2020年10月01日
そうめん
「そうめん」は、
素麺(素麵)、
と当てるが、
索麺(サクメン)の音便、
とされ、
素麵、
は当て字、広辞苑は、「そうめん」に、
索麺、
を当てている。
小麦粉に食塩水を加えてこね、これに植物油を塗って細く引き伸ばし、日光にさらして干したもの、
をさす(広辞苑)。
索麺は宋音、
である(たべもの語源辞典)。たべもの語源辞典は、
索(なわ)のような麺という意味で、日本では奈良朝のころから文書に索麺が用いられた。索はなわ・つなである。素はソまたはスで、しろし・もと・つね・もとむ、といった意味の字である。素麺と書けば、白い麺といった意味になるが、ソウメンがウドンとか他の麺にくらべて特に白い麺であるとは考えられない。それで、索麺が正しいものを、いつか索を素と書き誤ってしまったものか、サクメンがソウメンと訛ってしまったので、
素の字を当てたのではないか、とする。
ほそもの(細物)、
ぞろ・ぞろぞろ(女房詞・小児語)、
ともいい、
むぎなわ(麦縄)、
は古語、とする(仝上)。
同じ小麦製の、
ひやむぎ、
うどん、
との違いは、「そうめん」が、
小麦粉を塩水でこねて生地を作り、油を塗りながら手を使って細く延ばす麺、
に対して、
平らな板と麺棒を使って生地を薄く延ばし、刃物で細く切る麺、
が「ひやむぎ」や「うどん」となる。しかし、現在は製法の機械化が進み、日本農林規格(JAS)の乾麺類品質表示基準で、
干しそうめん 長径1.3㎜未満(手延べの場合は長径1.7㎜未満)、
干しひやむぎ 長径1.3㎜以上1.7㎜未満(手延べの場合は長径1.7㎜未満)、
干しうどん 長径1.7㎜以上(手延べの場合も長径1.7㎜以上)、
と、麺の太さの違いとされているが、手延べ麺の場合は、
素麺もひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが、太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E9%BA%BA)。
「菓子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html)で触れたように、奈良時代から平安時代にかけて、中国から、
唐菓子(からかし)、
唐菓(果)子(からくだもの)、
と呼ばれる、
穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、はじめは、植物の菓子に似せて、
糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、
らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、
梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、
等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、
八種唐菓子(やくさからがし)、
と呼ばれ、
これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。この他に、
餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、
等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。この中の、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
が、「そうめん」の元祖と目される。「麥縄」は、
麥索、
とも当てるが、和名抄には、
索餅、
のこととあり、
饂飩(うどん)または、冷麦、
のこと、とある(広辞苑)。
「うどん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472626422.html)で触れたように、「うどん」は、唐菓子のひとつ、
混沌、
とされる。
「『混沌』は物事のけじめがつなかいさまをいうが、小麦粉の皮に餡(肉や糖蜜など)を包んで煮たもの(丸いワンタンのようなもの)で、丸めた団子はくるくるして端がないことから『こんとん』とよばれた。たべものなので食偏に改めて『餛飩』と書いた。熱いたべものなので『温飩』と書くようにもなり、これが、また食偏に変わって『饂飩』になった」
とする説である(仝上)。
「丸い形のものだったので、それを切って細くしたとき、切麦(切麺とも書く)というよび名も生まれた。…熱したものを『あつむぎ』、冷やしたのを『ひやむぎ』とよんだ。オントン(温飩)がウントン(饂飩)になって、室町時代に。ウドンというよび名が使われ始めた。しかし江戸時代になっても、ウンドンというよび名がウドンとともに用いられていた」
とある(仝上)。しかし、「うどん」発祥については、「餛飩」(コントン)では、
「小麦粉の皮に餡を包んだワンタンのようなものと、そば状の『うどん』とは、まったく別種のたべものなので、渡来したとき、初めからこの二つは別々のものとしてはいってきたのではないかと考える」
とする説(たべもの語源辞典)もある。だから、
こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、
の変化とは別系統の、
索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、
という流れがあるとする説がある。
「西アジアから伝わった小麦文化は、中国で麺の原型となる食べものに変化します。中国で『麺(ミエン)』というのは、もともとは小麦粉のことを指し、日本でいう『麺』にあたるものは『麺条(ミエンテイアオ)』と呼ばれていました。小麦を加工した食品には他に『餅』がありますが、これは日本の『もち』ではなく『ピン』といって、その後登場する麺の原型となった食べものです。(中略)『餅(ピン)』には、練った小麦粉を現在の饅頭や焼売のように蒸した『蒸餅(ツエピン)』、パンや煎餅のように焼いた『焼餅(サオピン)』、小麦粉に『みょうばん』や『かんすい』などの添加物を加えて棒状にねじって油で揚げた『油餅(イウピン)』、スープの中に入れてゆでた『湯餅(タンピン)』の4種類があります。この4種類の中で、「ゆでる」という調理法が現在の「麺」に発展していくのです。」
と(https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.html)し、餅(ピン)が「うどん」に変化していく、とする。
まず、「索餅(さくべい)」という、中国最古の麺と呼ばれる、小麦粉と米粉を混ぜて塩水で練り、縄状にねじった太い麺がある。
「日本でも奈良時代にはたくさんの「索餅」が作れていたようです。小麦粉の大量生産のために大型の回転式臼を使用していたといわれ、東大寺境内の古井戸からは臼の破片が発見されています。また平安時代には、長寿祈願の食べものとして宮中でも供応されていたといわれています。」(仝上)
清の時代に書かれた書物には、
「『索餅は水引餅(すいいんべい)のことである』と書かれています。「水引餅」とは、紐状にした麺を水につけてから人差し指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように薄く手延べしたものを指します。これをスープに入れてゆでて食べる」
らしく、うどんの直接の原型とみられている(仝上)。
太い縄状にねじった太い「索餅(さくべい)」の次に現れるのは、それを細く伸ばした、「麦縄(むぎなわ)」になる。
「『索餅』の『索』という漢字には『縄』という意味があり、『麦縄(むぎなわ)』という文字は『索餅』の直訳で、同じ食べものを指します。」
そして、「切麦」となる。
「小麦粉を水でこねて細く切った『切麦』という、うどんの原型が登場します。中国では小麦粉を使わずに麺がグルテン化しない素材(米、そば、緑豆等)を、円筒形の筒から直接湯の中に入れてゆでる食べ方があります。さらに中国の麺作りの進化の過程で、包丁で麺を切り出す方法が生まれます。宗の時代にはこれを『切麺(チェミェン)』と呼び、『切麦』のルーツといわれています。」
という流れで見る(https://www.tablemark.co.jp/udon/udon-univ/lecture01/index.html)と、やはり、ワンタン状の
こんとん(混沌)→おんとん(温飩)→うんどん(饂飩)→うどん(饂飩)、
というの変化には無理があり、別系統の、
索餅(さくべい)→麦縄(むぎなわ)→切麦→うどん、
という、
太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→切麦(うどん)、
の方が自然に思われる。
この「うどん」の系統の中から、
太い縄状にねじった太い麺(索餅)→細く伸ばした麺(麦縄)→素麵→素麵、
太い縄状にねじった太い麺(索餅)→切麦→あつむぎ・ひやむぎ、
となったのではあるまいか。「うどん」「ひやむぎ」も「そうめん」も元祖は、
索餅、
となるのではないか。
祇園社の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永二年(1343)7月7日の条に、麺類を指す言葉として、
索餅(さくべい)、索麺・素麺(そうめん)
という三つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている(http://www.yamanashinouta.com/kisetsunogyouji/soumennoyurai.html)。同じ、南北朝時代の「異制定訓往来」が「素麺」の初出という説もあるので、この時期が史料上の初出らしい。そして、
索餅、索麺、素麺、
の混用が室町時代に続き、やがて「素麺」が定着したといわれている(http://www.yamanashinouta.com/kisetsunogyouji/soumennoyurai.html)。
参考文献;
https://sozairyoku.jp/%E2%80%9C%E3%81%9D%E3%81%86%E3%82%81%E3%82%93%E2%80%9D%E3%81%A8%E2%80%9C%E3%81%B2%E3%82%84%E3%82%80%E3%81%8E%E2%80%9D%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%AF%EF%BC%9F
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月02日
ことぶき
「ことぶき」は、
寿(壽)、
と当てる。「ことぶき」は、
言葉で祝うこと、また、そのことば、
であり、
ことほぎ、
ほぎごと、
の意である。「ことぶき」は、
ことほぎの転訛、
とされるには理由がある。そこから、
長命、
の意に転じ、
祝い、
祝言、
の意へと転じた(「祝言」は更に、結婚の意に広がる)。「ことぶき」の、
「こと」は「言」、「ほき(ほぎ)」は動詞「祝く(ほく)」の連用形。 平安時代以降、「ことほく」から「寿ぐ・ 言祝ぐ(ことほぐ)」や「寿く(ことぶく)」とも言うようになり、「ことぶく」の連用形が名詞化して「ことぶき」になった。「ほく」は「祝福する」意味の動詞であるが、「祈って幸福を招く」といった意味が強く、「ことほき」も言葉によって幸福を招き入れる、言葉によって現実をあやつる、といった、日本古代の言霊思想が反映された言葉であった、
とある(語源由来辞典・由来・語源辞典)。
「寿(壽)」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、
会意兼形声。下部は、長く曲がって続く田畑の中のあぜ道をあらわし、長い意を含む(音トン、チュン)。壽はそれを音符とし、老人を示す上部を加えた字で、老人の長命をしめす、
とあり(漢字源)、「上寿」とか「仁者寿」と、「長命」の意である。さらに、「長寿」というように「歳」の意、さらに、「寿辰」(ジュシン 老人の誕生日)というように、「年長の人に対する長命の祝い」の意である。だから、
壽(ジュ)に、長命(ながいき)の義あり、祝賀(ことぶき)の義あり、長命を、ことぶきとするは、訓を誤り移して云ふなり(奏舞(かなつ)の、奏樂(かなづ)に移れるが如し)、
とする(大言海)わけである。「壽」(ジュ)の項で、さらに、
節文「壽、久也、凡、年齒(よはひ)皆曰壽」、後漢書、明帝紀、註「壽者、人之所欲、故、卑下奉觴進酒、皆、言上壽」、第三義の祝賀の意を、ことぶきと云ふより、字、同じければ、遂に、第二義の年齢をも、誤りて、ことぶきとは云ふならん、
と説明する(大言海)。大言海は、「壽」の意を、「ながいき」「年齢」「福寿」と上げている。
「ことほぐ」は、古くは、
ことほく、
であり、
言祝く、
寿く、
と当てる。「ことほぐ」の「ほぐ」は、古くは、
ほく、
で、
祝く、
壽く、
と当て、
良い結果があるように、祝い言を言う、
意である(岩波古語辞典)。これは、
褒むに通ず、
とある(大言海)。
ほさく(祝)、
意でもある。「ほさく」には、
祝い事を言う、
意と、
呪言を言う、
意があり、この意が転じて、
他人を罵って言う語(「名残惜しいとほざく戯女」)、
や
他人の行為を罵って言う語、しくさる、けつかる(「さては盗みほざいたな」)、
の意で使われ、今日、
勝手なことを言う、
意の、
ほざく、
につながっているように思える(岩波古語辞典・日本語源大辞典)。ただ、
自慢らしく語る、
意の、
ほたく(嘐)の転訛という説もあるが。
「呪う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/403152541.html)で触れたことだが、「呪う」は、語源的には、
「祈る(ノル)」+「ふ」
で、基本は、「祈る」の延長線上にある。
祈り続ける、
には違いないが、
相手に災いがあるように祈りつづける、
ということである。「のろう」は、
呪、
詛、
咒、
と当てる(岩波古語辞典)。「呪」は、
口+兄
で、もともとは、「祈」と同じで、
神前で祈りの文句を称えること
なのだが、後、「祈」は、
幸いを祈る場合、
「呪」は、
不幸を祈る場合、
と分用されるようになった(漢字源)。「詛」の、
且
は、俎(積み重ねた供えの肉)や阻(石を積み重ねて邪魔をする)を示す。「詛」は、その流れで、
言葉を重ねて神に祈ったり誓ったりすること、
の意味だ(仝上)。どちらも、神に祈る行為の延長線上で、
自分の幸、
ではなく、
他人の不幸
を祈るところへシフトする。しかも、
他人の不幸を実現することで自分の幸を実現しようとする、
という、屈折した祈りだ。
「のろう」(呪う・詛う)は、
ノル(告)反復・継続の接尾語ヒの付いた形(岩波古語辞典)、
祈る(いのる)の上略延(大言海)、
ノル(宣)の義(名言通・日本古語大辞典=松岡静雄・語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、
等々であり、「祝く」も「呪う」も、
神に祝詞を告げて祈る、
ことに変わりはない。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月03日
アチャラ漬
「アチャラ漬」は、
阿茶羅漬、
とも当て、
アジャラづけ、
とも言う。
蓮根・大根・筍・蕪などを細かく刻んで、唐辛子を加えた酢・酒・醤油・砂糖などに漬けた食品、
である(広辞苑)。
「アチャラ漬」の「アチャラ」は、
ペルシャ語の漬物の意のアチャルから(たべもの語源辞典)、
インドネシア料理の、アチャルという野菜を甘酢漬けにして赤唐辛子を入れたものから(仝上)、
野菜・果物の漬物の意のポルトガル語achar(アチャール)から(デジタル大辞泉・日本大百科全書・語源由来辞典)、
もともとはピクルスをまねてつくったもののようで、「あちゃら」とは外国の意味(日本大百科全書)、
アチャラは、ペルシャ語のāchārに由来するポルトガル語(広辞苑)、
ペルシヤ語achara由来だが、ポルトガル人が伝えた(大辞林)、
フィリピンやインドネシアでは漬物をアチャラと呼んでいるが、これはペルシア語で漬物をさすアーチャールを語源としており、日本のアチャラも同源(世界大百科事典)、
と諸説あり、ペルシャないしポルトガルが関与しているらしいという以上に、どれとも定めることは難しいが、
近世初頭に、南蛮貿易を通して日本に入ったといわれる。「あちゃら漬」の「あちゃら」に似た音で「漬物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられる、
とある(語源由来辞典)ので、少なくとも、ポルトガル人の進出に合わせて伝搬したということは確かなようだ。ただ、南蛮由来とされる料理、
オランダ煮、
南蛮漬け、
も唐辛子を使うことが特徴なので(https://oisiiryouri.com/acharazuke-gogen-imi-yurai/)、「アチャラ漬」もそうした伝来のひとつとみられる。
南蛮料理の一種、
とされ、
もともとはピクルスをまねてつくった、
とされる(日本大百科全書)ので、
和風のピクルス、
といったところか(百科事典マイペディア)。
(アチャラ漬 https://www.kubara.jp/recipe/2036/より)
元禄二年(1689)刊の「合類日用料理指南抄」には、
南蛮漬、
と載り、はじめは、南蛮漬と呼ばれ、のちにアチャラ漬というようになったと思われる(世界大百科事典)。
「料理網目調味抄」(1730)には、
阿茶蘭漬、
「料理山海郷」(1749)にも、
阿茶羅漬、
としてのつくり方が紹介されている。前者では、酢に塩を加えて煮返したものにナス、ショウガ、ミョウガ、れんこん、ゴボウ、イワシ、貝類などをつけるとあり、後者では酢、塩に酒を加えて2度沸騰させて冷ましたものに魚のつくり身をつけるとしてある(仝上)。
「南蛮」というのは、
南方の夷(えびす)、
の意であり、
室町時代末期以後に、フィリピン・シャム・ポルトガル・スペイン、
等々のことを言った。だからこの地方から渡ってきたものに、
南蛮、
とつけた。唐辛子も、
南蛮からし、
南蛮胡椒、
といった、とある(たべもの語源辞典)。
今日、「南蛮漬」と呼ばれているのは、
魚肉に片栗粉をまぶして揚げたものを、トウガラシにネギやタマネギを加えた合わせ酢に漬けたもの、
を指し、アジ、ワカサギ等小魚をおもに使う、とある(百科事典マイペディア)。
油でいためたり、ネギやトウガラシを用いた料理は、
南蛮、
とつけられることが多く、これもその一つとされる(仝上)「合類日用料理抄」(1689)には、
揚げてから漬ける新しい料理法であるからとも、ネギやトウガラシを用いるところからつけられた名、
とある(精選版日本国語大辞典)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:アチャラ漬
2020年10月04日
南蛮煮
「アチャラ漬」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477716279.html?1601666484)で少し触れたが、「南蛮」というのは、
南方の夷(えびす)、
の意であり、
室町時代末期以後に、フィリピン・シャム・ポルトガル・スペイン、
等々のことを言った。だからこの地方から渡ってきたものに、
南蛮、
とつけた(たべもの語源辞典)、とある。「南蛮」は、
古くは中国で、インドシナをはじめとする南海の諸国の称、
とある(広辞苑)。北狄(ほくてき)に対する、とある(仝上)。「蛮(蠻)」は、
会意兼形声。旧字の上部はもつれる意(音ラン・レン)は、蠻は、それを音符とし、虫を加えた字。姿や生活が乱れもつれた虫(へび)のような人種のこと。もと、南方の未開の民を指し、転じて広く文明を知らない人の意となった、
とある(漢字源)。
古来、中国では、自国を中央に位する文化の開けた大きな国であるとして、中華または中夏と呼び、四方の国々を、それぞれ野蛮な国とみなして、東夷、西戎、南蛮、北狄と呼んだ、
のである(仝上)が、皮肉なことに、
クビライによって南宋が滅ぼされると、漢人が逆に南蛮人と呼ばれるようになった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。日本もそれを真似て、
「蛮」という語は『日本書紀』の時代には朝鮮半島南部の未開地や薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球を指す語として用いられた、
が(仝上)、その後、室町末期から江戸時代にかけて、
シャム・ルソン・ジャワその他の南島諸島の称、その地を経由して渡来した西欧の人や物、
を指し、更に、
オランダ人を紅毛というのに対して、スペイン、ポルトガルを指し、キリシタンと同義に用いられた、
と、意味が変遷する(広辞苑)。
「南蛮」は、南方から渡来したものに付けられ、唐辛子も、
南蛮からし、
南蛮胡椒、
といい(たべもの語源辞典)、
南蛮菓子(カステラ、ボウル等々)、
南蛮黍(とうもろこしの異名)、
等々もある(大言海)。この中に、
南蛮煮、
もある。「南蛮煮」は、
南蛮、
とも略される。
(鶏もも肉の南蛮煮 https://cookpad.com/recipe/4110264より)
葱、大根、魚、鳥の肉など、すべて油にて煮たるもの、
とあり(大言海)、
鯔(ぼら)その他のなま魚のこけらをとって、下洗いし、丸焼きにして、油で揚げ、ネギの五分切りを入れて、煮出し汁と醤油とで煮たもの、
また、
すべて煮汁に唐辛子を加えて用いるもの、
とし(たべもの語源辞典)、
前者の南蛮煮は、日本ネギを加えているので南蛮煮とよばれる、
ともある(仝上)。これは、
難波煮、
のナニワ(難波)が転訛した語である(仝上)。どうも、
唐辛子、
と、
ネギ、
が鍵のようである。
「南蛮」の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。
南蛮餅、
というのは、
南蛮煮の雑煮餅、
で、膝栗毛に、
上方にてするなんばんもちとて、ねぎをいれたるざう煮餅なり、
とある。
ネギを入れた、
というところがミソで、
南蛮煮、南蛮焼というのは、みんな日本ネギをつかったものにつけている、
のである(仝上)。
鴨南蛮、
は、日本ネギを用いているからである。そば屋では、
ネギのことを南蛮と称しており、南蛮蕎麦はネギの入ったそばのことを指します。
また、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人など南から来た人)が好む食べ物として唐辛子、とうもろこしなども南蛮と呼ぶことがあります。江戸時代に来日した南蛮人が、健康保持、殺菌などの目的でネギを盛んに食べていたのがネギを南蛮と呼ぶ由来とされ、鴨肉とネギが入ったそばを「鴨南蛮」と呼ぶのはそのためです、
とある(たべもの語源辞典・https://www.nikkoku.co.jp/entertainment/glossary/post-132.php)。
南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE)。文政十三年(1830)の『嬉遊笑覧』には、鴨南蛮について、
又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり、
とある(仝上)。
醤油と削り節をベースにした熱い汁で食べる「ぶっかけそば」が江戸時代中期に広まった。そこに鴨肉とネギを乗せて鴨南蛮の形にしたのは、日本橋馬喰町にあった「笹屋」とされる。幕末の『守貞謾稿』にも、
鴨肉ト葱ヲ加フ、冬ヲ専トス、
と、鴨南蛮を紹介している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%8D%97%E8%9B%AE)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月05日
磯辺
「磯辺(邊)」は、
磯の辺(ほと)り、
で、
磯のほとり、
いそばた(磯端)、
の意であるが、
磯辺和え、
磯辺餅、
磯辺揚げ、
磯辺巻き、
等々、海苔を用いる料理・菓子、
に使う(大辞林)。単に、
磯、
ということもある
「磯」(漢音キ、呉音ケ)は、
会意兼形声。「石+音符幾(近い、すれすれ)」で、水際に近い石、また波にもまれて擦り減る石、
の意であり、
水が石に激しくあたる、
石が流れに現われる川原、水際の石の多いところ、
と、あくまで「石」の意である。
中国南北朝時代(543年)の梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典『玉篇』(ぎょくへん、ごくへん)に、
磯、水中磧(イシハラ)、
とあり、
本邦の古書に多く、礒字を用ゐたり、唐韻「礒(ギ)、石巌也」などあるより通用したものなるか、
とある(大言海)ので、「磯」の原義を知っているものは「礒」の字を当てた物かと思われる。
万葉集では、
白真弓(しらまゆみ)石邊(いそべ)の山の常盤なる生命なれやも戀つつ居らむ
と、「石邊」と当てていた。それは、和語「いそ」の語源が、
イシ(石)・イサゴ(砂・砂子)と同源(岩波古語辞典)、
イシ(石)の転(南留別志・俚言集覧・和訓栞・大言海)、
イソ(石)から出た語(万葉集講義=折口信夫)、
イソ(石添)の義(桑家漢語抄・和句解・日本釈名)、
イソ(石所)の義(言元梯)、
等々「石」とつながっているためかと、思われる。
だから、
水辺の石、
↓
岩の多い水辺、
↓
沖に対して浅近なこと、
↓
水辺の波打ち際、
と、
いそ、
の意で、
荒磯(あらいそ)、
というように、
海や湖の波打ち際、
の意へと転じてきたが、これは我国だけである。この、
波打ち際、
の含意がなければ、
海苔を添えて用いる料理、
の意にはつながらなかったろう。
磯で採れたものを使った料理に、
磯辺、
の名をつけ、
海苔を使った料理に用いられてきた。
磯辺焼は、
餅を焼き、砂糖、しょうゆを用い、のりで巻いたもの、
磯辺揚げは、
材料に衣をつけ、焼きのりを細かくしてふりかけてから揚げるもの、材料をのりで包んでから衣をつけて揚げるものがある。また小麦粉に卵と水を加えて揚げ物の衣をつくり、その中に焼きのりを細かくして加え、揚げる場合もある、
とある(日本大百科全書)。
磯辺煮は、
白魚やエビ・イカなどを塩・酒・醤油でうす味に煮て、水ときした葛をときこみ、ドロリとさせ、火からおろして、もみのりをかけたもの、
とある(たべもの語源辞典)。
磯辺という料理は、
のりの香りと味をほのかに楽しむのが目的であるから、上等ののりを用いないと特徴が出ない。ときには香りのよい青のりを用いることもあり、生(なま)のりを使用することもある、
とある(日本大百科全書)。
(里芋のいそべ餅風 https://recipe.rakuten.co.jp/recipe/1240022412/より)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月06日
いけづくり
「いけづくり」は、
いきづくり、
とも言うが、
「いけづくり」とよぶべきだが、往々にして「いきづくり」という。「粋きづくり」という語と紛らわしいのでこれを避けるため、「生作」は「いけづくり」とよむのがよい、
とあり(たべもの語源辞典)、
生栗(いけぐり)・生戀(いけごい)・生簀(いけす)・生花(いけばな)などは、いずれも生かしておくという「いける」の意である、
ともある(仝上)。しかし、江戸後期(1834~48頃)の為永春水『貞操婦女八賢誌(ていそうおんなはっけんし)』には、
其方(そなた)の体を生作(いけづく)り、その庖丁の切味を饗応(ふるま)ひ呉れん、
とあり、江戸後期(1810~22)の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の続編の『続膝栗毛』に、
おれは鰒汁(ふぐじる)に生海鼠(なまこ)鱠(なます)鯉(こい)の生(いき)づくりでなければくはぬぞといふと、
とあり(https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=363)、「いきづくり」「いけづくり」が両用されていたようである。
「いけづくり」は、
生け作(造)り、
活け作(造)り、
等々と当てる。
コイ・タイなどを生きたまま、頭・尾・中骨はそのままに、身を切り取って手早く刺身に作り、再び原形のように並べて出す料理、
である(広辞苑)。これが転じて、
新鮮な魚の刺身、
の意ともなっている、とある(仝上)。
刺身をとくに活きがよいと自慢するために「生作」と称する場合もある、
とある(たべもの語源辞典)。
出雲松江の料理に、
鯉の腹を切って、内臓を取り出し、下の身はそのままにして中骨の上の身だけを皮を傷つけぬようにしてとる。それを洗いにするか、または細作りにして、鯉の中身の上に並べ、上の皮をかぶせて、さながら生きている鯉のように見せて客に供する……。客の前に置くとき、目に醤油か酢の一滴を落とすと、はねて、生きていることがわかる、
とあり(たべもの語源辞典)、
鯉の生作を客席に出すと、客前で鯉の頸部を庖丁のみで叩き、鯉がはねると皮の下に盛り込んだ肉がばらばらになる。それをお客に盛り分ける。一つの芸として見せたのである、
ともある(仝上)。
「生け作り」の「つくり」は、
魚軒(つくりみ)なり、
とあり(大言海)、
鯉の料理の名、
とあるので、本来鯉の料理を指したもののようである。鯉は、
背骨を傷めない限り、わりに長く生きているので、本当の生けづくりはコイであるともいう。コイは三枚におろし、皮は背皮の部分を切り離さないでおく。肉を刺身か洗いづくりにして中骨の上に戻し、皮をかぶせる。イセエビ、クルマエビなどは、背骨はないが長く生きているのでよく用いられる、
とある(日本大百科全書)。また、タイもよく使われ、江戸時代の文献に、
生きのいいものを皮付きのまま三枚におろし、片側は焼き、片側は刺身づくりにしたものをタイの生けづくりという、
とある(日本大百科全書)。江戸中期の国語辞典『俚言集覧』には、
鯉、鮒等、活動するものわ、細切し、臠(ヒトキレ)にせず、食用にする制作を云ふ、
とある。
「つくりみ」は、
作身、
とも当て、
切るを忌みて作ると云ふか、刺身も同じかるべし、ミは、肉(しし)なり、
とある(大言海)。
「さしみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453881536.html)で触れたが、「さしみ」は、
指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた。つくり方は、魚肉を切ったものであるが、切るという言葉を忌み、切身とよばず打身(うちみ)とよんだものがあった。室町時代に魚肉の打身という言葉が現れる。また、切ることを刺すと称することから、刺身ともよんだのが刺身の起こりであるとの説がある。また、切った身は、その魚名がわかりにくい。そこで切った身にその魚の鰭(ひれ)をさしてその正体を現したものを刺身というとの説もある。昔からある鱠(なます)にその魚の鰭を刺したものを「さしみなます」とよび始めたが、これが略されて刺身となったともいう。儀式料理では、刺身が正しい呼び方である。室町時代に醤油が発明され、刺身醤油ができたとき、刺身料理が完成した。刺身の語源は、魚肉を切って、その鰭を一種の飾りのように身に刺したことから起こったものである、
とある(たべもの語源辞典)。なお、
関西では魚を切ることを「つくる」といったので、つくり身といい、「つくり」を関東の刺身と同じ意味に用いた、
ともある(仝上)。
こうした「切り身」が「刺身」と「造り」に呼び分けられたのは、
切りつけの方法から盛りつけ方、器に至るまで、関東と関西では全く異なった、
からだ、とある(https://www.gnavi.co.jp/dressing/article/22003/)。江戸では、
魚の鮮度を損なわないよう、さくに包丁があたる面をなるべく少なくして厚みのある短冊に切る。盛りつけ方は、深さのある器にけんやつまをたっぷりと飾り、高いところから低いところへと水が流れるようにさまざまな種類の魚を盛る「天地人盛り」や「山水盛り」が主流であった、
のに対し、内陸の京では、
冷蔵・冷凍で保存する技術もなかったため、薄塩や昆布で締めた白身魚を食べていた。塩で締めた魚は包丁を引かないと切ることができない。魚の持ち味を楽しむという関西独自の考え方から、一皿に盛りつける魚は1種のみ。あしらいは使わず、平皿に直に並べられていた、
とある(仝上)。ただ、今日では、「つくる」は、
大根や大葉などの「あしらい」や尾頭で飾りつけられた切り身を盛り合わせたものや、昆布で締めるなど切り身にひと手間加えたもの、
を呼び、刺身は、
飾り気のない切り身、また、魚介に限らず牛や馬などの肉や刺身コンニャクなどの加工品を含む新鮮な切り身全般、
を呼ぶ傾向にある(仝上)、とか。
なお、「洗い」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474204418.html)、「なます」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.html?1584905399)については、触れた。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月07日
ウニ
生物の「ウニ」は、
ガセ(ガゼ)、
とも言うが、
海胆、
海栗、
と当てるが、食品としての「ウニ」、というか、食べる部分を、
雲丹、
と当てている(たべもの語源辞典、https://zatsuneta.com/archives/003210.html、他)。
ただ、「海栗」は、
生きているウニ、
「海胆」は、
殻から取り出した中身(生殖巣)で、生のウニ、
「雲丹」は、
食品用に加熱・加工されたウニ、
を指す、と区別しているものがある(https://gimon-sukkiri.jp/uni/)。「海胆(かいたん)」「海栗(かいりつ)」「雲丹(ウンタン)」、いずれも漢語であるが、漢和辞典では、特に区別はしていなかった(字源)。
海膽の食べるところ(生殖巣)を雲丹とか海丹と書いているが、雲には集まる者という意味があり、丹は「あか」で、国訓で「に」とよむとき赤土である。要するに赤色である、
とある(たべもの語源辞典)ので、生物のそれと食用のそれとは、指示している対象が異なることは確かである。
風土記には、
棘甲贏、
甲贏、
と書いてあるが、
棘贏(きょくら)、
という(たべもの語源辞典)。「贏」は、「螺」と同じで、ツビ、たにし、サザエ等々、螺旋状の殻をもつ、
ニシ(類)、
という貝である。「棘」は、イバラ、トゲのある者を意味する。だから、
棘のある貝の仲間、
とみなして、この字を当てたと思われる(仝上)。本草和名には、
靈贏子、貌似橘而圓、其甲紫色、生芒角者也、宇爾、
とあり、同、
石陰子、加世、
和名抄には、
石陰子、甲贏、加世、
とある(大言海)。
(バフンウニ https://www.akauni.com/unitoha_8.htmより)
「海胆」の、
胆は、膽の俗字、
とある。「膽」(タン)は、
形声。詹(セン・タン)は、「高いがけ+八印(発散する)+言」の会意文字。噡(セン 高い崖の上から見る)、譫(セン うわずったでたらめをいう)などの原字。膽はそれを単なる音符として加えた字で、ずっしりと重く落ち着かせる役目を持つ内臓、
とある(漢字源)。胆嚢、肝胆、臥薪嘗胆などとつかわれるが、「きも」の意である。
漢方医学では、肝と胆があい連なって、人体の安定と気力を保つ働きをすると考えた、
とあり(仝上)、これをメタファ―に、胆力、勇胆、胆略等々、誘起や決断力の意で使われる。「ウニ」の食用部分は、
生殖巣、
であるが、「海胆」の「肝」とあるのは、
ウニの食べる部分を肝、
とみなしたからである。「海栗」は、まさに、その姿を栗に見立てたからである。
大言海・日本語源広辞典は、「うに」の語源を
腸の漢名、海膽(かいたん)の文字読の、海膽(ウミイ)の約轉か。にの、みの(蓑)。にな、みな(蜷)。にがし、みがし(苦)、
としている。その他には、
ウヰ(海肝)の略転(和訓栞)、
ウニ(雲丹)の義(南留別志・和訓栞)、
等々がある。是非は判別できないが、たべもの語源辞典は、
海のものを表すウ、赤い色を表すニでウニになった、
とする。「うみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448421529.html?1600384691)で触れたように、
「うみ」の語源は、
大水(おほみ)の約轉。う(大)の條をみよ。禮記、月令篇、「爵(すずめ)入大水為蛤」註「大水、海也」、
とある(大言海)。「う(大)」を見ると、「大」を当て、
オホの約(つづま)れる語、
として、
おほみ、うみ(海)。おほし、うし(大人)。おほば、うば(祖母)。おほま、うま(馬)。おほしし、うし(牛)。おほかり、うかり(鴻)。沖縄にて、おほみづ、ううみづ(洪水)、おほかみ、ううかめ(狼)、
と例示する、つまり、
「う」は「大」の意味の転、「み」は「水」の意味で、「大水(うみ・おほみ)」、
である(語源由来辞典・日本語源広辞典)。「ウニ」の「ウ」は、
「ウ(大)+ミ(水)」の「ウ」
である。
ウニは縄文時代の遺跡から発見されるほど、古くから我々に馴染みの食物である。
海胆の「胆」は丹と同じよみで、海丹(かいたん)とよむときは海胆に通じている。雲丹も、集まった赤いものという状態から来た名称であり、海に生きているウニでなく食べる生殖巣をさしてウニとよぶとき、多く「雲丹」がもちいられるようになった、
ようである(たべもの語源辞典)。
(バフンウニの身 https://www.akauni.com/unitoha_8.htmより)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月08日
小田巻蒸
「小田巻蒸(おだまきむし)」は、
苧環蒸、
とも当てる。
えだまき、
とも言う(広辞苑)。
うどんを用いる蒸し物料理。茶碗(ちゃわん)にうどん、かまぼこ、ぎんなん、百合根、アナゴの蒲焼き(または鳥肉)を入れ、澄まし汁で生卵を3倍半くらいにのばしたものを加え、蒸し器で蒸す。茶碗蒸しにうどんが加わったものである。かつてそばの専門店では独特の作り方を誇りとしていた、
とある(日本大百科全書)。
「苧環」は、「へそくり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/426549080.html)で触れたが、
麻糸を巻いて玉状または環状にしたもの。布を織るのに使う中間材料である。「おだまき」は「おみ」(麻績)「へそ」(綜麻・巻子)ともいう。次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている、
のをいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0・岩波古語辞典・大言海)。大言海は、文字通り、「をだまき」を、
麻手巻きの義、
とする。要は、中が空洞になるように円く巻いた苧環の形状に、
茶碗の中に巻いて入れたうどんが似ている、
から、この名が来たものらしい(たべもの語源辞典)。静御前が、
しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に、
と詠ったのは、この苧環の元になった、
苧環の花、
を指す。
(苧環の花 デジタル大辞泉より)
「茶碗蒸」は、
茶碗に椎茸・ギンナン・ユリ根・蒲鉾(主に板蒲鉾)・鶏肉・小海老・焼きアナゴなどの具材と、溶き卵に薄味の出し汁を合わせたものを入れ、吸口にミツバや柚子の皮などを乗せて蒸し器で蒸す、
ものだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E7%A2%97%E8%92%B8%E3%81%97・たべもの語源辞典)、
茶碗焼、
とも呼ぶ(仝上)。
この、
味醂・醤油煮出汁などで味つけしたとき玉子のつゆ、
を、
茶碗蒸しの地、
という(たべもの語源辞典)が、この地に、卵を用いずに、
生ゆばと山芋をすりおろして葛粉を水どきして加えて地をつくるもの、
栗または銀杏をすり、豆腐と山芋を加えたもの、
豆乳とかくみ豆腐を地にするもの、
等々があったようである。延宝二年(1674)の『江戸料理集』には、
玉子貝焼、
寛延二年(1749)の『料理山海郷』には、
ハモのすり身を薄めて使った茶碗蒸、
が載るが、明和元年(1764)の『料理珍味集』に、現在のような卵を使った茶碗蒸が登場する(たべもの語源辞典)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月09日
おらんだ煮
「おらんだ煮」
は、
食材を油で揚げたもしくは炒めた後、醤油、みりん、日本酒、出汁などを合わせて作る煮汁にトウガラシを加えて煮た料理、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%85%AE)、
油で揚げた後に煮ることで食材の外側と内側で異なる食感が発生する点、
が特徴で、食材には、
ナスやこんにゃくを用いることが多いが、鶏肉やジャガイモ、高野豆腐、魚を使用したオランダ煮も存在する、
とある(仝上)。「オランダ煮」は、
長崎県から日本全国へと広まった西洋の調理法とされ、江戸時代に出島からオランダとの貿易を通して伝わったことから「西洋風の」という意味合いでオランダ煮の名前がついたとされている、
とある(仝上)。油で揚げる、のが特色である。
そういえば、卓袱料理(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.html)も、その精進パターンの「普茶料理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.html)も、「全て油をもって佳味とす」(料理山家集(1802))というものであった。その両者から発した「けんちん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477345064.html)も、また油を使うところが特徴であった。
(ナスのオランダ煮 https://www.orangepage.net/recipes/detail_110855より)
しかし、「オランダ煮」は、
タイを丸のまま揚げてから酒だけで長く煮ると、骨まで食べられるようになる。あとで醤油で味つけする、
と、料理をさす、とある(たべもの語源辞典)。端緒が何であったかはっきりしないが、
食材を油で揚げたり炒めた後に、醤油、みりん、出汁などの調味料で煮て味付けた料理、
であるようだ(https://macaro-ni.jp/40347)。
唐辛子を加えて煮ることも多く、甘辛い味付けが特徴です。油で揚げた後に煮る場合は、食材の外側と内側の異なった食感や、噛みしめたときにあふれる出汁もたのしめます、
とある(仝上)。
おらんだ飛竜頭(ひりゅうず)、
おらんだ味噌、
おらんだ餅、
と「おらんだ」の名のつくものの共通項は、
胡麻油とか、かやの油などを用いて揚げる、炒めること、
にあるらしい(たべもの語源辞典)が、
おらんだ卵、
は、浅葱を使っていることから、
おらんだ漬、
は、
辛子を使っているのでこの名がついた、とある(仝上)。洋風のめずらしい調理法をもちいたものに、
おらんだ、
と名をつけたようだが、それは鎖国になってからの話で、その前には、「南蛮煮」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477732906.html)で触れたように、南方から渡来したものに、「南蛮」(スペイン・ポルトガルを指す)と付けられ、唐辛子も、
南蛮からし、
南蛮胡椒、
といい(仝上)、
南蛮菓子(カステラ、ボウル等々)、
南蛮黍(とうもろこしの異名)、
等々もある(大言海)。「南蛮煮」は、
葱、大根、魚、鳥の肉など、すべて油にて煮たるもの、
とあり(大言海)、
鯔(ぼら)その他のなま魚のこけらをとって、下洗いし、丸焼きにして、油で揚げ、ネギの五分切りを入れて、煮出し汁と醤油とで煮たもの、
また、
すべて煮汁に唐辛子を加えて用いるもの、
とし(たべもの語源辞典)、
前者の南蛮煮は、日本ネギを加えているので南蛮煮とよばれる、
ともある(仝上)。これは、
唐辛子、
と、
ネギ、
が鍵である。また「アチャラ漬」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477716279.html?1601666484)で触れたように、「あちゃら漬」は、
蓮根・大根・筍・蕪などを細かく刻んで、唐辛子を加えた酢・酒・醤油・砂糖などに漬けた食品、
で(広辞苑)、近世初頭に、南蛮貿易を通して日本に入ったといわれる。「あちゃら漬」の「あちゃら」に似た音で「漬物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられる、
とある(語源由来辞典)ので、少なくとも、ポルトガル人の進出に合わせて伝搬したようだ。ただ、南蛮由来とされる料理、
オランダ煮、
南蛮漬け、
も唐辛子を使うことが特徴なので(https://oisiiryouri.com/acharazuke-gogen-imi-yurai/)、「アチャラ漬」もそうした伝来のひとつとみられる。
こうみると、「オランダ煮」も、広く、
南蛮料理の一種、
と、みなされるが、鎖国後の、唯一の西洋である「オランダ」が、排除されたポルトガル・スペインの「南蛮」に代わったものとみていい。違いがあるとすると、必ずしも、
唐辛子、
や
ネギ、
に、
拘泥していないところのように見える。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:おらんだ煮
2020年10月10日
カニ
「カニ」は、
蟹(蠏)、
と当てる。「蟹(蠏)」(漢音カイ、呉音ゲ)は、
会意兼形声。「虫+音符解(別々に分解する)」。からだの各部分がばらばらに分解する「カニ」、
である(漢字源)。本草和名に、
蟹、加爾、
と載る。
「カニ」の「ニ」は、ウニ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477785361.html)で触れた、赤い色を表す「丹」の「ニ」である。で、
カニのカは殻のこと、「ニ」は「あか」である。殻が赤いからカニというとか、煮ると殻が赤くなるからだとか、背中が赤いからカニという、
とする説がある(たべもの語源辞典・日本釈名・東雅・柴門和語類集)。
カは背中(背中)カ。ニはニ(丹)の義(和句解)、
カニ(甲丹)の義(言元梯・日本語源広辞典)、
皮丹の義(名言通・和訓栞)、
等々も類似の説である。他には、
甲が堅く、よく逃げることからカタニゲ(堅逃)の略(本朝辞源=宇田甘冥)、
かたかたへ、のきさる意からカタノキの反(名語記)、
能力を兼ね備える意味の「かぬ」の変化(語源由来辞典)、
カニは海よりも川蟹の例が古くから見られることから「カハニハ(河庭)」が変化した(仝上)、
等々あるが、少し苦しい。
確かに、「カニ」の「ニ」が、
丹、
つまり、
赤、
である。「丹」は、
ニ(土)と同根、
とあり、土器の材料や顔料にする、
赤土、
を指した(岩波古語辞典)。だから、
カニのニは丹(あか)であるのは間違いない。カはカニが赤いという特徴をとらえたとき、どこが赤いかといえば、甲羅である。要するに、「カ」は、皮か甲か背中かと論じられているが、とにかくその甲羅をさしたものである、
として、
カニは甲赤(カニ)、
だとしたのはたべもの語源辞典である。確かに、甲羅で括れば、
甲+丹、
となる。
カニは世界で約五千種、国内でも千種ある、と言われるが、古事記にも、応神天皇の歌として、
この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(ツヌガ)の蟹 横去らふ いづくに到る、
と詠われるほど馴染みのものだ。淡水の、
澤ガニ、
以外の、海水の、
毛ガニ、
ガザミ(ワタリガニ)、
イシガニ、
ズワテイガニ、
等々がある。わかりにくいのは、
ズワイガニ、
の語源である。
「ズワイガニ」は、オスとメスは大きさが異なるために多くの漁獲地域でオスとメスの名前が異なる。オスは、
エチゼンガニ、マツバガニ、ヨシガニ、タイザガニ、
等々、メスは、
メスガニ、オヤガニ、コッペガニ、コウバコガニ、セコガニ、セイコガニ、クロコガニ、
等々と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%8B)。
「ズワイガニ」は、
「ズワイ」は、細い木の枝のことを指す古語「楚(すわえ、すはえ)」が訛ったものとされ、漢字で「津和井蟹」とも書かれる、
とある(日本語源広辞典・仝上)。「すわえ」は、
すはえの轉、
とあり(大言海)、「すはえ」は、
楚、
楉、
氣條、
等々と当て(岩波古語辞典・大言海)、
すくすくと生えたるものの意、
であり、
木の枝や幹などから真っ直ぐに細く伸びた若枝、
の意である(仝上)。訛って、
ずはえ、
ずはい、
すわい、
等々ともいう(大言海)。甲羅から伸びた脚の形を指して言ったものと思われる。
因みに、「越前ガニ」の名は、永正一五年(1511)3月20日の三条西実隆の日記に「伯少将送越前蟹一折」翌21日の日記には「越前蟹一折遣竜崎許了」と書かれているのが嚆矢とされ、既に安土桃山時代、越前ガニというブランド名が付き、京都まで運ばれていたことがわかる(https://www.kani-echizen.com/blog/?p=126)。「ズワスガニ」の初出は、江戸時代の享保年間の『越前国福井領産物』である、とか(仝上)。
また、山陰地方・鳥取県では、日本海で水揚げされる成長したズワイガニのオスのこと「松葉ガニ」と呼ぶが、これは、
細長い脚の形や脚の肉が松葉のように見える、
食べ終わったあとに残る筋が松の葉に似ている、
浜辺に落ちている松の葉を使って焼いたり茹でたりして食べた、
活きた松葉ガニの身を氷水につけると松の葉のように広がるため、
等々ある(https://www.keichomaru.jp/?p=1123)が、「ズワイガニ」が木の枝が真っ直ぐ伸びた意の楚蟹(すわえがに)」が転じたものであるように、松の葉のまっすぐ伸びたのに準えたとみていいのではないか。
ついでながら、「タラバガニ」は、「ズワイガニ」が、
十脚目ケセンガニ科(旧分類ではクモガニ科)ズワイガニ屬、
に対し、
十脚目(エビ目)異尾下目(ヤドカリ下目)タラバガニ科タラバガニ属、
で、生物学上はヤドカリの一種(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%AC%E3%83%8B)で、カニではない。
「タラバガニ」は、
鱈場蟹、
と当てられ、
生息域がタラの漁場(鱈場[たらば])と重なる、
ことに由来している(日本語源広辞典・語源由来辞典)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月11日
独自の領域空間
村井章介『アジアのなかの中世日本』を読む。
「マージナル」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477185272.html)で触れた村井章介『中世倭人伝』の背景になる時期と重なり、「海の民」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/476761366.html)で触れた田中健夫『倭寇―海の歴史』や、「倭寇」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/476674773.html)で触れた竹腰輿三郎『倭寇記』でいう、前期倭寇と言われる時期を中心に、中世日本の、本土の中心から離れた、辺境地域の倭人たちの世界を、「アジア」という広がりの中で、多角的に洗い出している。
「ここでわたしがしつらえた《アジア》というステージに登場する役者は、けっして国家だけではない。たとえば倭寇のように、国際関係を背景から規定するとともに、国家のわくを超えた地域の担い手となり、一面では国家の規制力によってゆがめられる、そういった人間集団も、主役に名をつらねている。またアイヌや琉球人のように、独自の国家を所有した有無はあるにせよ、結果的には日本の国家に呑みこまれてしまった民族集団が、自己を形成する過程も、重要なだしものだ。このように日本の中世は、国家のわくぐみを相対化し、《可能性としての歴史》を構想するのに好適な素材に恵まれている。
そしてこの素材にとりくんだ背景には、現代に生きるわれわれが、国家利害をすべてのうえにおく思考からいかに脱却し、アジア諸民族や国内の少数民族との関係をどう自覚的に創造しうるか、という問題関心があった。」
と著者は、全体の編集意図を整理している。
面白いのは、南北朝から、室町、戦国時代と、国内政権が分散的、拡散的で、中央集権的な国家ができるまでの間、周辺は、倭寇に代表されるような人々が、朝鮮半島や中国沿海部、フィリピン、インドシナ半島と、広い領域に、他国に強い影響を与え続けていたことだ。その人々は、「倭人」とされるが、その、
「《倭》とは本来日本の同義語ではなく、《倭種》とは西日本のみならず、江南から山東半島、朝鮮半島南部にかけての大陸沿海部にも分布する、海洋民的な性格の人びとのこと」
なのである。
その一つのモデルを、著者は、
「列島内の一部分が、内海を通じて列島外の一定地域と結ばれ、こうして国境を超えたひとつの地域、たとえば私が『環シナ海地域』とよぶような地域が登場します。こうなりますと地域の登場は、列島中央の国家権力から発する求心力に抗して、国家的統合を相対化する遠心力として作用するでしょう。ここで措定された『地域』とは、伝統的な海外交渉史の主要概念である『国交』や『貿易』が線で表象されるとすれば、面で表象される点に特徴があります。そして地域を面たらしめているものは、それ自体多彩な要素からなるところの交渉の担い手たちであり、かれらが展開する多様で多面的な活動そのものだといえます。具体的に申しますと、中国人海商、倭寇、琉球人などがこの担い手でありまして、かれらは、それぞれの出身の国家に対しては相対的に『自由』にふるまい、自由な分だけ『地域』への帰属意識をもっていた、と考えられます。」
と書く、その《面としての地域》は、倭寇の、あるいは倭寇を装う集団の活動地域と重なっていく。そして、この問題意識は、ともすると中世を、武士の世界と見る見方への反論になりえるのである。たとえば、
「従来日本の中世を前進させたものとイメージされてきたのは、武士=在地領主、およびかれらが結集した権力である幕府であったが、これら《武》の勢力が力をふるいえたのは、《文》に対して先進的だったからではなく、むしろ中国文明を中心とする東アジア世界のなかで、日本のおかれた辺境性にもとづいている。『自力救済』や『寄せ沙汰』にみられるように、暴力とコネが一貫して紛争解決の手段だったのが日本の中世の特徴であって、この未開性にくらべれば、『武人より文人、武勇よりは安穏に価値を見出す東アジアの世界観』にそれなりに従うべきところがあったのではないか」
と。それは、「脱亜入欧」という今日までつづく考え方に通底するアジア蔑視への痛撃となり、それは、何処か、幕末期の勝海舟(http://ppnetwork.seesaa.net/article/476090186.html)や横井小楠(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163207.html、http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163208.html)の描いていた世界観と通底するものがある。
さて、その意味で中央の「日本」から離れた周辺での、幅広い世界像を描いている点で、
Ⅲ 中世日本列島の地域空間と国家、
が出色である。「周辺」とは、中央から見た場合、
異域、
であり、
化外、
であり、
ケガレの地、
であり、
鬼の住処、
であり、中央から、
「皇都→畿内→外国(げこく)は浄から穢へと段階的に移行する同心円構造をなしていた」
のであるが、しかし、
「周縁の人びと境界の往来者にとって、異域はもはや鬼のすみかではなく、あらたなもうひとつの《文明》であった。異域に人力のおよばざる鬼ではなく、自己と種々のちがいはあるにせよ人間を発見するとき、それはもはや異域ではなくなり、それと自己とをへだてる境界の性格も変わってくる。」
それを著者は、
海上の境界という観念の出現、
と特徴づける。著者はそのモデルを、
環日本海地域、
東シナ海地域、
に見出す。前者は、
十三湊を中心に、北海道のアイヌ、沿海州、高麗までの日本海地域、
になる。後者は、
倭寇活動地域、
と重なる。しかし、その時代は、十六世紀後半の秀吉の統一で終わりを迎える。その決算が、
文禄・慶長の役、
であるが、
「国内戦争の論理をそのまま延長したものであり、朝鮮の自主性を徹底的に無視し朝鮮人民に甚大な損害をもたらした暴挙であった……。そこには、中世を通じて温存されてきた、朝鮮を日本に服属すべき国とみなす観念の反映をみてとることができる。」
それは、そのまま、武の政権の明治政府の行動へとつながり、今日までその禍根は尾を引いている。
参考文献;
村井章介『アジアのなかの中世日本』(校倉書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月12日
いき
九鬼周造『「いき」の構造』を読む。
著者は、「いき」を、
内包的構造、
外延的構造、
自然的表現、
芸術的表現、
に分けて、その構造を鮮明にした。「内包的構造」では、
媚態、
意気(意気地)、
諦め、
の三つの表徴に分解した。
「媚態」とは、異性に対する「媚態」である。
「異性との関係が『いき』の原本的存在を形成していることは、『いきごと』が『いろごと』を意味するのでもわかる。『いきな話』といえば、異性との交渉に関する話を意味している。」
「媚態」とは、
「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして『いき』のうちに見られる『なまめかしさ』『つやっぽさ』『色気』などは、すべてこの二次元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。」
と。
「意気」すなわち、「意気地」とは、
「意識現象としての存在様態である『いき』のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児(えどっこ)の気概が契機として含まれている。(中略)『江戸の花』には、命をも惜しまない町火消、鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の『男伊達』を尚(とうと)んだ。『いき』には、『江戸の意地張り』『辰巳の侠骨』が無ければならない。『いなせ』『いさみ』『伝法』など共通な犯すべからざる気品・気骨がなければならない。『野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ』というように、『いき』は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強みをもった意識である。(中略)『いき』のうちには溌剌として武士道の理想が生きている。」
であり、
「理想主義の生んだ『意気地』によって媚態が霊化されていること」
が「いき」の特色であると、する。「諦め」は、
「運命に対する知見に基づいて執着(しゅうじゃく)を離脱した無関心である。『いき』は垢抜けがしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。」
とし、
解脱、
とする。
「『いき』は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』という『苦界(くがい)』にその起源をもっている。(中略)『諦め』したがって『無関心』は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍のこころである。」
と。そして、この三者を、
「第一の『媚態』はその基調を構成し、(中略)媚態の原本的存在規定は二元的可能性である。しかるに第二の徴表たる『意気地』は理想主義の齎した心の強みで、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力を呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。(中略)媚態の二元的可能性を『意気地』によって限定することは、畢竟、事由の擁護を高唱するにほかならない。(中略)媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して『諦め』を有することは……、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と『諦め』の結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している。」
とまとめ、要するに、
「『いき』という存在様態において、『媚態』は、武士道の理想主義に基づく『意気地』と、仏教の非現実性を背景とする『諦め』とによって、存在完成にまで限定されるのである。」
と。さらに、「意気」の外延的構造では、「上品-下品」、「派手-地味」、「意気-野暮」、「渋み-甘味」の中で、位置づけ直してみせる。しかし、著者自身が、「結論」で、
「『いき』を分析して得られた抽象的概念契機は、具体的な『いき』の或る幾つかの方面を指示するに過ぎない。『いき』は個々の概念契機を分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって『いき』の存在を構成することはできない。」
と言っているように、分解された要素を束ねても、「いき」とはどこかに乖離がある。読みながら感じた違和感は、それだけではなく、少しく「武士道」や「江戸ッ子気質」について、理想化され過ぎている感があったからだ。
「いき」は、
意気、
と当て、
明和頃、深川の岡場所に流行し、のちに一般化した語。粋であること、あかぬけしていること、洗練された美があること、しゃれていること(江戸語大辞典)、
近世中期頃からの江戸の町人に主に発達した美意識の一。嫌味なくさっぱりした態度、垢抜けした色気、洗練された媚態などを意味した(古語大辞典)、
(心映えの「意気」とは区別し、「清爽」を当て)意気ある人の、風采(ふり)、瀟洒(さっぱり)したるより出づ、さっぱりとして、いやみなきこと、婀娜たること、粋なること(大言海)、
とある。「いなせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で触れたことがあるが、「いき」は、
心意気の略、
ではないか。その意味は、
気持ちや身なりのさっぱりして垢抜けしていて、しかも色気をもっていること、
あるいは、
人情の機微に通じ、特に遊里や遊興に精通していること、
ということらしい。類語に「伊達」というのがある。語源は、
ひとつは、「取り立てる」の「タテ」で、目立つという意味。実際以上に誇示する。
いまひとつは、「タテダテシイ」の「ダテ」で、意地っ張りという意味だ。伊達の薄着、というように、言ってみると依怙地を張っている、というニュアンスである。だから、
ことさら侠気を示そうとすること、
とか
派手にふるまうこと、
とか
人目につくこと、
とあって、そこから、
あか抜けていきであること
とか
さばけていること
となっていく。しかし、どこかに、「見栄をはる」とか「外見を飾る」というニュアンスが抜けない。似たものに、「伝法」もある。「伝法な」は、
浅草伝法院の下男が、寺の威光を借りて、悪ずれした荒っぽい男であったのが、「デンポウ」なの由来、
とされる。転じて、無法な人、勇み肌という意になっていく。「鉄火肌」というのもその流れだろう。「鉄火」というのは、鉄火場、つまり博奕場である。しかし、「鉄火肌」の「鉄火」は、
鉄火(鉄が焼かれて火のようになったもの)、
という意味から来ているので、気性の激しさを言っている。
また「いさみ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/435961747.html)は、
市人の、気概(いきはり)を衒(てら)ふ者。其の気立てを、いさみ肌、きほいはだ、と云ふ(大言海)、
気概を、
いきはり、
と訓ませ、意気地を張る、というニュアンスにし、それを衒う、つまり、
見せびらかす、ひけらかす、
という含意である。そういうのを喝采するひとがいるから、ますますいきがる、ということになる。
どうも、いきがっている本人ほど、周囲は、認めていず、だからいっそう伊達風を張る。その辺りの瘦せ我慢というか、依怙地さは、嫌いではないが、所詮、
堅気ではない、
のである。まっとうではなく、そういう男伊達というか侠気というのは、
戦国武将の気風の成れの果て、
らしく、そのことは、「サムライとヤクザ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html)で触れた。
僕は、「いなせ」や「いき」は、気骨とは違うと思う。「気骨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/404572114.html)は、
「気(気概ある)+骨(人柄)」
である。これこそが、サムライである。
容易に人に従わない意気、自負、
こそが、「いき」ではないのか。それは、「心映え」だから、見栄を張って、外に着飾るものでも、言い募るものでもないのである。
三田村鳶魚は、
「武士が単なる偶像化されたる『人間の見本』であったり、あるいは、『人間の理想化』であっては、『武士道』甚だ愚なるものである。」
と言っている。著者の「武士道」が理想化され過ぎているように感じるのは僻目だろうか。「武士道」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/445487389.html)については触れたが、武士道の謂れについて、鳶魚は、
「戦国末期の『武辺吟味』というのは、弓馬・剣槍、あるいは鉄砲等の武器に関することで、主として戦場における働き、すなわち、軍事上における働きの場合に用いられたものであって、今日いうところの武士道ではなく、むしろ、兵書・兵学に属するものであった。吟味は今でいう研究という言葉に相応するものだ。それよりも、『男の道』の方が『武士道』には近い。『そうしては男の道が立たない』というようなことは、『武士道が立たない』というのと同一の意味で用いられた言葉だ。故に、もし『武士道』なるものの語原的詮索をするとしたならば、武士道の母胎は『男の道』であって、これから、武士道なる言葉が転化し発生したものだ、ということが出来る。」
とし、武士道とは、
義理、
すなわち、
善悪の心の道筋、
である、とする。もう少し突っ込めば、
倫理、
である。倫理とは、
いかに生きるか、
である。だから、
「武士が切腹をするということには、二通りの意味がある。その一つは、自分の犯した罪科とか過失とかに対して、自ら悔い償うためには、屠腹するということであり、今一つは、申し付けられて、その罪を償うということである。そして、そのいずれにしても、切腹は自滅を意味する。(中略)切腹は、…武士に対する処決の一特典にしか過ぎない のである。ただ自らその罪に対する自責上、切腹して相果てるというその精神だけは武士道に咲いた一つの華と言っ てもよいが、武士道の真髄ではあり得ない。」
したがって、他人の忖度とは無縁である。前に、
心映え、
といったのはその意味である「心映え」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html)で触れたように、その真髄は、周りへの影響のニュアンスの、
心延え
というではなく、何か一人輝きだしている、
心映え
がいいのである。
ついでながら、著者の「江戸児」は、鳶魚に言わせると、現実とは異なるようである。「江戸ッ子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html)で触れたことだが、「江戸ッ子」(と鳶魚は表記する)は、
「表通りには住んでいない。皆裏通りに住んでいた」
つまりは、
裏店(うらだな)、
に棲む。では、裏店とは何か。鳶魚曰く、
長屋と裏店とは違う、
という。
「長屋というのは建てつらねた家ですから、どんな場所にもあった。水戸様の百間長屋などというのは、今の砲兵工廠の所にあったので、その他大名衆の本邸には、囲いのようにお長屋というものがあって、そこに、勤番士もおれば、定府の者もおりました。長屋の方は、建て方からきている名称ですが、裏店の方は、位置からきている名称」
で、位置とは、場所を指す。
「裏店というのは、商売の出来ない場所」
で、ここに住んでいるのは、
「日雇取・土方・大工・左官などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない。」
では、裏店に対して、表店とは何か。そのためには、町人とは何かが、はっきりしなくてはならない。
「町人という言葉から考えますと、武家の住っている屋敷地に居らぬ人、市街地に住んでいる人を、すべて言いそうなものなのに、町人といえば商人に限るようになっている」
のであって、そこには、裏店の人間は入らない。「江戸ッ子」の風体は、
半纏着
で、
「明らかに江戸ッ子を語っているものは、半纏着という言葉です。半纏着では、吉原へ行っても上げない。 江戸ッ子というと、意気で気前がよくって、どこへ行ってももてそうに思われるが、半纏着だと銭を持っていても女郎さえ買えないんだから、ひどいものです。この連中は、普通の人の着物を長着という。羽織は見たこともない手合だから、長着は持っていない。持っているのは、半纏・股引だけだ。もし長着があるとすれば、単物に三尺くらいのものでしょう。」
と。いったいこの「江戸ッ子」は何人いるのか。
「大概 江戸の人口の一割くらい」
で、五万人、と鳶魚は見積もる。我々のイメージしている「江戸ッ子」は、町人かその使用人であったが、それを鳶魚は、「江戸ッ子」に入れないらしい。
なお、「野暮天」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/406147111.html、http://ppnetwork.seesaa.net/article/427433126.html)で、「野暮」については、触れた。
参考文献;
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)
三田村鳶魚『武家の生活』(Kindle版)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月13日
うたた
「うたた」は、
転た、
漸た、
と当てる(岩波古語辞典・広辞苑)。「うたたね」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/428026929.html)で触れたことだが、「うたた」は、
うたてと同根、
とある(広辞苑)が、大言海は、
ウタテの転、
とし、岩波古語辞典は、「うたて」を、
ウタタの転、
とし、
平安時代には多くは「うたてあり」の形で使われ、事態のひどい進行を諦めの気持で眺めている意、
とし、広辞苑も、
ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま。それに対していやだと思いながら、諦めて眺めている意を含む、
としている。「うたた」と「うたて」は、
うたた→うたて、
か
うたて→うたた、
かは、両説あることになる。
「うたた」は、
ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、
とあり(岩波古語辞典)、「うたた」の「うた」は、
轉、
と当て、
ウタタ(轉)・ウタガヒ(疑)・ウタ(歌)のウタと同根、
とあり、
無性に(古事記「この御酒(みき)の御酒のあやにうた楽し、ささ」)、
の意味である(仝上)。なお「うた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448852051.html?1600908507)は触れた。
「うたた」の意味は、
(事態が甚だしくてどうにもできず)不愉快である(古今集「花とみて折らんとすれど女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ」)、
いよいよ、ますます(和漢朗詠集「飛泉うたた声を倍(ま)す」)、
(岩波古語辞典)という意だが、広辞苑は、
ある状態がずんずん進行して一層はなはだしくなるさま、いよいよ、ますます(「飛泉うたた声を倍(ま)す」)、
程度がはなはだしく進んで、常と違うさま、甚だしく、異常に、「うたたあり」の形では、いやだ、気に染まないの意になることが多い(「花とみて折らんとすれど女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ」)、
程度が進んで変わりやすいさま、また何となく心動くさま、そぞろに(日葡辞書「ウタタゴコロ」)、
と三意を載せる。三者の意味が微妙に違う。その違いは、副詞としての意味、
いよいよ、
甚だしい、
そぞろに、
の三者に現れている。しかし、「うたて」は、
ウタタの転。物事が移り進んでいよいよ甚だしくなってゆくさま、それに対して嫌だと思いながら、諦めて眺めている意、
とあり(岩波古語辞典)、
度合いがとどめようもないさま、ますます、いよいよ激しく(万葉集「いつはなも戀ひずりありとはあらねどもうたてこころ戀ししげしも」)、
普通でなく、異様に(古事記「うたて物云ふ王子(みこ)ぞ。故(かれ)慎み給ふべし」)、
