2020年11月01日
おてんば
「おてんば」は、
御転婆、
於転婆、
等々と当てる(広辞苑)が、もちろん当て字である。
おてんま、
ともいう(江戸語大辞典)が、その場合、
御傳馬(おてんま)、
と当てている(仝上)。
少女や若い娘が。つつしみなく活発に行動すること、またそういう女性、
の意である(広辞苑)。
転婆、
という言葉もある。これは、
軽々しくてつつしみのない女、出しゃばりの女、
と少し「おてんば」より、意味の範囲が広くなる。さらに、男性も含めた、
そそっかしいこと、かるはずみなこと、またそういう人、
にもいう(仝上)、と意味の外延がさらに広がり、
親不孝なこと、またそういう人、
の意でも使う(仝上)。
「転婆」の表記は「書言字考節用集」にみえるが、この表記を男性に対して使用するのをはばかったのか、「天馬」という表記も見られる、
とあり(日本語源大辞典)、「転婆」が定着したのは、明治以降とみられる。
「おきゃん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433668195.html)で触れたが、
蘭語 otembaar、
を語源とする(大言海)とし、
女の出過ぎたるもの。たしなみなき女。あばずれもの等々、
の意で、「てんば」は,
此語,古来,仏蘭西語なりと云ひ,又,顚婆なりと云ひ,又,天馬なりと云ひ,又傳播の意義の変転したるものなりと云ふが,皆あらず,蘭語にぞある、
とする(仝上)。しかし,蘭語説は,すこし疑わしい。
江戸語大辞典は、
蘭語説は非、
とするし、語源由来辞典は、
「おてんば」が18世紀中頃から使われているのに対して、18世紀初頭には「てんば」が使われているためオランダ語説は成り立たず、「てんば」に「お」がついたと考えるのが妥当である、
とする。日本語源大辞典も、
同様の意を表し得る「てんば」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然であろう、
としている。江戸語大辞典は、
「お」は丁寧または軽侮の意を表す接頭語、
とするし、
てんばと同じ、
で、
江戸語としてはこの形がむしろ普通で、かつ女の身にいう、
とする。これは、
「書言字考節用集」に「女児所言」、「志不可起」に「女のしとやかになく、さわがしく、不行作なるをてんば女と云ふ」とあり、もとは女性を対象とした語であったが、男性に対しても使用された。「てんば」が上方語であるのに対して、江戸語ではお「てんば」といい、女性にだけ限定されている、
とある(日本語源大辞典)。
江戸語としては多く女にいうため、擬人名詞化して「お」を冠してもいう、
ともある(江戸語大辞典)ところをみると、上方で、
てんば、
が男性にも使われるのに対して、江戸では、
おてんば、
は、女性に限定していた、ということになる。いまも、「おてんば」は、女性に使う語感があるのはこのためかと思われる。
「おてんば」が「てんば」からきたことは明らかのように思えるのだが、意味の広がりからみると、ことはそう簡単ではないようだ。たとえば、
「大言海」はオランダ語 ontembaaar から「おてんば」が生まれたとする。しかし、同様の意味を表わしうる「てんば」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然か。ただし、「てんば」は「おてんば」より広い意味を持ち、「しくじること」「親不孝で従順でないこと」などの意で、男女を問わず用いられ、現在でも西日本の各地にそれらが残っている。したがって、「てんば」に接頭語「お」を加えることによって「おてんば」になったと、単純にとらえることもできない。この点については、上方で用いられていた「てんば」が江戸語として使用されるに際し、オランダ語 ontembaaar が何らかの形で作用し、新語形「おてんば」を生じると同時に、意味の特定がなされたとの説もある、
とあり(日本国語大辞典)、蘭語説を一蹴しきれないのである。その意味で、
てんば→おてんば、
のみとは言えず、「おてんば」の語源は語源で、考える必要がなくもない。たとえば、
中世末期から近世にかけ、機敏なさまを「テバシ」や「テバシカイ」と言っていたため、この「テバ」が語源になり、「てばてば」や「お転婆」が生まれた(江戸東京語118話=杉本つとむ・語源由来辞典)、
女の子がでしゃばって足早に歩く様子をいうテバテバにオをつけて、オテバだなあといった言葉から(国語研究=金田一京助)、
オテンマ(御伝馬)から出た語。小荷駄馬と比べて御伝馬は飼養がよく楽をしているので、常に勢いよく跳ね回るところから(話の大事典=日置昌一・日本語源広辞典)、
等々からみると、古い、
テバシ、
や
テバシカイ、
の「テバ」の転訛というのは、ひとつ面白い気がする。これは、「転婆」の語源にもなりえる。
「てんば」については、
天馬からか(志不可起)、
「伝播」より出て、言いふらす義からでしゃばりの意に転じた(近松語彙=上田万年)、
「顛婆」で、ものぐるわしき婆(難波土産)、
等々しかなく、確かに、
「てんば」が何を語源とするかは判然とせず、
である(日本語源大辞典)。しかし、
テバシカイ、
は、室町末期の日葡辞書に、
物事を非常にてきぱきと行い、それと同時に敏捷である、
とあり、「西鶴織留」に、
此手はしき事、
とあるので、機敏なさまをいう、
テバシ、
や
テバシカイ、
とつながると見るのが、現時点では最も自然に思われる。
参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月02日
伝法
「伝法」は、
デンポウ、
デンボウ、
と訓ませる。
仏法を師から弟子に伝える、
という意味(広辞苑)がある(だから「伝法院」の名がある)が、ここでは、
伝法な、
といった言い回しをする、
無銭で、芝居や見世物を見物すること、またその人、
の意であったり、そこから広がって、
悪ずれして乱暴な言行をすること、またその人、
の意で使う「伝法」である。
無頼漢、
ならず者、
と同義で使われたりする(仝上)。さらには、
勇み肌、
という意にもなっていく。
「いなせ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html)で触れたことがあるが、「伝法」は、
江戸浅草伝法院の下男などが、寺の威光を頼んで無無法なふるまいをしたからいう、
とある(仝上)。大言海は、「でんばう」は、
錢の出ぬ坊の義、
とし、
江戸、浅草寺別當、観音院を、寛永三年より智楽院と称せしを、同七年以降、七世の別當昂公然より、傳法院と改称したり。其院の仲間ども、寺の威を藉りて、観音境内の見世物を、無銭にて観たるより起こりし語。一説に、傳法院の奴輩の亡状より起こりて、仮名はでんぼうなりとも云ふ、
とある。原意は、
芝居、見世物に、木戸銭を払はず、入りてみること、
を指す。たしかに、「いなせ」や「だて」や「鉄火肌」と似た意味になっているが、どちらかといえば、かなり「しょぼい」連中である(なお「しょぼい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473190057.html)は触れたことがある)。
江戸語大辞典をみると、そうした無銭で感激する連中を、芝居者の隠語で、
伝法、
といったらしい。たとえば、
茶屋のかくしことばが大がいでんぼうとは、むかし油虫といひたる事(享和三年(1803)「三座例遺誌」)、
でんぼうとは、只見る見物のこと(伝奇作書後集)、
等々とある。それを指す、
伝法見物(でんぼうけんぶつ)、
という言葉もある。それが、
小言、苦情、
の意に転じ、
よつぴてでんぼうをいいの(芝居でぶうぶういふ通言也)、今はねやした(寛政初年(1789)「玉の幉」)、
と使われ、当然、
悪ずれして、粗暴な言動をなす者、
の意となり、
江戸ででんぼう、上方で、もうろくなどといふあばづれがあれど(文化十年(1813)「浮世風呂」)、
と使われ、それを、囃すものがいるから、
勇み肌、いなせ風を好むこと、またその人、
の意となり、この意で使うようになって、勇み肌の意の意で、
伝法肌(でんぼうはだ)、
と使われたり、それを好むものを、
伝法(でかぼう)好き、
等々といい(江戸語大辞典)、「伝法」を、
でんぽう、
と訓ませるようになり、
浮虚者(うはきもの)めは、でんぽうの方へ、ころげ込むテ(こころいきがいさみでいいといふから、これにて閉口さ)(文化十一年(1814)「素人狂言紋切形」)、
さらには、
虚言、うそ、
の意でも使われる(仝上)。
でんぼう、虚言を云、武蔵忍あたりの俗言なり(俚言集覧)、
これは、無銭の意に戻った感じである。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月03日
金山寺味噌
「金山寺味噌」は、
径山寺味噌、
とも当てる。
中国径山寺の製法を伝えたのでこの名があるという、
とある(広辞苑)。
嘗味噌(なめみそ)の一種、
ともある(仝上)。
大豆と大麦の麹に塩を加え、これに細かく刻んだ茄子、瓜などを入れ。密閉して熟成させたもの、
である。
和歌山県有田郡湯浅待ちの名産、
という。紀州味噌工業協同組合における、「紀州金山寺味噌の定義」は、
金山寺味噌麹の原料は、大豆・裸麦(大麦)・米の三種類を、全量麹で使用したものに限る、
金山寺味噌の具材(野菜)は、白瓜または真桑瓜、茄子、生姜、紫蘇の四種類を必ず使用していること、
金山寺味噌麹と具材を仕込み時に漬け込み、熟成させたものであること、
等々と定めているらしい(http://www.kinzanjimiso.jp/about.html)。
「醤油」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.html)で触れたように、「醤油」と「味噌」は深くつながる。「なめみそ」とは、
ひしお(醤・醢)、
の意で、「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、
「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」
で(漢字源)、
肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、
の意と、
ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、
の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(仝上)。
「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」
が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、中華料理の分野では、日本語でも、
ジャン、
と読むことが多い。「ひしお」は、醤の日本語の訓読みである。延喜三年(903)の『和名抄』に、醤の和名に
比之保」(ひしほ)、
が当てられている。「ひしお」は、
大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、
の意だが(日本語源大辞典)、
「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。
「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」
の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」
ことで、
「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」
ということになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「多聞院日記」の1576年の記事では、
「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」
と考えられる(仝上)。つまり、
「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」
つまり、「たまり醤油」である。この「たまり」が「金山寺味噌」と関わる。「たまり」の発祥は、
「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」
と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、
「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」
がある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、
「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。しかし、その他に、
「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」
とする説等々もある(仝上)。いずれにしても、経緯は別にして、
浙江省杭州にあった能仁興聖万寿禅寺(通称徑山寺)にて作られていたなめみその製法を体得し、帰国。高野山を経て、開山した紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の周辺に伝えた、
とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E5%91%B3%E5%99%8C)。2008年3月20日には、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つかった(仝上)、という。
「味噌」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.html)については触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:金山寺味噌
2020年11月04日
伝法焼
「伝法焼」というものがある。
転法焼、
天保焼、
とも書く、とあり(たべもの語源辞典)、
土器焼、
ともいい(https://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sample)、
たべもの語源辞典には、
伝法焼という一種の陶器があって、この陶器で焼いた料理、
を指す(仝上)、とある。伝法とは、
焙烙(ほうろく)という器の名称、
であり(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99_M/020.html)、
京都伏見稲荷山の伝法が池の底土で作った土器を使って料理したこと、
が「伝法」の由来とする伝承もあるらしい(https://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sample・日本語源大辞典)。「伝法焼」とは、その焙烙に、
ネギを敷き、その上にカツオ・マグロなどの刺身を並べて焼いた料理、
とある(デジタル大辞泉)。後に、
土器で料理したもの、
を一般に伝法焼というようになり、また
貝殻に詰めて焼くもの、
も「伝法焼」と呼ばれることもある(日本語源大辞典)。
「焙烙」とは、
素焼の浅い皿型の土器。灰焙烙といい,茶道で用いるものもある。火のあたりがやわらかいので,茶,ゴマ,豆などを炒るのに適する、
茶葉・豆・ごま・塩などをいるための土鍋。
とあり(百科事典マイペディア)、素焼きの浅く丸い皿形のものの他、
やや小型の丸い鉢形で筒状の持ち手のついたものがある、
ともある(食器・調理器具がわかる辞典)。
炮烙、炮碌、
とも書き、
ほうらく、
とも訓ませ(関東では「ほうろく」)、
炒鍋(いりなべ)、
ともいう(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99)。
伝法焼の原型は、
焙烙焼、
ともあるが、伝法焼は、
焙烙焼、
とはかなり異なる、ともある(https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99_M/020.html)。
「焙烙焼」は、正確には、
焙烙蒸、
といい、
焙烙という素焼きの平たい土鍋を用いて材料を蒸し焼きにするから、
焙烙蒸、
という(たべもの語源辞典)、とある。京都では、文字通り、
ホウラク、
といい、
焙烙の底に塩と松葉を敷いて、松茸と骨切りしたハモを入れて焙烙をかぶせて蒸し焼きにし、果実酢をしぼりかけて熱いうちに賞味する、
とある(仝上)。讃岐には、瀬戸内海のタイ・サワラ・マツタケ・ハマグリ・クルマエビ・タマゴなどを並べ入れて蒸し焼きにした名物料理がある、という(仝上)。
(まつたけのほうろく焼き https://www.bob-an.com/recipes/detail/04383より)
大言海には、「焙烙蒸」は、
多く松茸に云ふ、
とある。
因みに、「焙烙」は、
火炙器(ホイロキ)の義(燕居雑話)、
炒り焦がすことをホイロ(火色)をかけるなどというところから、ホイロキ(火色器)の義(物類称呼・俚言集覧)、
ホイログ(火色具)の義(名言通)、
焙炉具の字音から(外来語辞典=荒川惣兵衛)、
中国古代に殷の紂王が行った火炙りの刑を炮烙といい、あぶり焼く意から(語源大辞典=堀井令以知)、
等々の語源説があるが、たべもの語源辞典は、
炮は、ヤクとかアブルで、焙もアブルなので、同じに用いられている。烙はヤクである。火であぶって焼くということで、炮烙(あぶりやく)の字音そのままの名称、
とする。
炮烙、
は漢語で、
炮烙之刑、
があり、史記・殷紀に、
紂乃重辟刑、有炮烙之刑、
とある(字源)。しかし、ここから採ったとすると、ちょっと首をかしげる。
一方「伝法焼」は、
土器(かわらけ)、
で料理したものを指す(たべもの語源辞典)。享和元年(1801)の『料理談合集』には、伝法焼とは、
ごとうかわらけに、ねぎの白根をせんに切って敷いて、これを火にかけて少し焼いてから、カツオ・マグロなどを刺身のように切って、その上に並べて焼く。色が変わったら返して、下地をこしらえておいてかける、
とある(仝上)。『料理早指南』(1801)には、
焙烙にネギの白根を敷き、その上に鰹、鮪などの作り身を並べて焼き、煮返した下地をかけた料理、
とある(精選版日本国語大辞典)。確かに、「伝法焼」と「焙烙焼」は、別物である。しかし、
現在では玉子に具を入れて蒸し焼にしたものが多く、炮烙や貝殻を器に使うこともある、
とある(https://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sample)ので、差はなくなっている。なお、
伝法な、
で使う「伝法」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478236132.html?1604259879)とは、まったく由来が異なる。
(伝法焼(伊勢海老、鮑、銀杏、鼈甲餡掛け、山葵) https://www.recipe-ru.com/denpo-yaki-sampleより)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月05日
五家宝
「五家宝」(ごかぼう)は、
五荷棒、
五嘉宝、
とも書き(たべもの語源辞典)、
糯米(もちごめ)を蒸して水飴などで固めて棒状にし、青黄粉などを表面にまぶしたもの、
で、
熊谷の名産、
とされ(広辞苑)、
草加煎餅せんべい、
川越の芋菓、
とともに、
埼玉三大銘菓、
といわれている(https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/meibutsu/gokabo.html)、とか。その製法は、
もち米を一旦もちについてから薄くのばし、細かく砕いて煎り、あられ状にしたものをタネにします。五家宝の口ざわりに関わるのがタネならば、風味や外観を決定するのがきなこです。きなこの風味が五家宝の旨みを決定するといってもよいでしょう。タネをまとめて円筒状にし、より板(のし板)で長くのばしてから切ります。この工程は、飴の製法とも似ています、
とある(仝上)。
糯米(もちごめ)を蒸して水飴などで固める、
ところは、
糯米や粟などを蒸した後、乾かして炒ったものを水飴と砂糖で固めた菓子、
である「おこし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html)と似ている。だから、
おこし種を水飴などで固め棒状にした芯をきな粉に水飴などを混ぜた皮で巻き付け、さらにきな粉を表面にまぶしたものであり、青色のものは青大豆を用いて製造されている、
という表現にもなる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9D)。
享保年間(1716~36)、上州邑楽(おうら)郡五箇村の人がはじめて製し、五箇棒と呼んだのが起こり
とある(広辞苑・たべもの語源辞典)が、
その後中絶していたのを、文化(1804~18)の頃、武州埼玉郡の鳥海亀吉が再興して不動岡五箇棒と名づけ(たべもの語源辞典)、
また、
天保(1830~44)のころ大里郡玉井村の清水庄次郎が製したのを、江戸の吉原へ売り込んだのが、吉原棒と称して、珍重された(仝上)、
等々ともあるが、『熊谷市史』によれば「吉原殿中」は、
水戸藩第九代藩主の徳川斉昭(1800~60)の側女が干飯にきな粉をまぶしたものを斉昭に茶菓子として献上したところ、これを気に入り側女の名前から名付けられた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9D)。その水戸藩の銘菓「吉原殿中」を元に、
文政(1818~29)年間に水戸出身の水役人が武蔵国の熊谷宿付近に移住して茶屋を開き、故郷の「吉原殿中」を改良し「五嘉棒」として販売した、
あるいは、
群馬県の菓子商が「吉原殿中」を参考に「五ケ宝」として販売し、評判を聞いた武蔵国大里郡玉井村(後の熊谷市)の者が模倣した、
あるいは、
天保14年(1843年)に玉井村出身の者が熊谷宿で店を構え「五嘉棒」を改良して後の「五家宝」の基礎を作った、
等々とされる(仝上・熊谷市史)。
熊谷市のホームページ(https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/meibutsu/gokabo.html)にある、
熊谷で“五嘉棒”の名で売り出されたのが文政年間(1818~29)でした。中山道の宿場町として栄え、市も開かれていた熊谷では、五家宝の原料となる「石原米」と称する良質の米がとれ、田畔あぜではきなことなる大豆が豊富に作られており、水飴の原料となる大麦も多く収穫され、生産に適していたようです。その後“五嘉宝”“五箇宝”の字があてられましたが、「五穀は家の宝である」という祈りを込めて現在の“五家宝”とつけられました、
とするのは、水戸藩の「吉原殿中」系統ということになる。
また、加須市のホームページ(https://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/sangyoukoyou/syoukoushinkou/5653.html)では、
文化(1804 - 1817年)年間に、武蔵国不動ヶ岡不動尊總願寺の門前で「五家宝」として売られてきた、
としているし、その他、
天明の大飢饉(1782 ~88年)の際に武蔵国奈良村(後の熊谷市)の名主が被災者に焼き米を提供し、後に江戸の菓子職人に焼き米を使った菓子の開発を依頼したとする(仝上)、
等々とあるが、大田南畝の随筆『奴凧』(1821年)に、
安永6年(1777年)に日光参詣の道中で食べた「五荷棒」と比べ、今年(1820年)もらった秩父の「五かぼう」は形が大きくおこし米でできている、
という記述があるように、江戸時代より北関東の各地で同名異字の五家宝が作られており、製法も時代や地方によって様々なものがあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%AE%B6%E5%AE%9D)のが実情のようだ。
因みに、水戸の銘菓として知られる「吉原殿中」(よしわらでんちゅう)は、
もち米から作ったあられを水飴で固め丸い棒のようにして、きな粉をまぶした菓子、
であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E6%AE%BF%E4%B8%AD)、「五家宝」の由来といわれるだけあって、よく似ているが、
埼玉の五家宝と比較して吉原殿中の方が大きい(8cm程度)、
とある(仝上)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:五家宝
2020年11月06日
すっとこどっこい
「すっとこどっこい」は、
ばかやろう、
と同類の罵り言葉であるが、元は、
ばかばやしの囃しことば、
である(広辞苑)。「馬鹿囃子(ばかばやし)」は、
神社などの祭礼の山車(だし)などの上で奏する祭り囃子、
で、
大太鼓・締太鼓(付太鼓)・笛・摩鉦(すじがね チョンギリ)を用いるにぎやかな囃子で、多くおかめ・ひょっとこなどの面をつけて踊る、
とあり(大言海・http://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html)、
屋台囃子、
ともいう(デジタル大辞泉)。特に、関東での、
祭囃子(まつりばやし)の一つ、
とされ、
おかめや「ひょっとこ踊り」も合わせて演じられる、
とある(http://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html)。囃子詞は、例えば、北海道民謡『ソーラン節』でいえば、
ヤーレン ソーラン、
や
ハー ドッコイショー ドッコイショ、
のように、歌詞の合間に合いの手のように入れる意味のない掛け声で、現在、「すっとこどっこい」をそのまま囃子詞として用いている地域はないが、それに類似した、
トコドッコイ、
という掛け声を屋台の曳き回しの際に用いている地域が遠州地方にある(仝上)、という。名古屋市に伝わる座敷歌『名古屋甚句』(なごやじんく)では、囃子詞(ことば)として、
トコドッコイ、
が、
アーエ 宮の熱田の 二十五丁橋で エー
アー 西行法師が腰をかけ 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を
誰が熱田と ヨーホホ アー 名を付けた エー
トコドッコイ ドッコイショ
と用いられている、とある(仝上)。「馬鹿囃子」は、
若囃子(わかばやし)の転訛、
とある(大言海)。「若囃子」は、
享保(1716~36)の頃、武蔵葛西金町、香取明神の神主能勢環、村内の若者を集めて若囃子と云ふ一風の囃子を教へ、祭礼に出す。後宝暦三年(1753)、千住に賣女屋の許可あり、代官伊奈半左衛門、若者共の遊興を憂へて、大いに彼の囃子を奨励してより盛んになり、宝暦十二年(1762)より江戸の山王、及、神田明神の祭礼の山車に用ゐられたり。然るに千住の賣女屋、営業の邪魔なるより、罵りて此若囃子を馬鹿囃子と云ひしより、一般に馬鹿囃子の名、弘まれり。若殿様をばかとのさまなどと云ふが如し、
とある(大言海)。この囃子は、
大太鼓一人、締(しめ)太鼓(付太鼓)二人、ちゃんぎり(摩鉦(すりがね))一人、笛一人、別に、手替三人にて、囃子八枚と云ひ、後に祭礼終日につき、大太鼓、ちゃんぎり、手替各一人、笛手替二人にて、一組合十二人になると云ふ、
ものであり(仝上)、
鎌倉拍子、
品川拍子、
などをとって撃った、という(仝上)。「鎌倉拍子」はわからなかったが、「品川拍子」は、
神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されます、
とあり(http://yukiwakai.or2.ne.jp/daibyoushi/index.htm)、多くの曲目があるが、普通は、
「打込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四(し)(仕)丁目(ちょうめ)」「屋台」(切(きり))の順で演奏する、
とある(日本大百科全書)。
こうした「若囃子」は、
里神楽から脱化したもの(広辞苑)、
里神楽から変じたもの(大言海)、
という。「里神楽」は、
禁中の御神楽(みかぐら)に対して、諸社や民間で行う神楽、
を指す。
さて、「すっとこどっこい」の語源だが、
「すっとこ」は「裸体」、「どっこい」は「どこへ」の意で、裸同然の格好でうろつく者を罵ったところからきた(日本語俗語辞典)、
という説がある。「すっとこ」自体に、
はだかのこと、
醜い男をののしっていう、
の意味があることはある(精選版 日本国語大辞典)。別に、「すっとこ」には、
すっとこ被(かぶり)、
という言葉があり、
馬鹿囃子のひょっとこなどが被る手ぬぐいのかぶり方。手ぬぐいを広げて頭をすっぽり包み、顔を出して、顎の部分でその手ぬぐいを結ぶ。ひょっとこかぶり、
の意とする(仝上)。「すっとこ」は、
多くおかめ・ひょっとこなどの面をつけて踊る、
という馬鹿囃子につながってくる(http://www.worldfolksong.com/kotowaza/suttoko-dokkoi.html)。別に、「すっとこかぶり」は、
素男被り(すっとこかぶり)、
とも当て、
頬被りの形で、手拭をぴったりと額に付け、顔の横は耳を隠さずに出すようにする。安来節どじょうすくい踊りの時や滑稽芸で人を笑わせるためや、歌舞伎などの演劇で三枚目を暗示させるために用いる被り方。異説として、この「すっとこ被り」を逆さにして、顎から回し頭頂部で結んだ滑稽を演出した被り方を南瓜被り・唐茄子被りと言う説もある、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8B%AD)、「素」と当てるところには、
はだか、
の意の「すっとこ」の含意もある。
ついでながら、「ひょっとこ」は、
潮吹き面(しおふきめん)、
ともいい、
竈(かまど)の火を竹筒で吹く火男(ひおとこ)の転(広辞苑・江戸語大辞典)、
大小不釣り合いの目と、徳利の如き口の意(大言海)、
と、両説あるが、後者は、
火吹竹で火を吹くため口を尖らした、
お面の様子を言っているので、
火男は東北地方の竈神といい、火男の神像はヒョウトクとも呼ばれる、
とあり(日本語源大辞典)、「火男」説が優勢のようである。その由来は、
舞楽に登場する「二の舞」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449197717.html)に登場する滑稽な役の面が神楽へ移行したのが、滑稽な道化役としてのひょっとこのはじまり、
とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%93)、里神楽(さとかぐら)では、
一連の番数の神楽のほかに番外として舞われる「もどき」と称される踊りにひょっとこの面をつけた踊りが舞われた、
とある(仝上)。
「すっとこ」は、「すっとこ被り」「ひょっとこ」とつながる、ちょっと道化役の語感があるが、「どっこい」は、
民謡などの囃子詞、
として、
やっとこどっこい、ほいさっさ、
お山繁昌と啼く烏、はあ、どっこい、どっこい、
等々とよく使われ、
どっこいしょ、
という言い方も、
草津よいとこ、一度はおいで、どっこいしょ、
というようにもする。「どっこいしょ」は、
力を入れたり、弾みをつけたりする時に発する掛け声、
の意もある。これは、「どっこい」の由来が、
相手の狙いをそらし、または防ぎとめようとする際に自然に発する相撲の掛け声ドコ(何処)へから(毎日のことば=柳田国男)、
「何処へ行くか、遣らぬ」というさえぎりとどめるときの掛け声、「どこえ」の掛け声化した語(江戸語大辞典)、
とする説があるように、両者が掛け合う間合いの含意があり、だから、
どっこい・どっこい、
に、
一方がドッコイと掛け声をかけて力を出すと、他方もドッコイと同じくらいの力を出す意から(上方語源辞典=前田勇)、
両者が綱引きあって釣り合っているようなニュアンスがある。それが、
不意に姿勢が崩れかけて「おっと」と言い、姿勢を崩してなるものかと踏ん張る「どっこい」と言う(実用日本語表現辞典)、
おっとどっこい、
のように、力んだり、弾みをつけるところにも、掛け声の間合いの感じが残っており、囃す合いの手、
どっこい、
どっこいしょ、
と
力む、あるいは弾む、
どっこいしょ、
とはつながっていて、まるで、
「道化役」をからかい気味に、
ひょっとこ、(もっと)やれやれ、(もっと)やれやれ、
と囃しているように感じられる。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月07日
はやす
「はやす」は、
囃す、
と当てる。「囃」(ソウ)は、
会意兼形声。「口+音符雜(ゾウ まじえる)」、
で、
そばから合いの手をいれる、
音楽や舞の拍子を取る時の掛け声、
の意であり(漢字源)、
祇園囃子、
馬鹿囃子、
のように、
歌に合わせて調子を取る鳴り物、
歌なしで楽器のみにて奏する音楽、
の意の(字源)、いわ/ゆる、
おはやし、
の意で使うのは、我国だけのようである。
「はやす」は、
手を打ち鳴らしたり、囃子詞(はやしことば)を唱えたりして、歌舞の調子をとる(一人が歌い、一人がはやす)、
囃子を奏する(笛・太鼓ではやす)、
うまくさそって気分を起こさせる、調子にのせる(声にはやされて踊り出す)、
からかったり、冷やかしたり、ほめたりする言葉を大声で唱える、盛んにいう(いたずらっ子たちがはやす)、
株や商品の市場で、有望なものとして皆が取りざたする(建設株がはやされている)、
といった意味の幅を持つ(広辞苑・大辞林)。その語源は、
ハエ(映)の他動詞形。ハヤシ(早)・ハヤリ(流行)と同根、(前進の)勢いを激しくする意。他から光や音をそのものに加えて、その物が本来持っている美しさ・立派さ・勢いを輝かし、力あらしめる意、
とある(岩波古語辞典)。
栄やすの意、
とある(大言海)のは、この言葉が、
囃、助舞聲、
とある(玉篇)ように、漢字「囃」の原義と近いところの、
聲を出して歌曲の調べを助く、
声をかけて、鼓、笛の音を添えて栄えしむ、
という意味(大言海)から起こったのだということをうかがわせる。その意味では、
映ゆ、
栄ゆ、
と当てる「はゆ」が、
生ゆ(古語大辞典)、
や
晴る(大言海)、
に通ずるとされるように、
他からの光や力を受けて、そのものが本来持つ美しさ・立派さがはっきり表れる、
意であったものが、他動詞となって、
映えさせる、
側になったということになる。だから、名詞化されて、
はやすこと、
の意となった時、
囃、
囃子、
と当て、
能楽・歌舞伎・長唄・民俗芸能など各種の芸能で、拍子、をとり、または情緒をそえるために伴奏する音楽。笛・太鼓・鼓・三味線・鉦などの楽器を用いる(広辞苑)、
意となったのは当然だが、あるいは、
囃、
が本来の意味で、そこから動詞化したのかもしれない。だから、
ハヤシ(拍やし 拍子)、
を語源とするというのが、妥当かもしれない。「拍子」は、漢語の、
ビャクシの音便、
であり、
打楽器の間一種、木で作った釈のようなかたちのもの。二枚で打ち合わせ掌音を出す。神楽・催馬楽などで、歌を歌う人が、曲節の間でこれを打って調子を整える、
とある(岩波古語辞典)ので、まさに、
囃す、
役割である。
「囃子」は、
能楽は、大鼓・小鼓・太鼓・笛の四器で四拍子(シビョウシ)、
神楽囃子は、笛・太鼓を主とし、しばしば鉦を加える、
歌舞伎囃子は、能の小鼓、大鼓、太鼓の四拍子囃子が使われていたが、三味線の登場とともに、三味線が歌舞伎音楽の中心的地位を占める、
とある(岩波古語辞典・http://dev-enmokudb.co-site.jp/phraseology/phraseology_category/kabuki_no_ongaku)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月08日
世界と世界史
K・レーヴィット『世界と世界史』を読む。
著者の、次のことばは印象的である。
「何かを問うこと、そしてそれによってそのことを問題にすることは、与えられたものを超えて問う者だけができる。何かを問うことなしにそのまま受け取る者は、そのことを求め検べつつ問題にすることができない。問題にされうるのは、人が距離をおいたものだけである。(中略)距離をおくということは、世界および自分自身から離れていることによって、自分自身および世界の何の疑いもない自明的存在を放棄したことを意味する。そのように距離をおいて遠ざけることなしには、世界の解明は存在しない。(中略)動物も人間も無言で直接に苦痛を表すことができる。しかし人間だけが、何が苦しいかを言い、それによって自分自身および自分の苦痛に距離をおくことができる。距離をおくというこのすべての人間的態度を特徴づけることがらに、人が相対するものを対象化する可能性が存する。」
それは、「世界」や「世界史」という概念をつかむためには、この世界を、そして、その全体を対象化しなければならない。日本には、「世界」も「世界史」も、近代化する以前、つまり開国するまでは存在しなかった。今日の「世界」は、仏教語の「衆生が住む時空」の意味でしかなかった。つまり、日本には、今日言う、
地球上の人間社会全体、
という意の、
世界、
はなかった。世界が無ければ、
世界史、
もない。そういう対象化する者は、
「そのことによって、世界および自分自身から自分自身を疎外したことになる。人間は、他在にあって自分自身を失わずにいるためには、世界の中へ、何か他の見知らぬものの中へはいるように、よそ者として居をかまえることができ、またそうしなければならない。疎外という距離を保ちながら、人間は、存在するすべてのものに近づき、見かけの上ですでに熟知しているものを不審なものとして習得することができる。もし人間が、自分が浸透している自然と自分を包囲している世界から、それを不審なものと見るほど、自分を遠ざけることができず、植物のように大地に合生して、地面に根を張っているか、あるいは動物のように特別な環境に縛りつけられているとしたなら、人間は自分自身および世界に対して何らかの態度をとることも、自分自身および世界に、それが(自分自身および世界が)何であるかを、問うこともできないであろう。」
といういうマインドは、西欧的だが、それは、『鎖国―日本の悲劇』で、和辻哲郎をして、敗北によって,情けない姿をさらけ出した日本民族の,
科学的精神の欠如,
を嘆かせた「世界的視圏」,特に「視圏」の射程の短さを撃つ言葉につながる気がする。
そのマインドは、ギリシャの、ギリシャ語の「テオリア」、
知識のための知識欲、
から始まる。「実際的に有用な目標をもたない純粋な知識欲」は、
あるものから距離を保つ、
ということが本質的な特徴である。
「あるものから距離を保つということは、世界の中における習慣的な生活から遠ざかったことを意味する。そのように遠ざかって距離を保つことがなければ、いかなる世界解明も存在しない。(中略)そこに、人がある態度をとって対するものの対象化の可能性が存する。」
そして、
存在するものの全体を包括的に把握する者を、
哲学者、
と呼ぶ。
「事物がそのようにあって別のようにあるのではないということに驚異することができる」
それは、
「可視的な世界の驚くべき事実、太陽の規則的な運行、月の盈虧(えいき)と星の運動、一般に天界、そして地上で発生し消滅しながら生きている一切のもの」
に向けられる。ここには今日言う「歴史」はない。経ていく時間は「宇宙」(コスモス)の循環の一つでしかない。アリストテレスは、
「『世界』は、コスモスと同時にウーラノスをも意味する。そのさいウーラノスはもっと外側の天球の包括的なものを、コスモスは包括されたもののそれ自身において組織されたものを表す。両者はあわせて、世界秩序としての世界、宇宙の秩序づけられた支配と管理を表す。」
という世界を描く。ギリシャ人にとって、
死すべき人間に対する永遠の天界、
は、人とは別の世界であり、そこには、
世界史、
は存在しない。しかし、
「ユダヤ教とキリスト教が超世界的な創造者たる神に対する人間の関係に問題を集中してコスモスを軽んずる用になって以来、世界は世界史になってしまった。」
のであり、
「人間があらゆる被造物のなかで神の唯一無類の似姿であり、あるいは選ばれた民として神と契約を結んでいるものとすれば、人間は世界においてある特別な地位――人間のみを神的なものと同類のものたらしめ、『神の死』の後に地上の創造主にするような地位――を占めることになる。」
つまり、「世界」は、ギリシャ的「コスモス」から、
「神によって意欲された創造から、人間のための人間世界になる。」
という、「救済」のための「世界史」になる。この、
救済史、
つまり、
神的な始りから神的な終わり、
を、
約束からその実現(最後の審判)への前進、
とみなしたことが、
ヘーゲルの世界精神の現実化、
という、
キリスト教的信仰の世俗化をもたらし、それが、マルクスの、
史的唯物論、
という終末論の世俗化を理論化に至らしめた。しかし、こうした「何かを目指している歴史」という考え方、
歴史主義、
は根深く、
「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」
になったとし、
「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」
とするハイデッガーですら、
「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」
と、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。だからこそ、ヘーゲルとハイデッガーとは、「異なるものではない」と、著者は言ったのであろう。
「両者は精神史的歴史主義と存在史的歴史主義の同じく近代的な思い上がりの中で動いている。」
と。
「世界は、われわれが『世界の中に在る』というそのつどの歴史的な事実を超えて、存続する。世界と世界史は互いに等置されているのでもなければ、おのずから生きている人間がただちに歴史的実存なのでもない。哲学が昔から要求してきたように、全体において存在するものを単に言葉の上だけでなく真に考察する者は、世界を世界歴史で狭めようとすれば、かならずその主題を取りはずすことになるであろう。ヘーゲルの形而上学的歴史主義、マルクスの歴史的唯物主義、ハイデッゲルの『存在の定め』(中略)はいずれも、人間から出発するがゆえに、世界の理解のためにはひとしく不十分である。」
とし、こう言う。
「おのずから存在するコスモスの全体においては、すべての人間的な言説、すべての饒舌は、自然をつらぬいている無言の沈黙の音のない声を中断するものにすぎない。」
と。ふと、今日の宇宙論においても、同じく「人間から出発する」発想の、「人間原理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86)理論を思い出したように、
「世界を世界史と、そして世界史を人間の作ったものと、取りちがえる」
のは、いまも生きている。
著者は、最後に、
「われわれが知識を有する以前には、山や川が単純に山や川であり、それ以上の何物でもないように見える。われわれがある程度の洞察を獲得すると、山や川は山や川以上の何物でもないことをやめる。……しかしわれわれが完全な洞察に到達すると、山はふたたび単純に山になり、川はふたたび単純にかわになる。」
という禅語を引く。それは、
このようにあって別のようにない、
という世界の承認へとたどり着く。道元の、
而今(じこん)の山水は古仏の道どう現成(げんじょう)なり。ともに法位住じゅうして、究尽の功徳を成ぜり、
という
今、眼前の山水の自然の姿はそのまま仏の悟りであり、それ以上の教説はあり得ない、
と通ずるが、対象化するプロセスを経ていないものは、修行前の「山と川」しか見ることはできないのである。その差は大きい。それは痛烈な警告である。
参考文献;
K・レーヴィット『世界と世界史』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月09日
ゆたか
「ゆたか」は、
豊か、
裕か、
と当てる(日本語源広辞典・大言海)。「豊(豐)」(漢音ホウ、呉音フ、慣音ブ)は、
会意兼形声。峰、鋒などの、丰は、△型にみのった穂を描いた象形文字。豐はその字(ホウ)を音符とし、山と豆(たかつき)を加えて、たかつき(高坏)の上に山盛りに△型をなす穀物を盛ったことを示す。のち、上部を略して豊と書く、
とある(漢字源)。「丰」(漢音ホウ、呉音フウ)は、
象形。封の原字、草の穂が(三角形に)茂るさま。夆(逢の原字、峰、鋒、蜂の音符)、邦、豐の音符となる、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0)。
「ゆたか」は、
豊富・富裕なさま、
広々と余裕のあるさま、
不足なく整っているさま、
六尺豊か、というように他の語について、不足のないことを表す、
といった意味の幅がある(岩波古語辞典 大言海は、他の語につくのは、接尾語として別項を立てている)が、どうやら、
物の豊かさ、
から、
心の余裕、
の意に広がったように見える。
「ゆたか」の語源は、
「ゆた」+接尾辞「か」
とみられる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%9F%E3%81%8B)が、「ユタ」は、
擬音語に基づく、
とする説がある(広辞苑)。日本語源広辞典は、
ユタ(のびやか・ゆったり)の形容動詞化、
とし、
ユタカ→ユタケシ→ユタカナリ、
と変化したとするが、それは、「ユタカ」の形容詞形、
ゆたけし、
を前提にした話で、「ゆたか」の語源とは別のことではないか。確かに「ゆた」は、
寛、
と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、
かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜はゆたにあらましものを、
と万葉集にあるように、
ゆるやかなさま、
ゆったりとしたさま、
の意で載る(仝上。
しかし、「ゆたか」は、たとえば、
「この子をみつけて後に竹取るに、ふしをへだてて、よごとにこがねある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁やうやうゆたかになりゆく」(竹取物語)
というように、
物事の満足りること、
富裕、
の意であり、せいぜい、
嬉しさを何に包まん唐衣袂ゆたかに裁てと言わましを(古今和歌集)、
と、
ゆるやか、
の意である。時系列は前後するが、
ゆた、
の心理的な「ゆるやかさ」と、
ゆたか、
の物理的な「ゆるやかさ」とは、乖離がある。この「ゆた」が「ゆたか」の語源とは思えず、むしろ、「ゆたか」の意味が心理的なものに広がった後のことばなのではないか、と思え、
擬音語に基づく、
という説が、意味ありげに見えてくる。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月10日
こけら
「こけら」は、
杮、
と当てる(広辞苑)。「かき」の、
柿、
とは別字である。「かき(柿)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455683625.html)で触れたように、
「柿(柹)」の字は,
「右側はもと市ではなく,つるの巻いた棒の上端を一印で示した字(音シ)。上の棒の意を含む。柿の元の字はそれに木を加えたもの。かきの皮を水につけ,その上澄みからしぶをとる。」
とある(漢字源)。これは,
「もともとカキという字は『柹』という風に書き、つくりの部分は『し』という音読みで、『一番上』という意味を持っている字です。カキは、皮を水につけて、その上澄みからしぶをとっていたためこの字になりました。そのあと、形が変化し、『柿』という字になったのです。これと似たようなものに『姉』があります。これも『あね』が一番上のため「姊」という字になり、「姉」に変化したんです。」
という説明がよくわかる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810)。ただ,「柹」の字については,『大言海』が,
「正しくは,杮なり,柹は俗字なり。然れども,市(イチ)にて通用す。」
としている。「柿」(シ かき)と「杮」(ハイ こけら)」の区別は,正直つかない。ただ、「杮(こけら)」(漢音ハイ、呉音ホ)の字は、
会意兼形声。「木」+音符「巿」。「巿(フツ:『市』とは別字、『朮』から、右肩点を除いた形が本来の字体)」は「肺」の旁に見られる文字で、左右に切り分けるの意、
であり、「柿(かき)」(漢音シ、呉音ジ)は、
会意兼形声。元の字体は「柹」、旁は、「姊(=姉)」などに見られる蔓の巻いた棒の上部を指したもので「上方の」「上位の」を意味する語。柿の皮を水につけ上澄みから渋を取ったことによるもの、
であり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%AE)、「柿(かき)」の「市」は、
「亠(なべぶた)」+「巾」で、「柿」は、九画、
で、
「柿(こけら)」の「市」は、
「市」で、八画、
であり、「柿(かき)」の、「市」は、「なべぶた」と巾の間に隙間があり、「柿(こけら)」は一本に通っている、という違いがある(https://eigobu.jp/magazine/kokera)。大言海も、
杮の旁の中の竪畫は、上下を貫けり、コケラブキをカキブキとも云ふは、果(くだもの)のカキの字と見誤りて讀むなり、
としている。
「こけら」は、
木屑、
とも当て(広辞苑)、
木材を削るとできる木の細片、また木材を細長く削り取った板、
の意で、
杮板(こけらいた)の略、
でも使う。大言海は、
コケは、木削(コケヅリ)の下略(弓削(ゆけづり)、ゆげ)、ラは、添えたる辞(苔(コケ)をコケラとも云ひ、鱗(コケラ)をコケとのみも云ふ)、
とし、本来は、
木材を、斧又手斧にて、削りて落ちたる細片、いまコバと云ふ、
それが転じて、
特に板屋を葺くのに用ゐる薄き板、大小、種々なり、檜、槙、椹(さはら)などの材にて、長方形に削り成す、長さ六七寸、又、尺余の者あり、幅三寸許、厚さ一分許、こけら板とも云ふ。そぎいた、くれ、こばいた、やねいた。此の板にて屋根を葺きたるを、こけら葺きといふ、
とする。他の、
「木の切屑」のことをコケラ(和名抄)というのはコギレ(木切れ)の転である。また、ケケラ(名義抄)というのはキギレ(木切れ)の点である(日本語の語源)、
コヘラ(木片)の義(言元梯)、
コケは細小の義、ラは助語(類聚名物考)、
コは木、ケラは削ラヌの意(和句解)、
等々、何れも意味は同じである。
削ぎ落す意味の動詞「こく(扱)」や、肉が削ぎ落ちた状態になる動詞「こく(痩)」と同源か。木の表面を削ぎ落したことでできる木片を指し、魚の表面を削ぎ落すことでできる「鱗(こけら)」も同語原、
とある(日本語源大辞典)し、また、
キ音(木・今・金・欣・勤・期・近)をコと発音する例は多い。コノミ(木の実)・コケラ(木切れ)・キコル(木伐る)・ココン(古今)・コンジョウ(今生)・コンゴウ(金剛)・ゴンク(欣求)・ゴンギョウ(勤行)・マツゴ(末期)・ムゴ(無期)・サイゴ(最期)・コノエ(近衛)、
とあり(日本語の語源)、i→oと母音交替することが多い(仝上)、
コギレ(木切れ)→コケラ、
か、
コケヅリ(木削り)→コケラ、
ということになる。
鱗(うろこ)を、
こけら、
と訓ませるのは、
こけら、
に似ているというより、
こけら葺きの形に似る、
というべきだろう(大言海)。「こけら葺き」は、
屋根を、こけらにて葺く、
意(仝上)で、
薄く短い板を重ねて葺く。曲線的な造形も可能で、優美な屋根をつくることができ、主に書院や客殿、高級武家屋敷などに用いられた。耐用年数は25年程度とされる。また、瓦葺の下地として用いられることもあり、土居葺あるいはトントン葺と呼ばれる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%82%89%E8%91%BA)。
「こけらおとし」は、
新しい劇場・舞台ではじめて催される公演のこと、
を指すが、
「こけら」とは木材を加工した時に出てくる木くずのこと。劇場などの新築や改築工事の最後に、内外装の「こけら」を払い落とした(掃除した)、
ことから、完成後初めての興行を言うようになった(http://www.smile-labo.jp/article/15297536.html)。
また、「こけらずし」というのがあるが、
魚肉を飯に載ること、コケラ葺の如き意、飯を魚腹に籠めたる鮨に対する語、
とあり(大言海)、
薄く切った魚肉などを飯の上に並べた姿が、こけら板(屋根を葺くのに用いるスギやヒノキなどの薄い削り板)に似ていることから付いた名である、
ともある(語源由来辞典)ので、「飯鮨」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475973752.html)に対して、飯の上にコケラのように並べたからいうものと思われるが、
魚腹に飯を詰めた丸鮨などに対して言う、
