2020年09月14日

関ケ原合戦図


桑田忠親、武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』を読む。

関ケ原合戦圖.JPG


関ケ原合戦図絵図は、今日、四種類十数点の遺品がある、とされる(神山登「関ケ原合戦図屏風の絵画的特色」)。

第一類 旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双(各隻194×590センチ)
第二類 井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻(156.7×361.2センチ)
    木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻(159.1×364.6センチ)
    関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻(175×380センチ)
第三類 徳川美術館本関ヶ原合戦図屏風 二曲二双(72.4×55.4センチ)
    東京国立博物館蔵本関ヶ原合戦図屏風絵 紙本二巻(縦79センチ)
第四類 国会図書館蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻
    静嘉堂文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻物 一巻
    大東急記念文庫蔵本関ヶ原合戦絵巻 二巻

である(仝上)。このうち、第四類は、絵巻物なので、本書は扱っていない。本書は、

旧津軽家本関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵) 八曲一双
井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻

を扱っているが、

井伊家本関ヶ原合戦図屏風(彦根博物館蔵) 六曲一隻
木俣家本関ヶ原合戦図屏風(同) 六曲一隻
関ヶ原町教育委員会蔵本関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻

は、

同じ大きさの画面とほぼ同じ構図である、
合戦の布陣人物の配置、旗指物の有様は全く同一、

等々から、原本を同じくする模写本とみなされている(仝上)。特に、

赤い旗指物を誇張して描くことから井伊直政を中心として木俣右京・向山内記といった井伊藩の猛将たちの関ヶ原合戦での奮闘ぶりを顕彰することが主目的、

であったとみられ(仝上)、いずれも、落款から幕末期の制作とみなされており(岡本良一「関ケ原合戦図屏風」)、旧津軽家本の関ケ原合戦図屏風が、

合戦の起きた慶長五年(1600)以後十年余の間に制作された、

と、実戦から隔たっていない時期に制作された、

実戦の記録性と迫真力をもった生々しい戦況の現実観とを具備した歴史画として高く評価されている、

のと、比較すると、大きさからいってもスケールからいっても、落差がある。

普通、屏風といえば六曲一双で、その大きさも縦横およそ150センチ×370~380センチが通り相場であるが、この屏風は194センチ×590センチという大型で、さすがに家康が命じて制作させたもの、

とされている(仝上)だけの特別のものである。これが、

津軽屏風、

といわれるのは、旧津軽家に長く襲蔵されてきたからである。津軽家の史料(津軽藩旧記伝類)には、家康の異母弟松平康元の娘満天姫(まてひめ)が、家康の養女として津軽二代藩主信枚(のぶひら)に嫁いだ際の輿入れ道具の一つとして持参したことが知られている。満天姫は、

嫁入りに際し家康の所持していた「関ヶ原合戦図屏風二双の内一双」を拝借したい旨申し出たところ、家康は一度は外の品ならば何なりと許すと断ったが、満天姫の熱意に折れて、「遠国のなぐさみにもせよ」と所望を許した、

という。その経緯を、『津軽藩旧記伝類』の「藤田氏旧記」に、

満天姫君或年家康公へ御願被成候は、子孫へ長く宝に仕度候間、関ヶ原御屏風二双の内、一双拝借仕度旨申上ければ、家康公仰に其義は迚も望に叶ひがたし、外品なれば何なりと望に叶ふべしと申ければ、姫、余の御品は少も望無御座候、何にも頂戴被仰付度旨、泪を流して無余儀御願被遊ける故、家康公にも左程のことならば暫く預け置の間、少しく遠国のなぐさみにもせよと御預被遊けるとなり、

とある(仝上)。津軽屏風の特徴は、

右隻は、大垣城、杭瀬川の戦いが描かれ、
左隻は、勝敗の帰趨の決まった後の、石田・島津・小西・宇喜多・大谷陣営の敗走する様子と、これを追う東軍が描かれる、

が、他の合戦図と比較して、

2026人、

も描かれているのに、家康すら、右隻に、

大勢の馬上の鎧武者に囲まれるように疾駆する、鉢巻頭の鎧武者が家康と判定されるのであるが、この家康以外、左右両隻を通じて誰一人としてその名を指摘できる人物はいない、

ばかりか、部隊も、判然としない。この種の合戦図では、「異例」のこととされる。通常、

馬印・幟・指物などの旌旗によって、部隊名はもちろん、個人名までがはっきりと指摘できる、

のであるが、その中で、例外的に、

左隻の合戦の画面には西軍陣地を突破する福島正則らの先鋒隊が奮戦する有様だけが描写、

されているのである。満天姫の前夫は、福島正則の子正之であり、その死後家康の元に戻っていた。満天姫のこだわりは、ここにあったのではないか、とされている。で、

家康としては全部手放してしまう気になれず、八曲の二双の内の半分、つまり、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)とを対にして一双にして与えたのではないか、

と(小和田哲男「関ヶ原合戦図屏風」)し、そう考えると、普通、

一つの大きなテーマを扱い、その図様を画面構成する場合、必ず図様は連続した形式で構成されるのが常套的表現法、

なのに、現存の津軽屏風が不自然に切れていて、左隻と右隻の図様がうまく連繋できていない画面構成(神山)である理由が、たとえば、

満天姫は福島隊にこだわった。前夫のおもかげのありそうな部分、第一隻(右隻)と第三隻(左隻)をピックアップした、

と考える(小和田)と説明できる、と。つまり、

本来二双ということになると、右から第一隻・第二隻・第三隻・第四隻とあったわけで、場面から見ると、その第一隻と第三隻が現存し、第一隻を右隻、第三隻を左隻とよんでいる、

ことになる(仝上)。第四隻には、

佐和山攻略の状況が描かれていた、

と(岡本)考えれば、大垣城からはじまった関ヶ原合戦の時間経過が、完結するということになる。

満天姫像(長勝寺蔵).jpg

(満天姫像(長勝寺蔵)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%A4%A9%E5%A7%ABより)

なお、津軽屏風に描かれている家康は、

神格化された後世の家康像、

とは異なる現実味があり、合戦直後に描かせたと考えられる傍証となる。

関ヶ原合戦屏風.jpg

(関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より)

屏風絵は、現物を目の前に見るのが一番だが、ガラス越しでは細部は見えず、画集の良さは、ある面細部をくまなく見ることが出来ることだが、全体の流れが一覧しにくいことが、当然ある。

絵巻物、

から派生した屏風絵だけに、時間軸が、右から左へ、同時に、

東から西へ移動していく、

形になっている。そうみると、津軽屏風の断続が、一層際立って見えてくる。特に、「津軽屏風」は、各軍の旗幟も明らかでなく、家康を除くと、殆ど個人を識別するのも難しいが、合戦後近い時期に描かれただけではない、

記録映画的価値、

があるのは、

小荷駄(輜重)隊の物資運搬状況、
野陣の状況、
穀竿をふるって稲こきをしたり、杵で脱穀したりする様子、

等々、他の合戦図屏風にはない描写が豊富であり(岡本)、それは、俯瞰してでは気づけない、画集ならではの特典である。

関ヶ原・西軍陣所.jpg

(津軽屏風 右隻・大垣城外の西軍 関ヶ原合戦図より)

関ヶ原・西軍食糧調達.jpg

(津軽屏風 右隻・西軍食糧調達 関ヶ原合戦図より)

参考文献;
桑田忠親、武田恒夫他『関ケ原合戦図(戦国合戦絵屏風集成第三巻)』(中央公論社)
藤本正行「入門戦国合戦図屏風」(別冊歴史読本『戦国合戦図屏風』)(新人物往来社)
小和田哲男「関ケ原合戦図屏風」(仝上)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:15| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする