2020年11月20日

エクリチュール


ロラン・バルト『零度のエクリチュール』を読む。

零度のエクリチュール.jpg


本書は、

零度のエクリチュール、
記号論の原理、

の二本の論文を載せる。前者は、

「文語の歴史的条件についての自由な考察である。自由ではありえないエクリチュールを通してつねに自らを意味づけざるを得ない文学のある種のむずかしさ」

を、後者は、ソシュール後の、

「構造主義的言語学の概念」

を叙述している、と著者は「まえがき」で述べる。二つの共通点は、

「通称従属的意味作用(コノタシオン)と呼ばれている同じ言語の事実を扱っている。コノタシオンとは、どのような記号(シーニュ)のシステムの上にあろうと、二次的な意味が発展する現象をいう。」

とし、その「二次的な意味が発展する現象」が、前者は、

「作家の言述(ディスクール)は、それが語っている内容と同時に、それが文学だということを語っている」

ということを、後者は、

「コノタシオンと、その反対命題である意味表示作用(デノタシオン)とが言語学概念のシステムを仕上げている」

ということを分析している、と著者は絵解きしている。

僕には、「エクリチュール」についての論述の方が興味深かった。「エクリチュール」は、英語では、

Writing,mode of writing,

に当たり、敢えて訳せば、

書字、
書法、
書き方、
文章以外の映画・演劇・音楽などの表現法、

等々と説明される。たとえば、

評論モード、
小説モード、

と言ったり、

物語モード、
私小説モード、

と言ったりする、表現の様式を指す、と思われる。バルトは、冒頭、

「エベールは『ペール・デュシェーヌ』紙の記事をいつもきまって、『くそ』とか、『ちくしょう』といった類のコトバではじめたものだった。これらの粗野な口調は別に何も意味(シニフィエ)しはしなかったが、さし示し(シニヤレ)はしていた。何をか? ある革命的シチュエーションの全体をである。だからこれはもはや単に伝達(コミュニケ)したり、表現(エクスプリメ)したりするだけではなくて、言語(ランガージュ)のかなたのものを強いるのが機能であるエクリチュールの見本といっていいし、言語のかなたのものとは歴史であると同時に、そこにおける主体の決意なのである。」

と書き、その文章が時代に対する罵り言葉の中に、革命時の「過激派」であるという言外の意味を滲ませている。この「エクリチュールの見本」は、書き手の選択でもあることを、同時にバルトは言っている。そして、こう補足する。

「告げ知らせるあてなしに書かれる言語というものはないし、『ペール・デュシェーヌ』紙について真実なことはまた、文学についても同様だ。文学も内容や個性的な形式(フォルム)とはちがった何事かをさし示しているはずであり、その何事かはまさしく文学が文学として刻印されるゆえんのもの、つまり自らの囲い(クロチュール)にほかならない。そこから、言語体(ラング)とも文体(スチル)とも関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現様式の厚みのなかである儀式的言語の孤立を明示することをめがけた諸記号(シーニュ)の総体が生ずる。」

この総体、つまりエクリチュールが、

「文学をひとつの制度と位置づけ、明らかに文学を歴史から引き離す傾向をもつ。どんな囲いも永続の観念抜きには作られないからである。」

それは作家の前に、彼の、

言語体(ラング、例えば、日本語、フランス語を指す)、
文体(スタイル、センテンス、句読点、語彙、改行などのその人の文章スタイル)、

とは別に、

「選択を不可避とさせるもののように」

立ち現れ、

「自分が思うままにできないもろもろの可能性にしたがって文学を意味づけることを作家に余儀なくさせる」

と。このとき、エクリチュールは、制度として、あるいは「約束事」として、ある。しかし、

「作家の最初のミブリは、過去のエクリチュールを引き受けるにせよ拒むにせよ、そうすることによって自分の形式の拘束(アンガージュマン)を選ぶことだった。」

だから、エクリチュールは、

「作家がその途中で出会い、眺め、対峙し、引き受けなければならず、作家としての自分自身を破壊しないではけっして破壊できないオブジェ=形式を馴らしたり、はねつけたりする一種の修練」

となった、と。矮小化した言い方をするようだが、たとえば、

小説とはこういうもの、

という制度化したものを崩すのは結構きつく、

これは小説ではない、

といういい方で拒絶されうる、一種、小説というものの、

パラダイム、

である。そうみると、バルトが、

零度のエクリチュール、
あるいは、
エクリチュールの零度、

というものを、

中性のエクリチュール、

と言っていることの意味が、分かってくる。現代の最先端の作家が何を意識的に試みているかは、僕にはわからないが、

小説であるという結構、

をどう崩すか、逆にいうと、文学を、

どう書くか、

が、今日の作家の最大の眼目であった。しかし、今日、それはほぼ崩壊しているように、僕は感じられてならない。

「自由としてのエクリチュールはほんの一瞬にすぎない。その瞬間は歴史のもっとも明白な一瞬のひとつである。というのは、歴史とはつねに何よりもまず選択であり、その選択の制限なのだから。」

とし、本論文の最後を、

「エクリチュールの多様化は、文学が自分の言語をつくり出し、もっぱら投企となるかぎりにおいて、新しい文学を設定する。」

と締めくくる。しかし、いま、今日、少なくとも日本では、新しいエクリチュールが生まれているとは、僕には思えない。

ちょっと蛇足だが、言語をコードとみなしたとき、

「コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。」

という(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)。エクリチュールは、モードとみなすと、文脈はからは自由にはなれない。文脈を、歴史と言い換えてもいい、社会、政治、といいかえてもいい。今日、その呪縛が、強まっている、と言えるのかもしれない。そこから自立しようとするには、相当の膂力が要る。そんな作家は、現在、少なくとも日本にはいない、と僕は思う。

さて、もう一編の論文、

記号論の原理、

は、僕にはいただけなかった。言語を、

コミュニケーションの手段、

と考え、コード(言語)と意味だけに細分化しても、言葉に出されたものの深奥はつかめない、と思えてならない。僕が、ソシュールをあまり買っていないせいかもしれないが、

「『言(パロル)』の言語学と『言語(ラング)』の言語学を対立させるソシュール的見地は、承認し難いことである。それは宛も、個々の動物の外に、帰納的概念である哺乳動物がそれと同列同格に対象として存在すると考へることに等しい。右の如き結論は、畢竟するに具体的な『言(パロル)』循行が科学の対象たるには、混質的にして科学的考察に堪えへないとして、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとしたことに起因する。(中略)絵画は種々なる要素の混淆から成立してゐるにも拘わらず、絵画としての統一原理を持ってゐる。言語に於いても全く同様であることを知る必要がある。」(時枝誠記『国語學原論』)

とする時枝誠記の主張に賛成である。要素に分解して、それを並べて直しても、意味は通ずるが、文章にはならず、まして文仕様のもつ言葉の奥行きは見えてはこない。たとえば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
        予想の否定  過去
  雨がふら  なく  あっ た
 というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)、

という複雑な言葉の、つまり、

話者にとって、語っている「いま」からみた過去の「とき」も、それを語っている瞬間には、その「とき」を現前化し、その上で、それを語っている「いま」に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている「とき」の中にある語られている「とき」に他ならない、
という(「語りのパースペクティブhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm」)、何重にもわたる語りの入子構造は、ソシュールの言語構造論からは、ほとんど立ち入り不可能だろう。その意味で、ぼくには、僭越ながら、

記号論の原理、

は、ほぼ薄っぺらに、「象の背中」をなぞっただけのように思えてならなかった。

語る、
あるいは、
書く、

は、ただ能記(シニフィアン 記号表現)を並べただけは、単語の所記(シニフィエ 意味内容)はわかっても、調度英語の単語が理解できても、語られた(書かれた)文章の奥行きが理解できるわけではない、というのと同じである。

参考文献;
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』(みすず書房)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm
語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:43| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする