2020年07月01日

かきもち


「かきもち」には、

欠餅、

掻餅、

の二種ある(たべもの語源辞典)、とある。欠餅は、

正月の鏡餅を砕き欠いてつくる干菓子のこと。公家では「かきがちん」、女房詞(ことば)では「おかき」と称した。『本朝食鑑』は「鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)に擬した餅か」と述べ、「武家は甲冑にこの餅を供えたところから具足餅と称した。これは八幡神に供えたものである」と説明している。欠餅は正月20日の鏡開きにつくられた。刃柄(はつか)を祝うの意だが、1651年(慶安4)4月20日に徳川3代将軍家光が死亡して以来、20日を遠慮して正月11日に改められた。鏡開きには「切られる」を忌み、刃物を使わずに手で欠き割ったのでこの名がある。包丁で切ったものは片餅(へぎもち)というが、いまはどちらもかき餅という。また餅をなまこ形につくり、小口から薄く輪切りにして干したものもかき餅とよぶ。鏡餅を砕いたかき餅は、汁粉に入れるか、干して油で揚げるが、なまこ形につくるかき餅には、黒ごまや大豆、青のりなどを搗(つ)き込んで風味をつけることもある、

であり(日本大百科全書)、掻餅は、

牡丹餅、

そばがき、

の二種がある(たべもの語源辞典)。つまり、掻餅は、

「掻(か)い練り餅飯(もちい)」の意で、かい餅、かき餅という。掻餅にも、ぼた餅、おはぎをさす場合と、そば掻き(そば餅)をさす場合がある。『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に「僧たちよひのつれづれに、いざ掻餅せむといひけるを」とあるのや、『徒然草(つれづれぐさ)』の「一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ」などは、そば掻きのほうとみられる、

とある(日本大百科全書)。

欠餅は、「かがみびらき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473083486.htmlで触れたように、

「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dが、鏡餅は割って祝う。

「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」

とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった。この武家社会の風習が一般化したものである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた」

この武家社会の風習が一般化したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

庖丁で切ることを嫌い鏡餅を引き欠いた、

ので、

欠き餅、

といったのであるが、いまは

片餅(へぎもち)、

のことも、

かきもち、

といっている(たべもの語源辞典)。「へぎもち」というのは、

鏡餅を刃物でヘギ切りにしたものである。近世になって、ナマコ形に餅をつくって、それを小口から薄く切って干したもの、

で(仝上)、因みに、「へぎ」は、和食の調理用語で、

「剥ぎ」と表記し、薄く表面を剥ぎ取るようにする、

といった意味になりhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9991_K/01.html、皮剥のごとく表面だけを薄くすき切る包丁のことを「へぎ切り」と言う、とある。

かき餅.jpg

(へぎ餅 日本大百科全書より)


「かきもち」の語源を、

カハキモチ(乾餅)の約、

とする(菊池俗語考)のは、「へぎもち」の由来を指しているのではあるまいか。

鏡餅は、

「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」

からである(語源由来辞典)。

「掻餅」は、

かきもち、
とも、
かちもち、

とも呼ぶが、幕末の『守貞謾稿』には、

かい餅(もちひ)は牡丹餅、

とある。

掻練の餅、

だから、とする(たべもの語源辞典)。

ぼたもち.jpg


「ぼたもち」とは、

よく搗かぬ餅、

つまり、

掻き練った餅、

だから、という意味である(たべもの語源辞典)。「ぼたもち(牡丹餅)」とは、

もち米とうるち米を混ぜたもの(または単にもち米)を、蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに、餡をまぶした食べ物である。米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1、昔は「ぼたもち」のことを、

かいもちひ(かいもち、掻餅)、

と呼んでいた(仝上)故であるが、安永八年(1778)の『屠竜工随筆』に、

萩のことを「ぼた」というから、「ぼたもち」とは「はぎもち」ということだ、

とある。萩餅は、おはぎで、ぼたもちである(たべもの語源辞典)。

しかし、『徒然草』に、最明寺入道が足利左馬入道のところで御馳走になる献立に、

一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ、

とある「三献にかいもちひ」というのは、

そばがき、

とする説が強い(たべもの語源辞典)、という(「三献」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474358804.htmlについては触れた)。

民間伝承に、南駒ケ岳山麓の村では、蕎麦粉で製した「かき餅」「かい餅」「けえ餅」などとよぶ蕎麦餅をつくり、とくに一月一三日の夜は、このけえ餅を食べる習慣があり、「かんがえ餅」とよんでいる。寒に入って食べるかい餅という意味だろう、

とある(仝上)。

「蕎麦がき(そばがき、蕎麦掻き)」は、

蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物、

で、

蕎麦切り(蕎麦)のように細長い麺とはせず、塊状で食する、

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D。17世紀の農村事情に詳しい武士の書いた『百姓伝記』には、

「そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず」

とあるように、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域では蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。

蕎麦がき例.jpg


「蕎麦がき」は、

鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られる。江戸時代半ばまではこの蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D、これを、「かきもち」というのは、

そばを掻いてそばがきにした餅、

だから、である(たべもの語源辞典)。

つまり、同じく「かきもち」とは言うものの、

餅を欠いて食べたから、「かきもち」(欠餅)、

であり、

蕎麦を掻いて「そばがき」にした餅だから、そばがきもち(蕎麦掻餅)、略して、かきもち、

であり、

よく搗かぬ餅である「ぼたもち」、つまりかき錬った餅だから、かきもち、

なのである(仝上)。

ただ、「かきもち」と呼ぶものに、もうひとつ、

覚えた通り祝ふかきもち、

という句がある(昼網)ように、

氷餅(こおりもち)の異称、

のあるものがある(岩波古語辞典)。これは、

餅を水に浸して凍らせたものを寒風に晒して乾燥させた保存食、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%A4%85、別名、

干し餅(ほしもち)、
凍み餅(しみもち)、
凍み氷(しみごおり)、

とある(仝上)。今日、

かきもち(欠餅)、

と呼ぶものに、もうひとつ、「煎餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.htmlでも触れたが、

おかき(御欠)、

とよぶ、

餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%8D。これは、

鏡餅など神様に供えた餅を槌で細かくして作られるもので、そのような餅に刃を入れるのは縁起が悪いとして槌が用いられた、

とあり(仝上)、本来の「欠餅」から由来している。ちなみに、「あられ」との違いは、

原料の餅を細かくするために包丁を使ったものを「あられ」、槌を使ったものを「おかき」と呼んだ、

とある(仝上)。刃を使うのを忌んだからであり、これも、鏡餅を欠くことに由来する。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月02日

鹿の子餅


「鹿の子(かのこ)餅」は、

和菓子の一種、

略して、

鹿の子、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85。関西では、

小倉野(おぐらの)、

ともいう(デジタル大辞泉)。

鹿の子である.jpg


現在の「鹿の子餅」は、

餅・求肥・羊羹のうちいずれかを賽形に切ったものを中心にして、小豆餡で丸く包み、そのまわりに柔らかく煮た金時小豆を粒のまま鹿の子のように付ける、

とあり、隠元豆を用いるものは、

いんげん鹿の子、

といい、(仝上)、

京鹿の子、

ともよぶ(デジタル大辞泉)。栗を茹でて甘く煮つけたものは、

栗鹿の子、

という(たべもの語源辞典)。

栗鹿の子.jpg

(栗鹿の子 https://souda-kyoto.jp/blog/00778.htmlより)

「鹿の子餅」は、

宝暦(1751~64)のころ、歌舞伎俳優の道化方の名人として知られる嵐音八という役者が人形町東側中程に恵比寿屋という菓子屋を開店して売り始め、江戸名物になった、

とある(仝上)が、

嵐音八という役者の実家、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85

役者手製の餅菓子として評判を呼び全国に広まった、

という(仝上)。天保期(1831~45)の『寛天見聞記』に、

寛政の末まで、此所(人形町)に、……鹿子餅を売りける、後、此店を、囃子頭の太田市左衛門と云へる者譲受けたりと云ふ、

とある(大言海)。その後、芯に餅の代わりに求肥や羊羹を用いることも行われるようになった。鹿の子という名の由来は、

整った粒が隙間なく並ぶさまが鹿の背の斑点を思わせることからつけられた、

とある(仝上)。文政年間(1818~30)の川柳に、

鹿の子餅釈迦の天窓(あたま)の後向き、

とある(仝上)。明和七年(1770)『辰巳之園』には、

鹿の子餅は、又太郎が見世、

とある(江戸語大辞典)。

なお、富山県高岡に名物「鹿の子餅」があるが、

白色の羽二重餅で、大きさは五センチ角で高さ三センチくらい、下部にあたるモチの中にウズラ豆の蜜漬が散らしこまれて、鹿の子の背の斑紋を模している、

とある(たべもの語源辞典)。

富山餅鹿の子.jpg

(富山不破福寿堂「鹿の子餅」 http://www.kanokomochi.com/okashi.htmlより)

「鹿(か)の子」というのは、

鹿(しか)の子、

を指し、薄茶色の毛色に

鹿の子模様、

という白い斑点が出る。

シカの子は生後2年くらいの間,赤みがかったくり色の体に白い斑点が多くできる。これは保護色の作用をするものである、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)が、

この模様は、子鹿だけでなく、大人の鹿にも毎年出て、

人間の指紋のように1頭1頭違い、模様は一生変わらない、

というhttp://naradeer.com/blog/2015/06/28/%E3%80%8C%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%8D%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/。この鹿の背のように斑点が散在する様を指して、伝統的に、

鹿の子斑(かのこまだら)、

と呼び、この含意から、「鹿の子」には、鹿の子斑の略以外にも、伝統的な絞り染めの柄の一種である、

鹿の子絞り(かのこしぼり)の略、

にも使う。総じて、鹿の子餅のように、

霜降り状のもの、

をそう呼ぶ。ために、「鹿の子」のつく言葉は多い。和装、和手芸関連では、

「鹿の子地」「鹿の子帯」「鹿の子編み」「鹿の子刺し」「鹿の子繍(ぬい)」「鹿の子織り」

生物名にも、

「鹿の子百合」「鹿の子草」「鹿の子蛾」「鹿の子貝」「鹿の子魚」

その他、

「鹿の子打ち」「鹿の子摺り」鹿の子切り」等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90

「鹿の子」模様.jpg



「鹿の子絞」は、

布を白い粒状に隆起させて染め出したもの、

で、

鹿の子染、
鹿の子目結い、
鹿の子結、

ともいい、京都が主産地なので、

京鹿の子、

ともいう。

布地を指先または鉤針(かぎばり)を用いてつまみ,その先を糸でくくって絞る。これを染めると小さいやや不整形の絞染の中で最も古くから行われたもので,正倉院の纐纈(こうけち)の中にもこれに類するものが見られる。この絞りが,斜めに45度の線につめて絞られると,上りが角ばった形となっていわゆる一目絞の詰(つめ)となり,これがさらに方形の疋田絞(ひつたしぼり)へと進展する、

という(マイペディア・世界大百科事典)。これは、

表面に凹凸(細かい隆起)があって肌に触れる面積が少なくなり、風通しが良く、肌触りが軽いのが特徴、

であるhttps://www.modalina.jp/modapedia/w/e9b9bfe381aee5ad90/

鹿の子模様.jpg


因みに、「鹿の子」は、

カノケ(鹿毛)の略(言元梯・大言海)、

とされる。生涯班点が変わらないとするなら、妥当に思える。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:鹿の子餅
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2020年07月03日

がんもどき


「がんもどき」は、

雁擬き、

と当てるが、

雁賽、

とも記す(大言海)、とある。

がんも、

とも呼ぶ(広辞苑)。京阪地方では、

飛竜頭(ひりゅうず、ひりうず、ひろうす、ひりょうず)、

と呼ぶ(たべもの語源辞典)。「がんもどき」の名は、

雁の肉に擬(もど)きたる意、

とある(仝上)が、他にも、

鳥類の肉のすり身を鶏卵大に丸めて煮たり蒸したりする料理「丸(がん)」に似せて作ったという説、
がんもどきの中にきくらげではなく安物の昆布で代用したら丸めた形の表面に糸昆布が現れてその様子が雁が飛んでいるかのように見えたからという説、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8Dが、別に、

こんにゃくを使った点心「糟鶏」が、「俗にいうがんもどきなるべし」とあるところから、「糟鶏」の俗称として「がんもどき」という親しみやすい日本語にしたという説、

もあるhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html。古い形が、「蒟蒻」であったことを考えると、この説は、由来としてかなり意味がある気がする。

いずれにしても、「肉」に見立てたもので、精進料理の「普茶料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.htmlから起こった、と考えられる。「普茶料理」は、

卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、

と言われ、

巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)、
油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたものや雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)、
擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86、の「擬製料理」の一つとして、炒めや揚げに胡麻油を用いた、

がんもどき、

精進揚、

がはじまり、これが日本では未発達であった油脂利用を広めた(仝上)、とされる。しかし、「もどき」は、「ようなもの」という意だから、

雁もどきはがんの肉に似たもの、

というが、あまり似ていない(たべもの語源辞典)、とある。確かに。。。。

がんもどき.jpg


「がんもどき」は、いまは、

油揚げの一種、

とされ、

豆腐を崩して、つなぎに、ヤマノイモ、卵白などを加え、細かく刻んだ牛蒡・人参・銀杏・麻の実・昆布などを混ぜて丸め、油で揚げたもの、

をいう(広辞苑・大辞林)が、江戸時代の料理書『料理通』(1822~35年)によると、

蒟蒻を小口切にし、鹽にて洗ひ、揉みさらし、葛粉にくるみて、油にあげて、味を付けたるもの、

とある(大言海)。さらに、昔は、

麩を油で揚げたもの、

であったが、天明二年(1782)出版の料理本『豆腐百珍』には、「尋常品」の一つとして、

ひりょうず、

が挙げられ、

豆腐の水気を切りよくすってつなぎに葛粉を入れ、かやくにごぼう、銀杏、きくらげ、等好みの具を入れます。かやくを油で炒って適当な大きさの豆腐に包み油で揚げます。酒を煮詰めておろしワサビか白酢にワサビの細切りを添えます。また、でんがくにして青味噌にけしを振りかけます、

とありhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html、江戸時代の「がんもどき」は、

現代のように豆腐に具材を混ぜ込んで揚げたものではなく饅頭のように豆腐で具材の餡を包んで揚げたもの、

であったようであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D。しかし、豆腐料理の「尋常」品であり、

あげどうふー、ごまあげがんもどき(寛政十一年(1799)「三人酩酊」)、

と呼び売りをしたいたらしい(江戸語大辞典)。

関西で「飛竜頭」といったのは、ポルトガル語フィリョース(filhós 小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子)から由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%81%A9%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。「ひりうず」とか「ひろうず」に、

飛竜頭、

と当てたのは、

水でこねた小麦粉に豆腐や野菜を加えて油で揚げたとき、かたまりから角のようにいくつか衣が飛び出して、それが竜の頭のように思えた、

のではないか(たべもの語源辞典)、という。この「ひりょうず」は、江戸時代の料理書に、

小麦粉の代わりにもち米を使って油で揚げたあと、砂糖蜜にひたし、上にこんぺい糖をのせた、

と書いてあるhttp://www.tofu-as.com/tofu/history/06.html、という。なぜ、

南蛮渡来のお菓子がどうして豆腐料理の「ひりょうず」に変身したのか、

は、はっきりしないらしい(仝上)。

ひろうす.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月04日

寒天


「寒天(かんてん)」とは、

寒空(さむぞら)、

の意であり(字源)、

寒い日の空、
冬の空、

の意である(広辞苑)。「寒天」を、

テングサの粘質物を凍結・乾燥としたもの、

の意で使うのは、わが国だけである。それは、

黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師が「寒空」や「冬の空」を意味する漢語「寒天」に「寒晒心天太(かんざらしところてん)の意味を込めて命名した、

ことに由来するらしい(語源由来辞典)。つまり、「寒天」とは、

心太(ところてん)を寒夜に晒して、凝り乾きて、甚だ軽くなりたるもの、

に、そう名付けたからである、というわけである。

棒寒天.jpg

(棒寒天 https://www.kantenhonpo.co.jp/より)

「寒天」は、偶然の産物らしい。

江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9。これを隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励され、その際に隠元によって寒天と命名されたという(仝上)のである。

この伝承は複数の書物に見られるが、具体的な時期は諸説ありはっきりしないらしい。むしろ、

江戸初期の金森宗和の『宗和献立』に「こごりところてん」、
虎屋の慶安四年(1651)の記録に「氷ところてん」、

という記述があることから、起源はかなり古い。島津の参勤交代云々の記述(『島津国史』の、明暦三年(1657)と推測されている)よりは古いと思われる。この伝承は、些か眉唾ではあるまいか。

当初は水で洗ってそのまま食することが多かったと考えられ、寛文十一年(1671)刊の『料理献立集』に、

寒天を使用した精進刺身、

が載っている、とある。菓子材料としては、宝永四年(1707)の『御菓子之畫図』に、

寒天を使用した棹菓、

がみられる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9

その後、摂津国島上郡原村字城山の宮田半兵衛が製法を改良して寒天製造を広める、寛政十年(1798)には寒暖差の大きい島上郡・島下郡・能勢郡の18ヶ村による北摂三郡寒天株仲間が結成され、農閑期の余業として寒天製造が行われ、寒天製造は天保元年(1830)頃に隣接する丹波国へも伝播し、丹波国へ行商に来ていた信濃国諏訪郡穴山村の行商人・小林粂左衛門が天保十二、十三年(1841~1842)頃に諏訪地方へ寒天製造を広め、角寒天として定着した、

とある(仝上)。

「ところてん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464090310.htmlで触れたように、

海草を煮たスープを放置したところ偶然にできた産物と考えられ、かなりの歴史があると思われる、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%A6%E3%82%93

ところてんの原料である天草(テンクサ)が煮るとドロドロに溶け、さめて煮こごる藻であるところから、こごる藻葉(コゴルモハ)と呼ばれhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213754542,さらに、「凝海藻(こるもは)」といい、「こごろも」ともいい、……こごろもをココロブトと訛って、俗に心太の二字を用いた。室町時代にはココロブトを訛ってココロティ、それがさらに訛ってココロテン、江戸時代にはさらに訛って、トコロテンとなった(たべもの語源辞典)。

ココロブトがココロテンになるのだが、「太」と「天」を書き間違えたか、見違えたかであろう。そしてココロテンが訛ってトコロテンになる。だから「心太」と書いて、トコロテンとよんでいる(仝上)、

と、

コゴルモハ→コルモハ→コゴロモ→ココロブト→ココロフト→心太→ココロティ→ココロテン→トコロテン,

転化してきた。「こるもは」というのは,

『十巻本和名抄-九』に,『大凝菜 楊氏漢語抄云大凝菜(古々呂布度)本朝式云凝海藻(古流藻毛波 俗用心太読与大凝菜同)』とあるように凝海藻で作った食品を平安時代にはコルモハといい,俗に心太の字をあてて,ココロフトと称していたのである。この『凝海藻』の文字は古くは大宝令の賦役令にあらわれる、

とある(日本語源大辞典)。「トコロテン」がそれほど古くからあるのに、その寒晒しの「寒天」が、江戸時代というのは解せない。

むしろ、

寒晒しのところてんの寒と天とをとって、カンテンとよんだ(たべもの語源辞典)、
寒晒心太の中略(大言海)、

という、シンプルな説に軍配を上げる。しかし、「ところてん」の、

「テングサを煮溶かす製法は遣唐使が持ち帰った」

とされるhttp://gogen-allguide.com/to/tokoroten.htmlように、中国由来かもしれないが、少なくとも、「寒天」は、

日本で初めて発明された食品、

であるhttps://www.kanten.or.jp/appeal/rekishi.htmlことは間違いない。

寒晒心太、

という名称は、寒のとき晒したものが品質最高ということから、

寒晒、

を付ける(たべもの語源辞典)、という。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:寒天
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2020年07月05日

きなこ


「きなこ」は、

黄粉、

と当てる。

大豆を炒って碾いて粉にしたもの、

である(広辞苑)。

加熱により大豆特有の臭みが抜け、香ばしい香りになる。粗砕きした段階で皮を除き、更に粉砕するが、皮を除かないものもある、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E7%B2%89。粉にすると、豆の色によって、

青豆粉、
黄豆粉、

のになる(たべもの語源辞典)。一般的に「きな粉」というと「黄豆粉」を指し、青豆粉は鶯粉、青きな粉などと呼ばれる(仝上)。豆粉は、

青大豆をざっと炒って、三分の一ほど皮きれるほど、喰ってみて生ぐさけのなくなるときをよしとして粉にする、

という(たべもの語源辞典)。

安倍川もち.jpg


きな粉は古くから食品として用いられてきたが、もともとは、和名類聚鈔に、

大豆麩 まめつき(「末女豆岐」とも)、

とあり(たべもの語源辞典)、

まめつき、

と呼んだ。

ツキ、

とあるのは、

豆を臼で搗いて粉にしたもの、

ということになる(仝上)。「麩」とは、

粉末のこと、

で、

大豆を炒ってから臼で搗いて粉にふるい分けるという工程から、

名前がついたhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000190493、とある。

「きな粉」という呼び名は、その外観から出た、

女房ことば、

が元と考えられ、室町時代の『女房躾書』にその名が記されているが、この呼び方は上流階級に限られ、一般的には「豆の粉」と呼ばれていたhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000190493とある。室町時代の、『厨事類記』『大草家料理書』などには、

