2020年06月17日

あばよ


「あばよ」は、

普通男性の使う、別れのあいさつ、
さようなら、

の意味である。江戸語大辞典には、

「せんどん、いってきなよ、あばや」(寛政初年(1789)・玉の幉)、

の用例が載る、

あばや、

という言い方もした。

「あばよ」の語源には、

さらばよ、
さあらば、
幼児語の「あばあば」、
また逢はばや、
感動を示す語「あは」、
按配よう、

等々があるとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B0%E3%82%88)。

さあらばよ、

とする説(広辞苑)も含め、

さらばよ、
さあらば、

は、同一語源説とみていい。大言海は、

さあらばよ、さらばよの略、

とし、

小児の、相別れむとする時、相告る詞、

の、

下略して、重ねてアバアバとも云ふ、

とするので、

幼児語「あばあば」も、同一語源の範囲に入る。ただ、同じ「あばあば」でも、

赤児が始めて発する正音ア、バの二音を互いに言い合って別れを告げる言葉とした(両京俚言考)、
「あばあば」の「あば」に終助詞「よ」が付いたもの(精選版日本国語大辞典)、

は、幼児語としているので別説だが、大人の使う言葉を、幼児が真似るというのならともかく、幼児語を大人が、サヨナラの代わりに使うものかどうか。ちょっと疑問に思う。

人を見送る時の言葉ア(彼)ハのにごったアバにヨが付いたもの(毎日の言葉=柳田国男)、

は、いかにも無理筋な気がするし、

「案配良う」の「案配」は、「体調」の意味で近世から使われており、「あばよ」も近世から使われた言葉であるため、この説が妥当、

とする説(語源由来辞典、方言から見た東海道=山口幸洋)、あるいは、

マタアハ(又逢)バヤの転(俗語考)、

等々は、どちらかというと、単独ではなく、

ごきげんよう、

という言い方が、「さようなら」「あばよ」とセットで言うのと同じで、

また逢おうよ、さようなら、
案配よう、さようなら、

というように、単独で使わない気がする。特に、「案配よう」は、その労わる含意と、「あばよ」のぞんざいな物言いの含意との間の落差がありすぎる気がする。いくらなんでも、「案配よう」は「ごきげんよう」のニュアンスに近く、それが「あばよ」へと、いくら親しき仲にしろ、ぞんざいに落ちるのは、少し疑問である。

「こんにちは」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447391058.htmlで触れたが、「さようなら」は、

元来,接続詞で,それならばの意(広辞苑)

然(さ)らばと同意なり。談終はりて,然様ならば,暇申すなどの意。サヨナラは,約めて云ふなり。サイナラは,サヨナラの音転(大言海)

「左様ならば(さやうならば)」の『ば』が略され、挨拶になった語。現在で別れ際に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「さやうならば(さようならば)」は、「そういうことならば」を意味する(語源由来辞典)、

「そういうことならば」という意味の句「さようならば」の「ば」が省略されたもの。本来の語構成は「さ」+「様(よう)」+「なら」+「ば」。「さようならば、これにてごめん」のように用いられたことから、「さようならば」だけで別れの言葉となり、さらに「さようなら」となった。近世後期に一般化した(由来・語源辞典)、

「さようは中古よりみられるが,(接続詞「されならば」「しからば」)の用法は主に「さらば」(和文)と「しからば」(漢文訓読文)によって表されていた。中世末期においては「さらば」「それなら(ば)」が多く用いられ,「さようならば」の使用頻度が高くなるのは近世中期以降である。(「さようなら」という)別れの挨拶の用法については,まず「ごきげんよう」「のちほど」などの他の別れの表現と結びついた形で用いられ,次いで近世後期に独立した別れのことばとして一般化した(日本語源大辞典)、

等々、「そういうわけで」という含意があり,「さようなら」には,より強く,文脈依存性が滲み出ている。「そういう次第」を了解し合っている間柄,という関係性を強く言い表しているように見える。だから,田中英光は,他國の言葉が、たとえば、

再見
Au revoir
Auf wiedersehen

の,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)
Goodbye(God be with you の古形の略)
Tschuss(adiosが語源)

の、神とともに,というものとに二分され,

アンニョンヒ カセヨ

も,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない(「ごきげんよう」はこの分類かも)等々比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。

二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いような気がする。

「左様ならば,お別れします」「そういうことならばお別れします」でいう「さようならば」「そういうことなら」というのは,文脈依存の日本語らしく,その場の二人,あるいはその場に居合わせた人にしか,「左様」の中身はわからない,そういう次第を共有している者同士が,「そういうこと」で,と別れていくニュアンスではないか,と感じる。

「左様ならなくてはならない運命だからお別れします」と言うと深刻だが,

「そういう次第なのでお別れします」
「そういうわけなら,お別れします」
「そういうわけで,お別れしましょう」
「そういうことでお別れしましょう」
「そういうことなら,(ここで)お別れしましょう」

というふうに,並べてみると,いまの言い方も,その簡略版で,

「…てなことで,お別れします」
「ていうか,じゃあここで」
「それなら,ここで」
「(それ)じゃあ,ここで」
「(そういうこと)では,ここで」
「そんじゃあ,また」

等々と言うが,結局その場にいるものにしか伝わらない,共有した時間と空間の中での,「そういうことで」と言うニュアンスが,言外に含まれている。江戸語大辞典には,

さよう(然様)ならば,
さらば,

が別れの言葉として載る。「さようなら」への過渡として使われていたとみられる。

さらば、

は、

告別の談,終はりて,然(さ)らばわかれむと云ふを,略して云ふなり。小児の語に,アバヨと云ふも,さあらばよの約転なり、

とあり(大言海),接続詞「さらば(然・則)」の項には,名義抄の、

然者,さらば、然(さ)あらばの約。サバと云うふは,サラバの約略なり(竝(なら)べて,なべて)、

を載せる。となると、

さよう(然様)ならば→さあらば→さらば、
さよう(然様)ならば→さようなら、

の二つに転訛がわかれたと見ることが出来る。そして、「あばよ」は、

さよう(然様)ならば→さあらば(よ)→さらば(よ)→あばよ、

敢えて記せば、

Saraba(yo)→aba(yo)

と、やはり、

さよう(然様)ならば、

というお互いに文脈を共有した者同士が、

そういうことだから、
そういうことなら、

と別れた、見ていいのではないか。

「さようなら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.htmlhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/388163123.htmlについては、触れた。

参考文献;
田中英光『さようなら』(現代社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:26| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする