が諸国の武芸者の間に起こった。秀次は、曾て、幻雲斎に就き剣を修めたためからである。

とはじまる「語り手」は、当初物語空間に登場してくる、という結構を採る。いささか重厚な文章は、後の作品にもつながっている気がする。

前出の、松浦静山『常静子剣談』に、

曰く「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」
問「如何なれば不思議の勝というや?」
曰く「道に遵い術を守る時は、その心必ずしも勇まずと雖も勝を得る。この心を顧る時は、則ち不思議とす」
問「如何なれば不思議の負なしというや?」
曰く「道に背き術を違う時は、敗れること疑いなし、故に爾に云」

とある(眠狂四郎無頼控、http://yamazakinomen.mizutadojo.com/joseishikendan.html)。

道に背き術を違う、

とは、どこかに原理・原則の王道を踏み外し失敗をしているということなのだろうか、なかなか難しい。相手のある中、相手との間の臨機応変の中で、踏み外さないためには、何か別のものが要る気がする。静山は言っている。

仕合をするには、高慢らしく有るは宜しからず。夫とて遜恭なるは宜しからず。唯平心にして勝負の處を得と胸に思て為すべし、

と。思うに、「平心」、

平常心、

とは、「無住心剣術」の、

心にとかくの作為があって勝負に臨めば、勝負にとらわれて、足がなかなか進まず、立ちが相手に届かない、

と通ずるが、素人の憶説が許されるなら、ある種の、

俯瞰する眼、

ではあるまいか。サッカーの優秀な選手は、試合中グランドを俯瞰している、という。それは、おのれから離れて、両者全体の動きの中で、おのれを動かせる、ということなのではないか、とは浅薄な我流の解釈である。

僕には、「眠狂四郎」の作品には、作家がそこを意識している眼があるように感じられた。たとえば、

 一歩すさって、(白鳥)主膳は、大上段にふりかぶった。
 とみた(男谷)精一郎は、ひたと、丸橋の構えをとった。右旋刀左転刀の刀法に変えたのである。
 心形刀流の口伝秘書にいう。「右旋刀左転刀二カ条は、馬上にて敵に向う太刀打ちなり。敵、我が右へ来るときは、丸橋を用う。敵、我が左へ来るときは、青眼を用う」
 とあって、元来これは、馬上剣である。
 この技法を、地上相対峙のたたかいにおいて、敵の迅業を防ぎつつ、斬りかえす術に変化せしめたところに、妙があった。敵が、自分の左に馳せちがいざまに撃って来たら、丸橋にして之を受け、太刀を右に旋して敵の左を反撃する。敵が自分の右に来たら、青眼にとって、左転する。
 ちょうど、精一郎の右側には、古樹を伐った巨株が、草の中にのぞいていた。
 当然──主膳が、左側へ奔ると見たので、精一郎は丸橋の構えをとったのである。
 ところが ──。
  主膳は、両足を、右八字に開いて、綿でも踏むがごとく、すっすっと、精一郎の右側をのぞんで、間隔をちぢめはじめたのである。
 ──しまった!
 精一郎は、背すじに、氷柱をあてられたような戦慄をおぼえた。
 もはや、丸橋から青眼へ、構え直すことは不可能である。構え直せば、隙が生じる。
 精一郎は、蜘蛛の糸にたぐりよせられる昆虫と化したおのれを感じた。
 ──どうのがれるか?
 石火の間に、事理一体の心刀を魔神のごとく発しなければ、主膳の必殺の一撃をかわすことは叶うまい。
 おそろしく長い秒刻が移った。
 ──くるぞっ!
 その直感で、精一郎の肉体のいっさいの器官が、それへ備えて、動員された。

と(「眠狂四郎無頼控」)。

松浦静山肖像.jpg


因みに、松浦(まつら)静山は、松浦清(まつら きよし)、肥前国平戸藩の第九代藩主。号は静山。随筆集『甲子夜話』が有名だが、心形刀流剣術の達人でもあった。『常静子剣談』(『剣談』とも)は剣術書である。「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」は野村克也の座右の銘として有名だ。静山は、明治天皇の曽祖父にあたるとか。

参考文献;
池波正太郎『剣客商売』(Kindle版)
柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』『眠狂四郎独歩行』(Kindle版)
甲野善紀『古武術の発見』(光文社文庫)
甲野善紀『剣の精神誌』(新曜社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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