大豆の粉、

としか載らず、「きな粉」は出てこない(たべもの語源辞典)、とある。江戸時代初期の『醒睡笑』にも、大豆の粉とのるので、「きな粉」が一般化するのは、元禄(1688~1704)頃らしい。明治になって、

豆粉、

を「きなこ」と訓ませている。

「黄粉」をまぶした餅が「黄粉餅」で、「安倍川餅」といった。これは「安倍川餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475927903.html?1593109508で触れた。「黄粉」の語源は、

「黄なる粉」で、黄な粉とも書く、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E7%B2%89

「黄なり」の連体形「黄なる」の「る」が落ちた「黄な」+「粉」、

である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%93、大言海)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:きなこ 黄粉
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2020年07月06日

行蔵は我ニ存す


松浦玲『勝海舟』を読む。

勝海舟.jpg


文政六年(1823)に生まれ、明治三一年(1899)に死んだ七十七年の生涯を、十八章にわけて記述された、900ページを超える大著である。ふと思いついて、再読を始めた。この著者には、『勝海舟』『海舟と幕末明治』『明治の勝海舟』等々、海舟を論じた著作はあるが、『横井小楠』も忘れ難い。

四十代、幕末維新を駆け抜けた海舟は、死の直前の七十代、日清戦争に反対し、

隣国交兵日
其軍更無名
可憐鶏林肉
割以与魯英

と漢詩を書いて無名の師、と決めつけ、

新しい(清への)侵略の引き金になる、

と予言する見識を示し、また死の数年間、

藩閥政府の迷走を観つつ、

今哉所謂藩閥の末路なり、邦家の末路にあらざるなり、

当今は幕末と無二之形勢、

と述べ、幕末と大同小異の、

閥末、

と観た。海舟は、

「明治維新で敗れた側、政権を薩長に引き渡した側だという自覚は常に手放さない」

海舟にとって、

(西郷や大久保や木戸が没したけれども)「薩長に渡した枠組みは変わっていない。そうであるからには薩長で全責任を負ってもらわなければ困る」

という姿勢なのである。著者は、こう書く。

「明治十年代を完全に在野で過ごしたことも、この意識を強めた。その面が最晩年には特に強く出る。枢密顧問官として重要事項の諮詢にも与るけれども、これは所詮他人事だという醒めた気分を隠そうとしない。それで『閥末』と『我が末の世』の対比が可能となる。
 ただし徳川の世において、海舟は常に第一線の当局者であったわけではない。初めは微禄無役の御家人、蘭学修行が認められて次第に地位が昇って来ても傍系官僚の軍艦奉行にとどまり、政権の中枢部には入れなかった。軍艦奉行を罷免されて閑居した時期も長い。本当に切回したのは、鳥羽伏見の敗戦で徳川慶喜が東帰してからである。つまり幕府が倒れると決まってから、その後始末について手腕を発揮したのだった。そういうことを全部含めての『我が末の世』である。幕府はもう保たないと、他の幕臣よりも早めに見極めをつけており、それなりに手を打ってあった。だから幕府の後始末を担当することができた。
 幕末をそのように体験してきたので、その三十年後に出現した『閥末』が、海舟には能く見える。だがこれは『我が末の世』ではない。薩長の末の世である。」

還暦を迎え静岡から東京へ移転した慶喜が参内後、海舟邸を訪れ、

「先生ノ御目ノ付ケ処ハ衆人ノ及バヌ処」

と言うのである。

著者は書く。

「海舟は、幕末が終わるときに大きく輝き、閥末において小さく光った」

と。僕自身は、海舟が最も海舟らしい姿勢を示したのは、嗣子小鹿が死んだ前後の処置だと思っている。その少し前、明治二五年の正月末,福沢諭吉は,ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を,榎本武揚と勝海舟に送り付けてきた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、

「過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところは『無御伏蔵』御意見を承って置きたい」

と、返事を催促し、尚書として,

草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない,

と断っていた。榎本は、

昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、

と躱したが、海舟は、

行蔵は我ニ存す,毀誉は他人之主張,我に与らず我に関せずと存候、

と有名な返事を書き、尚書についても,

各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候

と突き放した。

福沢の瘦我慢の説は、要は,戊辰戦争のとき,徳川は徹底的に抗戦し,最後は江戸城を枕に討死すべきだった,その精神を受け継ぐことが,小国日本が世界の大国に抗していく原動力になる,と海舟の江戸城無血開城を,痩我慢の精神を踏みにじったものと非難しているのである。

しかし、海舟の返事の翌七日、長く病床にあった嗣子小鹿が死んでおり、それに際して、海舟は覚悟したことがあった。

その翌日二月八日付で、海舟は、徳川慶喜,家達両名に宛てた「志願書」なるものを認めた。「小臣家」と自称するところから始まり、勝家は先年華族に列せられたとき、御断りする決心のところ少々所存があり御受けした。このたび、

相続可致倅病没、其内拙老弱最早無程死亡可致、

という次第なので、この家族の家を、

一堂(慶喜)以御末男御相続被下候様願候、

というのである。著者はこう書く。

「海舟は、これまで私一家のことで御迷惑をかけた覚えはないのでこれだけは聞き届けていただきたい。もしこの提案が御許容なきときは特恩の家禄を返上する覚悟だと、やや脅迫気味とも感じられる強い態度だった。また受け入れられた場合、自分が生きている間は勝家、没後は『徳川家』としていただく。生き残る勝の一族が新徳川伯爵家の厄介にならずに済むだけの経済的手当はしてあると、行届いた書面である。」

慶喜は、

末男は未だ幼いので(十男精は五歳)どのように育つか心配だけれども御依頼承諾する、

とした。著者は、こう付言する。

「福沢諭吉への返書では、勝家を徳川家に渡すという類のことは何も書かれていないけれども、これは後世に対する回答である。」

と。

本書は、こう締めくくられている。

「海舟には政治的な後継者がいない。人格的な後継者を自認するのが徳富蘇峰である。海舟はそのことにどの程度の責任を有するのか。」

なお、横井小楠については、
「沼山」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163449.html
「横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅰ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163207.html
「横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅱ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163208.html
で触れた。

参考文献;
松浦玲『勝海舟』(筑摩書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年07月07日

伽羅蕗


「伽羅蕗(きゃらぶき)」

蕗の茎を醤油で伽羅色になるまで煮しめた料理、

である(広辞苑)。たべもの語源辞典には、

フキの皮をむいて生醤油に粉唐辛子を少々加えて佃煮のように辛く煮たもの、

とある。

伽羅牛蒡、

もあった、とある。

「伽羅」は、

濃い茶色、

である。

伽羅蕗.jpg

(伽羅蕗(きゃらぶき) https://cookpad.com/recipe/1838390より)

「伽羅」は、梵語(古代インドの言葉)、

kālāguruの音写「伽羅阿伽嚧」の略。また、tagaraの音写「多伽羅」の略とも、

とあり(デジタル大辞泉)、

伽藍,
伽楠、

などとも書写され(百科事典マイペディア)、

香木の一種。沈香,白檀などとともに珍重された、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「沈香」(じんこう)は、

サンスクリット語(梵語)で aguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99、香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類され、その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれるとあるが、

他の木所の呼称が産地や重要な交易の拠点の名称を彷彿させるのに比べて、伽羅だけは、別格とも言える扱いを受けています。それは、古来、伽羅が最上級の「沈(ぢむ=沈水香木)」とみなされ、殊更に尊重されて来たことを示していると考えられます、

としhttp://www.kogado.co.jp/archives/3352

「伽羅は、沈香とは明らかに異なる性質を具える香木である」。従って、「最上級の沈香を伽羅と称する訳では無い」ということです。言い換えますと、「どんなに上質でも沈香は沈香であり、どんなに低品質でも、伽羅は伽羅である」(仝上)のだが、伽羅の元になる植物(沈香樹)は沈香と同じくジンチョウゲ科アキラリア属であり、

広い意味では、伽羅は沈香の仲間であると表現できる、

が、同じベトナム産の沈香樹でありながら沈香に変質するものもあれば伽羅に変質するものもある理由も、解明されていないらしい(仝上)。同じように、

熱帯産のジンチョウゲ科の樹木が土中に埋もれ,樹脂が浸出し,香木となる(百科事典マイペディア)、

にしても、あるいは、

沈香の生木あるいは古木を土中に埋め、腐敗させて生産する(知恵蔵mini)、

にしても、あるいは、

風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99

にしても、微妙な環境差が左右するものらしい。ちなみに、「沈香」は、

原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる、

ので、

沈水香木、

といいhttp://www.kogado.co.jp/archives/3352、「沈香」という言葉の由来となっている(仝上)。

この沈香を伽羅とを識別する根拠は、

沈香と伽羅と樹脂分の性質の違い、

にあり、それを見極めるには、体験を重ねる過程で様々な生きたデータを収集・整理した結果として得られる特殊なもので、言語で表現することも不可能に近いと思われます、

とし、

1.外見を観察する
2.触れてみる
3.鋭利な刃物で削ってみる
4.鋸で挽いてみる
5.確認のために聞香してみる

という作業を、できるだけ多くの香木の塊に接して実行するのが理想http://www.kogado.co.jp/archives/3352、としている。そして、油分が多く色の濃いものを、

kālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」

と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香(かなんこう)、奇南香(きなんこう)の別名でも呼ばれる(仝上)。

ま、「伽羅」を見分ける技術は、専門家にゆだねるとして、「伽羅」は、『日本書紀』に、

推古天皇3年(595年)4月に淡路島に香木が漂着した、

とあるのが沈香に関する最古の記録であり、漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたとあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99。正倉院には長さ156cm、最大径43cm、重さ11.6kgという巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待とも)が納められている。鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、足利義政・織田信長・明治天皇の3人は付箋によって切り取り跡が明示されている(仝上)、とある。

「伽羅」の語源は、

サンスクリットのカーラーグルkālāguruまたはカーラーガルkālāgaruの語頭を音写した語。また,同じく香の一種であるタガラtagara(香炉木と訳される)を音写した多伽羅の語頭を省略したものである。黒沈香(香木)の意である、

とある(世界大百科事典)し、大言海も、

伽羅惡掲魯(キャラアグル)kālāguruの略、黒沈香木の義、

としているので、黒の意で尽きているようだが、微妙に解釈を異にし、

伽羅はサンスクリット語で黒の意。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられた、

とか(ブリタニカ国際大百科事典)、もあり、その他、

伽羅の字音カラのカを延ばしてキャとする(類聚名物考)、
キエラ(気吉)の義(言元梯)、

もある。

「伽羅」は、沈香の高級品という意味か広がったのか、

立すがた世界の伽羅蕗よけふの春(隠蓑)、

というように、

極上、

という意味でも使う。江戸時代は、吉原隠語で、

金銭、

の意でも使ったらしい。

もと金銭を伽羅代と呼びしによる、

とある(江戸語大辞典)。広辞苑には、

今の俗、世事をいふといふ事を伽羅をいふ(用捨箱)、

の用例で、

おせじ、

の意を載せている。
伽羅.jpg


因みに、いま「伽羅」は、1g、二万円から五万円しているhttps://yamadamatsu.shop-pro.jp/?pid=96943884

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年07月08日

黍団子


「黍団子」(きびだんご)は、

黍の実の粉で作った団子、

である(広辞苑)。大言海には、

もちきびの粉に、米の粉をまぜ、水に捏ねて、まろめて蒸したるもの、

とある。

黍餻、

とも当てる(大言海)。

きびだんご (黍だんご).jpg


この「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

餌(ジ)、

と同じであり、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

とある(字源)。「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では,

小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,

つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。ために、江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、

「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」

とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、

「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」

とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。

昔、麦粉や黍などの雑穀の粉を蒸してついた食物は「餅(べい?)」と称していたという考察が、江戸期の暁鐘成の随筆にある。またこれによれば今の餅は、本来「餐」と呼ばれていたという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90のも、曖昧な使い方の故ではある。「五平餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.htmlは、「餅」といっているが、

粳米(うるちまい)飯を半搗き、

にしたものである。だから、

団子http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html

の違いは、

米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、
粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、

とする説(たべもの語源辞典)もあるが、

「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90

「黍団子」の早期の用例として、『山科家礼記』に、長享二年(1488)三月一九日に、

黍團子、

の記述があり、室町末期の日葡辞書にも、キビダンゴは、

黍の団子、

と定義されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90、らしい。

キビの穂.jpg


「黍」(ショ)の字は、

会意。「禾(イネ科の作物)+水または雨」。水気を吸収して育つ作物をあらわす。一説に暑(ショ)と同系で、暑いさなかに育つからともいう、

とあり(漢字源)、「きび」の意だが、

北中国では主食にし、飯・かゆをつくり、酒を醸すのに用いた、

ともある(仝上)。

日本へは、アワ、ヒエ、イネなどよりも遅く渡来したと考えられている、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%93が。『万葉集』にも、

梨棗(なしなつめ)黍(きみ)に粟(あは)嗣(つ)ぎ延(は)ふ田葛(くず)の後(のち)も逢はむと葵(あふひ)花咲く、

等々とあり、古くから親しまれてきた。古代中国の草本書『食物本草』にも、

味は甘く性質は温で毒はない。気を益し、脾臓や胃の働きを助ける作用がある、

とある(仝上)とかで、多く、

実をそのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりする。キビは米と一緒に1、2割の割合で混ぜて炊飯されたりもされ、米飯よりも甘みと少しのほろ苦みが加わる、

とあり(仝上)、炊きたてのモチ黍をすり鉢に入れてついたものは黄色い餅になり、それを丸めると黍団子となるのである(仝上)。

和語「きび」は、

黄實の轉(大言海・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・名言通・和訓栞・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子・風土と言葉=宮良当壮・日本語源広辞典)、

とするのが大勢で、

マキミ(眞黄実)の上略(日本語原学=林甕臣)、
「黄米」の別音ki-Miの転音(日本語原学=与謝野寛)、

も、黄色ということに着目しているのは同じである。万葉集に、

きみ、

と訓んでいたことは確かなので、

Kimi→kobi、

の転訛なのだろう、と思われる。

吉備団子(きびだんご).jpg

(吉備団子(きびだんご) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%A3%E5%AD%90より)

ところで、

吉備団子、

と当てられる団子菓子は、嘉永・安政(1848~60)頃に現れる。岡山藩の茶人家老伊木三狼斎が勧めて、吉備津彦命を祀る吉備津神社の境内の茶店で売らせた(たべもの語源辞典)、とある。これは求肥http://ppnetwork.seesaa.net/article/473642635.htmlにきびの粉をまぜた菓子である。安政六年(1859)に江戸浅草で「日本一きび団子、昔屋桃太郎」の看板で黍団子を売り出したものがあったらしい(仝上)。

昔は黍で覆われた食品だったかもしれないが、現在に至る改良製品は、餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる、

全く別物であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%A3%E5%AD%90

ただ、吉備津神社と黍団子という食べ物の間には、17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていたらしいのであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90。細川幽斎(1610年没)が「備中吉備津宮にて詠める」と詞書で前置きした狂歌、

神はきねがならはしなれば先づ搗きて団子にしたき吉備津宮かな、

があり(寛文6年(1666)『古今夷曲集』)、

餅雪や日本一の吉備だんご、

という句もある(慶安4年(1651)『崑山集』)。ただ、桃太郎が与える「きびだんご」は、

元禄の頃までは「きびだんご」ではなく「とう団子」等だった、

とされる(仝上)。元禄頃(1688~1704)は「とう団子(十団子)」の他、「大仏餅」「いくよ餅」も出てくるという(仝上)。つまり、桃太郎と黍団子が結びつくのは、江戸も中期以後、元文頃(1736)だという。

犬に「きびだんご」を与える桃太郎.jpg

(犬に「きびだんご」を与える桃太郎。英訳Momotaro(1886)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8D%E5%9B%A3%E5%AD%90より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:黍団子
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2020年07月09日

きりたんぽ


「きりたんぽ」は、

切蒲英、

と当てたりするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%BDが、

炊き立ての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉の棒に円筒状にぬりつけて焼き上げたもの、

とあり(広辞苑)、

鶏肉・牛蒡・芹などとともにだし汁で煮て、

食べたり(仝上)、

味噌を付けて焼いて、

食べたりするhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%BD

秋田地方の郷土料理、

とされるが、

県南部(由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺)では、あまりなじみがある料理ではなかった、

とあり、

古くは、県北だけのもの、

であった(たべもの語源辞典)。南部は、山形県や宮城県などで広く行われている芋煮会の分布範囲であった(仝上)、とある。江戸時代の藩域と関係があるようである。

たんぽときりたんぽ鍋.jpg


「きりたんぽ」の由来は、

江戸時代に南部藩主が花輪地方を巡視されることになって、地元では饗応に何を出そうかと相談したところ、木こりや猟師たちの弁当にもっていく焼きめしがかろうということになった。それで「わっぱ」(弁当)の飯をこねて棒の先につけて焚火で焼いてみた。これは思いのほかおいしい。お喜びになった藩主が「これなるたべものは何という」と聞かれたとき、当意即妙に出た答えが「きりたんぽ」であった、

といわれている(たべもの語源辞典)。

短穂槍(たんぽやり:短い穂(ほ)のついたけいこ用のヤリ)に形が似(に)ていたのでとっさに「たんぽ」と答えた、

ともあるhttps://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0509/01.html

鹿角(かづの)の人々の山ごもりするときのタンポは長さ50センチくらいの棒に、こってりと飯を盛りつけた大型のきりたんぽ、

であり、

北秋田で秋田杉の木こりたちが弁当にもっていく飯でつくったものは、冷や飯を半殺しのぼた餅風に搗いて細竹に巻きつけて炭火でこんがり焼くもので、ご飯の焼竹輪といったもの、

であり、

県南では、新米に味噌を付けて焼くたんぽ焼をつくった、ウルチ米九にもちごめ一ほど混ぜて炊き上げたものを、すぐ擂鉢に移してスリコギで練る。半分搗き上げたものを竹の棒に竹輪のように巻きつけて、炉の火であぶり、こんがり焼いたきりたんぽは竹から外して、切るか、手で折って食べる、

である(たべもの語源辞典)。県南のものは後世の作り方で、もともとは、

冷や飯の利用法として工夫されたもの、

と考えられる(仝上)。

「きりたんぽ」の語源は、

たんぽつきの稽古槍に似ているのを適宜に切るところから(飲食事典=本山荻舟)、

という説が有力である。たんぽ槍とは、

綿を丸めて革や布で包んだ稽古用の槍で、単に「たんぽ」とも呼ぶ。この焼き上がった形がたんぽ槍に似ており、それを切って食べることから「きりたんぽ」とよばれるようになった、

というのである(語源由来辞典)。ただ、「たんぽ」は、

綿を丸めて革や布で包んだもの、

を指し、

稽古用の槍の頭につけたり、
拓本をとるとき墨を含ませたり、

するのに使うので、「たんぽ」は、別に、

たんぽ槍、

のみを指さない。むしろ、漢字では、

短穂、
あるいは、
打包、

と書き、

拓本を採るときに墨をつけて叩く道具、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9D、中国由来である。

たんぽ.jpg


タンポ槍.jpg


たんぽと日本刀.jpg

(たんぽによる日本刀の手入れ http://www.katanakazi.com/utiko.html

中国では固く括ったものが用いられるが、日本では比較的柔らかめのものが好まれる、

とあり(仝上)、

綿などを布で包み、ボール状にして縛ってある部分を持ちやすいように棒状にする。昔は、かもじ(人毛)を真綿でくるんで紅絹(もみ)の布で包んで作った、

らしく、大きさは直径20センチメートルくらいのものから1センチメートルくらいまで用途に応じて作られる、とある(仝上)。

その「たんぽ」を流用して、タンポに砥石の粉末を内部に含ませて、日本刀の刀身を払拭するための、

刀剣用のタンポ

が生まれる。刀剣に「たんぽ」を打ち、

古い油を取っています。あの白い物の中には打ち粉と呼ばれる砥石の粉が入っているんです。その粉を刀身に軽く付けて紙で拭くことによって、砥石の粉が油を吸って刀身に塗ってある古い油を完全に取っているんです、

とあるhttp://www.katanakazi.com/utiko.html。さらに、槍術の練習用として、棒の先端にタンポをつけたのが、

たんぽ槍、

になる。その意味では、「たんぽ槍」ではなく、

たんぽ、

が由来と考えてもいい。しかし、個人的には、「竹輪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475520541.htmlの、

魚肉のすり身を竹などの棒に巻きつけて加熱した、

中心の棒を抜く前の状態に似ているように思う。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月10日

きんぎょくとう


「きんぎょくとう」は、

金玉糖、
錦玉等、

等々とあてるが、

寒天に砂糖を加えて煮詰めて固め、ざらめ糖をまぶした、

半透明の菓子である(たべもの語源辞典)。ただ、ざらめ糖をまぶさないものは、

金玉羹、

と区別し(たべもの語源辞典)、

練り羊かんの一種、

になり(日本大百科全書)、色素を加えて、本膳料理(お茶会)に添えられる料理の、

口取り(菓子)、

にも用いられる(仝上)。

琥珀羹(こはくかん)、
琥珀糖、
錦玉羹、
金玉羹、

等々の別名もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9

透明な美しさを生かし、異なる色のものを合わせたり、練り切りやあんで作ったあゆ・金魚などの風物やみつ漬けのあずきなどを中に入れたりして、夏の情緒をあらわしたものが多く作られる、

とある(世界の料理がわかる辞典)。道明寺粉(糯米(もちごめ)を蒸して乾燥し粉末にしたもの)を入れた、

みぞれ羹,

卵白をかき立てて流し込み、その気泡性を利用した、

泡雪羹、

葛粉を加えた、

吉野羹、

などもある(百科事典マイペディア、日本大百科全書)。

「琥珀羹」というのは、

クチナシの実で透明の寒天を琥珀色に着色することもあったため、この名が付いた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9が、江戸時代は、

金玉羹、

の名称の方が一般的であった、ともある(仝上)。江戸時代には「金」と書くことが多かったが、次第に「錦」が用いられるようになった(世界の料理がわかる辞典)、ともある。

琥珀羹・琥珀糖.jpg


江戸時代に寒天の発明者である美濃屋太郎左衛門が凍らせたところてんと砂糖を混ぜて最初の錦玉糖を作った、

とする説もあるhttps://www.ehealthyrecipe.com/recipe-webapp/syokuzai/SyokuzaiDetailServ.php?szid=15015

「寒天」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476057935.htmlは触れたように、

江戸時代前期、山城国紀伊郡伏見御駕籠町において旅館「美濃屋」の主人・美濃太郎左衛門が、島津大隅守が滞在した折に戸外へ捨てたトコロテンが凍結し、日中に融けたあと日を経て乾物状になったものを発見した。試しに溶解してみたところ、従来のトコロテンよりも美しく海藻臭さもなかった、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9、同一人とするものである。

表面を乾燥させて半生菓子にしたものは、

干琥珀(かんこはく)

琥珀(こはく)、

と呼ぶ。干菓子として扱われることも多いが、内部の寒天は水分を含んでおり、基本的には半生菓子である。

乾燥した表面のしゃりしゃりした砂糖を含んだ寒天の食感と、内側の水分を含んだ寒天のぷるぷるした食感が楽しい和菓子である。内部に小豆や柑橘などを含んで、見た目や食感、風味に変化を付けることが多く、表現性豊かな和菓子である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%A5%E7%8F%80%E7%BE%B9

糖金玉.jpg


琥珀菓子、

は砂糖や水飴と寒天でできた透明なお菓子で、色を付けたり中に練りきりを入れたりした夏のお菓子である。一般にこの様に寒天を使った透明なお菓子を琥珀羹とか琥珀糖と呼んでいる、

のに対して、この琥珀糖を乾燥させたものが、

干琥珀、

になるhttp://keisui.com/20180715-food-25183-keisui/。琥珀糖は寒天を使った羊羹のようなものだが、

宝石のような琥珀糖、

というのは、

干琥珀、

で、

周りが砂糖の結晶で覆われ外側はシャリシャリ内側は柔らかい寒天という複雑な食感の干菓子、

になる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年07月11日

きなくさい


「きなくさい」は、

焦臭い、

と当てる(大言海)。

紙・綿・布などの焦げるにおいがする、
焦げ臭い、

意であり、

硝煙のにおいがする、

意をメタファに、

戦いや物騒なことが始まりそうな気配である、

意や、

何となくあやしい、
うさんくさい、

の意でも使う(広辞苑)。大言海を見ると、

綿・紙などの焦げる臭(カ)あり、

の意が載り、

紙衣(カンコ)くさし、

とも言うとし、

焦げ臭し、仙台にてはひなくさし、

と載る。そのため、語源を、

衣(キヌ)くさしの轉か(綱(ツナ)、つぬ。鐸(ヌリテ)、なりで)、

とする。しかし、江戸語大辞典をみると、

(きなくさい)のきなは、木では無いの意とも、木の意とも、衣焦(きぬこげ)の省略かともいい、確かではない、

とし、

紙・切れなどの焦げる匂いにいう、

つまり、

焦げ臭い、

意だが、

紙衣くさし、

とも言ったというところを見ると、

紙・布、

等々に限定して言っていたらしいのである。

多く、促呼して、

きなっくさい、

というともある(江戸語大辞典)。どうやら、江戸期になって多く使われるようになったらしい。

「紙衣」は、

紙子、

とも当て、

かみこ、
かみころも、
かみぎぬ、

等々と訓ませるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3

紙製の衣服。厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉み和らげ、梅雨に晒して渋みを去って作った、保温用の衣服、

であり、

もとは律宗の僧が用いた(広辞苑)が、

絹の衣よりも安価なため、低所得者が利用する着物と思われがちだが、丈夫で持ち運びに便利なため、武士や俳人などが好んで利用し、性空や親鸞が愛用していたことでも知られる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3。江戸時代には、

広く防寒衣として利用されたが、下着的な利用ばかりではなく、好事家の間では羽織に定紋をつけて用いられ、胴着としても利用された。歌舞伎(かぶき)では『廓文章(くるわぶんしょう)』のなかでみられ、伊左衛門が零落したのちかつて遊女と取り交わした手紙を張り合わせてつくった紙衣を着た姿に、もののあわれを感じさせる、

等々ともあり(日本大百科全書)、必ずしも、貧乏人が使ったとばかりは言えないようである。

よく揉み込んだ紙は柔らかな鹿皮のような風合いになるようで、戦国時代の胴服や陣羽織などにも使われた、

とあるhttps://kimono-kitai.info/10804.html

軽くて、しかも保温性に富み、古代から僧衣として用いられ、その伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。

紙衣陣羽織.jpg

(上杉謙信所用の柿渋染紙衣陣羽織 https://kimono-kitai.info/10804.htmlより)

「きな」が、

衣(きぬ)の転、

としても、

衣臭い、

が、

焦げ臭い、

意にはならないような気がする。「~くさい」には、「焦げ臭い」のような、

~のにおいがする、

意の他に、「インチキ臭い」というような、

~のように感じられる、
~らしい、

意や、「面倒臭い」「てれくさい」のように、

いやになるほど~だ、

という意で使われるが、とするなら、

紙衣なのに衣のように感じられる、

意で、

衣臭い、

と使われたものが、「臭い」の含意から、

臭い、

の意に引きずられて、

焦げ臭い、

となったのではないか、という憶測も成り立つのではないか。

衣臭い、

からの転訛なら、意味の外延の辻褄は合うのではないか。もちろん憶説だが、

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年07月12日

くさい


「くさい」に当てる「臭」(漢音シュウ・キュウ、呉音シュ・ク)の字は、

会意。大はもと犬で、よく鼻でにおいを嗅ぐ犬。鼻は「自(はな)+犬」で、ひろく嗅ぐことをあらわした字。もとは臭・嗅(キュウ)は同じ字あったが、のち「におい」「かぐ」の二つに分用された。略字では、「犬」を「大」に改めた、

とあり(漢字源)、

鼻を通して感じるにおい、主に、悪いにおい、

で、

くさい、
いやなにおい、

の意である。和語「くさい」は、

クサル(腐)・クソ(糞)と同根(岩波古語辞典)、
腐る気ざしの意なるべし(大言海)、
腐るを形容詞化した語(日本語源広辞典)、

と、腐敗臭とする説が大勢である。「腐る」は、

くたる(腐)と通ず、

とあり(大言海)、「くた(朽)」に、

腐るの同根、朽つ、朽ちと通ず、

と循環してしまう(仝上)が、「くつ(朽つ)」は、

時の経過によって物の盛りが過ぎ、本質的な部分が声明を失って機能を果たさなくなる意、

とあり(岩波古語辞典)、

質が変わって用をなさなくなり、

やがて、

むなしくなる、

そのプロセス(仝上)で、嗅覚としては、

腐敗臭、

ということなのだろうか。この「くた」が、

ぼろくた、
ちりあくた、
くたくた、

の「くた」であり、転訛した、

くちゃ、

が、

もみくちゃ、
めちゃくちゃ、

の「くちゃ」になる(大言海)。「くさる」は、

もともと四段活用であったが、中世頃から下二段むに活用する場合が現れ、並行して用いられた。しかし、その後、四段活用が盛り返し、現代では五段活用が普通である。複合語や転成語では、

ふてくされる、
くされ縁、
もちぐされ、
いきぐされ、

など、下二段系が多い、

とある(日本語源大辞典)。ちなみに、「腐る」の活用は、

下二段 れ→  れ→ る→るる→るれ→れよ
 四段 ら→  り→ る→る→ れ→ れ
 五段 ら(ろ)→り(っ)→る→ る→ れ→れ

となる。

和語「くさい」は、

嫌なにおいがする、

という嗅覚意で、そこから、「黴臭い」というように、

~のにおいがする、

の嗅覚から、抽象度が上がり、

そのきざしありの意より転じて、熟語に用いたり、似たり、如し、らしいなどの意をなし、嫌う意を含む、

という意を持ち(大言海)、「法師臭い」というように、

いかにも~らしい、
~臭がする、

と外延を広げ、「うさんくさい」というような、

疑わしい、
あやしい、

意に広がり、今日では、「臭い芝居」というふうに、

わざとらしい、

という意をも持つ。

「くさい」のもち意味の範囲を含意しながら、接尾語のように、

~くさい、

という言い方で、第一に、「焦げ臭い」のような、

~のにおいがする、そのようなにおいがする意を表す、

使い方がある。しかし、

青臭い、
バター臭い、
黴臭い、
田舎臭い、
男くさい、
血なまぐさい、
抹香くさい、
きな臭いhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/476176369.html?1594406717
抹香くさい、

等々にみるように、ただその嗅覚だけではなく、それをメタファに、「青臭い」が未熟の意であったりする、含意を含ませた使い方になる。

第二には、「インチキ臭い」というような、

(いかにも)~のように感じられる、
~らしい、

等々、そのような傾向を帯びている意を表す、

使い方がある。

素人臭い、
辛気臭い、
しゃらくさい、
けちくさい、
野暮くさい、
水くさいhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/468497730.html
胡散臭いhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/442465963.html

等々。あくまで「くさい」は、~のように感じる話し手の主観に過ぎない。

第三は、「面倒臭い」「てれくさい」のように、

(形容動詞の語幹に付いて)いやになるほど~だ、等々その語の意味を強めるはたらきをする。

という意で使われる(広辞苑・大辞林)。

阿房くさい、
あほくさい、
半可くさい、
のろくさい、
ばかくさい、
面倒くさい、
七面倒くさい、
どんくさい、
邪魔くさい、

等々。ここまでくると「くさい」は、「嗅覚」はなく、強勢のために付け加えられているだげとなる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:くさい
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2020年07月13日

辛気臭い


「辛気臭い」は、

心気臭い、

とも当てる。

思うに任せず、くさくさした気分である、
じれったい、
苛立たしい、

という意味(広辞苑)、とあるが、

くさくさする、

いらいらする、

じれったい、

では、意味が少し違う。「くさくさ」は、

不愉快なことがあったり、憂鬱だったりして気分のすっきりしないさま、

の意(広辞苑)で、「くさくさ」は擬態語で、

思うようにならないで気が沈む。滅入る(日葡辞書「キガクサッタ」)も

意の、

くさる(腐)、

を畳語にした言葉で、

心が低迷している様子、

を表す語で、類義語、

くしゃくしゃ、

は、元は「くさくさ」の転訛だが、

心が混乱して整理がつかなくなる様子、

と微妙に差があり、似た言葉、

むしゃくしゃ、

は、

くさくさより勘定の起伏が激しく、八つ当たり的に、外への行動に直接結びつけたくなるような不愉快さ、

とある(擬音語・擬態語辞典)。

「いらいら」の「いら」は、

もともと草や木のとげ、あるいは魚の背びれのとげなど、刺すように尖った角の部分を言う語、

からきていて(仝上)、日葡辞書に、「テニイライラトサワル」とあるように、

棘のたくさん出ているようなありよう、

を指す状態表現から、

それらで突かれたような不快な感触、

という感覚表現となり、

心が不快な刺激を受けて、ゆとりがなく、せかされるような感じ、

を言い表すようになる(仝上)。

「じれったい」は、

思うようにならないで腹立たしい、
はがゆい、

意で(広辞苑)、「じれる(焦)」と関わり、

焦れ痛しの義、

とあるが(大言海)、「焦れる」自体が、

心のままにならず、もどかしく思う、
せいていらだつ、
いらいらする、

という意があり、「じれったい」が、

辛気臭い、

の含意と重なるように思える。

心のままにならず、もどかしく思う、

じれる、

いらいらする、

といった意味(というより心の)の変化を含意にしている、と思われる。

「しんきくさい」は、どうも、関西弁らしく、

じれったい、
もどかしい、
まどろっこしい、

という意味であったようである。

思うようにならなくて、気がめいってしまいそうな様、
ある目的のために邪魔があってじれったい。じれているわけではなく、効率の悪い行動や動作を指して言う、

とあり(大阪弁)。

ちまちましてんと、もうしんきくさいやっちゃなあ。最近は、なにしんきくさい顔してんねん、いつまでしんきくさいことしてんねん、

と、暗い、しけた顔、作業に手間取りぐずぐずしている、の意味で用いられるようになっている(仝上)。

あーしんきくさい、
あーしんきやの、

は、京都では、

あーもどかしいねえ、
あーじれったいねえ、

と使われる(全国方言辞典)、とある。どうも、元来は、相手の振舞いに、焦れている言葉である。だから、

心のままにならず、もどかしく思う、

じれる、

いらいらする、

くさくさ、

気がめいる、

ところまで行き着いてしまう。

「辛気臭い」の「辛気(心気)」は、

こころ、
気持ち、

の意で、

心気を砕く(いろいろ心を労する)、

というように使われる(広辞苑)が、日葡辞書に「シンキヲヤム」とあるように、

思うようにならず、くさくさすること、いらいらすること、

の意で使われ(広辞苑・岩波古語辞典)、

心気が湧く(我慢できないほどいら立つ)、
心気を取る(憂さ晴らしをする)、
心気泣き(苛立たしくてもだえ泣く)、
心気やせ(イライラして痩せる)、
心気を燃やす(気をもむ、じれったく思う)、

等々と使われ、「辛気臭い」は、どちらかというと、その「辛気」を強調している、含意である。

「くさい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476191409.html?1594492802で触れたように、接尾語的に使う「~くさい」は、「汗臭い」「焦げ臭い」のように、

そのようなにおいがする意を表す、

使い方と、「いんちきくさい」「素人くさい」のように、

いかにもそのように感じられる、そのような傾向を帯びている意を表す、

使い方と、「面倒くさい」「てれくさい」のように、

(形容動詞の語幹に付いて)その語の意味を強めるはたらきをする、

という使い方がある。「辛気臭い」は、

いかにもそのように感じられる、そのような傾向を帯びている意を表す、

に入るが、「心気」そのものに、

思うようにならず、くさくさすること、いらいらすること、

の意があることから、

その語の意味を強めるはたらきをする、

使い方のように思われる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月14日

金柑頭


「金柑頭」は、

きんかあたま、

と訓ませる。江戸語大辞典には、

きんかんあたま(古今三通伝「本卦がへりの隠居どのも、……きんかんあたまをふりたてて」天明二年)、

で載る。「きんか」は、

きんかん、

の転訛である。ただ、「金柑」も、

きんかん、

ではなく、

きんか、

とも訓ませる(岩波古語辞典)。

「金柑頭」は、

はげあたま、

の意である。

毛髪がなくて金柑(きんかん)のように赤く光った頭、

の意である(広辞苑)が、

老人の赤くはげた頭、

と限定的な使い方とするものもある(江戸語大辞典)。

きんかつぶり、
やかんあたま、
蠅すべり、

等々とも言い、

其の禿げ残りたる神に用ゐる元結を、きんか元結と云ひき、

とある(大言海)。

織田信長が、明智光秀を打擲するとき、いかに、きんかんあたま、のまふかのむまひか、一口返事をせよ、と罵れることあり(室町殿日記)、
酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(義残後覚)、

等々、光秀の渾名としても知られている。禿げていたのかもしれないが、信長は秀吉にも「はげねずみ」と(ねね当て手紙で)書いているので、「はげ」という呼称はよく言ったのかもしれないし、

「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説、

もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80ので、実際に「きんかあたま」だったかどうかははっきりしない。

閑話休題。

「きんかあたま」の語源として、

キンカはキンカハ(金革・金皮)の下略(近世事物考・守貞謾稿・大言海)、
「きんかり」光るさまから、

等々がある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)ともいわれ、弘化の頃(1845~48)の近世事物考には、

きんかは、金皮の略語にて、老人頭上、はげ光りかがやけるを、金色の如しと、譬へしなり、延宝四年(1676)類船集と云ふ本に、うるはしき黒髪に油ひきたる、憎からず、きんかあたまの剃りたて、夜光の玉かとも疑へり、などとあり、

とある、とか(大言海)。ただ、

この語の使用時期より古くキンカン単独での例が見られるところから、直接的には柑橘類の「金柑」の形状からの連想が考えられるが、光るさまをいう擬態語「ぎんがり」との音の類似、また、「金」と光るイメージの類似など、複合的背景のあることも考えられる、

とある(日本語源大辞典)。金柑に準えた、とみていい。「金柑」(きんか)のみにても、

頭髪がなくてはげた頭、またその人、

の意が載る(日葡辞書・岩波古語辞典)

きんかん.jpg


しかし、果物の「金柑」は、

きんかん、

と訓ませる。

ミカン科キンカン属の常緑低木、

であり(広辞苑)、

ひめたちばな(姫橘)、

ともいい、漢名は、

金橘(きんきつ)、

という。果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがあるのは、この故であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3

「きんかん」の名の由来は、

黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった、

とある(仝上)。

中国から古く渡来したのはマルミキンカンで、江戸時代にナガミキンカンが入ってきた、

とある(たべもの語源辞典)。

皮に芳香があって、実は酸味を帯びるが、果皮は甘いので皮とともに生食する、

が(仝上)、果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある、とか(仝上)。

熟した金柑の果実.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年07月15日

赤福餅


「赤福餅」は、

伊勢の名物餡餅(あんもち)。餅を淡泊なこし餡でくるむ。餡の表面に五十鈴(いすず)川の清流をかたどり、2本の指型をつける。日もちのよいことが特色、

とある(日本大百科全書)。

あんころ餅、
あんころばし餅、

の一種である。「あんころ餅」は、

餡の上に転ばしたる意、

である(大言海)。

餅を小豆でできた餡で包んだもの。餡が餅の衣になっていることから「餡衣餅(あんころももち)」と呼ばれ、それが「あんころ餅」になったという説がある。おはぎ、牡丹餅と同一視されることもあるが、中身が完全な餅であるという点でそれらとは区別されていることが多い、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%8D%E9%A4%85

関西や北陸地方(特に京都・金沢)を中心に夏の土用の入りの日にあんころ餅を食べる風習があり、別名「土用餅(どようもち)」と呼ばれる、

ともある(仝上)。江戸時代、

疲れた旅人が食べやすい様に一口サイズになった、

ともいわれている(仝上)。ただ、「餡衣餅(あんころももち)」説については、

餡衣餅(あんころももち)は如何か、

と大言海は、疑問を呈している。

餡餅(あんもち)、

とも言うが、守貞謾稿には、

餡餅、今世、二種あり、一種は、餅を皮とし、小豆餡に砂糖を加へ、肉としたるなり、これを本とするなるべし、一種は、餅を中に、餡を以て包みたるものなり、俗に、餡ころ餅と云ふ、餡衣餅(アンコロモモチ)の略なるべし

と(仝上)、

餡を中に包んだ餅、
と、
餡で表面をくるんだ餅、

とを区別し(デジタル大辞泉)、「あんころ餅」は後者に当たることになる。

なお、「餡」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475943050.htmlについては、触れた。

赤福餅.jpg

(赤福餅 https://www.akafuku.co.jp/より)


赤福経営者である濱田氏は、濱田ます(8代当主・種三の妻、企業としての赤福初代社長)の口述によると、先祖は応永年間(1394年~1427年)に宇治に移住して来た、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85、「赤福」創業は、

宝永四年(1707)、

とあるhttps://www.akafuku.co.jp/ise/。同年の小説『美景蒔絵松』に、

伊勢古市の女が「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いた、

とあり、これが「赤福」の屋号の初出である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85・たべもの語源辞典)。また、薗田守理『秘木草紙』に、

古老の話として、昔の赤福はささやかな店で、今の濱田氏と血縁のない浜田という老女が経営していた、

ともある(仝上)。ただ『宇治昔話』にももてはやされているので、創業は、

少なくとも宝永年間(1704~11)以前の創製、

と推測する説がある(たべもの語源辞典)。「赤福」とは、

「赤心慶福」(せきしんけいふく)、

に由来し、

赤とは赤心(まごころ)、福は幸福、つまり赤福とは、明るく清い心をもって人々が幸福を求める、

という意味で付けられた、とある(たべもの語源辞典)。「赤福」自体も、言い伝えによると、

京都から来たお茶の宗匠があんころ餅を「赤心慶福」と讃え、創業者の治兵衛がそれを聞き屋号と製品名に採用した、

としているhttps://www.akafuku.co.jp/contact/qa/。しかし、異説もあり、1895年(明治28年)の『神都名勝誌』は、

餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、赤い餡をつけた餅であるから赤福と称した

と推察しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85

初めは、

塩餡、

つまり、

塩で味つけをして練りあげた餡、

で、江戸後期に砂糖餡になった(仝上)。この時点では、

黒砂糖餡、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F%E9%A4%85、白砂糖を使うようになるのは、明治末である(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:赤福餅
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2020年07月16日

気の毒


「気の毒」は、今日、

病気がちで気の毒だ、

というように、

他人の苦痛・難儀についてともに心配する、
同情、

という意味か、

すっぽかして気の毒なことをした、

というように、

相手に迷惑をかけてすまなく思う、

意で使う(広辞苑)。しかし、

気の毒、

は、

気の薬の対、

とされ(岩波古語辞典)、本来は

毒を飲んでしまったようないやな気持ち(笑える国語辞典)、
心の毒(日本語源広辞典)、

という意味で、

かやうの事を見れば気の毒にて候、

というように、

自分が難儀な目に遭って心を痛め、苦しむこと、困ること、極まりが悪いこと、当惑すること、迷惑なこと、

といった意味で使った(広辞苑・岩波古語辞典)。大言海は、

心の害毒(わざはひ)、心の煩悶(わづらひ)の義、己が心にも云ひ、他人の身の上にも云ふは、いたつく、いたはる、いとほしに、内外の二義あるが如し、

と記す。だから、心の煩い、災いなので、

傷心、
心配、

だけでなく、気にかかる意の、

関心、

もその語彙の中に入る(大言海)。ある意味では、

心を痛めること、迷惑すること、困ること、

だった意が、心の煩悶の意では、

恥ずかしいこと、きまりの悪いこと、

にも広がった、ということが出来る(大辞林)。

そうした自分の内心の鬱屈が、他人の身の上に転化され、

不憫、
同情、
憐愍、

の意も含むことになる(仝上)。自分の内心の心の動きがわかるからこそ、相手の心の動きがわかる、という意味で、

忖度、

して、自らの心の中のことのように、同情することになる。そして、さらに、今日、

彼には気の毒なことをした、

という使い方は、相手の心の内を忖度するだけではなく、

自分の言動が相手に与えたであろう迷惑・影響を慮って、

他人に迷惑をかけて申し訳なく思う、

という使い方になっている。本来は、

「心の毒になること」「気分を害するもの」の意味で、自分の心や気持ちにとって毒になるもの、

をいったのが、

他人の不幸や苦痛に接した時、自分のことのように思い心苦しくなることから、同情の意味で用いられ、主に自分の気持ちではなく相手の気持ち、

を言うようになり、さらに、自分との関係の中で、相手に与えた影響を、

「気の毒なことをした」というように、迷惑をかけて申し訳なく思う、

意味で用いるようになった(語源由来辞典)という、

主体の心情、

相手の心情、

自分が相手に与えた影響を慮る心情、

と、複雑な心情表現に変わってきた、とみることができる。江戸語大辞典には、

心苦しい、つらい、
同情する、
気恥ずかしい、

しか意味は載らない。

気の毒らしい、

という使い方をし、ここにも、

心苦しい、

という意味がある。これが正しいとすると、

自分が相手に与えた影響を慮る心情、

は、

主体の心情、

の心苦しさの意味の拡大、ということもあり得ると思える。

「気の毒」の類義語「可哀相」は、

人・動物などの弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況から救ってやりたく思う意を表す、

のに対し、「気の毒」は、

その人の苦しい境遇に同情して心を痛める意を表す、

という差がある(大辞林)、とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:気の薬 気の毒
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2020年07月17日

浅茅焼


「浅茅焼(あさじやき)」の「浅茅(あさじ)」とは、

一面に生えた、丈の低い茅(ちがや)、

をいう。「ちがや」は、

イネ科の多年草、

日当たりのよい空き地に一面にはえ、細い葉を一面に立てた群落を作り、白い穂を出す、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4。春、葉より先に柔らかい銀毛のある花穂をつける。この花穂を、

つばな、
ちばな、

といい、強壮剤とし、古くは成熟した穂で火口(ほぐち)をつくった。茎葉は屋根などを葺いた(広辞苑)。

ちがやの穂.jpg


万葉集に、春の蕾の時は、

戯奴(わけ)がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥えませ(紀女郎)、

とあるように、甘みがあって食べられるhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/tigaya.htmlらしい。

「茅」(漢音ボウ、呉音ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符矛(ボウ 先の細いほこ)」

であり、尖った葉が垂直に立っている様子から、矛に見立てたものであり、「ちがや」「かや」の意である。

和名「ちがや」は、

チ(茅)カヤ(草)の義、チ(茅)は千の義。叢生するより云ふか(大言海)、
チヒガヤ(小萱)の義(日本語原学=林甕臣)、
等々あるが、

「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味、

で名付けられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4というのが妥当なのだろう。

ちがや.jpg


「浅茅」は、

茅の丈の低いもの、

を指し、

浅は、低しの意、

とある(大言海)。

深しの対、

とあり(岩波古語辞典)、

アス(褪)と同根。深さが少ない、薄い、低いの意、

とある(岩波古語辞典)。「浅い」の語源には、

ウスシ(薄)のウスと同根(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、
アは発語、サシはサシ(狭)の義(大言海)、
アは輕いの音、サは小水の流れる音で狭小、薄いの意(日本語源=賀茂百樹)、
少量の水がサラサラ流れるさまから出た語(国語溯原=大矢徹)、

等々、種々あるが、それは、「浅い」が、

空間的に表面から底までの距離が近い、奥までが近い、
時間的に初めからの時間の経過が少ない、
色や香りが薄い、
程度が軽い、
社会な地位が低い、
心づかいが不十分、

等々の幅広い意味で使われているためである(広辞苑)。浅茅の生う原を、

浅茅原、

と呼ぶ。

茅生(ちふ)、

とも言う(大言海)。

さて、料理で「あさじ」という名は、

小麦粉に水と醤油をあわせてこねる。それにわらび穂を切って衣にまぶしつけてから油で揚げ、その上に唐きび粉を振りかけて出す、

とある(たべもの語源辞典)。これを「あさじ」と呼んだのは、

唐きび粉がばらついていること、

からとある(仝上)。茅のまばらに生えているのに準えている。

「浅茅焼」というのは、当て字なので、

浅路焼、

とも、

浅地、
麻地、

とも当て(仝上)、

キスなどの軽い味の魚を、うす塩をしておいてから味醂醤油に漬け、取り出してよく汁をふきとって、身と身をあわせて串に刺し、煎った白ごまを振りかけて焼く、

とある(仝上)。この白ごまのまばらについているのが、

茅の風情、

になる(仝上)、ということらしい。

ふりかけるものは、何でもよいが、一面にまばらに何かがついて焼かれているもの、

をいうらしい(仝上)。

「浅茅」の名の付くものに、

浅茅飴、

もある。

求肥の粉気をふきとって、白ごまの煎ったのを一面につけている、

ところからこの名がついた。

四角い求肥生地の周りにしろ胡麻をまぶし、浅茅が原に見立てた、

ものであるhttp://moroeya.co.jp/archives/23

求肥飴、
求肥餅、
浅茅餅、

とも称す、とある(仝上)

浅茅飴.jpg

(浅茅飴 http://moroeya.co.jp/archives/23より)

「浅茅和」は、

白の煎り胡麻で作った切りごまを砂糖、醤油等で味つけし、下処理を施した春菊や法蓮草などを和えた料理、

でありhttps://kondate.oisiiryouri.com/asajiae-gogen-imi/

朝地和え(あさじあえ).jpg

(朝地和え(あさじあえ) https://kondate.oisiiryouri.com/asajiae-gogen-imi/より)

天明二年(1782)刊行の、豆腐を題材にした料理「豆腐百珍」に、豆腐百珍の佳品として、

浅茅(アサジ)田楽、

が、

稀醤(うすしやうゆ)のつけ炙(やき)にして梅醤(むめみそ)をぬりて、いりたる芥子を密にかける也

と載る。この芥子を掛けたさまが、茅に準えられている。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:浅茅焼
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2020年07月18日

あさつき


「あさつき」は、

浅葱、
糸葱、

と当てる(広辞苑)。

ユリ科の多年草、ネギ類で最も細い、ユーラシア大陸原産。各地に自生するが、野菜として栽培、葉とラッキョウに似た鱗茎を食用にする。春先の葉は美味、

とある(仝上)。ただ、

ヒガンバナ科ネギ属、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%84%E3%82%AD

センボンワケギ、
センブギ、
イトネギ、
ヒメエゾネギ、

とも言い(仝上・広辞苑)、漢名は、

蒜葱、

とある(仝上)。「葱」(漢音ソウ、呉音ス)は、

会意兼形声。「艸+音符怱(ソウ 縦にとおる、つつぬけ)」、

とあり、「ねぎ」の意である。和名抄には、

島蒜 阿佐豆木(あさつき)、

とあり(岩波古語辞典)、和漢三才図絵には、

胡葱(あさつき) 臭気浅于(より)餘葱、故名浅葱、津者仮名之助辞也、

葱・にんにく・ノビルなどを総称して蒜(ひる)とよぶが、このヒルに対してアサとしゃれた、

という説があるが、「浅」は、「浅茅焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476358947.html?1594926560で触れたように、

深しの対、

であり(岩波古語辞典)、

アス(褪)と同根。深さが少ない、薄い、低いの意、

である(岩波古語辞典)。だから、「浅葱」の語源としては、

根深とよばれる種類の葱に対して根が浅いから(物類称呼)、
他の葱に比べて臭気が浅いから(大言海・日本語源広辞典・和訓栞)、
根にラッキョウに似た鱗茎ができるが、これが浅いところにできるから(浅玉茎の意 日本語原学=林甕臣)、
アサは痩せと通じるから、痩せたキ(葱)(日本釈名・滑稽雑談)、
浅之葱(あさつき)の義(大言海)

といった「浅い」の意味に関わる説(たべもの語源辞典)が多い、

島蒜と書いて、朝鮮語でアサツキと訓む(東雅)、

という説もあるが、「ねぎ」は、古名、

き、

と呼んだ。

アサ(浅)+ツ+キ(葱)で、ツは連体修飾を表す助詞と考えるのが妥当(日本語源大辞典)、

なのではないか。

アサツキの葉.jpg


「浅葱」は、

あさぎ、

とも訓ます。

緑かかった薄い藍色、
薄青、

である。「あさつき」と呼んだのは、

浅葱色(あさぎいろ)のように、葱の色が葉の緑よりも色が浅いから、浅つ葱(き)、

という意味もある(たべもの語源辞典)、としている。

また、「浅葱」は、

麦葱、

と当てて、

あさつき、

と訓ませる(仝上)。また、「浅葱」は、

千本分葱(せんぼんわけぎ)、

と当て、「千本」を、

ちもと、

と訓み、

せんぶぎ、

ともいう(仝上)。ただ、「分葱」(わけぎ)は、タマネギに似た球根性多年草であり、

ワケネギ(分け葱)、

とは別で、

ネギとタマネギの雑種または独立種として分類される、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B1%E3%82%AE

わけぎ.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2020年07月19日


「葱(ねぎ)」は、古名では「冬葱」「比止毛之」「祢木」とされ、

き、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE、とある。「き」は、

紀、
葱、

をあてる(和名抄)。

「ねぎ」は、また、女房詞では、

一文字、

と呼び、ニラを、韮(にら)の二文字に対して葱(き)の一文字だから、

二文字、

と呼ぶ(枝分れした形が「人」の字に似ているからという説もある)。根が深いので、

根深(ねぶか)、

とも呼んだ(たべもの語源辞典)。東日本では単に「ネギ」と言うと、

成長とともに土を盛上げて陽に当てないようにして作った風味が強く太い、

根深ネギ(長葱・白ネギ)、

を指し、他は「ワケギ」「アサツキ」「万能ネギ」「九条葱」などの固有名で呼んで区別をする。西日本では陽に当てて作った細い葉葱を、

青葱、

と言い、根深ネギは白ネギ、ネブカなどと呼ぶ場合もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE,広辞苑)。蕪村の句に、

易水にねぶか流るる寒さかな、

芭蕉の句に、

ねぎ白く洗ひたてなる寒さかな、

がある(日本語源広辞典)。

古名「き」は、

気(き)の義、気(け)に通ず、其気、薫烈なり、

とあり(大言海)、「気」の、

香(か)、

の意である(仝上)。日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの、

薬味、

として用いられ、

硫化アリルを成分とする特有の辛味と匂いを持つ。匂いが強いことから「葷」の一つ「禁葷食」ともされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE所以である。

ねぎ.jpg


「ねぎ」は、

根を賞するに因りて、根葱(ねぎ)と云ふ、

ということになる(大言海)。

古くはキといわれて、一音であったところから、女房詞でヒトモジ(一文字)とよばれるようになり、これが次第に一般にも広まった。同じころ白くて太い葉鞘に注目したと思われる「ネギ(根葱)」という呼び方も現れる、

とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典には、

ねぎ、

が載り、

ねぶか、

と意味が載る。

土中に深くある根を食べるところから、ネブカ(根深)ともいった、

とある(たべもの語源辞典)。この葉の色から、

浅葱色、

の名がつく。

葱のあさき色、

で、浅黄ではない(たべもの語源辞典)。

「ねぎ」の原産地はシベリア地方とされる。

中国西部に葱嶺(そうれい)という山脈があり、中央アジアのパミール高原が中国ねぎの原産地、

といわれる(仝上)らしい。日本に渡来したのは古く、

神武・応神・仁徳という所期の天皇の御歌にネギが出てくる、

とあり(仝上)、ネギの花の、

擬宝珠(ぎぼし)、
葱坊主(ねぎぼうず)、

は、その形から、

葱帽子(ぎぼし)、

といった。延喜式に葱花形とある。擬宝珠は、この葱帽子に似ているからついたもので、擬宝珠が当て字である、とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:ねぎ
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2020年07月20日

べったら


「べったら」は、

べったら漬の略、

の意である(他に、こんにゃくの味噌田楽を指す意もあるらしいが)。「べったら漬」は、

大根を塩と糠で下漬けをし、麹・砂糖などで漬けたもの、

の意で、

浅漬(あさづけ)、

である(広辞苑)。「浅漬」には、広く、

野菜を糠や薄塩で短時日漬けること、またその漬物、

を指し、

当座漬、
早漬、
一夜漬、
即席漬、

とも言うが、

べったら漬、

をも指す。

べったら漬.jpg


近世、大根漬の一種で、生干しの大根を甘塩であっさり漬けたもの、

を指し、女房詞で、

あさあさ、

京阪では、

あっさり、

東京では、

べったら、

といった(たべもの語源辞典)、とあるが、大言海は、

あさづけ、

を、

京阪にて大根、茄子などの漬物の名、

とあり、守貞謾稿も、

鹽麹に、生大根、生茄子、瓜の類を漬けたるを、京阪にて浅漬と云ひ、

とあり、さらに、大言海は、この「浅漬」は、

東京にては、大阪浅漬と浅漬大根と別つ、

としている。京阪で、「浅漬」といっているものと「浅漬大根」とは別物、ということである。

陰暦10月19日のえびす講の宵宮にべったら市が、日本橋旅籠町、人形町、小伝馬町、通油町にかけてたった。もとは、翌日のえびす講の支度に必要な土製・木製の恵比寿大黒・打出の小槌・かけ鯛・切山椒などを売った市であるが、いつのころからか安くてうまいといわれる浅漬大根を売る店がふえた、

とある(たべもの語源辞典)。織物商人が集まって市を立てていたものに、

周辺の農家でとれるダイコンを麹と飴(あめ)で加工して売り出したのが始まり、

といわれている(日本大百科全書)。浅漬売りは、

いずれも白シャツ紺の腹掛けに向こう鉢巻という威勢のいいいでたちで、町の両側にずらりと店を並べ、粕のべったりついたままの浅漬大根を売った、

とあり(仝上)、その売り子が、

女性客の着物の袖に「べったらだべったらだ」とはやしがら米麹をつけようとして売るのがスタイルだった、

とあるhttps://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/し、また別に、

きれいな着物をきた人たちが、縄でしばった浅漬をぶら下げて帰った。若者たちはたわむれて、わざと「べったら、べったら」といいながら女の着物につけようとする。売り手も「べったらべったら」と呼びながら売った。べったりと麹などが人々につくから、

ともある(たべもの語源辞典)が、いずれにしても、「べったらだべったらだ」とはやしたことから、この市を、

べったら市、

というようになり、べったら市で売られる浅漬を、

べったら漬、

と呼ぶようになった(仝上)らしいが、べったら漬け発祥の例祭の市が、

べったら市、

という名前に変わったのは、明治頃からとされるhttps://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/ので、あくまで、

えびす講、

であった。

この「べったら」の由来には、

べったりの転(広辞苑)、
べちゃべちゃ、べたべた(擬態語)+漬物(日本語源広辞典)、
麹がべたつくところから(擬音語・擬態語辞典)、
麹がべとべとしていることからhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B9%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E6%BC%AC
麹でべたべたしているところから(日本大百科全書)、

等々、大根を漬けた麹の付いている感触からきている、とみるのが妥当のようだ。少し違うが、

大根を薄塩と麹で浅漬けするとき、べったらべったらと手で打ちながら漬けるから、

とする説(たべもの語源辞典)、

漬けた大根の表面に漬け床の米麹がベタベタついていたから、

とする説https://agri.mynavi.jp/2017_10_24_9154/もある。

大根のおいしくなるのが冬なので、陰暦のこの時期はおいしかったが、明治以降陽暦で催すので、

本来のうまさは味わえない、

ともある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

浅漬は大根を塩に糀(こうじ)を混ぜて漬け、50日ばかりで出した、

とある(たべもの語源辞典)が、

ダイコンは皮の筋目が残らないよう厚く皮をむき、塩で下漬けしたあと麹で本漬けにする。麹はぬるま湯で溶いて保温し、固めの甘酒にして用いると甘味が強くなる。下漬けしたダイコンは麹、砂糖をふりかけながら漬け込み、重石(おもし)をする。5日目くらいから食べられ、15日くらいが食べごろ、

ともある(日本大百科全書)。これを、

浅漬大根、

と呼ぶのは東京で、そのため、べったら市には、

関西の品もきた。浅漬大根を関西地方ではべったら漬といったので、これが江戸に入った、

という説もある(たべもの語源辞典)。大言海には、べったら市にて売る浅漬大根を、

関西地方にてはべったらづけなどと云ふ、

とあり、江戸では、

浅漬大根、

というのが本来のようだから、

関西由来、

という説には一理ある。大言海によれば、べったら市は、

くされ市、

とも言い、

元は専ら、掛鯛を売りしなるべし、遠く伊勢より來る鹽鯛にて、周期れば腐れと云ふ、

とある。江戸語大辞典にも、

夷講で蛭子神を祭るに必要な小宮・神棚・三方・小桶・俎板の類、また神前に供える掛鯛などを売る。この掛鯛が、もと伊勢から来たもので臭気があったので、この称がある、

とある。「蛭子神」は、『古事記』の国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神、子作りの際に女神であるイザナミから先に男神のイザナギに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流された、

のを指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%B3。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。

『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い、

とある(仝上)。えびす講の「祭神」である。「掛鯛」というのは、

正月あるいは恵比須講に小ダイを二尾腹合わせにして、口と鰓に藁を通して結び、神棚の前または下に掛ける、

ことをいう(季語・季題辞典)。

こう考えると、「べったら」が、関西由来の言葉というのは、あながち的外れではないのかもしれない。

「えびす講」は、江戸時代の、

宝田恵比寿神社例祭の市に遡る、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B9%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E6%BC%AC。その由来は、馬込勘解由の碑http://www.viva-edo.com/kinenhi/nihonbasi/bettara.htmlに、詳しいが、宝田神社は、

慶長十一年(1606)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在鳥居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引率して此の地集団移転をしたのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至った、

とあるhttps://www.nihonbashi-edoya.co.jp/bettara/history.html。そして、

宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日の「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます、

と(仝上)。守貞謾稿には、

十月十九日夜江戸大伝馬町、腐市、

とある(江戸語大辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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posted by Toshi at 03:54| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする