2020年09月01日

口取


「口取」(くちとり)は、

馬の轡を取ってひくこと、またその人、

の意で、

くちつき、
くちひき、

とも言い(広辞苑)、

うまつき、

とも言う(大言海)。人を指す場合、

馬丁(ばてい)、

の意である。

口は、轡なり、

とある(仝上)。

口取.bmp

(馬の口取 精選版日本国語大辞典より)

正確には、

馬の差縄(さしなわ)を引いて前行する役目。諸差縄(もろさしなわ)は左右から両人で、左を上手(かみて)として上位の官人が担当して引くのを例とする。片差縄(かたさしなわ)は一人で轡鞚(くつわずら)を握って前行する、

とある(精選版日本国語大辞典)。

「口取」は、別に、

口取肴の略、

で使われる。「口取肴」(くちとりざかな)は、もとは、

本膳料理の最初に座つき吸物と一緒に出す、かちぐり・のしあわび、こんぶの類を盛ったもの、

を、

口取物、

といったとある(たべもの語源辞典)が、後には、

きんとん、蒲鉾、その他魚肉や鳥肉などを甘く煮て盛り合わせたもの、

を、

口取、

というようになる(仝上)。江戸時代、

広蓋(ひろぶた)や硯(すずり)蓋に盛られた、

とあり(百科事典マイペディア)、硯蓋に出される料理は、

きんとん、羊羹、寒天菓子等の甘味類(料理菓子、口取り菓子とも呼ばれる)、あるいは蒲鉾、牛蒡や小魚の佃煮といった保存の利く食物が多く、これらは賓客が持ち帰る慣わしであった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86

「口取」というのは、

盛られた料理を小口から(端から)取ったので、小口取肴、それを略して、「口取」としたもの、

である(仝上)。

小口から切って取り分ける肴(さかな)、

という意味で酒の「肴」を指す、本膳料理の用語である。「本膳料理」は、「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れた。宗五大草紙(そうごおおぞうし)(1528)には,

初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている、

ように、本膳料理の基礎は、

一汁三菜、「菜(さい)」は副食物のことを指す。一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、飯と香の物は、数えない、……菜の数は、かならず、奇数である。日本において、奇数を陽とし、偶数を陰とする思想があり、奇数をめでたいものとすることによる、

とあるhttp://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html。本膳は「本膳料理の体系」http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.htmlに詳しい。

大言海には、

勧盃(けんぱい)の時に、先ず出す取肴、熨斗鮑、昆布、勝栗の類、

とある。「勧盃(けんぱい)」は、

まわし飲みではなく,各人の盃に長柄の銚子で酒がつがれ飲むのが,一度の勧盃(けんぱい)であった。勧盃あるいは三献はあくまで儀礼であり,これを宴座(えんのざ)、

と称した(世界大百科事典)。これは「三献」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474358804.htmlで触れた。近松の「心中万年草(しんじゆうまんねんそう)」にもあるように、

土器を三宝に,口とりは熨斗(のし),昆布、

見えるように,かちぐり,のしアワビ,コンブといった祝儀のさかなに始まったものが、やがて饗膳が儀礼的なものから楽しみ味わうものへと変化し,会席料理などが出現するに及んで,食味主体に趣向をこらした料理が用いられるようになった、とみられる(世界大百科事典)。

何処にも記述がないので、憶説になるが、この「口取」の、

勝栗,熨斗鮑,昆布、

は、「カチグリ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471158742.htmlで触れた、武家の、

出陣式、

の、

勝栗、打鮑、昆布、

と重なるのは偶然とは思えない。武士が出陣の際、

勝栗・熨斗(のし)・昆布、

の三つを肴にして、門出を祝った(たべもの語源辞典)。「熨斗」は、元来長寿を表す鮑が使われていた。

熨斗鮑(のしあわび)、
あるいは、
打鮑(うちあはび)、

が原型である。「熨斗鮑」は、

「鮑の肉を、かんぺう(干瓢)を剥ぐ如く、薄く長く剥ぎて、條(スジ)とし、引き延ばして干したるもの。略して、のし。儀式の肴に代用し、祝儀の贈物などに添えて飾とす。(延長の義に因る)。長きままにて用ゐるを、ながのしと云ふ。古くは、剥がずして、打ち展べて用ゐ、ウチアハビなどとも云へり。アハビノシ、カヒザカナ」

とある(大言海)。厳密には、出陣時は、

うちあはび、

とされる。「打鮑」は、

「古へは打ち伸(の)して薄くせり。薄すあはびとも云ひき」

として、

「今、ノシアハビと云ふ」

とあり、

ただ打ち延ばす、
か、
薄く剥ぐか、

の違いのようだ。

出陣の肴組.jpg

(出陣の肴組 武家戦陣資料事典より)

もともと「本膳料理(ほんぜんりょうり)」は、

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式、

で、

「南北朝時代には公家の一条兼良の往来物『尺素往来(せきそおうらい)』において本膳・追膳(二の膳)・三の膳の呼称が記され、『本膳』の言葉が出現する。また、室町時代には『蔭涼軒日録』長禄3年(1459年)に正月25日に将軍足利義政が御所において御煎点(ごせんてん)を行った際の饗膳が記されて」

おり、

「室町時代には主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した。本膳料理の確立に伴い、室町時代から江戸時代には『献立』の言葉が使用され、饗宴における飲食全体を意味した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86のであるから。

最初の「口取肴」とは代わり、宴会料理では、口取が最初に運ばれたが、きんとん・紅白蒲鉾・鯛塩焼・杏の砂糖煮、鶏肉と野菜のうま煮、姿海老などの美しいものでお膳をにぎやかしたが、客はこれには箸をつけない。これは、当初の「口取」の習わしそのものを引き継いでいる。これらは折箱に入れられて土産になった、

とある(たべもの語源辞典)。この「口取肴」が、別の料理に変化し、口取代わりをつめたものが、

口代わり、
とか
口替、

という料理になる。で、代わりに酒の肴になるものとして

海、山、里の物を少量ずつ盛り合わせた料理、

を少量ずつ一皿に取り合わせたものを、その場で食べるための「口代わり」が出されるようになった。今日では、この「口代わり」を「口取り」ということもある、

という(世界の料理がわかる辞典)。

口取は、今日のおせち料理にも残り、

口取り肴は饗膳のなかでも最初に食べる料理なので、重箱のいちばん上の「一の重」に、縁起がいいとされる奇数(5品、7品、9品)の料理が詰められます。おせち料理の口取りには、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻き、伊達巻き、魚の甘露煮などの甘めの料理が一般的です、

とありhttps://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-1511_11/?__ngt__=TT10ebbcb17004ac1e4aed6a3FIq3Um2tXQkF_n_n-L4qr、「祝い肴三種」も口取りの一種とされる。関東圏では、

黒豆・かずのこ・田作りの三種、

京都をはじめ関西では、

黒豆・かずのこ・たたき牛蒡、

とされる(仝上)。

なお、茶席で出される、

口取菓子、

は、

客が席に着いたとき、器にもって出す菓子のことをいう(たべもの語源辞典)らしいのだが、

茶請け、

なので、茶席で、

まんじゅう、羊かん、蒸し物に添えて出す煮しめ物、

をいう(世界の料理がわかる辞典)ともある。たとえば遠州流では、

初釜で主菓子に紅白のまんじゅうを用いるが、これに干瓢の煮しめを結んだものを添える、

という。これを指す。「口取」は、

口取り肴(ざかな)ともいい、本来は甘味の菓子をさしますが、現在では口代わりと同じ意味で使われることが多く、松花堂弁当や大徳寺縁高の中に入れる場合もあります、

とありhttps://oisiiryouri.com/kuchidori-imi/、これだと、

口直し、

の意味になっている気がする。

文政七年(1824)刊の『江戸買物独案内』には、

両国薬研堀(やげんぼり)の川口忠七,下谷大恩寺前の駐春亭,向島の平岩,真崎(まつさき)の甲子屋ほか多くの店が会席料理を称している。献立には多少の変遷,異動があったように思われるが,最初に蒸菓子を出して煎茶を勧め,そのあと酒のコースに入って,まず味噌吸物,つづいて口取肴(くちとりざかな),二つ物,刺身,茶碗盛(ちやわんもり)またはすまし吸物が供され,それから一汁一菜と香の物で飯となるものだったようである。口取肴はいまいうところの口取,二つ物は甘煮(うまに)と切身の焼魚で,それぞれ別の鉢に入れて供された、

とあり(世界大百科事典)、江戸後期の守貞漫稿によると、天保初年(1830)ごろから会席料理がはやったとあり、

天保初め比(ころ)以来、会席料理といふこと流布す。会席は茶客調食の風をいふなり。口取肴など人数に応じてこれを出して、余肴の数を出さず。その他肴もこれに准(じゅん)ず。前年のごとく多食の者はさらに余肴これなく、腹も飽くに至らず。しかして調理はますます精を競へり。今世、会席茶屋にて、最初煎茶に蒸菓子も人数限り、一つも多く出さず。口取肴も三種にて、織部焼などの皿に盛り、これも数を限り余計これなし。口取肴の前に坐付味噌吸物、次に口取肴、次に二つ物といひて甘煮と切焼肴等各一鉢、次に茶碗盛人数一碗づつ、次に刺身、以上酒肴なり。膳には一汁一菜、香の物、

とあるhttps://www.kabuki-za.com/syoku/2/no276.html。浴室も準備され、余肴は折り入れて持ち帰りにし、使い捨ての提灯も出すなど、京坂にくらべ江戸の会席料理屋の良さを挙げている(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
笹間良彦『武家戦陣資料事典』(第一書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:口取 口取肴
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2020年09月02日


「肴」は、

さかな、

と訓ます。「肴」(漢音コウ、呉音ギョウ)は、

会意兼形声。「肉+音符爻(コウ 交差する)」で、料理した肉を交差させて俎豆(ソトウ)の上に並べたもの、

とあり(漢字源)、

食べるために煮た魚肉、

の意である。

飲食の時に食べる副産物、

の意で用いるのはわが国だけである(漢字源)が、

酒肴、
珍肴、

という言葉があり、

穀物以外の副食物、

の意もあり(字源)、

酒の肴、

ということが、原義から外れているとは必ずしも言い難い気もする。「さかな」に当てる漢字には、

魚、

があるが、「魚」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、

象形文字。骨組みの張った魚の全体を画いたもの、

で(漢字源)、いわゆる「さかな」の意であるが、

鱗と鰭のある水族、

を指し(字源)、

池魚、
海魚、

等々と使う。「さかな」の意味では、

鮭、

の字もあるが、「鮭」(漢音ケイ、カイ、呉音ケ、ゲ)は、

会意兼形声。「魚+音符圭(ケイ 三角形に尖った形がよい)」

とある(漢字源)。日本語では、「さけ」にあてるが、

鮭肝死人、

とあるように、

ふぐ、

を指し、さらに、

鮭菜、

というように、

調理せる魚菜の総称、

の意味がある(字源)。

さて、「さかな」であるが、

酒の肴、

という言い方はいけない、などというのは、「さかな」の語源が、

酒菜(さかな)の意、

とされるから(広辞苑)である。つまり、「肴」は、平安時代から使われ、

サカは酒、ナは食用の魚菜の総称(岩波古語辞典)、
酒+ナ(穀物以外の副食物)、ナは惣菜の意(日本語源広辞典)、
「菜」(な)は、副食物のことを指し、酒に添える料理(酒に添える副菜)を「酒のな」と呼び、これが、なまって 「酒な」となり、「肴」となったhttp://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html
「酒菜」から。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてていた。酒のための「な(おかず)」という意味である。「さかな」という音からは魚介類が想像されるかもしれないが、酒席で食される食品であれば、肴となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4

等々が一般的とされる。大言海も、同趣で、

サカは酒なり、ナは食用とする魚菜の総称、

とし、

國語、晉語「飲而無殽」注「殽俎實(モリモノ)也」、広韻「凡非穀而食者曰肴、通作殽」

を引いて、

酒を飲むとき、副食(アハセ)とするもの、魚、菜の、調理したるもの、其外、すべてを云う、

とし、

今、専ら、魚を云ふ、

とあるが、「酒の肴」というとき、必ずしも「魚」を指さない。その意味では先祖返りしている。酒にあてがうことから、

アテ、

と呼ぶし、手でつまんで簡単に食べられるようなおかずだったから、「つまみもの」と呼んでいたので、

つまみ(おつまみ)、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4。その意味から派生して、

酒を飲む際に共に楽しむ様々な対象(歌舞や面白い話題など)、

も「肴」と呼ばれる(仝上)。

「菜」(サイ)は、

会意兼形声。「艸+音符采(サイ 採=つみとる)」。つみなのこと、

とある(漢字源)。

葉、茎を食用とする草本類の総称、

である(仝上)。和語では、

な、

とも訓ませ、

酒飯に添えるものの総称である。

魚・鳥・草木、食べるものは、みな菜であって、ナという、

のであり(たべもの語源辞典)、だから、酒を飲むときの「菜」だから、

サケのナ→サカナ、

となる。逆にいうと、「な」は、

肴、
とも、
菜、
とも、

当てる。「な(菜)」は、

肴(な)と同源、

なのであり(広辞苑)、「菜」と「肴」と漢字をあてわけるまでは、

な、

で、

野菜・魚・鳥獣などの副食物、

を全て指し、

さい、
おかず、

の意であった(岩波古語辞典)。かつては、

おめぐり、
あわせもの、

とも言った。「あわせもの」は、

飯に合わせて食うことから、

いう(日本食生活史)。古今著聞集に、

麦飯に鰯あはせに、只今調達すべきよし、

とある(仝上)。

「菜」の字を当てることで、「菜(な)」は、

葉・茎・根などの食用とする草木、

と分離し、今日では、「菜」(な)は、

あぶらな類の葉菜、

に限定するようになっている(広辞苑)。そして、

魚類のことを「さかな」と呼ぶのは、肴から転じた言葉であり、酒の肴には魚介類料理が多く使用されたためである。古くは「うを」(後に「うお」)と呼んでいたが、江戸時代頃から「さかな」と呼ぶようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4。もともと「魚」の意では、

イヲ、
ウヲ、

が用いられていた(岩波古語辞典)。名義抄には、

魚、ウヲ、俗云、イヲ、

とある。

江戸時代以降、次第にサカナがこの意味領域を侵しはじめ、明治以降、イヲ・ウヲにとってかわるようになった、

とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典では、「魚」の意味で、「さかな」に、

魚、

を当てている。文政八年(1825)の風俗粋好伝には、

鮮魚売(さかなうり)、

天保九年(1838)の祝井風呂時雨傘には、

魚問屋(さかなどんや)、

と使われて、「魚」(うお)の意となっている。イヲ、ウヲから「サカナ」に転じたとき、「魚」と当てて、区別したのかもしれない。

ちなみに、平日の菜を、京阪では、

飯(ばん)ざい、

といい、江戸では、

惣ざい、

といった(たべもの語源辞典)。

ビールのアテ.jpg

(ビールのアテ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2020年09月03日

マージナル


村井章介『中世倭人伝』を読む。

中世倭人伝.jpg


本書の主役は、十五、十六世紀の李氏朝鮮の記録、『朝鮮王朝実録』に登場する倭人である。頻出する、

倭人、
倭賊、
倭奴、
倭、

等々と呼ばれる人々の活動範囲は、

朝鮮半島南辺、対馬・壱岐、済州島、西北九州、中国江南の沿海地方などをふくむ海域、

であり、これは、三世紀前の『魏志倭人伝』で、

倭人、

として登場し、九州を中心として、

朝鮮半島南部、
山東半島、
江南地方をふくむシナ海域、

までの広い範囲に広がっていた、中国人が、

倭種、

として、

形質・風俗・言語等の共通性に注目してくくった「倭人」の分布とほぼ重なっているのである。

朝鮮人や中国人があい変わらずかれらを「倭人」と呼んだのも、ゆえのないことではなかった、

のである。もちろん、

「倭寇」「倭人」「倭語」「倭服」などというばあいの「倭」は、けっして「日本」と等置できる語ではない。民俗的には朝鮮人であっても、倭寇によって対馬などに連行され、ある期間をそこでくらし、通交者として朝鮮に渡った人は、倭人とよばれている。海賊の標識とされた倭服・倭語は、この海域に生きる人々の共通のいでたち、共通の言語であって、「日本」の服装や言語とまったくおなじではなかった。
こうした人間集団のなかに、民族的な意味での日本人、朝鮮人、中国人がみずからを投じた(あるいはむりやり引きこまれた)とき、かれらが身におびる特徴は、なかば日本、なかば朝鮮、なかば中国といったあいまいな(マージナルな)ものとなる。こうした境界性をおびた人間類型を〈マージナルマン〉とよぶ。かれらの活動が、国家的ないし民族的な帰属のあいまいな境界領域を一体化させ、〈国境をまたぐ地域〉を創り出す、

その領域に侵食され、結局国が衰弱、滅んでいった李氏朝鮮の記録を中心に、本書は、

多様さと矛盾にみちた中世の「倭人」たちの群像を描き出し、そこから国家や民族、あるいは「日本」を相対化する視点をさぐること、

を目標の一つとし、さらに、

蔑視と恐怖、軽侮と脅迫といった要素を多分にふくむ両民族の…(中略)交流のすがたを、光と影のあやなす時代相として描き出すこと、

をもう一つの目標として、その交流の実態を象徴する、

三浦(さんぽ)、

という、

朝鮮半島東南部沿岸に成立した三つの倭人居留地ないし港町、

に局限して、描いている。

この時代は、前期倭寇と呼ばれる十四世紀の倭寇を、

一定の経済的給与とひきかえに投降をうながしたり(降倭・投化倭)、恭順の意を示した通交者に名目的な挑戦の官職を与えたり(受職倭人)、平和的な交易者として来朝するよう勧めたり(興利和人)、日本の諸勢力の使者という名義での来朝を許したりし(使送客人)、ばあいによっては国内居住を認めることもあった(恒居倭)、

というような懐柔策によって、あるいは、倭寇の根城の対馬征伐(応永の外寇)等々の軍事的な打撃によって、倭寇が下火になった時期に当たる。

朝鮮当局者が、

倭寇と通行者が同一実体の両面、

であると見抜いた結果の、硬軟取り混ぜての政策の対象となった「倭人」は、一筋縄ではいかない。著者はこう書く。

「辺民」が「倭賊」に侵されることに心痛していたソウルの高級官僚とはちがって、南辺の人々には、倭人との交じりあいを当然とする意識があったろう、

と。

そもそも人々は倭服を着、倭賊と称したのだろうか。朝鮮側記録には、

済州流移の人民、多く晉州、泗川の地面に寓し、戸籍に載らず、海中に出没し、学びて倭人の言語・衣服を為し、採海の人民を侵掠す。推刷(調査)して本に還さんことを請う、

あるいは、

此の輩(済州の鮑作人)、採海売買して以て生き、或は以て諸邑の進上を供す。守令は故を以て編戸して民と為さず、斉民も亦或いは彼の中に投じて儻を作す。人言う、「此の徒詐りて倭服・倭語を為し、竊かに発して作耗(賊を働く)。其れ漸く長ずべからざるなり」、

と。それは、

倭人との間になんらかの一体感を共有していた、

と考えないと解釈し得ない、と著者は書く。それは、

戸籍によって掌握することのできない人間集団、という共通性をおびはじめている、

と。その意味では、「倭人」を即「日本人」とは解釈できない。

倭人沙伊文仇羅(左衛門九郎)、
倭人而羅三甫羅(次郎三郎)、

と、倭人風の名を名乗っていても、

もと是れ我が国の人、

つまり朝鮮人であり、たから、

日本の倭人、

などという奇妙な表現で記されるほどである。こう記録にある。

加延助機〈倭の別種〉、博多等の島に散処し、常に妻子を船中に載せ、作賊を以て事と為す。面黒く髪黄いろく、言語・服飾は諸倭と異なる。射を能くし、又善く剣を用う。水底に潜入して船を鑿つは、尤も其の長ずる所なり、

と。日本の海賊だが、朝鮮側の認識では、

倭の別種であり、その言語・服飾も「諸倭」と異なっていたという。これはけっして日本の中央の、たとえば畿内あたりの言語や服装ではない。中央から見ても異様な言語・異様な服装であったに違いない、

のである。著者は、こう書く。

対馬あたりの海域で海賊行為を行っていた人々にとって、和服は共通のいでたち、和語は共通の言語だったのではないか。その服を着、そのことばを話すことによって、かれらは帰属する国家や民族集団からドロップ・アウトし、いわば自由の民に転生できたのではないか、

と。とすると、

倭寇は日本人か朝鮮人か、という問い自体、あまり意味がない。倭寇の本質は、国籍や民族を超えたレベルでの人間集団であるところにこそあるのだから、

と。まさに、

マージナル・マン、

つまり、

境界に生きる人々、

なのである。明の衰退にともなって登場する、

後期倭寇、

といわれる十六世紀は、

五島や平戸や博多の和人海商、たとえば王直を代表とする江南沿海地方の代海商、たとえばシナ海交易ルートに乗って、マラッカからマルク(モルッカ)初頭、広東、舟山諸島、琉球、そして九州へと進出してきたポルトガル勢力、

といった密貿易の役者たちによる交流は、

倭寇的状況、

と呼ばれるような、マージナルな人々のより大きな広がりへとシフトしていく。しかし、この、

中世のアナーキーな状態は、清や朝鮮、徳川幕府の海禁政策によって、

対外交通・貿易の国家管理が完成し(いわゆる鎖国)、……国家領域を超えて〈地域〉が存立しうる状況は大きく後退し、「倭人」たちも表舞台から退場する。

マージナル領域は、南北朝から、室町、安土桃山、と国内の混乱を反映していた、ということがわかる。その意味で「中世倭人」とは、言い得て妙である。

参考文献;
村井章介『中世倭人伝』(岩波新書)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年09月04日

クチナシ


「クチナシ」は、

梔子、
巵子、
山梔子、

等々と当てる(広辞苑)。漢名は、

梔子(シシ)、

これを当てた。

「梔」(シ)は、

会意兼形声。「木+音符巵(シ 水をつぐ器)」。くちなしの実が、水をつぐ器に似ていることから」

とある(漢字源)。「巵(卮)」(シ)が当てられるのは、「巵」が、盃の意だからであろうか、あるいは、「シ」という同音のせいだろうか。たべもの語源辞典は、

巵は酒を入れる器である。果実の形が巵に似ていることから、巵子あるいは梔(シ)という、

とする。

「クチナシ」は、別名、

木丹(ボクタン)、

とも言う。本草綱目に、

梔子、一名木丹、

とある(字源)。

梔子の実.jpg


熟した果実を採取し、天日または陰干しで乾燥処理したものは、生薬として、

山梔子(サンシシ)、

と称され、漢方では、

消炎、利尿、止血、鎮静、鎮痙(痙攣を鎮める)の目的で処方に配剤されるが、単独で用いられることはない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7

くちなしの花.jpg


「クチナシ」の語原は、

口無の義、實、熟すれども、開かず、

とする(大言海)説が、大勢である。

クチニガシの義(名語記)、
キナス(黄為)の義(言元梯)
「殊に可愛らしい花」という意味でコトニハシキ(殊に愛しき)花といったのが、ニハ[n(ih)a]の縮約でコトナシになり、コの母交(ou 母音交替)、トの母交(oi)の結果、クチナシ(梔子)になった(日本語の語源)、
この実に細かい種子がたくさんあり、果実の梨に似ている、しかもこの実には自然にさけない嘴状の咢があり、これをクチとよんだ。クチのあるナシなので、クチナシといわれた(たべもの語源辞典)、
実の突き出した部分が容器の注ぎ口に似ていることから「口成(くちな)し」の意(由来・語源辞典)、
クチナワナシ(クチナワ=ヘビ、ナシ=果実のなる木)、ヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味からクチナシに変化したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7

等々諸説あるが、和歌では、

山吹の花色衣主や誰問へど答へずくちなしにして(古今和歌集)、

というように、「口無し」にかけて言うことが多い(和名抄)こと、また、

クリ・シイ・ザクロ・ツバキなど、からがあってその内に種子を包むものは、熟するとかならず口を開くものであるが、このクチナシだけが、熟しても口を開かない。熟しても口がないのは実に珍しいのでクチナシと称した、

という(たべもの語源辞典)ことから、

口無し、

説が妥当なのだろう。

なお、

梔子色、

というのは、

梔子染、
支子染、

の色を指し、

布帛を、クチナシの実にて染たるもの、色、黄なり、

とある(大言海)が、

赤みを帯びた濃い黄色、

である(岩波古語辞典)。ただ、厳密には、

クチナシで染めた黄色に、ベニバナの赤をわずかに重ね染めした色を指し、クチナシのみで染めた色自体は黄支子(きくちなし)と呼んで区別された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%94%E5%AD%90%E8%89%B2

梔子色.jpg

(梔子色・染め上がり デジタル大辞泉より)

別名は、

謂はぬ色、

である。「口無し」からきている。

なお、襲の色目にも、

くちなし、

があり、

表裏共に、黄なるもの。四季を通じて着用す、

とある(大言海)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年09月05日

クラゲ


「クラゲ」は、

水母、
海月、
水月、

等々と当てる。「水母(すいぼ)」「海月(かいげつ)」「水月(すいげつ)」は、漢語である。

海月伴行舟(張説詩)、
水母目蝦(郭璞・江賦)、

等々とある(漢字源)。別に、

海舌(かいぜつ)、

ともいう(字源)。「水母目蝦」は、

クラゲには目がないと思った昔の人がクラゲのそばに蝦がいて、人が来てとろうとすると、エビが水中に入り、クラゲもついて沈んでしまう、

そう考えて、

水母、蝦を目とす、
とか、
水母、蝦目(カモク)を借る、

といった(たべもの語源辞典)意である。「海月」「水月」は、

海中あるいは水中の月のように見える、

という意味であるが、「水母」の謂れは不明のようである(たべもの語源辞典)。

海鏡、
石鏡、
海蛇、

も「クラゲ」の意だが、これから転じて、

海折(かいせつ)、

とも書くし、

凝月、

とも書く(仝上)。クラゲを煮ると固まるからである。

和語「クラゲ」は、

国稚(わか)く浮きし脂のごとくして、久羅下なすただよへるときに、

とある(古事記)ように、

久羅下、
久良介、

等々と当てて、古くから使われている。和名抄は、

海月、一名水母、久良介(くらげ)、貌似月在海中故名之、

とするし、天治字鏡は、「虫」扁に「竟」の字を、

久良介、

としているが、大言海は、

和製字なり、鏡虫の合字なるべし、

とし、珍しく、

語原を考へ得ず、

とした上で、こう書いている。

試みに云はば、輪笥(クルゲ)の轉にて(弦(ツル)、つら)、形に就きて名とするか、いかが。和訓栞に、海鏡とも云ふとあり、天治字鏡には、鏡虫の合字を作れり。器に見立てては、あるなり、水母(クラゲ)に目なしと云へば、暗気(クラゲ)ならむなどと云ふ説もあれど、開闢の時、然る、謎詞はあらじ、

と。この自信無げな、

輪笥(クルゲ)の轉、

説に似たのが、日本語源広辞典で、

クラ(クル輪)+げ(笥)、

で、形が丸い笥(容器)、

とする。その「クラ」から展開するのが、たべもの語源辞典で、

たよりなく海中にのらりくらりして、クルクルとかクラクラしている様子をクラゲといったのである。回転することをクラクラというが、このクラである、

と。

軽くめまいする様子の、

「クラクラ」の「クラ」であるが、

「くらくら」の「くら」は、「くるくる」の「くる」と関係があり、回転する意を表す。「目がくらむ」「立ちくらみ」の「くら」も同源である、

とある(擬音語・擬態語辞典)。「くるくる」は、

物が軽やかに回転する様子、

の意だが、平安時代から見られるとあり、奈良時代は、

くるる、

といった、とある。

緒もくるるに、其の髻(もとどり)に纏(ま)かせる……、

とある(日本書紀)。時代差が気になるところだが、「クラゲ」の「クラ」が、和語の特徴である擬態語から来た、とするのは説得力がある気がする。

目がないといわれていたところから暗(くら)ぐれ(和句解・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解)、
色が黒いことから(和句解)、
クリアゲ(繰り上げ)の義(名言通)、
フラコ(振魚)の義(言元梯)、
イクラカイケ(幾何生毛)の義(日本語原学=林甕臣)、
くらがりにいる化け物のようだから(たべもの語源辞典)、

等々の諸説は、たべもの語源辞典が一蹴するように、「難しく」考え過ぎである。理屈ばった説は、大概外れである。

ただ、日本語の語源は、例によって、音韻変化から、

上代人は海面を漂うクラゲ(海月)を見て、「浮く許りの魚」と呼んだ。その省略形のウクバカリ(浮く許り)は、バの子交(子音交替)[bd]とカリ[k(ar)i]の縮約とでウクダキ・ウクダケ(浮く丈)になった。さらにウの脱落、ダの子交[dr]でクダケ・クラキ・クラゲに転音した。相模のクラキ(久良岐)郡を中世クラゲ(海月)郡と呼んだのと同様の母交(母音交替)[ie]である、

と説く。是非の判断はできないが、

クラキ→クラゲ、

は、カナシゲ、キヨゲの接尾語ゲと同じ「気」はキ→ケの転訛で説明が付くのではあるまいか。「け(気)」は、

気(き)音の転、

「げ(気)」は、

気(け)の連濁、

であり(大言海)、

他語の下に属きて、風情、気色(けしき)を云ふ、

とある(仝上)。

擬態語「くら」+気(げ)、

ではないか。なお、

水母の骨、

という言葉があり、

あるわけがないもの、
または、
きわめて珍しいもののたとえ、

として使われる。『承久記』に、上田刑部という武士が、

人の身には、命ほどの宝はなし。命あればクラゲの骨にも申すたとえの候なり(命があれば、クラゲの骨にも会うだろう)、

と言ったとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2。このため、民話に、

海月骨なし、

という話がある。

竜宮の乙姫が病となり、猿の生き胆を食べると治るというので、竜王の命令で、亀が猿をだまして連れてくる。ところが門番のクラゲが、猿に生き胆を取るのだと告げてしまう。肝を木に干してきたと欺いて亀に陸地へ連れて行かせる。このためクラゲは罰として骨を抜かれた、

という。類例は全国に分布し、クラゲが猿を連れに行く使者という変形もある。

クラゲを食用とするのは、日本と中国であるが、中華料理では、

海蜇(ハイチェ)、

といい、塩漬けクラゲを指す(大辞林)。

ミズクラゲの集団.jpg

(ミズクラゲの集団 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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2020年09月06日

芥子


「芥子」(カイシ)を、

からし、

と訓ませる「芥子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476744145.htmlについては、触れた。ここでは、「けし」と訓む「芥子」てある。

「けし」は、

罌粟、

とも当て、

罌子、

とも当てる。芭蕉の句に、

罌子咲いて情に見ゆるやどなれや、

がある。

罌子粟、

とも書いた(たべもの語源辞典)、とある。漢名は、

朱嚢子、
米嚢花、

とも書く(仝上)。

鴉片花(あへんか)、

と書くのは、ケシからアヘンを採るからである。

嚢子、
象穀、
御米花、

という漢名もあるらしい(仝上)。

「芥子」の「芥」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。「艸+音符介(カイ 小さく分ける、小さい)」、

とある(漢字源)。「介」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意文字。「人+八印(両脇にわかれる)」で、両側に二つに分かれること。両側から中のものを守ることでもあり、中に介在して、両側をとりもつことでもある、

とある(仝上)。「芥」は、その実から「からし」をとる、

からしな(辛菜)、

の意である。だから「からし」は、

芥子(かいし)、

と当てる。

その実極めて小なるが故に、転じて極小の喩とす、

とあり(字源)、維摩経に、

以須弥之高廣、内芥子中、無所増減、

とあるとか(仝上)。

罌粟(オウゾク)、

の、「罌」(漢音オウ、呉音ヨウ)は、

会意兼形声。「缶+音符嬰(エイ・オウ まるくとりまくの略体)」、まるいかめ、

で、「腹の部分が大きく、口の部分が小さいかめ」の意である(漢字源)。

「粟」(ゾク、漢音ショク、呉音ソク)は、

会意文字。「西(ばらばらになる)+米」。小さくてぱらぱらした穀物を表す、

とあり(漢字源)、「あわ」の意であるが、小さいものの喩えとして使われる(仝上)。

ヒマラヤケシの一種メコノプシス・アクレアタ.jpg

(ヒマラヤケシの一種メコノプシス・アクレアタ デジタル大辞泉より)

実が瓶のような形をしていてその中に粟粒のような種が入っていて、「けし」の実は小さいので、

罌粟、

と当てて、「けし」と訓ませた(たべもの語源辞典)。

けしつぶ(罌粟粒)のよう、

という使い方をする(仝上)。「罌粟」(オウゾク)というのは、

罌(カメ)の形の如きものあり、芥子殻(けしがら)と云ふ、……罌の中に、粟の如き、極めて細かなる子(ミ)満つ、

とある(大言海)。「芥子殻」は、

棗の實を立てたる如く、頂、菊紋をなす、小児の髪の鬌(スズシロ)の如し、因りて、すずしろを、けしがらあたま、けしぼうずと云ふ、

とある(仝上)。

ケシ坊主(果実)に傷をつけて樹脂を採取する.jpg

(ケシ坊主(果実)に傷をつけて樹脂を採取する https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%B7より)

「鬌」(すずしろ、すずじろ)とは、

童子の髪形の一種。頭髪の中央をそり残し、周囲をそり落としたもの、

で、確かに、「罌粟殻」は似ている。

日本には足利時代にインドから津軽地方に伝来したらしく、天保年間(1830~44)には関西地方にも広がり、津軽から全国に広まったため、

ツガル(津軽)、

と当初呼ばれた(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)。ただし、当初入ってきたのは、アヘン用のそれではなく、

護摩などにたく香料として、

であり、「胡麻粒」の「芥子」は、後に入ってきた「罌粟」とは別らしい(日本語源広辞典)。源氏物語に、

(六条御息所の着物は)ただの芥子の香にしみかへりたる、

とあり、これは、

邪気を払う護摩のときなどに用いた、

その残り香ということになる(岩波古語辞典)。

「けし」の語源は、

芥子の音カイシを、誤って言ったもの(大言海・和訓栞後編)・日本語の語源、
花が咲くと白くなるところから、ヒラケシロシの略(日本釈名)、
ケ(食)シジム(蹙)の義(名言通)、

とある。漢語の、

解脱(かいだつ)を、ゲダツ、
解毒(かいどく)を、ゲドク、
解熱(かいねつ)

と訓むように、「解」の呉音「ゲ」「ケ」で訓む例は多いので、「芥」の呉音「ケ」と訓むことは大いにあり得る。

しかし、「罌粟」の生態から見ると、「ヒラケシロシ」は、面白い説ではある。

ひらけ白し、

ということは、花を開けば花は白いという意だが、この上方を略して、しらけのケと白しのシで、ケシとしたともいう、

とも説く(たべもの語源辞典)。その謂れは、「罌粟」の花は、

つぼみのときには青い皮があって、ひらいて青い皮が落ちると初めて白くなる。他の花は、つぼみのときから白いものであるが、ケシは違っている、

からである(仝上)。

「ケシ」の若葉は食用にし、茎が10センチくらいのところとって浸し物にする。茎葉が大きくなると阿片汁液を含むので有毒である、

とある(仝上)。

六月の中頃開花するが、アヘンは落花後10日以内に搾収する。種子をとるには落花して20日後に苅取って、これを屋根裏などに干して20間ほど乾燥する。ケシは肺病を治し、腸を温め、風邪によく、熱をさます。また、下痢をとめ、痔にもよい、

と薬効がある。漢方では、

果皮を罌粟穀(おうぞくこく)といって、鎮咳・鎮痛・下痢止めに用いた、

という(仝上)。なお、昔、雪隠にケシの花を画いた屏風を立てたが、ケシの薬効からきているが、「結する」つまり、下痢が治る、の洒落でもあったらしい(仝上)

なお、「芥子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476744145.htmlで書いたように、罌粟(ケシ)が渡来すると、芥子がケシの意味で使われたので、カラシかケシか判断に苦しむ、

とあり(仝上)、江戸時代の料理本に、

芥子、

とあるのは、ほとんどケシのことである(仝上)。そこで、

辛子、

の字を用いるようになった(仝上)。

ヒマラヤケシの一種メコノプシス・ホリドゥラ.jpg

(ヒマラヤケシの一種メコノプシス・ホリドゥラ デジタル大辞泉より)

なお、植物としての「けし」の詳細は、https://www.asgen.co.jp/blog/2014/09/104.htmlに詳しい。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ラベル:芥子 罌粟 けし
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2020年09月07日

毛抜き鮓


江戸時代に江戸で名物として謳われた、

江戸三鮨(えどさんすし)、

というのがあった。

毛抜鮓(けぬきすし)、
與兵衛寿司(よへえすし)、
松が鮨(まつがすし)、

である。「毛抜き鮓」は、

元禄一五年(1702)に初代松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし、現在の日本橋人形町二丁目付近)で創業、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

笹巻鮓、

といって、

握り鮨を一つずつ笹の葉でまいた、

ものを、

毛抜鮓、

といった。

笹の葉で巻いた押し鮨の一種で、保存食とするため、飯を強めの酢でしめているのが特徴、

http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html

握り寿司や巻き寿司に比べて歴史が古く、それ以前の押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8。江戸時代、

日本橋南伝馬町二丁目富士屋利八、

が、有名であったが、同名の鮓は市中諸所に散在した、

とある(江戸語大辞典)。嘉永六年(1853)の『守貞謾稿』に、

毛ぬきずしと云ふは、握りずしをひとつづつくま笹に巻きて押したり。値一、六文ばかり、毛ぬきずしの他は貴価のもの多く、鮨一つ値四文より五、六十文に至る。天保府命のとき、貴価の鮨を売る者二百余人を捕えて手鎖にす。その後皆、四、八文のみ。府命ゆるみて、近年二十、三十文の鮨を製すものあり、

とありhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html、調理法は、

すし種を酢飯にのせて笹で巻き、桶に入れて上から重しの石を置く。仕込みの段階で、「毛抜き」をもち使い、魚の小骨を丁寧に抜いたことから「毛抜きすし」と呼ばれた、

とある(仝上)。具体的には、

寿司だねも先ず塩漬けで1日、次に酸味の強い酢(一番酢)で1日、そして酸味の弱い酢(二番酢)で3日から4日も漬ける。これをひとくち大に切ったものを酢飯の上に乗せ、殺菌作用のある笹で圧しながら巻いて空気を抜くことで、さらに保存性を高めている、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8、大変手間と時間がかかる高級品だったため、当時は大名の藩邸や大身旗本の屋敷などからの進物品としての注文が主だった、ともある(仝上)。しかし、後に調理がより簡略化された握り鮨が現れると、従前との対比でそれは「早ずし」と呼ばれ、庶民から有りがたれるほどだった(仝上)、とされる。

この経緯は、現在でも十二代目松崎喜右衛門が「笹巻けぬきすし総本店」として千代田区神田小川町で、江戸三鮨のなかで、唯一生き残って、営業を続けているhttp://www.kanda-hojinkai.com/information/sinise/sinise09.html「笹巻けぬきすし総本店」の紹介ページhttp://www.ll.em-net.ne.jp/~rumba/kenukisusi.htmlでは、「毛抜き鮓」は、

『守貞謾稿』が「文政ノ末頃ヨリ、戎橋南ニ、松ノ鮓ト号ケ、江戸風ノ握リ鮓ヲ賣ル」と文化文政年間(1804~1829)にとある時代より、百年以上前、戦国の頃に、飯を笹で巻いたものを兵食としたことに着想を得て、元禄十五年(1702)年に創始した、

握り寿司とは別系統のすし、

で、

鯛、こはだ、鯵、さよりなどの季節の魚を1週間ほど塩に漬け、さらに酢でしめたものを、酢の利いた飯と一緒に熊笹で巻いたもの(だから笹巻)。笹で巻くのは防腐のためと、乾燥を防ぐため。早鮨系ですね。しかし三田村鳶魚によれば、早鮨が江戸に広まったのは宝暦年間だとのことですから、当初の笹巻けぬきすしは、「生なれ」の一種だったのかもしれません、

としている古形の鮓、ということになる(仝上)。

笹巻けぬきすし.jpg


「毛抜き鮓」の「毛抜き」の謂れは、

小骨を抜いた、

という説もあるが、その他、

色気抜きで食欲をそそるほど美味いことから転じて、「色気抜き」の色が外れて「気抜き」に「毛抜き」の字が宛てられた、

とするものもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8。しかし、

よく食うという洒落(たべもの語源辞典)、
うまく食うというしゃれで命名(江戸語大辞典)、

とする、

毛抜きの歯のかみ合わせを言ったもの、よく喰う毛抜きでないと、その用をなさない、

からという(たべもの語源辞典)説が、江戸ッ子の命名らしいのではないか。上方の狂言作者・西沢一鳳が江戸浅草に滞在中に執筆した嘉永三年(1850)の『皇都午睡』(みやこのひるね)にも、

毛抜きは物をよくくわえてつかむものであり、そこから転じて人々がよく食うすしであるという謎かけである、

としているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

「笹巻けぬきすし総本店」の紹介ページでは、その謂れを、

「旗本や松平候等幾多の諸侯御来店の折、毛抜にて魚の小骨を抜き鮨を作るを見て『面白きことよ』と興ぜられ、笹巻鮨を毛抜鮨とも呼び益々世に広まりたり」(「江戸名物 笹巻毛抜鮨由来」)ということに由来している、

としつつ、上述の西沢一鳳『皇都午睡』を引き、

「毛抜鮨とは魚の骨をよく抜きたる故呼ぶかと思いしに、よく考へ見れば、よう喰ふとの謎なるべしと悟りぬ」。つまり、毛抜きの縁語である「よく喰う」から発想した、洒落にもとづく、

説も紹介し、

江戸時代の人はひげをそる(江戸の訛りだと「する」。また、「する」を嫌って「あたる」と言った)と、ちくちくするのでこれを嫌い、毛抜きで抜きましたが、この毛抜きでひげを挟んでひっこ抜くことを、「毛抜きがひげを喰う」と言ったのです。落語「道具屋」にも、「(ふっと毛を吹いて、毛抜きの先を払い)こりゃ、よく食うぜ」という台詞があります、

と絵解きしている。江戸ッ子らしい、この説に与したい。

なお、江戸三鮨の残りのひとつは、

流行鮓屋町々在、此頃新開兩國東、路地奥名與兵衛、客來争坐二間中、

と紹介されたhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html與兵衛寿司は、

文政七年(1824)に両国尾上町(東両国)回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で創業、大繁盛した。すしにワサビを使ったのはこの華屋与兵衛が最初なので、一般には与兵衛寿司が握り寿司の嚆矢とみなされている。華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していたが、関東大震災以後没落し、昭和5年(1930年)に閉店している、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

いまひとつは、『守貞謾稿』に、

江戸鮓に名あるは、本所阿武蔵の阿武松(あたけまつ)のすし、上略して松のすしと云ふ、天保以来は店を浅草第六天前に遷す、また呉服橋外に同店を出す、

と、紹介されたhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-3.html松が鮨は、

文政一三年(1830)、深川の安宅六間堀(現在の新大橋近く)に堺屋松五郎が創業。地名から安宅の鮓(あたかのすし)とも呼ばれた。玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われるようになり、そのあまりの贅沢ぶりから天保の改革で水野忠邦の発した倹約令に触れて、与兵衛寿司とともに処罰を受けている。「松ヶ鮓一分ぺろりと猫がくひ」などと当時の川柳にも詠まれているほか、歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」にも握り寿司と押し鮓が描かれている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

歌川国芳「縞揃女弁慶 松の鮨」.jpg

(歌川国芳「縞揃女弁慶 松の鮨」 https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/detail/post138.htmlより)

なお、江戸時代後期の国学者で考証学者でもある喜多村筠庭は、諸書から江戸の社会風俗全般の記事を集めて類別した文政一三年(1830)刊の随筆集『嬉遊笑覧』には、握り寿司の考案者は華屋与兵衛ではなく堺屋松五郎だとしている、とある(仝上)。

「すし」に関連しては、「すし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456254952.html?1599426384、「いなりずし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469221526.html、「飯鮨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475973752.html、「一夜鮨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475989654.html、で、それぞれ触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:毛抜き鮓
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2020年09月08日

源氏豆


「源氏豆」は、

煎った大豆に砂糖を衣がけして、紅白二色にした豆菓、

とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

蓬莱豆、
源平豆、

とも言う。「はた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455661837.htmlで触れたことだが、

おもに縦長で、上辺の旗上(はたがみ)を竿(さお)に結ぶ流旗(ながればた)、鉾(ほこ)などにつけた比領(ひれ)という小旗などが古い形式である。のちに上辺と縦の一辺を竿につける、やはり縦長の幟旗(のぼりばた)とよばれる形が現れ、さらに正方形に近い形など、さまざまな種類も生じた、

とされる(日本大百科全書)が、源平のそれは、

白旗は源氏の旗印であった。対する平家(伊勢平氏)は赤旗(紅旗)を用いており、これをもって日本で「紅白」は対抗する図式の象徴色の一つとなった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%97%97、紅白から、「源氏」あるいは「源平」と名付けた、と思われる。

「蓬莱豆」というのは、京都の蘆山寺、紫式部の邸宅跡として知られる、廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)で節分に撒かれる砂糖でくるんだ紅白の豆を指す。

紅白一粒ずつ食べると寿命が6年延びる、

と言われるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86。蘆山寺のホームページには、

大豆の外側を砂糖で固めた紅白の豆で、本尊の元三大師が魔滅大師(豆大師)と云われ厄除け開運、諸願成就の観世音菩薩の化身だといわれるその豆大師を表現したものです。この蓬莱豆を紅白一粒づつ食べるとその人の寿命が延び、また福餅を食べると開運出世するといわれています、

とあるhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/22setubun.html

蓬莱豆.jpg


それにしても、赤白に準えて、「源氏」と名づけるものは結構ある。たとえば、

源氏巻、

というのがある。これは、

棹物(さおもの 赤小豆を羊羹にするとき、寒天を加えて船形の函に流し込んで凝結させたものを、細長く切ったので棹物とよんだ)で赤を白で重ねて渦に巻いたもの、

とある(たべもの語源辞典)。

白色のものをころもとし、白色を主にして紅を飾りとしたようなものを、

源氏、

と名づけたとある(仝上)が、「源氏巻」には、

餡をきつね色に焼いたカステラのような薄い生地に包んだ長方形の菓子、

として、津和野町の銘菓として知られるものがある。その名前の由来は、

幕末に藩の御用菓子司が銘名を頂くため、このお菓子に紫色の餡を詰め込んで、藩主に進上した。この際、藩主の妻が紫色の餡に感動し、『源氏物語』の「若紫」に出てくる和歌「手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺の若草」を詠んだ。それにあやかって「源氏巻」と名付けられたと、

されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%B7%BB

源氏巻(抹茶味).jpg

(源氏巻(抹茶味) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%B7%BBより)

白を源氏、赤を平氏と見立てるものが多いが、たとえば、紅白の餅は、

源氏餅、
源平餅、

といい、

豆腐の白とみその赤を源平の旗に見立てた、

源氏豆腐、

というのもある(仝上)。あるいは、

源氏と名がついたものは、白ならばよいわけであるが、源氏といったとき、すぐ平氏も考え、その赤旗というわけで、赤い色を取り合わせることもした。白と赤の組合わせで、源平とつけられることも多かった、

のである(仝上)。

江戸時代に、

飯までも白きは源氏茶漬なり、
とか、
奢らずに源氏茶漬で安芝居、

と川柳にもうたわれた、

源氏茶漬、

は、

普通の白いご飯を源氏に見立てたものらしい(仝上)。

1883年(明治16年)に日本で初めて氷砂糖の製造に成功したという三立製菓の、

源氏パイ、

は、パイ生地に砂糖を折り込んだ焼き菓子だが、

和風の名前を付けたいと考えていたところ、発売翌年のNHK大河ドラマが『源義経』に決まったことを知り、そこから「源氏パイ」と名付けられた、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%83%91%E3%82%A4らしいが、消費者からの問い合わせで、平家パイはないのかとあったので、同社が発売していたレーズンパイを2012年度のNHK大河ドラマが『平清盛』となったことに合わせて平家パイに改称した、

という(仝上)。これは、紅白とは何の関係もない。

源氏パイ.jpg


源氏と名の付いたものと言えば、

ゲンジボタル、

がいる。

ゲンジボタル.jpg


「源氏蛍」の名は、

平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた。 平家に敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって戦うと言う伝説、

があり、これに由来しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%AB、とされる。

辞世の句を詠む頼政。月岡芳年画.jpg

(月岡芳年「辞世の句を詠む頼政」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BFより)

別に、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあるが、より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF)、「此美観を蛍合戦と称し、随って源氏蛍(ゲンジホタル)、平家蛍の名も出来たのであるが」(宮武外骨)と、蛍合戦を恋の争ひと見立てているものもある(精選版日本国語大辞典)。

もうひとつ「源氏」の名のついたものに、

源氏窓、

がある。

火灯窓(かとうまど)、
花頭窓、

ともいい(広辞苑)、

書院窓、

ともいう。

上部が尖頭アーチ形をしている窓。禅宗寺院の建築とともに中国から伝わって、唐様からよう建築に多く用いられた、

とある(大辞林)。

火灯窓.png


「源氏窓」というのは、

石山寺の「源氏の間」に見られる、

ことより、その通称が生じたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%AF%E7%AA%93、とある。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2020年09月09日

他山の石


「他山の石」は、

他山の石とする、

といった使い方をする。

他人のつまらない言動も、自分の才能や人格を磨く材料とすること ができるというたとえ、

として使う。『詩経』小雅、鶴鳴の、

他山の石、可以攻(おさむ)玉、

からきている。

他の山から出る粗悪の石も、以て我が玉を磨くに足る如く、不善の人も、善人の徳器を成すの具たるに喩ふ、

とある(漢字源)ので、自分を宝石と見、相手を自分の玉を磨く役に立つ、という意味なので、この言葉の含意には、

質の悪い石でも玉を磨くのに役立つということから(デジタル大辞泉)、
自分よりも劣っている人の言動も自分の知徳を磨く助けとすることが出来る(広辞苑)、

があり、基本的には、

悪口、

であり(とっさの日本語便利帳)、

人前(ましてや本人の前)、
や、
目上の人や先輩、

に言うべき言葉ではない。同義語になる、

殷鑑遠からず、
前車の覆るは後車の戒め、
覆轍、
反面教師、

というのは近いが、

上手は下手の手本下手は上手の手本、
人の振り見て我が振り直せ、
人の上見て我が身を思え、
人を以て鑑と為す、

という、手本とか鑑という含意は全くない。どちらかというと、

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、

といった上から目線である。大言海に、

他の山より出でし石にも、我が玉は磨き得べしとの義、轉じて、外の物に接して、自己の品性を陶冶するに云ふ語、

とあるように、轉じたとしても含意は変わらない気がする。集義和書(1676頃)には、

他山の石はあらきが故に、よく玉をみがくといへり。君子の徳を大にするものは小人也、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

自分の石をみがくのに役にたつ、

という意味は通底している、とみていい。

文化庁が発表した平成25年度「国語に関する世論調査」で「他山の石」の意味について、

「他人の間違った言行も自分の行いの参考となる」30.8%、

に対して、

「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」22.6%、

と「手本」と見る回答が、その前の調査よりも増えている(2004年調査では18.1%)。特に、

「どちらの意味でも使わない」22.4%、
「分からない」27.2%、

から見ると、若い世代では、誤用が目立つといい、『広辞苑』第6版(2008年)では、

「本来、目上の人の言行について、また、手本となる言行の意では使わない」

と付記しており、

類似した意味の「人のふり見て我がふり直せ」が文字通りの意味で了解できるのに対し、「他山の石」は知識がないと意味が了解できないため、使われる機会が減っており、正しく理解する者が世代が下がるにつれ減っているのではないか、

という分析がある(文化庁文化部国語課)が、どちらかというと、みずからを、

君子、

あるいは、

士大夫、

として、その人格形成の視点から見た、

他山の石、

という言葉自体は、一般化して、

他人のつまらない言行、誤りや失敗なども、自分を磨く助けとなる、

としてしまえば、

棘なき薔薇、

になってしまう気がする。ある意味、

他山の石、

は、強烈な自恃あるが故に生きる言葉なのではないか。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:他山の石
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2020年09月10日

公卿


「公卿(くぎょう)」は、

公家、

の意のそれではなく、

供饗、
公饗、

等々と当てる。

公卿に供する食物などを載せる膳、

つまり、

衝重(ついがさね)

の意である。大言海は、

公卿衝重、

とし、

供饗、公饗などと書けるは、借字なるべし、

とする。

食盤(ぜん)の名、公卿に供する衝重、常には、略して公卿とのみ云ふ、

とある。

『酒飯論』にみる衝重.jpg

(大小二つの衝重が配された僧院の食事(室町後期の『酒飯論』) https://tvc-15.hatenablog.com/entry/2019/08/10/053544より)

俊成卿九十賀記、建仁三年(1203)十一月廿三日に、

於上皇二条御所被賀入道正三位釋阿九十算、……次賜釋阿前物、……次居公卿衝重、

とあり、註に、

塗胡粉、有畫圖(藤原俊成入道釋阿)、

とある(大言海)。

木具、

とも言う(広辞苑)。運歩色葉集に、

公卿、木具、公卿人居之、

とある(大言海)。「木具」とは、

木具膳、

の意で、檜の白木で作る(広辞苑)。

信長公記の天正元年には、

一、朝倉左京太夫義景首(かうべ)、一、浅井下野 首、一、浅井備前 首、已上三ツ薄濃(はくだみ)にして公卿に据置御肴に出され候て、

とある。「薄濃」とは、

箔彩、

とも当て、

金銀箔・金銀泥などで彩色すること、

である。

「衝重」は、

ついかさねたるもの、

で、

ツキガサネの音便、

で、

ツイガサネ、

と訓ますが、

神供(じんぐ)や食器を載せるのに用いる膳具、折敷の下に台をつけたもの、

で、普通白木を用い、

三方に穴をあけたものを、

三方(さんぼう)、

四方に穴のあけたのを、

四方、

穴をあけないのを、

公卿、

という(広辞苑)。四方の形小さいものは、

小四方(こじほ/こじほう)、

という(大言海)。「穴」は、

眼象(げんじょう)という格狭間(こうざま)を透かしている、

もの(日本大百科全書)で、「眼象」は、「げじょう」とも訓み、

牙象、

と当て、三方、四方にあけているものは、

刳形・繰形(くりかた)、

という(広辞苑・大言海)。

圓く刳り貫きて、猪目(ゐのめ)形に、葉入りにす、

とある。

「猪の目」とは、「井の目」とも当て、

猪の目の形を模したハート型を上下逆さにしたような透かし文様、

で、灯籠の煙山しの透かし、飾り金具や額縁・経机の彫刻などにも用いる。

猪の目透かし、

とも言う(大辞林)。

「三方」は、

神道の神事において使われる、神饌を載せるための台、

であり、古代には、

高貴な人物に物を献上する際にも使用された。寺院でも同様のものが使われるが、この場合は、

三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぽう)、

と書かれることもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9_(%E7%A5%9E%E9%81%93)

「衝重」は、

通常は檜などの素木(しらき)による木製で、折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に直方体状の台(胴)がついた形をしている、

とあり(仝上)、

折敷を、方形の筒の如き臺に、築重(つきかさ)ねて、作附(つくりつ)けにしたる(大言海)、

ために、「衝重」というにことになる(大言海)。つまり、元々は折敷と台は分離していて使用するときに台の上に折敷を載せており、台に載せずに折敷だけで使用することもあった。

今日では折敷と台が完全に結合したものが使用されており、折敷だけで使用するものは三方とは別に用意するようになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9_(%E7%A5%9E%E9%81%93)。これは、

折櫃の蓋を櫃の上に裏返して重ねて器の代わりとしていた、

のが元になったとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E9%87%8D。「折櫃」(おりびつ)は、

檜の薄板を折り曲げて作った小箱。形は四角・六角などさまざまで、菓子・肴などを入れる、

とある(デジタル大辞泉)。

「三方」「四方」が、

公卿衝重、

であり(大言海)、「四方」は、

大臣以上に供し、

「三方」は、

大納言以下、

で、

其折敷の縁の低きを、細縁(ほそぶち)と云ひ、六位蔵人に用ゐる。これを薄盤と云ふ、

とある(仝上)。ただ、眼象がないのを、

供饗(くぎょう)、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E9%87%8D、広辞苑、日本大百科全書)とあるので、厳密には、

公卿衝重、

供饗、公饗、

とは区別されるものかもしれないが、あるいは、

後には、孔のあいていないものを供饗、孔の三つ无ある物を三方、四つのものを四方といった、

とある(日本食生活史)ので、本来の三方、四方をいう「公卿衝重」の意味から、身分による使い分けをしなくなるほど、一般化した時期から、

三方、
四方、
供饗(穴のない)、

と分化した、と考えるのが妥当のようである。

「衝重」は、したがって、

平安時代、饗宴の席に折敷、高坏などとともに用いられ、白木造りであったが、鎌倉時代以降、朱や黒の漆塗りのものや、蒔絵(まきえ)で装飾したもの、彩絵(いろえ)を施したものなどが現れ、初めのものは高さも低かったが、近世になると脚が高くなった、

とあり(日本大百科全書)、

後世は、平人も、儀式の時には、三方を杯臺とし、其外、種々の物を載するに用ゐ、春慶塗にするものあり、形も、上広く、臺狭くなり、穴も、寶珠形の如くなれり、

ともある(大言海)。

衝重.bmp

(衝重 精選版日本国語大辞典より)

なお、「衝重」に似たもので、

懸盤(かけばん)、

というものがある。

大きく格狭間(こうざま)を透かせた台に折敷を載せたもの、

で、

藤原氏の氏長者(うじのちようじや)がその地位の標識として朱器とともに伝領した台盤も、この形式のものであった、

とある(世界大百科事典)。これは、

折敷を載せ掛けおく臺盤の意、

で、

衝重と同じ造りのもの、

とある(大言海)。

晴れの儀式などに用ゐる膳。昔は、四脚の臺の上に、折敷を載せて用ゐき、後世なるは、上下作りつけにし、銀杏脚にて、脚の下に方形の椢をつけて、面、朱漆にて、他は、総黒漆なり、

という(仝上)が、

入角折敷(いりずみおしき)形の盤に、畳ずりのある四脚置台をとりつけるのが通形。脚間を格狭間(こうざま)形に大きくくり抜いた四脚が、弧を描いて盤面より外に大きく張り出し、安定した形姿を示すのが特徴的である。懸盤の名称は、盤下にこの種の置台を伴うことにもとづくのであろう。文献では平安時代から散見されるようになり、《江家次第》には〈殿上人懸盤居之〉とあるから、当初は昇殿を許された五位以上の位の人に限り、宮中の宴席などで使用されたことが知られる、

とある(世界大百科事典)のを見ると、四脚のタイプも、脚に横木を渡したタイプも、何れも、脚が張り出した形に思える。

菊桐紋蒔絵懸盤.jpg


近世になると、台面に朱漆、縁足台などに黒漆を塗り、草花、花鳥、家紋などの蒔絵(まきえ)が施された美術工芸品が出現している。その代表的な遺例として、高台寺(京都)の蒔絵調度類のうちの松菊桐蒔絵懸盤と芦辺(あしべ)桐蒔絵懸盤があげられるが、これらは豊臣秀吉夫妻の使用と伝えられる、

とある(日本大百科全書)。

因みに、平安期頃の食卓に当たるものには、

衝重(ついがさね)、
懸盤(かけばん)、

の他に、

台盤(だいばん)、
春日卓(かすがしょく 二月圭卓とも)、
高坏(たかつき 高杯)、

等々がある。「台盤」は、

清涼殿の殿上の間や台盤所に於かれている食卓で、上は縁が高く、中は低く、脚は八角形で、中央にくびれがあり、机の上は赤く、外は黒漆になっている、

とあり(日本食生活史)、

平安時代の宮廷、貴族の飲食調度の一つで、節会、大饗などに用いた。「だいはん、ばんだい」ともいう。食物を盛った盤 (皿) を載せる木製の机状の台。長さが約 240cmの大台盤 (長台盤、2人以上用) 、約 120cmの小台盤 (切台盤、1人用) などがあり、ともに幅は約 1m、高さは約 45cmぐらい。朱・黒漆塗で、上面は幅広い縁がつき中が低い。台盤を置く場所を台盤所といい、のち略して台所と称した、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

台盤.bmp

(台盤 精選版日本国語大辞典より)

「春日卓」は、

黒塗で脚は並行した板で、中はくり形がある、

とある(日本食生活史)。「春日卓」の名は、

春日大社で使用された神饌具の一種で、仏殿に香華を供えるための机である、

とありhttps://nanao-art-museum.jp/?p=2773、そこに由来する。大言海には、

春日机、

として、

八脚の机にして、上面は朱漆、他はすべて黒漆に、處々、青貝を塗り込めるもの。奈良の春日神社の神饌の用具。二十年毎に改造せられるものと云ふ。春日塗これに起こる、

とある。現在は、春日卓(かすがじょく)とも訓み、仏具の香炉卓(こうろじょく)等々として残っている。

根来春日卓.jpg

(根来春日卓 https://nanao-art-museum.jp/?p=2773より)

「高坏」は、

食物を盛るのに用いた長い脚の付いた器。1本の脚の上面に円形または方形の皿が付いたもの。縄文、弥生時代には土器であったが、平安時代以降は漆器となった。蒔絵(まきえ)を施したもの、紫檀製のものなどがある。現在は仏前、神前の供物に用いる。角高坏が正式、丸高坏は略式とされる、

とある(食器・調理器具がわかる辞典)。

高坏.bmp

(高坏 精選版日本国語大辞典より)

以上のうち、「衝重」と「懸盤」は、近世まで、食卓として残った。

なお、「折敷」は、「八寸」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470985757.htmlで触れたし、「膳」の変化は、「膳」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471403391.htmlで触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年09月11日

戦争の技術


二木謙一『合戦の文化史』を読む。

合戦の文化史.jpg


本書は、もともとは、「合戦の舞台裏」というタイトルであったらしい。「舞台裏」には違いないが、どちらかというと、

武具、
兵器、

の推移を辿っているので、「文化史」という雰囲気はない。むしろ、軍事技術史、といった感じではあるまいか。

本書を読んで、面白いことに気づいた。ひとつは、

日本の技術革新、

の特徴である。それは、ほとんど伝来技術によってスタートする。例えば、武器は、日本は世界史レベルからかなり遅く、

「ふつうはまず木・石製にはじまり、ついで銅・青銅製に移り、そして鉄器という順序に発達している。しかも多くの国では千年または千五百年という長い青銅器時代がある。ところが日本では、このいわゆる青銅器時代はなく、木・石器時代から、いきなり青銅・鉄器がほとんど同時にもたらされ、その後も超スピードで鉄器時代に進んでいるのである」

と、いわば文明国ではない故の、おくれてのスタートなのだが、

「弥生式時代から古墳時代にかけての数百年の間に、武器の製造や使用法も急速な発達をとげ」

て、

「四世紀のころには種々の武器を製造する鍛冶部があらわれ、七世紀ごろになると、逆に中国や朝鮮に対して日本製の武器が多量に輸出されるまでになっていた」

という、

「またたく間に外来文化を模倣し、さらに独自のものまでを創造する」

という特徴が武器でも表れていることである。

「中世倭人伝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477185272.html?1599079456によると、16世紀半ば、

灰吹き法、

という画期的な銀精錬技術を密かに伝習して、それまで輸入品であった銀を、大量の密輸品として朝鮮に輸出するに至り、朝鮮側は、

「倭国の銀を造ること、未だ十年に及ばざるに、我国に流布し、已に賎物(ありふれた物)となる」と述べせしめた。正当な伝来ではなく、そのために朝鮮人が罪に問われたほどなのに、日本は、この技術によって、17世紀には、世界の銀生産量の三分の一を占めるに至るのである。ここにも、技術革新のコアを模倣する力を見ることが出来る。しかし、銀の精製法の革新である、電解精錬を、日本が開発したということはない。

さらに、種子島経由で伝来した火縄銃でも同じことが起きている。

鉄砲伝来は天文十二(1543)年であるが、

「日本の戦国大名らは、またたく間に鉄炮と火薬の製法を学んで、新兵器として活用することに成功したのである。信長が長篠合戦ではじめて鉄炮の組織的活用をおこなったのは天正三(1575)年だが、それから二十五年後の関ケ原合戦のころには鉄炮は主力兵器となっていた」

のであり、戦国時代末期には、

日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国、

であった、とされる。しかし、その後三百年、江戸末期に、ゲーベル銃がもたらされるまで、

火縄式、

が改められることはなく、結局外国製の、

ゲーベル銃、
メニエー銃、

が輸入されるまで、

燧石式、
も、
雷管式、
も、

まして、

後装施条銃(ライフル)、

も開発できなかったのである。

こうした日本の軍事技術開発の桎梏には、もうひとつ大きな敗因がある。それは、

兵法、

の無いことである。兵法學は、

甲州流、
越後流、
北條流、

等々あるが、

甲陽軍鑑、

を代表とする、その著作は、

「孫呉の兵法や『平家物語』『太平記』など戦陣の物語をもとに、陰陽五行や天象方位をまじえて適宜につくりあげたものであり、…しょせんは泰平の世の軍学者が考えだしたもので、現実味に乏しい」

つまりは、

虚構の兵法、

にすぎず、一人の孫子http://ppnetwork.seesaa.net/article/452854042.htmlも、ひとりのクラウゼヴィッhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/449836582.htmlも生み出さなかった。戦術レベルではなく、戦略レベルの戦争論は、以後今日まで、日本では、論じられたことはないし、広くそうしたソフトウエア全般については、日本には一つも世界基準となるものを生み出せていない。旧軍部の参謀本部自体が、甫庵信長記の創作をもとに、桶狭間等々の戦術を研究していたのであるから、噴飯物で、とてもアメリカ相手に勝てるはずはないのである。『甫庵信長記』の捏造については、「信長の戦争」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476999882.htmlで触れた。

参考文献;
二木謙一『合戦の文化史』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年09月12日

けんちん


「けんちん」は、

巻繊、
捲煎、
巻煎、

等々と当てる。

けんちぇん、
けんちゃん、
けんちょん、

等々と訛る。

繊は唐音でチンだが、煎はチェンであるから、この字の違いによって、ケンチンとかケンチャンとか呼ばれ……訛ってケンチンとなった(たべもの語源辞典)、

「ちゃん」は「繊」の唐宋音=けんちん(巻繊)(俚言集覧(増補)(1899))、

等々、基本的に「繊」(セン)の唐宋音由来というのは一致している。「繊(纖)」は、

会意兼形声。韱(セン)は、小さく切るの意を含む。纖はそれを音符とし、いとを加えた字、

とあり(漢字源)、

巻も捲も、巻いたものを表すので、湯葉とか油揚で巻いている。繊は、千切りとか細かくしたものを示している、

とある(たべもの語源辞典)。大言海は、

巻は、黒大豆の萌(もやし)なり、繊は、細かに刻みたるなり、今も、大根の繊(セン)に切ると云ひ、繊蘿蔔(センロツポン)の名もあり、

とする。「繊蘿蔔」は大根の意で、「せんろふ」とも訓み、大根を細く薄く刻んだもの(日葡辞書)である。

「けんちん」は、

普茶料理の一つ(たべもの語源辞典)、

とされたり、

卓袱料理のひとつ(大言海)、

とされたりするが、「卓袱」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.htmlや「普茶料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.htmlで触れたように、「普茶料理」は、

卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、

とあり(大言海)、料理山家集(1802)には、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、

とあり、それで、

精進の卓袱料理、

といわれ(たべもの語源辞典)、何れも中国からの伝来で、油を使うところが特徴である。

日本に伝えられた「けんちん」は、

①黒大豆のもやしをごま油で炒めて湯葉で巻いたもの、

②大根・牛蒡・人参・椎茸などを千切りにして、油で炒めて崩した豆腐を加え、味付けしたものを油揚で巻いて油で揚げたもの、

③鯛・エビ・鶏肉などを玉子焼で巻いたもの、

などがある、とある(たべもの語源辞典)。本来は中国料理なので、必ず油を用いる(仝上)。大言海も三種挙げており、①に当たるのは、「卓袱料理」由来で、

黒大豆を萌(もやし)を刻み、胡麻の油にて煎り、鹽、醤油にて味をつけたるもの、

で、長崎にては、

もやしを油にていため、湯葉に巻いて煮びたしにす、

と付言してある。俚言集覧には、

巻繊の字を書く、巻は黒大豆のもやしを云ふ、此豆を油にて煎り、鹽、醤油を加へ食す、いわゆるしっぽく料理なり、

とあり、和訓栞には、

しっぽくに用ふる料理の名也、油あげの品也、巻煎なりと云へり、

とあり(以上、大言海)、享保一五年(1730)の料理網目調味抄には、

ゴボウ、キクラゲのせん切りとセリを湯葉で巻いて油で揚げ、小口切りにしてショウガ酢、煎酒(いりざけ)で供する、

とあり(世界大百科事典)、後続の江戸時代の料理書では材料に多少の差はあるものの、おおむね油でいためた具を湯葉で巻き、それを揚げたものになっている(仝上)。「卓袱料理」でも「普茶料理」でもどちらでも通りそうであるが、これは「卓袱」系である。「卓袱」系の「けんちん」には、

ゆでたえびの身や白身の魚を細かくほぐし、千切りにしたしいたけ、笹がきにしたごぼう、銀なんなどとともに煮つけ、薄焼き卵に包み込み、小口切りにする、

というのもある(ブリタニカ国際大百科事典)「卓袱系」は、今日、

もやしや煮た野菜を小麦粉のクレープ巻き、または、湯葉巻きにして、蒸す料理。油で揚げたものや、イセエビと野菜を使い、薄焼き卵巻きにして揚げたものもある、

というバリエーションらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93

②に当たるのは、

大根・牛蒡・椎茸・麩・青菜など、繊(せん)に打ち、胡麻の油にて煎りて、醤油にて味をつけ、豆腐の油揚にて巻き、鹽、醤油にて味をつけ、豆腐の油揚にて巻き、巻目にうどんこを塗り、又油にて揚げ、小口切にす、是は、精進のものなり。けんちん汁はこれより転じたる、

とある(大言海)。「普茶」系である。精進系の「けんちん」には、

煮沸した豆腐を袋に入れて水を切り、細かくほぐして味つけし、銀なん、小口切りにしたごぼう、しいたけ、麻の実を煮たものを、薄皮状に広げた豆腐の上に載せて巻き、美濃紙に包んで蒸してつくる、

というのもある(ブリタニカ国際大百科事典)。「普茶系」は、今日、

根菜類、シイタケ、麩を繊切りにし、油と醤油で炒め、栗、青菜などとともに油揚げで巻いて揚げた料理、

というスタイルらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93

③に当たるのは、

鯛・伊勢蝦・鶏肉・銀杏などを材料に加へ、玉子焼きにて巻く、

とある(大言海)。

伝来した「けんちん」は、以上の三系統らしいが、今日、「けんちん」と名の付くものが、

けんちん汁、
けんちん蒸、
けんちん煮、
けんちん豆腐、
けんちん焼、

等々、結構ある。この場合の「けんちん」は、

けんちん地、

を材料にした料理の総称https://temaeitamae.jp/top/t8/Japanese.food.6/0996.htmlであり、そのバリエーションは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93に譲る。

「けんちん地」は、

大根、人参、ごぼう、筍、木耳などを細切りにして油で炒めて調味、豆腐を崩して加え、さらに炒めたもの、

とある(仝上)。あるいは、

細く切った野菜を油で炒めて、その中にくずした豆腐を入れて更に加熱したもので、玉子を主にして作った場合、

は、

玉子けんちん地、

ともいうらしいhttps://kondate.oisiiryouri.com/kenchinmushi-gogen-yurai/。現在では、

野菜を刻み、崩した豆腐と炒め合わせて作ったものを汁物にすると、

けんちん汁、

蒸し物に仕立てると、

けんちん蒸、

湯葉や油揚げで巻き込んで煮ると、

けんちん煮、

といった使われ方をしているようであるhttps://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-1132/

けんちん汁.JPG


「けんちん汁」は

豆腐を絞りて水気を去り、胡麻の油にてにい煎て、水気を去り、牛蒡、芋など、種々の野菜を刻みて加へ、澄汁(すましじる)にいれたるもの、

略して、

けんちん、

とある(大言海)。俚言集覧(1797)に、

豆腐牛房芋その外色々時の菜を入て油にて煎て汁の物にするをけんちんといふ、

とあるものである。この由来には、

鎌倉の建長寺の開山であった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、くずれてしまった豆腐を野菜と煮込んで作った汁物に由来する、

といった説もある(語源由来辞典)。これが、「建長寺汁」「建長汁」と呼ばれるようになって、訛って「けんちんじる」となったとするものである。だとすると、これは、精進料理の「普茶料理」系由来ということになる。元来は精進料理なので、

肉や魚は加えず、出汁も鰹節や煮干ではなく、昆布や椎茸から取ったものを用いた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%93%E6%B1%81

けんちん煮.jpg


けんちん蒸.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年09月13日

代表


内村鑑三『代表的日本人』を読む。

代表的日本人.jpg


「代表」というのは、それでもって全体を示すものになるようなものを指す、果たして、これが日本人を示していることになるのかどうかは、僕には確信がないが、ここには芸術家が入っていないのは、如何なものだろうか。入っているのは、

西郷隆盛、
上杉鷹山、
二宮尊徳、
中江藤樹、
日蓮上人、

の五人である。それが代表しているのは、

武士、
大名、
農民、
儒者、
僧侶、

である。言い方を変えれば、

統率者、
統治者、
農業家、
教育家、
宗教家、

であり、それが表現しているのは、

維新指導者、
仁政体現者、
農業改革者、
市井の聖賢、
宗教改革者、

ということだろうか。人選は、著者の価値観なので、この五人で、当時(明治末)の日本への反照、あるいは対照として示していたのかもしれない。それにしても、

運慶、
快慶、

はともかくとしても、

雪舟、
光悦、
光琳、
広重、
北斎、

等々、我国の芸術家が挙がっていないのはなぜなのだろう。

著者は、西郷隆盛を、

クロムウェル、

に擬し、上杉鷹山を、

君子、

に擬し、

二宮尊徳を、

ピューリタン、

に擬し、中江藤樹を

聖人、

に擬し、日蓮を、

マホメット、

に擬した。その是非はともかく、日本人を、世界に比肩させて紹介しようとする意図は見える。特に日蓮については、

みずから日本におけるキリスト教の日蓮たらんとした志、

を、訳者(鈴木範久氏)は汲み取っている。

本書を書くことにより、キリスト教を受容した日本人である内村自身の、アイデンティティの確立、

をはかろうとしている、と。

敢えて、ちょっと背伸びして、西欧人に擬しているところには、そんな含意があるのかもしれない。ただ、

鷹山、
尊徳、

に見る、

仁政期待、

の思いが透けて見えるところは、時代背景はあるが、少し気になる。

「『仁政』期待」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474047471.htmlで触れたように、

仁政イデオロギー、
仁君への期待、

は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。

徳川時代に植え付けられた「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、

日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、

へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、

仁政、

を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。その意味では、逆に日本人のもつ心性を、照射してくれている感じがなくもない。

参考文献;
内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)

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2020年09月14日

関ケ原合戦図


桑田忠親、武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』を読む。

関ケ原合戦圖.JPG


関ケ原合戦図絵図は、今日、四種類十数点の遺品がある、とされる(神山登「関ケ原合戦図屏風の絵画的特色」)。

第一類 旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双(各隻194×590センチ)
第二類 井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻(156.7×361.2センチ)
    木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻(159.1×364.6センチ)
    関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻(175×380センチ)
第三類 徳川美術館本関ヶ原合戦図屏風 二曲二双(72.4×55.4センチ)
    東京国立博物館蔵本関ヶ原合戦図屏風絵 紙本二巻(縦79センチ)
第四類 国会図書館蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻
    静嘉堂文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻物 一巻
    大東急記念文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻

である(仝上)。このうち、第四類は、絵巻物なので、本書は扱っていない。本書は、

旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双
井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻

を扱っているが、

井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻
関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻

は、

同じ大きさの画面とほぼ同じ構図である、
合戦の布陣人物の配置、旗指物の有様は全く同一、

等々から、原本を同じくする模写本とみなされている(仝上)。特に、

赤い旗指物を誇張して描くことから井伊直政を中心として木俣右京・向山内記といった井伊藩の猛将たちの関ヶ原合戦での奮闘ぶりを顕彰することが主目的、

であったとみられ(仝上)、いずれも、落款から幕末期の制作とみなされており(岡本良一「関ケ原合戦図屏風」)、旧津軽家本の関ケ原合戦図屏風が、

合戦の起きた慶長五年(1600)以後十年余の間に制作された、

と、実戦から隔たっていない時期に制作された、

実戦の記録性と迫真力をもった生々しい戦況の現実観とを具備した歴史画として高く評価されている、

のと、比較すると、大きさからいってもスケールからいっても、落差がある。

普通、屏風といえば六曲一双で、その大きさも縦横およそ150センチ×370~380センチが通り相場であるが、この屏風は194センチ×590センチという大型で、さすがに家康が命じて制作させたもの、

とされている(仝上)だけの特別のものである。これが、

津軽屏風、

といわれるのは、旧津軽家に長く襲蔵されてきたからである。津軽家の史料(津軽藩旧記伝類)には、家康の異母弟松平康元の娘満天姫(まてひめ)が、家康の養女として津軽二代藩主信枚(のぶひら)に嫁いだ際の輿入れ道具の一つとして持参したことが知られている。満天姫は、

嫁入りに際し家康の所持していた「関ヶ原合戦図屏風二双の内一双」を拝借したい旨申し出たところ、家康は一度は外の品ならば何なりと許すと断ったが、満天姫の熱意に折れて、「遠国のなぐさみにもせよ」と所望を許した、

という。その経緯を、『津軽藩旧記伝類』の「藤田氏旧記」に、

満天姫君或年家康公へ御願被成候は、子孫へ長く宝に仕度候間、関ヶ原御屏風二双の内、一双拝借仕度旨申上ければ、家康公仰に其義は迚も望に叶ひがたし、外品なれば何なりと望に叶ふべしと申ければ、姫、余の御品は少も望無御座候、何にも頂戴被仰付度旨、泪を流して無余儀御願被遊ける故、家康公にも左程のことならば暫く預け置の間、少しく遠国のなぐさみにもせよと御預被遊けるとなり、

とある(仝上)。津軽屏風の特徴は、

右隻は、大垣城、杭瀬川の戦いが描かれ、
左隻は、勝敗の帰趨の決まった後の、石田・島津・小西・宇喜多・大谷陣営の敗走する様子と、これを追う東軍が描かれる、

が、他の合戦図と比較して、

2026人、

も描かれているのに、家康すら、右隻に、

大勢の馬上の鎧武者に囲まれるように疾駆する、鉢巻頭の鎧武者が家康と判定されるのであるが、この家康以外、左右両隻を通じて誰一人としてその名を指摘できる人物はいない、

ばかりか、部隊も、判然としない。この種の合戦図では、「異例」のこととされる。通常、

馬印・幟・指物などの旌旗によって、部隊名はもちろん、個人名までがはっきりと指摘できる、

のであるが、その中で、例外的に、

左隻の合戦の画面には西軍陣地を突破する福島正則らの先鋒隊が奮戦する有様だけが描写、

されているのである。満天姫の前夫は、福島正則の子正之であり、その死後家康の元に戻っていた。満天姫のこだわりは、ここにあったのではないか、とされている。で、

家康としては全部手放してしまう気になれず、八曲の二双の内の半分、つまり、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)とを対にして一双にして与えたのではないか、

と(小和田哲男「関ヶ原合戦図屏風」)し、そう考えると、普通、

一つの大きなテーマを扱い、その図様を画面構成する場合、必ず図様は連続した形式で構成されるのが常套的表現法、

なのに、現存の津軽屏風が不自然に切れていて、左隻と右隻の図様がうまく連繋できていない画面構成(神山)である理由が、たとえば、

満天姫は福島隊にこだわった。前夫のおもかげのありそうな部分、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)をピックアップした、

と考える(小和田)と説明できる、と。つまり、

本来二双ということになると、右から第一隻・第二隻・第三隻・第四隻とあったわけで、場面から見ると、その第一隻と第三隻が現存し、第一隻を右隻、第三隻を左隻とよんでいる、

ことになる(仝上)。第四隻には、

佐和山攻略の状況が描かれていた、

と(岡本)考えれば、大垣城からはじまった関ヶ原合戦の時間経過が、完結するということになる。

満天姫像(長勝寺蔵).jpg

(満天姫像(長勝寺蔵)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%A4%A9%E5%A7%ABより)

なお、津軽屏風に描かれている家康は、

神格化された後世の家康像、

とは異なる現実味があり、合戦直後に描かせたと考えられる傍証となる。

関ヶ原合戦屏風.jpg

(関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より)

屏風絵は、現物を目の前に見るのが一番だが、ガラス越しでは細部は見えず、画集の良さは、ある面細部をくまなく見ることが出来ることだが、全体の流れが一覧しにくいことが、当然ある。

絵巻物、

から派生した屏風絵だけに、時間軸が、右から左へ、同時に、

東から西へ移動していく、

形になっている。そうみると、津軽屏風の断続が、一層際立って見えてくる。特に、「津軽屏風」は、各軍の旗幟も明らかでなく、家康を除くと、殆ど個人を識別するのも難しいが、合戦後近い時期に描かれただけではない、

記録映画的価値、

があるのは、

小荷駄(輜重)隊の物資運搬状況、
野陣の状況、
穀竿をふるって稲こきをしたり、杵で脱穀したりする様子、

等々、他の合戦図屏風にはない描写が豊富であり(岡本)、それは、俯瞰してでは気づけない、画集ならではの特典である。

関ヶ原・西軍陣所.jpg

(津軽屏風 右隻・大垣城外の西軍 関ヶ原合戦図より)

関ヶ原・西軍食糧調達.jpg

(津軽屏風 右隻・西軍食糧調達 関ヶ原合戦図より)

参考文献;
桑田忠親、武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』(中央公論社)
藤本正行「入門戦国合戦図屏風」(別冊歴史読本『戦国合戦図屏風』)(新人物往来社)
小和田哲男「関ケ原合戦図屏風」(仝上)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年09月15日

おみなえし


「おみなえし(をみなへし)」は、

女郎花、

と当て、

をみなめし、
をむなへし、
おみなべし、
おみなし、
ちめぐさ、
じょろうばな、

等々とも呼ばれ(広辞苑他)、中世以降は「をみなめし」の形が使われた(岩波古語辞典)らしい。別名、

敗醤(はいしょう)
粟花(あわばな)、
蒸粟(むしあわ)、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7。「敗醤(はいしょう)」というのは、

此花、水中に挿すこと二三日すれば、液出て、異臭あり、醤の腐れるが如し、故に漢名に敗醤の名あり、

とある(大言海)。ただ、中国名の敗醤は、

オトコエシ、

のことであり(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)、漢名は、

黄花龍芽(精選版日本国語大辞典)、
黄花竜牙https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7

とある。

「おみなえし」は、秋の七草、

萩、
尾花、
葛、
撫子(なでしこ)、
女郎花、
藤袴(ふじばかま)、
桔梗(ききょう)、

の一つとされ、

スイカズラ科オミナエシ属、

とされるhttps://matsue-hana.com/hana/ominaesi.htmlが、

オミナエシ科オミナエシ属、

ともされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7多年草の植物だが、古名、

おほつち、
おほとち、

和名抄に、

女郎花、乎美那閉之、

とある。

女郎花.jpg


「おみなえし」は、また、

襲(かさね)の色目の名、

てもあり、

表が黄、または、経(たていと)が青で緯(よこいと)が黄、裏は青。秋に着用する、

秋の襲、

でもあり(精選版日本国語大辞典)、七八月頃に着用する(大言海)。

襲の色眼 女郎花(おみなえし).gif


女郎花の少し青みがかった黄の花の色から取ったもの、

であるhttp://www.mode-japonesque.com/irodori/kasane_aki/ominaesi.htm

「おみなえし(をみなへし)」の語源は、大言海が「いかがか」と疑問を呈した、

ヲミナは美女の意。ヘシは脇へ押しやる、力を失わす意、この花の美しさが美女をも顔色をなくさせる意か、

とする説(岩波古語辞典・古今要覧稿)がある。鎌倉時代の僧宗碵(そうてい)の『藻塩草(もしおぐさ)』には、

平城(へいぜい)天皇(806~809)の時代、自分の愛した男が別の女と結婚すると聞いて、世をはかなんで川に身を投げたという女が脱ぎ置いた山吹重ねの衣から、女郎花が咲き出た、

との伝説をある由(日本大百科全書)なので、由来に故なしとはしないが、他に、

「女+なる+べし」の「なる」の省略、「おみなべし」が元の形、

と見る説(日本語源広辞典・語源辞典・植物篇=吉田金彦)があるが、「おみなべし」「おみなめし」は中世以降に登場するので、いかがであろうか。また、

ヲミナベシは、女房詞で「粟飯」を指す、粟飯のような花、

とする説(日本語源広辞典)もある。是非は判断できないが、

粟花(あわばな)、
蒸粟(むしあわ)、

という別名があり、「粟」でなく「粟飯」とする理由がわからない。「おみなえし」は、

粟、
または、
粟餠、

をいう女房詞とある(精選版日本国語大辞典)ので、逆に「粟花」という名があったから、そう呼ばれたのかもしれない。ここは、「女郎花」の語源とは別の話になる。

おとこえし.jpg

(おとこえし(男郎花) デジタル大辞泉より)

なお、「女郎花」の対とされるのが、同属で姿がよく似ている白花の、

オトコエシ(男郎花)、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%A8%E3%82%B7、全体にやさしい感じがするところから名付けられたとされる。和名は、

オミナエシに対立させる形で、より強豪であることを男性にたとえたものである。最後のエシは元来はヘシであり、またヘシはメシに変化する例もあり、そのため本種の別名としてオトコメシもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%82%B3%E3%82%A8%E3%82%B7

「なでしこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464868151.htmlについては、触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:おみなえし
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2020年09月16日

あさがほ


秋の七草は、

萩、
尾花、
葛、
撫子(なでしこ)、
女郎花、
藤袴(ふじばかま)、
桔梗(ききょう)、

のとされるが、山上憶良の歌では、

萩の花尾花(をばな)葛花(くずはな)なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふぢはかま)朝顔の花、

と、桔梗ではなく、朝顔を入れている。この朝顔が何であるかについては、

桔梗説、
牽牛子(けんごし)説、
木槿(ムクゲ)説、

等々諸説があるhttps://tankanokoto.com/2019/10/aki-nanakusa.html。「牽牛子」は、「あさがお」の種の生薬の名である。

朝顔.jpg


今日、「あさがほ(あさがお)」は、

朝顔、

と当てる。「朝顔」は、

朝、起き出たままの顔、

つまり、

寝起きの顔、

の意である。枕草子には、

殿おはしませば、ねくたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜむ、と引き入る、

とある。大言海は、「朝顔」を、六項目に分ける。

「朝顔」の第一は、

朝、寝起きの顔、

の意で、

朝容(アサガタチ)、

と当てる。この意は、

麩焼(ふやき)の異名(後水尾院年中行事)、

ともある。

焼きたる面の、清らかならぬを、女の朝顔の、つくろはぬに喩えて云ふ、

とある。つまり、ということは、「朝顔」は、「女性の寝起きの顔」の意である。その意の転化として、

「朝顔」の第二は、

朝の容花(かほばな)の意、

つまり、

朝に美しく咲く花、

の意を持つ。「容花」は、

貌花、

とも当て(大言海)、

かほがはな、

ともいう(岩波古語辞典)が、

カホとは、容姿(すがた)の義、すがたの美しき花の儀、容(かほ)が花とも云ふ(容好花(かほよばな)とも云ふ)、美麗なる人を、容人(カタチビト)と云ふが如し、容鳥(かほどり)、かほよどりと云ふも同じ、

とある(大言海)。「容花」は、広く、

朝に美しく咲く花、

の意だが、

ひるがほ、

をいう(岩波古語辞典)とあるが、他に、

あさがほ、かきつばた、ムクゲ、オモダカ、

等々も指した(仝上)。

「朝顔」の第三項は、

朝の美しき花、

が一つに絞られていく。

朝に咲くが美しいもの、

として、「あさがほ」は、

ききょう、
むくげ、

にも当てられたが、

木槿も牽牛子(漢方、朝顔の種)も後の外来ものなれば、万葉集に詠まるべきなし、

とし、

桔梗、

の意であった、とする(大言海)。

桔梗.jpg


今日の「あさがお」は、

奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AAが、

遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もあるが、このため、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指しているとされる、

としている(仝上)。平安初期の新撰字鏡も、

桔梗、阿佐加保(あさがほ)、

とし、岩波古語辞典も、「朝顔」が、万葉集で歌われているのは、

桔梗、

の意で、輸入された、

ムクゲが美しかったので、それ以前にキキョウにつけられていた「あさがほ」という名を奪った、

ととする。名義抄(11世紀末から12世紀頃)には、

蕣、キバチス、アサガホ、

とある。その後、平安時代に中国から渡来した、その実を薬用にした牽牛子(けにごし)が、ムクゲよりも美しかったので、「あさがほ」の名を奪った、

と(岩波古語辞典)ある。名義抄には、既に、

牽牛子 アサガホ、

とある。

「ムクゲ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455243777.htmlで触れたことだが、

ムクゲは古代の中国では舜(しゅん)とよばれた。朝開き、夕しぼむ花の短さから、瞬時の花としてとらえられたのである。『時経』には、女性の顔を「舜華」と例えた記述がある。白楽天も一日花を「槿花(きんか)一日自為栄」と歌った。(中略)日本では平安時代から記録が残り、「和名抄」は木槿の和名として木波知春(きはちす)をあげている。これは「木の蓮(はちす)」の意味である。『万葉集』の山上憶良の秋の7種に出る朝顔をムクゲとする見解は江戸時代からあるが、『野に咲きたる花を詠める』と憶良は断っているので、栽培植物のムクゲは当てはめにくい、

としていた(日本大百科全書)ので、やはり、万葉集の歌にある「朝顔」は、

桔梗、

のようである。

ムクゲ.jpg


そして、「朝顔」の第四項目は、「桔梗」から「あさがお」の名を奪った「ムクゲ」である。

此灌木、字音にて、木槿(むくげ)と呼べば、漢種の移植のものなり、されば野生になし、其花、朝に咲きて、暮れに落つれば、朝顔と云ふ、色種々にして、殊に美麗なれば、桔梗の名を奪へるなり、然れども、又、牽牛子(あさがほ)に、其名を奪はれて、字音の方にて、呼ばれるやうになれり、

とある(大言海)。確かに、「槿」について、『漢字源』には、

「花は朝開いて、夕方にはしぼむので、移り変わりのはやいことや、はかないことのたとえにひかれる」

とあり、「舜(しゅん)とよばれた」というだけの謂れはある。日本で、古く、「あさがお(朝顔)の名があったのもそのゆゑである。

「朝顔」の第五項目は、今日の「あさがお」である。

平安朝の初期に、實を薬用とするために、漢種を渡しし草にて、野生になし、即ち、字音にて、牽牛子(ケニゴシ)と云ひき、實の名なるが如し、朝に花咲きて、其碧色の美麗なること木槿(あさがほ)に超ゆれば、その名を奪ひ、ケニゴシ(牽牛子)の名は行われず、終にアサガホの名を専らにして、いまの世に到れり、

とある(大言海)。平安中期の和名抄には、

牽牛子 阿佐加保、

とある。

花の色は、渡来時は、

碧色、
白色、

の二種であったらしい(仝上)。それが江戸時代に、

文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)、

とブームがありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA、色だけではなく、八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた(仝上)という。

朝顔三十六花選.jpg

(嘉永7年(1854年)発行の「朝顔三十六花選」 https://intojapanwaraku.com/culture/2485/より)

牽牛子(けにごし)、

が、

あさがお、

と呼ばれるようになったのは十世紀初め頃であり、「朝顔」という表記が定着したのは幕末頃と考えられている。

ついでに、「朝顔」という名をもつものがある。これが「朝顔の第六項目。

蜉蝣、

である。爾雅、釋註「蜉蝣」に、

朝生暮死、

とある(大言海)。

因みに、「牽牛子」を、

けにごし、

と訓むは、

けぬごしの転、ゴは牛(ギュウ)の呉音、證類本草「此薬始出田野人、牽牛易薬、故以名之、

である(大言海)。牽牛子は『名医別録』に、

「味苦寒、有毒。気を下し、脚満、水腫を療治し、風毒を除き、小便を利す。」

載る、とあるhttps://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=107

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)


ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年09月17日

紙碑


宮本常一『忘れられた日本人』を読む。

忘れられた日本人.jpg


著者は「あとがき」で、

無名にひとしい人たちへの紙碑(しひ)のできるのはうれしい、

と書く。まさに、

無名の人々の紙の碑、

である。特に、

名倉談義、
土佐源氏、
梶田富五郎翁、

が印象深いが、とりわけ、

土佐源氏、

は、創作かと思わんばかりの、その人の一生が、語られている。多くは、語りによって表現されているが、ふと、V・E・フランクルの、

人は誰もが語るべき物語を持っている、

という言葉を思い出す。その物語を聞き出す、著者の聴く力に敬服する。博労であったが、盲目となり、乞食になって、橋の下に住む語り手は、最後にこう締めくくる。

「婆さんはなァ、晩めしがすむと、百姓家へあまりものをもらいに行くのじゃ。雨が降っても風がふいても、それが仕事じゃ、わしはただ、ここにこうしてすわったまま。あるくといえば川原まで便所におりるか、水あびに行く位のことじゃ……。ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」


これを創作と疑った人に対し、「宮本氏は……採訪ノートを示して墳った」(解説・網野善彦)という。もっともだろう。ここまで赤裸々に語らせるには、並の人の聞き取り力では不可能なはずだからである。

橋の下の乞食の物語は宮本氏というすぐれた伝承者を得て、はじめてこうした形をとりえた、

のである(仝上・網野)。

著者は山村調査の方法について、こう書いている。

「……私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書があることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい一軒に半日かける。午前・午後・夜と一日に三軒すませば上乗の方。(中略)
 古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかる。と同時に実にいろいろなことをおしえられる。「名倉談義」はそうした機会での聞取である。
 その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。」

そして、

「私のいちばん知りたいことは今日の文化をきずきあげてきた生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生れ出てきたかということである。」

と。だからこそ、その一人に語りを深追いしていく。調査に反対している人のところへも行く。しかし、

「どうにもならなくて手をあげたという場合はすくない。これは私が前時代的な古風な人間であるからだと思う。そして相手の人が私の調子にあわせるのでなく、自分自身の調子ではなしてくれるのをたいへんありがたいと思うし、その言葉をまたできるだけこわさないように皆さんに伝えるのが私の仕事の一つかと思っている」

と。

まさに、「はなす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148は、

放す(心の中を放出する)

である(大言海)。「かたる」との差は、

筋のある、
事柄や考えを言葉で順序立て、

というところになる。その中に、

庶民の「生活誌」(仝上・網野)、

がおのずと浮かび上がってくる。

「村の寄り合い」にある、村里内の話し合いは、

「今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことにこと寄せて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんな考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。
 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。」

とあり、そのゆったりとした時間の流れは、危機に際してもきちんと働くことは、中世、近江の「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.htmlで触れた、琵琶湖畔の、

「集落が、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落」

であったことと通底する気がする。史料の言葉で、これを、

惣村、

と呼び、

「惣の目的は住民の家を保護することで、平等観念は一揆の原理」

と同じである。

参考文献;
宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年09月18日


「葛」は、「九十九」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471056963.htmlで触れたように、

くず、
かずら、
つづら、

と訓ませるが、

つづら、

と訓ませると、

ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、

だが、

ツヅラフジの別称、

でもあり(動植物名よみかた辞典)、

かずら、

と訓ませると、

蔓性植物の総称、

とある(仝上)。しかし、

くず、

と訓むと、秋の七草の「くず」である。

「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、

会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいていてつる状をなし、切っても汁がでない植物、

とある。「くず」や「つる」の意で、「くずの繊維で織ってつくった布(かたびら)」の意で、「つづら(葛籠)」や「かづら」の意味で使うのはわが国だけである。

ここでは、

くず、

と訓ませる「葛」である。「くず」は、

くずかずら、

ともいうが、むしろ、

くず葛(かづら)と云ふが、正しきなるべし、

とある(大言海)。この根は、

生薬の葛根湯、

として用い、また

葛粉、

を採る。「くず」の繊維で、

葛布、

を織り、蔓で、行李の、

つづら(葛籠)、

をつくる(広辞苑)。大和本草に、

葛粉は、吉野よりのもの最もよし、

とあり、本草綱目にも、

葛粉、城州にては、和州の芳野葛を上品とす、

とあり、

國栖葛(くずかづら)なるべきかと云ふ、いかが、

と大言海は多少疑問符をつけているが、

奈良県国栖の地名にちなむという(広辞苑)、
吉野のクズ(国樔)のものを良しとしたところから(古今要覧稿・和訓栞)、
グズ(国栖)のかづら(葛)の意(日本語源広辞典)、

と、地名の国栖を語源とする説がある。しかし、

漢音のカツ(葛)をクツ・クヅ・クズと転音した(日本語の語源)、
漢音「葛」katの音韻変化、kat―kut―kuz(日本語源広辞典)、

と、「葛」の漢音の変化、とする説もある。その他、

スイガヅラの上下略の転(滑稽雑誌所引和訓義解)、
クリ(栗)の異名クジの転呼。クジは美味の義の朝鮮語クスハタからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、
根を粉にして用いることから、細屑の義(東雅・百草露)、

等々あるが、理屈ばったものは大概外れている。地名か漢音の音韻変化のいずれか妥当思うが、

葛=国栖、

とみなされていた、ということは大事かもしれない。特に、

国栖、

は、

国樔、

とも当て、

國主(くにぬし)の、くにし、くにす、

と転じた(大言海)、

くにすの約、

である(岩波古語辞典・大言海)。

古事記(応神)に、吉野之國主(くにす)等とあり、神代よりの地祇(クニツカミ)の裔なり。国栖(くづ)とも云ふは、くにすの約なり……、常陸國の国巣も、土着の地主の義なり、是を土蜘蛛と云ふも、土公(つちぎみ)にて、地主の事なり、

とあり(大言海)、「国栖」は、特殊な意味がある。

上代、日本各地に散在し、非農耕民的な生活様式によって、大和政権から異種族と目された。特に大和國吉野川の川上に住んでいた人々をさす(日本語源大辞典)。

他の村落と交通せず、在来の土俗を保持し、奈良・平安時代には、宮中の節会に参加、贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた、

とある(広辞苑)。古事記(神武天皇)には、

磐排別(イハオシワク)之子、此則吉野國巣部(くにすら)始祖也、

とあり、姓氏録の大和國神別、地祇、国栖(くにす)に、

神武天皇行幸吉野時、川上有遊人、……喚問、答曰、石穂押別神(いわほおしわけ)之子也、爾時詔賜国栖名、

とあり、応神紀(19年5月)には、

十月の戊犬の朔に吉野宮に幸す。時に国栖人(くずびと)来朝。因り醴酒を以て、天皇に献りて、

とあり(大言海)、

人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%A0%96

そう考えると、

国栖の葛、

には、意味があると思う。

葛.jpg


なお、「なでしこ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464868151.html、「おみなえし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477396903.html?1600285923は触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年09月19日

葛切り


「葛」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477451881.html?1600370947については触れたが、古えから「葛」の塊根に含まれるデンプンをとり、

葛粉、

として利用されてきたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BA

秋から冬にかけて掘り起こしたものを砕いて水を加えて繊維を取り除き、精製してデンプンだけを採取する。葛粉を湯で溶かしたものを葛湯と言い、熱を加えて溶かしたものは固まると透明もしくは半透明になり、

葛切り、
葛餅、
葛菓子(干菓子)、
葛そうめん、

等々の他、和菓子材料や料理のとろみ付けに用いられてきた(仝上)。「葛そうめん」というのは、

練った葛料を、数個の穴をあけた柄杓に流し込み、底から糸状に垂れてくるのを熱湯でゆで上げ、数回水にさらす。澄まし汁の具に用いられる、

とある(日本大百科全書)が、

はるさめの古い形のもの、

ともある(仝上)。大言海は、「葛切り」と「葛そうめん」を一括して、

葛ねり、

としているが別物である。「葛餅」は、

葛粉、生麩(しようふ)粉、小麦粉を等分に配して水でこね、一晩ねかせたあと木枠に流し入れて蒸し、これを適宜に切って糖みつときな粉で食べるもの、

で(世界大百科事典)、東京の亀戸天神、本門寺、神奈川県の川崎大師(平間寺)などの名物になっている。その他、江戸語大辞典には、

葛煎餅、

が載り、

葛粉で製した煎餅、

とあり、また、

葛溜(くずだまり)、

が載り、

葛餡、

ともいい、

醤油・味醂・煮出汁でつくった汁に水で溶いた葛粉を加えて煉ったもの、

とあり、これを掛けた料理が、

餡掛、

である。中国料理では、

溜(リウ)、

と呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1%E6%8E%9B%E3%81%91

「葛切り」は、

葛の根の澱粉からとった葛粉に砂糖と水を加え、塊がなくなるまでこねたら、それを湯煎(ゆせん)しながら流し固めてうどんのように細目に切ったものである。料理にも使われる。和菓子の場合は、氷で冷やしながら、黒蜜か白蜜をかけて食べる、

ものであるhttps://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424。普及品として、くず粉の代用としてじゃがいもなどのでんぷんを用いたものもある(世界の料理がわかる辞典)。なお、ゼラチンや寒天は加熱してから冷却することでゲル化するが、

葛切りは、澱粉なので加熱することでゲル化する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%88%87%E3%82%8A。「葛切り」という名は、

葛を、糕(むしもち)にしてから麺のように切るので、葛切りという、

とある(たべもの語源辞典)。「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.htmlで触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、

「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で、表面が薄く平らである意を含む」

で、中国では、小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして、ついてつくった食品」に当てるのは、我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

である(字源)。

現在の和菓子としての葛切りは、京都に起こったとされるが、

京都市祇園にある鍵善(かぎぜん)が高名である。鍵善はこれを吉野葛でつくり、螺鈿(らでん)を施した漆の容器に入れ、白蜜か黒蜜を添えて供している。幕末のころは葛切りを岡持ちに入れて出前した、

という(日本大百科全書)。

古い料理本にある葛切りの作り方は、

葛を粉にして、きぬ篩でふるってから煮えたぎった熱い湯でこね、蕎麦切http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.htmlのように打つ、夏は冷やして食べる、

が(たべもの語源辞典)、室町中期の『尺素往来』(せきそおうらい)の点心の一つに、

砕蟾糟、

とあり、現代の葛切りに似たものではなかったかと考えられているhttps://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424。次の時代には、

葛粉一升を熱湯一合五勺(0.27リットル)でこねて、蕎麦のようにのばして打切り、茹でてから水に入れて晒す、

あるいは、

葛粉一升に白砂糖半斤(300g)を入れ、熱湯でこねもてから、めん棒でのばし、蕎麦のように打って、煮え湯に入れて出す。つけ汁は蕎麦つゆより甘いものにし、味醂、砂糖を使う、

とある(仝上)。冷たくして食べるものとは限らなかったようだが、夏の食べ物であった。

宝暦13年(1763)~天明4年(1784)の『貞丈雑記』には、

葛の粉をねり砂糖を入れて薄くひろげて、さまして短尺の如く小さく切りたる物なり。黄と白の二色を交うるなり。本は「水仙羹」なるべし。水仙の花の色なり、

と記しhttps://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/055/

水繊(煎 すいせん)、
水蟾(すいせん)、

と呼んでいる。これは、

水繊羹、

ともいい、

くず粉を煮、冷やし固めて短冊形に切ったもの、たれ味噌または煎(い)り酒をつけて食べる、

とある(大辞林)。「水繊」は、

かつて黄と白の短冊状の食べ物で、色合いが水仙の花色を思わせたことから、

水仙羹、

とも呼ばれていたhttps://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/055/らしい。

今でも葛粽を「水仙粽」と呼んだり、虎屋の生菓子「水仙巌の花」「水仙常夏」のように、葛粉を使った菓子に「水仙」を冠したりするのも、このためでしょう、

とするが(仝上)、「羹」なので、今日の葛切りとは異なる。江戸時代には、水繊(すいせん)は、

葛粉を水でといて水繊鍋(水繊用の四角の浅鍋)に薄く流し入れ、鍋底を熱湯に浮かべて半透明になったら、そのまま水繊鍋を熱湯中に押し入れて完全に糊化させ、これを冷水中に入れて冷やし、水中で糊化したものをへらではがして取り上げて細く切ります、

ともありhttps://www.kabuki-za.com/syoku/2/no231.html

酒、醤油(しょうゆ)、酢、鰹節(かつおぶし)、塩などを煮詰めた調味料につけながら食べていた、

とあるhttps://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=2424。これは、「葛切り」ではなく、「葛そうめん」に近いものであったのではないか、という気がする。

葛切り.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:葛切り
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2020年09月20日

伝説


松浦玲『検証・龍馬伝説』を読む。

検証・龍馬伝説.jpg


「慶応二年正月のいわゆる『薩長同盟』あるいは『薩長連合』で、木戸と小松や西郷との間では、協定内容の文章化、相互に署名した文書の交換というような手続きはまったく行われなかった。だから木戸は、自分の記憶による協定内容を箇条書きにして、立会人であった龍馬の確認を求めたのである。この事実は、同盟関係の危うさと坂本龍馬の役割の大きさとの二つを同時に示している。龍馬が裏に返事を認めた龍馬宛木戸孝允書簡は、このときの協定内容を確実に後世に伝える唯一の記録であって、明治維新史の超一級史料である。この朱筆を振るったとき、龍馬はまぎれもなく歴史の歯車をうごかしていた。」

しかし、同盟の立会人であった坂本龍馬は、

「どこかでこの『同盟』関係から外されてしまった」

のである。それには、

「薩摩と長州の直接の交渉が緊密になるに従って、そのどちらの藩士でもない龍馬が必要とされなくなる」

だけではなく、龍馬自身が、

「薩長同盟が目指すのとは違う道を歩いている」

結果であった。

「初めはなんとなく変だなと感じさせる程度だった微妙な違いが次第に広がり、慶応三年十一月、龍馬が京都で暗殺されたときには、西郷・木戸ら薩長の中枢と龍馬とは、別の世界にいたという感じがするほど隔たっていた」

このあたりの詳細を、本書は、例によって、史料を詰めつつ、勝海舟との関係も含めて、あぶり出していく。

同盟立ち合いの後、

「薩摩名義で長州のために購入して亀山社中が乗り回していた桜島丸(乙丑丸)を幕府と戦っている最中の長州に引き渡してから、龍馬と亀山社中は船も金もない苦境に陥った」

それを助けたのは、木戸孝允で、木戸は、

「もう龍馬は薩摩・長州の繋ぎ役として不要になったと、冷静に判断できる立場」

にあり、

「しかし木戸としては薩長同盟の恩人を見殺しにできないので、龍馬個人を長州本藩と長府藩との庇護下に置いた。それと同時に、龍馬が土佐との関係を回復するよう手助けする」

で、後藤象二郎と会見し、土佐の資金で海援隊が出来上がる。この、後藤との関係が、後に龍馬が大政奉還を容堂を介して建白し、慶喜を動かすきっかけになる(船中八策)。もちろん、大政奉還は龍馬の独創ではない。

「大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力をもつ議論として持ち出されている。(中略)一翁も春嶽も徳川氏は政権を返上すべきだとの考え方を生まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰り返し持ち出している。(中略)慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである」

龍馬が後藤象二郎に船中八策を示したとき(慶応三年四月)、薩摩は、

「武力討幕以外にないと思い定めていた時期」

であった。だから大政奉還は、

「京都で討幕派『外交』を担当している薩摩の西郷隆盛や大久保利通は迷惑だった。しかし、土佐を敵に回すことはできない。議論でだめだった場合は次は武力討幕、あるいは建白段階でも武力による脅迫を辞さないという暗黙の了解で、先ず平和裡に幕府に迫るというのをやらせてみるしかなかった。六月下旬の薩土盟約とは、そういうことである。」

龍馬は、討幕派に近い位置と、大政奉還寄りの位置と、振れながら、慶喜に期待する立場にいる。だから、

「慶喜が大政奉還の上表を提出したのと同じその(慶応三年十月)十四日、薩長討幕派代表は天皇が薩長両藩主に『賊臣慶喜を殄戮(てんりつ)せよ』と命じた『討幕密勅』を受け取る。請書に署名したのは薩摩が小松・西郷・大久保、長州が広沢真臣、福田俠平、品川弥二郎の計六名であった。」

かつての「薩長同盟」の立会人、

「坂本龍馬には何の挨拶もなかった」

のである。

「短期間ながら龍馬と行動を共にしていた戸田雅樂(尾崎三良)が十七日西郷に会い、大阪から同じ船で西へ向かっているので、龍馬もかれらの動きをまったく知らなかったわけではあるまいが、どうも『別世界』にいるという感じが強い。『密勅』のことは、少なくとも事前には教えて貰えなかっただろう」

というほど、薩長と、大政奉還後の諸侯会議に期待した龍馬との距離は、限りなく大きかったのである。

「薩長討幕派が十二月九日に敢行した王政復古クーデタは、大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで『盟主は天皇』ときめたのである」

著者はこう付記する。

「この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。龍馬がここまで生きていれば、会議派諸侯やその家臣団と協力して新政権の弱点を衝き、内側から作り替えてしまうことも可能だったかもしれない。」

ところで、意外なことに、著者の推測では、

「龍馬が海舟に宛てた手紙は一通も残っていない」

らしいのである。そして、

「龍馬が海舟に弟子入りして、日本一の大先生に就いて海軍を勉強中だと姉の乙女に自慢する手紙は良くしられている。しかし注意してみれば、そういう手紙は文久三年の前半、八・一八政変以前に限られている。このような関係がずっと続くのではない。(文久三年)七月二十五日の(佐藤)与之助報告に示されている龍馬が、海舟に従って海軍のことを考えて来たという関係の頂点を示していた」

そして、帰国命令を拒否して再度脱藩した龍馬は、

「正式発足の神戸操練所から閉め出された」

のである。

「(佐藤)与之助と海舟は終始緊密に繋がっている。この与之助と海舟のセットに対し、龍馬は外側なのである」

佐藤与之助は、海舟より二年年長の弟子である。長崎海軍伝習に随行し、オランダ語で海舟の代役が出来るほどの海舟塾の塾頭であり、神戸にも随行し、神戸海軍操練所と海舟塾のきりもり役を果たす。

龍馬は、

「元治元年八月二十三日に京都から神戸に戻ってきたことが記録されて以後、海舟の日記には龍馬のことがプッツリと出なくなる。」

のである。著者は、こう推測する。

「書きたくないという気分がいささかは兆していたのかもしれない」

と、元治元年、(大坂町奉行)松平大隅に預けていた海舟の金を受け取って指示された支払いをした佐藤与之助は、そのうち、

十両を坂本龍馬、
十両を高松太郎、
三十両を近藤長次郎、

がそれぞれ無断で借りだされていたということを知る。このことを、しばらく伏せていた与之助は、半年後、彼らが返済する当てがないことを確かめたうえで、海舟に報告した。このことが背景にあったのかもしれないが、それよりは、海舟の立ち位置が、

「海舟は龍馬と与之助の中間にあって与之助寄りに位置する」

のであり、その外にいる、

「龍馬からは遠い」

のである。海舟は、幕府内にとどまり続ける。

「それゆえ戊辰戦争に際しては徳川方を代表して西郷隆盛と談判し、幕府の後始末をすることになる」

のである。

参考文献;
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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