2020年09月20日

伝説


松浦玲『検証・龍馬伝説』を読む。

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「慶応二年正月のいわゆる『薩長同盟』あるいは『薩長連合』で、木戸と小松や西郷との間では、協定内容の文章化、相互に署名した文書の交換というような手続きはまったく行われなかった。だから木戸は、自分の記憶による協定内容を箇条書きにして、立会人であった龍馬の確認を求めたのである。この事実は、同盟関係の危うさと坂本龍馬の役割の大きさとの二つを同時に示している。龍馬が裏に返事を認めた龍馬宛木戸孝允書簡は、このときの協定内容を確実に後世に伝える唯一の記録であって、明治維新史の超一級史料である。この朱筆を振るったとき、龍馬はまぎれもなく歴史の歯車をうごかしていた。」

しかし、同盟の立会人であった坂本龍馬は、

「どこかでこの『同盟』関係から外されてしまった」

のである。それには、

「薩摩と長州の直接の交渉が緊密になるに従って、そのどちらの藩士でもない龍馬が必要とされなくなる」

だけではなく、龍馬自身が、

「薩長同盟が目指すのとは違う道を歩いている」

結果であった。

「初めはなんとなく変だなと感じさせる程度だった微妙な違いが次第に広がり、慶応三年十一月、龍馬が京都で暗殺されたときには、西郷・木戸ら薩長の中枢と龍馬とは、別の世界にいたという感じがするほど隔たっていた」

このあたりの詳細を、本書は、例によって、史料を詰めつつ、勝海舟との関係も含めて、あぶり出していく。

同盟立ち合いの後、

「薩摩名義で長州のために購入して亀山社中が乗り回していた桜島丸(乙丑丸)を幕府と戦っている最中の長州に引き渡してから、龍馬と亀山社中は船も金もない苦境に陥った」

それを助けたのは、木戸孝允で、木戸は、

「もう龍馬は薩摩・長州の繋ぎ役として不要になったと、冷静に判断できる立場」

にあり、

「しかし木戸としては薩長同盟の恩人を見殺しにできないので、龍馬個人を長州本藩と長府藩との庇護下に置いた。それと同時に、龍馬が土佐との関係を回復するよう手助けする」

で、後藤象二郎と会見し、土佐の資金で海援隊が出来上がる。この、後藤との関係が、後に龍馬が大政奉還を容堂を介して建白し、慶喜を動かすきっかけになる(船中八策)。もちろん、大政奉還は龍馬の独創ではない。

「大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力をもつ議論として持ち出されている。(中略)一翁も春嶽も徳川氏は政権を返上すべきだとの考え方を生まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰り返し持ち出している。(中略)慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである」

龍馬が後藤象二郎に船中八策を示したとき(慶応三年四月)、薩摩は、

「武力討幕以外にないと思い定めていた時期」

であった。だから大政奉還は、

「京都で討幕派『外交』を担当している薩摩の西郷隆盛や大久保利通は迷惑だった。しかし、土佐を敵に回すことはできない。議論でだめだった場合は次は武力討幕、あるいは建白段階でも武力による脅迫を辞さないという暗黙の了解で、先ず平和裡に幕府に迫るというのをやらせてみるしかなかった。六月下旬の薩土盟約とは、そういうことである。」

龍馬は、討幕派に近い位置と、大政奉還寄りの位置と、振れながら、慶喜に期待する立場にいる。だから、

「慶喜が大政奉還の上表を提出したのと同じその(慶応三年十月)十四日、薩長討幕派代表は天皇が薩長両藩主に『賊臣慶喜を殄戮(てんりつ)せよ』と命じた『討幕密勅』を受け取る。請書に署名したのは薩摩が小松・西郷・大久保、長州が広沢真臣、福田俠平、品川弥二郎の計六名であった。」

かつての「薩長同盟」の立会人、

「坂本龍馬には何の挨拶もなかった」

のである。

「短期間ながら龍馬と行動を共にしていた戸田雅樂(尾崎三良)が十七日西郷に会い、大阪から同じ船で西へ向かっているので、龍馬もかれらの動きをまったく知らなかったわけではあるまいが、どうも『別世界』にいるという感じが強い。『密勅』のことは、少なくとも事前には教えて貰えなかっただろう」

というほど、薩長と、大政奉還後の諸侯会議に期待した龍馬との距離は、限りなく大きかったのである。

「薩長討幕派が十二月九日に敢行した王政復古クーデタは、大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで『盟主は天皇』ときめたのである」

著者はこう付記する。

「この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。龍馬がここまで生きていれば、会議派諸侯やその家臣団と協力して新政権の弱点を衝き、内側から作り替えてしまうことも可能だったかもしれない。」

ところで、意外なことに、著者の推測では、

「龍馬が海舟に宛てた手紙は一通も残っていない」

らしいのである。そして、

「龍馬が海舟に弟子入りして、日本一の大先生に就いて海軍を勉強中だと姉の乙女に自慢する手紙は良くしられている。しかし注意してみれば、そういう手紙は文久三年の前半、八・一八政変以前に限られている。このような関係がずっと続くのではない。(文久三年)七月二十五日の(佐藤)与之助報告に示されている龍馬が、海舟に従って海軍のことを考えて来たという関係の頂点を示していた」

そして、帰国命令を拒否して再度脱藩した龍馬は、

「正式発足の神戸操練所から閉め出された」

のである。

「(佐藤)与之助と海舟は終始緊密に繋がっている。この与之助と海舟のセットに対し、龍馬は外側なのである」

佐藤与之助は、海舟より二年年長の弟子である。長崎海軍伝習に随行し、オランダ語で海舟の代役が出来るほどの海舟塾の塾頭であり、神戸にも随行し、神戸海軍操練所と海舟塾のきりもり役を果たす。

龍馬は、

「元治元年八月二十三日に京都から神戸に戻ってきたことが記録されて以後、海舟の日記には龍馬のことがプッツリと出なくなる。」

のである。著者は、こう推測する。

「書きたくないという気分がいささかは兆していたのかもしれない」

と、元治元年、(大坂町奉行)松平大隅に預けていた海舟の金を受け取って指示された支払いをした佐藤与之助は、そのうち、

十両を坂本龍馬、
十両を高松太郎、
三十両を近藤長次郎、

がそれぞれ無断で借りだされていたということを知る。このことを、しばらく伏せていた与之助は、半年後、彼らが返済する当てがないことを確かめたうえで、海舟に報告した。このことが背景にあったのかもしれないが、それよりは、海舟の立ち位置が、

「海舟は龍馬と与之助の中間にあって与之助寄りに位置する」

のであり、その外にいる、

「龍馬からは遠い」

のである。海舟は、幕府内にとどまり続ける。

「それゆえ戊辰戦争に際しては徳川方を代表して西郷隆盛と談判し、幕府の後始末をすることになる」

のである。

参考文献;
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:22| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする