高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』を読む。
古くから「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの戦いの名称について、著者は、
「この江北の一戦は、本来なれば、余呉庄合戦とか、柳ケ瀬の戦いとか呼ばれるべき筈である。現に『江州余呉庄合戦覚書』という本がある位である。それなのに、古くから普通に賤ヶ岳合戦といっている。そこにはそれだけの理由がなければならない。七本槍のあった地名によるなれば、飯浦山合戦といってもよい筈である。それを賤ヶ岳合戦というには、飯浦山の戦いを秀吉が賤ヶ岳の砦にあって指揮していたからではないかと思う。七本槍の感状には柳ヶ瀬表という言葉はあっても賤ヶ岳という文字は見えていない。理窟にならない理窟をつけるような気がするが、この一戦を賤ヶ岳合戦というのは、どうもそこで秀吉が指揮をとったからではないかと思う。そしてこの切通しの勝敗が全局の勝敗を決定したからであろう。」
と分析する。実はこのことは、大事な分析を前提にしている。大垣から、大返しで、十三里を五時間で駆け戻った秀吉は、大岩砦、岩崎砦陥落で動揺する味方の士気を鼓舞するため、自分の到着を諸軍に触れ、夜明けを期して攻撃開始を令し、賤ヶ岳の砦に入った、と著者は見る。しかし、
「秀吉が賤ヶ岳の砦に入ったと書いている史料は一つもない。丹羽長秀がこの砦に入ったということは、『太閤記』『志津ヶ嶽合戦小須賀久兵衛私記』『丹羽家譜伝』などに見えている。そして、『太閤記』には、秀吉は賤ヶ岳の砦の南に旗を立てたとある。しかし、砦は山巓にある。その南では山に遮られて指揮はできない。秀吉の七本槍の感状をみると、秀吉の眼前において槍を合わせたとある。七本槍のあったところはこの切通し付近である。それを秀吉は高い所、すなわち賤ヶ岳の砦から見ていた。それでなければ、この文字は使用できない。切通しを見通せるところは、秀吉からはこの賤ヶ岳の砦より外にない筈である。秀吉はこの砦にしいて切通し付近の勝政隊攻撃の指揮をしたとすることは誤っていない。」
という前提である。それはさらに、秀吉は攻撃の部署を決め、
「自分自身で(大岩砦に留まる)佐久間盛政に当たることにした。これは、結果は追撃となったのであるが、軍全体の配備からいえば三手にわかれ、自分が左翼に廻ったことになる。そして狐塚にある勝家に対して包囲の形成をとったのである。この秀吉が左翼に廻ったということは、全軍の把握が難しいように考えられるが、(中略)このときの作戦は右翼を移動させないで、それを軸として左翼から敵の右翼を打ちのめして、これが成功を待って中央を進出させ、右翼からも突撃させるという策をとったのであり、左翼が主動部隊であり、しかもその行動は峰筋で行われたので、中央からも、右翼からも望見され、それをはっきり知ることが出来るという状態にあった。だから、秀吉自身が左翼に廻ったということは最も適当した、最も必要な処置であった。」
という戦略とも合うのである。
秀吉帰陣の方を受けて、大岩山から退陣する佐久間盛政隊を援護していた柴田勝政隊三千は、賤ヶ岳の西北方約百メートルの切通しにあり、秀吉は、切通しの東南方の小平地、切通しまでは約五百メートル、俯瞰できる位置にある。
「秀吉は旗本をその真近に攻撃態勢を取って布陣させ、自分は高いところから、敵陣とこの兵とを見おろして、攻撃の機を待っていた」
のである。
「秀吉は柴田勝政隊攻撃の機会を待っていた。この敵部隊が退却を開始するであろうことは十分予想されるところである。われはこれに対して、兵力を集中し、包囲の姿勢を取り、監視を厳重にして敵の退却開始を待てばよい。そして退却開始と同時にこれを攻撃すればよい。退却開始は敵陣動揺の端緒である。それを秀吉は待っていた。」
そして、まさに柴田勝政隊の退却開始と同時に、待機の旗本部隊に攻撃を命じた。
「勝政の部隊は切通しの低地を挟んで、その両側に布陣していたらしい。そこでまず東南方の高みにある部隊を西北方の高みに収容しようとしたのであるこの東南方の部隊が低みにかかったところを、秀吉の旗本は東南方の高みから銃撃を加え、敵が動揺するに及んで、秀吉はこれに突撃をおこなわせた。」
柴田勝政隊は、峰筋を北方へ二キロ、戦いつつ権現坂付近の佐久間盛政隊に合流しようとする。
「佐久間盛政は退却して来る柴田勝政の兵を収容し、列を乱してこれを追ってくる秀吉の兵を迎えて、これに邀撃をくわえた。」
勝政の隊は総崩れになり、二十町ばかり敵味方一つになって追い立てられたが、峰筋の高みにある二千ばかりの盛政隊は備えを崩さず、『江州余呉庄合戦覚書』には、
「盛政は分目の戦いを快くやるだろう」
と書くほど、収容は成功するかに見えたが、
「このときに当たって、茂山にあった盛政の左側背の掩護に当たっていた前田利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。それは敵と戦闘を開始した盛政隊の背後を遮って、東方から西方へ峰越に移動して塩津谷に下り、そこから北方の敦賀方面へ脱出したのである。」
前田隊の移動は、盛政の隊からは、
裏崩れ、
に見え、
「前田隊より後方に陣していた諸隊からは盛政隊の敗走のように見えた。そこで初めから戦意を有たない部隊は勿論のこと、その他の部隊にあっても戦意を失ったらしく、早くも戦場を脱走するものが少なくなかった」
という。
「このころになると、秀吉の兵力はますます増加し、(中略)南方及び東方から佐久間信盛の隊に強力な攻撃を加えた。これに対して、盛政方にあっては佐久間盛政・原彦次郎ら奮戦大いに努め、行市山の陣地へ峰筋をしだいに北方に退却したけれども、前夜からの疲労もあり、ついに力及ばず、盛政の兵は全く潰乱に陥り、一部は峰伝いに柳ヶ瀬方面へ、また一部は山を下って塩津谷方面へ敗走したのであった。」
そして、著者はこの戦闘の帰趨をこう断言する。
「この切通しから権現坂までの戦闘の勝敗は余呉湖を中心とする柳ヶ瀬一帯の戦争を決定づけたものであるが、それはまた全戦局の勝敗をも決定したものでもあった。そして権現坂における勝敗を決定した一番大きな原因は前田利家の裏切りであったのである。」
それは、クラウゼヴィッツの、
「戦争は政治的交渉の一部であり、従ってまたそれだけで独立に存在するものではない」
という「戦争論」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449836582.html)を思い起こさせる。「戦争」は、あくまで政治的目的達成の手段である。間違っても、戦争が目的化されることはない。
「戦争は政治的交渉の継続にほかならない、しかし政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」
である、と。
利家に限らず、秀吉の切り崩しは、多岐にわたったが、同じことは、勝家側からも行われ、
「堂木山の守将山路将監……、賤ヶ岳の桑山重晴・岩崎山の高山重友にしても、勝家に通じていたと思われる節がないではない。」
だからこそ、敵の陣営に加えぬため、大垣からの帰還を急ぎ、それを、味方に知らしめようとしたのである。
「そこでその帰還を味方の諸将に知らせるという目的もあって、盛んに松明を焚いた…。賤ヶ岳をはじめとして田上山からも、北国脇街道のこの松明は良く見えた筈である。」
と。だから、
「勝家の政治力が秀吉のそれより勝れていたら、賤ヶ岳の戦いは佐久間盛政の大岩山攻略を機会として勝家の勝利に帰したであろう。(中略)勝家は盛政の大岩山攻略によって秀吉陣営の崩壊を期していたのではなかろうか。岩崎山の高山重友も、賤ヶ岳の桑山重晴も敗走した。堂木山の敵も動揺した。神明山の敵も動揺したであろう。けれども田上山の羽柴秀長の陣と左称山の堀秀政の陣は微動だにしなかった。そのために堂木山の兵も神明山の兵も敗走するに至らなかったのである。すなわち秀吉の陣は崩壊すべくして崩壊しなかったのであった。秀長は勝家方の盛政のような地位にあったから問題とすることはできないとしても、秀政を完全に掌握していたことは、秀吉の政治力でなければならない。」
と。すなわち、
「戦争は単なる軍事的行動ばかりではない。戦争は戦闘ではないのである。」
と著者は締めくくる。
参考文献;
高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』(学研M文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
posted by Toshi at 04:05|
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