2020年08月01日

隠元豆


「インゲンマメ」は、

隠元豆、

の他、

眉児豆、
菜豆、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1。漢名は、

雲豆、
花雲豆、

で(たべもの語源辞典)、

別名、

サイトウ(菜豆)、
サンドマメ(三度豆)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1か、

インゲンササゲ、
ゴガツササゲ、

とか(広辞苑)呼ばれるが、別に、

フジマメの別称、

ともされ(広辞苑)、フジマメ(藤豆)は、別名、

センゴクマメ(千石豆)、
アジマメ(藊豆)、

のことを、西日本、関西、では「インゲンマメ」と呼び(広辞苑)、

両種は混同されやすいとあるが、別種である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1

当然、「隠元豆」と当てる以上、

隠元が明から伝えた豆、

とされている(日本語源広辞典)が、

隠元禅師が中国から帰化するとき持ってきた豆がどれであったかわからない、

という(たべもの語源辞典)。

隠元が日本に伝えたのはフジマメともいわれるが、フジマメは平安初期から「アヂマメ」という名で存在している、

とある(語源由来辞典)。牧野富太郎博士は、フジマメがインゲンマメと力説したらしいが、和名抄に、

アヂマメ、

として載っており、平安初期には日本に渡来していたと思われる。

インゲンマメ.jpg


また、別に、「インゲンマメ」の別名は、「五月ささげ」「三度豆」であるが、

隠元禅師は二種類の豆をもってきて、関東には五月ささげを、関西には藤豆を広めた、

とする説(由来・語源辞典)もある。要は、隠元禅師に何かかかわりがあるらしい、ということしかはっきりしない。

インゲンマメは、

アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税の物納品目として徴収していた。ヨーロッパにはコロンブスの二度目の航海の後に持ち込まれ、16世紀には育てやすく食べやすい作物として栽培されるようになった。。特にギリシャなど地中海沿岸地域では、ソラマメ中毒にならない健康に良い豆として受け入れられた16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わった、

のに対してhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1、フジマメは、

熱帯アジアからアフリカ原産で、エジプトで「ラブラブ」という豆である。フジマメは千石豆とも言われるのは、収穫が多いからだし、味豆といわれるのは、味が良いからである、

とあり(たべもの語源辞典)、別系統の豆である。「フジマメ」は、漢名、

藊豆、

とされる(仝上)。

今日一般に「隠元豆」とされるものは、明治時代に日本に輸入された、

トウロク豆、

という品種である。これが、

ゴガツササゲ、

である。「ささげ」は、捧げるという意味で、豆果が上を向くものにつけられた、

とある(たべもの語源辞典)。ゴガツササゲの漢名は、

竜爪豆、
雲藊豆、

である(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:隠元豆
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2020年08月02日

いとこ煮


「いとこ煮」は、

従兄弟煮、
従弟煮、

と当てたりする(広辞苑・たべもの語源辞典)。

いとこ煮.jpg


小豆・牛蒡・大根・芋・豆腐・慈姑(くわい)・焼栗などを堅いものから追い追い入れて煮込んだ料理、

とあり(広辞苑)、秋田県鹿角地方では、

大根をさいの目にして小豆とともに煮た味噌汁、

を言い、新潟県には、

大根・人参・芋に小豆などを混ぜて煮る、

ものがある(たべもの語源辞典)。要は、

小豆または豆と野菜の寄せ煮料理、

であり(仝上)、

各地に伝わる郷土料理の一つ、

で、

山形県庄内地方のもの、北陸地方(新潟県・富山県・石川県)のもの、奈良県のもの、および山口県萩市周辺に伝わるものが知られている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93%E7%85%AE

この起源は古く、

寛永二〇年(1643)版『料理物語』のなかに、「あずき、ごぼう、いも、だいこん、豆腐、焼栗、くわいなどを入れ、中みそにてよし、かようにおいおいに入れ申すによりいとこ煮か」

と解説している(日本大百科全書)、とある。

「いとこ煮」の語源は、『料理物語』にある、

おいおいに入れ申すによりいとこ煮、

と、

「追い追い」と「甥甥」を掛けた、

とするのが大勢(広辞苑・語源由来辞典等々)であるが、もともとは、

正月・事八日・盆・祭礼・収穫祭などに食べた。これは神に供えたたべものを集めて煮ることに始まったもので、雑煮と同じ風習による、

とされる(たべもの語源辞典)ので、

年中行事の際つくられるお事煮がなまっていとこ煮となった、

とする説(日本大百科全書)もある。その他、

いとこ煮(萩風)は、小豆を柔らかく煮る、白玉だんごを作ってゆでる、だし汁に干ししいたけを入れて煮るというように、最終的にお椀で一緒になるはずの材料を別々に煮ている。この別々に煮ることを“銘々(めいめい)に煮る”という。姪と姪(兄弟の子ども同士)が一緒にお椀に入って一つの料理を作り上げている。お椀の中の具は、姪同士なのでつまり、お互いは従兄弟(いとこ)の関係。よって、いとこ煮という、

いとこ煮は、婚礼や法事といった冠婚葬祭の席で必ず出される。冠婚葬祭で兄弟姉妹や従兄弟たちが集まったときに食べる料理だったことから、「いとこ煮」と呼ばれるようになった、

野菜ばかりを煮るので、近親関係なので、いとこ煮、

等々もあるhttp://www.ysn21.jp/~eipos/data/2006/WB18_001/kyoudoryouri/itokoni/newpage1-4-10-2.htmlが、

お事煮→いとこ煮、

の転訛が一番自然に思える。

一般的に知られているのは、かぼちゃと小豆を甘く炊いた奈良県のスタイル、

のようだが、

だったらあずき煮でいいじゃないか、

となるhttps://macaro-ni.jp/33187のは当然で、「あずき粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.htmlで触れたように、中国由来で、

「小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。
中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E7%B2%A5、「小豆」は特別なものであった。

2月8日の「事納」に目籠を掲げている。鮮斎永濯(1884)『温古年中行事』.jpg

(2月8日の「事納」に目籠を掲げている。鮮斎永濯(1884)『温古年中行事』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5より)

「事八日(ことようか)」というのは、集め汁http://ppnetwork.seesaa.net/article/476575401.htmlで触れたように、

東日本で、旧暦二月八日(お事始め)と十二月八日(お事納め)を併せて言う、

とある(広辞苑)が、2月8日と12月8日のどちらかを「事始め」、他方を「事納め」と呼ぶ場合、

「事」を年間の祭事あるいは農作業と解釈し、2月を事始め・12月を事納めとするのが主流だが、関東の一部では「事」を新年の祝い事と解釈し、12月が事始め・2月が事納めとなる、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%85%AB%E6%97%A5

八日節供、八日待(まち)、八日ぞう、事始め/事納め、お事始め/お事納め、八日吹き、八日行、節供始め/節供納め、お薬師様、恵比寿講、

等々とも呼ばれる(仝上)。この時食べるのものに、

お事汁(おことじる)、

というものがあるhttps://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu002.html。別名、

六質汁(むしつじる)、

とも呼び、

芋・大根・人参・ゴボウ・小豆・コンニャク、

の6種類の具材を入れていたことから、そう呼ばれた。やはり、無病息災を祈願する味噌汁である(仝上)。どうも、この、

お事汁、

は、

いとこ煮、

と深くつながるような気がしてならない。もともとあった祖型が、

お事汁、

いとこ煮、

に分離したのかもしれないが。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:いとこ煮 お事汁
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2020年08月03日

板焼


「板焼」とは、

カモ・鶏などの無肉を薄く切り、味醂・醤油などに漬け、杉板にのせて焼いた料理、

とあり(広辞苑)、

片木(へぎ)焼、

とも言う。

杉板焼き、

とも言う(精選版日本国語大辞典)、とある。杉板焼の名称は、江戸時代に多く用いられた(たべもの語源辞典)らしい。

これに用いる板は杉板に限定され、古くは、

へぎ焼き、

の名のほうが多く用いられた、とある(日本大百科全書)。ただ、杉板が片木(へぎ)のとき、

片木(へぎ)焼、
折(へぎ)焼、

という、ともある(たべもの語源辞典)。

鳥肉などを味醂醤油・煮だしなどでつくった汁につけてから板の上にのせて焼くのでこの名がある、

とあり(仝上)、

杉板の上にのせ、炭火の上に移し、加熱して焼く。木板は熱の不良導体であるため、熱の伝導が弱く、ふんわりとした落ち着いた味になるのが特色で、材料はあまり強い熱源を必要としないものが向く、

とある(日本大百科全書)。

板は杉板を使うので、

杉焼、

ともいい、

杉の木の香りを移した料理である、

とある(たべもの語源辞典)が、

同様の調理法に杉焼とよばれているものがある、

として、

板焼、
と、
杉焼、

とを区別するものがある(日本大百科全書)。「杉焼」は、康平年間(1058~65)成立の『新猿楽記』に、

杉板の間に白身魚を挟んで両面から順次加熱したものをいう、

と記されている。文政五年(1822)刊の『料理早指南』には、「杉板焼き」と書き、

杉板に厚く塩を塗り付け、その上にしょうゆに浸したイナダの身をのせて焼く、

との解説がある(仝上)。杉板の上にのせるのを、

板焼、
または、
杉板焼、

杉板に挟むものを、

杉焼、

と区別するのだろうか。いずれも、杉板を使うことには変わりはない。二条宴乗日記の元亀元年(1570)一二月四日に、

杉焼に可仕とて無塩た井一枚、

と記述がある。「杉焼」とあるが、「板焼」と区別されるのかどうかはわからない(精選版日本国語大辞典)。

魚の杉焼き.jpg

(魚の杉板焼 https://kuukau2.exblog.jp/18359391/より)

たべもの語源辞典は、

杉箱の底に酒でといた味噌を敷き、魚・鳥・貝類・野菜類を入れ、ふたをして金網の上で焼くもの、

と、

杉板の上にのせて焼くもの、

とがあるとしている。

杉板で焼くときは、板の裏に塩を暑く塗りつけて、板が焦げないようにする、

とあり、板焼自体は室町時代から始まるが、杉箱をもちいたものは、江戸前期以降という。好色一代男(1682)に、

雁の板焼に赤鰯を置合(をきあはせ)、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なお、杉板焼には、

フッコ・タイ・ヒラメ・サケなどのすり身におろし芋を加えて板につけ、蒸してから蒲鉾のように焼く、

タイプもある、らしい(たべもの語源辞典)。

板焼に、

板焼豆腐、

というものがある。

うすい杉の板にふき味噌をべったりと塗って、その上に豆腐を切ってのせ、またその上に味噌を塗り、同じ形の板杉を上にのせて強火で焼く、

とある(仝上・日本大百科全書)。また、

板焼味噌、

というものもあり、

羽子板形の板の表面に、横菱にのこぎり目を入れて、その上に胡麻味噌をつけて、炉の灰に立てて炙る、

とある(仝上)。

みそは熱源に直接当てて少々焼き目を加えると香ばしい味が生ずる、

ためである(日本大百科全書)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年08月04日

かくや


「かくや」は、

覚弥(彌)、
隔夜、
覚也、

等々と当てる(広辞苑・たべもの語源辞典)。

種々の香の物の古漬を塩出しして細かく刻み、醤油などで調味したもの、

とある(仝上)。関西では、

贅沢煮、

という、ともある(日本語源広辞典)。寛政期の風俗などを記した「寛天見聞記」には、

八百善といふ料理茶屋……、かくやの香の物……は、春の頃より、いと珍しき瓜、茄子の、粕漬けを、切り交ぜにしたる也、

とある。料理屋に出るものは、単なる残り物や古漬けの活用とは違うようである。

かくや.jpg


江戸時代の初め、徳川家康の料理人岩下覚弥の創始(広辞苑・日本語源広辞典)、

とも、

高野山の隔夜堂を守る歯の弱い老僧のために作られた(仝上)、

とも、

沢庵和尚の弟子覚也が始めた(江戸語大辞典)、

ともいわれ、諸説あるが、江戸時代のものらしく、

古なすにもり口のかくや、

とある(天明七年(1787)「総籬」)。「覚弥」説には、

東照公の料理人岩下覚彌、調じて供せしに、賞美ありしより名とす、岩下氏の家伝なる由なり(松屋筆記)、

という背景もある(大言海)。

なお、「香の物」については、「おしんこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476447870.html、「沢庵」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476431744.html、「糠味噌漬」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476479225.html、で触れたでふれたが、「香の物」というのは、「おしんこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476447870.htmlで触れたように、

「漬物」を、

こうこう(香々)、
おこうこう(御香々)、
こうのもの(香の物)、

等々と呼ぶのは、

こうのもの(香の物)、

からきている(仝上)。

「香の物」の「香」は、

味噌、

を指す(江戸語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AC%E7%89%A9・大言海・大日本国語辞典・碩鼠漫筆等々)、とする意見が大勢だが、たべもの語源辞典は、それを否定し、

においがたかいものということで香物とよぶ。奈良時代に漬物がはじまる。香(か)は気甘(きあま)、あましは、あーうましの意である。香物は、うまいにおいをもったたべものの意。大根・瓜など味噌の中につけて味噌の香気をうつしたので香物というせつがあるが、味噌だけでなく、塩・味噌・酒粕などに漬けた蔬菜でにおいのあるものを香物という、

とする。確かに一理あり、味噌だけではない気がするが、「味噌」を、女房詞で、

香、

と呼んだことは確かで、室町時代の大上臈御名之事には、

女房詞、汁のしたりのミソを、カウの水と云ふ、

とあり(大言海)、江戸初期の慶長見聞集には、

凡そ味噌と云ふことを香と云ふ、みそは、一切の物に染みて匂ひよく、味よき故に、香と名づけたり、

とある。また、雍州府志(1684)によると、

木芽漬はアケビ、スイカズラ、マタタビなどの新芽を細かく切って塩漬にしたもの、烏頭布漬はいろいろな植物の新芽をとりまぜて塩漬にしたものであった。室町期には、香(こう)の物、奈良漬といったことばが現れてくる。前者は、みその異名を〈香(こう)〉というところから、本来はみそ漬をいったことばだとされる、

とある(世界大百科事典)。ただ、だから、香の物が、

味噌漬、

の代名詞だったかどうかまでははっきりしない。岩波古語辞典には、

野菜を味噌・酒粕・糠・塩などで漬けた、

とある。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年08月05日

倭寇


竹腰輿三郎『倭寇記』を読む。

倭寇記.jpg


昭和十四年上梓という、時代的制約があるが、「倭寇」といわれるものの、概略をつかむにはちょうどいいのかもしれない。ほとんど「倭寇」という言葉は、国内の文献には登場しないので、時代を経ても、それほど内容の変化はないのかもしれないが、当然最新の研究成果は期待できない。

「倭寇」という言葉が使われているが、明の文献にも、

大抵の倭寇は真の倭、十の三にして、従ふもの七、

其の倭は十の三にして倭に従ふ者十の七、倭戦へば則ち其掠むる所の人を駆りて軍峰たらしめ、法厳にして人皆な死を致す、

等々とあり、日本人だけではなく「異人種」が多数含まれている。そこには、中世の日本国内とは別の、ある種の国際的な海上世界がある。しかし、その特徴は、

日本流の紅柄染の大模様を染め出した衣服を着用、

し、また、

倭の旗號を用ひた、

とある。「倭寇」たる旗印である。

当時倭寇は、船先に八幡大菩薩の旗を立てて単に祈り、自ら安んじたもので、倭寇と云へば、必ず八幡大菩薩の旗を連想せしむるほどであるから、支那の海賊もまたこの旗を立てたものであろう。そして明人は八幡の二字を「バハン」と読むので、一転して、海賊の所業、若くは密貿易をバシンと號し、やがてそれが日本語となって、「バハンする」若くは「バハンしない」とも云ふ動詞となってしまったと云はれる、

とある。で、倭寇が用いる、

七十頓内外の船、

を、

バハン船(八幡船)、

と呼び、「バハン」は、

海賊、

を意味し、転じて、

密貿易、

を意味するようになる。

徳川氏の初、外国に航行することを許可せられた船長は、誓書に記して、「バハン致すまじく候」と書くようになった、

ともある。ただ、「バハン」の由来については異説があり、

バハンはむ支那音にあらず、配半の支那音であるとなし、昔し鎮西八郎為朝が宋の濱海を侵したとき支那の海賊から配半税(バハン)の方法に従って、収穫の山分を要求せられたことから、日本では此バハンと云ふ語を使用するようになった、

とする説もあるらしい。しかし「八幡」は、

奪販、
番舶、
破帆、

とも当てる(ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディア)らしいので、八幡大菩薩の「八幡」であるかどうかは、少しいかがわしいかもしれない。

倭寇図巻と明人抗倭図巻.jpg


確かに、「倭寇」は、

永正大永の頃より、伊予國海中因島、久留島、大島の地士、飯田、大島、河野、脇屋、松島、久留島、村上、北浦、等諸士共に相議して、外国に渡海し、海戦を働き各家を富さん事を謀り、野島領主村上図書を議主と定め、各其一族浮浪の人数を集め、都合三四百人大小十余艘の船に乗り、大洋を航行し、西は大明国の寧波、福建、広東、広西、等の諸州より、西南は印度の諸国、安南、広南、占城(チャンパン)、東坡塞(カンボヂャ)、暹羅、其他南海中の呂宋、巴刺臥亜(パラコヤ)、渤泥(ボルネオ)等の諸島に至り、近海諸邑を剽掠し、種々の財物器械を奪取し来たりて、其家を富せり、

とあるように、国内から出航した者たちがたくさんいたことは確かだが、明人の、

汪直、
徐海、
陳東、
鹿葉、

等々が倭寇と共謀するようになって、

倭寇の勢力が益増加、

した事実はある。後期の倭寇であるが、汪直は平戸に居を構え、

門太郎次郎史四助四郎等と結んで、方一百二十歩の巨船を作った。この船は二千人を容れ、木を以て城と楼とを船の上に立て、舟上、馬を走らせるといふ、

一大勢力を成し、1553年(明暦の嘉靖三十二)に、

數十種の倭寇を糾合して支那に侵入し、連艦数百をもって海を蔽ふて進み、……先づ昌國衛を破り、四月大倉を犯し、上海県を破り、揚子江を遡り、江陰を掠め、乍浦を攻め、金山衛を襲ひ、崇熟を攻め、翌年正月には、オオクラり蘇州を攻め松江を掠め、江北の通泰に迫り、六月には呉江より嘉興を掠め川沙窪拓林を以て巣窟となし、四方を侵掠した、

という。結局明の本軍と戦い、

死者千九百に及んだ、

というのだから、その勢力の大きさがうかがえる。しかし、豊臣秀吉の国内統一を機に、八幡の渡航を禁じたことから、さしもの倭寇は、終息したが、別の意味での海外渡航、海外貿易は、衰えず、山田長政のような、海外で活躍する者たちが続く。

参考文献;
竹腰輿三郎『倭寇記』(白揚社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年08月06日

角兵衛獅子


「角兵衛獅子(かくべえじし)」は、

越後国西蒲原郡の神社の里神楽の獅子舞、

あるいは、

越後国西蒲原郡月潟地方から出る獅子舞、子供が小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い、歩く、

ものなので、

越後獅子(えちごじし)、
蒲原獅子(かんばらじし)、
月潟(つきがた)の獅子

とも言う(広辞苑)。また、「角兵衛獅子」を、

覚兵衛獅子、

と当てたりするものもある。たとえば、洒落本・当世爰かしこ(1776)には、

「ひろうどの牛まで出るに、覚兵衛獅子(カクベイシシ)は何がふ足で久しくみへぬ」

とある(精選版日本国語大辞典)。

角兵衛獅子(かくべえじし)は、越後獅子(えちごじし)とも呼ばれる由来については、

越後より江戸に出しは、宝暦の頃(1751~64)なりと云ふ、始めて率ひ来たりし人名などによるか、

とある(大言海)が、そもそも角兵衛獅子の由来については、諸説あり、昭和11年(1936)に発足した角兵衛獅子保存会のまとめによれば、ひとつは、

水害対策説です。信濃川の支流中ノ口川左岸にある月潟村は、肥沃な土地に恵まれ農業が盛んでしたが、水運と農業に欠かせない水をもたらす川はしばしば氾濫し、村の人々を苦しめました。そこで、一人の農民が、水害で疲弊する村に新たな収入源をもたらそうと、踊りを考案して子どもたちに教え、近隣の村々を巡業。農民の名前が角兵衛だったことから、その踊りの一座は角兵衛獅子と呼ばれた、

というものhttps://n-story.jp/topic/117/page1.php。「角兵衛獅子」は、このときの一座を率いていた「角兵衛」からきている、ということになる。越後獅子が江戸に来たのは宝暦5年(1755年)らしく、

諸諸侯へ召し出されて獅子冠を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子、角兵衛獅子となった、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90あるが、別に、

信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うため、獅子舞を創案した、

洪水に悩まされた月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まり、

というのもある(仝上)。

もうひとつの説は、

親の仇討ち説です。常陸(現・茨城県)から月潟村に移り住んだ角兵衛が何者かに殺され、その時に犯人の足を噛み切りました。足の指のない犯人を探し出すため、角兵衛の2人の息子は、逆立ちしながら「足を上にして、足の指のないものを気を付けて見れ」とはやしたて、全国を回った、

というもの(仝上)。これによると、「角兵衛」は、殺された父の名、ということになる。

さらには、

角兵衛は獅子頭を彫った名工の名(俚言集覧・嬉遊笑覧・三養雑記)、

と、獅子頭の作者名というのもある(日本語源大辞典)。この他に、江戸後期の『嬉遊笑覧』は、

「越後獅子を江戸にては角兵衛獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衛獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90、これによれば、カンバラ獅子が角兵衛獅子に転訛したことになる。

いずれにせよ、宝暦六年(1756)撰の「越後名寄(なよせ)」や文化一二年(1815)撰の「越後野誌」に、すでに「いつ始まったのか定かではない」と記されているほど、古い(仝上)、とある。

獅子頭(ししがしら)をかぶり、鶏の尾をつけた衣服を着た子供が二、三人、笛、太鼓の音につれて踊り回り、逆立ちなどの技を見せるもの。多く正月などに舞い歩き、災いを除くといわれる、

とある(精選版日本国語大辞典)が、

獅子舞は7歳以上、14、5歳以下の児童が、しま模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90。構成は、

かつては獅子舞4人、笛吹き1人、太鼓1人の計6名(これより少ないと定めの曲ができない)であったが、後に獅子舞2人、笛吹き兼太鼓の3人が増え9名となった。このうち笛吹きまたは太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を言い、掛け声調子を取り、獅子舞はその指示に従って芸を演じる、

という(仝上)。

親方だけが月潟または近隣に籍を置き、獅子の児は他所の孤児などもらい子だった。扮装は、小さな赤い獅子頭を頭に頂き、筒袖(つつそで)の着物に襷(たすき)を掛け、卍紋の入った胸当てをし、裁着袴(たっつけばかま)をはき、白い手甲をつけ、日和下駄(ひよりげた)を履いて、腹に腰鼓をつける。芸には、金の鯱(しゃちほこ)、蟹の横這(よこば)い、獅子の乱菊、淀の川瀬の水車などの一人芸と、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越(かわごし)、唐子(からこ)人形の御馬乗りなどがある、

という(日本大百科全書)。江戸その他に進出して人気を集め、地歌、富本節(とみもとぶし)、長唄(ながうた)舞踊劇、下座(げざ)音楽長唄、所作事などの《越後獅子》もこれを素材とする(世界大百科事典)。

角兵衛獅子。江戸職人歌合. 石原正明著 (片野東四郎, 1900).jpg

(角兵衛獅子・江戸職人歌合 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年08月07日

木強


「木強」は、

ぼっきょう、

と訓ます。中国語である。「強」は、一に、

彊、

に作る、とある(漢字源)。史記・張蒼傳に、

周昌、木彊人也、

とある(仝上)。しかし、

木彊(ぼっきょう)、

は、

ごつごつして柔和ならざる貌、

の意で使われたりする(仝上)。

心が木石のように一徹なこと、
飾り気がなく、剛直なこと、
無骨、

という意であり(広辞苑)、

まじめで堅苦しいさま、
きまじめ、
素直で言行に飾り気のないこと、

の意の、

生直(きすぐ)、

の意とも重なる(「生直」は「キスク」とも訓ませる)。

木強漢(ぼっきょうかん)、

と、

一本気で飾り気のない男、

の意で使う言い方もある。史記・周勃世家に、

勃為人、木強敦厚、高帝以為可屬大事、

とある(漢字源・大言海)。「敦厚」は、

とんこう、

と訓ませ、

誠実で、人情に厚いこと、

の意である。

周勃(しゅうぼつ)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将・政治家、

紀元前209年に劉邦が兵を起こした時、劉邦に従った。元々は沛で機織業をしており、葬儀屋を副業としていた。劉邦が漢王になると、周勃は武威侯となった。劉邦が漢中から出撃する際に先陣を務め、章平(章邯の弟)らを破った、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%8B%83、劉邦が死去に際し、

「漢王朝を長らく安んずるものは必ずしや周勃であろう」

と、皇后の呂雉に言い残したとされる(仝上)。

漢書・張蒼傳にも、

周昌、木強人也、

とあるが、師古注に、

言其強質如木石然、

とある(大言海)。

張蒼(ちょうそう)は、秦から前漢にかけての人、

書を好み律暦に詳しかった。秦においては御史となり、四方からの文書を司っていた。しかし罪があって逃亡し、故郷に帰っていたところ、沛公劉邦が陽武を通過し、張蒼は沛公の客となって南陽攻めに参加した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%92%BC。張蒼は、

軍人や軍吏ばかりの劉邦の部下の中で珍しく書や律暦に詳しく、彼が中心となって漢が五行思想における水徳であることや、10月を一年の最初の月とするといった暦を定め、また調律を行い音楽を定めた、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:木強 ぼっきょう
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2020年08月08日

かぼちゃ


「かぼちゃ」は、

南瓜、

と当てるが、この「南瓜」表記は漢名からきている。「かぼちゃ」は、他に、

唐茄子(とうなす)、
南京(なんきん)、
ぼうぶら(ボーボラ)、

等々の異名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3、語源由来辞典他)、ウリ科カボチャ属に属する果菜の総称原産は南北アメリカ大陸、だが、現在、

チリメン・キクザ(菊座)等々の日本カボチャ、
クリカボチャなどの西洋カボチャ、
ソウメンカボチャなどのペポカボチャ、

の三系統がある、とされる(広辞苑)が、栽培されているのは、

ニホンパイカボチャ(Cucurbita moschata)、クロダネカボチャ、セイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャ、

の五種とするものもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3

大和在来野菜「小菊南瓜」.jpg


「かぼちゃ」の語源は、

「カンボジア」を意味するCamboja(カンボジャ)の転訛(仝上)、
16世紀頃カンボジアから伝来したから、カンボジアの転訛(広辞苑、日本語源広辞典)、
天文年間(1532~55)ポルトガル人がカンボジアの産物として日本に伝え、当初「カボチャ瓜」と呼ばれ、「瓜」が落ちた(語源由来辞典)、
初め、Cambodia(漢名 柬埔寨)より來る、葡萄牙人の寄航地なりき、此瓜、内地にては、永禄の頃植え始め、天正の頃より食ひ始めたりと云ふ(大言海)、
インドシナのCambodiaより渡来したから、カボチャボーブラの略(江戸語大辞典)、

等々とする説が多い。ただ、

Camboja(カンボジャ)の転訛、

については、

“ポルトガル語 Cambodia abóbora に由来する”といった説が少なくともネット上においては相当広まっているが、この表現はポルトガル語としては何重にもおかしく、何かの勘違いが事故的に広まってしまったものと思われる。「カンボジアの瓜」をポルトガル語で言うなら、abóbora de Camboja / abóbora da Camboja か、もしくは abóbora cambojana であろう、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3、少なくとも、地名由来なら、

Cambodia(漢名 柬埔寨)、

だろう、と。

西洋カボチャ.jpg

(セイヨウカボチャ https://life.ja-group.jp/food/shun/detail?id=25より)

「かぼちゃ」が、

南京(中国の南京に寄港したから)、
ボウブラ(ポルトガル語でウリ科の植物「abobora」が由来)、
唐茄子(南蛮渡来の瓜を意味している)、

等々、その異名は、伝来の経路もあるが、

品種によってはじめ呼び分けられてきた、

ことがあるhttps://www.olive-hitomawashi.com/column/2017/08/post-412.html。たとえば、

日本かぼちゃは伝来の歴史においても二つのグループに分かれていたとされており、ひとつは「ボウブラ」、もうひとつは「南京かぼちゃ」と呼ばれていたといわれている。ボウブラは、ウリ科の植物を意味するポルトガル語「abobora」に語源をもつ系統である。また、中国から伝来したかぼちゃは、中国の南京の港から持ち込まれるかぼちゃ、という意味で「南京かぼちゃ」「南瓜(ナンキン)」と呼ばれてきたようだ。中国でも、かぼちゃは「南瓜」と呼ばれ、「南蛮渡来の瓜」を意味しているといわれている。唐の国からやってきた茄子という意味から「唐茄子(トウナス)」という別名で呼ばれることもある。

とある(仝上)が、江戸語大辞典をみると、

最初に伝来したのは正円形でボーブラと呼ばれ、ついで伝来したのがカボチャ瓜で、備前徳利に似た形のもの。味はさして美ならず。明和四年(1767)・柳多留に「御亭主が留守で南瓜の直(ね)が出来る」(女の好物)。安永四年(1775)・物類称呼「大阪にて、なんきんうり又ぼうぶら、江戸にて先年は、ぼうふらといい、いまはかぼちゃと云」

とあり、さらに、「唐茄子」は、

扁平で竪襞のある小型のかぼちゃ。かぼちゃよりも美味。明和頃(1764~72)から行なわれ始めた、

とあり、

ボウブラ、
カボチャ瓜(南京)、

だけでなく、

唐茄子、

もまた別種であった。

「ぼうぶら」は、

天正(1573~92)ころから作り始めた、

とある(たべもの語源辞典)。その種は、

もと回紇(ウイグル)から渡ってきた。薩摩には元和年間(1615~24)にカンボジア(柬埔寨)からボウブラというウリが渡来し、寛永年間(1624~44)に世に広まった。京都に種を植えたのは延宝・天和(167284)ころである、

とある。一方、江戸では、

享保年間(1716~36)までは南瓜(ナンキン 一名カボチャ)を売っていない、

が、

元文(1736~41)の初めころから多く植えられるようになり、夏から秋にかけてのたべものになった、

とある。「唐茄子」は、

天明六年(1786)の項は隋の後、江戸足立郡栗原村の農夫某がカボチャの古種を見出して撒いてみたところ、この味がカボチャり良く、唐茄子と呼んで広まり、寛政(1789~1801)にはカボチャはついに絶えてしまった、

とある(仝上)。この「カボチャ」は、

カボチャ瓜、

といい、後に瓜を省いた。曲亭馬琴は、

箱根から西には唐茄子はない、みなカボチャである。カボチャは味が薄くまずい、

と書いていた(仝上)。つまり、

ボウブラ、
カボチャ瓜、
唐茄子、

は、別々のものであった。今日、カボチャは、一つであるが、今日市場におけるかぼちゃのほとんどは、

セイヨウカボチャ C. maximaの日本品種である栗かぼちゃ、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%83%A3、ニホンカボチャとは別種であり、日本国外で、

「Japanese pumpkin(日本のかぼちゃ)」や「kabocha」、

と呼ばれるかぼちゃも主に、栗かぼちゃでありニホンカボチャではない(仝上)。

かぼちゃのお化け.jpg

(カボチャ瓜のお化け 歌川芳員・妖怪双六「砂村の怨霊」https://twitter.com/ukiyoeota/status/924489676873809920/photo/1より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年08月09日

芥子


「芥子」は、

からし、

と訓むが、

かいし、
がいし、
けし、

とも訓む。また「芥子」は、

辛子、

とも当てる。正倉院文書にあり、臼でついた意の〈舂芥子〉の語がある(世界大百科事典)ので、既に奈良時代に、芥子の粉末が使われていた(たべもの語源辞典)。また、延喜式には甲斐、信濃、上総、下総から中男作物などとして貢納されていた(仝上)。ちなみに、「中男作物」とは、

令制下の租税で、中男(大宝令では少丁)は17歳から20歳の男子。中央官庁が必要とする物品を、国郡司が中男を使役し調達して貢進したもの。中男が不足の場合は正丁(21歳から60歳の男子)の雑徭(ぞうよう)で補った、

とある(百科事典マイペディア)。

「芥子」は、

カラシナの種を粉にした、黄色で強い辛味がある香辛料、

であるが、

からしな、

の意もある(広辞苑)。

「からしな」は、

芥子菜、
芥菜、

と当て(仝上)、

アブラナ科アブラナ属の越年草、

で(仝上)、

葉茎は油炒めやおひたし、漬物などに利用される。タカナ(高菜)やザーサイ(搾菜)は、カラシナの変種。沖縄県ではシマナー(島菜)と呼ばれ、塩漬けや炒め物などに多用される、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%8A、種子が、

からし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる、

とある(仝上)。

カラシナ(芥子菜).jpg


「芥」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。「艸+音符介(カイ 小さく分ける、小さい)」、

で、

からしな、

の意であり、

その実、

の意でもある(漢字源)。まさに「からし」の意である。「芥子(カイシ)」も、同義で、

からしな、またその実、

の意である(字源)。厳密には、

「芥」でカラシナを意味し、「芥子」はカラシナの種子の意味、

ということになるがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%8A

「からしな」は、

アブラナ科アブラナ属の越年草、

で(仝上)、

葉茎は油炒めやおひたし、漬物などに利用される。タカナ(高菜)やザーサイ(搾菜)は、カラシナの変種。沖縄県ではシマナー(島菜)と呼ばれ、塩漬けや炒め物などに多用される、

とあり(仝上)、種子は、

からし(和からし)の原料となる。マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種、

とある(仝上)。

「芥子」の語源は、

辛しの義、

であり(大言海)、

形容詞の終止形を名詞とす、

である。

罌粟(ケシ)が渡来すると、芥子がケシの意味で使われたので、カラシかケシか判断に苦しむ、

とあり(たべもの語源辞典)、江戸時代の料理本に、

芥子、

とあるのは、ほとんどケシのことである(仝上)。そこで、

辛子、

の字を用いるようになった、という経緯らしい(仝上)。

辛子酢・辛子味噌・辛子和え、

は室町時代から盛んになるが、

辛子漬、

は江戸時代、

ときがらし、
水がらし、

が現れるのは、江戸末期という(仝上)。納豆に辛子を用いるのも、その頃からである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:芥子 からし けし
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2020年08月10日

海の民


田中健夫『倭寇―海の歴史』を読む。

田中健夫『倭寇―海の歴史』.jpg


著者は、本書の狙いを、

「本書では、倭寇の功罪を論ずるよりも、倭寇の活動をなるべく高い観点から考察して、その実像を東アジアの国際社会という背景のなかに立体的に浮き彫りにしてみたいとおもった。これまでの歴史叙述では陸地中心の歴史観が主流をなしていたが、倭寇の問題はその範疇ではとらえきれない。より広い視野からの、国境にとらわれない海を中心とした歴史観の導入が必要である。それは単なる海面の歴史ではなく、陸の歴史をも包摂するものであり、日本の歴史ばかりではなく、琉球の歴史も、朝鮮半島の歴史も、中国大陸の歴史も、世界全体の歴史をもつつみこむ歴史叙述でなければならぬとおもう。私は本書を『海の歴史』の序章のつもりで書いた」

と記す。そのことは、「倭寇」という文字が、

中国や朝鮮の文献に見える文字、

で、

日本の文献には見られない、ということにも象徴的に表れる。「倭寇」という以上、

本来は日本人の寇賊あるいはその行動である、

はずだが、「倭寇」という言葉自体が、

時と場所のちがいによってさまざまに用いられ、「倭寇」という文字であらわされるものの実体、

は、一筋縄ではいかない。「倭寇」は、

十四~十五世紀の倭寇、
と、
十六世紀の倭寇、

があり、「倭寇」というものが、

「東アジアの沿岸諸海域を舞台とした海民集団の一大運動であるが、構成員は日本人だけではなく、朝鮮人・中国人・ヨーロッパ人を含んでいる。日本史上の問題というよりも、アジア史あるいは世界史の問題といった方がふさわしい。倭寇の活動は東アジア諸国の国内事情を母体とし、国際関係の歪みを引き金として発生し、大きな影響、大きな爪あとを中国大陸・朝鮮半島・日本列島・琉球列島・台湾・フィリピン・南方諸地域の諸国人民に残し、これらの地域の歴史を変革しながら消滅していった」

という大きな歴史的背景抜きには捉えきれないものだからである。

「倭寇」発生時期は、

中国では蒙古民族の元から、漢民族の明へ、さらに満州族の清へ、
朝鮮半島では、四百年続く高麗から李氏朝鮮へ、
日本では、南北朝から、室町時代の武家社会へ、

と、それぞれ大きな変革期にあり、「倭寇」は、

東アジアの激動の時代に発生し国際社会を左右した、

動きであった。

前期(十四~十五世紀)と後期(十六世紀)の倭寇に根本的な相違があるわけではない、

という考え方(本書解説、村井章介)もあるが、本著者は、両時期の構成員の差から両者を分けて考えているように見える。その違いを、

いつ、
どこで、
だれが、
どんな理由で、
なにをして、
それがどうなったのか、
その歴史的意味は何か、

の視点から整理している。「いつ」は、

十四~十五世紀の倭寇と十六世紀の倭寇は、同性格、同内容のものではなく、連続性をみとめることは難しい、

上、両者の活動領域も、前者が朝鮮半島中心なのに対して、後者は、中国大陸全域、台湾、フィリピンにまで広がっている。

十四~十五世紀の倭寇は、多く日本人だが、それでも、その構成員は、

倭人は一、二割で、朝鮮人が倭服をかりに着て徒党して乱をなした、

いわれる程である。十六世紀の倭寇になっても、明史や明の文献自体が、

大てい真倭は十の三、倭にしたがうものは十の七、戦うものはそこで掠めた人を軍の先鋒にする、

と書き、更には、

中国人が一、二の真倭を勾引して酋主とし、みずから髪を剃って、これにしたがう、

とか、

各賊ついに二千余の徒を糾集し、そのうち二百余人が髪を剃って、いつわって倭人をよそおっている、

とか、

三割しかいないという真倭も実は中国人が雇募したもの、

とあり、こうなると、

偽装の中国人集団、

であり、倭寇の主体が中国人ということになる。当目として有名な王直などは、平戸を本拠にし、

部下二千余人を擁し三百余人を載せる大船を浮かべていた、

という。さらに、中国では、海禁政策との関係で、

東アジアに進出したポルトガル人、イスパニア人をも合わせて倭寇と呼んだ、

というか、「倭寇」として処理してしまっていることもあり、「倭寇」と呼んでいた言葉は、かなりあいまいである。しかし、

倭寇の観念が中国人の思想の中に定着したのは、実に豊臣秀吉の朝鮮出兵の時であった。日本史でいう文禄・慶長の役は、中国にとっては最大の倭寇だったのである、

というのが、中国の中にある倭寇のイメージだということは忘れてはならない。

また「倭寇」の理由をみると、

十四~十五世紀の倭寇は、行動目標が、

米穀などの生活必需品に置かれていたこと、

が注目されるのに対して、十六世紀の倭寇は、

掠奪、

ではなく、

私貿易、
密貿易、

であった。

倭寇の活動が低下していくのは、豊臣秀吉の国内統一、特に、天正十六年(1588)の海賊禁止令であるところを見ると、倭寇という寇賊行為が、日本側から見ると、南北朝、室町時代と、少なくとも日本国内の乱れが起因となっていることは確かである。

参考文献;
田中健夫『倭寇―海の歴史』(講談社学術文庫)

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2020年08月11日

天下取り


谷口克広『秀吉戦記―天下取りの軌跡』を読む。

秀吉戦記.jpg


信長研究の第一人者による、秀吉伝、それも良質の史料をもとにした、

秀吉が信長に仕えてから賤ケ岳の戦いに勝つまでの二十数年間が、誰も真似できない彼の能力が最大限発揮された時期(おわりに)、

についての秀吉であり、

天下を平定した後の秀吉には傲岸な為政者の像が目立ち、さらに晩年には誇大妄想や惨忍さまで表れて(仝上)、

姿を隠した「かつての爽やかな姿」の秀吉像に焦点を当てている。

著者は、「一介の農民だった秀吉を天下人に押し上げたもの」は、

一にも二にもかれの精勤さ、

であるという。おそらく寝る間も惜しんで、

他の者の二倍は動いている、

と。自身が、小早川隆景に宛てた手紙で、

若い頃から、信長家中で、自分の真似のできるものはなかった、

と書くほど働いたのである。その上に、

他人の真似できない能力、

がある。その第一は、

現実を踏まえてきちんと計算できること、

を挙げる。

大ざっぱに何日行程とされているところでも、何キロメートルだから一心に飛ばせば何時間で行ける、と彼は計算する。そして、そのために必要な物資、馬とか食料とかを素早く調わせる、

という。

周りの状況を適格に読む力も、秀吉は他の者よりも抜きんでている。秀吉には、中国大返しをはじめ何度かいちかばちかの賭けがあるが、賭ける前に冷静な状況判断がある。これら徹底的に現実を踏まえた思考は、当時にあっては驚くべきものと言っていい、

と。そして、第二は、

相手をたちまちに心服させてしまう才能、

という。俗に、

人たらし、

といわれる能力である。梟雄といわれた宇喜多直家は、最晩年秀吉に心服し、毛利戦の最前線に立つ。賤ケ岳の戦いで、柴田勝家や織田信雄の配下をたちまちのうちに味方にしてしまう手腕など、

まるでマジック、

である、と。そして、

秀吉は、決して自分に付いてくる者を裏切らなかった。宇喜多に対して信長が赦免しなかった時でも、身をもってかばい、決しておろそかにすることはなかった、

と。

では、その秀吉が、天下取りに成功したのは才能だけか、というと、

何重にも重なった運の良さ、

があった、という。その一つは、

秀吉が仕えたのが能力尊重主義の信長だったということである。主君が信長だったからこそ、小者からはじまって方面司令官という家臣最高の地位まで昇進できた、

のである。第二は、

自他ともに認められた信長の後継者である信忠が、信長と一緒に倒れたことである。信忠が難を逃れていたらならば、秀吉には全くチャンスはなかったはずである。

第三は、

明智光秀と戦うことのできる軍勢を持った有力武将、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益のうち、秀吉が京都から最も近い地点にいたことである。しかも秀吉は、敵の毛利氏と講和交渉の段階になっていた。本能寺の変を知った秀吉は、いち早く講和を結んで、弔い合戦に備えることができた。毛利氏が追撃してこなかったのも、大きな幸運であった。

第四は、

秀吉と一緒に弔い合戦を行ったのが三男の信孝の方であり、その功績によって、二男の信雄との差がなくなってしまったこと、後継者としての資格が互角になった二人が争ったため、一方を立てにくくなった。

第五は、

ライバルの一人滝川一益が没落しただけでなく、清須会議に間に合わなかったこと。おかげで、丹羽長秀・池田恒興を籠絡した秀吉は、勝家に対して三対一の優勢を保ったまま会議に臨むことができた。

第六は、

謀叛を起こして滅びてしまった明智光秀が、機内一帯に支配権をもつ「近畿管領」ともいうべき地位にあったということ。そのため秀吉は、その跡を取り込んで京都近辺を固めることができた。