(こちらの気持にかまわずにどんどん進行していく事態に出会って)いたたまれないさま、なんともしょうがないさま(土佐日記「このあるじの、またあるじのよきを見るに、うたて思ほゆ」)、
いやで気に染まないさま、なじめず不快に(枕草子「鷺はいとみめも見苦し。まなこゐなどもうたてよろづになつかしからねど」)、
嘆かわしく、なさけなく(平家物語「あれ程不覚なる者共を合戦の庭に指しつかはす事うたてありや、うたてありやと言って」)、
(「あな~」「~やな」の形で軽く詠嘆的に)いやだ(宇津保「あなうたて、さる心やは見えし」)、
とあり(岩波古語辞典)、
片腹痛く、笑止、
の意味すらもつ(大言海)。ある意味、意に染まぬ進行に、
不愉快、
いたたまれない、
嫌で気に染まない、
なげかわしい、
といった気持を言外に表している。不快感から、嫌悪感、そして蔑み、へと意味が変わっていく感じである。
どんどん、
とか、
甚だしい、
という副詞的な背後にも、
どうにもならない、
という気持ちがある。「うたた」よりは、「うたて」の意味の外延の方が、広く大きい。これは、
うたた→うたて、
の転訛なのではないか、と思わせるが、大言海が、「片腹痛い」意味としたのは、古事記の、
うたて物云ふ王子(みこ)ぞ。故(かれ)慎み給ふべし、
なので、
うたた→うたて、
か
うたて→うたた、
の転訛は、結構古く、両用されてきたことを思わせる。
「うたた」「うたて」の語源であるが、
平安初期、「転」「転々」を、うたた・ウタウタと訓じるが、「観智院本名義抄」などは「転」をイヨイヨとも訓んでいる、
とある(日本語源大辞典)。「うた」(轉)で、
無性に、
の意味で使われていたことを思えば、
何となく、むしょうにの意のウタの畳語(時代別国語大辞典-上代編)、
もあるし、
ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま(岩波古語辞典)、
ウタ(自分の気持をまっすぐに表現する)のくりかえし、ウタウタの約(日本語源広辞典)、
という説なのではないか。「うたがふ」の「うた」は、
ウタは、ウタ(歌)・ウタタ(轉)などと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。カフは「交ふ」の意。従ったウタガフは、事態に対して自部の思う所をまげずにさしはさむ意」
という説(岩波古語辞典)もあり、気持ちの表出という意味で重なるような気がする。
ウツラ(移)ウツラの約(名語記・国語溯原=大矢徹)、
ウツリ・ウツシ(語幹)ウツから転じたウタの畳語。移の義から転々むの意を生じた(名語記・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健)、
は、「転」や「転々」を当て、意味が転じた後の、あと解釈に思える。
どうやら、「うたた」は、自分ではどうにもならない事態の進行を、不安と、諦めと、しかし不快感を持って見守る、ちょっと複雑な心象表現の言葉に思える。語源はともかくとして、その意味では、「転(轉)」の字が、
丸く回転する、
という意味で、「うたた」にこの字を当てた言外のニュアンスがよく伝わる気がする。その意味で、僕には、「うたたね」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/428026929.html)に、
転寝
と、「転」をあてたのも意味があり、「うたた」のもつ、
(眠気が)どうにも止まらない諦め、
という含意があり、語源として、言葉の奥行を感じる。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月14日
うたがう
「うたた(転た)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477890130.html?1602531323)で触れたように、「うたた」は、
ウタウタの約。ウタは、ウタ(歌)・ウタガヒ(疑)のウタと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、
とあり(岩波古語辞典)、「うたた」の「うた」は、
轉、
と当て、
ウタタ(轉)・ウタガヒ(疑)・ウタ(歌)のウタと同根、
とあり、
無性に、
の意味であり(仝上)、古事記に、
この御酒(みき)の御酒のあやにうた楽し、ささ、
という用例がある。で、「うたがふ」は、
ウタは、ウタ(歌)・ウタタ(転)などと同根。自分の気持をまっすぐに表現する意。カふは「交ふ」の意。従って、ウタガフは、事態に対して自分の思うところをまげずにさしはさむ意、
とし、
相手・対象に虚偽や誤りがあるのではないかと思い込む理由を持っていて、信じない(源氏物語「大将の御心を疑ひ侍らざりつる」)
対象の中に自分の見込むような事実があるのではないか、などと悪い方に推量する(源氏「怪し、なほいと欺くのみはあらじかしと疑ひはるるに」)、
もしやとおもいめぐらす(方丈記「山鳥のほろほろとなくを聞きても、父か母かと疑ひ」)、
等々の意味を見ると、「うたた」の、
自分の思いとは別のところで事態がひどく進むのを諦めがちに眺めている、
という心情と、「うふがふ」の、
事態の動きに対して内心は信じていない、
という心情と、映し合う気がする。なお「うた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448852051.html?1600908507)で触れたが、「うた(歌)」は、
ウタフ(歌)の語幹。ウタフは手拍子をとって歌謡することから、打チ合フを語源とする(国語の語根とその分類=大島正健・国語学叢録=新村出)、
ウタフ(訴)の語根。これからウタフを経過して、ウタヒとウタヘとに分化した(万葉集講義=折口信夫・民俗学と日本文学研究史=高崎正秀)、
心情を声にあげ、言にのべてウタヘ(訴)出ること(日本語源=賀茂百樹)、
ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根(岩波古語辞典)、
等々あるが、打ち合う、とともに、文脈から語源と想定できるのは、
ウタフ(訴)の語根、
心情を声にあげ、言にのべてウタヘ(訴)出ること、
ウタガヒ(疑)・ウタタ(転)のウタと同根、
とした。仮に、「うたた(転た)」の「うた」と「うた(歌)」と「うたがう(疑)」の「うた」が同根とするなら、その「うた」は、
無性に、
と意味がつながらなくてはならない。「無性に」は、
むやみに、
いちずに、
やたらに、
と、思いつめた感じである。それは、「うたた」が、
自分の気持をまっすぐに表現する意。副詞としては事態がまっすぐに進み、度合いが甚だしいさま。「うたたあり」の形でも使い、のちに「うたて」と転じる、
という、
(主観的な思いとは別に)事態がどんどん進んでしまう、
という動きと、主客の差はあるが、通じるところがある。「うたがう(ふ)」は、
疑う、
と当てる。「疑」(ギ)は、
会意兼形声。左側は、矣(アイ・イ)の元の形で、人が後ろを振り返って立ち止まるさま。疑は「子+止(足を止める)+音符矣」で、愛児に心惹かれてたちどまり、進みかねているさまをあらわす。思案に暮れて進まないこと、
とある(漢字源)。同趣旨は、
会意形声。「マ(=子)」+「疋(=止・足)」+音符「矣」、「矣」は人が振り返る様。子が気がかりで立ち止まり振り返る様、安心していない状況を意味(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%91)、
ちょっとすっきりしないので、別説を探すと、
象形文字。甲骨文では、「人が頭をあげ思いをこらしてじっと立つ」。象形から、「うたがう」、「とどまる」を意味する「疑」という漢字が成りたちました。金文になると、十字路の左半分・角のある牛・立ち止まる足の象形が追加され、人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる、すなわち、甲骨文と同じで「うたがう」、「とどまる」の意味を表します(https://okjiten.jp/kanji997.html)、
同じ説だが、
「疑う」という字は、ものの形を象って作られた象形文字。古代中国・殷の時代に記された甲骨文字を見ると、片方の手に杖を持った人が、後ろを振り返って立っている姿が描かれています。向かって左側の部分、カタカナの「ヒ」に似た文字が後ろを振り返る人。その下に書いた「矢」の部分が、杖を突いて立つ様子です。甲骨文字ではこれだけで「疑う」という意味を表していたのですが、その後、殷に続く周の時代に記された金文では、右側にカタカナの「マ」に似た文字と、その下にひきへん(疋)が添えられます。ひきへん(疋)は、膝から下の足の形をかたどった部首で、足を止めて迷っている様子を強調しているといわれます(https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoFm_eAwVIHrTm3/)、
ともある。「疑」は、どちらかというと、思案して先へ進めない、意である。和語「うた」とは真反対になる。
『大言海』は、「うたがふ」を、
語根のウタにて、疑の意を成すか、うつなし(決)を、うたなし(無疑)とも云ふ。ガフは行ふ意。あらがふ(爭)、下がふ(従)、
としていて、ちょっと意味不明だが、
ウタ(ウワ 空)+ガウ(行う)、空虚なことと推量する行為(日本語源広辞典)
ウタはウツ(空)の転、ウタガフは実のないことを推し量ること(国語の語根とその分類=大島正健)、
ウツ(空)の転で、虚偽の意(国語溯原=大矢徹)、
ウタカタ(虚象)を活用した語(和訓栞)、
等々の諸説と意図は同じようである。僕には、「空事」「虚事」という方にシフトした意味ではなく、こちらの思いとは別のところで事態が進んでいるのを、承服していない、という心の表現とする、
「うたた(転た)」と「うた(歌)」と「うたがう(疑)」の「うた」が同根、
とする説に与したい。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:うたがう
2020年10月15日
祇園豆腐
「祇園豆腐」とは、
田楽豆腐の一つ、
で、
薄く切って串に刺した豆腐を焼き、味噌だれで煮て、麩粉をかけたもの、
とある(広辞苑・たべもの語源辞典)。また、
焼きてくずあんをかけたるものあり、
ともある(近代世事談・大言海)。
京都の祇園神社(今の八坂神社)の南の楼門前、東西の二軒茶屋にて調理する田楽豆腐の名、
故に、この名がある、とある(大言海・広辞苑・たべもの語源辞典)。江戸時代、祇園神社の楼門の前に、
東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E8%B1%86%E8%85%90)、これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、
江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった、
とある(仝上)。二百年前の献立に、
祇園豆腐に道明寺糒(ほしい)を振りかけて江戸料理に使っていた、
ともある(たべもの語源辞典)。
こがしの粉かけたるもの、
ともある(大言海)。「こがし(焦がし)」は、
米、麦を炒り焦がして、碾きて粉とせるもの、
で、
香煎、
の別名ともされる(広辞苑・大言海)。あるいは、
花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E8%B1%86%E8%85%90)。
現在は、「祇園豆腐」は、
木の芽田楽、
をいう(デジタル大辞泉)、とある。「木の芽田楽」は、
山椒の芽を味噌にすりまぜて豆腐に塗り、火に炙ったもの、
をいう(広辞苑)。「木の芽味噌」というのは、
漉味噌を鍋に入れ、煮出汁にてのばし、酒と砂糖とを加へて、火の上にて煉り、おろす鍋に、木の芽を細かく切りたるものを加へて、ざっと煉り、火よりおろして、玉子の黄身を加へて、よく交ぜ合わせたるを、魚肉・蔬菜などに塗(まぶ)したる、
を言い(大言海)、これを豆腐にぬりて焼いたものを、
木の芽田楽、
というので、「田楽豆腐」には違いないが、「木の芽」は、
山椒の若芽をすり込む、
ともあり(大辞林)、特に「山椒」は、
三月ころから新芽を吹くが、この新芽や若い葉を〈木の芽〉と呼び、煮物の香りづけや汁物の吸口に用いる。木の芽みそ、サンショウみそはみそにすりまぜたもので、木の芽あえはこれでたけのこやイカをあえたもの、木の芽田楽は豆腐にこれを塗った田楽である、
とあり(世界大百科事典)、厳密にいうと、「祇園豆腐」とは、「味噌」が少し違うようだ。
(木の芽田楽 https://myvegerecipe.com/201603denngaku/より)
「田楽」は、「おでん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471576969.html?1573934882)で触れたように、「おでん」に始まる。「おでん」は、
御田、
と当てる。
田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞、
である。御所で使われたことばが、上流社会に通じたもので、それが民間に広がった。
田楽とは、
豆腐に限って言った、
ので(たべもの語源辞典)、「おでん」は、
豆腐、
と決まっていた。
「豆腐を長方形に切って、竹の串をさして炉端に立てて焼き、唐辛子味噌を付けて食べた。初めは、つける味噌は唐辛子味噌に決まっていた」
のであり、これが、
おでん、
であった(仝上)。「田楽」という名前の起こりは、
「炉端に立てて焼く形が田楽法師の高足の曲という技術の姿態によく似ているので、のちに、豆腐の焼いたものを田楽とよぶようになった、ともいう」
とある(仝上)。「高足」(たかあし、こうそく)とは、
「田楽で行われる、足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸。鷺足(さぎあし)とも呼ばれる」
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%B6%B3)。高足を串に見立てた意味がよくわかる。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:祇園豆腐
2020年10月16日
戊辰戦争
石井孝『戊辰戦争論』を読む。
戊辰戦争については、ぼくは不案内なのだが、様々の論争があるらしい。著者は、
服部之総氏の説を継承し、戊辰戦争の本質を「絶対主義形成の二つの途の戦争」とする見解を堅持する。しかし、「二つの途」、……すなわち天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係の源流を慶応初年までさかのぼってさぐらなければならない、
として、本書に戊辰前史を加えたと、「はしがき」で書く。しかし、この文章を読んでもわかるように、歴史叙述は、誰かの説を前提にかたるものなのか、という疑問が浮かんでくる。それは、既に、先入観をもとに歴史を見ることではないのか。服部氏の説とは、
純粋封建権力としての将軍制から半封建的絶対権力主義への移行は、客観的に二つの途において可能であった。一つの途は、天皇制によって荘厳された徳川家がその権力の座を純粋封建制ヒエラーキーの首長から絶対主義的権力者へとそのままおしすすめる途である。フランスのブルボン家の途はそれであり、その場合公式の関係は、法王とルイ十四世の関係にひとしいであろう。いま一つの途は、徳川家の権力の地位を否定して天皇が直接絶対主義的権力の象徴でなく実体たる地位を占める途であり、さしあたっては朝廷が徳川家にとってかわる途である。
というものである。まさにこの概念を、そのまま踏襲して、歴史を見ている観がある。このとき天皇は十六歳であり、孔明天皇は毒殺された、と著者は、断言している。
天皇は、十二月十一日ごろから疱瘡にかかっていたが、その後経過は順調で、全快に近づいていた。ところがその矢先の二十四日夜から容態急変、二十五日には「御九穴から御脱血」という異常な症状を呈し、はげしい苦悩のすえ、同日深夜、あわただしく黄泉へと旅立った。その症状から、天皇の死因は急性砒素中毒と推定される。
更に討幕の密勅が、
あらゆる面で詔書の形式と一致しない、
偽書の可能性が高い。ということは、既にブルボン家と対比するアナロジー自身が破綻している。にもかかわらず、あらかじめ、
天皇制絶対主義路線、
と
大君絶対主義(徳川絶対主義)路線、
等々と概念づけた物の見方で、歴史を見ようとしているのは歴史学者として如何なものであろうか。すでに、論証する前から、
天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係、
という結論ありき、なのである。こんな歴史叙述があっていいのか、大いに疑念を感じる。
歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である、
とは、E・H・カーの著名な言葉である。確かにそうではあるが、結果として「絶対主義」化したということが、仮に正しいのだとしても、その結果から、維新の当事者が当初からそれを目指していた、とするのは無理があるのではないか。
僕には、「伝説」(http://ppnetwork.seesaa.net/search?keyword=%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E4%BC%9D%E8%AA%AC)で触れた、十二月九日の王政復古クーデターについて、
大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで、「盟主は天皇」と決めたのである。(中略)討幕派にしてみれば盟主が(徳川)慶喜に落ち着くことは避けられないという見通しがあり、武力で、クーデタで事を処するしかなかった。また政権代表には、会議で選ばれるという次元を超えた存在、つまり天皇を当てるしかなかった。(中略)クーデタ直後に大阪に移動した慶喜は十二月十六日、大坂城でパークスやロッシュに会って、あなたがたとの条約を履行するのは今後とも私だ、つまり日本国の元首はこれまでどおり自分だと言明する。これは国際的に有効だった。京都はこれに対抗して、天皇こそが元首だと言おうとする。「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり」とはじまる詔書を発しようとしたのである。しかしこの詔書は、天皇が署名したにもかかわらず議定の松平春嶽と山内容堂が副書を拒否したために不発に終わった。春嶽や容堂にしてみれば、天皇を同盟列藩の主に決めた憶えはない。諸侯会盟して盟主を選ぶという手続きを中断して、薩長が勝手に天皇を持ち出したのである。
この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。
と記述する文章(松浦玲『検証・龍馬伝説』)のほうが、現在と対話しつつ、はるかに着実に、先入観で分類せぬ事実を積み重ねている。討幕派に天皇を持ち出して、別の日本を創ろうとする意図があったことは確かだろう。たとえば、伊藤俊輔は、アーネネスト・サトウに、
将来の版籍奉還から廃藩置県、さらに武士団の解体まで、
見通していた。しかし、それは、藩に割拠する幕藩体制から統一国家を目指そうとする以上、徳川側にもそれに似た構想はあった。たとえば、大政奉還の起草者である永井尚志は、春嶽の近臣・中根雪江に、慶喜が、
日本はしまいには郡県制度になる、英国も昔は封建であったが、公議の上、郡県でなくては強国になれないということで、郡県になった。日本もそのようになるだろう。
という意向であることを語っている。それを「絶対主義」という概念にくくってしまえば、たぶん見えるものが見えなくなる。既成の概念にカテゴライズし、収斂させる事実分析は、もはや事実ではなく、概念でものを見ているに過ぎないのではないか。
たとえば、薩長盟約に、
皇国之御為皇威相輝き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し、
とあるのを、
漠然たる表現ながら、王政復古、すなわち天皇制を目指す両藩の同盟であるということができよう、
となると、概念という先入観で物を見ている陥穽にはまった記述そのものに見える気がする。
幸いなことに、解説者(家近良樹氏)は、
明治維新によって天皇制絶対主義が成立したとする説は、いまでは通説的な地位から降りている、
とある。
絶対主義云々といった枠組みに基づく問題提起それ自体が成り立たなくなっている、
らしいのである。でなくては、歴史ではなく物語である。
参考文献;
石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館)
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月17日
甚平
「甚平」とは、
甚兵衛羽織のこと、
とある(広辞苑)。
綿入りの袖なし羽織(大言海)、
男子用の袖なし羽織(広辞苑)
とあるが、
半袖・筒袖で丈が短く、襟先と脇についた紐を結んで着る着物。男子の夏の室内着として用いられる、
ともある(語源由来辞典)。
もと関西地方に起こり、木綿製綿入り防寒着で、丈は膝を隠すくらいとし、前の打合せを付紐で留める。今、麻・木綿製で筒袖をつけた夏の家庭着にいう、
とある(広辞苑)。さらに、現代では主に男子の夏の室内着で、
木綿あるいは麻製で、単衣仕立て。脇の両裾に馬乗り(うまのり/スリット)がある。短い半袖や七分袖の筒袖・平袖で、袖口が広め。衿は「棒衿」で衽(おくみ)はないのがふつう。付け紐で結ぶので帯を必要としない。袖も身頃も全体的にゆったりして、風通しが良い作りなので、夏のホームウエアとして涼しく着られる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3)。筒袖となって普及したのは大正時代、大阪であり、
丈が短く、袖に袂がなくて衿と身頃につけた付け紐は、右を表左は裏側で結び、ふつうの和服のように右前に着る。そろいの半ズボンをはくのが今では一般的であるが、昭和40年頃までは、甚平といえば膝を覆うぐらい長い上衣のみであった、
とある(仝上)。
(甚兵衛 デジタル大辞泉より)
つまり、
羽織→綿入り袖なし羽織→筒袖の木綿製綿入り防寒着→筒袖の夏の家庭着、
と転じて来たもののようである。いま、「甚平」は、夏の季語である。
甚兵衛、
とも書き、
じんべ、
ともいう。
その由来は、
甚兵衛羽織、
だが、「甚兵衛羽織」は、
下級武士向けの木綿綿が入った袖なし羽織で、陣羽織を真似てつくられた「雑兵用陣羽織」の意味から、「陣兵羽織」で、「甚兵衛羽織」になったとされる。その甚兵衛羽織を着物仕立てにしたもの(語源由来辞典)、
とか、
武士の着るラシャ織の陣羽織に対する下級武士の着る綿入れ袖なし防寒具(日本語源広辞典)、
といった説が立てられているが、どうも信じがたい。確かに、嘉永三年(1850)の 江戸見聞録『皇都午睡』にも、
世に、甚兵衛羽織とて、袖の無き羽織を、今云ふ、殿中羽織と同じきもの、甚兵衛と云ふ者、製し始たかとも思ひ居りしが、是は、陣兵羽織にて、大将軍は、陣羽織を著せらるれども、雑兵など、寒気の頃は、綿入れ袖なし羽織なりと著ざれば、甚難かるべし、其時の著用にて、陣兵羽織なるべし、
とあり、
陣羽織→陣兵羽織→甚兵衛羽織→甚兵衛→甚平、
と転訛したとする説(語源由来辞典)に思われるが、どうも信が置けない。第一、幕末の頃に、そう言われていたとすると、
江戸末期に庶民が着た「袖無し羽織(そでなしばおり)」が、「武家の用いた陣羽織(陣中で鎧・具足の上に着た上着)に形が似ていたことから」とする、
説(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3)の方が信憑性が高い気がする。とすると、普通一笑に付される、「甚兵衛羽織」の略とされるのだから、
甚兵衛という名の人が着ていたことから、
という説(仝上)を、
単に字面から言われたもので根拠がない、
とする説(語源由来辞典)こそ、根拠がない。第一、
陣兵羽織、
等々というものはないのではないか。雑兵が羽織を着したなどということは聞いたことがない。「足軽」は、各自が自前で甲冑武具を持つ余裕がないので、
御貸具足、
御貸刀、
等々を貸与され、
胴に籠手、陣笠または兜が一定の形式となり、胴の前後に合印の紋が朱漆描きか金箔で置かれる。雑用を弁じるため籠手には手甲を着けず、走り回るために佩楯、脛当もつけず脛巾に草鞋、
であり、股引は着けているが、素足である。そして、
打飼袋または兵糧袋、
を腰か襷にかける(図録日本の甲冑武具事典)。
だから、「雑兵物語」では、
とうがらしを磨りつぶして、尻から脚の爪先まで塗っておけば、こごえない、
と言っているのだ。
(陣羽織 精選版日本国語大辞典より)
「陣羽織」は、
「室町殿日記」に具足羽織の語が見られ、「関八州古戦録」に袖なしの陣羽織と記されている点などから、初期は普通の羽織を陣中で着用しているうちに、人目を引くような羽織がつくられ、やがて活動しやすいように袖を取った形のものがつくられた、
とあり(図録日本の甲冑武具事典)、
始めは防寒用とか、小具足姿でくつろいだときに着たものであったものが、次第に自己表示のものとなり、戦場でも甲冑の上に着たままで働き、(中略)春冬秋は袷のもの、夏は単衣の薄いものなどを着るようになったのである。目立つことを主とするので多く好まれるのは緋羅紗、錦、更紗、鳥毛植、麻木綿に図案を描いたものまたは刺繍したものなどである、
らしく(仝上)、そして、
袖付の陣羽織は高級武将が用いたが、いちばん普及したのは袖なし陣羽織であるから、後世では陣羽織といえば袖なしを意味するようになり、むしろ袖付の方が特殊に思われるようになった、
とある(仝上)。「陣羽織」という言葉は、
江戸時代に定着したもので、しだいに軍陣の礼服の一種のようになり、威儀化、定式化し、非常の際の衣服ともなった。同時に戦時の役職を示す標識ともなり、幕府や諸藩において制服的な衣服として規定される陣羽織も生じた。多くは背に定紋、合印(あいじるし)などをつけ、肩章(けんしょう)様の太刀受(たちうけ)、立襟(たちえり)に、きらびやかな布地の返襟(かえしえり)、ぼたん掛けの板紐(いたひも)などの意匠で、少なからず当初の南蛮風俗の影響を残しつつ、ほぼ一定した形式として用いられた、
とある(日本大百科全書)。
(伝豊臣秀吉所用の富士御神火文黒黄羅紗陣羽織を参考に江戸時代に作られた陣羽織 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94より)
「甚平」のもとになった「甚兵衛羽織」は、「陣羽織」とは無縁なところから始まったものと言っていいように思う。
甚兵衛という名の人が着ていたことから、
かどうかは別に、
甚兵衛羽織→甚平、
と略されたのに合わせて、
陣羽織、
を連想しただけなのではないか。
なお、「羽織」については「法被と半纏」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472402181.html)で触れた。
参考文献;
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
甚平
「甚平」とは、
甚兵衛羽織のこと、
とある(広辞苑)。
綿入りの袖なし羽織(大言海)、
男子用の袖なし羽織(広辞苑)
とあるが、
半袖・筒袖で丈が短く、襟先と脇についた紐を結んで着る着物。男子の夏の室内着として用いられる、
ともある(語源由来辞典)。
もと関西地方に起こり、木綿製綿入り防寒着で、丈は膝を隠すくらいとし、前の打合せを付紐で留める。今、麻・木綿製で筒袖をつけた夏の家庭着にいう、
とある(広辞苑)。さらに、現代では主に男子の夏の室内着で、
木綿あるいは麻製で、単衣仕立て。脇の両裾に馬乗り(うまのり/スリット)がある。短い半袖や七分袖の筒袖・平袖で、袖口が広め。衿は「棒衿」で衽(おくみ)はないのがふつう。付け紐で結ぶので帯を必要としない。袖も身頃も全体的にゆったりして、風通しが良い作りなので、夏のホームウエアとして涼しく着られる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3)。筒袖となって普及したのは大正時代、大阪であり、
丈が短く、袖に袂がなくて衿と身頃につけた付け紐は、右を表左は裏側で結び、ふつうの和服のように右前に着る。そろいの半ズボンをはくのが今では一般的であるが、昭和40年頃までは、甚平といえば膝を覆うぐらい長い上衣のみであった、
とある(仝上)。
(甚兵衛 デジタル大辞泉より)
つまり、
羽織→綿入り袖なし羽織→筒袖の木綿製綿入り防寒着→筒袖の夏の家庭着、
と転じて来たもののようである。いま、「甚平」は、夏の季語である。
甚兵衛、
とも書き、
じんべ、
ともいう。
その由来は、
甚兵衛羽織、
だが、「甚兵衛羽織」は、
下級武士向けの木綿綿が入った袖なし羽織で、陣羽織を真似てつくられた「雑兵用陣羽織」の意味から、「陣兵羽織」で、「甚兵衛羽織」になったとされる。その甚兵衛羽織を着物仕立てにしたもの(語源由来辞典)、
とか、
武士の着るラシャ織の陣羽織に対する下級武士の着る綿入れ袖なし防寒具(日本語源広辞典)、
といった説が立てられているが、どうも信じがたい。確かに、嘉永三年(1850)の 江戸見聞録『皇都午睡』にも、
世に、甚兵衛羽織とて、袖の無き羽織を、今云ふ、殿中羽織と同じきもの、甚兵衛と云ふ者、製し始たかとも思ひ居りしが、是は、陣兵羽織にて、大将軍は、陣羽織を著せらるれども、雑兵など、寒気の頃は、綿入れ袖なし羽織なりと著ざれば、甚難かるべし、其時の著用にて、陣兵羽織なるべし、
とあり、
陣羽織→陣兵羽織→甚兵衛羽織→甚兵衛→甚平、
と転訛したとする説(語源由来辞典)に思われるが、どうも信が置けない。第一、幕末の頃に、そう言われていたとすると、
江戸末期に庶民が着た「袖無し羽織(そでなしばおり)」が、「武家の用いた陣羽織(陣中で鎧・具足の上に着た上着)に形が似ていたことから」とする、
説(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%B9%B3)の方が信憑性が高い気がする。とすると、普通一笑に付される、「甚兵衛羽織」の略とされるのだから、
甚兵衛という名の人が着ていたことから、
という説(仝上)を、
単に字面から言われたもので根拠がない、
とする説(語源由来辞典)こそ、根拠がない。第一、
陣兵羽織、
等々というものはないのではないか。雑兵が羽織を着したなどということは聞いたことがない。「足軽」は、各自が自前で甲冑武具を持つ余裕がないので、
御貸具足、
御貸刀、
等々を貸与され、
胴に籠手、陣笠または兜が一定の形式となり、胴の前後に合印の紋が朱漆描きか金箔で置かれる。雑用を弁じるため籠手には手甲を着けず、走り回るために佩楯、脛当もつけず脛巾に草鞋、
であり、股引は着けているが、素足である。そして、
打飼袋または兵糧袋、
を腰か襷にかける(図録日本の甲冑武具事典)。
だから、「雑兵物語」では、
とうがらしを磨りつぶして、尻から脚の爪先まで塗っておけば、こごえない、
と言っているのだ。
(陣羽織 精選版日本国語大辞典より)
「陣羽織」は、
「室町殿日記」に具足羽織の語が見られ、「関八州古戦録」に袖なしの陣羽織と記されている点などから、初期は普通の羽織を陣中で着用しているうちに、人目を引くような羽織がつくられ、やがて活動しやすいように袖を取った形のものがつくられた、
とあり(図録日本の甲冑武具事典)、
始めは防寒用とか、小具足姿でくつろいだときに着たものであったものが、次第に自己表示のものとなり、戦場でも甲冑の上に着たままで働き、(中略)春冬秋は袷のもの、夏は単衣の薄いものなどを着るようになったのである。目立つことを主とするので多く好まれるのは緋羅紗、錦、更紗、鳥毛植、麻木綿に図案を描いたものまたは刺繍したものなどである、
らしく(仝上)、そして、
袖付の陣羽織は高級武将が用いたが、いちばん普及したのは袖なし陣羽織であるから、後世では陣羽織といえば袖なしを意味するようになり、むしろ袖付の方が特殊に思われるようになった、
とある(仝上)。「陣羽織」という言葉は、
江戸時代に定着したもので、しだいに軍陣の礼服の一種のようになり、威儀化、定式化し、非常の際の衣服ともなった。同時に戦時の役職を示す標識ともなり、幕府や諸藩において制服的な衣服として規定される陣羽織も生じた。多くは背に定紋、合印(あいじるし)などをつけ、肩章(けんしょう)様の太刀受(たちうけ)、立襟(たちえり)に、きらびやかな布地の返襟(かえしえり)、ぼたん掛けの板紐(いたひも)などの意匠で、少なからず当初の南蛮風俗の影響を残しつつ、ほぼ一定した形式として用いられた、
とある(日本大百科全書)。
(伝豊臣秀吉所用の富士御神火文黒黄羅紗陣羽織を参考に江戸時代に作られた陣羽織 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94より)
「甚平」のもとになった「甚兵衛羽織」は、「陣羽織」とは無縁なところから始まったものと言っていいように思う。
甚兵衛という名の人が着ていたことから、
かどうかは別に、
甚兵衛羽織→甚平、
と略されたのに合わせて、
陣羽織、
を連想しただけなのではないか。
なお、「羽織」については「法被と半纏」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472402181.html)で触れた。
参考文献;
笠間良彦『図録日本の甲冑武具事典』(柏書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
吉田豊(現代語訳)『雑兵物語―雑兵のための戦国戦陣心得』(教育社新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月18日
褌
「褌」は、
ふんどし、
と訓ませるが、
はかま、
とも訓ませる。「袴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477626984.html?1601235195)で触れたように、「褌」(コン)は、
会意兼形声。「衣+音符軍(丸く取り巻く)」。腰の周りにめぐらす布地、
である(仝上)。「褌」は、我国だけが「ふんどし」に当てるが、
ももひきの類、
したばかま、
の意で、やはり、股が割れたものを指す(漢字源)。なぜ「ふんどし」の当てたのかはわからない。日本書紀に、
はらみやすき者は、褌(はかま)を以て體(み)に觸(かから)ふに、すなわちはらみぬ、
とあるのを、岩波古語辞典は、「ふんどし」の意と採っている。
「ふんどし」は、「褌」の他、「袴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477626984.html)で触れたように、
犢鼻褌(たふさぎ)、
肌袴(はだばかま)、
とも言い、
下帯、
まわし、
とも言うが、「ふんどし」は、男性用ばかりではなく、女性の、
湯文字、
腰巻、
の意もある(広辞苑・江戸語大辞典)。
両脚を踏ん張って通すもの、
という意味(日本語源広辞典)で、
フミトオシ(踏通)の転(広辞苑・日本語源広辞典・大言海・筆の御霊・松屋筆記)、
とする説が大勢のようだが、
特に根拠はない、
とされる(語源由来辞典)。その他に、
フモダシ(絆)の義(嬉遊笑覧・俗語考)、
フントヲシ(糞通)の約(菊池俗語考)、
ホトシ(陰為)の義(言元梯)、
漢語「褌衣」の韓国語化「Hun-t-os」から(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587)、
犢鼻褌(たふさぎ)は「股塞ぎ(またふさぎ)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」から(仝上)、
等々あるが、「ふみとおし」以上にはいかない。
「踏通(ふみとおし)」「踏絆(ふもだし・馬や犬を繋ぎ止める綱)」「絆す(ほだす・動かないよう縄等で繋ぎ止める)」から由来するという、
説が一般的(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97)なのだろう。
「ふんどし」を、
犢鼻褌(トクビコン)、
と当てた、
たふさき(ぎ)、
の由来については、
「股塞ぎ(またふさぎ)」「手ふさぎ(陰部を手で覆って隠す)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」、
等々諸説あり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97)、
アイヌ語で「タパ」と呼ぶのは同じ語源からくるのではないか、
ともされる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587)が、はっきりしない。
室町時代には、
手綱(タヅナ)、
と呼ばれ、秀吉が山崎の合戦後、堅田に隠れた光秀重臣斎藤利三(内蔵助)捕縛を、信忠家臣の高木彦左衛門宛手紙で、
斉藤内蔵助、二人子共相連、たつな斗ニて落行候節、郷人(きゃうじん)おこり候て、両人之子共首切り、蔵助ハ生捕ニ仕)、なわかけ来候条、於天下車乗わたしニて首切、かけ申候事、
と報じた手紙にも「手綱」と使われている。手綱は、
古くは手拭の俗称で、馬の手綱のように長い布という意であった。材料は、古くは麻布が用いられたが、江戸時代からは木綿布が普通となり、一部では、縮緬、緞子も用いられた、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。江戸時代初期からは、
下帯(シタオビ)、
とも呼ばれ、
ふんどし、
の名称が確立したのは江戸時代末期とする説もある(仝上)が、文献がなくはっきりしない。
なお、「犢鼻褌」について、大言海には、
犢鼻は、脛の三里の上の灸穴の名と云ふ、
とあり、日本釈名に、
犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、
とある。和名抄には、
犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、松子、毛乃太乃太不佐岐(ものしたのたふさき)、一云水子、小褌也、
とあり、その形から、「犢鼻褌」と言うらしいと分かるが、下學集には、
犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、
とあるので、その形が似ているのは、「褌」ではないらしい。しかし、鹽尻(天野信景)は、
隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に故也、
とする。結局、灸穴の名に落ち着く。史記・司馬相如伝には、
相如身自著犢鼻褌、與保庸雑作、滌器於市中、
とあるので、「犢鼻褌」は中国由来らしい。このためああでもないこうでもないと、百家争鳴というところか。
「ふんどし」の一種に、
3尺の白木綿の布の一端を三つ折り縫いにし、他方を紐が通るように縫って紐を通してT字形にし、腰にあてて、紐を前で結び、布を股ぐらを通して紐の下より引き出し、前に垂らして着す、
という(日本大百科全書)、
越中褌(えっちゅうふんどし)、
があるが、幕末の『守貞謾稿』は、
「紐を通したる方を背にし、紐を前に結び、無紐方を前の紐に挟む也」
と、その装着法を記している。しかし、
本格的に普及したのは明治末期、
で、江戸時代にも
隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E8%A4%8C)。その由来には、
越中富山の置き薬の景品で全国に普及したことに由来する、
越中守だった細川忠興が考案した、
大阪新町の越中という遊女が考案した、
等々の説(仝上)があるが、これもはっきりしない。忠興は剃髪後、三斎と号したが、三斎は、
畚(もっこ)ふんどし、
の発案者にもされている。
布の両端をそれぞれに紐が通るように縫い、紐を通し、片方は足を踏み通して、片方で紐を結んで着す。
ものだが(日本大百科全書)、
土を運ぶ畚(もっこ)に形状が似ているためこの名がついた。
江戸中期の『明良洪範』には、三斎の言葉として、死者の下帯のことを、
功者なる心掛けの者は、下帯の結び目の前に緒を付け肩にかく、或は、前のたれのはしに緒を付けて首にかけ、もっこふんどしと申して用ひ候、此みな死後にも抜け落ちぬ用心なり、
と語っているとか。『守貞謾稿』には、
簣褌、もっこふんどしと云は、形簣に似たる故也、前後を縫いて、是に紐を通し、或は左、或は右に結ぶ。女形俳優等に用之由を聞く、
とあるので、この時期は、一般化していなかったことがわかる。
因みに、戊辰戦争では、新政府軍は、越後口での戦死者に、
木綿の半襦袢一枚・ふんどし一筋、
を賜ったという。せめて死に装束だけでも、ということだったようだ。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年10月19日
キクラゲ
「キクラゲ」は、
木耳、
とあてるが、「木耳(モクジ)」は、漢語である。
木に生ずる耳、
の意で、
木耳生于朽木之上、無枝葉(本草)、
とある(字源)。
春から秋にかけて、広葉樹のニワトコ、ケヤキなどの倒木や枯枝に発生する。主に日本、中国、台湾、韓国などの東アジアやミャンマーなどで食用とされている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2)。特に中国料理では常用される。
学名(Auricularia auricula-judae)の内、「Auricularia」が、ラテン語で「小さい耳、耳たぶ」という意味の「auricula」という言葉に由来し、「auricula-judae」はラテン語で、「ユダの耳、ユダヤ人の耳」の意味になる。「ユダの耳」は、
ユダが首を吊ったニワトコの木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない、
らしい(仝上・https://www.gaspo-kinokoya.com/blog/blog_detail/index/37.html・たべもの語源辞典)。中国では、
賓客をもてなすのにシロキクラゲの料理を出した。シロキクラゲは黄金と比較されるくらい高価であった、
とある(たべもの語源辞典)。シロキクラゲ(白木耳)、学名(Tremella fuciformis)は、
春から秋にかけて、広葉樹倒木や枯枝に発生する。形は不規則で、花びら状と表される。子実体はゼリー質で白く、半透明。キクラゲ同様、乾燥すると小さく縮み、湿ると元に戻る、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2)。中国では「銀耳」と呼ばれて栽培され、シロキクラゲを利用した料理として中華料理の銀耳羹(シロキクラゲのスープ)などがある(仝上)。
「キクラゲ」は、また、
木海月、
とも当てるが、「クラゲ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477221780.html)で触れたように、「クラゲ」は、
水母、
海月、
水月、
等々と当てる。「水母(すいぼ)」「海月(かいげつ)」「水月(すいげつ)」は、いずれも、漢語である。「耳」という漢字にクラゲの意味は無いので、「キクラゲ」の音に当て字したものと思われる。
干したクラゲに似ているところからこの名がある、
とある(たべもの語源辞典)。「木耳」を、「キクラゲ」と訓ませるのは、
味は淡いが、噛むと音がして、干したクラゲ(水母)のような食感がある、
からである(仝上)。
「キクラゲ」は、古名、
キノミミ、
とある(大言海)。ために、一名、
ミミタケ、
とも言う。
形が人の耳に似ているから、
である(仝上)。室町末期の日葡辞書には、
耳茸(みみたけ)、
が載る(語源由来辞典)。
「キクラゲ」の地方名には、
沖縄本島のミミグイ、
鹿児島県沖永良部島のミングソ、
奄美大島のミングリ、
宮崎県西臼杵郡のミミナバ、
等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2)が、いずれも自生するアラゲキクラゲを耳と関連づけている。
アラゲキクラゲ(荒毛木耳、Auricularia polytricha)は、「多毛」の意味で、漢語では、「毛木耳」である。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95