2020年10月16日

戊辰戦争


石井孝『戊辰戦争論』を読む。

戊辰戦争論 (歴史文化セレクション).jpg


戊辰戦争については、ぼくは不案内なのだが、様々の論争があるらしい。著者は、

服部之総氏の説を継承し、戊辰戦争の本質を「絶対主義形成の二つの途の戦争」とする見解を堅持する。しかし、「二つの途」、……すなわち天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係の源流を慶応初年までさかのぼってさぐらなければならない、

として、本書に戊辰前史を加えたと、「はしがき」で書く。しかし、この文章を読んでもわかるように、歴史叙述は、誰かの説を前提にかたるものなのか、という疑問が浮かんでくる。それは、既に、先入観をもとに歴史を見ることではないのか。服部氏の説とは、

純粋封建権力としての将軍制から半封建的絶対権力主義への移行は、客観的に二つの途において可能であった。一つの途は、天皇制によって荘厳された徳川家がその権力の座を純粋封建制ヒエラーキーの首長から絶対主義的権力者へとそのままおしすすめる途である。フランスのブルボン家の途はそれであり、その場合公式の関係は、法王とルイ十四世の関係にひとしいであろう。いま一つの途は、徳川家の権力の地位を否定して天皇が直接絶対主義的権力の象徴でなく実体たる地位を占める途であり、さしあたっては朝廷が徳川家にとってかわる途である。

というものである。まさにこの概念を、そのまま踏襲して、歴史を見ている観がある。このとき天皇は十六歳であり、孔明天皇は毒殺された、と著者は、断言している。

天皇は、十二月十一日ごろから疱瘡にかかっていたが、その後経過は順調で、全快に近づいていた。ところがその矢先の二十四日夜から容態急変、二十五日には「御九穴から御脱血」という異常な症状を呈し、はげしい苦悩のすえ、同日深夜、あわただしく黄泉へと旅立った。その症状から、天皇の死因は急性砒素中毒と推定される。

更に討幕の密勅が、

あらゆる面で詔書の形式と一致しない、

偽書の可能性が高い。ということは、既にブルボン家と対比するアナロジー自身が破綻している。にもかかわらず、あらかじめ、

天皇制絶対主義路線、

大君絶対主義(徳川絶対主義)路線、

等々と概念づけた物の見方で、歴史を見ようとしているのは歴史学者として如何なものであろうか。すでに、論証する前から、

天皇制絶対主義路線と大君絶対主義(徳川絶対主義)路線の対抗関係、

という結論ありき、なのである。こんな歴史叙述があっていいのか、大いに疑念を感じる。

歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である、

とは、E・H・カーの著名な言葉である。確かにそうではあるが、結果として「絶対主義」化したということが、仮に正しいのだとしても、その結果から、維新の当事者が当初からそれを目指していた、とするのは無理があるのではないか。

僕には、「伝説」http://ppnetwork.seesaa.net/search?keyword=%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E4%BC%9D%E8%AA%ACで触れた、十二月九日の王政復古クーデターについて、

大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで、「盟主は天皇」と決めたのである。(中略)討幕派にしてみれば盟主が(徳川)慶喜に落ち着くことは避けられないという見通しがあり、武力で、クーデタで事を処するしかなかった。また政権代表には、会議で選ばれるという次元を超えた存在、つまり天皇を当てるしかなかった。(中略)クーデタ直後に大阪に移動した慶喜は十二月十六日、大坂城でパークスやロッシュに会って、あなたがたとの条約を履行するのは今後とも私だ、つまり日本国の元首はこれまでどおり自分だと言明する。これは国際的に有効だった。京都はこれに対抗して、天皇こそが元首だと言おうとする。「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり」とはじまる詔書を発しようとしたのである。しかしこの詔書は、天皇が署名したにもかかわらず議定の松平春嶽と山内容堂が副書を拒否したために不発に終わった。春嶽や容堂にしてみれば、天皇を同盟列藩の主に決めた憶えはない。諸侯会盟して盟主を選ぶという手続きを中断して、薩長が勝手に天皇を持ち出したのである。
この話は、新政権のいかがわしさを、よく現わしている。

と記述する文章(松浦玲『検証・龍馬伝説』)のほうが、現在と対話しつつ、はるかに着実に、先入観で分類せぬ事実を積み重ねている。討幕派に天皇を持ち出して、別の日本を創ろうとする意図があったことは確かだろう。たとえば、伊藤俊輔は、アーネネスト・サトウに、

将来の版籍奉還から廃藩置県、さらに武士団の解体まで、

見通していた。しかし、それは、藩に割拠する幕藩体制から統一国家を目指そうとする以上、徳川側にもそれに似た構想はあった。たとえば、大政奉還の起草者である永井尚志は、春嶽の近臣・中根雪江に、慶喜が、

日本はしまいには郡県制度になる、英国も昔は封建であったが、公議の上、郡県でなくては強国になれないということで、郡県になった。日本もそのようになるだろう。

という意向であることを語っている。それを「絶対主義」という概念にくくってしまえば、たぶん見えるものが見えなくなる。既成の概念にカテゴライズし、収斂させる事実分析は、もはや事実ではなく、概念でものを見ているに過ぎないのではないか。

たとえば、薩長盟約に、

皇国之御為皇威相輝き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し、

とあるのを、

漠然たる表現ながら、王政復古、すなわち天皇制を目指す両藩の同盟であるということができよう、

となると、概念という先入観で物を見ている陥穽にはまった記述そのものに見える気がする。

幸いなことに、解説者(家近良樹氏)は、

明治維新によって天皇制絶対主義が成立したとする説は、いまでは通説的な地位から降りている、

とある。

絶対主義云々といった枠組みに基づく問題提起それ自体が成り立たなくなっている、

らしいのである。でなくては、歴史ではなく物語である。

参考文献;
石井孝『戊辰戦争論』(吉川弘文館)
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:32| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする