2020年08月13日

本能寺の変


高柳光寿『本能寺の変』を読む。

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本能寺の変から、山崎の合戦までを追う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、
黒幕説、
謀略説、
不安説、

等々諸種あるが、著者は、

信長は天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。秀吉だって賤ケ岳の戦いの後、主筋に当たる信孝を信雄に殺させ、その信雄を小田原征伐の後に改易して領地を取り上げてしまった。光秀が愛宕山で鬮を探って迷ったというのは、主殺しという道徳的な苦悶からではなく、主殺しの成否と主殺しの後における事業、天下取りの成否について迷ったものと解すべきである、

と述べる。これは、著者が『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476798591.html?1597172317で述べたことであるが、

天下取り、

の絶好の機会を逃さなかった、というところに原因を求めた嚆矢である。

光秀は、本能寺襲撃の当日の二日、

事終而惟日大津通下向也、山岡館放火云々(兼見卿記)、

とあるように、光秀は先ず要衝瀬田を抑えようとした。しかし、瀬田城主山岡美作・山岡対馬兄弟瀬田橋を焼かれたが、翌日の三日、

己丑(つちのとうし)、雨降、日向守至江州相働云々(兼見卿記)、

更に四日、
庚寅(かのえとら)、江州悉日向守、令一反云々(仝上)、

続いて五日、

辛卯(かのとう)、日向守入城安土云々(仝上)、

六日、七日と安土に留まり、

七日、癸巳(みずのとみ)、……當國悉皈附、日野蒲生一人、未出頭云々(兼見卿記)、

と八日まで江州の地に留まり続け、近江・美濃の諸将の誘降に努める。

誤算は、細川藤孝・忠興父子の離反であった。古くからの付き合いがあり、忠興の妻は光秀の娘(たま)であった。また光秀与力であった筒井順慶は、四日、山城槙ノ島城主とともに、近江に兵を出した。しかし、九日になって河内へ出兵する予定をしていた順慶は、にわかに兵を引き、籠城の準備に入る。

著者はこう書く。

光秀の失敗は、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を味方にすることができなかったばかりでなく、池田恒興以下中川清秀・高山重友、さらには塩川党など摂津衆を味方にすることが出来なかったことである、しかしこれをもって彼の無能とすることは酷である。光秀としては、これらの人々は自分の組下であるので、当然自分を味方すると考えていたであろう。それが不安であっても、これらの人々に圧力を加えるよりも、早く信長の本拠を覆滅しなければならない。摂津や太和や丹後は後でよい。そう考えることが至当である。ただこの至当の処置が至当でなくなったのは急速な秀吉の進出にあったのである。秀吉は高松にひっかかっている。そう考えるのが当然である。この当然が当然でなくなったので、摂津・大和・丹後の処置を後にするという至当が至当でなくなったのである。

秀吉の中国大返しのスピードが驚嘆されるが、実はそれ以前に、この当時にあって、

主将の訃報に接すれば、敵城攻撃の兵を徹するというのが普通、

なのである。現に、柴田勝家勢は、上杉方松倉城を攻囲していたが、松倉城の囲みを解き、攻略した魚津城をも棄てて退却し、それぞれの居城に戻っている。しかし、秀吉は、

訃報に接してから、高松開城・清水宗治切腹と談判が成立するまでおそらくは二、三時間、長く見積もって四、五時間に過ぎない。その間における彼の苦心は容易ならぬものがあったに相違ない。それなのに彼は快刀乱麻を断つという言葉通りに、異常の難問題を最大の利益を得て解決したのである。勿論、それは数日前から行われていた談判には相違ない。しかしそれにしても、このような有利な解決が瞬時に、……そう形容しても何らさしつかえないほどの速度をもって解決し得たということは、そこに彼の非凡な頭脳と能力とを観取せざるをえないのである。

この講和で、ほぼ勝負の帰趨が決したといってもいいほど、そのときの秀吉の力量を示している。

山崎の戦いは、

左翼(山の手)羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治(秀吉組下・旗本)等々、
中央(中の手筋)高山重友・中川清秀(旧光秀組下)・堀秀政(信長近習)等々、
右翼(川の手)池田恒興(旧光秀組下)・加藤光泰・木村隼人・中村一氏(秀吉旗本)等々
後詰、筑前守馬廻衆、三七郎旗本衆、惟住旗本衆、蜂屋勢等々、

の布陣で、戦況は、秀吉右翼、川の手勢が箕(み)の手なりに(明智勢左翼を)押し包みに掛かり、特に加藤勢の進出が目覚ましく、それが明智勢を動揺させたという。このとき、秀吉は、

右翼川の手部隊を自ら率いて戦った……。山崎の戦いは左翼天王山を拠点とし、右に前方へ弧を描き、右翼川の手の進出によって敵を包囲し、これによって勝利を得たのであるが、この右翼部隊を秀吉は自分で直接指揮したのであった。天神馬場に予備軍を手中に握り、中央後方に控えていたはずであるが、事実は弟秀長に左翼の指揮を委任し、御坊塚(光秀本陣)を目標として、専ら右翼の進出を志して池田らを指揮するとともに、自分の旗本を以ってこれを遂行したのであった。

そして、著者は、こう書く。

このようにして、秀吉自身が全軍の総指揮官として、全軍を手中に握って行動させたことはいうまでもないが、敵軍包囲の作戦と主要進出部隊とを予め想定し、この主要進出部隊を自分自身が直接指揮したのであって、この一事は……戦闘における彼の決意を見るべきであり、これが主要部隊の行動を活発にさせ、全軍の士気を振り起こさせたことはいうまでもない、

と。秀吉は、戦況を報じた書状で、信長の仇を報じえたのは、

一に懸かって秀吉一個の覚悟にある、

と述べているとか。まさにそれを表した戦略であった。

参考文献;
高柳光寿『本能寺の変』(学研M文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:59| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする