2020年07月21日

たくあん


「たくあん」は、訛って、

たくわん、

とも言い、

沢庵、

と当てる。江戸初期の臨済宗の僧、澤庵宗彭(たくあんそうほう)のそれではなく、

沢庵漬、

の「たくあん」である。

干した大根を糠と塩とで漬けて重石(おもし)でおしたもの、

の意である(広辞苑)。「たくあん漬け」の呼び名は関東から発生したもので、京都では、

辛漬(からづけ)、

九州では、

百本漬(ひゃっぽんづけ)、

と称する、とあるhttps://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/01a.html

沢庵漬け.jpg


この「たくあん」の由来に、沢庵和尚が絡んでくる。諸説あるが、

沢庵宗彭が創建した東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし』と言った」と伝えられるが、東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ、

と、沢庵創案とする説がある(広辞苑・日本語源広辞典・大言海)。本朝食鑑(1697)には、

香物…有百本漬者、……或称沢庵漬、

とあり、沢庵漬を百本漬の異称とし、沢庵和尚の在住した大徳寺から広まったところからの名称であるとしている(日本語源大辞典)。ちなみに、「百本漬」は、

大根百本が酒の四斗樽ひとつにおさまる量である、

ところから呼ばれたが、料理塩梅集(1668)の「大根百本漬」と「料理綱目調味抄」(1730)の「沢庵漬」の製法は糠・塩・麹の比率まで同じで、百本漬と沢庵漬とが同じものをさす(仝上)、と思われる。

沢庵創案については、当時も議論の対象になった由で、「物類称呼」(1775)は、

今按に、武州品川東海寺開山沢庵禅師制し給ふ、依て沢庵漬と称するといひつたふ、貯漬(たくはへづけ)といふ説有、是をとらず、又彼寺にて沢庵漬と唱へず、百本漬と呼也、

として、沢庵創案説を否定している。

沢庵と関わらせる説には、他にも、

沢庵和尚の墓(無縫塔)の形状が大根漬の圧石の形状に似ていたから(書言字考節用集)、
沢庵和尚の墓の形が大根漬の形に似ていたから(俗語考・すらんぐ=暉峻康隆)、

等々もある。俗語考(1841)には、

(沢庵)和尚の墓一個の圓石にして、其石の形、大根の香の物に似たり、故に粉の渾名をおふせたるが、和尚の名とともに世に広くひろまりたる也、

とある。沢庵説については否定説が多いが、

「沢庵」のような食べ物は、既に平安時代から作られていたとされ、沢庵和尚の説を否定されることもあるが、米ぬかが普及したのは江戸初期のため、一般に普及した際、沢庵和尚が何らかの形で関わっていたとも考えられる。また、「貯え漬け」や「じゃくあん」が音変化した後、沢庵和尚と関連付けられて「沢庵」の字が当てられたとも考えられ、どちらが先であるか不明である、

とみる見方もある(語源由来辞典)。しかし、たべもの語源辞典は、「たくあん」は、

沢庵(1573~1645)が生まれる前からあったもので、沢庵が発明したというのは間違いである、

と明確に否定したうえで、

塩糠で乾大根を漬けたものを京阪では「香の物」とか「香々(こうこう)」とのみいい、それを江戸で沢庵漬といった。要するに、沢庵漬という呼び名は関東だけで他国には通じなかった。沢庵の「沢」は、うるおう、めぐみ、まじりけなし、つやつや、などの意味があり、「たく」とか「じゃく」とよむ。「庵」には、こじんまりと閉じこもることで、「いおる」(庵る)という。「いおり」には、落ち着く、沈む、耽るという意味がある。九州では、味噌や漬物は、かやぶきの庵に貯えて、塩むしろをかぶせて大切に保存していた。「じゃくわん」(沢庵)というのは、大根に限らず、すべて糠と塩で漬け込んだものをいい、「じゃかん」とも言った。京都の辛漬、九州の百本漬は、沢庵(じゃくあん)ともいった、

とし、

じゃくあん→じゃかん→(「沢庵」の訓みから)→たくあん→たくわん、

と転訛した、とする。一応この転訛説は説得力がある。

「たくあん」の由来については、確かに、

「混じり気のないもの」という意味の「じゃくあん漬け」の転訛(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E6%BC%AC%E3%81%91、語源由来辞典)、
「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じた(袂草・日本語源広辞典・大言海)、

と同趣の説があり「たくあん」は主に関東で使われていた呼び名で、西日本では「百本漬」や「香の物」と呼んでいたため、

じゃくあん(漬)、

は「沢庵(漬)」の転訛とする見方はある(語源由来辞典)。ただ、保存漬であるから、

貯え漬け、

が転訛して「沢庵漬」となった、とする説はたべもの語源辞典が否定している。また、その他、

比叡山には元三大師こと慈恵大師良源(912年-985年)が平安時代に考案したとされる「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物が伝えられており、これを沢庵漬けの始祖とする説(司馬遼太郎『街道をゆく16 叡山の諸道』)もある。これは丸干しした大根を塩と藁で重ね漬けにしたものであったとされるが、現在「定心房たくあん」として販売されているものは一般的な糠漬けの沢庵である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E5%BA%B5%E6%BC%AC%E3%81%91

糠が江戸初期以降としても、塩や麹によるものは既にあったと思われる。だが、

江戸時代の初期に白米を食べるようになったことから、その副産物として生まれる糠を用いることで、広く普及するようになった、

と言われるhttp://www.kyuchan.co.jp/takuan/のは確かで、ただ、なぜそれに沢庵和尚が結びつけられたのは、転訛の過程で、

沢庵、

と同じ字の「沢庵」和尚か付会されたにすぎない気がする。

なお、沢庵の主な生産地は九州や関東で、それぞれの産地で製法や味覚は若干異なり、ひとつは、

「干した大根を漬け込む」方法。天日で干して大根の水分量を調整し、歯ごたえや甘味を引き出してから漬け込む昔ながらの製法、

があり、いまひとつは、

「大根を塩押ししてから漬け込む」方法。収穫した大根を塩分によって脱水して旨味を引き出してから漬け込んでいく製法、

後者から生まれる沢庵はソフトな食感で現代の食生活に溶け込んでいる、とある(仝上)。

たくあんの漬け込み.jpg

(たくあんの漬け込み 「尾張名所図会(1844年)」 たべもの語源辞典より)

なお、「ぬか」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460643894.htmlについては、すでに触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月22日

おしんこ


「おしんこ」は、

御新香、

と当てる(広辞苑)。

しんこ、

の意である。

新香、

しんこうの約、

である。

新しい香の物、

つまり、

新着け、

の意である。「しんこう(新香)」「おしんこう(御新香)」「おしんこ」は、

かつては新鮮な野菜の色を失わない浅漬けの物、

を指したがが、今日、

漬物、

の意で用いる。多く、関西では

かうかう、
かうこ、
おかうこ、

は、今日、

沢庵漬、

を指し(大言海)、「おしんこ」も、

沢庵漬け、

をさすことが多い、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9

「漬物」を、

こうこう(香々)、
おこうこう(御香々)、
こうのもの(香の物)、

等々と呼ぶのは、

こうのもの(香の物)、

からきている(仝上)。

「香の物」の「香」は、

味噌、

を指す(江戸語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9・大言海・大日本国語辞典・碩鼠漫筆等々)、とする意見が大勢だが、たべもの語源辞典は、それを否定し、

においがたかいものということで香物とよぶ。奈良時代に漬物がはじまる。香(か)は気甘(きあま)、あましは、あーうましの意である。香物は、うまいにおいをもったたべものの意。大根・瓜など味噌の中につけて味噌の香気をうつしたので香物という説があるが、味噌だけでなく、塩・味噌・酒粕などに漬けた蔬菜でにおいのあるものを香物という、

とする。確かに一理あり、味噌だけではない気がするが、「味噌」を、女房詞で、

香、

と呼んだことは確かで、室町時代の大上臈御名之事には、

女房詞、汁のしたりのミソを、カウの水と云ふ、

とあり(大言海)、江戸初期の慶長見聞集には、

凡そ味噌と云ふことを香と云ふ、みそは、一切の物に染みて匂ひよく、味よき故に、香と名づけたり、

とある。また、雍州府志(1684)によると、

木芽漬はアケビ,スイカズラ,マタタビなどの新芽を細かく切って塩漬にしたもの,烏頭布漬はいろいろな植物の新芽をとりまぜて塩漬にしたものであった。室町期には,香(こう)の物,奈良漬といったことばが現れてくる。前者は,みその異名を〈香(こう)〉というところから,本来はみそ漬をいったことばだとされる、

とある(世界大百科事典)。ただ、だから、香の物が、

味噌漬、

の代名詞だったかどうかまでははっきりしない。岩波古語辞典は、

野菜を味噌・酒粕・糠・塩などで漬けた、

とある。糠は「沢庵」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476431744.html?1595271605で触れたように、米ぬかが普及したのは江戸初期だが、必ずしも味噌だけではないのではあるまいか。だから、

香りのするもの(香+の+物)(日本語源広辞典)、
カウは香々の略か(於路加於比)、
カウ(糠)の物か(和句解)、
香を判別するには、漬物の匂をかぐことによって香の混同を防ぐことが出来ることから、漬物を香の物という(四方の硯・孝経楼漫筆)、

等々、「香り」由来とする説が多いが、味噌のみに限定する必要はなさそうに思うのだが。

ぬか漬け.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年07月23日

糠喜び


「糠(ぬか)喜び」は、

当てが外れて、喜びが無駄になる、
また、
そのような束の間の喜び、

の意味である(広辞苑)。

小糠(こぬか)祝い、

という皮肉な言い回しもする。

糠+喜び、

で、

喜びの抜け殻、

からきているという解釈がある(日本語源広辞典)。これは、米を精製する時に出来る「糠」が、

その形から細かい、とかちっぽけなといった意味で用いられるようになり、さらに「はかないもの」という意味になり、さらに、一瞬の短い間の喜びをそのように表現するようになった(由来・語源辞典)、

その形状から,近世頃より「細かい」「ちっぽけな」といった意味で用いられるようになり,「糠雨(ぬかあめ)」や「糠星(ぬかぼし)」という言葉にも使われている。さらに、「糠」が「小さい」の意味から派生し,「はかない」「頼りない」などの意味を持つようになり,はかない喜びをいうようになった(語源由来辞典)

という解釈と同じである。

これは、「糠」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460643894.htmlで触れたように、和名抄に、

糠 米皮也、

とあるように、玄米が皮を 覆った米とするならば、精米は皮が脱がされたもので、糠は脱がされた皮にあたり、

「脱皮(ぬけがは)の略と云ふ」(箋注和名抄・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子。国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、
ヌギカハの略(本朝辞源=宇田甘冥)
米のヌケガラの義(和句解・日本釈名),

と概ね「ヌケカワ」説であり、

ヌ(脱ぐ)+カ(皮),

としていることによる、と思われる。

大言海は、「糠喜び」の項で、

糠に釘、利目(ききめ)なき意か、

とまったく別の解釈をしている。

「糠に釘」は、

糠に釘を打つ、

とも言い、

手応えなく効き目のないことのたとえ、
意見しても効果のないことなどにいう、

とある(広辞苑)。その意味では、手応えのない、

空振り、

という意味では、

糠に釘、

糠喜び、

も、同義だといえばいえる。大言海に、「糠喜び」の意味は、

悦ばしき事の来たらむと。喜びたる甲斐もなく、事の予想に反したること、

とある。しかし、

手応えのない、

空振り、

と、

ホームラン(ではないまでも、ヒット)、

と感じた、

糠喜び、

とでは、結果はともかく、手応えにおいて、少し意味の範囲はずれるのではあるまいか。だから、

小糠祝い、

という言い回しが生きてくる。「小糠」は、

粉糠、

とも当てる。

米を搗くとき表皮の細かく砕けて生ずる粉末、

つまり、

糠、

と同じである。僕には、その儚さは、

精米するときの飛び散るイメージ、

に思える。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年07月24日

糠味噌漬


「糠味噌漬」は、

糠味噌に漬けた漬物、

の意で(広辞苑)、

塩糠に生大根・生茄子・生瓜を漬けたもの、

とあり(江戸語大辞典)、守貞謾稿には、

京阪にては浅漬と云、江戸にては糠味噌漬と云、

とある。

どぶつけ(溝漬)、
ぬかづけ(糠漬)、

ともいう(大言海)が、「糠漬け(ぬかづけ)」は、

乳酸菌発酵させて作った糠床(ぬかどこ)の中に野菜などを漬け込んで作る糠味噌漬け(ぬかみそづけ)、どぶ漬け、どぼ漬けとも呼ばれるもの、

と、

大根を漬けた沢庵や糠ニシン、糠サンマのように材料に塩と糠をまぶして漬けたもの、

の双方を呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91ともあり、「糠漬」の概念の方が広く、厳密には、

米ぬか・塩・水を混ぜ、乳酸発酵させて作ったぬかみその漬け床(ぬか床)に野菜などを漬け込むこと、

をいう(世界の料理がわかる辞典)のだろう。

漬物屋店頭の糠漬け.jpg

(漬物屋店頭の糠漬け https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91より)

糠床で作る糠漬けでは、一般に胡瓜、茄子、大根といった水分が多い野菜を漬け込むことが多い。このほかにも肉、魚、ゆで卵、蒟蒻など多様な食材が利用される。あまり漬かっていないものは「浅漬け」「一夜漬け」と呼ばれ、長く漬かったものは「古漬け」「ひね漬け」などと呼ばれる(仝上)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91

「糠味噌漬」は、

糠に鹽を混ぜ、麹などを加えたりして、桶に貯えておき、これに蔬菜などをつけて香の物にするのが糠漬、

である(たべもの語源辞典)。「糠漬」を、

糠味噌漬、

と呼んだのは、

古くは味噌としてつくった、

からである(仝上)。

糂粏(じんだ)味噌、
じんだ、
ささじん(酒糂)、

などといい、糠味噌を汁にして食べたからである。これを、

糠味噌、

と呼んだが、後に、糠漬を、

糠味噌、

というようになった(仝上)、とある

貞丈雑記(1784頃)に、

甚太味噌はぬかみその事なり。味噌の作り様に米の糠を入て作るみそあり。その事也、

とある(精選版日本国語大辞典)。「糂粏(味噌)」は、

五斗味噌、
後藤味噌、

をも指し、

大豆・糠ぬか・米麴こめこうじ・酒粕さけかす・塩をそれぞれ一斗ずつ混ぜて熟成させた味噌、

を指す(大辞林)。

糂汰の「糂」はサン、慣用音がジンである。糂は糝と同じである。糝(こながき)は羹に米の粉を混ぜて煮立てたものである。糂粏・糂汰・糝汰とも書く。いずれも「ぬかみそ」のことである、

とある(たべもの語源辞典)。「羹」は「羊羹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.htmlで触れた。


平城京跡から出土した木簡に記された須須保利(すずほり)という漬物は、臼で挽いた穀類や大豆を塩と混ぜて床にした。現存はしないが、糠漬けの原型と推測されている。現在の形の糠漬けが出来たのは、江戸時代初期と言われている。須須保利の穀類・大豆の代わりに、精米の際に出る米糠を使った、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%BC%AC%E3%81%91。糠に含まれる豊富な栄養を除いた白米に偏重した食事は脚気をもたらし、「江戸患い」と呼ばれた。漬け込みの過程で糠のビタミンB1が野菜に吸収されるため、糠漬けを副食とすることである程度、脚気を防ぐ効果があったと考えられている(仝上)、とある。。

ぬか漬け.jpg


なお、「糠」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460643894.html、「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.html、については、すでに触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:糠味噌漬
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2020年07月25日


「麹」は、酒さけ・味噌・醤油などに加工するため、

米こめ・麦むぎ・大豆といった穀類を蒸したものに、コウジカビなどの発酵に有効な黴かびを中心にした微生物を繁殖させたもの、

の意であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%98

「麹」(キク)は、

会意兼形声。「麥+音符掬(キク 掬手で丸く握る)の略体」。ふかした麦や豆を丸くにぎったみそ玉、

とある(漢字源)。「糀」(こうじ)は、国字。

会意。「米+花」・蒸し米の上に、花が咲いているように繁殖することを表す、

とある(仝上)。

糀の字をも用ゐるは、米花(黴)の合字、

とある(大言海)。

麹菌.jpg


「かもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464017690.htmlで触れたように、「麹」「糀」両字の区別は,意味上ないが,

「糀」:米を醸造して作った物
「麹」:大豆・麦を醸造して作った物
「こうじ」を醸造するための元になる菌(種)のことも「麹」の漢字を使用しています。

と,ある味噌屋のサイトでは区別していたhttp://www.izuya.jp/daijiten/kouji-a_5.html。古くから利用されているのは、

黄麹、

で、

味噌、醤油、日本酒、酢、味醂などを醸す代表的な菌種、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9

和語「こうじ」の語源は、

かびだち(黴立ち)→かむだち→かうだち→かうぢ(大言海・日本紀和歌略註・類聚名物考・箋注和名抄・名言通・音幻論=幸田露伴)・日本語源広辞典、

とするのが多数派である。確かに、平安中期の倭名抄(和名類聚抄)に、

麹、加無太知、

とあり、平安末期の類聚名義抄にも、

麹、カムタチ・カムダチ、

とあるが、しかし、

カビダチ(黴立)→カムダチ→カウダチ→カウヂと音韻変化した説が有力。中世の古字書にはカウジしかみられず、「ヂ」の仮名遣いに疑問の声もある(語源由来辞典)、
類聚名義抄などに「麹」を「カビダチ」(黴立ち)と訓ずるのに拠り、この転訛(カビダチ>カウヂ>コージ)とする説もあるが、このような変化は不規則であることに加え、「ヂ」で終わる語形は実際には確認されていないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9

等々とする見方があり、断定しがたい。漢字側からは、

麹子(きくし)が訛って「コウジ」となり、日本語化した(漢字源)、

との見方があるが、

応神天皇のころ朝鮮から須須許理(すずこり)という者が渡来して,酒蔵法を伝えて,麹カビを繁殖させることを伝えた、

とある(たべもの語源辞典)ので,この説にも説得力がある。ただ、

かもす(醸す)の連用形「かもし」が、ウ音便化により、カモシ>カウジ>コージと、転訛した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%B9・語源由来辞典)、
カムシの転(語簏)、
口の中で噛んでつくったものであるから、カムダチである。カムダチ(醸立)がカムチとよばれ、コウヂとなった(たべもの語源辞典)、

とする説も、一応の説得力がある。特に、たべもの語源辞典の説は、

カビダチ→カムダチ→カウダチ→カウヂ、

の転訛ではなく、

カムダチ(醸立)→カムチ→カウヂ、

と、「醸す」を出発点とする考え方になる。

「かもす」は,

醸す,

と当てるが,古語は,

か(醸)む,

である(岩波古語辞典)。

もと,米などを噛んで作ったことから、

であり(仝上)、

カム(醸)は,口で噛むという古代醸造法、

らしい(大言海)。字鏡には

醸,造酒也、佐計加无、

名義抄(類聚名義抄)には、

醸、カム、サケカム、サケツクル、カモス、

とある。しかし、これは、

カム(噛む)はカム(嚼)に転義して食物を噛み砕くことをいう。米を噛んで酒をつくったことからカム(醸む)の語が生まれた。〈すすこりがカミし神酒にわれ酔ひにけり〉(古事記)。(中略)酒を造りこむことをカミナス(噛み成す)といったのがカミナス(醸み成す)に転義した。カミナスは,ミナ[m(in)a]の縮約で,カマス・カモス(醸す)になった、