もちろん、その幸運を生かすも殺すも、本人次第である。それについて、著者は、

これほどの幸運が重なるのだから、まさに秀吉は幸運の女神の寵児といってよいだろう。しかし、幸運を最大限に生かすものは、やはり当人の実力である。本能寺の変以後の秀吉の動きを見てみるがいい。毛利との交渉、中国大返し、山崎の戦い、丹羽・池田・堀(秀政)の取り込み、清須会議、畿内の掌握、いかに敏速でかつ適格であったか。秀吉の前には、優れた人材であったはずの明智や柴田さえ、のろまで能無しに見えてしまうほどである。

と書く。この時期の秀吉は、まさに絶頂である。

羽柴秀吉.jpg

(羽柴秀吉像(光福寺蔵))

参考文献;
谷口克広『秀吉戦記―天下取りの軌跡』(集英社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年08月12日

弑逆


高柳光寿『明智光秀』を読む。

明智光秀.jpg


明智光秀の言葉として伝わっているものがある。

仏の嘘は方便という、武士の嘘は武略という、土民百姓はかわゆきことなり、

と(老人雑話)。著者は、言う。

この言葉は合理主義からでなければ出ない言葉である。彼の合理主義は同じく合理主義的な信長とうまがあったであろう、

と。そして、

簡単に彼を保守的な人間と考えることは誤っていると思っている。そう思わせるのは、かれの合理主義だと思うのである、

とも。明智光秀も、

豊臣秀吉、
滝川一益、
荒木村重、
福島正則、
加藤清正、

等々この時期の武将と同じく、出自も、父の名も分明でない。少なくとも、しかし、秀吉とは異なり、

明智という名字、

は持っていた。

光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が世に広く知られるに至ったのであり…、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こした、

ということでもあった、と著者は書く。本能寺の変の後、奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊は、

惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此、

と記している(多聞院日記)が、その他、「永禄六年(一五六三)諸役人付」に載った足軽衆の中に明智の名があり、これが光秀ではないか、とされている等々あるが、いずれにしても、名のあるものではなかったことは確かである。

光秀の名が史書に見えてくるのは、永禄十一年(1568)七月に、足利義昭が朝倉義景のところから信長の招きによって美濃に赴いたときからで、この一件に光秀が関係していたのであるが、そのことは、しかし良質の史料には載らないものの、

『多聞院日記』や『原本信長記(信長公記)』などは義昭や信長を中心として記しているので、光秀のことは書いていない。またこの一件に関係した細川藤孝のことも見えていない。しかし光秀・藤孝の両人がこの一件に関係したことは事実であったらしい、

とある。細川実記には、

光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬(うまのり)の身分である、

とし、著者は、

義昭が美濃へ移った当時、光秀はすでに信長の部下となっていたことは事実とみてよい、

とする。光秀が良質の史料に登場するのは、永禄十二年(1569)四月十四日の、秀吉と連署の賀茂荘中当てた文書で、

賀茂荘内で前に没収した田畠は、少分ではあるけれども、御下知の旨に任せて、賀茂の売買升で毎年四百石ずつ運上せよ、また軍役として百人ずつ陣詰せよ、

という(義昭が承認した旨の)奉書を与えている。つまり。信長上洛の翌年には、光秀、秀吉とも、京都の政治に関与する、相当の身分になっていたことがわかる。

以後、異数の出世をし、天正八年(1580)の、佐久間信盛の追放の折檻状で、信長は、

丹波における光秀の軍功は天下の面目を施した、

というほど推賞した。その光秀は、翌九年六月二日付で、軍規を定め、

自分は石ころのように沈淪しているものから召出された上に莫大な兵を預けられた、武勇無功の族は国家の費である、だから家中の軍法を定めた、

と記した。しかし、その一年後、天正十年(1582)六月二日、光秀は本能寺の信長を襲う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、

を代表に、種々あるが、この謀叛が、長年練ったものではなく、細川藤孝・忠興父子への手紙に、

我等不慮之儀存立候、

とあるように、不意の決断であったことは、はっきりしており、著者は、

信長を倒すのには、今のような時期はまたと来ないであろう。天下を取るのは今だ、今をおいてほかにはない。香光秀は考えたのではなかろうか、

とし、

このようなことを彼は五月十七日安土から坂本に帰ったころからすでに考えていたであろう。そして坂本にいる間に熟考したであろう。しかし決断はつかなかった。二十六日坂本から亀山に入ったときも迷っていたに相違ない。そこで決断を神に依頼したのであった。神への依頼というのが愛宕山の参篭である。光秀は二十八日愛宕山にのぼった。そして運命の決定を勝軍地蔵の判断に任せたのである。幾度も籤を引いたというのは迷いに迷ったからであろう、

と記す。光秀は、

諸将の行動について十分検討を行い、彼らが敵対行動をとるにしてもすぐには光秀を攻撃することができない状態にあること、攻撃し來るとしてもその攻撃は短期日には決して強力であり得ないと計算した、

が、その予想を覆して、秀吉が、早くも十一日に尼崎に進出、十二日には先鋒高山重友勢が、山崎へと入ったのである。秀吉の、この予想外の急速上洛が、光秀のすべての思惑を吹き飛ばした。

明智光秀とは何者なのか。著者の言葉は痛切である。

光秀の伝記を書き了ってここに感慨なきを得ない一事がある。それは信長の行動を記さなければ彼の伝記が書けなかったということである。彼の行動は信長の意思によって制約されていた。彼は信長の意のままに動いていた。これは淋しいことである。完全に独立した人格の樹立。それの企図が同時に死であった彼である。

光秀が自分の意思で、光秀として立ったのは、信長へ謀叛であった。

参考文献;
高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館)

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2020年08月13日

本能寺の変


高柳光寿『本能寺の変』を読む。

本能寺の変.jpg


本能寺の変から、山崎の合戦までを追う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、
黒幕説、
謀略説、
不安説、

等々諸種あるが、著者は、

信長は天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。秀吉だって賤ケ岳の戦いの後、主筋に当たる信孝を信雄に殺させ、その信雄を小田原征伐の後に改易して領地を取り上げてしまった。光秀が愛宕山で鬮を探って迷ったというのは、主殺しという道徳的な苦悶からではなく、主殺しの成否と主殺しの後における事業、天下取りの成否について迷ったものと解すべきである、

と述べる。これは、著者が『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476798591.html?1597172317で述べたことであるが、

天下取り、

の絶好の機会を逃さなかった、というところに原因を求めた嚆矢である。

光秀は、本能寺襲撃の当日の二日、

事終而惟日大津通下向也、山岡館放火云々(兼見卿記)、

とあるように、光秀は先ず要衝瀬田を抑えようとした。しかし、瀬田城主山岡美作・山岡対馬兄弟瀬田橋を焼かれたが、翌日の三日、

己丑(つちのとうし)、雨降、日向守至江州相働云々(兼見卿記)、

更に四日、
庚寅(かのえとら)、江州悉日向守、令一反云々(仝上)、

続いて五日、

辛卯(かのとう)、日向守入城安土云々(仝上)、

六日、七日と安土に留まり、

七日、癸巳(みずのとみ)、……當國悉皈附、日野蒲生一人、未出頭云々(兼見卿記)、

と八日まで江州の地に留まり続け、近江・美濃の諸将の誘降に努める。

誤算は、細川藤孝・忠興父子の離反であった。古くからの付き合いがあり、忠興の妻は光秀の娘(たま)であった。また光秀与力であった筒井順慶は、四日、山城槙ノ島城主とともに、近江に兵を出した。しかし、九日になって河内へ出兵する予定をしていた順慶は、にわかに兵を引き、籠城の準備に入る。

著者はこう書く。

光秀の失敗は、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を味方にすることができなかったばかりでなく、池田恒興以下中川清秀・高山重友、さらには塩川党など摂津衆を味方にすることが出来なかったことである、しかしこれをもって彼の無能とすることは酷である。光秀としては、これらの人々は自分の組下であるので、当然自分を味方すると考えていたであろう。それが不安であっても、これらの人々に圧力を加えるよりも、早く信長の本拠を覆滅しなければならない。摂津や太和や丹後は後でよい。そう考えることが至当である。ただこの至当の処置が至当でなくなったのは急速な秀吉の進出にあったのである。秀吉は高松にひっかかっている。そう考えるのが当然である。この当然が当然でなくなったので、摂津・大和・丹後の処置を後にするという至当が至当でなくなったのである。

秀吉の中国大返しのスピードが驚嘆されるが、実はそれ以前に、この当時にあって、

主将の訃報に接すれば、敵城攻撃の兵を徹するというのが普通、

なのである。現に、柴田勝家勢は、上杉方松倉城を攻囲していたが、松倉城の囲みを解き、攻略した魚津城をも棄てて退却し、それぞれの居城に戻っている。しかし、秀吉は、

訃報に接してから、高松開城・清水宗治切腹と談判が成立するまでおそらくは二、三時間、長く見積もって四、五時間に過ぎない。その間における彼の苦心は容易ならぬものがあったに相違ない。それなのに彼は快刀乱麻を断つという言葉通りに、異常の難問題を最大の利益を得て解決したのである。勿論、それは数日前から行われていた談判には相違ない。しかしそれにしても、このような有利な解決が瞬時に、……そう形容しても何らさしつかえないほどの速度をもって解決し得たということは、そこに彼の非凡な頭脳と能力とを観取せざるをえないのである。

この講和で、ほぼ勝負の帰趨が決したといってもいいほど、そのときの秀吉の力量を示している。

山崎の戦いは、

左翼(山の手)羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治(秀吉組下・旗本)等々、
中央(中の手筋)高山重友・中川清秀(旧光秀組下)・堀秀政(信長近習)等々、
右翼(川の手)池田恒興(旧光秀組下)・加藤光泰・木村隼人・中村一氏(秀吉旗本)等々
後詰、筑前守馬廻衆、三七郎旗本衆、惟住旗本衆、蜂屋勢等々、

の布陣で、戦況は、秀吉右翼、川の手勢が箕(み)の手なりに(明智勢左翼を)押し包みに掛かり、特に加藤勢の進出が目覚ましく、それが明智勢を動揺させたという。このとき、秀吉は、

右翼川の手部隊を自ら率いて戦った……。山崎の戦いは左翼天王山を拠点とし、右に前方へ弧を描き、右翼川の手の進出によって敵を包囲し、これによって勝利を得たのであるが、この右翼部隊を秀吉は自分で直接指揮したのであった。天神馬場に予備軍を手中に握り、中央後方に控えていたはずであるが、事実は弟秀長に左翼の指揮を委任し、御坊塚(光秀本陣)を目標として、専ら右翼の進出を志して池田らを指揮するとともに、自分の旗本を以ってこれを遂行したのであった。

そして、著者は、こう書く。

このようにして、秀吉自身が全軍の総指揮官として、全軍を手中に握って行動させたことはいうまでもないが、敵軍包囲の作戦と主要進出部隊とを予め想定し、この主要進出部隊を自分自身が直接指揮したのであって、この一事は……戦闘における彼の決意を見るべきであり、これが主要部隊の行動を活発にさせ、全軍の士気を振り起こさせたことはいうまでもない、

