2020年12月01日
三成の裔
白川亨『石田三成とその子孫』を読む。
「あとがき」にあるように、
「私の二十年に及ぶ石田三成の足跡追及の旅も、本書をもっておわることになる」
とあるように、
白川亨『石田三成の生涯』(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E4%B8%89%E6%88%90%E5%83%8F)、白川亨『石田三成とその一族』(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AE%E6%A4%9C%E8%A8%BC)、と続いた著作のまとめと補綴の役割を果たす本であるが、他の著作と比べて、複線化しておらず、筋がシンプルで、いちばん読みやすい。探索の積み重ねの成果かもしれない。本書では、
関ヶ原戦後の北政所の心の変遷と、北政所に近侍した人々との決別の背景、
徳川家康と石田三成は、徳川家康の六男・忠輝の生母於茶阿方を介して姻戚関係にありながら、豊臣本位制を貫かざるを得なかった三成の心の葛藤と、併せて徳川家康の関ヶ原戦後の心の変遷、
家光の乳母として江戸城入りした春日局が、石田三成の次女の孫(お振り)を自らの養女として、家光の最初の側室にした背景や、お振りの方の祖母・祖心尼と春日局の密接な関係、
等々に焦点を絞り、これまでの補足としている。
北政所は、通称武断派と呼ばれる人たち(福島正則、加藤清正等々)に、家康に味方するよう命じたとされるのが通説(?)とされる。しかし、本書では、北政所周辺の人々の去就について、こう書く。
「北政所の……兄の木肥後守家定をはじめ、その子供たち(細川忠興の妹婿・木下延俊と、出家した紹叔を除く)全員が西軍として戦い、戦後失領しており、特に木下秀規は『大阪夏の陣』には大坂城に籠城、豊臣家に殉じている。(中略)北政所の側近一号東殿局は大谷吉継の母であり、執事の孝蔵主一族は、孝蔵主が親代わりとして養育した子供たち全員が、西軍として戦っており、孝蔵主の末弟河副源次郎正俊は三成と同陣して西軍として戦っている。」
つまり、この事実が通説を痛撃している。通説というものが、学者の怠慢であり、如何に前例踏襲しているかの見本だということだ。この文脈の中で、面白い記述は、
「徳殿とは孝蔵主の姪であり養女であり、秀吉の生前に北政所と秀吉の請いにより秀吉の側室となり一女を生した方である。秀吉の死後慶長三年(1598)、河副家の郷里(近江野田庄)に帰るが、不幸にして翌慶長四年正月病死している。その一女は丹羽家の家臣・島井伝右衛門に嫁ぎ三女を生し、その三人の娘は丹羽家の家臣・島井勘右衛門、成瀬三郎左衛門、駒塚茂兵衛に嫁ぎ、その子孫は今日に続いている。したがって太閤秀吉の血流は女系ではあるが今日まで続いていることになる。」
という伝承(河副家文書)があることだ。こういうことは、この著者のような血脈を辿ることに執念を燃やした人にしかたどり着けないことなのだろう。真偽は別として、実に愉快である。
三成の次女は、北政所に仕えて、後に上杉家の家臣に(蒲生家の移封に伴い)転じた岡半兵衛重政に嫁したが、この半兵衛は、孝蔵主の義甥にあたる。
「孝蔵主の長甥・河副久左衛門正真の嫁が岡半兵衛の姉であり、岡半兵衛の妻が石田三成の次女であり、……(津軽家へ嫁いだ三成三女・辰姫は)孝蔵主や於茶阿(忠輝生母、三成長女の婿山田隼人正勝重の叔母)にとって義姪にあたる。」
と、ここで家康と三成とが姻戚関係になる。この真偽は、著者の著書に当たって確かめてみてほしいが、あり得ないことではない、と僕は思う。武家の世界は、結構狭い。
三成の人となりを考えるとき、家康の、
「若江の八人衆はかつて秀次の家臣なり、秀次は石田治部の讒言により切腹させられたという、ところが若江の八人衆は関ヶ原では石田治部と共に戦っている」
が残したとされる言葉が興味深い。甫庵太閤記の残した惡名は、ひとつひとつの事実の積み重ねで、ちょうどオセロゲームのように、一気にひっくり返る気がする。つくられたイメージは、綻びがある。石田一族の墓塔を建立し供養を続けた春屋宗園、佐和山に「赴かんとするの志ありしも、(関ヶ原合戦で)果たさざりし」という藤原惺窩にしろ、三成が亡母のために建立した瑞嶽寺に一年とどまった沢庵にしろ、三成周辺の人々の三成への親和度は並々ならないものがある。
「石田三成の一族のその後を追い続けて感じたことは、その庶子や甥までを含め、その殆どに諸侯が保護を加えている。佐竹藩はもちろん岩城藩、山内一豊の甥・山内一唯、相馬義胤の相馬藩、さらには津軽家とは犬猿の仲とされる南部藩でも、佐野分藩七戸藩の重臣に起用している。『姦佞の輩』と呼ばれる人間は、『権力に取り入るのが巧みであり、その反面、弱い者を苛める』のが一般的である。苦境に立つ人々には決して手を差し伸べないのが特徴である。」
という著者の感慨が印象的である。それは、水戸光圀が『西山遺事』で、
石田治部少輔三成は、憎からざる者なり。人各々其の仕うる人の為に、義によって事を行う者は、敵(かたき)なりとて憎むべからず。君臣共に、よくこの心を体すべし、
と言う、武家社会に通底するイメージだったのかもしれない。朱子学に則る限り当然の帰結かもしれない。
著者は「おわりに」に、
三玄院の三成の墓碑には四百回忌の法要を行った卒塔婆が三本供えられていた。しかも三本とも木下姓の方々である。恐らく北政所の兄、木下家定公のご子孫と考えられる。」
と書く。心に響くエピソードである。
参考文献;
白川亨『石田三成とその子孫』(新人物往来社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月02日
坐禅豆
「坐禅豆」は、
ざぜんまめ、
と訓むが、
ざぜまめ、
とも言う(広辞苑)。
黒豆を甘く煮しめたもの。坐禅の際、小便を止めるために食べる習わしがあったことから、この名を得た、
という(仝上)。黒大豆は、
大豆の豊富な健康機能性成分に加え、ポリフェノールの一種、アントシアニンも含まれるため、夜間頻尿の改善にも役立つらしい、
とある(http://brandnewfunk.blog.fc2.com/blog-entry-149.html)。もともとは、岩手県で採れる、俗に、
雁喰い豆(がんくいまめ)、
を指した、ともある(http://www.shiba-shinise.com/column/tamakiya01.html)。だから、
僧侶が座禅を組む時に食べた、
とする説の他に、
雁喰い豆の形が座禅の組足に似ているからその名がついた、
とする説もある(仝上)。
「雁喰い豆」は、
黒い平べったい黒豆で、豆の腹に付いたスジが特徴です。通常1~3本程度あるこのスジが鳥(雁)がくちばしでつついたような跡に見えたり、同じく鳥(雁)が歩いた跡のような足跡にたとえて、雁喰い豆と呼ばれる、
とある(https://www.kenkoutuuhan.com/gankui_ad1.html)。
東北地方でも岩手県や山形県などの一部の地域で作られている大豆です。その地方にもともとある在来の大豆(通常は地大豆と呼ばれる)、
である(仝上)。
「坐禅豆」は、
天明(1781~89)のころには煮豆屋が坐禅豆という名で黒豆を煮て売り、大流行した、
とある(たべもの語源辞典)。
「ザゼン、ザゼン」と江戸市中を天秤担ぎながら行商して歩いた、
とある(http://www.shiba-shinise.com/column/tamakiya01.html)のはそれである。ただ、
甘く煮た黒豆は江戸時代から有名な料理茶屋の八百善が始めた、
と言う説もあるらしい(https://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQ)。
異説に、「坐禅豆」は、
「座禅納豆」と呼ばれ、唐納豆や寺納豆など、大豆を塩と麹で発酵させ、その後乾燥させて作られたものです。小用を遠ざける効果があったとされ、僧が座禅をする時に食べたため、この名前が付いたようです、
とある(https://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQ)が、これは、
坐禅納豆、
と呼ばれた、
浜納豆、
を指す(たべもの語源辞典)のではないか。「寺納豆」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473658590.html)で触れたように、「浜納豆」は、今日の「納豆」、つまり、
糸引き納豆、
とは別種で、
塩辛納豆、
寺納豆、
大徳寺納豆、
唐納豆、
等々とも呼ばれたものだ。大言海も、「坐禅納豆」の項で、
坐禅する僧、これを食へば、小便を止むると云ふ、法論味噌(ほふろみそ)も然り、
とし、
浜納豆、
のことだとしている。そして、「坐禅豆」の項では、
坐禅納豆と同じ、
としつつ、
今日東京では黒大豆を煮て、砂糖、醤油にて甘く煮しめたるものを云ふ、
としている。江戸語大辞典も、すでに、
黒大豆を甘く煮しめたもの、
としている。ただ、
僧が坐禅の時、小便を少なくするために食うのでいう、
とも、
坐禅納豆の名を真似たもの、
ともいうともあり、
ここの坐禅豆は、さりとは能い(明和八年(1771)「遊婦多数奇」)
の用例が載る。とすると、一つの考え方は、いずれの時点かまでは、
坐禅豆、
は、
浜納豆、
と同じだった、ということが考えられる。で、それを真似て、黒大豆を煮しめたものを、
坐禅豆、
と名づけた、ということになる。砂糖(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474151591.html)で触れたように、吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励し、とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期(1830~44)に国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになって、砂糖が流通する以降かと思われる。だから、元禄八年(1695)の『本朝食鑑』の黒大豆の項に、
醤油や味噌を作るのには用いず、薬酒や納豆を作るものが多かった、
とある(https://www.videlicio.us/CULTURE/CYFQrqnQ)。この時点は、浜納豆のようである。享保一五年(1730)『料理網目調味抄』に、「坐禅豆」は、
硬く煮るは豆を布巾にて拭きて、生漿にて炭火にて煮るくろ豆は丹波笹山名物なり、
とあるらしく(仝上)、「漿」は「漿油(しやうゆふ)」とされている(仝上)が、まだ甘くする砂糖は使われていない。しかし、
煮て乾燥させたものから、次第に豆を煮たものへ、
と変わりつつある(仝上)、と見ることができる。「黒豆」も、
丹波笹山産、
とある。ブランドにこだわり出している。江戸時代から、兵庫県丹波篠山市付近より選抜育成された
丹波黒、
は、京都府京丹波町の、
和知黒、
とともに、代表的な品種である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%B1%86)。
今日、「坐禅豆」は、
熊本の郷土料理、
として知られる煮豆である。豆がしわしわで硬いのが特徴、とか。
(熊本の郷土料理「ざぜん豆(座禅豆)」 https://cookpad.com/recipe/3935217より)
なお、「坐禅」の名のつくものに、
坐禅草、
というのがある。
仏像の光背に似た形の花弁の重なりが僧侶が座禅を組む姿に見える、
のが、名称の由来とされ、花を達磨大師の座禅する姿に見立てて、
ダルマソウ(達磨草)、
とも呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A6)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月03日
さつま揚げ
「さつま揚げ」は、
薩摩揚げ、
とあてるが、
すり身にした魚肉に、食塩、砂糖、でんぷんなどを加え、適当な形にして油で揚げたもの、
で、
人参の細切り・笹がき牛蒡などを混ぜる場合もある、
とある(広辞苑)。大言海には、
魚肉を細かく叩きたるものと、鹽、豆腐、片栗粉とを、煮出汁にて擂りまぜ、茹でたる胡蘿蔔(にんじん)を細く刻みたるを加へて、三寸許りに扁(ひらた)く固め、胡麻の油にて揚げたるもの、
とする。この違いは時代によるものか、地域差かはわからない。
江戸で、
薩摩のつけ揚げ、
からそう称したが、上方では、
てんぷら、
と呼んだりする(仝上)いわゆる「天麩羅」とあてる「てんぷら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470781916.html)については触れた。「さつま揚げ」は、
中国由来の料理が琉球に伝わり、薩摩を経由して全国に広がった、
とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8F%9A%E3%81%92)。
沖縄の製法を、薩摩に傳へたるもの。沖縄にては、何物にも、豚の脂に揚げたるを、テンプラと云ふ、
とある(大言海)。
島津斉彬が諸藩のかまぼこなどをヒントに鹿児島の高温多湿の風土にあう揚げ物料理を考案させた、