と(日本語の語源)いうように,あくまで、

醸造の方法、

を指していて、これ自体は、「麹」の由来の説明にはなりそうもない気がする。それに,「かも(醸)す」という言葉から,それの原因になる「麹」を抽象化するほどの語彙力を、われわれはもたなかったのではないか、という気がしてならない。その意味では,「かもす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464017690.htmlで触れたことと同じく、やはり、

麹子(きくし)→こうじ,

の転訛が捨てがたい。

なお、「酒」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.html、「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.html、「醤油」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.html、については触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月26日

福神漬


「福神漬」は、

漬物の一種で、大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・白瓜・蓮根・生薑・紫蘇の実など七種の野菜を塩漬けにしたものを細かく刻み、塩抜きをしたのち圧搾して、砂糖・醬油などに漬け込んだもの、

であり(広辞苑)、

七種の材料を用いたことから、七福神にちなんで命名した、

とある(大辞林)。七種の具は、

大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・白瓜・蓮根・生薑・紫蘇の実(広辞苑)、
大根・なす・かぶ・なた豆・しその実・うり・れんこんなど7種類(世界の料理がわかる辞典)、
茄子・瓜・生薑・紫蘇・刀豆(なたまめ)・小蕪の出盛りのものに、乾大根を加へ(大言海)、
ダイコン、ナス、カブ、ナタマメ、ウド、シイタケ、シソの実、ショウガ、タケノコ、ニンジン、蓮根などを適宜(日本大百科全書)、
大根・ナス・ナタマメ・蓮根・胡瓜・シソの実・椎茸等https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC
大根・茄子・鉈豆(なたまめ)・蓮根・生姜・紫蘇の実・筍(語源由来辞典)、
茄子・蕪・大根・なた豆・紫蘇の実・うど・筍・蓮(たべもの語源辞典)

と、それぞれ微妙に違うが。

福神漬.jpg


由来については、

寛文12年(1672年)、出羽国雄勝郡八幡村(現・秋田県湯沢市)出身の了翁道覚が、上野寛永寺に勧学寮を建立した。勧学寮では寮生に食事が出され、おかずとしては、了翁が考案したといわれる漬物が出された。ダイコン、ナス、キュウリなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし「福神漬」と命名、巷間に広まった、

とする説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%ACと、

明治時代初頭、東京・上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門が開発し、自分の経営する茶店で売り出したところ評判となり、日本全国に広まった。名づけ親は、これを大いに気に入った当時の流行作家「梅亭金鵞」で、「ご飯のお供にこれさえあれば他におかずは要らず、食費が抑えられ金が貯まる(=家に七福神がやってきたかのような幸福感)」という解釈で、7種類の野菜を使用し店が上野不忍池の弁才天近くにあった事から「福神漬」と命名されたとされ、日暮里の浄光寺に表彰碑が存在する。また、この名称が広がる事を願った清右衛門は、商標登録をしなかった、

とする説(仝上)がある。碑は現在でも、

西日暮里の淨光寺に「福神漬発明者野田清右衛門表彰碑」、

として現存しているhttps://pando.club/post-1604、という。一般には、後者が大勢で、発案者は初代野田清右衛門、とするのは、たべもの語源辞典で、こう記している。

清右衛門は伊勢山田の出身で、延宝三年(1675)に江戸に出て山田屋を名乗り、東海地方から乾物を引いて業とし、初めは本郷元町に店を構えたが、後、上野に移った。その店は香煎(こうせん)屋といわれた。江戸末期の大名・旗本屋敷などでは縁起をかついで茶を用いない風習があったが、町家の人々もこれにかぶれて婚礼などの祝儀には茶は仏事のものとして嫌がった。今日でも結婚式に桜湯を飲んでいるのはその名残りである。香煎屋は、神仏両用のものを売るが、一般に茶の代用品としては山椒や紫蘇の実などの塩漬けに白湯をさして飲んでいた。山田屋は東叡山輪王寺の御門跡の宮様に出入りしていたので、「酒悦」の屋号を賜って江戸名店の一つになった。そして清右衛門は、茄子・蕪・大根・なた豆・紫蘇の実・うど・筍・蓮などを細かく刻んで、味噌醤油で下漬けをしてから、水飴などを加えて再び煮詰めた味噌醤油に漬け込んだ新製品をつくりだした。それを小石川指ガ谷町に住む梅亭という趣味人のところへ持っていき、試食してもらった、

と。で梅亭が、「酒悦は不忍池の弁財天に近いから七福神に見立てて『福神漬』と命名し、その材料も七種にするとよい」と教え、「この漬物を常用するときは、他に副食はなくても済むから贅沢をせず、知らず知らずに財宝がたまって福が舞い込む」と書いて引札をつけるとよいと勧められた、とある(仝上)。それが明治18年(1885)、という。このために、10年以上かけた、ともあるhttps://pando.club/post-1604

命名の謂れについては、別に、この「漬物」を、

明治19年(1886)上野公園に日本釈名水産会第一回品評会が開かれた時、会の幹部のものが試食して「これは着想もよし味もよいから」と、会場の売店に出品販売させ、初めて命名された、

ともある(たべもの語源辞典)。二説のいずれとも決めかねるが、もともとあったものに清右衛門が、工夫を加えたものなのかもしれない。なお、カレーライスの定番となったについては、

大正時代(1902、1903年説あり)に日本郵船の欧州航路客船で、一等船客にカレーライスを供する際に添えられたのが最初であり、それが日本中に広まったとされる。福神漬が赤くなったのは、インドカレーの添え物であるチャツネに倣ったという、

説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E6%BC%AC由で、

昭和初期、軍隊で支給された缶詰の福神漬は砂糖で甘く味つけされており、人気を得るに至った。これを故郷に持ち帰った将兵により甘口の福神漬は全国に広まることになる、という(仝上)。

因みに、「福神」とは、

財物にめぐまれるしあわせを授ける神、

いわゆる、

福の神、

で、福をもたらすとして日本で信仰されているのは、

七柱の神、

である。つまり、一般的には、

恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天、

とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている、とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:福神漬
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2020年07月27日

無名之師


中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』を読む。

秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役.jpg


本書は、所謂、文禄・慶長の役の、

天正20年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役、

を描く。通常文禄の役、というが、文禄元年への改元は12月8日に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどは、厳密にいえば天正20年の出来事になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9らしい。

著者は、

「私の祖父は唐津藩御用窯の最後の御用碗師であった。文禄、慶長の役で唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高によって連行されて来た朝鮮陶工又七(トウチル)が私たちの祖先にあたる」

いわば、略奪連行された朝鮮の人たちは、

薩摩藩だけで三万七千人、

といわれる途方もない数である。特に陶工の連行は、ために朝鮮の生産は衰微したといわれるほどの惨状となり、逆に有田焼、唐津焼といわれるものは、拉致してきた朝鮮人の手に始められたものである。その子孫の著作であることには、ちょっと感慨がある。ただ、問題意識が、侵略した日本軍の行状にあるのか、現地の人々の惨状にあるのか、焦点が定まらず、時系列に、日本軍の経路に合わせて叙述していく方式は、もう少し工夫があってよかったのではないか、という憾みがある。

この朝鮮侵略は、まさに、

無名之師、

である。「無名の師」とは、

おこす名分のない戦争、

の意であり、特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%B8%AB。後漢書・袁紹劉表列伝に、

曹操法令既行、士卒精練、非公孫瓚坐受圍者也。今棄萬安之術、而興無名之師、竊為公懼之

とある。

名分の無い戦争、

である。

無名之兵(三国志・魏書)、

とも書く。まさに、秀吉の朝鮮出兵は、「無名之師」そのものであった。

秀吉の妄想とも言うべき、

唐入り、

という構想から、

ただ佳名を三国(日本、明、天竺)に顕さんのみ、

という朝鮮王への手紙にある、途方もない妄想の実現を目指すのである。そのために、朝鮮は、

仮道(途)入明、

つまり、

秀吉は朝鮮にみずからのもとに服属し、明征服の先導をするよう命じ、

それに応じないことを理由として、四月先手勢の小西行長軍は、釜山城を攻撃する。こうして、翌年まで続く戦争が始まるが、初期の快進撃は、朝鮮軍のゲリラ戦、李舜臣率いる朝鮮水軍による敗北、明軍の参戦などによって、補給線を断たれ、寒気と食料不足に悩まされた日本軍は、南部へ後退、恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、日本・明講和交渉が始まったところで、文禄の役は終わる。

しかし、十五万余の渡海軍は、翌年には、七万四千余人の減員となっている。特に、先手勢の小西軍は、一万八千が、六千余に減っているし、加藤・鍋島勢も、二万二千から一万一千に減っている、という惨憺たるありさまである。もちろん、この減員は、戦国時代の軍隊が、

かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、

という(藤井久志)編成から見て、雑兵の中には,侍(若党,悴者は名字を持つ)と武家の奉公人(下人)もいるが、人夫として動員された百姓が多数混在している。この構成の中で、多く、弱い立場のものが一番しわ寄せを受け、主従のつながりを持たぬ人夫たちの多くは逃亡している可能性があるので、すべてが戦病死者というわけではないが、その消耗はすさまじい。それにしても、異国の厳冬のさなか、どう生き延びたのだろうか。

本書は、時系列に追うために、こうした兵員各層の実像に迫りきれておらず、そのあたりも、事件を概括しているだけの恨みが残る。

それにしても、秀吉の朝鮮、明を侮る姿勢は、滑稽というよりも悲惨である。しかし、その姿勢は、西郷の征韓論、明治政府の朝鮮併合にまで、通奏低音のように続き、今日もまだ、どこかにいわれなき朝鮮蔑視が続くのが、やりきれない。

それで思い出すのは、西郷の征韓論に抗議、自裁した薩摩藩士横山安武(森有礼の兄)のことを思い出す。これについては、「異議」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163562.htmlでも触れた。

横山安武の抗議の建白書は、こう書く。安武の満腔の思いがある。全文を載せる。

朝鮮征伐の議、草莽の間、盛んに主張する由、畢竟、皇国の委糜不振を慷慨するの余、斯く憤慨論を発すと見えたり、然れ共兵を起すに名あり、議り、殊に海外に対し、一度名義を失するに至っては、大勝利を得るとも天下萬世の誹謗を免るべからず、兵法に己を知り彼を知ると言ふことあり、今朝鮮の事は姑らく我国の情実を察するに諸民は飢渇困窮に迫り、政令は鎖細の枝葉のみにて根本は今に不定、何事も名目虚飾のみにて実効の立所甚だ薄く、一新とは口に称すれど、一新の徳化は毫も見えず、萬民汲々として隠に土崩の兆しあり、若し我国勢、充実盛大ならば区々の朝鮮豈能く非礼を我に加へんや慮此に出でず、只朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師を興し、萬一蹉跌あらば、天下億兆何と言わん、蝦夷の開拓さへも土民の怨みを受くること多し。
且朝鮮近年屡々外国と接戦し、顧る兵事に慣るると聞く、然らば文禄の時勢とは同日の論にあらず、秀吉の威力を以てすら尚数年の力を費やす、今佐田某(白茅のこと)輩所言の如き、朝鮮を掌中に運さんとす、欺己、欺人、国事を以て戯とするは、此等の言を言ふなるべし、今日の急務は、先づ、綱紀を建て政令を一にし、信を天下に示し、万民を安堵せしむるにあり、姑く蕭墻以外の変を図るべし、豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや。

朝鮮を小国と見侮り、妄りに無名の師、

を起こした延長線上に、日清戦争があり、日露戦争があり、その権益を守るための太平洋戦争がある。この建白書は、現代日本をも鋭く刺し突く槍である。いまなお、嫌韓、ヘイトの対象にして、言われなく他国を侮蔑する者への、無言の刃である。

釜山鎮の戦い(1592年).jpg

(文禄の役『釜山鎮殉節図』。密集しているのは上陸した日本の軍船 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9より)

しかし、「通底」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451581100.htmlで触れたように、

「中国に倣った中華思想を基軸に据え」た大宝律令が完成した大宝元年(701)の元日,

「文武天皇は大極殿に出御し,朝賀を受けた。その眼前には前年新羅から遣わされた『蕃夷の使者』も左右に列立した。」

という。この中華思想「東夷の小帝国」意識は,

「日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが,朝鮮諸国よりは上位に位置し,蕃国を支配する小帝国」

を主張するというものだ。それと同時に,

「朝鮮半島諸国に対する敵国観も,日本人の意識の奥底に深く刻まれた。もともと,交戦国であった高句麗や新羅に対する敵国視は古い時代から存在していたのであるが,(中略)その後新羅に替わって半島を統一した高麗は高句麗の後継者と自称したが,日本ではこれを新羅の後継者と見なした。そして新羅に対する敵国視もまた,高麗に対しても継承させたのである。」

この対朝鮮観の根深さは,ちょっと衝撃的である。われわれの夜郎自大ぶりには,われわれの1500年に及ぶ年季が入っているのである。この根の深さは、深刻である。

参考文献;
中里紀元『秀吉の朝鮮侵攻と民衆・文禄の役』(文献出版)
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書)
倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月28日

ナタマメ


福神漬http://ppnetwork.seesaa.net/article/476510300.html?1595704097の材料になることで知られる、

「ナタマメ」は、

鉈豆、

と当てる。

刀豆(トウズ、タチマメ、ナタマメ)、
帯刀(タテハキ)、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A1。日本には江戸時代初頭に清から伝わった。約25cmほどの豆果を結ぶ。以前から漢方薬として知られている、とある(仝上)。また「ジャックと豆の木」のモデルともいわれる。

マメ科1年草としては最大級の植物で、丈は5メートル以上、サヤも40~60センチまで大きく太く成長します。サヤの中の種子も3センチ程の楕円形の大きさになります。大きなマメとしてなじみのあるソラマメが約2センチですから、それよりもひとまわり大きな豆です、

とあるhttp://www.yoshitome.co.jp/natamame/。その大きさは、

熱帯アジア原産、

といわれる(広辞苑)と納得できる。九州地方、とくに鹿児島に栽培が定着した、とある(仝上)。

福神漬には、

ナタマメの未熟な莢を薄くむ小口きりにしたものが入っている、

という(たべもの語源辞典)

ナタマメ.jpg


「農業全書」(1696年)の中で「刀豆」として記載されている(仝上)。

サヤの形が、刀や刃物のなたに似ている、

から「刀豆」と表記され「なたまめ」と呼ばれるようになった、とある(仝上)が、

切ったものも剣に似ているが、サヤ全体の形が刀に似ているから刀豆と書き、また、幅広く厚みがあり鉈に似ているからナタマメといった、

というところだろう(たべもの語源辞典)。別名の「タテワキ(帯刀)」も、

莢の形、

に由来する。「帯刀」(たてわき)は、

たちはき(帯刀)、

といい、

太刀佩(は)きの義、

とある(大言海)ように、

刀を帯びる、

意であり、音便で、

タテアキ、
タテハキ、

とも。

古代、春宮(とうぐう)坊の舎人監(とねりのつかさ)の役人で、皇太子の護衛に当たった武官、舎人の中で武術に優れたものを任じ、特に帯刀させた、

ので、

帯刀舎人、

ともいい、要は、

禁中の滝口、院の北面の如し、

と(大言海)、「侍」と関わることから、とみられる。「ナタマメ」の形から、

延べうちで、平たく短く、鉈豆の莢に似せた形のキセル、

つまり、

鉈豆煙管、

の意でもある。

ナタマメの花は、まず本のほうから末に向かって咲いて、つぎに、ふたたび末から本へ咲き下がって来る、

ので(たべもの語源辞典)、

もとに還る、

という意味で、

旅行・出立の祝いの膳にナタマメを付けるところがあった(仝上)、という。また、

ナタマメ二個をお守りとして持っていれば無事に戻ることが出来る、

というので四国巡礼の人々がこれを持ち歩いた、ともある(仝上)。「ナタマメ」は、

ぐんぐんと勢いよく生長することから、鹿児島では縁起の良い豆、商売繁盛のお守りとして親しまれてきました。また、地方によっては、花が絶え間なく咲くことから子孫繁栄の縁起物として扱われることもある、

らしいhttp://www.yoshitome.co.jp/natamame/

刀豆.jpg

(農業全書((1804))の刀豆 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A1より)

「なたまめ」の薬効としては、

血行促進や免疫力の向上などのさまざまな効果があるほか、昔から排膿(膿を出す)の妙薬と言われており、腎臓に良く、蓄膿症、歯周病や歯槽膿漏の改善、痔ろうなどにも効果がある。他の野菜の病害虫の防止用として周囲に植えられることもある、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A1

白ナタマメは、ナンテンの葉と同じように解毒に効き、のどがはれてつまったとき、ナタマメを粉末にして服用すると治る、

ともある(たべもの語源辞典)。江戸語大辞典には、

鉈豆枳殻(からたち)の気遣い、

という言葉が載り、

癲癇もちにたべさせると発作を起こす、

として、鉈豆をたべさせて、病歴の有無を調べた、ともある。本草網目には、なた豆の効用として、

腎を益し、元を補う、

とあり、

「腎」の機能を高めて、病気に負けない免疫力をもたらす生薬、

とされているらしいhttp://www.wakasanohimitsu.jp/seibun/sword-bean/が、この記述の真偽は確かめられなかった。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ナタマメ
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2020年07月29日

七福神


「七福神」は、一般的には、

恵比寿、
大黒天、
福禄寿、
毘沙門天、
布袋、
寿老人、
弁財天、

の七柱の、

福の神、

つまり、

福をもたらす神、

とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E、大言海他)。

歌川国芳(1798–1861)の浮世絵の七福神。.jpg

(歌川国芳(1798~1861)の七福神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9Eより)

大黒柱http://ppnetwork.seesaa.net/article/473430530.htmlで触れたことがあるが、ヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることは最澄が比叡山で始め、歴史的な経緯はよくわかっていないが、平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こり、平安末期〜鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えた。室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである、とされる(仝上)。東山文化の時代、中国の文化に影響され、『竹林七賢図』に見立てて七福神としたのではないか、とされる(仝上)。

七福神のメンバーが確定したのは江戸時代といわれ、

寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩[が入れられる、

とか、宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたりと、入れ替わりがあったらしい(仝上)。中国には、

八仙(八福神)、

があり、実在の人物(仙人)とされているが、これが七福神の元型ではないかという説もある(仝上)。

七福神の「七」は、仁王般若経にある、

七難即滅(しちなんそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)、

に基づく聖数七に由来する(日本伝奇伝説大辞典)とされているらしい。法華経では、

火難、水難、羅刹(らせつ)難、王難、鬼難、枷鎖(かさ)難、怨賊難、

の七難、仁王般若経では

日月失度難・二十八宿失度難・大火難・大水難・大風難・亢陽(こうよう)難・賊難の、

の七難を消滅すれば、七福が生ずるという信仰である、とされる(仝上)。

しかし、それにしても、

七変化、
七化、
七光、
七難、
七星、
七生、
七転八起、
七宝、
七珍、
七草、

等々、七を付ける言葉は結構ある。なぜ「七」なのだろう。八福神でもいいはずだ。「八」は、末広がりで縁起がいい数字という含意もある。

「七」についての説明に、

10は全部
9はほぼ全部
8は無限とほぼ同じような意味に使われていますが、その一歩手前ということで、多いと言う意味で使われます、

との説明がいくつかあるhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/1798289.htmlhttps://okwave.jp/qa/q1798289.html。七福神もそうだとして、

七不思議、

というように、代表的なものを「七」挙げるという使い方もあるので、必ずしも、

多い、

という含意で使われているとは思えない。ある意味、「七」の列挙で、

凡てを尽くしている、

という含意ではないか。それに、五節句の、

人日(1月7日)
上巳(3月3日)
端午(5月5日)
七夕(7月7日)
重陽(9月9日)

のなかでも、重陽は、漢代には、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となった、とされるほどで、「九」も、

九仞、
九死、

というように、あと一歩という含意でも使われるが、

九曲、
九死、
九折、

等々、

数が多い、

の意で使われている。「九」(漢音キュウ、呉音ク)の字は、

象形。手をまげて引き締める姿を描いたもので、つかえて曲がる意を示す。転じて、一から九までの基数のうち、最後の引き締めにあたる九の数、また指折り数えて、両手で指を全部引き締めようとするとき出てくる九の数を示す。究(奥深く行き詰まって曲がる最後のところ)の音符となる、

とある(漢字源)。「七」(漢音シチ、呉音シツ)は、

指事。縦線を横線で切り止め、端を切り捨てるさまを示す。また、分配するとき、三と四になって、端数を切り捨てねばならないことから、中途半端な印象をもつ數を意味する、

とあり(仝上)、特に、

數が多い、

という意味ではなく、むしろ中途半端な含意の方が強い。

「七」の説明の中で、

中国,文体の一種。押韻した文で,全体が8段から成り,そのうち7つの問答を含むのでこの名がある。内容は人の重んずべき道を説くのを目的としたものが多い。『楚辞』の『七諫』をその源流とし,題名もこれにならってすべて「七」の字で始る2字から成る。前漢の枚乗 (ばいじょう) の『七発』,六朝時代魏の曹植の『七啓』,晋の張協の『七命』などが有名、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)のが唯一だが、これは、「七」の謂れがあって、「七諫」「七命」等々と、「七」でつくしている含意が出てくるので、なぜ「七」の説明にはなっていない。

ここからは、憶説になるが、易経の「八卦」と関わるのではないか、と思う。

昔者聖人の易を作るや、まさにもって性命の理に順わんとす。ここをもって天の道を立つ、曰く陰と陽と。地の道を立つ、曰く剛と柔と。人の道を立つ。曰く仁と義と。三才を兼ねてこれを両にす、

易に太極あり、これ(陰陽の)両儀を生ず、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず、

とある。

天地人、



四象、

つまり、

老陽、
少陽、
老陰、
少陰、

と。八卦のもとは、老陽、少陽、老陰、少陰の四象であり、四象のもとは、陰陽の両儀であり、そして陰陽を統べるものとしての、

太極、

を挙げる。易は、

陰陽二爻を重ねること三にして、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦をなす。これを自然に当てはめれば、

天・沢・水・雷・風・水・山・地、

となる。つまり、

太極、陰陽、老陽、少陽、老陰、少陰の四象、

の七つで、世界を表現している。ここに、「七」の意味の背景があるのではないか。多く、という意味よりは、それで、すべてを尽くす、という含意である。ま、憶説ですが。。。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:七福神
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2020年07月30日

集め汁


「集め汁」とは、

大根・牛蒡(ごぼう)などの野菜や豆腐・串鮑(くしあわび)・干し魚など、種々の材料を取り合わせて煮込んだ味噌汁、またはすまし汁、

の意で、

邪気を払うとして5月5日に食べるもの、

とされた(デジタル大辞泉)、とある。そのため、

五月汁、

とも言い、

現在も鹿児島に残っていて、鯛・大根・牛蒡・椎茸・油揚げなどを味噌汁にして粉山椒をふりこんで食べる、

とある(たべもの語源辞典)。古くは、

骨董(あつめ)汁、

とも当て、

室町時代の礼法をつかさどる小笠原備前守政清が、1504年(永正1)に書いた文書に、すでにその名が出ている、

とある(日本大百科全書)。

あつめ汁.jpg


昔、貴族や武将たちが客人の息災を願ってもてなした集め汁はいわば格上のお味噌汁でした。主人側は遠くから海産物を運ばせたり、空に飛ぶ鳥を撃ち落としたり、山や畑の美味なる食材集めるのに走り回ったわけで、まさにご馳走!

ともありhttps://www.yamabukimiso.jp/post_column、それだけの具材を集めること自体が、確かに馳走であった。

「馳走」とは、文字通り、

走り回ること、

であり、さらに、

もてなしのために奔走すること、

であり、その奔走する意から、

もてなし、

に意に、さらに、

酒食などで饗応する、

へと意が転じた。その意味では、文字通りの「ご馳走」であった。

「集め汁」の由来は、

たくさんの具材を集めるから「集め汁」、

とも、

羹汁(あつものじる)があつめ汁になった、

とも、

羹汁の熱い汁ものが集め汁になった、

と諸説あるようだが(たべもの語源辞典・https://biyori.shizensyokuhin.jp/articles/707その他)、

品々を集めた汁を名にした、

のではないか(たべもの語源辞典)。

安土桃山時代の初期、天正年間(1573~1592)に扱われた安土城の料理献立集のなかに、集め汁の中身を、

いりこ、くしあわび、ふ、しいたけ、大まめ、あまのり、

とある(仝上)。寛永二〇年(1643))版の『料理物語』には、

中味噌だし加えよし、またすましにも仕候、大根、午蒡、芋、豆腐、筍、串鮑(くしあわび)、煎海鼠(いりこ)、つみ入など入れてよし、その外いろいろ、

あり、天正年間とさほど変わっていない(日本大百科全書)。

天明五年乙巳(1785)の『鯛百珍』には、薩摩鯛の集め汁が載り、具は、

鯛・椎茸・油揚げ・大根・ごぼう・焼豆腐・ねぎ、

で、

椀よりも高くもりあげて出すなり、

とあるhttps://www.ginza-mikawaya.jp/?mode=f54とか。

薩摩鯛の集め汁.jpg

(薩摩鯛のあつめ汁 https://www.ginza-mikawaya.jp/?mode=f54より)

「集め汁」に似た汁物として、

旧暦の12月8日、2月8日の「事八日(ことようか)」に無病息災を祈って食べる習慣があった野菜たっぷりの味噌汁、

お事汁(おことじる)、

というものもあるhttps://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu002.html、とある。別名、

六質汁(むしつじる)、

とも呼び、

芋・大根・人参・ゴボウ・小豆・コンニャク、

の6種類の具材を入れていたことから、そう呼ばれた。やはり、無病息災を祈願する味噌汁である(仝上)。

「事八日(ことようか)」というのは、

東日本で、旧暦二月八日(お事始め)と十二月八日(お事納め)を併せて言う、

とある(広辞苑)が、2月8日と12月8日のどちらかを「事始め」、他方を「事納め」と呼ぶ場合、

「事」を年間の祭事あるいは農作業と解釈し、2月を事始め・12月を事納めとするのが主流だが、関東の一部では「事」を新年の祝い事と解釈し、12月が事始め・2月が事納めとなる、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5

八日節供、八日待(まち)、八日ぞう、事始め/事納め、お事始め/お事納め、八日吹き、八日行、節供始め/節供納め、お薬師様、恵比寿講、

等々とも呼ばれる(仝上)。

2月8日の「事納」に目籠を掲げている。鮮斎永濯(1884)『温古年中行事』.jpg

(2月8日の「事納」に目籠を掲げている。鮮斎永濯(1884)『温古年中行事』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5より)

「事八日」のコトは、

小さな祭り、

の意。この日は一つ目の怪物が来るといい,これを避けるために目籠を竿先に掛けて軒先に立てたりするほか、針供養などの行事がある。これらは物忌から発したもので,仕事を休んで静かに家で謹慎していることが本義であるが,のちに転じて,怪物や鬼や疫神が来るからだと説明するようになったと考えられる、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2020年07月31日

幾世餅


「幾世餅」は、

短冊形に切った餅を焼いてまわりに小豆餡をつけたもの、

である(たべもの語源辞典・広辞苑)。元禄十七年(1704)に、両国広小路小松屋喜兵衛というものがはじめて製したとき、吉原町河岸見世の遊女幾世を妻に迎えて商ったからである。繁盛して名物となり、

幾世餅、

と称した、とある(仝上)。

一個五文、

とある(江戸語大辞典)。

幾世餅の元祖とされる小松屋の商標.jpg

(幾世餅の元祖とされる小松屋の商標 『江戸時代名物集』 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/3.htmlより)

享保十八年(1733)刊『江戸名物鹿子』の江戸名物には、

塩瀬饅頭、本町色紙豆腐、味噌屋元結、本郷麹室、歌比丘尼鬢簓、油町紅絵、白木呉服、本町益田目薬、五霊香、破笠塗物、清水夏大根種、勧化僧、赤坂左たばこ、浅草茶筌、芝三官飴、横山町花蓙織、弥左、衛門町薄雪せんべい、浅草簑市、こん/\妨、吉原朝日のみだ、さん茶女郎、目黒飴、駒込富士団扇、麹町助惣やき、てうし蝶、髭重兵衛が飴、赤坂鍔、長坂元結、松井源左衛門居合、佃島藤、吉原太神楽、麹町獣、湯島唐人祭のねりもの、浅草柳屋挽伍倍子、両国の幾世餅〟

と並ぶ中に、「幾世餅」がありhttps://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/he-yougo/yougo-benie.html、さらに、『近代世事談』(1734刊)にも、

夫婦にて餅を拵へ、吉原町の幾世。幾世と申触し、殊の外商ひもありし、

とあるが、天保七年(1836)刊『江戸名物詩』には、

若松屋(菓子屋) 「若松屋幾代餅  両国吉川町
両国一番若松屋 雑煮(サウニ)汁粉(シルコ)客の来る頻なり、

と「幾世餅」の店が代わっており、こうある。

世間の名物多くは零落す  幾世独歴幾代春、

そして、

吉原遊女・幾代を落籍した後その名をとって開業した餡餅。享保二十年刊『続江戸砂子』「両国はし 西の詰松屋喜兵衛」とあり、

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html、享保二十年までは、江戸名物であったらしいのだが(『近代世事談』(1734刊))。

幾世餅店の図.jpg

(幾世餅店の図『江戸職人歌合』 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/3.htmlより)

この「幾世餅」は、少し話を変えて、落語の演目にもなっているが、落語では。

搗き米屋六右衛門の奉公人の清蔵が、絵草紙屋で見た吉原の幾代太夫の錦絵に一目ぼれして恋患いし、心配した親方は一年間みっちりと働いて金を貯めたら幾代太夫に会わせてやると約束する。一年後、貯まった十三両と二分に、足して十五両をもたせ、遊び達者な医者の藪井竹庵先生に指南、案内役を頼み、清蔵の身なりを整え、野田の醤油問屋の若旦那ということにして吉原に繰り出す。竹庵なじみのお茶屋の女将に幾代太夫に会いたいと頼み、幸いにも幾代は空いていて、清蔵は幾代の大見世に上がり、晴れてご対面となる。その夜初会とも思えないもてなしを受け、後朝(きぬぎぬ)の別れに、幾代は「今度は主は何時来てくんなます」と問われ、清蔵は搗き米屋の奉公人と明し、一年間、稼いだらまた来ると打ち明ける。清蔵の真に惚れたのか幾代は来年三月で年季が明けたら、清蔵の所へ行くから女房にして欲しいと、支度金の五十両を預ける。三月、搗き米屋の前に一丁の駕籠がぴたりと止まった。中からは文金高島田の幾代が現れ、竹庵先生を仲人に、二人は晴れて夫婦になって、親方が清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。そこで売り出した「幾代餅」は大評判で名物となった、

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/25/3.html、「紺屋高尾」と似た咄になっている。「紺屋高尾」も、実在の、5代目紺屋高尾で、駄染(だぞめ)高尾ともいわれ、神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きた、とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%A4%AA%E5%A4%AB

根岸鎮衛『耳嚢』(1784~1814)に、こんな話が載っている、という。

「幾世餅」は、相当売れたらしく、元祖は浅草寺門内の藤屋と言われており、藤屋が、幾世餅の商標の独占を大岡越前守に訴え出た。判決は、藤屋が元祖であることを認めつつも、小松屋の事情も斟酌して、藤屋は四谷内藤新宿、小松屋は葛西新宿に移ることを命じた。どちらも江戸のはずれ、とても商売になりません。双方示談の上、訴えを取り下げた、

https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/034/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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