と。秀吉は、戦況を報じた書状で、信長の仇を報じえたのは、

一に懸かって秀吉一個の覚悟にある、

と述べているとか。まさにそれを表した戦略であった。

参考文献;
高柳光寿『本能寺の変』(学研M文庫)

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2020年08月14日

からい


「からい(からし)」

辛い、
鹹い、
酷い、

等々と当てる(広辞苑・岩波古語辞典)。「からい」の意味は、

舌を刺すような鋭い味覚、古くは塩けにも酸けにも使う。転じて、感覚的に、骨身にしみるような状態。類義語ツラシは他人の仕打ちを情けなく感じる気持ちを言う」

とあり(岩波古語辞典)、味覚の、

激しく下を刺激するような味、

の意がはじめで、それには、

(唐がらし・わさび・しょうがなどの味にいう)舌がささるようだ、ひりひりする、

の意と、

(「鹹い」と当てる)塩味が強い、しょっぱい、

の意と、

酸味がつよい、すっぱい(新撰字鏡)、

の意と、

こくがあって甘みの少ない酒の味にいう(新撰字鏡)、

と、幅広い味覚を指している。その味覚の刺激が転じて、広く身体への刺激の意に広がって、

心身に強い刺激を与える状態、または心身に強く感ずるさま、

の意で使う。その意味では、

やり方や仕打ちが厳しく酷い、残酷である、
あやうい、あぶない、

という外からの視点の価値表現と、

つらい、せつない、

という意や、

いやだ、気に染まない、

という内の主体的な価値表現とがあり、それが転じて、連用形を副詞的に使って、

男女からく神仏をいのりて、この水門を渡りぬ(土佐日記)、

というように、

必死に、懸命に、

の意や、

けしうはあらぬ歌よみなれど、からう劣りにしことぞかし(大鏡)、

というように、

大変酷く、

の意でも使う(以上、広辞苑)、と結構幅広い意味がある。江戸語大辞典をみると、

むごい(文化五年・俊寛僧都島物語「怨みを報はんとて、かくまで苛(から)く挙止(ふるま)へるなり」)、

とか、

つらい(文化四年・新累解脱物語「さては彼の醜婦の冤魂(おんりょう)わが児にまつはりて辛き見するにや」)、

とか、

しわい(文政十二年・孝女二葉錦「辛吝(から)くして人のかすり斗りとるやうでは。矢張是も済まねへから」)、

と、味覚の意味が、価値表現へと転じた意味のみが載る。

ただ、古くは、

塩の味を形容する語であり、「あまし」の対義の関係にあったと考えられる。塩味にも通じる舌を刺すような鋭い味覚の辛味を形容する例は平安時代の頃よりみられるが、塩味を「しははゆし」「しほからし」と表現するようになるにしたがって、「からし」は辛味にもちいられる例が多くなっている、

とある(日本語源大辞典)。つまり、もともとは、

からし、

は、

鹹し、

と当てる意味だったが、

しほからし、

と分化したことで、辛味に集中した、ということになる。たしかに、「塩からい」意の「からし」は、万葉集に、

志賀の海人(あま)の、煙焼き立て、焼く塩のからき戀をも吾はするかも(石川君子)、

とあり、辛味の「からし」は、

みな月の河原に生ふる八穂蓼のからしや人に遭はぬ心は(古今六条)、

と平安期に出てくる。

さて、「からい」の語源であるが、大言海は、日本語源広辞典が否定する、

気苛(けいら)しの略転、来到る、きたる。衣板(きぬいた)、きぬた、

とする。日本語源広辞典は、喉が嗄れるような味という意で、

カラ(嗄)+イ、

を採る(他に、国語の語根とその分類=大島正健)。その他、

その味のはげしく、人のいかりのようだということで、イカルから(日本釈名)、
イカラン(憤味)の上略(柴門和語類集)、
「カラシナ」の種(芥子)が辛いので辛しと呼ばれたhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318075738

等々あるが、塩味が先だとするなら、

カラ(嗄)+イ、

なのかもしれない。ただし「芥子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476744145.html?1596918519で触れた、「芥子」(からし)は、正倉院文書にもあるほど古いので、これから来たとする説も捨てがたい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ラベル:からい
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2020年08月15日

能天気


「能天気」は、

能転気、
脳天気、

とも当て(大辞林・広辞苑)、

のーてんき、

などとも表記される。意味は、

軽薄で向こう見ずなさま、
生意気なさま、
物事を深く考えないさま、

という意味が載る(広辞苑)。三者の意味は少しニュアンスが異なる気がするが、

物を甘く見て(高を括って)、極楽とんぼをかます、

だから生意気を言う、という意味では、意味はほぼ重なるのかもしれない。「極楽蜻蛉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/429793857.htmlについては触れた。

悩みなどなく、何も考えていないことを指す言葉、

ともある(実用日本語表現辞典)。だから、

軽薄なことや安直なこと、またはそのような人、

の意になり、

更にそれが転じ、生意気な人を指しても使われる、

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410453834ので、意味の外延を広げたと見ることができる。

本来の表記は、

能天気、

であり、

脳天気、

は戦後に現れた比較的新しい表記である、

とありhttps://dic.pixiv.net/a/%E8%84%B3%E5%A4%A9%E6%B0%97、この「脳天気」は、小説家の平井和正が書いたのが嚆矢で、広まったhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410453834、とされる。

過去には「能転気」と表記されることもあった、

ともあるがhttps://dic.pixiv.net/a/%E8%84%B3%E5%A4%A9%E6%B0%97、それがいつを指すのかがはっきりしない。

すでに江戸時代には使われており、江戸語大辞典には、

能天気、

の表記で、

軽薄で向こう見ずな男、

の意とある。

「能天気といふ者、夜々に出て群り、大口をきひて喧嘩を起し亦はやり哥をうたふて」(宝暦四年(1754)魂胆惣勘定)、
「面打の瞳を入れる能天気」(明和四年(1767)不断ざくら)、
「闇もよしおもひの儘ののふてんき」(明和四年(1767)豆鉄砲)、
「声色で高座を叩くのふてんき」(文化九年(1812)誹風柳多留)、
「花のころやみ雲の出るのふ天気」(文政十年(1827)誹風柳多留)、

等々https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E8%84%B3%E5%A4%A9%E6%B0%97の用例から見ると、向こう見ず、という含意は薄れ、軽薄、吞気の意味が強くなる気がする。

語源ははっきりしないが、

頭の中が晴れている、という比喩から、

とあるhttps://d.hatena.ne.jp/keyword/%E8%84%B3%E5%A4%A9%E6%B0%97のが、その含意をよく伝えていく気がする。

能天気とは、頭の中が快晴であるという意味だが、空が澄み渡るように頭脳明晰であるということを言いたいのではなく、空に雲一つないようになにも考えていない様子を言い表している。普通の人間なら将来に不安を抱いたり、現状を思い悩んだりして、雲のふたつやみっつ空に浮かび、太陽もかげりを見せているだろうに、そうはなっていないことから、要するに頭の中が澄み渡るようにハッピーな状態、

を能天気と言う(笑える国語辞典)とあるのも、同趣旨だ。

対義語として、些細なことにも気を病む「神経質」などが挙げられる。能天気は相手を蔑むようなニュアンスがあるのに対し、似た意味の「楽観的」は物事を良い方向に捉える考え方を意味する、

ともある(実用日本語表現辞典)が、むしろ、

暖気、
呑気、
暢気、

等々と当てる「のんき」に近い気がする。だからか、日本語源広辞典は、「能天気」の語源を、

ノンキ(暖気、気晴らし)から派生した語、

とし、

「軽薄で調子者」の意を表す「のんき」(気晴らし)と区別するために、「ン」を、テン付きの語とみて、ノウテンキとしたのが語源、

とする。よくわからない言い回しだが、「暖気」の「暖」の、唐音ノンの転訛とされる(大言海は宋音)。従って、吞気、暢気は当て字である。

気晴らし、
気分や性格がのんびりしている、

意で、「能天気」とは、かなりニュアンスが異なる。

「のんき」ということばとも似ていますが、「のんき」は良い意味で用いられる場合もあるのに対し、「のうてんき」はどちらかというと侮蔑するような印象が感じられる傾向があります、

とあるhttps://www.alc.co.jp/jpn/article/faq/04/29.html

「能」という字は、物事をうまくこなすという意味をもっていますから、「能天気」、「能転気」と書いた場合「天をも意のままにするかのような気持ち」、あるいは「何事もうまく転じられるかのような気持ち」といった意味になるでしょうか、

という解釈もあるかもしれない(仝上)が、「暖気(ダンキ)」は、

あたたかさ、

を意味し(字源)、それをメタファ―に、

長閑で、のんびりしている

意で使った、と思われる。大言海は、

気の煩ひなく、伸び伸びすること、

という意を載せる。これが元々なのは、

中世紀には、(気晴らしをすること、気散じすること)のような動作性の意味でもちいられたが、次第に(のんびりしていること、むとんちゃくなこと)のような心理的な意味合いを表すようになった。「のんぴら」「のんどり」など「のん」を含む語の意味への類推が働いたためか、

としている(日本語源大辞典)。室町末期の伊京集には、

暖気 ノンキ、遊也、

とある(岩波古語辞典)。そう考えると、

頭の中が快晴、

の能天気と、

暖かさ、
のんびりしている、

とは通底していることは確かである。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2020年08月16日

いたいけ


「いたいけ」は、

幼気、

と当てる(広辞苑)。

「この瓜の美しさよ。あはれこれほどいたいけなる幼いものを持ちたらば、いかばかり嬉しかりなん」(瓜姫物語)、

というような、

小さくて愛すべきさま、美しくかわいらしいさま、可憐なさま、

の意(広辞苑・岩波古語辞典)と、

子供などのいじらしくいたいたしいさま、

の意(広辞苑)とがあるが、後者は、

いたいたし、

の意味に重なるので、当初の意味の転化と思われるが、もともと、

イタキ(痛)ケの音便形。ケは様子。見ると心が痛むほどに愛らしく思われる、

とあり(岩波古語辞典)、「いたし」(痛し)と深くつながる。嬉遊笑覧も、

いたいけは痛気(イタイケ)なるべし、いと愛(ヲシ)むの意の深きをいふなり、

とあり、

かわいらしさが「痛し」というほど強く心に感じられる様子であるところからいう、

とある(日本語源大辞典)。

イトヲシケ(最愛)の転か(両京俚言考)、
イダキコ(懐児)の転略(柴門和語類集)、

等々も、趣旨は同じである(仝上)。

憎い様子、
憎らしい態度、

の意の、「にくいけ」(憎い気)という言葉があるが、同じ構成の言葉になる(仝上)。

「け」(気)は、

「気(キ)」の呉音ケに由来する、

という説もあるが(広辞苑)、岩波古語辞典には、

接頭語カ、接尾語ヤカ・ラカのカの転。キヨゲ・カナシゲなどの接尾語ゲと同根、

とあり、「ゲ」(気)で、

ケ(気)と同根。平安時代に広く使われ始めた、

とあり、

名詞・用言について、外から見たところ、そのように見える意、気色・様子・感じを表す。~そう。~らしさ。たとえば、「清ら」は美しさそのもの、「清げ」は美しそうに見える意で、「清ら」に及ばない第二流の美、

とある。つまり、当初は、

心が痛くなるほどの可憐さ、かわいさ、

というこちらの主体的な感情の意が、転じて、

いじらしい、

と、相手の側の痛々しいであろうと忖度する意に変わっていくことになる。

しかし、大言海は、

傷(イタ)き気の音便。いたはし気(ゲ)、いたいたし気(ゲ)の意、

とするので、「痛い」の意が少し強いので、当初から、

いたいたし、

の意と重なっている意になる。さらに、

幼稚(穉)に云ふ詞、沙石集に見ゆ、痛気の義なるべし(和訓栞)、
いたいけ、労(いたは)し気なり(語彙)、

を引き、

幼き小さき状(さま)に云ふ語、幼気(イトゲ)、いとほしさ、

とあるので、幼いものに対する、

かわいらしさ、
と、
いじらしさ、

があり、それが、

いとおしさ、

いたいたしさ、

の両義を語意として持っていたということになる。

「いたいけ」を形容詞化した、

いたいけない、

という言葉がある。

頑是ない、

の意だが、この「いたいけない」は、

似た意味の語に「いとけない」があり、それとの混同で「いたいけない」が生まれたと推定されている、

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=15。しかし、

いたいけらし、

は古くからあるが、「いたいけない」は、比較的新しく、

「いたいけない」の用例は『日国』第2版にも登録されていない。現時点で筆者が確認できた古い例は、プロレタリア作家黒島伝治の『武装せる市街』(1930年)の「どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが」という例のみである、

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:いたいけ
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2020年08月17日

賤ヶ岳の戦い


高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』を読む。

賤ケ岳の戦い.jpg


古くから「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの戦いの名称について、著者は、

「この江北の一戦は、本来なれば、余呉庄合戦とか、柳ケ瀬の戦いとか呼ばれるべき筈である。現に『江州余呉庄合戦覚書』という本がある位である。それなのに、古くから普通に賤ヶ岳合戦といっている。そこにはそれだけの理由がなければならない。七本槍のあった地名によるなれば、飯浦山合戦といってもよい筈である。それを賤ヶ岳合戦というには、飯浦山の戦いを秀吉が賤ヶ岳の砦にあって指揮していたからではないかと思う。七本槍の感状には柳ヶ瀬表という言葉はあっても賤ヶ岳という文字は見えていない。理窟にならない理窟をつけるような気がするが、この一戦を賤ヶ岳合戦というのは、どうもそこで秀吉が指揮をとったからではないかと思う。そしてこの切通しの勝敗が全局の勝敗を決定したからであろう。」

と分析する。実はこのことは、大事な分析を前提にしている。大垣から、大返しで、十三里を五時間で駆け戻った秀吉は、大岩砦、岩崎砦陥落で動揺する味方の士気を鼓舞するため、自分の到着を諸軍に触れ、夜明けを期して攻撃開始を令し、賤ヶ岳の砦に入った、と著者は見る。しかし、

「秀吉が賤ヶ岳の砦に入ったと書いている史料は一つもない。丹羽長秀がこの砦に入ったということは、『太閤記』『志津ヶ嶽合戦小須賀久兵衛私記』『丹羽家譜伝』などに見えている。そして、『太閤記』には、秀吉は賤ヶ岳の砦の南に旗を立てたとある。しかし、砦は山巓にある。その南では山に遮られて指揮はできない。秀吉の七本槍の感状をみると、秀吉の眼前において槍を合わせたとある。七本槍のあったところはこの切通し付近である。それを秀吉は高い所、すなわち賤ヶ岳の砦から見ていた。それでなければ、この文字は使用できない。切通しを見通せるところは、秀吉からはこの賤ヶ岳の砦より外にない筈である。秀吉はこの砦にしいて切通し付近の勝政隊攻撃の指揮をしたとすることは誤っていない。」

という前提である。それはさらに、秀吉は攻撃の部署を決め、

「自分自身で(大岩砦に留まる)佐久間盛政に当たることにした。これは、結果は追撃となったのであるが、軍全体の配備からいえば三手にわかれ、自分が左翼に廻ったことになる。そして狐塚にある勝家に対して包囲の形成をとったのである。この秀吉が左翼に廻ったということは、全軍の把握が難しいように考えられるが、(中略)このときの作戦は右翼を移動させないで、それを軸として左翼から敵の右翼を打ちのめして、これが成功を待って中央を進出させ、右翼からも突撃させるという策をとったのであり、左翼が主動部隊であり、しかもその行動は峰筋で行われたので、中央からも、右翼からも望見され、それをはっきり知ることが出来るという状態にあった。だから、秀吉自身が左翼に廻ったということは最も適当した、最も必要な処置であった。」

という戦略とも合うのである。

秀吉帰陣の方を受けて、大岩山から退陣する佐久間盛政隊を援護していた柴田勝政隊三千は、賤ヶ岳の西北方約百メートルの切通しにあり、秀吉は、切通しの東南方の小平地、切通しまでは約五百メートル、俯瞰できる位置にある。

「秀吉は旗本をその真近に攻撃態勢を取って布陣させ、自分は高いところから、敵陣とこの兵とを見おろして、攻撃の機を待っていた」

のである。

「秀吉は柴田勝政隊攻撃の機会を待っていた。この敵部隊が退却を開始するであろうことは十分予想されるところである。われはこれに対して、兵力を集中し、包囲の姿勢を取り、監視を厳重にして敵の退却開始を待てばよい。そして退却開始と同時にこれを攻撃すればよい。退却開始は敵陣動揺の端緒である。それを秀吉は待っていた。」

そして、まさに柴田勝政隊の退却開始と同時に、待機の旗本部隊に攻撃を命じた。

「勝政の部隊は切通しの低地を挟んで、その両側に布陣していたらしい。そこでまず東南方の高みにある部隊を西北方の高みに収容しようとしたのであるこの東南方の部隊が低みにかかったところを、秀吉の旗本は東南方の高みから銃撃を加え、敵が動揺するに及んで、秀吉はこれに突撃をおこなわせた。」

柴田勝政隊は、峰筋を北方へ二キロ、戦いつつ権現坂付近の佐久間盛政隊に合流しようとする。

「佐久間盛政は退却して来る柴田勝政の兵を収容し、列を乱してこれを追ってくる秀吉の兵を迎えて、これに邀撃をくわえた。」

勝政の隊は総崩れになり、二十町ばかり敵味方一つになって追い立てられたが、峰筋の高みにある二千ばかりの盛政隊は備えを崩さず、『江州余呉庄合戦覚書』には、

「盛政は分目の戦いを快くやるだろう」

と書くほど、収容は成功するかに見えたが、

「このときに当たって、茂山にあった盛政の左側背の掩護に当たっていた前田利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。それは敵と戦闘を開始した盛政隊の背後を遮って、東方から西方へ峰越に移動して塩津谷に下り、そこから北方の敦賀方面へ脱出したのである。」

前田隊の移動は、盛政の隊からは、

裏崩れ、

に見え、

「前田隊より後方に陣していた諸隊からは盛政隊の敗走のように見えた。そこで初めから戦意を有たない部隊は勿論のこと、その他の部隊にあっても戦意を失ったらしく、早くも戦場を脱走するものが少なくなかった」

という。

「このころになると、秀吉の兵力はますます増加し、(中略)南方及び東方から佐久間信盛の隊に強力な攻撃を加えた。これに対して、盛政方にあっては佐久間盛政・原彦次郎ら奮戦大いに努め、行市山の陣地へ峰筋をしだいに北方に退却したけれども、前夜からの疲労もあり、ついに力及ばず、盛政の兵は全く潰乱に陥り、一部は峰伝いに柳ヶ瀬方面へ、また一部は山を下って塩津谷方面へ敗走したのであった。」

そして、著者はこの戦闘の帰趨をこう断言する。

「この切通しから権現坂までの戦闘の勝敗は余呉湖を中心とする柳ヶ瀬一帯の戦争を決定づけたものであるが、それはまた全戦局の勝敗をも決定したものでもあった。そして権現坂における勝敗を決定した一番大きな原因は前田利家の裏切りであったのである。」

それは、クラウゼヴィッツの、

「戦争は政治的交渉の一部であり、従ってまたそれだけで独立に存在するものではない」

という「戦争論」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449836582.htmlを思い起こさせる。「戦争」は、あくまで政治的目的達成の手段である。間違っても、戦争が目的化されることはない。

「戦争は政治的交渉の継続にほかならない、しかし政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」

である、と。

利家に限らず、秀吉の切り崩しは、多岐にわたったが、同じことは、勝家側からも行われ、

「堂木山の守将山路将監……、賤ヶ岳の桑山重晴・岩崎山の高山重友にしても、勝家に通じていたと思われる節がないではない。」

だからこそ、敵の陣営に加えぬため、大垣からの帰還を急ぎ、それを、味方に知らしめようとしたのである。

「そこでその帰還を味方の諸将に知らせるという目的もあって、盛んに松明を焚いた…。賤ヶ岳をはじめとして田上山からも、北国脇街道のこの松明は良く見えた筈である。」

と。だから、

「勝家の政治力が秀吉のそれより勝れていたら、賤ヶ岳の戦いは佐久間盛政の大岩山攻略を機会として勝家の勝利に帰したであろう。(中略)勝家は盛政の大岩山攻略によって秀吉陣営の崩壊を期していたのではなかろうか。岩崎山の高山重友も、賤ヶ岳の桑山重晴も敗走した。堂木山の敵も動揺した。神明山の敵も動揺したであろう。けれども田上山の羽柴秀長の陣と左称山の堀秀政の陣は微動だにしなかった。そのために堂木山の兵も神明山の兵も敗走するに至らなかったのである。すなわち秀吉の陣は崩壊すべくして崩壊しなかったのであった。秀長は勝家方の盛政のような地位にあったから問題とすることはできないとしても、秀政を完全に掌握していたことは、秀吉の政治力でなければならない。」

と。すなわち、

「戦争は単なる軍事的行動ばかりではない。戦争は戦闘ではないのである。」

と著者は締めくくる。

賤ヶ岳合戦図屏風.jpg

(賤ヶ岳合戦図屏風(右隻) 秀吉本陣部分 https://issh.jp/satoh/museum/y-sato/hakubutukan11.htmより)

参考文献;
高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』(学研M文庫)

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2020年08月18日

語るに落ちる


「語るに落ちる」は、

話しているうちに、うっかり本当のことを言ってしまう、

意で(広辞苑)、

問うに落ちず語るに落つ、

あるいは、

問うに落ちず語るに落ちる、

の略とされる。つまり、

人にとわれた時には、用心して胸の中の秘密を言わないが、何気なく話す時は、かえって真実の事を漏らしてしまうものだ、

という意である。

とふにおちぬはかたるにおつる、

とも言う(故事ことわざの辞典)。

しかし、この対は、ちょっと違う気がする。

問われているという状態の時は、十分緊張し、慎重に答えるが、何気なく、普通の話をしている時は、何かの拍子に、ふと漏れてしまう、

というので、二つのシチュエーションは全く違う。むしろ、

問われて緊張している状態、
と、
くつろいで油断している状態、

との対ではないか。

問わず語り、

という言い方もある。たしか、「ものがたり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163498.htmlで触れたが、人は皆自分の物語を持っており、それを語りたがっている、という。だから、心が緊張から解け、自分のことを話している時は、つい、言わでものことを言ってしまう、ということはある。

それに、しゃべる時は、意識の流れの中から、言語化して口に出すが、意識は言語のスビートの20~30倍のスピードで流れていく。何かをしゃべろうとして、その言語化に気が向いている時は、何かの中身に無頓着になることがある。しゃべってしまった瞬間、自分の言葉を耳で情報として聞いて、ハッとするということはある。

しかし、一方、質問というのは、

人は問われたことの答えを自分の中で探そうとする、

という効用があるとされる。で、問題は、

どう問うか、

でその答が変わる、ということだ。例えば、

何があったんだ(何が起きたんだ)?

と問えば、何があったか、という事柄を語るだろう。しかし、

何したんだ(何やったんだ)?

と問えば、何をしたか、自分の行動を語るだろう。そして、

何考えてんだ?

と問えば、自分の言い訳を言うだろう。

やったこと、

考えたこと、

は、言い訳で包めることが出来る。しかし、

起こったこと、

は、聞き手が観察力さえあれば、突っ込みどころが見えてくるはずだ。なぜなら、起こったことを語る時は、とりあえず、俯瞰的に、時系列に従って、起こったことを語るしかないからだ。その事実経過の中で、相手が、どこで何をしようとし、結果何が起きたかは、後から当てはめて行けばいい。

結局、何が起こったかを語ることで、何をしたかは、おのずと見えてくるのではないか。

問うに落ちず語るに落つ、

の語りは、確かに油断した状態で、思わず語るということもあるが、

ただ自分の物語を語らせる、

のではなく、

自分を含めた状態の変化を語らせる、

ことで、結果として、

語るに落ちる、

ことになるのではないか、という気がする。

「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0で触れたが、時枝誠記氏は、日本語の表現形式を、話し手が対象の客観(客体)的な表現である「詞」を、主観(主体)的な表現である「辞」が包む、「入子型構造」と呼んだ。

詞と辞.gif

つまり、「事実」は語られるとき、「辞」という主体的表現によって、偏っている。だから、主体の行動や考えの言い訳を聞く限り、事実は見えてこない。だから、できる限り、「辞」に包まれている「詞」を再現し、何が起きているかを浮き上がらせることの方が、正確に起きたことを見極める近道になる。犯罪捜査で、目撃情報だけに頼ると、誤認逮捕になるのは、その事実は主観的な事実に過ぎないからだ。その意味では、多くの目撃情報を集め、その中から、何が起きたかを再現しようとすることの大事さがわかる。

語るに落ちる、

は、

語るに任す、

のではなく、

語らせる、

ことだ、ということになる。そのための問いが鍵になる。

「かたる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.htmlで触れたように、「かたる」は、「はなす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148とは違う。「はなす」は、

放す(心の中を放出する)

である(大言海)。「かたる」との差は、

筋のある、
事柄や考えを言葉で順序立て、

というところになる。だから、「かたる」は、

語る、

と、

騙(衒)る、

と漢字で当て別けないかぎり、そのいずれなのかは、

かたる、

だけでは区別されない。いずれも、


「タカ(型、形、順序づけ)+る」で、順序づけて話す、

である(大言海)。そこで語られる、

順序付けた事柄、

こそが、突っ込みどころ満載の、「語るに落ちる」鍵になる。そのとき、

どの位置にいて、
どう関わったのか、

は、それを語るパースペクティブ(視界)に、おのずと事実が顕れる。なぜなら、パースペクティブは、主体からの物事の見え方を示しているからだ。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2020年08月19日

たまげる


「たまげる」は、

魂消る、

と当てる(広辞苑)。今日、あまり使われないが、

おったまげた、

ぶったまげた、

という言い方に残っている。

魂が消える、

意から、

非常に驚く、
びっくりする、

意味で使われる。たとえば、

半ば読みさしおおきにたまげ(浄瑠璃・心中宵庚申)、

といったように使われる。同じく、

魂消る、

と当てて、

たまぎる、

と訓ませ、やはり、

びっくりする、
非常に驚く、
びくびくする、

意でも使う(広辞苑)。こちらの方が、用例は古く、

主上よなよなおびへたまぎらせ給ふ事あり(平家物語)、
いとほしやさらに心の幼(をさな)びて魂切れらるる恋もするかな(山家集)、

とあり、

魂切る、

とも当てている。そのためか、

たまげるは漢字で「魂消る」と書くように、魂が消えるほどの思いから、驚きを意味する言葉として江戸時代から使われている。「消る(げる)」は、「消える(きえる)」が縮まったもの。「たまげる」と同じ意味、同じ漢字が使われる「魂消る(たまぎる)」という言葉がある。本来「たまぎる」は「魂切る」と書き、怯える意味で鎌倉時代から使われ室町時代から「驚く」という意味に転じたため、「たまげる」と同じように扱われるようになった語で、元は別の語である、

という説もある(語源由来辞典)が、

魂消る
魂切る、

は当て字にすぎず、

たまぎる→たまげる、

と転訛しただけではあるまいか、用例を見る限り、平安末期も、「驚く」意味でも使われているのだから。大言海は、

たまきえを約めて活用す、

とし、日本語源大辞典は、

たまげるの「げる」は、「きえる」の変化したもの、

とあるので、

たまきえ→たまきえる→たまぎる→たまげる、

と転訛したと考えていいのではあるまいか。安斎随筆には、

強く驚くを云ふ田舎詞に、タマゲルと云ふ、キユを約めたるなり(キユの切音、ケなり)、古歌に、雪消をユキゲと云ひ、消えぬが上にと云ふを、ケヌが上にと詠める類なり、

とある(大言海)。あるいは、

たまきゆ→たまぎる、

たまきゆ→たまげる、

は別々に転訛したのかもしれない。

ところで、「たまげる」の「たま」(魂)は、「魂魄」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456697359.htmlで触れたことだが、和語では、

たましい、

に同じとされ、「たま」は、

「タマ(玉)と同根。人間を見守り、助ける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義」

とある(岩波古語辞典)。今日の「たましい」の意味は、たとえば、

人の生命のもとになる、もやもやとして、決まった形のないもの。人が死ぬと、肉体から離れて天に上ると考えられていた(広辞苑)

と、人のそれを指すが、「たま」は人を守る精霊を指す。「精霊」は、たとえば、

草木・動物・人・無生物などにここに宿っているとされる超自然的な存在、

ということになる(広辞苑)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年08月20日

正鵠を射る


「正鵠を射る」は、

核心をつく、
物事の急所・要点を正しくおさえる、

という意味になるが、

正鵠を得る、

とも言う。というよりも、本来は、

正鵠を得る、

が出自としては正しいといわれる。

「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

会意。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進の原字)、

とあり(漢字源)、「邪」の反対の意(字源)だが、「正」は、

的、

の意で、

射侯の中、弓の的の中の星、

の意である(仝上)。

終日射侯、不出正兮(齊風)、

と使われる。「射侯(しゃこう)」とは、

矢の的。侯は的をつける十尺四方の布、

とある(広辞苑)。

「鵠」(漢音コク、呉音ゴク)は、

形声。「鳥+音符告」で、白い鳥のこと、

とある(漢字源)。「くぐい」の意であるが、白鳥の古名である。

弓の的の中心の白い星、

を指す(漢字源)とあるが、字源は、

的の正中(真ん中)の黒星、

とし、

弓の的(射的)布に畫くを正といい、川に棲ましむるを鵠といふ、

とある。中心が白か黒かは、確かめようがないが、

「鵠」が的の意味を持つようになったのは、的の中心が黒ではなく白かったためといわれている、

とする(語源由来辞典)のは、一理ある。「鵠」の字には、

鵠髪(こくはつ)、

というように、白髪の意で使う用例もある。

白鳥.jpg


ともあれ、

図星、

でいう、

的の中心の星、

である。漢字源は星を「白い星」としているが、大言海の「づぼし(図星)」をみると、

圖にあたる星の義、……書きたる黒点、的の中の黒点、

と、「黒」説を採る。ただ、

昔、中国で、的の中央には「とび(正)」や「白鳥(鵠)」などの鳥の絵が描かれました。よって、的の中央の黒ぼしは「正鵠」と言われます、

という説を紹介しているものもありhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q148945024、圖であった可能性はある。いずれにせよ、「正」も「鵠」も、的の真ん中を意味する。大言海に、

侯中者、謂之鵠、鵠中者、謂之正(小爾雅)、

とある。

さて、礼記に、

發而不失正鵠者、其唯賢者手

とあり、中庸に、

射有似乎君主、失諸正鵠、反求諸其身、

とある。つまり、

正鵠を失わず、

というのが出典であり、そこから、

正鵠を得る、

という言い回しが出た、とみられる。その後、

正鵠を射る、

が使われ始めたらしい。

正鵠は的の中心の意味から、物事の要点や核心の意味に転じた。明治時代に物事の急所や要点を正確につく意味で「正鵠を得る」が生じ、正鵠に的の意味があるところから、昭和に入って「正鵠を射る」という形が生まれた。正鵠を射るは的を射るから生じた言葉で、正鵠を得るが誤用というのは間違いである、

とされる(語源由来辞典)。

「正鵠を射る」に転じさせたきっかけになる、

的を射る、

は、矢を射る意味から、

的を得る、

という言い方は誤用とされてきたが、今日、その見方は、三省堂国語辞典第7版が、

「的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。「当を得る・要領を得る・時宜を得る」と同様、「得る」は「うまく捉える」の意だと結論しました、

と、誤用とは当たらないと結論づけて以降、

的を射る、
的を得る、

はいずれも可、とされるようになっているらしい。

ところで、「的」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。勺は、一部分をとりだすさまを描いた象形文字。的は「白+音符勺」で、一部分だけ特に取り上げて、白くはっきりと目立たせること、

とある(漢字源)。「的」には、「しろい」意味があるので、中心はともかく的自体は白かった可能性はある(とすると、中心が白ではありえないが)。

和語「まと」は、「まる(丸・円)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.htmlで触れたように、

マト(円)の意(岩波古語辞典)、
圓(まどか)の義(大言海)、

と形状からきている。

どうやら、

正鵠を得る(明治)→正鵠を射る(昭和初期)→的を射る(昭和初期)→的を得る(戦後)、

という使われ方の変遷らしい(ただ「的を得る」には江戸時代に用例があるらしい)。この、「正鵠を射る」「正鵠を得る」「的を射る」「的を得る」の使用例を詳細に調べた結論は、「『的を得る』と『的を射る』の誕生と成長の歴史」http://biff1902.way-nifty.com/biff/2010/04/post-63d8.htmlに詳しい。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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