ともある(江戸語大辞典)ので、よく分からないが、
米に恵まれなかった南予の沿岸沿いの人達が、すし飯の代わりにおからを使い、酢でしめた魚を巻いて握ったもの、
を「丸ずし」といった、とある(https://www.pref.ehime.jp/nan53123/yawatahama-hc/hokenjo/resipi/04resipi03.html)のは、郷土料理化したもののようである。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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ラベル:こけら
2020年11月11日
こしき
「こしき」は、
甑、
と当てる。
米などを蒸すのに用いる器。瓦製で、形は丸く、底に蒸気を通す穴がある。のちの蒸籠(せいろう)にあたる、
とある(広辞苑)。
「甑」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、
会意兼形声。曾(ソウ 曽)は蒸籠をのせて蒸す、こしきを描いた象形文字。上部のハ印は、湯気の出るさま。いくえにも重ねる意を含み、「かつての経験が重なっている」意の副詞となった。甑は「瓦(土器)+音符曾」で、曾の原義(こしき)を表す、
とあり(漢字源)、
せいろうを上に重ねて、下から火をもやし蒸気で穀物を蒸す器具、
の意である。「曾」(漢音ソウ・ソ、呉音ゾ・ゾウ)は、
象形。「ハ印(湯気)+せいろう+こんろ」をあわせてあり、うえにせいろうを重ね、下にこんろを置き、穀物をふかすこしきの姿を描いたもので、甑の原字、
とある(仝上)。「粥」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html)で触れたように、弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、
脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、
とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。
弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられ、古墳時代には一般化する(日本食生活史)。
3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、
と見られ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91)、「甑」は、中国で、
新石器時代に袋状をなした三脚を有する鬲(れき)や、底部に若干の穴をほったこしき(瓦+曾)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあった。甑は漢代に使用され、それが南満・朝鮮半島を経て、米の流入とともにわが国に伝わった、
とある(日本食生活史)。「鬲(れき)」は、
古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機。3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸した。鬲と甑を1つと看做した場合には甗(げん)とも称する、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2)。
(饕餮文が刻まれた商代中期の鬲 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2より)
「甑」は、
こそき、
ともいい、
土製の甑のほかに、木製のものもあったので、
橧、
とも当てる(仝上)。
甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。
内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、
のである(日本食生活史)。
古墳時代の遺物に、
竈と釜と甑の一揃いになったもの、
が、発見されており、
土師器(はじき)の竈の上に須恵器の釜が載り、その上に下部に蒸気穴のある甑を置く蒸し器のセットである。釜の底部は黒く焼けた跡がある。この三点を組み立てた高さは約80センチである。土師器は、弥生式土器の流れをくむ黄褐色または赤褐色の土器で、整形された粘土素地を大気中の酸化焔で焼成されるため、多孔質で硬化の度合いは低い。これに対し、須恵器は半密閉の竈の還元焔で、時間をかけて焼かれるので、陶器に近い硬さをもつ帯青灰色の土器である、
とある(http://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/doki/)。
(古墳時代後期、土師器の竈の上に須恵器の釜が載り、その上に下部に蒸気穴のある甑を置く蒸し器のセット http://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/doki/)
「こしき」の語源としては、
カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、
似たものに、
米をかしぐ器の意(名語記・日本釈名)、
動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、
カシキ(炊)からできた(時代別国語大辞典-上代編)、
炊籠(カシキコ)からコシキになった(たべもの語源辞典)、
等々がある。その他、
カシキ(粿器)の意(言元梯)、
コシキ(越器)の義。ものを蒸す時、火気を中にへだてて上へ越すところから(和句解・柴門和語類集)、
木の葉を敷いたり覆ったりしたので木敷(こしき)(たべもの語源辞典)。
出産時のまじないや合図に用いたことからコシキ(児敷)(和訓栞)、
等々があるが、たべもの語源辞典が言う通り、
炊器(かしき)が、コシキになった、
とするのが妥当なのだろう。
参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:こしき
2020年11月12日
呉汁
「呉汁」というものがある。
豆汁、
とも当てる(広辞苑)。
水にひたして柔らかくした大豆をひいた「ご」(豆汁)を入れた味噌汁、
とある(仝上)。
醐汁、
とも当てるが、
呉汁、
も共に当て字である(たべもの語源辞典)。
「ご」は、
豆汁、
と当て、
水に浸した大豆をひきつぶして乳状にしたもの、
で、
豆油、
とも当て、
まめあぶ、
ともいい(デジタル大辞泉)、
豆腐の原料や染物または油絵の彩料に用いる、
とある(広辞苑)。中国でいう、
豆汁(とうじゅう)、
は、中国語で、
豆汁儿、
酸豆汁儿、
といい、
緑豆を煮てから、すりおろして作った豆乳を乳酸発酵させた、少し酸味のある飲料、
であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E6%B1%81)、別のものである。で、
大豆を水に浸し、すりつぶしたペーストを、
ご(豆汁)、
といい、「ご(豆汁)」を味噌汁に入れたものを、
呉汁、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81)のだが、擂り潰した枝豆を入れた味噌汁は、
青呉汁、
あるいは
枝豆呉汁、
というのだそうである(仝上)。「ご(豆汁・豆油)」の語源は、
糊の義か(名語記)、
豆汁をいうコウ(膏)からか(袂草)、
コミヅ(濃水)の下略(鈴木棠三説)、
等々あるが、はっきりしないが、「濃い」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478150705.html)は、古くは接頭語「こ」として、
濃、
と当て、接頭語として、
濃紫(こむらさき)、
濃酒(こさけ/こざけ)、
濃染(こぞめ)、
色や液汁の濃いことを示す(大言海・岩波古語辞典)。この「こ」(濃)はまた、「こ(凝)」と通じる。「濃い」の「こ」の転訛の可能性が高い気がする。
さて、「呉汁」は、
大豆を水につけて軟らかくなったら、擂鉢に入れてかきまわすと豆の表皮がむけるから水を加えて浮いた皮を流す。皮がなくなったら、さらによくすりつぶし、裏漉しにかけて、鍋に入れ、煮出汁を加えてのばす。具には蓮のごく若い葉をつまみ、塩ゆでにしたものを碗に盛っておく。ほうれん草でもよい。鍋の大豆汁に味噌を加えて汁をつくって碗に盛る、
とある(たべもの語源辞典)が、
秋に収穫された大豆が出回る秋から冬が旬で、呉汁に入れる大豆以外の具材は、人参、大根、牛蒡、玉葱等の根菜類、豆腐、厚揚げ、油揚げ等の大豆加工品、葱、芹、唐辛子等の薬味、芋がら、こんにゃく、椎茸、煮干し、鶏肉等で地域毎に様々である、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81)。
擂り潰した大豆と野菜類が豊富に入った呉汁は栄養価が高く体が温まり、冬場の郷土料理として日本各地で昔から親しまれている(仝上)が、大豆を擂らずに、おからをそのまま使って、油揚げやネギを入れた味噌汁を作ることも多かった、という(仝上)。一説に、
厚木地方の農家で、大豆打ちをしたときにこぼれた豆が雨の降られてふくれているのを利用したのが起こり、
という(たべもの語源辞典)。しかし、各地にあるので、何処と地域は限定できまい。
「呉汁」に、
豉汁、
と当てる説もあるが、「豉」は、「納豆」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473658590.html)で触れたように、
中国では、納豆を「鼓(し)」といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキ(久喜)としてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である、
とあり(たべもの語源辞典)、「ご」とは別物である。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月13日
こじり
「こじり」は、
鐺、
と当てる。「鐺」(漢音ソウ・トウ、呉音ショウ・トウ)は、
会意兼形声。「金+音符當(あてる、おしあてる)」
で、
こて、
なべ、
といった意であり、
こじり、
の意で用いるのは、我国だけである(漢字源)。
(後漢・説文解字・小篆 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%90%BAより)
「こじり」は、
璫、
とも当てる(広辞苑)。「璫」(トウ)は、「みみかざり」の意だが、
椽頭(たるきのはし)の飾り、
の意があり、中国では、「こじり」の意は、「璫」の字を当てる(字源)。
さて、「鐺(こじり)」は、ふつう、
刀の鞘の末端につける装飾の金具、
の意で使う(仝上)が、もともと
垂木(たるき)の端、またその飾り、
の意である(仝上)。その意の「こじり」に、大言海は、
木尻、
と当て、
椽(たるき)の端、榱(スイ たるきの意)端、
とする。和名抄には、
榱、椽、太流岐、
とある。垂木(たるき)は、
古くは垂木(たりき)、又は、へぎ、
とある(大言海)。建築における小屋組構造材で、軒桁-母屋-棟木の上に等間隔に渡され、
頂上の棟木から垂らすように斜めに取り付けられているから「垂木」と呼ばれる、
とある(http://www.yaneyasan13.net/rafter)。
一つ草堂あり、津堂と云ふ、其の堂の軒の椽の木尻、皆焦がれたり、
と(今昔物語)ある。たとえば、仏教建築で、
十餘閒の瓦ぶきの御堂あり、たるきのはしばしは金の色なり(栄花物語)、
とあるように、
我が国の垂木は朱色を塗るだけで、一切の文様はありません。ただ、垂木の「鼻・木口」には銅板の透かし彫りに金メッキした「飾金具(青矢印)」を取り付けるかまたは、黄色で装飾いたしました、
とある(https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tarukinooha.htm)のが、「椽端」である。
それが転じて、
木尻の飾りもの、
の意とも使われ(大言海)、
璫、
を当てるのは、もともと「こじり」の意で使うのは、「璫」の字をもってするからである。たとえば、班固・西都賦に、
裁金璧以飾璫、
とあり、その註に、
璫、椽端の飾り、
とあり、和名抄にも、
璫、古之利、
とあるところを見ると、「璫」と「鐺」が混同された、とみられる。しかし、「璫」が、
刀剣の鞘尻、多くは、其端を、金属(かね)、角、等々にて包み、飾りたるものに云ふ、
ようになって、あるいは、
金當の合字、
という(大言海)のが正解なのかもしれない。「鞘尻」の意の「鐺」には、
小尻(広辞苑)、
戸尻(図録日本の甲冑武具事典)、
とも当てる。
(鐺 デジタル大辞泉より)
「こじり」と似た意味で、
石突(いしづき)、
がある。もっぱら、
矛・槍・長刀(なぎなた)の柄の端を包んだ金具、
の意で使われるが、もともとは、
太刀の鞘尻を包んだ金具、
の意であった(広辞苑)。「太刀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.html)で触れたように、佩刀が,
太刀(たち),
であり、腰に佩く。腰に差すのは、
打刀(うちがたな)、
であり、太刀が主に馬上合戦用なのと違い、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀剣である。武士の主流になっていく。
太刀は、後下りに佩くものなり、……太刀を佩きて蹲踞すれば、鞘尻は必ず石へつく、……庭上には、必ず甃(いしだたみ)あるべきゆえ、石づきと云へルカ(刀剣略説)、
とある(大言海)。さらに、
鐺の字を書きたるあるは、かなものの當るといふ二合字なり、
とし(仝上)、「いしづき」にも、
鐺、
を当てていることになる。古くは、
鐺金(こじりがね)、
ともいった(図録日本の甲冑武具事典)らしい。
これが転じて、
戈、槍、長刀などにも云ふ、
ようになる(仝上)。これがさらに転じて、今日、
杖、蝙蝠傘などの柄の地に突く部分に嵌めた金具、
にも云うが、既に古く、
樫の木の棒の一丈余りに見えたるを八角に削って両方に石突をいれ(太平記)、
という用例もある。
(山中鹿之助幸盛 月岡芳年画「芳年武者无類」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8Dより)
なお、「長刀」は、
「薙ぐ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467233028.html)、
「槍」は、
「やり」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451696531.html)、
「刀」は、
「かたな」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html)、
「太刀」は、
「太刀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.html)、
で、それぞれ触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月14日
こんこんちき
「こんこんちき」は、
狐の異称、
だが、いまではほぼ使わない。
江戸時代には、「江戸ッ子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html)が、
大違いのこんこんちきさ、
とか、
あたりきしゃりきのこんこんちき、
とか、
合点承知のこんこんちき、
といったように、
他の語の下に着けて語彙を強調する語、
としても使われた(広辞苑)。また、「すっとこどっこい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478309931.html?1604691323)で触れた、
ばか囃子などの拍子を表わす語、
でもあった(大辞林・精選版日本国語大辞典)。
「こんこんちき」は、
こんこん(狐の鳴き声)+チキ(人)、
とする説もある(日本語源広辞典)が、
こんこんとこんちきの合成語、
とする説(江戸語大辞典)もある。「こんちき」は、
こんきちの下半を転倒した語、
で(仝上)、
彼(あ)の爺は野狐(こんちき)か古狸(ももんじ)のばけたのかもしれねへわい(安政四年(1857)「七偏人」)、
と使われている。
コンチキは、戯れか、語路滑らかならぬためか、吉(きち)を倒に云ふなり(變ちき、鈍ちき、高慢ちき)、
とする(大言海)。ただ、「トンチキ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478114763.html)で触れたように、「変ちき」「高慢ちき」の「ちき」は、「的」の転訛と見る方が妥当と思うが。
「こんきち」は、
狐吉、
とも当て(大言海)、
こんこん、
という狐の鳴き声から、擬人化したもの。
三浦屋の遊女吉野、度々子を産みしとて、子を易くたびたび生める故にこそこんきちさまとひとは云ふなり(寛文(1661~73)「吉原袖かがみ」)、
と使われる。
鳴聲を狐として、擬人したる語(石部金吉、膝吉、臑吉)、
とある(大言海)。「こんこん」は、
狐の鳴き声、
の他、
木質系を軽く打つ音、
軽い咳をする音、
雪のしきりに降る音、
という意もある擬音語であるが、咳の音や雪の音として使われるのは、近代になってからのようで、
かたいものを軽く続けて打ったときに出る音、
は、室町時代からみられる(擬音語・擬態語辞典)とあるが、
狐の鳴き声、
としての擬音は、古く、奈良時代からみられる(仝上)、とある。万葉集に、
さし鍋に湯沸かせこども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐に浴(あ)むさむ、
という歌があり(長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ))、
狐の声「こむ」に、「來(こ)む」(来るであろう)を掛けている、
とある(仝上)。狐の声、
こんこん、
は、しばしば、
來ん来ん(来よう来よう)、
に掛けて聞かれる(仝上)、とある。たとえば、
こんこんと言ひし詞の跡なきはさてさて我をふる狐かも(寛文一二年(1672)「後撰夷曲集」)、
といったように。
ただ、狐の声は、室町時代から江戸時代にかけては、
くわいくわい、
という別の聴き方があり、狂言では、
命を助けうほどに、くわいくわいと啼け(「寝代」)、
とあり、「こんこん」と「くわいくわい」を合体させた、
こんくわい、
と、「後悔」の意味を掛けた聴き方もあったらしい(仝上)。
参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:こんこんちき
2020年11月15日
ごんすけ
「ごんすけ」は、
権助、
と当てる。
江戸時代、下男や飯炊き男などに多い名であったところから、
下男、
しもべ、
の意とされる(広辞苑)。
釈迦も孔子も於三(おさん)も権助も(浮世風呂)、
と使われる。「おさん」は、
御三、
御爨、
とも当て、
おさんどん、
とも呼ばれる、江戸語の、
飯炊き女、
女中、
下女、
を指し(仝上)、広く、
腰元や台所で働くむ下女、
を指す(日本語源大辞典)、由来は、貴族の邸の奥向きで、下婢(かひ)の居るところである、
御三の間の略、
とする説(大言海)と、かまどをいう、
御爨、
に掛けた洒落とする説(広辞苑・日本語源大辞典)等々があるが、何れも、「かまど」と関わるとみていい。「おさん」と「権助」が並んでいるところを見ると、「権助」は、確かに、
人名、
ではあるが、下男の代名詞のように使われている、とみていい。
下男・飯焚男の通名・異称(江戸語大辞典)、
元々「権助」という名前は個人名というより、地方出身の商家の使用人、特に飯炊きの総称で、職業名を示す普通名詞だった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%8A%A9)、
等々とあるのは、そのためかと思われる。『権助芝居』『権助魚』『権助提灯』等々、江戸落語ではおなじみである。しかし、『隠語大辞典』には、
無宿浮浪ノ窃盗犯人、
浮浪窃盗犯を云ふ(関東)、
とあるので、余りいいイメージはなさそうである。ちなみに、
権七、
というのも、
下男・飯焚男の通名・異称、
である(江戸語大辞典)らしい。これは、少し転じて、
安っぽい男、
の意となり、後述の、
居候、
の意の、
権八、
に代えて使ったりする(寛文十二年(1672)風俗通「まだ居候の権七だ」)。
同じ「権」つく名でも、
権太、
となると、
わるもの、
ごろつき、
の代名詞であり、それが、
いたずらで手に負えない子供、
つまり、
腕白小僧、
にも使う。浄瑠璃「義経千本桜」の鮨屋の段の人物、
いがみの権太、
に由来するらしい。
(歌川国貞「いがみの権太」 https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0127より)
食客を権八と云ふ例なり、
とある(大言海)。権八は、
白井権八、
で、
侠客幡随院長兵衛の家の食客だったところから、
居候、
食客、
の代名詞として使われている(広辞苑)。これも、歌舞伎「傾情吾嬬鑑」で演じられたことからきている(大言海)。
(三代目歌川豊国『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%ABより)
それにしても、「権(權)」(漢音ケン、呉音ゴン)は、
はかり、
はかりごと、
の意で、
形声。雚(カン)が音をあらわし、元、木の名。しかし一般には棒ばかりのおもりの意に用い、バランスに影響する重さ、重さをになう力の意となる。バランスを取ってそろえる、
とあり(漢字源)、「権衡」と使われ、「権謀」とつかわれ「権力」と使われるが、別に、
形声文字です(木+雚)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「2つの冠毛と両眼が強調された水鳥」の象形(「こうのとり」の意味だが、ここでは「援」に通じ(同じ読みを持つ「援」と同じ意味を持つようになって)、を意味する「権」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji940.html)、
たすける、
という含意がある。仏教の「権化」「権現」等々とも使い、
かりの、
かりそめの、
という意味もある。そこから、
権中納言、
というような、
定員のほかに仮に任じた官位、
の意や、
権僧正、
というような、
最上位の次の地位、副(そえ)、
の意味がある。「権助」の「権」は、
仮名、
の含意がある。柴田勝家は、通称、
柴田権六、
といった。「通称」は、
仮名(けみょう)、
であり、
江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた名、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_(%E9%80%9A%E7%A7%B0))。「権助」「権太」「権八」は、下男、悪漢、居候の代名詞であった。「権」の字のもつ、まさに、仮に人間界に現われた菩薩を言う「権化」のような、
かりそめの名、
である。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月16日
三成像
白川亨『石田三成の生涯』を読む。
本書は、津軽藩(三成辰姫の子が三代津軽信義)の、三成の裔する三家(杉山、山田、岡家)に連なる著者が、
津軽杉山家の伝承を継承させる、
役割とりしてまとめた。で、
石田三成の生涯、
石田三成とその一族、
の二編にわけて、その検証を図ろうとするものだ。特に、本書が見直しを図ろうとする、江戸時代、特に『甫庵太閤記』等々によって流布された佞臣三成像は、もはや今日、主流ではないが、それでもなお、
太閤の側近にあるを幸いとして、賢良の士を害し、正義の士を賊して大綱に迎合した、
小才子、才に溺れた、
とする説は底流にある。著者は、(大谷)吉継、三成ほど、
愚直で、一途で、要領の悪い人間はいない、
と理解できるようになったとする。これも、もはや、今日、通説に近くなっている。『老人雑記』の、
奉公人は主君より禄を拝領しても、残してはならない。残すのは盗である。また、使い過ぎて借財するのは愚人である、
とか、『甲子夜話』の、
三成は日頃節約を旨として冗費を省けり。その佐和山城の如きも、当時二十三万余石の大名の城としては、建築全般質素なりき。城の居間なども、大概は板張りなれども、その壁は粗壁なりき。また庭園にも樹木の物好きなく、手水鉢なども、粗末な石なりき。当時の人々、城内の様子を見て、すこぶる案外と感ぜしと云う。去れど決して吝嗇ならざりき。吏務に長じたる三成の事なれば、固より処世の原則たる、「入るを計り出るを制する」の注意は寸時も忘れざりき、
等々は、よく知られている。個人的には、三成は、
信長死後、秀吉と対抗した柴田勝家、
に比すべき人物かと思っている。良くも悪くも、豊臣家あるいは織田家の安寧をはかろうとする三成や勝家と比べ、天下を視野に入れている秀吉、家康とは、戦う土俵を異にしていた、と思う。
三成出陣に際して、
散り残る 紅葉はことに いとおしき 秋の名残は こればかりとぞ
と詠んだとされる。意図は明らかである。朱子学の理屈から言うなら、水戸光圀が『西山遺事』で、
石田治部少輔三成は、憎からざる者なり。人各々其の仕うる人の為に、義によって事を行う者は、敵(かたき)なりとて憎むべからず。君臣共に、よくこの心を体すべし、
という通りなのである。
著者は、結論として、三成の挙兵について、「聖戦であったのか」という疑問を、個人的見解として
第一は、秀吉晩年の子として生まれ、その盲愛の中に育ち、秀吉没後は大坂城で真綿にくるまれ、しかも淀君周囲の阿りの中で、果たして天下統治の器量ありや否や、
第二は、三成の純粋な豊臣家想いの真情が、当時の彼の政治的・経済的力量をもって、群雄多き中に於いて果たして何処まで貫き、それを推し通せるか、
第三は、たとえ関ヶ原に於いて勝利を得たとしても、その結果は長期戦の様相を呈することは必然であり、やがて戦国乱世の時代に逆行する可能性が濃厚である。その場合の最大の被害者は民百姓であり、わけても社会的弱者たる老人や女子供である、
と述べ、まとめとしている。しかし、このまとめには疑問を感じる。本書を通して感じたことだが、
俗説にまみれた三成像を見直す、
という意図のわりに、第一の、
淀君、
秀頼、
周辺については、その俗説に則って批判的で、もちろん本書の主眼でないにしろ、資料的検証をしないままにその俗説に基づく貶めたイメージで論を進めている。
さらに、第三の、関ケ原合戦についても、江戸期の俗説をそのまま踏襲して、明らかに東軍側に加担した俗説にもとづいて展開しているだけである。ついでに言うなら、
秀次、
については、もっとひどく、ほぼ俗説のまま、その非を咎めている。
ここでいう俗説とは、三成のそれと同様に、江戸時代に敵役として創り上げられた説であるにもかかわらず、秀次像、秀頼像、淀君像をつくりあげている史料を再検討しようともしていない。三成がそうであるなら、秀次、淀君、秀頼も、同じように貶められていると疑って然るべきであり、江戸期に拵えあげられたそのイメージを疑うべきではなかったか。このことは、三成像の見直しと言いつつ、結局、
身内の身びいき、
としか見られなくなる、ということに著者はいかほど御自覚があるのであろうか。結果として、折角の、
三成像見直し、
の論旨にも、偏りを感じさせてしまう気がしてならない。江戸期の俗説を振り払うためには、ただ三成のみを抽出して、その身を洗い直しても、その周囲の状況そのものも、改めて家康側視点から抜け出して、見直していかなくては、本当の三成の見直しにはなるまい、と思う。もちろん、専門の歴史家ではない著者にそう申し上げるのは、酷なのは承知の上で。
なお、「関ケ原合戦」については、
「戦術の勝利、戦闘の敗北」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478046901.html)、
「関ヶ原の合戦」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470429722.html)。
豊臣秀頼については、
「秀頼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html)、
豊臣秀次については、
「秀次」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/440783746.html)、
「秀次の切腹」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453454065.html)、
小早川秀秋については、
「秀秋」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451148221.html)、
で、それぞれ触れた。
参考文献;
白川亨『石田三成の生涯』(新人物往来社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年11月17日
かかし
「かかし」は、
案山子、
と当てる。
かがし、
とも言う。
鹿驚、
とも当てる(岩波古語辞典)。当初は、
田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近づけないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く、
意で(日本語源大辞典)、そのため、
かがし、
ともある(岩波古語辞典)。元来、
かがし、
または、
かがせ、
で、焼いた獣肉を串に刺して田畑に立て、その臭気を嗅がせて退けた(江戸語大辞典)、ともある。そのため、「かかし」の語源は、
嗅がしの意(岩波古語辞典・類聚名物考・卯花園漫録・柳亭記・俚言集覧・年中行事覚書=柳田国男)、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語(松屋筆記・大言海)、
とする説が大勢である。この「かがし」の意が転じて、
竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。弓矢を持たせたり、蓑や笠をかぶせたりして田畑などに人が立っているように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの、
の意となった(日本語源大辞典)とする。この説によると、人形の意で使われるようになったのは、
比較的新しく、中世頃から、
とある(仝上)。しかし、古く、
あしひきの山田の曾富騰(ソホド)、
と古事記にあるように(岩波古語辞典)、
そおど(そほど)、
そおづ(そほづ)、
と呼ばれ人形があった。「そほづ」は、
そほどの転、
とされる(仝上)。共に、
案山子、
と当てられる。「案山子」は、漢語で、
アンザンシ、
と訓み、
かかし、とりおどし、
の意であり、
案山は、几(キ 机)の如く平たく低き山の義。山田なり、山田を守る主たる義、
とある(字源)。傳燈禄、道膺禅師傳、または會元、五祖常戒禅師の章に、
「主山高、案山低」とありて、案山は低くして机の如く、平らなる山の義なるべく、案山の閒に、耕地ありて、其邉に、鳥おどしのありしより、
とある(字源・大言海)。「梅園日記」(1845)にも、
隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97・大言海・日本語源大辞典)、
僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会、
というのは、中国禅僧の用いた語で、それをかりて、「かかし」に当てた、と思われる(日本語源大辞典・大言海)。
しかし、もともと、古くから、
そほど、
そほづ、
という「人形の人形」があったのだとすると、
かがし(嗅)→かかし、
の転訛はおかしいことになる。「そほづ」「そほど」の語源は、「そほず」は、
雨露にぬれそぼち、山田に立っているところからソボチビト(濡人)の義(和訓栞・大言海)、
シロヒトタツ(代人立)の反(名語記)、
が語源、「そほど」は、
山田の番人などが日に照らされ、風雨に打たれて皮膚が赭色(そおいろ 赤土の色)をしていたところからソホビト(赭人)の転か(少彦名命(すくなびこなのみこと)の研究=喜田貞吉)、
朱人(ソオビト)の約(角川古語辞典)、
神の名ソホド(曾富騰)から(北辺随筆)、
ソホはソホフル・ソホツのソホか。またドは人の意か(時代別国語大辞典-上代編)、
等々の語源説があり(日本語源大辞典)、いずれと決め手はない。しかし「そほづ」は、
久延毘古(くえびこ)、
ともいい、古事記に、
久延毘古(くえびこ)は、今に山田のそほどといふそ、
とある(古語大辞典)。
此神者、足雖不行、盡知天下之事神也、
とある。このとき、「そほど」「そほづ」は、
かたしろ、
ではないか。「かたしろ」とは、
形代、
と当て、
本物の形の代わり、
の意で、
禊・祓などに用いる紙製の人形で、神を祭る時、神霊の代わりとしては据えたもの、
である(古語大辞典)。とすると、神体の代わりに据えた、
カタシロは語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交(子音交替)[th]で、カカシ(関東)・カガシ(関西)になった、
とする説(日本語の語源)が、注目されてくる。「そほど」「そほづ」との関連が見えてこないのが難点であるが、ひとがたの人形だったところは、「形代」らしい。
大言海は、「かかし」を、
鹿驚、
とあてる「かかし」と、
案山子、
と当てる「かかし」を区別している。前者は、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語、
とし、後者は、
鹿驚(カガシ)を立鹿驚(タチカガシ)と用ゐたるを、略したる語、
とする。そして、
鹿驚、
は、獣肉を焼いて串に刺した、
かがし(嗅)、
とし、後者を、
山田のそほづ、
とする。これは見識である。いずれも、役目は、
鳥おどし、
獣おどし、
であるが、
獣の臭い、
と、
神体の形代、
とではギャップがありすぎる。本来異なる由来だったものが、共に、漢語、
案山子、
を当てたことで、
かがし、
と
そほづ、
が混同されていった、ということではあるまいか。
安永四年(1775)の『物類称呼』は、
関西より北越辺かがしと云ふ。関東にてカカシト清みて云ふ、
とする。
江戸時代後半には「かかし」が勢力を増した、
とある(日本語源大辞典)。
(日本の水田にあるかかし https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
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2020年11月18日
釈迦豆腐
「釈迦豆腐」は、
葛粉揚げ、
釈迦揚げ、
とも言う。江戸時代の料理本『豆腐百珍』に、佳品のひとつとして、
釈迦とうふ、
中骰にきり笊籬(いかき)にてふりまはして角とり葛をあらりと米粒ほどに碎き豆腐に纏しつけ其まゝ煠るなり、
とある(http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127)。
豆腐をサイの目に切って角を取り、葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げるものである。別に、
豆腐を中賽に切って、ざるに入れて振り回して、角をとる、
とある(たべもの語源辞典)が、これは、後述の「霰豆腐」と混同したもののようである。
葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げる、
とあるが、
米粒大位の大きさに砕いて豆腐にまぶしてくっつけてから、卵白をといてとうふにまぶしつけてから、油で揚げる、
ともある(仝上)。
「釈迦豆腐」は、
葛粉の粒々を釈迦の螺髪に似せた、
ところからの命名らしい(仝上)。「螺髪(らほつ 呉音で「ホツ」と訓む)」は、
螺(にし)状をした、仏像の髪型、
をいう。
螺髻(らけい)、
ともいう(広辞苑)。
(東大寺大仏の螺髪 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%BA%E9%AB%AAより)
同じ『豆腐百珍』の尋常品の一つとして、
霰豆腐(あられどうふ)、
というのがある。これは、
よく水をおししぼり小骰(さい)に切り笊籬(ゐかき)にてふりまはし角とりて油にてさつと煠(あけ)る也 調味好ミしだひ、
とあり(http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127)、
少し大きなるを松露(しやうろ)とうふといふ、
とある。
この系譜では、今日、
揚げ出し、
と言われるものがある。豆腐だと、
揚げ出し豆腐、
になるが、近世においては、
豆腐に限らず、茄子、大根、芋などについても衣をつけずに揚げ、これを「揚げ出し」と呼びました、
とある(語源由来大全)が、現在では、
揚げ出し、
は「揚げ出し豆腐」を指すのが一般的のようである。「揚げ出し豆腐」は、
片栗粉を豆腐にまぶして揚げたものと、小麦粉をまぶして揚げたものがある、
ようだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%87%BA%E3%81%97%E8%B1%86%E8%85%90)、その「揚げ出し」の由来は、
油で揚げただけで他に手を加えずに出すところから、
揚げることによって水分を出すところから、
出し汁につけて食べることに由来する、
等々ある。
揚げただけで出す、
というところかもしれない。戦前まで、東京都台東区下谷元黒門町(現在の上野池之端)にあった老舗料理屋「揚出し」は、朝早くから揚げ出し豆腐を供し、風呂にも入れるということで吉原帰りの客に有名だった。同店は洋画家の小絲源太郎の生家、
とある(仝上・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1038693185)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2020年11月19日
野球
「野球」というのは、正岡子規が命名したものと思っていたが、そうではないらしい。確かに、
打者、
走者、
死球、
飛球、
四球、
直球、
等々、子規が訳した野球用語は多い(明治29年に新聞「日本」に連載した
随筆「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」)、とされる(http://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html)。しかし、「野球」は、確かに、
野球、
という言葉を、子規は表記しているが、これは、子規の幼名、
升(のぼる)、
にちなんで、
野球(のぼーる)、
という雅号を用いていたもので、「ベースボール」の訳として使用したわけではない。子規自身、その連載の中で、
「ベースボールいまだかつて訳語あらず」
と書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)、とある。
子規が、「野球」という言葉を使ったのは確かであるが、それは、雅号としてであり、明治23年(1890)に使い始めている、ということは、「野球」が「ベースボール」の訳として登場するより前であったことは確かである。しかし、子規が野球に夢中であったことは知られており、
東大予備門(のちに一高)ベースボール部で捕手としてプレイした、
といわれる。ために、
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
国人(くにびと)ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも
若人(わかひと)のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中に
なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに
打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
等々を明治31年(1898)に新聞『日本』に発表(歌集『竹の里歌』(明治37年)所収)しているが、このとき、「野球(のぼーる)」の雅号を使っている。ただ、まだ、この時点では、「野球」という言葉は一般化していなかったようである(https://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201303040003/)。
野球は、
1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後、旧制第一高等学校)で、
教えたのが始まりで(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)、その後、
打球鬼ごっこ、
玉遊び、
底球、
等々と訳されたが、定着せず、初めて「野球」と日本語に訳したのは、
中馬庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ)、
とされる。明治27年(1894)秋、第一高等中学校(1894年第一高等学校に改称)の野球部員であった中馬庚は、彼らが卒業するにあたって「校友会雑誌号外」に書いた文章中に、
野球、
という言葉が登場する(仝上)、という。
「Ball in the field」という言葉をもとに「野球」と命名しました。ベースボールは野原でするので「野球」と説明した(http://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html)、
「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A)、
という。
同僚で名投手の青井鉞男が「千本素振り」をやっている所に中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field-野球」とすることを言いに来た、
と言われている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)。中馬は、第一高等中学校で名二塁手として活躍し、卒業時に描いた「ベースボール部史」は、
翌明治28年(1895年)2月に、学制改革で第一高等学校となったことから「一高野球部史」として発行されました。中馬は、明治30年(1897年)に一般向けの野球専門書「野球」を出版。これは日本で刊行された最初の野球専門書で、日本野球界の歴史的文献と言われています。明治30年代には一般にも「野球」という言葉が広く使われるようになった、
とある(http://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html)。ただ、「ベースボール」の訳語として「野球」が、雑誌や新聞で使われるようになるのはそれから5年ほど後のことになる、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A)。
ちなみに、中馬庚は昭和45年(1970年)には野球殿堂入り(特別表彰)を果たし、子規も、2002年に野球殿堂入りを果たしている(http://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:野球
2020年11月20日
エクリチュール
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』を読む。
本書は、
零度のエクリチュール、
記号論の原理、
の二本の論文を載せる。前者は、
「文語の歴史的条件についての自由な考察である。自由ではありえないエクリチュールを通してつねに自らを意味づけざるを得ない文学のある種のむずかしさ」
を、後者は、ソシュール後の、
「構造主義的言語学の概念」
を叙述している、と著者は「まえがき」で述べる。二つの共通点は、
「通称従属的意味作用(コノタシオン)と呼ばれている同じ言語の事実を扱っている。コノタシオンとは、どのような記号(シーニュ)のシステムの上にあろうと、二次的な意味が発展する現象をいう。」
とし、その「二次的な意味が発展する現象」が、前者は、
「作家の言述(ディスクール)は、それが語っている内容と同時に、それが文学だということを語っている」
ということを、後者は、
「コノタシオンと、その反対命題である意味表示作用(デノタシオン)とが言語学概念のシステムを仕上げている」
ということを分析している、と著者は絵解きしている。
僕には、「エクリチュール」についての論述の方が興味深かった。「エクリチュール」は、英語では、
Writing,mode of writing,
に当たり、敢えて訳せば、
書字、
書法、
書き方、
文章以外の映画・演劇・音楽などの表現法、
等々と説明される。たとえば、
評論モード、
小説モード、
と言ったり、
物語モード、
私小説モード、
と言ったりする、表現の様式を指す、と思われる。バルトは、冒頭、
「エベールは『ペール・デュシェーヌ』紙の記事をいつもきまって、『くそ』とか、『ちくしょう』といった類のコトバではじめたものだった。これらの粗野な口調は別に何も意味(シニフィエ)しはしなかったが、さし示し(シニヤレ)はしていた。何をか? ある革命的シチュエーションの全体をである。だからこれはもはや単に伝達(コミュニケ)したり、表現(エクスプリメ)したりするだけではなくて、言語(ランガージュ)のかなたのものを強いるのが機能であるエクリチュールの見本といっていいし、言語のかなたのものとは歴史であると同時に、そこにおける主体の決意なのである。」
と書き、その文章が時代に対する罵り言葉の中に、革命時の「過激派」であるという言外の意味を滲ませている。この「エクリチュールの見本」は、書き手の選択でもあることを、同時にバルトは言っている。そして、こう補足する。
「告げ知らせるあてなしに書かれる言語というものはないし、『ペール・デュシェーヌ』紙について真実なことはまた、文学についても同様だ。文学も内容や個性的な形式(フォルム)とはちがった何事かをさし示しているはずであり、その何事かはまさしく文学が文学として刻印されるゆえんのもの、つまり自らの囲い(クロチュール)にほかならない。そこから、言語体(ラング)とも文体(スチル)とも関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現様式の厚みのなかである儀式的言語の孤立を明示することをめがけた諸記号(シーニュ)の総体が生ずる。」
この総体、つまりエクリチュールが、
「文学をひとつの制度と位置づけ、明らかに文学を歴史から引き離す傾向をもつ。どんな囲いも永続の観念抜きには作られないからである。」
それは作家の前に、彼の、
言語体(ラング、例えば、日本語、フランス語を指す)、
文体(スタイル、センテンス、句読点、語彙、改行などのその人の文章スタイル)、
とは別に、
「選択を不可避とさせるもののように」
立ち現れ、
「自分が思うままにできないもろもろの可能性にしたがって文学を意味づけることを作家に余儀なくさせる」
と。このとき、エクリチュールは、制度として、あるいは「約束事」として、ある。しかし、
「作家の最初のミブリは、過去のエクリチュールを引き受けるにせよ拒むにせよ、そうすることによって自分の形式の拘束(アンガージュマン)を選ぶことだった。」
だから、エクリチュールは、
「作家がその途中で出会い、眺め、対峙し、引き受けなければならず、作家としての自分自身を破壊しないではけっして破壊できないオブジェ=形式を馴らしたり、はねつけたりする一種の修練」
となった、と。矮小化した言い方をするようだが、たとえば、
小説とはこういうもの、
という制度化したものを崩すのは結構きつく、
これは小説ではない、
といういい方で拒絶されうる、一種、小説というものの、
パラダイム、
である。そうみると、バルトが、
零度のエクリチュール、
あるいは、
エクリチュールの零度、
というものを、
中性のエクリチュール、
と言っていることの意味が、分かってくる。現代の最先端の作家が何を意識的に試みているかは、僕にはわからないが、
小説であるという結構、
をどう崩すか、逆にいうと、文学を、
どう書くか、
が、今日の作家の最大の眼目であった。しかし、今日、それはほぼ崩壊しているように、僕は感じられてならない。
「自由としてのエクリチュールはほんの一瞬にすぎない。その瞬間は歴史のもっとも明白な一瞬のひとつである。というのは、歴史とはつねに何よりもまず選択であり、その選択の制限なのだから。」
とし、本論文の最後を、
「エクリチュールの多様化は、文学が自分の言語をつくり出し、もっぱら投企となるかぎりにおいて、新しい文学を設定する。」
と締めくくる。しかし、いま、今日、少なくとも日本では、新しいエクリチュールが生まれているとは、僕には思えない。
ちょっと蛇足だが、言語をコードとみなしたとき、
「コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。」
という(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)。エクリチュールは、モードとみなすと、文脈はからは自由にはなれない。文脈を、歴史と言い換えてもいい、社会、政治、といいかえてもいい。今日、その呪縛が、強まっている、と言えるのかもしれない。そこから自立しようとするには、相当の膂力が要る。そんな作家は、現在、少なくとも日本にはいない、と僕は思う。
さて、もう一編の論文、
記号論の原理、
は、僕にはいただけなかった。言語を、
コミュニケーションの手段、
と考え、コード(言語)と意味だけに細分化しても、言葉に出されたものの深奥はつかめない、と思えてならない。僕が、ソシュールをあまり買っていないせいかもしれないが、
「『言(パロル)』の言語学と『言語(ラング)』の言語学を対立させるソシュール的見地は、承認し難いことである。それは宛も、個々の動物の外に、帰納的概念である哺乳動物がそれと同列同格に対象として存在すると考へることに等しい。右の如き結論は、畢竟するに具体的な『言(パロル)』循行が科学の対象たるには、混質的にして科学的考察に堪えへないとして、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとしたことに起因する。(中略)絵画は種々なる要素の混淆から成立してゐるにも拘わらず、絵画としての統一原理を持ってゐる。言語に於いても全く同様であることを知る必要がある。」(時枝誠記『国語學原論』)
とする時枝誠記の主張に賛成である。要素に分解して、それを並べて直しても、意味は通ずるが、文章にはならず、まして文仕様のもつ言葉の奥行きは見えてはこない。たとえば、
「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
予想の否定 過去
雨がふら なく あっ た
というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)、
という複雑な言葉の、つまり、
話者にとって、語っている「いま」からみた過去の「とき」も、それを語っている瞬間には、その「とき」を現前化し、その上で、それを語っている「いま」に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている「とき」の中にある語られている「とき」に他ならない、
という(「語りのパースペクティブ(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm)」)、何重にもわたる語りの入子構造は、ソシュールの言語構造論からは、ほとんど立ち入り不可能だろう。その意味で、ぼくには、僭越ながら、
記号論の原理、
は、ほぼ薄っぺらに、「象の背中」をなぞっただけのように思えてならなかった。
語る、
あるいは、
書く、
は、ただ能記(シニフィアン 記号表現)を並べただけは、単語の所記(シニフィエ 意味内容)はわかっても、調度英語の単語が理解できても、語られた(書かれた)文章の奥行きが理解できるわけではない、というのと同じである。
参考文献;
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』(みすず書房)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
言葉の構造と情報の構造」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm)
語りのパースペクティブ」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95