2020年06月01日

しげしげ


「しげしげ」は、

繁繁、

と当てる。

しけしけ、
しけしげ、

ともいう、とある(広辞苑)。

たびたび、
しきりに、

の意は、室町末期の日葡辞書にも、

シゲシゲゴヨウヲマウス、

と載り、

しげしげ通う、

という使い方を今日もする。「しげしげ」には、その他に、

じっと見つめるさま、
つくづく、
よくよく、

の意味もあり、

しげしげと顔を見る、

という使い方をする(広辞苑)。

「しげしげ」は、

繁々、

と当てるように、本来は、

草や木が茂って、枝や葉がすきまなく重なりあうさまを表わす(和歌庭訓(1326)「四方の木立しげしげとして涼しきさまにはみえで」)、

擬態語であったと思われる(精選版日本国語大辞典)。それが、空間を表した隙間のなさが、時間に転じて、

間を置かず、しきりにするさま、

と、動作の頻度の意味となり(岩波古語辞典)、そこから、

視線をそらさず、よく見つめるさま、

を表わす意へと転じた(精選版日本国語大辞典)、とみられる。大言海は、

頻(つ)く頻(つ)くの轉か、

とする。「頻」を当てたのは、

間を置かず、

の意を表す「空間的」な含意が、「繁」を当て、それが時間に転じる含意を、「頻」の字が意味しているともとれる。この「つくつく」で思いつくのは、

「つくづく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463698678.html

だが、「つくづく」は、

つくつく、

ともいい,

念を入れて見たり考えたりするさま,よくよく,つらつら,じっと,
物思いに沈むさま,つくねんと,よくよく,
深く感ずるさま,

という意味で,

つらつらhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/456542777.html

と重なる。「つくづく」は、

熟,
尽、

などと当て,

就くを重ねたる語、

とする説(大言海)もあるが、

尽く+尽く

とし,

尽きるまでじっとを,更に重ねたものです。よくよく,じっと、

の意(日本語源広辞典・岩波古語辞典)とする。これが妥当に思える。

「つく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448009954.html

で触れたように,「尽く」は「付く」に繋がり,同源である。「つくづく」は、本来、

疲れ果てている,

じっとしている,

という状態表現であったが,価値表現へ転じ,

物淋しい,

となり,そのじっとしているさまから,

じっと思いを凝らすさま,

に転じ,

念を入れて見たり考えたりするさま,

と転じたことになる。その段階で、

しげしげ、

と意味が重なったものと思われる。しげしげ」が、

間を置かない、

という頻度の高さから、

(目をそらさず)じっと見つめる、

の意味に転じたとき、「しげしげ」は、

しみじみhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/463638912.html

とも意味が重なる。「しみじみ」は,

染み染み,
沁み沁み,

と当てる。

心の底まで情趣がしみいる様子、あるいは逆に心の底から心情がわき起こる様子、
心を込めてよく物を見つめる様子、

という意味(擬音語・擬態語辞典)とある。前者が状態表現なのに対して,後者は,主体の価値表現,感情表現にシフトしている。今日の使い方からすると,後者の方がピンとくる。大言海を見ると,

静かに,しめやかに,

心に滲みて,心に深く滲みて,

しんみり,

つくづく,

よくよく,

と,主体表現へと少しずつシフトして意味が広がっていく流れが見える気がする。

「平安時代から見られる語。動詞『染む』の連用形『染み』が重なったものと考えられ,本来は擬態語ではない。しかし,『しとしと』『じめじめ』などに形が類似したり,『しんみり』と類義的であったりするなど擬態語と関連が強いために,現在では,擬態語と意識されている。」

とある(擬音語・擬態語辞典)。類義語「しんみり」は,

心の底まで情感がしみいる様子,あるいは心の底から心情が湧きおこる様子,

だが,「しげしげ」は,

心を込めてよく物を見る様子,

の意味の類義語。「しげしげ」は「しみじみ」比べると情趣なく,細かく観察する意となる(仝上)、とある。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月02日

まじまじ


「まじまじ」は、

たびたびまばたきするさま、また眠れないさま、
恥じずへいきなさま、しゃあしゃあ、
視線をそらさず見つめるさま、

という意が載る(広辞苑)。今日は、

まじまじと見つめる、

といった使い方をするのが大勢だろう。大言海は、

交睫、

と当てている。

眼をしばたたかせる、

という擬態語からきていると思われる。「まじまじ」は、また、

ましくし、

ともいう(岩波古語辞典)とあり、「ましくし」は、

眼をしばたたくさま、また、そういう状態で眼が冴えてねむれないさま、

の意である。

ましくしゃ、
まじくじ、
まじくら、

ともいった(仝上)。江戸中期の俳諧辞書、反故集(ホウグシュウ)には、

交睫、マジマジ、マシクシ、

とある(仝上)。面白いことに、

目をしばたたくさま、

から、いつのまにか、

たひたび目ばたきして、ながむる状に云ふ、

となり、

転じて、

無遠慮なる状に云う、

と、状態表現から、その様自体の価値表現へと転じていく(大言海)。たとえば、

籠の家まじまじしたるうその声(俳諧・玉手箱)、

しかし、同時に、

言ひこめられてしょげ島の、まじまじとして閉口す(浄瑠璃・夏祭)、

というように、真逆の、

もじもじするさま、

の意でも使う(岩波古語辞典)。この「まじまじ」の用例は室町時代末期から見られ、

平然としていてずうずうしい様子、

を示し、

しゃあしゃあhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/452281880.html

に近い意味でも使われ、また

決断できずに手をこまねいている様子を示した、

もじもじ、

に近い用例もある(仝上)。

どうも初めは、

目をしばたたかせるさま、

であったが、それは、

眼が冴えて眠れぬさま、

にもなるし、見ようによっては、価値表現の、

もじもじ、

にも見えるが、逆に、

しゃあしゃあ、

にも見える、ということだろうか。江戸語大辞典には、「まじまじ」に、

目ばかりパチパチさせじっとしているさま、
じっとまじめな顔をしているさま、

の意が載る。確かにこれだと、

しゃあしゃあ、

に見えてくる。

また、「まじまじ」は、

まじりまじり、
まじいりまじいり、

と、「まじまじ」を強調した言い方も使われる。

ちと休みませうと檀を下り、煙草ぱくぱく、病人をまじりまじり見て居らるれば(滑稽本・古朽木)、
松之丞どの雁首のう打傾(うちかたげ)で、まじいりまじいり見て居っけえ(滑稽本・浮世風呂)、

「まじまじ」に、

墨々、

と当てているのは、尾崎紅葉で、

お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々(まじまじ)と手を束ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便(たより)あるを思へるなり。

と書いている(金色夜叉)。他に見ない独自の当て字のようである。

相手をじっと見つめるのは、

しげしげhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/475384845.html?1590949400

と重なるが、「しげしげ」は、見る「頻度」を示す。「まじまじ」は、目をしばたたかせながら目を離さないさまで、微妙な含意の差がある。見つめる集中度からすれば、「まじまじ」が勝るか。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年06月03日

もじもじ


「もじもじ(もぢもぢ)」は、

はにかみ・気おくれ・遠慮などで、行動をためらったり、落ち着かなかったりしているさま、

の意とある(広辞苑)。

もじもじとしり込みする、
帰りたくてもじもじする、
もじもじしていないではっきり言いなさい、

といった使い方をする。

座に堪えがたく、身をもじる状に云ふ語、

というのがよく表している(大言海)。「もじる」は、

捩る、

と当て、

ねじる、
よじる、

意である。

身体をひねっているさま、

から、

もじもじ、

が生まれたのかと想像してしまう。江戸時代から現れる語、であるらしい(擬音語・擬態語辞典)。江戸時代は、

にじくじ、

という言い方でも、

こちへよれと手をとると、にじくじとして(浮世草子「男色十寸鏡(ますかがみ)」)、

と、「もじもじ」と同義を言い表した(仝上)。

「もじもじ」に似た言い回しに、

いじいじ、
うじうじ、

等々がある。「いじいじ」は、

いじけてふるまいがはっきりしないさま、

の意(広辞苑)だが、この擬態語「いじいじ」から、

いじける、

を動作化した語、

いじましい、

は、

そうした様子が哀れをさそうようであることを言う語、

とある(擬音語・擬態語辞典)。しかし「いじける」は、

怖(お)じけるの音轉、

とする説(大言海)もある。とすると、逆に、

おぢける→いぢける→いぢいぢ→いじいじ、

と変化したとも考えられる。

「うじうじ」は、

ためらうさま、

の意(広辞苑)だが、「いじいじ」が、

自分の能力や行動に対する自信のなさから、あるいは、他からの評価の低さを自覚するがゆえに、のびのびとふるまえにい様子を指すことが多い、

のに対して、「うじうじ」は、

迷いや決断力のなさから、行動をためらう様子を指すことが多い、

とある(擬音語・擬態語辞典)。

「もじもじ」は「うじうじ」と似ているが、「うじうじ」が、

迷いの気持ちがあるのに対して、

「もじもじ」は、

恥ずかしかったり遠慮したりする気持ちが根底にある、

とあり(仝上)、同じくためらうにしても、

「うじうじ」は逡巡している、

のに対して、

「もじもじ」は遠慮や羞恥している、

という微妙な含意の差になる。

「もじもじ」「うじうじ」に対して、「いじいじ」は、

劣等感やひがみの気持ちが根底にある、

とある(仝上)ので、「いじいじ」が一番いじけた状態、と言っていいのかもしれない。

大言海は、「うぢうぢ」に、

逡巡、

と当て、

怖怖(おぢおぢ)の転、おじく、うじく、

と例示している。ということは、「うじうじ」も「いじいじ」も、いずれも、

おじける→いじける、
おじく→うじく、

と、

怖じける、
怖じく、

という、

おそれ、
ひるむ、

意からきていることになる。ただ、「うじうじ」には、

迷う、

意の他に、

小さな虫などが、小刻みに絶え間なく動くさま、

の意でも使われ(擬音語・擬態語辞典)、そのためか語源には、

ウジムシ(蛆虫)の動くさま(幽遠随筆・国語本義)、

という説もある。江戸時代、両方の意を持つ、

うじつく、

という言い方もした。たとえば、

盗人のすっぱのと云ちらされてきょろりっとうぢついている(気後れしてためらっている)人じゃない(浄瑠璃「八百屋お七」)

というように(仝上)。

「もじもじ」「うじうじ」「いじいじ」は、どちらかいうとためらっている心理状態を表す擬態語だが、「ぐずぐず」、「もごもご」は、ためらっている行動・態度の、のろさを指し、価値表現がより際立っている。これについては、項を改める。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月04日

ぐずぐず


「もじもじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475419164.html?1591123567「うじうじ」「いじいじ」が、心理状態を表す擬態語だとすれば、「ぐずぐず」「のろのろ」「もたもた」「もごもご」は、その行動・態度の、のろさ具合を指し、価値表現がより際立っている。

「ぐずぐず」は、

愚図愚図、

とあてるが、この「ぐず」自体が、

動作が鈍く決断の乏しいこと、またそういう人、

を指す。江戸語大辞典をみると、「ぐず」には、

ぐずぐず文句を言う人(「とんだ愚図に出つくはして、面倒でござりますから、ちよつと一杯飲ましてきます」安静四年・鼠小僧)、
酒に酔っぱらうこと(「弥太一で日を暮らして酩酊(ぐず)になり」文久二年・懲悪覗機関)、

という意味が載る。大言海は、「ぐず」に、

愚図、

と当てて、

崩(くづ)るの語根、貶めて濁る、

とし、さらに、

鈍漢、

と当て、

くづぐづ(愚図愚図)、

と関係づけている。ともに、

決断なき人、

の意とする。これによれば、当て字はべつにしても、意味は同じということになる。

で、「ぐずぐず」は、

きちんとしているべきものが崩れてしまりがなくなっているさま(「積荷がぐずぐずになる」)、
行動や決断に不必要に手間取るさま、のろまなさま(「返事をぐずぐずと伸ばす」)、
幼児が力なく泣きむずかるさま、
また、不平不満などを不明瞭に言い続けるさま(「ぐずぐず文句を言う」)
息を吸うたびに4つまったり鼻水が鼻孔を移動する音、

の意味が載る(広辞苑)。大言海は、「ぐずぐず」を、

弛緩、

と当てて、

釘などの揺(ゆる)ぐ状、モノを結い束ねて緊(しま)らぬ状に云ふ語、
事の決定せぬに云ふ語、

とし、さらに、

遅鈍、

と当てて、

気力にしまりなき状、心に決断なき状に云ふ語、

とし、さらに、

呶呶、

と当て、

独語に、繰りかへし、口説くに云ふ語、

と、「ぐずぐず」を、三項に分けている。意味応じて、漢字を当て分けているとも見えるが、逆にまったく由来を異にする擬態語が、「ぐずぐず」に集約されたのかもしれない。上に見たように、意味の幅が広すぎ、意味を広げて使い分けられたとだけでは考えられない、意味の懸隔がある。

大言海によれば、ゆるむ意の「ぐずぐず(弛緩)」は、

くつろぐ(寛)、

からきているとする。「くつろぐ」は、

クツは、頽(くづ)る(朽る)の語根か、ログは動揺する意(すずろぐ、かびろぐ)、釘のゆるむを、ぐづぐづになるなどと云ふも、これなるべし、

としている。しかし岩波古語辞典は、

クツはクチ(口)の古形で、ロはウロ(虚)の約か、

とするなど異説はある。ただ、

平安時代の用例は、冠がゆるむ・居る場所がゆったりしているなど、物理的にものが密着していない状態をさして使用されている。そのゆるみを心の余裕に置き換えた、こころが休まる・安心するなどの心理的用法が中世雁ら現れる、

とある(日本語源大辞典)ので、

くづろぐ→ぐづる→ぐづぐづ、

という空間的な弛みの意味としての「ぐずぐず」の流れはあり得るし、への意味の転用もある。その心のゆるゆるさを、

決断の無さ、

の意に転ずることは、不自然ではない。また、鼻水の擬音語、

ぐずぐず、

にも通じる。

また「ぐず」の語源、

崩る→くづる→くづぐづ、

は、

しまりのなさ、

の意として、のろまさ意に通じるのではないか。

呶呶、

と当てる「ぐずぐず」は、大言海は、

くだぐたし、

と関係づけ、「くだくだし」は、

砕くるの語根を重ねて活用せしむ、

とし、

此の語、くどくどし、くぢぐぢ、ぐづぐづと変ず、

としている。「くだくだ」は、確かに、

こなごな、ずたずた、

の意もあり(広辞苑)、「くだくだ」の、

言い方の明快さを欠き、しつこまながたらしいさま、

の意の原意かと思われ。

くだぐだし→くだくだ→ぐづぐづ、

と変化したとみられる。

くだくだ、
くどくど、
ぐだぐだ、

の変形は、転訛とみることができる。

とすると、「ぐずぐず」は、

くづろぐ→ぐづる→ぐづぐづ、

という弛緩系の意味の語源と、

崩る→くづる→ぐづぐづ、

という遅鈍系の意味の語源と、

くだぐだし→くだくだ→ぐづぐづ、

というくどくど系の意味の語源とに分かれるような気がするのだが、如何であろうか。

なお、「ぐずぐず」の類義語、「のろのろ」「もたもた」「もごもご」は項を改める。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ぐずぐず
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2020年06月05日

万物一体の仁


宮城公子『大塩平八郎』を読む。

大塩平八郎.jpg


何度目か、ふと気になって、また本書を開いた。大塩中斎に寄り添い、その思想の流れに則って、中斎の一生を追う。本書は、中斎の思想、陽明学というより、中斎自身が孔孟学と呼んだ、その思想の決算書のような性格を持つ。

大塩平八郎。諱は後素、字は子起。号は中斎。享年45。

大塩をさして、友人頼山陽は、

小陽明、

と渾名したという。著者は、「序」で、こう書く。

「大塩にあっても陽明学はまさしく『述べて作らず、信じて古を好む』ものとしてあった。大阪東町奉行所与力として民政にあたる中で、洗心洞での門弟への講義の中で、あるいは伝え聞く各地からの民情不穏の情況で、そして打ち続く『天保飢饉』のさなかにあって、大塩は常に陽明学を通して聖人や賢者の言葉を追体験しようとした。しかも日常の言動から、心の奥底の隠微な動きにおいてである。大塩の本領は、この追体験の厳しさと、そこにあらわれる強烈な個性にこそあろう。そして儒者なら誰も知る言葉より反乱を導き出したその一点において、大塩は全く新しい創造をなしとげたのであり、長い儒学史上、たぐい稀なものものとして輝く」

と。しかし、

「陽明学そのものは為政者の治世のための学問であり、けっして『反乱の学問』ではない」

そのことを、大塩は百も承知していた。しかし、大塩の「万物一体の仁」の思想によれば、

「草木瓦石も我心中の物だから、字義通りの宇宙の存在すべてを、自分のこととしてひきうける無限責任の前に立つ。この無限責任を背負い、『故に大人は斃れて後已む』と大塩は命がけの『功夫』(実践修養)を自分に課した。こんな命がけの功夫によりはじめて『心太虚に帰し』、太虚と合一しうる。その時、人は『四海を包括し、宇宙を包含して、捕捉すべからざるものなり。大を語れば天下能く載する莫き』(洗心洞箚記)ものとなる。」

自ら、こう書いている。

「眼を開き天地を俯瞰して以て之を観れば、則ち壌石は即ち吾が肉骨なり。草木は即ち吾が毛髪なり。雨水川流は即ち吾が膏血精液なり。雲煙風籟は即ち吾が呼吸吹嘘なり。日月星辰の光は即ち吾が両眼の光なり。春夏秋冬の運は即ち吾が五常の運なり。而て太虚は即ち吾が心の蘊なり。嗚呼人七尺の躯にして而も天地と斉しきこと乃ち此の如し。三才の称豈徒然ならんや」

と(洗心洞箚記)。確かに、大塩自身は、

「民の苦しみは我の苦しみ」

でありそれを見過ごすことはできない。しかし、あくまで儒者は、それを治世に生かすべく、そういう為政者を動かすしかない。だから、友人平松楽斎に、

「君が今、『己を知る』明君に会わず、このうえ働こうとする」

のは、孟子のいう、

「憑婦臂を攮(かかげ)て下車」、

の類と諫められ、いったんは、自ら何かしようとすることを、思いとどまった大塩であったが、幕閣の、とりわけ老中水野越中守、大阪東町奉行跡部山城守兄弟による、

「大阪市中の在米確保で厳しい他所積制限令を出し、日々の飯米を買い出す細民を罰しつつ、他方で幕命を受け江戸廻米に奔走する大坂町奉行の飢饉対策」

には怒りを抑えきれなくなる。「大学卒章」の、

「小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害(さいがい)並び至たる。善者有りと雖も、亦之を如何ともする無し」

という文言が大塩の目の前に現実として見えてきた。

「『民を視ること傷める如し』。これは大塩が幾度となく反芻した言葉であるが、今大塩の目前に飢えに倒れ、死のうとしている民衆が横たわる。『万物一体の仁』とは井戸に落ちかかる子をみれば、誰しもはっとして、とるものもとりあえず救おうとする『惻隠の情』が、その基底にあった。民の苦痛は我の苦痛である。民の飢え、民の苦しみは我の飢え、我の苦しみ。今、我が手が痛み、我が足が萎える。大塩は民衆と一体化し、町奉行並びに諸役人に怒りを爆発させる。」

大塩の思想的転換を、こう捉える。

「大塩が何かを決意した時、それは打ち続く天変地異と、同じように猖獗をきわめる百姓一揆を前に『大学卒章』の中に小人が権柄を握る幕藩制支配の危機を読み取り、百姓一揆や打ちこわしの鎮圧を決意していたのかもしれない。大塩の『万物一体の仁』の思想からすれば、一揆に立ち上がり、為政者に手向かう民もまた、わが心中の悪なのであり、己の責任において、それは鎮圧されねばならなかったから。だが、この『万物一体の仁』からすれば、同じく飢えに苦しむ民衆もわが心中の問題であり、己の責任において救わねばならない。『小人をして国家を為(おさ)めしむれば、菑害並び至たる』という『大学卒章』は『万物一体の仁』により、飢えに苦しむ民衆と完全に一体化することによって、はじめて現実の幕藩制支配者への批判の思想となりえた」

と。而して、蜂起の檄文は言う。

「四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様ニ成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀ニ落入、天子ハ足利家已来別而御隠居御同様、賞罰之柄を御失ひニ付、下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様ニ乱候付、人々之怨気天ニ通シ、年々地震火災、山も崩、水も溢るより外、色々様々の天災流行、終ニ五穀飢饉ニ相成候、是皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩、太切之政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗ニ打懸り、実以小前百姓共のなんきを、吾等如きもの、草の陰より常々察し悲候得とも、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなけれバ、徒ニ蟄居いたし候処、此節米価弥高直ニ相成、大坂之奉行并諸役人とも、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已ならす、五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔いたし、云々」

これを評して、

「大塩は檄文起草の段階では、すでに死を決していたと思われる。自身が死を決することなく、どうして他人に死を迫りえよう。その意味では、二千字に及ぶ挙兵の檄文は大塩の思想的遺書である」

と。しかしその思想に立ち開かったのが、大塩の最愛の弟子、宇津木靖である。

宇津木靖(通称矩之允)、字は共甫、静区(せいおう/せいく)。彦根藩士。享年29。

「図らざりき、先生此言を出すや、夫れ災を救い民を恤ふは官自ら其の人あり、況や豪戸を屠って之を済ふ、是れその民を救ふ所以は、即ち民を災する所以なり。其れ乱民と為らざる者幾んど希なり。苟も余の言にして聴かれずんば、則ち師弟の義永く絶たん。安んぞ乱民の為に従はんや」

という宇津木の諫言は正鵠を射ていた。

「救民は町奉行が主体となってやるべきである。そのために富豪を誅伐したならば、民を救おうとしてかえって兵火で民を災し、挙句百姓一揆のごとく秩序を乱すことになる」

と。

「宇津木の理解した大塩中斎の思想からは、民衆によびかける挙兵はあろうはずがなかったし、それが大塩の思想の本質だった。宇津木の諫言は民衆によびかける挙兵にあらわになった大塩の『万物一体の仁』の思想の破綻を正確についている」

のである。

「大塩は蓄電した河合郷左衛門をそのまま見逃したし、密訴することになる吉見九郎右衛門が病気を理由に挙兵参加への返答を渋っても『心緩々保養専一』にするよう、挙兵のさいはそのまま立ち退けと許した」

にもかかわらず、ひとり、宇津木のみは惨殺せしめた。これについて、著者は、

「私は大塩が、宇津木の言葉を認め彼を生かしたならば、大塩の挙兵の意図が今ここですべて崩壊する。大塩は宇津木を殺さねば前へ進めなかったのだと考えたい」

とする。宇津木の指摘するように、儒者として、蜂起はその理論の破綻そのものである。治者の学問を、治者を介さず自ら実践できるなら、自らを容れる君主を求めて、孔子も、孟子もさまよい続ける筈はないのだから。

著者はこうまとめる。

「大塩の悲劇は『万物皆我に備わる』といい、また『仁者は天地万物を以って一体と為す』といって、民衆はもとより草・木・瓦・石にいたるまでの天地万物をすべて心の中のこととしてひきうけ、それをつき離し、客観化することはもとより、無関心でさえありえなかったことにある。大塩は世界存在にたいする無限責任を背負って生き、そして死んだといえよう」

と。しかし、大塩の思想の全体像を、その形成から完成まで見届けた著者にしても、

「大塩の生涯の思索と実践の中に、大塩が挙兵に追いつめられていく過程をさぐり、その『所業の終る処』を見届けた今となっても、やはり、私には大塩が生と死を分つ最後の深淵をどう飛び越えたかに、答えられない」

と書く。その、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵は、大きく広いほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さを感じる。

大塩逮捕のために大阪城代土井大炊頭の下で働いた鷹見泉石は、

「京、大津辺、下々而て、大塩様の様に迄世のためを思召候儀、難有と申者、八分通りの由」

と日記に書き残した。以て瞑すべしであろうか。

なお、矩之允と平八郎の思想的対立については、「架空問答」として、項を改める。

参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
吉田公平訳注『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月06日

架空問答(中斎・静区)


大塩中斎については、「万物一体の仁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475454613.html?1591380773で触れたが、大塩平八郎中斎は、天保八年(1837)二月一九日(三月二五日)に門人と共に蜂起する。その檄文に曰く、

四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通無躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、……。

洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈上〉 (タチバナ教養文庫).jpg

洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈下〉 (タチバナ教養文庫).jpg

しかし、その日、中斎は、その高弟であり最愛の愛弟子宇津木靖を惨殺せしめた。宇津木靖、字は共甫。通称は矩之丞,。静区(セイオウ)と号す。静区は全力で中斎を諫めた。その思想的対立を、架空の問答としてまとめてみた。ただ、素人の悲しさ、二人の思想を十分理解し得ていたかどうかは、些か覚束ない。乞う、ご憫笑。。。

大塩平八郎像.jpg


静区 「予想もしないことです。先生が、左様な事を仰せ出されるとは、」

中斎 「米価暴騰し、飢餓のため道々には行き倒れが満ちている、大阪だけで、この月四十人もの餓死者が出ているというのに、町奉行は措置を過ち、豪商豪農の義捐は捗らず、あまつさえ、なけなしの大阪の米を江戸へ廻米し、あろうことかわずかの米を買いに来るものを捕縛している、これを座視するに堪えようか。いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。」

静区 「そのお言葉、先生のお言葉とは思えませぬ。災いを救い民を恤(すく)うは官自ら、それをおこなうべきことです。その位にあらざれば、その政を謀らず。だかこそ、孔子も孟子も、ご自分を容れられる君子を求めてさまよわれたのではありませんか。先生は矩を越えられるのか。」

中斎 「民の好むところを好み、民の悪(にく)むところを悪む。それをみずからが実践せずして、完成することにはならぬ。万物一体の仁とは、かようなものではないか。でなければ、手をつかねてただ上に進言し続ければよいのか。その間に、幾人の民が死んでゆくか考えてみたことはないのか。聖徳の君子の出現を待つゆとりはない。」

静区 「ならば、それなら、建議をもって、奉行をただすべきことです。それを豪戸を屠って民を済う、さようなやり方では、かえって民に禍をもたらすだけではありませんか。」

中斎 「何度建議に及んだことか、それに対して奉行の跡部山城守がどんな仕打ちをしたか、隠居の身なれば、控えよと申し、これ以上強いて言に及べば、強訴とみなすと、みどもを脅し、乱心扱いしおった。あまつさえ、蔵書を売った資金を元に、ひとり一朱の施行をするにさえ横槍を入れ、鴻池屋や他の豪商に救民救済の資金借り入れをした件についても、鴻池らを恫喝して沙汰闇にさせおった。みどももかつて、同役のものどもに、こう予言いたしたことがあった。一体太平の世が打ち続き天下一統奢侈増長、役人共は奸曲所業のみいたし、もはや天道にも御用済みの時代になっている。七八年のうちには大凶作が到来し、世上難儀必至、されば今のうちより御手当てなされたく、そのやり方はかくかくしかじか、そのように凶作の備えができていれば、間に合うと申し上げ、そうしないと、摂津、河内、和泉、播磨の民は飢饉に及び、難渋必至と、ことを分け、たびたび上疏致したが、寸分もお取上げにならず、役人共はおのが身上を肥やすのに汲汲といたし、民の難渋を顧みない。そのとき、みどもはこう申してやった。数年のうち大凶作到来、万民飢餓に及び候わば、やむをえず天道に代わって、諸人を救い、奸曲の役人共に目に者を見せてやると、役人共を睨みつけてやった。いま、そのときがきたまでではないか。」

静区 「だからと申して、彼等豪商を襲うとは、一揆と同じではありませぬか。先生は、百姓衆の暴発を、政(まつりごと)の危機とみておられたのではなかったのですか。」

中斎 「建議をつづけても、その建策をお取上げにならねば、座して、死にゆく民を見守るのか、それとも建策を取り上げぬ山城守を陰で罵るだけでよいのか。」

静区 「それがわれらの分です。」

中斎 「分とな。むろん、天子、諸侯、大夫は天下国家に責任がある。庶人は身を修め、家を斉(ととの)えることしかできぬ。ならば学問は、天子諸侯大夫にのみに属すのか。そうではないことをわたしは教えてきたはずだ。修身はすべてのものに不可欠で、誰ひとりそこから逃れることはできぬ。では修身とは何か。孝を親に尽くすは、即ち身を修めるの根本であろう。これを家、国、天下の礎におけば、斉、治、平の功はおのずとなる。修身を通して、斉家、治国、平天下に連なっていく。庶人であっても、修身を通して、庶人から天子まで連なるのだと。それぞれが、その得たるところで、分を尽くすとは、そういう意味であったはずだ。」

静区 「庶人が身を謹み、用を節することが孝であり、それが治国平天下に関わることは確かです。しかしそれは、公儀を恐れて法度を守り、身無病に手足強健なるように養生することに第一義があったはずです。」

中斎 「飢える民を前に、さようなことを言っておられようか。死にゆくものに訓点を教えて何の役に立つか。さようなことがわれら孔孟学の道なのか。そうではあるまい。」

静区 「そうあるべきです。乱など、もってのほかです。子曰く、その人となりや、孝悌にして、上を犯すことを好む者は少なし。上を犯すことを好まずして、乱をおこすことを好む者は未だこれあらざるなり、とあります。先生は乱を起こすことを好まれるのであれば、上を犯すことを好むのであり、それは孝悌に反します。」

中斎 「上を犯しているのは、この天災、飢饉に苦しむ民を見て見ぬふりをし、民の悲嘆をよそに、老中のいいなりに、江戸廻米をきめた跡部山城であり、役人どもではないか。それこそ、上を犯すに等しい振る舞いではないのか。君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。その見本のようなものであろうが。」

静区 「まったく何も救恤策をとられていないのではありませぬ。備蓄米を開きもしましたし、豪商の施行もなされています。責めるばかりでよろしいのか。人を責めずみずからを責める、と仰せになったのは先生ではなかったですか。」

中斎 「確かに奉行所では、八月救民への廉売をした、しかしそれでも買えないものが多数おり、九月になってついに無料で配布をはじめた。何か、このていたらくは。世上の実情がみえておらぬ。たしかに、鴻池、加島屋、住友などから義捐金をつのり、十月二百文ずつ配った。幸い米価はいったん下がりかけたのだ、その頃。そこに、江戸廻米だ、元の木阿弥どころか、なんのためのお救米だったのか。このちぐはぐぶりはどうか。しかも、義捐金は、三年前の三分の二ぞ、飢饉は、三年前の比ではないというに。だからみるに見かねて、みどもが、直接鴻池らに掛けあい、救済資金借り入れについて了承を取ったのだ。たかが隠居の身でそれができたのなら、奉行が本気でやれば、もっと大きなことができたはずではないか。なのに、それをさえ、山城守は、与力の隠居にすら、莫大な金子を貸し遣わすとならば、江戸から御用金の申し渡しがあった場合は、有無を言わさぬぞ、と鴻池らを脅して、みどもとの約束を反故にさせおった。民に目を向けておらぬ、江戸の兄、老中、水野越中しか見ておらぬのだ、山城守は。」

静区 「新、不新を君父に責めず、親しむの功夫(実践修養)をおのれに責むれば、則ち心を尽くし、性を尽くす大学問なり、と申されたではありませぬか。おのが力の足りなさを責むるべきです。」

中斎 「たわけたことを申すな、京から、米の買出しにきただけで入牢させられたものが、一杯おるのだぞ。惣嫁(そうか)というものを存じておるか、わずか三十二文で家のため、妻や娘が春をひさぐという、十六文でそばが食えるのにだぞ。質屋は質流れが続き、閉店に追い込まれ、売り払うものがなくなった貧しい民は、女房や娘が路傍で春をひさぐしかないのだ。奉行所がしたことはそれを取締っただけだ。毎日毎日四十人もの行き倒れがでておる、そんな中での江戸廻米だ、何が将軍宣下の儀式のためか。この未曾有の大飢饉のさなか、米が不足しているのに、わずかの米を取り上げられて、どう生きよと申すのか。矩之允、そう申すなら、なぜ、だれひとり諌めぬ、上様を、水野越中守を、奉行の跡部山城守を、諌めぬ。誰か一人でも諌めたか、飢えたる民に鞭打つ所業を、唯々諾々と忠実に遂行するばかりではないか。それがそちの申す分か、一体どこに治国がある。」

静区 「そのことに異論はありませぬ。しかし民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎むとは、先生ご自身ではなく、政をつかさどるものの心構えのはずではありませぬか。そのように、民を観るべしと。」

中斎 「民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎む、それはただ心の中でのことか。飢え死にしていくものを前に、何も為さぬのが仁か。行倒れ、死なんとする民を、吾が身の如く悲しまぬ仁などあってよいのか。日用応酬のこと、皆格物なり、豈只書を読み、物理を窮めて然る後、之を格物と謂うと云わんや。頭の中だけで考えるのをやめよ、矩之允。」

静区 「いえ、そのために事をなすべき立場のものをどう動かせるかが、われらの務めであり、仁であり、孝悌であるべきです。」

中斎 「そうではない。おのれを省みて、おのれの良知に問う。善であれば、狂者のごとく進み取る。悪であれば、狷者のごとく、拒否する志なければ、恥というべし。毎日書物を読み理をかたっても、似非君子にすぎぬ。」

静区 「先生は君主でも大夫でもありませぬ。小人をして国家を為(おさ)めしむれば菑害(さいがい)並び至る、この飢饉に、突然来りて暴を為すと仰せではなかったですか。それは政を預かるものへの戒めであったはず。それを先生みずからが、直接一揆を企てるのは、まさに突然来たりて暴を為すことそのものではありませぬか。」

中斎 「そうではない。夫れ人の嘉言善行は即ち、吾が心中の善にして、而て人の醜言悪行は亦た、吾が心中の悪なり。是の故に聖人は之を外視する能はざるなり。斉家治国平天下は一として心中の善を存せざるなく、一として心中の悪を去らざるはなし。一揆に立ち上がる民も、わが心中の悪であり、おのれの責任で鎮圧せねばならぬ。同じく飢えに苦しむ民も我が心中の苦しみであり、おのれの責任で救わねばならぬ。それが万物一体の仁だ。飢えに苦しむ民と一体になり、その苦しみになり代わって、挙兵し、災害を引き起こす小人を誅するまでじゃ。」

静区 「ご承知のはずです。それは、その立場にある者が、なすべきことを十分になしておらぬ、奉行を、ご公儀を責めておられるだけではないですか。君や父やあるいは他者に責任転嫁することなく、自分が民に親しむの功夫を為したかどうか、自分自身を責めるところからはじめなくてはならぬ。父や君、あるいは一人の民も革新していないものがあれば、自分の民を親しむ功夫が十分ではなく、ひいては明徳を明らかにする功夫も十分ではない。先生自身がそう仰せではなかったですか。」

中斎 「重ねて申すが、万物一体の仁からすれば、百姓一揆や打ちこわしをする民も、また我が心中の悪であり、おのれの手で鎮圧しなくてはならない。しかしまた同時に、飢えて苦しむ民の苦しみもまたおのれの心中の苦しみであり、おのが責任において救わねばならぬのだ。草木瓦石にいたるまで、それが死に、折れ、こわれるという生意の喪失に無関心でありえず、我が心が傷む。この感傷はこころの痛みであり、躰の痛みである。なぜなら、天地間の万物はわが心中のことであり、我の分身である。他人や民衆はもとより、草木瓦石にいたるまで、天地間の万物をすべてわが心中のこととして、それを突き放さず、自分のこととして受け止める。だからこそ、見捨ててはおけぬ。民をおのが分身とみなし、痛痒、饑寒、好悪、苦楽において民と一体となる。民の痛痒はおのが痛痒である。民の飢えはおのが飢え、おのが苦しみ、万物一体の仁とはかようなものであらねばならぬ。いま、まさに、眼を開き天地を俯仰してみれば、壤石は吾が肉骨なり、草木は吾が毛髪なり。雨水川流は吾が膏血なり。雲煙風籟は吾が呼吸吸嘘なり。日月星辰の光は吾が両目の光なり。春夏秋冬の運は吾が五常の運なり。太虚は吾がこころの薀なり、人は七尺の短躯にして天地と等しいのだ。」

静区 「故に血気ある物は、草木瓦石に至るまで、其の死を視、其の摧折(さいせつ)を視、其の毀壊を視れば、則ち吾が心を感傷せしむ。もと心中の物たるを以っての故なり、と。しかしだからといって、乱を起こすことは、上を犯す、としかいいようがありません。」

中斎 「よいかな、学は固よりおのれの心を正しくし、おのれの身を修む。然れどもおのれの心を正しくし、おのれの身を修るのみを以て学の至りと為すは、蓋し大人の道に非ず。夫れ心外の虚は、皆吾が心なり。即ち人物は心の中に在り。其の善を為し悪を去るも亦た身の事にして、而して善を為すも亦た窮まり無く、悪を去るも亦た窮まり無きなり。であればこそ、古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、まず其の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。この言葉も、そちにとっては、単なる知識をえればよい、というだけに終わるのであろう。」

静区 「それが先生の申される孔孟学徒の役割です。その理非を問い、曲直を正すために、かくあらねばならぬ心構えのはずです。一家の主の意は一家の人々に、一国の主の意は一国の人々に、天下の主の意は天下の人々に及ぶ。ひとたび意が誠でないなら、一家麻痺し、一国の人、天下の人の意が誠ではなく、家は斉(ととの)わず、国は治まらず、天下は平かではなくなる。自分の心の動きが天下の政につながっている、と。」

中斎 「いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。どこまでもすれ違いかの。」

静区 「先生のおっしゃる誠意慎居は、心の奥底のどんな隠微な悪も見逃さず、あらゆる事柄に一瞬も怠らぬ克己の内省であるべきもののはずです。功夫(実践修養)とは、格物致知の上にも貫かれ、それによって五倫の道は真のものとして蘇り、日用人倫あらゆる事柄が、功夫の場となる。明徳親民もと一事だから、功夫は一己の道徳に終始できない。一人の民とも隔絶し、一人の民をもその所をえないならば、それは民を親しむの功夫がいまだ不十分であるばかりでなく、おのが明徳も明らかでないことになる。そう仰せになった主旨の結果が、乱民となることでしょうか。それは先生の孔孟学の破綻でなくてなんでしょうか。わが言葉に耳を傾けていただけないならば、師弟の義永く絶たんと存じます。どうして乱民に従えましょうや。」

中斎 「それもよかろう、しかしの、矩之允よ、子曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すことあり。おのれは関知せずと言うばかりでは、仁とはいわぬのだ。」

静区 「先生、百歩譲りましょう。身を殺して以て仁を成すときなのだと致しましょう。しかし、心太虚に帰し、湯武の勢い、孔孟の徳あるもののみ救民のための天誅を為しうる。先生は、孔孟の徳ある者と、うぬぼれるのですか。」

中斎 「格物して後に知至る。知至りて後に意誠なり。意誠にして後に心正し。心正しくて後に身修まる。身修まって後に家斉う。家斉いて後に国治まる。国治まりて後に天下平らかなり。だが、天下が平かでなければ、いかがすればいいのか。国が治まっておらねば、いかがすればいいのか。それ故家が斉わず、身修まらず、意誠ならず、知至らずならばいかがするか。まず物を格(ただ)さねば、知を至らすことはできまい。では、物を格すとはどういうことか。意念のあるところ、直ちにその不正を去って、もってその本来の正しさを全うし、あらゆるとき、あらゆる場所において、天理を存するようにすることだ。よいか、わたしのいう致知格物は、わが心の良知を事事物物に致すことである。わが心の良知を致すのが致知であり、事事物物にその理をえるのが格物である。よいか、致知とは、知識を磨いたり、心構えを正すだけではだめなのだ。知を実現しなくてはだめなのだ。良知を致さずんば、則ち仁は決(かなら)ず熟せざるなり、とはその意味でなくてはならない。だからこそ、事に非ざるもの無し、と。是れ真の格物なり。故に王公より庶匹に至るまで、日用応酬の事は、皆格物なり。豈只に書を読み物理を窮めて、然る後に之を格物と謂うといはんや。」

静区 「君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。先生は小人の合一ではないと言い切れますか。」

中斎 「儒者の学問の目的は、経世である。その根本は無欲でなくてはならぬ。孟子にいう、志士はいつも溝壑(こうがく)にあるを忘れざる、と。世を捨てて、隠棲するのも儒者の生き方だ。徹頭徹尾、政(まつりごと)に関わり続けようとする道もあろう。しかしみどもはそれを取らぬ。座して、死者がみちみちるのを、手を束ねて見守るだけはできぬ。それが天意にかなう行為と信じたら、みずから、そのために身を忘れ、家を忘れ、妻子眷属を捨てて兵を起こさざるをえない、そういう仁もある。身を安きに置かんと要(もと)むるは、即ち人情なり。然れども其の情に任すれば、即ち与に道に入るべからず。故に大人は斃れて後休む。故に斃れざるうちは其れをして善をなし、其れをして悪を去らしむ。便ちこれ功夫なり。」

静区 「先生は、かつてこういっておられた。良知の学は天下に亡びて伝わらず。只だ其の伝はらざるや、人亦た聖賢の域にのぼるを得ずして、皆酔生夢死の場に擾々(じょうじょう)たり。豈に悲しむべきに非ざるか。若し先覚者有らば、万死を犯すも疾(すみや)かに告げざるを得ざるなり。嗚呼、後の世に当たりて、先覚するものは抑も誰ぞや。吾れ未だ其の人を見ざるなり。噫。いま先生は先覚者になりたるご所存か。」

中斎 「矩之允、もうよかろう、夜も更けた、後は明日にしょうぞ。」

中斎は、ついに静区(矩之允)の諫言を論破できなかったように見える。その答えが、静区を惨殺せしめることであった。それは、おのれが磨き上げてきた学問の破綻そのものでもあった。というより、その学問の桎梏を断ち切らねば、そもそも崛起は成り立たなかったのである。それを象徴するのが、中斎の最愛の愛弟子静区であった。それを断ち切ることが、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵を飛び越えることであった。それほど、その深淵は、大きく隔たる。しかしそれをせねばならぬほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さは大きかった。静区を斃すことで、おのれに残る儒者の軛を断ったのだと、僕は思う。

平八郎と格之助の墓.jpg


参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
王陽明『伝習録』(中公クラシックス)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
大塩平八郎『洗心洞箚記』(たちばな教養文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月07日

もたもた


「もじもじ」「うじうじ」「いじいじ」(共に、http://ppnetwork.seesaa.net/article/475419164.htmlで触れた)が、心理状態を表す擬態語だとすれば、「ぐずぐず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475438824.html「のろのろ」「もたもた」「もごもご」は、その行動・態度の、のろさ具合を指し、価値表現がより際立っている。「ぐずぐず」は触れたので、「のろのろ」「もたもた」「もごもご」などについて触れていく。

「もたもた」は、

処理にまごついたり行動が機敏でなかったりするさま、
物事が順調に進まないさま、

の意で、

もたもたするな、
交渉がもたもたと長引く、

といった使い方をするのが、今日では、普通である。アクセントは、

もたもた、

で、

もたもた、

では、滞っている意になる(擬音語・擬態語辞典)、とある。

ただ、大言海には、「もたもたと」の項で、

胸につかえて、吐気を催す状などに云ふ語、

とある。これについては、他に言及がないので、判断がしかねるが、或いは、原意は、これだったのかもしれないと思わせるのは、「もたもた」は、

もたつく、

の「もた」と関係のある語(擬音語・擬態語辞典)、とあるからである。大言海は、「もたつく」に、

むかつく、

と同義とし、

吐気を催す、

意としているので、「もたもた」の「もた」を、

むかつく、

の「むか」の転訛とみなしている可能性がある。あるいは、今日の「もたもた」とは別語の可能性があるが。

江戸語大辞典は、「もたつく」を、

いちゃつく、

と同義で、

男女がもつれあってふざける、

意としている。広辞苑は、「もたつく」を、

すらすらとはかどらない、

意とともに、

男女がいちゃつく、

意も載せているので、江戸時代にその意で使われていたことは確かである。ただ、「もたつく」は、

もたもた+つく、

で、擬態語「もたもた」の動詞化のようなので、語の先後は、「もたもた」が先のようである。

江戸時代、「もたもた」同義で、

とちとち、

が、

まごまごする、
うろたえる、

意で使われている(江戸語大辞典)ので、「もたもた」が行動面の鈍くささを言い表しているとすると、

とちとち、

は、その心理状態の、

まごついているさま、
うろたえているさま、

の方に意味が少しシフトしている気がする。

行動のろさを指す、「もたもた」似た言葉に、

のろのろ、

がある。「のろのろ」は、

鈍鈍(広辞苑)、
遅遅(大言海)、

等々と当て、やはり、

動作や物事の進行が非常にゆっくりしているさま、

の意で、

のろのろした動作、
のろのろと立ち上がる、

等々と使う。

のろっ、
のろり、

等々とも使う。

のろりのろり、

といった使い方をする「のろり」自体は、

動作や物事の状態が、あわただしくなく、気の長い様子、

の意(擬音語・擬態語辞典)で、この言葉も、

のろっ、

も、状態表現であって、「のろのろ」にある、貶める価値表現はない。

のろりのろり、

と重ねると、少し価値表現の入った、マイナスの含意がある。「のろり」「のろっ」「のろのろ」は、

ふらり、

といった飄逸さがある。あるいは、逆にそれ自体を評価した

のんびり、

といった価値表現ともつながる含意がある。そのためか「のろり」には、江戸時代、

異性に甘い、

という意味もあり、そこから、

のろける(惚気る)、

が派生している。

うつかりしてゐて、おめへの艶情(のろけ)を受けるやつサ、いつの間にか惚意(のろく)なってゐるの、

と使われている(人情本「春色梅児誉美」)。しかし動詞化された、

のろい(鈍い)、

は、

鈍い、遅い、
手ぬるい、
女に甘い、

の意で、その語源を見ると、

ヌルシの転(大言海・ねざめのすさび)、

とみなされ、

仕事が手緩い、

の意(日本語源広辞典)の、

ヌルシ→ノロシ、

と見られる。「ぬるし(温し)」は、

ぬるぬる、

の「ぬる」と同根(岩波古語辞典)、

生温かい、

意から、それをメタファに、

鋭さが足りない、にぶい、のんびりしている、
いい加減でおろそか、

へと転じ、「ぬるぬる」は、

生温かい、

意と同時に、

動きや反応が鈍い、

意があるので、「のろのろ」は、

ぬるぬる→のろのろ、

の転訛とも考えられる。「のろのろ」の「のろ」のマイナスイメージから、

のろつく、

と動詞化されたり、

のろつく(つくは接尾語、どんつくの「つく」と同じ)、
のろ助、
のろ作、

と擬人化されたり、

のろっ臭い、
のろっ濃い、
のろくさい、

等々と形容詞化されたりして使われ(江戸語大辞典)、今日にも生き残っている言い回しがある。

「もごもご」は、「もたもた」の動作が、しゃべり方に特定された表現とみることができる。

口をはっきり開けないで物を噛む、

さまの状態表現であるが、それをメタファに、

口を十分開けずに物を言い、音声が口の中にこもっているさま、

の意で使う。

口を動かさないので、言葉が口の奥にこもってしまい、明瞭に聞き取れない話し方、

であり、聴く側にとって、

じれったさ、

を感じさせる(擬音語・擬態語辞典)。その意味で「もたもた」のしゃべり方版である。あるいは、咀嚼するさまの意の、

もぐもぐ、

の転訛と思われる。「もぐもぐ」自体に、

口を開かないので、言葉が口の中にこもっているさま、

の意がある。

もぐもぐ→もごもご、

の他に、今は使われなくなっているが、

もがもが、

という言い方もあった(擬音語・擬態語辞典)。

もぐもぐ→もがもが→もごもご、

と転訛したのかもしれない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月08日

まごまご


「まごまご」は、

まごつく状に云ふ語、

とあり(大言海)、

方法・方向・なすべきことなどがわからず当惑して、適切な行動ができないでいるさま、

の意である(広辞苑)。

何をしていいかわからず右往左往している様子、

という状態表現が、

決断することができずに、無駄に時間を過ごす様子、

と、価値表現へと意味が広がった(擬音語・擬態語辞典)と見ることが出来る。

まごつく、

という動詞は、

迷ってさまよう、
まごまごする、
うろうろする、

意味で使う(江戸語大辞典)が、「つく」は、

へたつく、
いらつく、
むかつく、
もたつく、

等々のように、他の語について、

その様子になる、
なりかかる、

意で使う。「まごまご」の、

「まご」+「つく」

という感じであろうか。「まごまご」は、載らないが、「まごつく」は、江戸語大辞典に載る。岩波古語辞典には載らないので、確かなことは言えないが、

角から隅まで徘徊往来(まごつき)て(安永六年「中洲雀」)、

と用例があるところをみると、江戸の末には使われていたとみられる。そのためか大言海には、「まごまご」「まごつく」は載る。この由来ははっきりしないが、迷っているさまをそう言い表したとみるほかはない。

ひとつの憶説だが、「まごつく」の「まご」は、

まごう(紛)、

の「まご」ではないか。「まごう」は、

まがう(紛)、

の音便である(広辞苑)。「まがう(ふ)」は、

マ(眼)カヒ(交)の意か、

とある(岩波古語辞典)。

眼がちらちらするほどに入り乱れている、
まじりあって見えなくなっている、

の意である。ある意味で、

眼がちらちらする、

という状態表現が、

心が入り乱れる、

意に転じたとしても不自然ではない。憶説ではあるが。

この「まごまご」に類似の言葉として、

うろうろ、
おろおろ、

がある。「うろうろ」は、今日、

方向が定まらず、または、どうしたらよいかわからず、落ち着きなくうろつくさま、

の意で使う(広辞苑)が、もともとは、

力が抜けて、一転に定まらないさま、
落ち着かないさま、

の意(岩波古語辞典)で、室町時代頃から見えるが、

病中の眼なれば、うろうろとして、燈火がいくつにも見ゆるぞ(四河入海)、

というように、

古くは特に目または心が揺れ動くさまに言い、身体全体の動きに言う語ではなかった、

とある(擬音語・擬態語辞典)。江戸時代にも、

うろうろまなこ(落着かない目つき)、

というように、

「きょろきょろ」に当たる眼の動きに「うろうろ」を使う、

例がみられる(仝上)。しかし、

うろうろ茶船(江戸時代両国の船遊びなどに、船の意だを漕ぎめぐって飲食物を売る小船)、

の用例では、

うろつく、

意になっている。「まごまご」と「うろうろ」の使い分けは、今日、

「まごまご」は、どうしたらよいかわからず、困惑しているようすを表し、「突然、スピーチの指名を受け、まごまごしてしまった」「財布が見つからず、まごまごした」「まごまごしていると、また留年だぞ」など、いろいろな状態に使える。「うろうろ」は動き回ったり歩き回ったりするさまを表す。「変な男が家のまわりをうろうろしている」「時間があったので、盛り場をうろうろした」のように用いる、

としている(デジタル大辞泉)。「まごまご」は、心理状態にウエイトがあり、「うろうろ」は、その振舞いの方にシフトしている、という感じであろうか。

大言海は、「うろうろ」を、

うろたへるの、うろを重ねたるなり、

としている。それと似たものに、

ウロタフのウロを重ねた語(志布可起)、

があるが、「うろうろ」の元の意が、

目または心が揺れ動くさま、

を言っていたとすると、

ウロ(空虚・ウツロ)の繰り返し、

とする説(日本語源広辞典)も捨てがたい。ただ、「うろうろ」が、

きょろきょろ、

の含意だとすると、「うろたふ(狼狽)」が、心理の動きも含めて妥当かもしれない。

「おろおろ」は、今日、

事態に対処できず取り乱すさま、

の意で使う(広辞苑)が、古くは、

どうしてよいかわからずあわてる、

意はなく、

大ざっぱに、ざっと(「弟が謡ひ候しはおろおろ覚え候ふを、未だ習ひ候はず」梁塵秘抄)、
ところどころ(「髪もはげて、白きとてもおろおろある頭に」宇治拾遺)、
ぼつぼつ、少しずつ(「諸子百家のことおろおろ語り出で」雨月物語)、

といった感じで(学研全訳古語辞典)、今日の、

うろ覚え、

と近く、

おろ覚え、

といった。「おろおろ」に、

不安で為す所を知らない、じっとしていられない、
泣いて目や声がうるんださま、

の意で使うようになるのは、江戸時代で、うろたえた意で、

おろおろ目、
おろおろ顔、

と使ったり、泣いて取り乱した、

おろおろ声、

といった使い方をする(擬音語・擬態語辞典)。

「おろおろ」は、動転したさまだが、「うろうろ」は、動き回るところにウエイトがある。しかし、江戸時代には、

「うろうろ」は一時期「おろおろ」と同じ意味で使われていた、

ともある(仝上)。

「おろおろ」は、

疎(おろ)かの語根を重ねて云ふ語、

とある(大言海)。

オロソカの語根のくりかえし、

も同趣である(日本語源広辞典)。当初の、

おろ覚え、

の使い方からすると、「疎(おろ)か」の、

かんげきが多く、おおざっぱ、いい加減、
おろそか、
至らないさま、手抜かり、

意味と重なる気がする(岩波古語辞典)。「おろそか(疎か)」が、

オロはアラ(粗)の母音交替形。ものごとが密でないこと、隙間の多いこと、粗略なこと、ソカはオゴソカのソカと同じ、

とあり(仝上)、その「おろ」からきていると見ていい。

おろぬき(粗抜き)、
おろねぶり(粗眠り)、

という言葉もある(仝上)。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2020年06月09日

竹輪


「竹輪」は、

魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて整形後に加熱した加工食品であり、魚肉練り製品の一つである。中心の棒を抜くと筒状になり、竹の切り口に似ているためこの名が付いた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%BC%AAが、「竹輪」は、

竹輪蒲鉾の略、

である(大言海、たべもの語源辞典)。「蒲鉾」は、

蒲の穂、

の意である。つまり、

蒲鉾子の義、

である。

稲穂子(いなほこ)と云ふ語もあり、コとは、大葉子(車前草)、いちびこ(蓬蔂 苺の別称)、いささこ(魦 いさざの古名)など、意味なく物につく語なり、

とある(大言海)が、単なる愛称というよりは、菓子や桃子、栗子のように、蒲の子の意味であったと見られなくもない。

「蒲」は、

カマ、

と呼び、

ガマの古名、

とある(岩波古語辞典)。名語記に、

蒲、加末(かま)、草名、似藺可以為蓆也、

とある。そのためか、大言海には、

組(くみ)の轉にて…組みて蓆とすべきものの意と思はる、菰も、組の轉にて、同語根ならむ。かまばこ(蒲鉾)、かばやき(蒲焼)は、相通ず、

とある。

「かま」が「がま」と濁ったのは、

菰(こも)をまこも(真菰)と云ふが如く、蒲も、マガマなどと云ひしを、上略せし語か、或いは蟹をガニ、蛙(かへる)をガヘルと訛る類か、清音の蝦蟇(かま)をガマと云ふ、同趣、

とする(大言海)。その理由はともかく、

「新撰字鏡」「十巻本和名抄」「観智院本名義抄」「文明本節用集」などでは「カマ」と清音であり、「かます(叺)」「かまぼこ(蒲鉾)」のように、複合語の場合、現在でも清音をとどめている。しかし、「運歩色葉集」「日葡辞書」などで濁音表記されておりの、中世末から近世にかけて、「ガマ」と濁音化したと考えられる、

とある(日本語源大辞典)

蒲(がま)の穂.jpg

(蒲(がま)の穂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%9Eより)

蒲の穂の「蒲鉾」が、

魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて整形後に加熱した加工食品、

になったのは、

蒲の実の鉾に似たるように、魚のすり身を木につけて、蒲の鉾を模せる歟(名語記)、

とあるように、「蒲鉾」の名は、

親指の太さくらいの丸竹のまわりに、魚肉のすり身を厚保さ四分(1.2センチ)ばかりに丸くつけ、竹とともに湯煮して、揚げ、竹を抜いて用いた、

からである(たべもの語源辞典)。大言海には、

鯛、鱧、鮫などの肉を、敲き擂りて、鹽、酒などを加へて泥(デイ)とし、竹串を心とし、円く長く塗りつけて、炙りたるもの。形、色、蒲槌(かまぼこ)の如くなれば、名としたり、

とある。蒲槌(ほつい)とは蒲の穂のことである。これを意識して、形作ったか、結果として蒲の穂に似たかは、はっきりしないが、

蒲鉾、

つまり、蒲の穂に似ているから、「蒲鉾」となった。

室町時代に、すり身を竹に塗りつけて焼き、儀式に用いたのが始まり、

とある(日本語源大辞典)。その後江戸時代、竹輪蒲鉾とは別に、

板付蒲鉾、

がつくられるようになる。

板付蒲鉾が蒲鉾になると、竹輪蒲鉾は、竹輪という別な食品になってしまった、

とある(たべもの語源辞典)。もとは、いずれも、

蒲鉾、

であが、中央にさした竹を抜いて、きったきりくちが竹の輪に似ているので、

竹輪、

と別にされた。明治時代以前は、

白身魚自体が高価な食材であったため、蒲鉾や竹輪は高級品、

という扱いであったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%BC%AA、とある。

ちなみに、「はんぺん」は、

竹輪蒲鉾を縦二つに切って平らにしたもの、

で、それを、

半片(ハンペン)、

と呼んだものである(たべもの語源辞典)。

「蒲焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473042467.htmlは、江戸初期まで、「うなぎの丸焼きのぶつ切りを串にさしたもの」で、塩焼きや味噌焼きにして食べるもので、その「姿形」が「蒲(がま)の穂」に似ており、その蒲(がま)が蒲(かば)に代わり「蒲焼き」とよばれた。

竹輪.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:竹輪
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2020年06月10日


「茶」(通音チャ、唐音サ、漢音タ、呉音ジャ)の字は、

会意兼形声。もと「艸+音符余(のばす、くつろぐ)」。舒(くつろぐ)と同系で、もと緊張を解いてからだをのばす効果のある植物。味はほろ苦いことから、苦茶(クト)ともいった。のち、一画を減らして茶とかくようになった、

とある(漢字源)。「ちゃ」と訓むのは、中国語の字音である。当たり前だが、

朝鮮半島でも「チャ」と発音しますし、ロシア語やチェコ語やアラビア語の「チャイ」も、中国の「チャ」が語源です。一方、欧米では「tea(ティー)」と言い……、ドイツ語では「テー」、フランス語では「テ」です。これも中国語が語源なのです、

とあるhttps://onoen.jp/column/column_97.html。「茶」は中国発祥なのである。その「茶」を、

『茶経』には「茶」「檟(カ)」「蔎(セツ)」「茗(メイ)」「荈(セン)」の5種の名が挙げられているが、他に当て字もあって、それらも合わせると10種以上の字が使われていた。「茗」に関しては、現代中国語でも茶を総称する「茗茶」という言い方が残っている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6

「チャ」の訓みについて、

タ(茶)は、拗音化して「チャ」になった。子音交替[ts]をとげるときには「サ」になった、

と音韻変化を説くものもある(日本語の語源)が、慣用的に、

チャ、

と発音するものが、日本語化したとみていいのではあるまいか。

日本人は、中国音チャを、大和言葉のように日常語として使っています。茶を点てるは、抹茶を泡立てる意です。茶の子は、茶菓子のことです。色彩の「茶色」も、同語源で、「茶を煎じた色」が語源、

とある(日本語源広辞典)。

日本の茶の木.jpg

(秋に花咲く、日本の茶の木 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6より)

「茶(ちゃ)」は、

チャノキの葉や茎を加工して作られる、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6、それは、

ツバキ科の常緑低木で、中国南部(四川・雲南・貴州)の霧の多い山岳地方の原産、

とされる。ただ、

日本にも原生していた、

とある(たべもの語源辞典)。

「茶」の初出は、天平元年(729)に、

本朝聖武帝天平元年 召百人僧於内裡 而被講般若 第二日 有行茶之儀(茶経詳説)

とあり、聖武天皇が、

百人の僧を内裏に召して般若経を講せしめた折、行茶(ぎょうちゃ)と称して茶を賜った、

という(仝上)。「行茶」の儀とは,

お茶を行じること、

でありhttp://unsui.net/gyoucha/

人に茶を進める、

ことであるhttp://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8831/883102.htm

お茶を飲むことも大切な修行の一つである、

という意味が込められているhttp://unsui.net/gyoucha/、とある。

引茶(ひきちゃ)の儀、

とも言われるhttp://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8831/883102.htm、とある。

磚茶.jpg

(磚茶(たんちゃ/だんちゃ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%8C%B6より)

すでに、この時期、「茶」が渡来していたことになる。ただ、

天平時代に中国から渡ってきた茶は、磚茶(たんちゃ/だんちゃ)で、磚(たん)という中国の煉瓦のような形をしていて、削って用いた、

とある(たべもの語源辞典)ので、これもそうかもしれない。

その後、延暦二四年(805)に、最澄が唐から帰朝の折も、大同元年(806)の、空海帰朝の折も、茶の種をもってきた(仝上)、とされる。弘仁六年(815)、嵯峨天皇は、

畿内・近江・丹波・播磨等に茶を植えさせた、

とある(日本後紀)。この年、近江行幸の際、崇福寺の大僧都永忠が茶を煎じて天皇に奉ったとある(類聚國史)し、弘仁年間(810~824)の『文華秀麗集』の「錦部彦公光上上人山院ニ題スル詩」に、「緑茗を酌(く)む」とあり、既にこの時期、喫茶がおこなわれていたことがわかる(仝上)。この時期、茶は、

薬、

として好まれていた(日本食生活史)が、平安末期には、奈良時代から続いていた貴族や僧侶の間で行われていた喫茶が途絶え(仝上)、鎌倉時代になって、また復活する。

栄西が宋に二度留学し、そのいずれかの折に茶の実を持ち帰って、筑前の背振山に植えた。その実のあまりを明惠(高弁)がもらって、山城國栂尾(とがのお)に植えた。これが栂尾の茶の起こりであると伝えられている。また宇治にも植えたので、宇治茶の起源となった、といわれている、

とある(仝上)。栄西は、『喫茶養生記』をあらわし、中国の製茶法を伝え、

茶の葉を朝つんで、これをあぶり、あぶる棚には紙をしき、その紙が焦げないように火であぶり、竹葉をもってかたく口を封じた瓶にいれてたくわえる、

と述べ(仝上)、さらに茶を喫する法についても、

一寸四方ほどの匙に二、三匙茶を入れて、極熱の湯で飲む、

としている(仝上)。「吾妻鏡」にあるように、栄西は、実朝が二日酔いでなやんでいたとき、茶を差し上げた、とあるように、やがて喫茶は、上下一般に流行するようになるが、あくまで妙薬として受け入れられていった、と思われる。鎌倉末期にも、茶の会が行われているが、元弘三年(1332)の『花園院御記』には、

近臣らが喫茶の勝負をやるのに賭け物を出して、茶の味の識別をして当てる会をしている、

との記述があり、この茶会は、

茶味の識別を争う、

ものであったが、茶の産地も増え、鎌倉末期には喫茶の風が僧侶・公家・武家から、庶民にまで広がっていく(仝上)。その主体が、武家に移るとともに、南北時代、新興大名層の間に、

茶寄合(闘茶会)、

という賭け事の茶会へと引き継がれていく。東山時代になって、足利義政が、

東山の東求堂(とうぐどう)に四畳半で茶の湯を友とした、

ように、書院での心静かに威儀をただして喫茶為る風に簡素化されたものが生まれ、これが、

村田珠光、

の「茶道」の確立につながっていく。それは、

一休宗純に参禅して体得した禅の精神と「下々の茶」つまり庶民の茶の風儀とを総合した茶道、

という、

庶民風の茶の湯、

を創り上げる(仝上)。珠光の茶は、利休の談話筆記と伝わる『南坊録』に、

四畳半座敷は珠光の作事なり、真の座敷とて鳥子紙の白張は杉板のふちなし天井、小板ぶき宝形造、一間床なり、(中略)書院の飾物は置かれ候へども、物數なども略ありしなり、

とある。武野紹鴎、千利休と、これを日本的な「茶の湯」が大成されていく。茶は、

中国、
朝鮮、

にもあるが、

茶の湯、

は、

静寂枯淡の趣をもつ、禅的な人生観がこの趣味の中にとりいれられ、

まったく日本独自のものとなった(仝上)。珠光・紹鴎・利休の、

わび・さび、

については、「わび・さび」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471270345.htmlで触れた。

抹茶を点てる様子.jpg

(抹茶を点てる様子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6より)

なお、茶道については、

「茶」http://ppnetwork.seesaa.net/article/406853639.html?1589162318
「茶の湯」http://ppnetwork.seesaa.net/article/396593854.html
「古田織部」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435235025.html

茶事については、

「茶事」http://ppnetwork.seesaa.net/article/405435166.html
「点前」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471647299.html

茶道具については、

「茶道具」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163135.html

で、それぞれ触れた。その他、「茶」に関わるものとして、

「茶番」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.html
「お茶の子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.html

また「茶」に、本来の「茶」の字にはない、わが国に独特の、

茶とも思わず(人を馬鹿にして軽んずる)、
茶にする(はぐらかす)、
茶に受ける(冗談事として応対する)、
茶に掛かる(半ばふざけている)、
茶に為る(相手のいうことをはぐらかす、愚弄する)、
茶に成る(軽んずる、馬鹿を見る)、
茶を言う(いい加減なことを言う)、

といった使い方をする、

からかう、
ちゃかい、
いい加減なことを言う、

意味の使い方があるが、その「茶」については、

「お茶を濁す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453997241.html
「茶目」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453974476.html
「茶々を入れる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html
「臍で茶を沸かす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/441330515.html

等々で触れたおいた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月11日

茶飯


「茶飯」は、

米の調理法の一種、

だが、

葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、

ものと、

醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、

の二種がある(広辞苑)。前者は、

研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、

で、奈良の郷土料理、

「茶飯」は、

米の調理法の一種、

だが、

葉茶の煎じ汁で炊いた飯、塩で味を付ける、

ものと、

醤油と酒とを混ぜて炊いた飯、

の二種がある(広辞苑)。前者は、

研いだ米に、煎茶やほうじ茶(茶葉ではなく、淹れた茶を水の替わりに用いる)を加えて炊き上げたもの。または、白飯が炊き上がったところで、塩と抹茶を混ぜたもの、

で、奈良の郷土料理、

奈良茶飯、

奈良茶飯.jpg


が有名である。奈良茶飯は、

茶を煎じた湯に塩を少し加えて炊いた飯…に大豆・小豆・栗などを加えた、

とある(たべもの語源辞典)。後者は、

研いだ米に、醤油と出汁などを加えて炊き上げたもの。東京では主におでん屋で供され、おでん用の茶飯の素も市販されている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF、きがらちゃ(黄枯茶)色をしているので、

きがらちゃめし(黄枯茶飯/黄唐茶飯)、

といい(たべもの語源辞典)、また、

さくらめし(桜飯)、
味付飯、
醤油飯、

ともいう(広辞苑)。遠州地方(浜松市周辺)では、

さくらご飯、

桜飯(タコ飯).jpg

(桜飯(タコ飯)  https://cookpad.com/recipe/1828813より)

と呼ばれているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%A3%AF、とある。なお、これに、牛蒡や蒟蒻を炊き込んだ、

加薬飯(かやくめし)、

は、大阪で多くつくられた(日本食生活史)、とある。「加薬飯」は、

かやくごはん、

ともいうが、

五目飯、

ともいう。

要は、「茶飯」には、

茶を用いた茶飯、
と、
炊きあがりが茶色である茶飯、

とがあり(仝上)、たべもの語源辞典によると、茶飯には、

鹽を加えて茶の煎じ汁で炊いたもの、
鹽と酒を入れて炊いた飯に粉にした煎茶を混ぜるもの、
茶の入らない醤油味の飯、
普通の飯に熱い吸地(煮出汁と醤油と塩)を掛けたもの、
飯に吸地をかけ、晩茶を軽く振り込んだもの、

等々作り方は各種あるが、共通項は、

黄枯茶(きがらちゃ)色をした飯、

ということらしい。

奈良茶飯は、

少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF。江戸時代初期の『料理物語』には、

茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。現在も香川県の郷土料理となっている茶米飯は、米と大豆を炒ってものを少々の塩を入れた番茶で炊いて作られており、『料理物語』に記された奈良茶飯と同系統の料理であるとみられる、

とある(仝上)。江戸時代前期(明暦の大火以降)に、江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まった、と言われている(仝上)。これは、

奈良茶飯に、豆腐汁、煮染、煮豆を添えた、

もの(たべもの語源辞典)、あるいは、

奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8C%B6%E9%A3%AF、江戸後期の『守貞漫稿』には、

明暦の大火(1657年)のあと、金竜山(守貞は金竜山を浅草寺ではなく待乳山聖天としているが両説あり)の門前の茶屋が茶飯に豆腐汁、煮しめ、煮豆などを添えたものを奈良茶と称して出したのが最初で、金竜山の奈良茶を食べに行こうと江戸中から人が集まるほど人気となり、『西鶴置土産』(1693年)にも登場した、

とある(仝上)。現在の定食の原形と言える(仝上)。『西鶴置土産』には、

近き頃金竜山の茶屋に、一人五分宛奈良茶を仕出しけるに、器物の奇麗さ色々調へ、さりとは末々のものの勝手の好き事となり、中々上方に斯る自由なかりき、

とある(日本食生活史)。天和(1681~84)の頃には、

浅草並木町にもでき、いずれも料理茶屋の初めとなった。それから諸所にできたが、川崎大師前の亀屋・万年堂などが有名、

とあり(仝上)、さらに、

夜十時過ぎに茶飯と餡掛豆腐を売る茶飯売りが出た、

ともあり(たべもの語源辞典)、これは京阪には見られなかった。これにより、奈良茶飯は、畿内よりもむしろ江戸の食として広まっていった、とみられる(仝上)。文化2年(1805)の『茶漬原御膳合戦』には、

茶漬見世は、……大森の里人の思い付きで、上白米を飯にたき、茶もいいものを選んで、しがらきや葦久保などに縁のある海道茶漬の見世を開いた。最初は一軒だったのが次第に増えて二十何軒かになった。そのうちにおちゃだけではなく、奈良漬、座禅豆、梅干しなどを付けて食わせるようになった、

とある(日本食生活史)。別系統の茶飯屋かもしれないが、一膳飯屋であったことがわかる。

今日、

おでん茶飯、

とおでんに茶飯がつきものになった(たべもの語源辞典)が、これは、

桜飯、

醤油味で具のない炊き込みご飯。研いだ米に醤油、塩、酒、味醂、出汁などを加え炊き上げたもの、

である。これが、

黄枯(きがら)茶飯、

の代名詞である。

なお、

「めし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html
「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html

については、触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月12日

団子


「団子」は、

穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、

の意(広辞苑)である。今日「だんご」の呼称が定着しているが、地方によっては、

だんす(陸奥、東北地方など)、
あんぶ(新潟県など)、
おまる(滋賀県・四国地方など)、
おまり(御鞠 伊勢)、
おまる(月見団子 群馬地方)、

等々様々な呼称がある。女房詞(ことば)で団子のことを、

いしいし、

といったが、これは「美(い)し」を重ねた語で、おいしいものの意であり、各地の方言にもある(日本大百科全書)。「団子」は、

古くは焼団子や団子汁の形で主食の代用品として食せられ、材料も粒食が出来ない砕米や屑米や粃、雑穀の場合は大麦・小麦・粟・キビ・ヒエ・ソバ・トウモロコシ・小豆・サツマイモ・栃の実などを挽割あるいは製粉したものを用いて団子を作った。今日でも地方によっては小麦粉や黍(きび)粉などで作った米以外の団子を見ることが可能である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90。今日の感覚では、嗜好的な役割が強いが、

かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、

とある(日本昔話事典)。たとえば、

月見だんご.jpg


正月の二十日(はつか)団子、春秋の彼岸団子、春の花見団子、秋の月見団子、死者の枕頭(ちんとう)や墓前に供えた枕(まくら)団子などがある。このうち彼岸や仏生会(ぶっしょうえ)などにはよもぎ団子がつくられた。名刹の門前土産に草団子を多くみかけるのは、そうした慣習の名残である、

ともある(日本大百科全書)。そのせいか、

団子浄土(良い爺さんが団子を追って地中の異郷に至り幸福を得る)、
団子婿(婿にもらう団子)、

等々昔話では団子は不可欠で、餅の例は少ない。桃太郎の話でも、黍団子であった(日本昔話事典)。ただ、

団子と餅、

の違いについては、

餅はめでたいときに、団子は仏事などにとする所もあるが、この傾向は全国的ではない、

とあり(日本大百科全書)、

米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、
粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、

といった(たべもの語源辞典)、とする説もあるが、

「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90。もともと、「餅」自体が、

「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html
「もち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170

で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では,

小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,

つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

餌(ジ)、

と同じであり、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、

「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」

とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、

「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」

とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。

ところで、「団子」の「団」は、

ダン、

は、音読み、「子」の、

ゴ、

は、訓読み、の重箱読みである。和語の雰囲気であるが、大言海は、

団喜(ダンキ)の轉、

を採り、

團粉(ダンゴ)は、形の團(マロ)き故に號(ナヅ)けしと云ふ説は非なり、

とする。他に、

字典に、團は、聚也、集也と云ひ、米麦の粉の、ねり團(あつめ)し故、だんごと云ふ(愚雑俎)、
形が丸いところから(瓦礫雑考・木綿以前の事=柳田國夫)、

があるが、

団喜(だんぎ)に由来し、粉を使うことから「団粉」となり、小さいものであることから「団子」に変化した、

とするのが通説(語源由来辞典)とする。しかし、この変化は、いささか疑わしくないか。

「団喜」は、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.htmlで触れたように、遣唐使が中国から持ち帰った八種の唐菓子、

八種唐菓子(やくさからがし)、

と呼ばれる、

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

のひとつ(倭名類聚抄、日本食生活史)で、はじめは、植物の菓子に似せて、

糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、

である(日本食生活史)。団喜は、

歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、

ともいい、

現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90。確かに、文政13年(1830)刊の『嬉遊笑覧』に、

団喜は俗にだんごといふものの形にて餡を包めるなり、

とある。

清浄歓喜団.jpg


しかし、

中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、

とある(日本語源大辞典)。「団子」を、

ダンス、

と訓むのは、「子」の唐音でもあるし、

ダンシ→ダンス、

という転訛かもしれない。「団喜」起源ときめつけるのは、少し早計かもしれない。。室町末期の筆写本「伊京集」には、

ダンゴ、
ダンス、

の両形がみられる。室町末期の「日葡辞書」には、

ダンゴ、

しか載らないが、近世になってダンゴが優勢になっても、ダンシが残っている、とある(仝上)。

柳田國男は、

団子は、神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、

という説を立てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90。粢(しとぎ)とは、

日本古代の米食法の一種、水に浸した米を原料にさまざまな形に固めたものを呼び、現在は丸めたものが代表的である。別名で「しとぎもち」と言い、中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや栗を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物と考えられている、

とされる(仝上)。平安時代末から鎌倉時代末にかけての、日本最古の料理書『厨事類記』には、

歓喜団(団喜)は「粢(しとぎ)のようにしとねて、おし平めて(中略)良き油をこくせんじて入べし、秘説云、油に入れば、火のつきてもゆるがきゆる也(後略)」と説明し、粢のようにまずは調理し、後半は油に入れ揚げ仕上げる料理となっている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90、粢に似せて作る『厨事類記』の歓喜団(団喜)は今日の団子に近いとも言われる(仝上)が、この説明は、「団喜」と「粢」とが、別系統ということを表しているように見える。

仮に、「団子」の原型が、

粢(しとぎ)、

としても、それに「団子」と名づけたのは、どこから来たかが、問題になる。

米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、

とする説(たべもの語源辞典)が、もっとも説得力がある。中国から「団子」(ダンシ)という名前が入ってきたのかもしれないが、少なくとも「粢」という「しとぎもち」が元々あったことを考えると、

団喜(だんき)→団子(だんご)、

という転訛は考えにくい。「団子」の唐音、

ダンス→(団子)→ダンゴ、

と、重箱読みに転訛したというほうが納得がいく気がする。

さて、「団子」は、中世になると、大永四年(1524)の『宗長手記』には、駿河名物の山名物十だんごの記述があり、

必ず十ずつ杓子にすくわせる、

とあり、串刺しではないが、室町時代には、

竹の串にさした団子、

が登場し、金蓮寺の『浄阿上人絵巻』には、二個ずつさしてある、とある(たべもの語源辞典)。

中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされ、団子を売る店や、行商人も多く、各地で名物団子が生まれた、

とされ(日本語源大辞典)、寛永年間(1624~1644)の『毛吹草(けふきぐさ)』には、

京都の七条編笠(あみがさ)団子、御手洗(みたらし)団子、稲荷(いなり)染団子、
摂津(大阪府)の住吉御祓(おはらい)団子、
近江(滋賀県)の柳団子、

があり、享保三年(1727)の『槐記』に、

青串に黄白赤と三つさしてある、

とあり、明和(1764~72)には、

お龜団子、
みたらし団子、

安永六年(1777)には、蜀山人の『半日閑話』に、

浅草門跡前の家号むさしや桃太郎から、日本一の黍団子が発売された、

と載り、天明七年(1787)刊の『江戸町中喰物(くいもの)重宝記』には、

さらしな団子、
おかめ団子、
よしの団子、

と、天明年間(1781~89)には、

米つき団子、
笹団子、
さらしな団子、
吉野団子、
難波団子、
しの原団子、
さねもり団子、
景勝団子、
大和団子、

が見え、天明三年(1783)に、

柴又の草団子、

文政年間(1818~30)には、

喜八団子、

があり、

根岸の里芋坂で売られたむ団子は後に羽二重団子とよばれ、今につながる名物になった、

とある(たべもの語源辞典・日本大百科全書)。

ただ気になるのは、以上の庶民の間で広まっていく団子の系譜とは別に、

農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方の一つ、

であった。米飯の代わりに、昭和の初めまで食べられてきた団子がある。この流れに、

五平餅、

があり、これも、「餅」といっているが、五平餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.htmlで触れたように、

粳米(うるちまい)飯を半搗き、

にしたものであるので、団子の系譜である。五平餅の形には、

御幣、
わらじ、
小判、
丸、
団子、
棒、

等々いろいろあるのである。あるいは、貴族、僧侶から広まっていった、

団子、

と、

農村で代用食として食べられた、

団子、

とは、まったく系譜を異にしているのかもしれない。前者は、あるいは、

中国由来(の団子・団喜)、

後者は、

日本在来(の粢、しとぎもち)、

からそれぞれ広がっていって、「団子」という名に統一されていったのかもしれない。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:団子
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2020年06月13日

みたらし団子


「みたらし団子」は、

御手洗団子、

と当てたりする。「みたらし団子」は、

竹串に米粉で製した数個の団子を刺し、砂糖醤油の葛餡をかけた串団子(焼き団子)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90。この由来を、

御手洗詣での時、京都下賀茂神社糺(ただす)の森で売ったのが最初、

とする(広辞苑)。たべもの語源辞典は、

昔は、毎年六月一九日または二十日から晦日まで、京都市左京区の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)に参詣して境内の御手洗川に脚をひたし、無病息災を祈った。これを御手洗参りとか御手洗会(え)といったが、納涼をかねた遊びであったから、糺(ただす)の涼みとも称した。境内には茶店が並んで酒食を供したが、ここで御手洗団子を売っていた、

とする。「御手洗川」は、神社近くにながれている川で、参拝者はここで手を清め、口をすずいだ(仝上)。大言海には、

團子、毎年六月晦日、社司(賀茂)於御手洗河修祓、其前日自十九日、京師男女参詣、掬社外之井水而祓暑穢、又林閒設茶店賣飲食、其中小粉團、毎五箇以青竹串貫之、……是云御手洗團子、

を引く(雍州府志)。たべもの語源辞典も、

竹串に小粒の団子を五つさして、醤油で付け焼きしたもの、

と、五個とする。

みたらし団子.jpg

(みたらし団子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90より)

「団子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html?1591900451については触れた。「御手洗」は、

みたらし、

と訓ませるが、

神社の社頭にあって、参詣者が手や口を浄めるところ、

の意である。上記の、

御手洗川、
御手洗祭り、
御手洗詣、

の略の意もあるが、それも、「御手洗」の、

手や口を浄める、

からきている。「御手洗」は、

みたらい、

とも訓ませる。大言海は、

タラシは手洗水(てあらひし)の約、ミは神前なるに就き、尊称を加えたるならむ、

とする。「し(水)」は、

水(スイ)の音の約、水良玉(シラタマ)、水長鳥(シナガドリ)、シがらみ、シずく、シたたる、シむの類例、

とする(大言海)

ミタラシ(水垂)の義か。また御垂の義か(類聚名物考)、

も類似の説。たべもの語源辞典も、

シは水(スイ)の音の約である。「しずく」とか「したたる」のシと同じで、水の意である、(中略)ミは尊称である。タラシはテアラヒシ(手洗水)の約である。御手洗水(ミテアラヒスイ)と御をつけたとき、スイがシになり、テアがタとなって、ミタラシとヒを略していい、また、ミタラヒとスイを略したようによぶのは、ヒシが一つになって、ヒとかシといわれたものである、

とし、御手洗を、参拝者が口や手を浄める場所として、

ミタライ(ヒ)を御手洗と解して、ミタラシは御手洗ハシと説いたものがある。ハシ(端)とするならば、場所を意味することになる、ミタラシのシをハシとする説には、反対である、

と異議を唱えている。「しずく」の「し」であり、「御手洗(みたらし)」の「し」は、水でいいのではあるまいか。

江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

鉄砲の玉、
数珠の粒、
そろばんの玉、

と称しているし、寛文(1661~73)の『狂歌咄』には、

細い竹に刺して土塗り爐に立ち並べて五十本串立てた、

とある(たべもの語源辞典)。下鴨神社の神饌菓子の御手洗団子は、

上新粉(白米の粉)でつくった直径二センチほどの白団子を十本の細い竹に刺してある。竹は扇の骨のように十本に割いてあり、その一本に団子が五つずつさしてあるから五十個ある。この五つは、いちばん先がやや大きくて、二番目との間が少しあいている。この団子は厄除けが目的である。一つ目は頭で、下の四つが手足・体である。人形をかたどった団子を神前に供えてお祈りをし、それを家に持ち帰り、醤油をつけ、火に炙って食べると厄除けになる。これが昔の団子で、堅くなったものを食べたのである。今は、始めから醤油を付けて火にあぶったものを売っている、

とある(仝上)。ただ、異説があり、

境内(糺の森)にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子がつくられた、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90

鎌倉時代から建武政権期、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話による説がある。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を表している(仝上)、

下鴨神社の糾の森に井上の社というお宮があるが、その前に清水が湧き出ている。この手洗いの池の水が、まず一つ湧き出て、つぎに四つ続けて出る。そのさまをとって、団子を、一つと四つに分けてつけたという。団子は、熊笹に包んで、扇形にしてあった。古くは、北野社頭の茶店でも売っていた(たべもの語源辞典)、

とあり、五個の団子の、一つ目とそれ以下の区別も、別の根拠となる。しかし、水泡由来よりは、厄除けの意味の方が、五平餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.htmlがそうであったように、神饌団子の由来としては、いいように感じる。

もっとも、

関東では団子が4個の方が多い。これは四文銭ができたことによるとする説が有力である(団子1個が1文。四文銭で団子1串)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90

飛騨高山にも、

御手洗団子、

というものがあるが、これは、

下鴨神社糺の森で売られていた御手洗団子が、高山に伝わった、

ものとされる。ただ、

みだらし、

と濁る(たべもの語源辞典)。なお、精進料理の台引(お土産用の膳)で、御手洗団子、というのは、クワイや山の芋を小さい団子にして一串に五つ刺したものをいうが、これは御手洗団子をまねたものである(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月14日

しずく


「しずく」は、

水や液体がしたたりおちる粒、

の意である(広辞苑)。

雫、
滴、

と当てる。「雫」(漢音ダ、呉音ナ)は、

会意。「雨+下(おちる)」。中国でもこの字を使うが、雫の意味に用いる場合は、国字、

とある(漢字源)。

曲線をえがいてしたたるさま、

の意だが、

しずく、

では用いない、らしい。「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、

とある(仝上)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。漢字には、他に、

零、
涓、
瀝、

等々も、「しずく」の意味がある。「零」(漢音レイ、呉音リョウ)は、

会意兼形声。令は、清らかなお告げのことで、清らかで冷たい意を含む。零は「雨+音符令」で、清らかなしずくのこと。また「雨+〇印三つ(水玉)」とも書く(霝)。小さな水玉のことから、小さい意となった、

とあり(仝上)、「清らかな水玉」の意、「おちる」「欠けて小さい」意がある。「涓」(ケン)は、

会意兼形声。右側の字(エン・ケン)は、丸く体をひねるぼうふら。涓はそれを音符とし、水を加えた字で、細くひねる意を含む、

とある(仝上)。「しずく」の意もあるが、ちょろちょろと流れる水、の意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、

とある(仝上)。「しずくが続いて垂れる」意である。

雫.jpg


「しずく(しづく)」は、

シヅム(沈)・シヅカ(静)のシヅと同根、、

で、「しづく」の、

シヅは、下に沈んで、安定しているさま、

とある(岩波古語辞典)。

沈む意、

とする(大言海)のも同趣旨と思える。「静か」について、

「沈む、鎮む」と同語源、ジスは、静か、閑か、シズマル、シズマリカエル、シズメル、シズシズなど、多くの語を作り出しています、

とする(日本語源広辞典)のも、同じ流れである。しかし、

垂(し)づ、

という動詞がある。

したたり落ちる、

意の、

垂(し)づるの他動詞形、

であり、

垂らす、
しだれさせる、

意である。

組みの緒しでて宮路通はむ(拾遺・神楽)、

という用例があるように、名詞形は、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、

垂・紙垂・四手(しで)、

である(岩波古語辞典)。「し(垂)づ」の連用形から名詞化した。

紙垂.png


「垂(し)づる」のシヅは、やはり、

シヅム(沈)・シヅカ(静)のシヅと同根となる。「垂(し)づる」の名詞形、

垂(し)づり、

は、

水滴などのしたたりおちること、また、滴り落ちたもの、

の意であり、

垂(し)づれ、

とも言う(仝上)。

つまり、「垂れる」意の、

垂づ、

の「しづ」が、「しづく(滴)」の語根と見られるが、それは、

沈む、

の「しづ」にたどり着く。

沈(しづ)く、

という言葉がある。

水底にしずみつく(岩波古語辞典)、
水の中に透き映りてみゆ(大言海)、

という意味で、やはり、

シヅ・シヅム(沈)などと同源(時代別国語大辞典-上代編)、

と、

「しづく(滴)」とは、少し意味は違うが、表記は同じ「しづく」である。「しづく(沈)」と「しづく(滴)」が、重なる要因にはなるかもしれない。

さて、「しづ(ず)む(沈)」は

水の中に下がる(大言海)
水中に没する(岩波古語辞典)、

意だが、

シ(下)+ツム(積む)(日本語源広辞典)、
シ(下)+ウム(埋む、(日本語源広辞典・言元梯・和句解)、
シ(下)+ツム(付)(日本語源=賀茂百樹)、

等々、「シ」を

下、

と解するものが多い。「下」は、

シタ(下)・シモ(下)などのシ、

で、下枝(しづえ)のように、複合語をつくる(岩波古語辞典)。そう考えると、「しづく(滴)」も、

シ(下)+つく(付)、

というのはあり得る。しかし、

「下」もまた「しず」と読む、

とするhttps://www.ihi.co.jp/var/ezwebin_site/storage/original/application/10d34a25711637ececc726a22a5ecb2e.pdf説がある。それが正しいとすると、「しづむ(沈)」も、

下、

の動詞化とも考えられ、「しづく(滴)」も、「シヅ(垂)」も、「下」と関わるのかもしれない。とすると、

賤しい意の、

賤(し)づ、

は、

シズム(沈)・シヅカ(静)シヅク(滴)などのシヅと同根、

とある(岩波古語辞典)のは、

下(しづ)、

と見ると、その状態を価値表現とする意がすんなり入る気がする。もしそうなら、「下枝」を、

しもつえ・したつえ→しづえ、

の転訛ではなく、はじめから、

シヅエ、

と訓ませた可能性も出てくる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:しずく
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2020年06月15日

したたる


「したたる」は、

滴る、瀝る、

等々と当てる。「しずく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466で触れたように、「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、

とある(漢字源)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、

とある(仝上)。「したたる」「しずくが続いて垂れる」意である。同じく、「しずく」の意をもつ、「零」(漢音レイ、呉音リョウ)、「涓」(ケン)を当てないのは、原意をくみ取っていたと見ることが出来る。

「したたる」は、

下垂るの意、

とされる(広辞苑・大言海他)。

近世中期ごろまでシタダルと濁音、シタはシタム(湑・釃)のシタと同根、

とある(岩波古語辞典)。「したむ」は、

しずくをしたたらす、特に酒などを漉したり、一滴も残さず絞り出したりするのにいう、

とある(仝上)。

したみ酒、

という言葉があり、

枡やじょうごからしたたって溜まった酒、

の意で、

転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒、

の意となる(精選版日本国語大辞典)、とあり、

したみ、

とも言う(仝上)。この「したむ」は、酒の例から見ても、確かに、

下(した)の活用、

とある(大言海)のが納得いくが、

シタ(下垂)ムの義(日本語源=賀茂百樹)、
液をシタ(下)に垂らす義(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「したたる」と絡ませる説がある。

「したたる」は、本来、

水などがしずくとなって垂れ落ちる、

意である。「したむ」は、それを、

酒に特化した用例、

とみられるのかもしれない。ただ、「しずく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466で触れたように、「下枝」を、

シヅエ、

と呼ぶように、「下」を、

シヅ、

と呼ぶ可能性があり、とするなら、「しず(づ)く」の「しづ」は、垂れる意の、

しづ(垂)、

と関わるけれども、

しづ(垂)+垂る、

では重複するし、「しづ」を、

下の活用、

とするなら、「したたる」は、

しづ(下)+垂る、

となり、

「下がる」+「垂れる」

と、下垂る語源説だと、どこか重複感があるような気がしてならない。確かに、

下+垂る、

と考えるのが、無難なのだろうが。

ところで、「したたる」の意味に、

緑したたる候、

というように、

美しさやみずみずしさがあふれるほどである、

の意味に使われるが、さらに、それをメタファに、

水もしたたるいい男、

といった使い方をするのは、岩波古語辞典、大言海には載らず、結構最近になって使われる用例のようである。

水滴が落ちた後.jpg

(しずくが落ちる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%B4より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月16日

有平糖


「有平糖」は、

アルヘイトウ、

とも、

アリヘイトウ、

と訓ます。

阿留平糖、
金花糖、
氷糸糖、
窩糸糖、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96。略して、

アルヘイ、
アリヘイ、

とも言う(広辞苑)。

ありへいとう.jpg


「アルヘイ」は、

ポルトガル語alfeloa(砂糖菓子の意)、

で、

砂糖に水飴(みずあめ)を加えて煮詰め、冷やして引き伸ばしたり彩色したりした菓子、

で、棒状のもののほか、花・果物の形に細工して飾り菓子にする(デジタル大辞泉)。「アルヘイ糖」が、「重語」(大言海)、というのはその通りである。「有平糖」と一緒に入った「金平糖」は、

ポルトガル語のコンフェイトconfeitoの転訛(てんか)といわれる。ケシ粒を心にして砂糖液をかけてかわかし(古くはゴマを使用),加熱しさらに糖液をかけて作る。心に吸収された糖分が加熱によって吹き出すので周囲にとがった角ができ,その形が不思議がられて珍重された、

ものである(百科事典マイペディア)。「金平糖」「有平糖」ともに、安土桃山時代にポルトガルより伝わった南蛮菓子である。天文十八年(1549)、鹿児島に上陸した、フランシスコ・ザヴィエルが、持ち込んだ中に、

カスティラ、
ボウル、
カルメイル、
アルヘイトウ

等々があった、とされる(たべもの語源辞典)。その後、寛永十五年(1638)の『日野資勝卿記』に、「あるへいとう」の記述があるので、鹿児島上陸の七、八十年後には京都で食べられていた、ということになる(仝上)。元禄十三年(1700)に、日光輪王寺門跡弁法親王が柳沢吉保に招待の御礼に「あるへいとう」を贈っている(仝上)、とあるが、まだこの時期は、「あるへいとう」は珍しいものであった。

「干菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474341312.htmlで触れたように、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)に、

白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、

とあり(たべもの語源辞典)、「干菓子」とみなしていたらしい。

「白雪糕」とは、「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.htmlで触れたが、

精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とあり(日本大百科全書)、

落雁の一種、

とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしており、

金平糖、
有平糖、

を干菓子とみていたらしい。砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751~64)以後からのことで、

「有平糖」は、

初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期(1804~1830年)には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた。棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられる。江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96。また、

有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られる。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものである、

とあり、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして、

榮太樓本店の「梅ぼ志飴」、
村岡総本舗の「あるへいと」、

などがある(仝上)、ともある。江戸末期の守貞謾稿には、

アルヘイは、専ら、種々の形を手造りにするもの多し、然るに、近年、京阪にて、鎔形にするものあり、白砂糖を練り、鎔形を以て焼き而後に、筆刷毛等にて彩を施し、濃鮒、独活、蓮根等を製す、眞物の如し、號けて金花糖と云ふ、嘉永に至り、江戸にも傳へ製す、

とある(大言海)。

ようやく、元禄から三十年くらいたって、一般の人々の口に入るようになる。吉宗の時代、

まづいもの好きなをかしに公方さまあるへい捨てて松風にする、

という狂歌がある。「松風」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473581577.htmlは、表にケシなどを振った菓子。裏には何もつけないので、「浦さびし」の意から名づけた。

松風というたべものは、表にケシの実をふるとか、にぎやかに化粧してあるが、裏には何も細工をしない。裏が淋しいを浦さびしとして、浦とは、海岸・海辺であるから、浦さびしき風情を考えると、松があってそこに風が吹いて、音を立てる。浦のさびしさは、松風によるものと思えば、松風とよんだのは天晴れである、

とたべもの語源辞典は評していた。「あるへいとう」がうまいものとして既に親しまれていたことがわかる(仝上)。

享保三年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』に、その製法を、

上々氷砂糖一返(いっぺん)洗ひ捨て、砂糖一斤に水一、二升入れ、砂糖の溶け申す程煎じ、絹にてこし、其後煎じつめ、匙にて少しすくひ、水に冷し、うすく伸ばしぱりぱりと折れ申す時、平銅鍋に胡桃の油を塗り、その中へうつし、鍋こしに水に冷し、手につき申さぬ程にさまし、その後成る程引伸ばし候へば白くなり申候を小さく切り、いろいろに作るなり、

と記されている(日本大百科全書)が、『和漢三才図会(1715)』には、

円形で胡桃のような筋のある菓子、

と説明され、単純な形状であった。いろいろに細工され、紅白黄緑に彩色されて妍(けん)を競うようになるのは、文化・文政年間(1804~1830)以降である(仝上)。

因みに、有平糖と飴の違いは、

材料中の砂糖と水飴の比率、

で、

砂糖の結晶化を抑制する効果や保湿効果があり、滑らかな口当たりが有ることから、現在市販されている飴の多くは、水飴を主原料としたものが多いのに対して、有平糖は砂糖の結晶化を防止し飴細工に必要となる、粘土を確保するだけの量しか水飴を使用しません。有平糖の主原料はあくまでも砂糖となっている部分が、一般的な飴と有平糖の違いだと言われています、

ということだとかhttps://i-k-i.jp/16122

有平糖(梅の花).jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:有平糖
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2020年06月17日

あばよ


「あばよ」は、

普通男性の使う、別れのあいさつ、
さようなら、

の意味である。江戸語大辞典には、

「せんどん、いってきなよ、あばや」(寛政初年(1789)・玉の幉)、

の用例が載る、

あばや、

という言い方もした。

「あばよ」の語源には、

さらばよ、
さあらば、
幼児語の「あばあば」、
また逢はばや、
感動を示す語「あは」、
按配よう、

等々があるとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B0%E3%82%88)。

さあらばよ、

とする説(広辞苑)も含め、

さらばよ、
さあらば、

は、同一語源説とみていい。大言海は、

さあらばよ、さらばよの略、

とし、

小児の、相別れむとする時、相告る詞、

の、

下略して、重ねてアバアバとも云ふ、

とするので、

幼児語「あばあば」も、同一語源の範囲に入る。ただ、同じ「あばあば」でも、

赤児が始めて発する正音ア、バの二音を互いに言い合って別れを告げる言葉とした(両京俚言考)、
「あばあば」の「あば」に終助詞「よ」が付いたもの(精選版日本国語大辞典)、

は、幼児語としているので別説だが、大人の使う言葉を、幼児が真似るというのならともかく、幼児語を大人が、サヨナラの代わりに使うものかどうか。ちょっと疑問に思う。

人を見送る時の言葉ア(彼)ハのにごったアバにヨが付いたもの(毎日の言葉=柳田国男)、

は、いかにも無理筋な気がするし、

「案配良う」の「案配」は、「体調」の意味で近世から使われており、「あばよ」も近世から使われた言葉であるため、この説が妥当、

とする説(語源由来辞典、方言から見た東海道=山口幸洋)、あるいは、

マタアハ(又逢)バヤの転(俗語考)、

等々は、どちらかというと、単独ではなく、

ごきげんよう、

という言い方が、「さようなら」「あばよ」とセットで言うのと同じで、

また逢おうよ、さようなら、
案配よう、さようなら、

というように、単独で使わない気がする。特に、「案配よう」は、その労わる含意と、「あばよ」のぞんざいな物言いの含意との間の落差がありすぎる気がする。いくらなんでも、「案配よう」は「ごきげんよう」のニュアンスに近く、それが「あばよ」へと、いくら親しき仲にしろ、ぞんざいに落ちるのは、少し疑問である。

「こんにちは」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447391058.htmlで触れたが、「さようなら」は、

元来,接続詞で,それならばの意(広辞苑)

然(さ)らばと同意なり。談終はりて,然様ならば,暇申すなどの意。サヨナラは,約めて云ふなり。サイナラは,サヨナラの音転(大言海)

「左様ならば(さやうならば)」の『ば』が略され、挨拶になった語。現在で別れ際に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「さやうならば(さようならば)」は、「そういうことならば」を意味する(語源由来辞典)、

「そういうことならば」という意味の句「さようならば」の「ば」が省略されたもの。本来の語構成は「さ」+「様(よう)」+「なら」+「ば」。「さようならば、これにてごめん」のように用いられたことから、「さようならば」だけで別れの言葉となり、さらに「さようなら」となった。近世後期に一般化した(由来・語源辞典)、

「さようは中古よりみられるが,(接続詞「されならば」「しからば」)の用法は主に「さらば」(和文)と「しからば」(漢文訓読文)によって表されていた。中世末期においては「さらば」「それなら(ば)」が多く用いられ,「さようならば」の使用頻度が高くなるのは近世中期以降である。(「さようなら」という)別れの挨拶の用法については,まず「ごきげんよう」「のちほど」などの他の別れの表現と結びついた形で用いられ,次いで近世後期に独立した別れのことばとして一般化した(日本語源大辞典)、

等々、「そういうわけで」という含意があり,「さようなら」には,より強く,文脈依存性が滲み出ている。「そういう次第」を了解し合っている間柄,という関係性を強く言い表しているように見える。だから,田中英光は,他國の言葉が、たとえば、

再見
Au revoir
Auf wiedersehen

の,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)
Goodbye(God be with you の古形の略)
Tschuss(adiosが語源)

の、神とともに,というものとに二分され,

アンニョンヒ カセヨ

も,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない(「ごきげんよう」はこの分類かも)等々比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。

二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いような気がする。

「左様ならば,お別れします」「そういうことならばお別れします」でいう「さようならば」「そういうことなら」というのは,文脈依存の日本語らしく,その場の二人,あるいはその場に居合わせた人にしか,「左様」の中身はわからない,そういう次第を共有している者同士が,「そういうこと」で,と別れていくニュアンスではないか,と感じる。

「左様ならなくてはならない運命だからお別れします」と言うと深刻だが,

「そういう次第なのでお別れします」
「そういうわけなら,お別れします」
「そういうわけで,お別れしましょう」
「そういうことでお別れしましょう」
「そういうことなら,(ここで)お別れしましょう」

というふうに,並べてみると,いまの言い方も,その簡略版で,

「…てなことで,お別れします」
「ていうか,じゃあここで」
「それなら,ここで」
「(それ)じゃあ,ここで」
「(そういうこと)では,ここで」
「そんじゃあ,また」

等々と言うが,結局その場にいるものにしか伝わらない,共有した時間と空間の中での,「そういうことで」と言うニュアンスが,言外に含まれている。江戸語大辞典には,

さよう(然様)ならば,
さらば,

が別れの言葉として載る。「さようなら」への過渡として使われていたとみられる。

さらば、

は、

告別の談,終はりて,然(さ)らばわかれむと云ふを,略して云ふなり。小児の語に,アバヨと云ふも,さあらばよの約転なり、

とあり(大言海),接続詞「さらば(然・則)」の項には,名義抄の、

然者,さらば、然(さ)あらばの約。サバと云うふは,サラバの約略なり(竝(なら)べて,なべて)、

を載せる。となると、

さよう(然様)ならば→さあらば→さらば、
さよう(然様)ならば→さようなら、

の二つに転訛がわかれたと見ることが出来る。そして、「あばよ」は、

さよう(然様)ならば→さあらば(よ)→さらば(よ)→あばよ、

敢えて記せば、

Saraba(yo)→aba(yo)

と、やはり、

さよう(然様)ならば、

というお互いに文脈を共有した者同士が、

そういうことだから、
そういうことなら、

と別れた、見ていいのではないか。

「さようなら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.htmlhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/388163123.htmlについては、触れた。

参考文献;
田中英光『さようなら』(現代社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月18日

今川焼


「今川焼」は、

銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡をいれて焼いた菓子、今は輪の代わりに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる、

もののことで、大言海には、

銅の版に、胡麻の油を延(こ)き、銅の輪を載せ、うどん粉を水に溶かしたるを注ぎ入れ、餡を包み、打ち返して炙(や)きたるもの、

と載る。この方が当時の作りの方がよくわかる。

今川焼.jpg


江戸時代中期の安永年間(1772~1780)、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D。あるいは、

神田の今川橋埋立地にあった露店が売り出した焼き菓子が由来ではないか、

とされているhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8Dのが正確かもしれない。他に、

駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説、

もあるらしいが、江戸時代の文献にはそのような記述は見受けられないらしい。今川橋は、

天和年間(1681年-1684年)に神田の名主であった今川善右衛門が竜閑川(神田堀)に掛けた橋で、今川橋埋立地は1869年(明治2年)に神田今川町、翌年に川を境にして神田西今川町・神田東今川町に分けられた。竜閑川は1950年(昭和25年)には全て埋立られてしまい、また西今川町は1935年(昭和10年)、東今川町は1965年(昭和40年)に消え、現在は鍛冶町一丁目、内神田三丁目(旧・鎌倉町)、岩本町一丁目のそれぞれ一部となってしまっているが、今川橋の名は交差点名として現在も残っている、

とある(仝上)。江戸語大辞典には、

はま千鳥禿(かむろ)があどなき噺合手も……今川焼の児僕(こぞう)とはなんなりぬ(天明四年・浮世の四時)

と載る。

後に、(大型の)小判状をした型を使用したものが全国各地に大判焼き(おおばんやき)として広がった。その名称は、「今川焼」という名称は全国各地に広がっているが、

二重焼き(広島県)、
大判焼き(東北や東海地方、ま四国地方など)、
小判焼き(西日本)、
巴焼き、
義士焼き、
太鼓饅(太鼓饅頭、太鼓焼き 西日本各地、)、
太閤焼き、
回転焼き(回転饅頭 大阪市、堺市、九州・山口地方など)、
文化焼き、
大正焼き、
復興焼き、
自由焼き、
夫婦まんじゅう(フーマン)、
御座候(兵庫県、大阪府など全国各地)、
おやき(北海道、青森県、茨城県西部など)、

等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D、語源由来辞典)、形状や地域、店により他にもさまざまな呼び名がつけられて普及した(仝上)。その他にも、

浅草焼(青森県)、あじまん(山形県ほか)、甘太郎焼(埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、群馬県)、画廊まんじゅう(静岡市清水区)、御紋焼(奈良県天理市)、しばらく(滋賀県長浜市)、じまんやき(富士アイス系列)、人工衛星饅頭(兵庫県神戸市)、ずぼら焼き(兵庫県神戸市)、太郎焼(埼玉県川口市・越谷市、福島県会津若松市ほか)、天輪焼(三重県松阪市)、七越焼き(三重県松阪市)、花見焼き(埼玉県蕨市)、日切焼(愛媛県松山市)、びっくり饅頭(広島県呉市)、ヒット焼き(愛媛県新居浜市)、武家まん(愛媛県新居浜市)、横綱まんじゅう(岡山県津山市)、蜂楽饅頭(熊本県熊本市、鹿児島県、福岡県)、あづま焼(静岡県浜松市・磐田市)、きんつば(千葉県・福島県・新潟県)、

等々という名のものもある(仝上)。日本の植民地支配の影響で、台湾では、

車輪餅(チャールンビン)、

韓国では、

オバントク/オバントック、

という名で食べられているらしい(仝上)。

地域・店舗によっては、

カスタード、抹茶あん、チョコレート、

などの中身があり、単純に言えば、「今川焼」は、

鯛焼きが鯛の形ではなく、丸く分厚くなったようなお菓子、

であるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D。現に、「鯛焼き」は、

現在も麻布十番商店街にお店を構える浪花家総本店さんが「今川焼きが売れないから縁起のいい鯛の型にしてみよう」と閃き販売を開始、その後飛ぶように売れたことから広まっていった、

とあるhttps://uzurea.net/about-name-of-imagawayaki/

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2020年06月19日

今出川豆腐


「今出川豆腐」は、

豆腐を醤油と酒で薄味に煮、しょうが・わさびを添えた料理、

とある(広辞苑)。別に、

豆腐を昆布のだし汁・酒・しょうゆで薄味に煮て、おろししょうが・わさび・かつお節・いったくるみなどを添えた料理(世界の料理がわかる辞典)、

四角に切った豆腐を酒・醬油の薄味で煮て、おろし生姜しようがや花がつおなどをそえた料理(デジタル大辞泉)

豆腐をコンブとともに酒、しょうゆで味をつけて煮、おろしショウガ、ワサビ、花かつお、ときにはクルミをあしらって食べる。京都今出川産の豆腐を使用したことに由来する(精選版日本国語大辞典)、

等々ともある。本筋は変わっていないようだが、微妙に細部が違う。その細部が鍵のように思われる。

今出川豆腐.jpg

(今出川豆腐 http://www.oboshi.co.jp/okan/recipe_04.htmlより)

天明二年(1782)出版の豆腐百珍(とうふひゃくちん)は、100種の豆腐料理の調理方法を解説している。そこでは、

豆腐料理を六段階に分類・評価、

しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D、とされる。つまり、

尋常品:どこの家庭でも常に料理するもの。木の芽田楽、飛竜頭など26品、
通品:調理法が容易かつ一般に知られているもの。料理法は書くまでもないとして、品名だけが列挙されている。やっこ豆腐、焼き豆腐など10品、
佳品:風味が尋常品にやや優れ、見た目の形のきれいな料理の類。なじみ豆腐、今出川豆腐など20品、
奇品:ひときわ変わったもので、人の意表をついた料理。蜆もどき、玲瓏豆腐など19品、
妙品:少し奇品に優るもの。形、味ともに備わったもの。光悦豆腐、阿漕豆腐など18品、
絶品:さらに妙品に優るもの。ただ珍しさ、盛りつけのきれいさにとらわれることなく、ひたすら豆腐の持ち味を知り得るもの。湯やっこ、鞍馬豆腐など7品、

で、その詳細は別に譲るhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.htmlが、「今出川とうふ」は、佳品の一品として、

昆布をしき鰹脯(かつほ)のだし汁と酒しほとにて烹ぬく也 中ほどより醤油さし烹調(ハウテウ)しかくし葛をひき碗へよそひてみ胡桃(くるみ)の碎きをふる也、

と載る(仝上)。「酒しほ」とあるのは、

調味用に使う酒のこと。酒だけを使う場合と、少量の塩を入れる場合があります、

とありhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112

「かくし葛をひく」は、

材料に葛粉をはたいて茹でることで葛のコーティングを作ること。つるんとした食感になる。水で溶いた葛粉を汁にいれ加熱することでとろみをつけることの意味があるのですが、ここでは後者の意味にとって、なおかつ「隠し」なのでごく薄く、とろみと感じない程度、

とある(仝上)。要は、

昆布を鍋に敷き、
酒とかつおだしで豆腐を煮、
途中で醤油をさし味加減をし、
葛を少し入れ、
椀によそい、
砕いたクルミの実をふりかけ、

というプロセスになるhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html。たべもの語源辞典には、

豆腐を一切盛に切って、両方から面をとって、串二本を用い、焦げないように焼く。この焼いた豆腐は湯水で洗ってはいけない。洗えば水を含んで良くない。……つぎに松前昆布を洗って、ひきさき、鍋の底に敷いて、この焼いた豆腐を幾重にも平たく並べ、酒をたくさん入れ、上に松前昆布を蓋のようにおおい、内蓋をして、また本蓋をする。炭火にかけて、静かによく煮る。酒の気も抜け、膳部を出そうというときに、醤油をさして味加減をする。盛って出すときも、蓋をした昆布は取らずに、昆布の下から盛って出す。……酒は十分たくさん入れた方がよい。かつおぶしのだしは少し入れ、酒に混ぜてもよい。だしを多く入れてはいけない。上置きはわさびばかりである、

と、

豆腐大きさ二寸(六センチ)四方、厚さ三、四分(0.9~1.2センチ)に切って、面を取って、焼き、かつおぶし一節、酒一升、醤油を杓子に三杯入れ、昆布を鍋底に敷いて、炭火で(二時間くらい)煮て、味加減する、

と、当時の二種の料理法を紹介している。

「今出川豆腐」の命名のいわれには、

今出川というのは京都の地名でしょうか。今出川の料亭か屋台の名物料理といったところかと思います、

とかhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112

昔、菊亭前大納言が関東に御下向なされたとき御馳走が何日も続いた。そのうちにこの豆腐料理をこしらえて勧めた。大変喜ばれ、たびたび所望された。そしてこれは何という料理かとお尋ねになると、ただ、豆腐の煮ものですと答えたところ、名がないのは残念だ、今出川とでもいったらよかろうと笑われたので、そう名付けた、

とか(延享二年(1745)「伝演味玄集」跋文)があるらしいが、菊亭膳大納言の関東下向は、享保(1716~36)か、それ以前であること、この料理は関東で作られたものであり京都の今出川とは無縁であることから、今出川家とは関係なく、今出川豆腐を使用したからでもない、とたべもの語源辞典は一蹴する。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:今出川豆腐
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2020年06月20日

桜餅


「桜餅」は、

小麦粉・白玉粉を練って薄く焼いた皮(紅白二種ある)に、餡を入れて、塩漬けの桜の葉で包んだ菓子。もとは、小麦粉の皮に餡を入れ、塩漬けの桜の葉で包んで、蒸籠で蒸したもの。桜時に江戸長命寺で売り出したのに始まる、

とあり(広辞苑)、

紅皮には白餡を包み、白皮には並餡を包む、

とある(たべもの語源辞典)。

関西風は、蒸した道明寺粉を用いて作る、

とある(広辞苑)。道明寺粉(どうみょうじこ)は、水に浸し蒸したもち米を干して粗めにひいたものである。

桜餅(長命寺餅)白皮.jpg

長命寺桜餅.jpg

(関東風桜餅(長命寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

「桜餅」と呼ばれる餅菓子には、

関東風、

関西風、

がある、らしい。関東風は、関東以外では、

長命寺餅、

とも呼ばれることもあるが、関東で長命寺餅と呼ぶことは少なく、

長命寺の桜餅、

と称した場合、向島の、

長命寺桜もちhttps://sakura-mochi.com/info/kodawari.php

を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。関西風は、

道明寺餅、
または略して、
道明寺(どうみょうじ)、

ともいう。関東及び一部の地域以外では、関東風の桜餅を見ることはほとんどなく、単に「桜餅」といえばこの道明寺餅のことを指す。

古文書に表れる「桜餅」は、南方熊楠によれば、

天和三年(1683年)である。大田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えた。これは蒸菓子であり、後の世の桜餅とは別物のようである。昔の作り方では、餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方がある、

とあり、さらに、

男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。これより後だと思われるが、元禄四年(1691)に、下総から長命寺の門番になった山本新六という者が、享保年間(1716~36)八代将軍吉宗が墨田川の堤に桜を植えて遊覧地になると、この桜の葉を利用して桜餅をこしらえて売り始めた(たべもの語源辞典)。

長命寺門内、山本屋新六、初めて売り出せり、

と、大言海にある。江戸名物詩には、長命寺桜餅として、

幟は高し長命寺邊の家、下戸爭買(ヒフ)三月頃、此節業平吾妻橋遊(せば)、不吟都鳥吟桜餅、

と載る(大言海)。文政十三年(1830)の嬉遊笑覧には、

近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり

と、柏餅のように粳米で製していたものを、葛粉に替えたらしい。大言海には、その製法が、

葛粉に砂糖を加へ、水にて溶き、銅鍋に胡麻油を敷きたる上にて、薄く焼き成したるにて、赤小豆餡(あづきあん)を包み、その表裏を、又、鹽漬の櫻の葉に熱湯を注ぎたるもの二枚にて包み、蒸籠にて蒸して、成る、葉に、香気あり、

とある。文政八年(1825)の、曲亭馬琴他編『兎園小説』の中で、屋代弘賢が、

去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり

と書いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。桜餅一つの売値四文は、推定で米の価格から換算した場合は約63円らしい(仝上)。

ちなみに、墨田川東岸、向島長命寺は、天台宗で遍照院といい、常泉寺と称したが、寛永(1624~44)の末、三代将軍家光が鷹狩りにきて、急に腹痛を起こし、この寺に休息し、寺の井戸水を一杯汲んで家光が飲んだところ、腹痛が治ったというので、この井戸に、「長明水」と名づけたところから、長命寺と称するようになった、という(たべもの語源辞典)。

長命寺桜もち(桜の葉が3枚).jpg

長明寺・桜もち.jpg

(長命寺桜もち https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

浪華百事談(明治二十八年頃成立)によると、桜餅は、

天保の頃までは、浪花に於いて製せる家なく、北堀江高台橋の東の方浜の家に、土佐屋何某と云へる菓子司ありて、その家に製したるが始めなり、衆人めづらしとて求むること多し、もっともその製佳品にて、冬季はかたくりの粉の水にてときし物をうすくやき、中に白小豆の餡を入れて包み、その上を桜の葉にて挟み、夏秋には吉野葛にて、

とある(たべもの語源辞典)、とか。ただ、

もち米でできた昔からの桜餅が、古くから伝わる和菓子の流れに合って各地に広まっている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85、同じように道明寺粉で作った餅を椿葉で挟む椿餅があるので、桜の葉で包むこと自体が新しいのであって、道明寺粉で作ること自体は特別の創意ではないらしい。

これが道明寺桜餅なのかどうかははっきりしないが、関西の道明寺「桜餅」が、後発ながら、「桜餅」の代名詞になった。

因みに、「道明寺」は、尼寺である。「ほしい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474940298.htmlで触れたが、道明寺も、

糒(ほしい 干飯)の一種、

で、保存食として使われhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%B2%89

糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、

道明寺の尼僧、

で、

道明寺糒、

として有名になって、

道明寺、

といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。

道明寺桜餅.jpg

(関西風桜餅(道明寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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