との説もある(仝上)が、「さつま揚げ」は『守貞謾稿』(1837年)、『虚南留別志(うそなるべし)』(1834年)に登場しており、江戸時代後期には一般的に普及していた(https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/06/post-1638.html)とされる以上、この説はあり得ない。
野菜天ぷらを琉球語、
アンダーギ、
魚肉のすり身の揚げ物を琉球語で
チキアーギ、
チキアギ、
と言ったらしい。その「チキアーギ」が、薩摩で訛って、
つけあげ、
となった(https://ameblo.jp/alf0225/entry-12415621161.html・たべもの語源辞典)というのが妥当ではないか。石川、富山、長野や静岡以東の主に東日本では、
さつま揚げ、
西日本では、
てんぷら、
と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E6%8F%9A%E3%81%92)。
宮崎あたりでも、天ぷらそばというと、そばの上に薩摩揚げののったものが出る、
とある(たべもの語源辞典)。
油を使う料理は、「普茶料理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.html)や「卓袱」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.html)で触れたように、
普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす(料理山家集)、
というように、中国由来である。
ネットでの「呼称調べ」(https://j-town.net/tokyo/research/votes/243110.html)では、東京でも、
天ぷら、
と呼ぶ人が、「さつま揚げ」と呼ぶ人を10とすると6くらいになる。地方出身者が多いせいかもしれないが。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:さつま揚げ
2020年12月04日
あたりきしゃりき
「あたりきしゃりき」は、
あたりきしゃりきのこんこんちき、
とか、
あたりきしゃりき車引き、
と言ったりする。「こんこんちき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478473295.html)については触れたが、「あたりき」は、
(職人のことば。主に明治期に用いた)「あたりまえ」を語呂よく言った語、
とある(広辞苑)。
あたりきしゃりき車引き、
は、
あたりまえであるということの語呂合わせ、
だが、
「き」は単なる言葉癖で、「りき」から語呂合わせで「車力」を出しています、
と絵解きしている(落語あらすじ事典)ところからも、明治以降の言い方なのは確かであるが、
江戸・東京の職人言葉で「あったりめえよ」といったところ。「あたぼう」と同義です、
ともあり(仝上)、「江戸ッ子」気質が残っていたということのようである。
昭和中期辺りまでは「あたりきしゃりき」まではまだ使われていました、
ともある(仝上)。ずいぶん昔、まだモノクロテレビ時代の『てなもんや三度笠』という番組で、
俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー、
と言って、あんかけ時次郎役の藤田まことが、一世を風靡したが、この
あたり前田のクラッカー、
も、
あたりまえ、
にスポンサーの前田製菓に引っ掛けた地口(じぐち)だったが、これもそれと同類になる。「あんかけ時次郎」自体が、長谷川伸の、
沓掛時次郎(くつかけときじろう)、
のもじりであり、パロディになっている。「もじり」は、
捩(もぢ)り、
とあて、「もじる」の原意は、
よじる、
ねじる、
だが、
(諷刺や滑稽化のために)元の文句、特に有名な詩句などを、他の語に似せて言い変える、
意である(広辞苑・大言海)。この語源は、
モトリチガフの義(和句解)、
モトル(戻)の義(言元梯)、
モジ入るの意。モは数奇の意、ジは数多く渡り領る意(国語本義)、
等々とある。「もぢ」に、
綟
とあて、
麻糸をもじって目を粗く負った布、
の意があるが、
錑、
とあて、
錑錐(もじぎり)、
の意の、
先が螺旋(らせん)状をし、丁字形の柄をまわしながら穴をあける錐、
で、
南蛮錐、
もじ、
もじり、
というものがある(大言海・デジタル大辞泉)。
南蛮錐、
という名からみて、室町末期のものとみられ、日葡辞書に載る「もじり」と重なる。深読みかもしれないが、
よじる、
ねじる、
よりは、
孔を穿つ、
含意を採りたい気がする。
地口、
の語源については、江戸語大辞典は、
土地の口合(くちあい)の意、
似通った詞の意の、似口(じぐち)、
の二説を挙げる。
ヂ(地)は江戸の意で、グチ(口)は言葉の意。「当地の口あひ」の略(兎園小説外集・俚言集覧・三養雑記)、
は、前者である。他に、
モヂリが本義で、モヂグチの略(嬉遊笑覧)、
という説もある。
似口(じぐち)、
は面白いが、「似」(漢音シ、呉音ジ)で、「ヂ」とは訓まないのではないか。「地」(漢音チ、呉音ジ(ヂ))の、
「土地の口合(くちあい)」を意味し、京阪で行われた「口合」に対し、享保(1716~36)の頃江戸で流行ったものを指す、
とするのが妥当のようである。「地口」は、
同音意義のしゃれ、
の意だが、
語呂合わせ、
と区別するときは、原句の一語一語を五十音図の各行各列いずれかに通じる他の語に言い換え、意味のまったく異なる別の句にするものをいい、その規則の寛大なものを語呂合わせとするのであるが、実際上両者の区別は厳格に守られてはいない、
とある(江戸語大辞典)。
当初は語に二重の意を重ね合わせる単純な言語遊戯であったが、より長い文句の一語一語を、五十音図の各行各列のいずれかに通ずる後に置き換えて滑稽な句をつくるものをさすようになる、
とある(日本語源大辞典)のは、その意味である。「地口歌」は、たとえば、
今はただ思ひたえなんとばかり人づてならで言ふよしもがな(左京大夫道雅)、
を、
いやあはや思ひがけないとびっくり一つ目ならで幽霊下(しも)がねえ、
といった具合である(江戸語大辞典)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:あたりきしゃりき
2020年12月05日
ニンジン
「ニンジン」は、
人参、
と当てる。「ニンジン」(人参)は、
オタネニンジン(御種人参)、
を指し、
朝鮮人参、
を言う(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3・大言海)。または、
高麗人参、
とも言い、
ウコギ科の多年草。
いわゆる「ニンジン」の漢名は、
胡蘿蔔(こらふ・こらふく)、
という。現在でも中国では胡蘿蔔と記述している(仝上)。「胡蘿蔔」とは、
「すずしろ」(ダイコンの異名)のことであり、「胡」は外来であることを示している。(胡麻=ゴマ・胡椒=コショウ・胡桃=クルミ・胡瓜=キュウリなども同様)、
とある(仝上)。この「ニンジン」は、
セリ科、
で、
セリ(芹)ニンジン、
ハタ(畠)ニンジン、
ナ(菜)ニンジン、
八百屋ニンジン、
等々という(広辞苑・仝上)。大言海は、「ニンジン」を、
人参、
と当てるものと、
胡蘿蔔、
と当てるものとに項を分けて記載する見識を示している。前者は、いわゆる、
朝鮮人参、
で、
根に頭、足手、面目ありて人の如きを最上として名あり、
とし、別名、
カノニケグサ、
熊膽(クマノイ)、
とし、こう記す。
一茎直上し、梢に三枝を分かち、枝ごとに五葉を生ず、うこぎ(五加)の葉の如し、皆鋸葉あり、年久しきは、数枝、数葉に至る。枝の中に一茎を生じ、其梢に細小花、簇り生ず、五弁にして淡緑色なり。中に白蕊あり、亦うこぎの花に似たり。花後に、実を結ぶ。形圓くして緑に、秋冬に至り、紅に熟す。根を薬用とす、
と。10世紀前半成立の『和名類聚抄』では、和名を、
加乃仁介久佐(カノニケ草)、
と表記している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3)。これを、
御種人蔘、
というのは、
八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培・結実の後で各地の大名に種子を分け与えて栽培を奨励し、これを敬って「御種人参」とよぶようになったといわれる、
とある(仝上・大言海)。
今日の「ニンジン」は、
東洋系ニンジンと西洋系ニンジンに大きく分けられ、東洋系は細長く、西洋系は太く短いが、ともに古くから薬や食用としての栽培が行われてきた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3)。「ニンジン」は中央アジアの原産で、
西洋系ニンジンの原産地は小アジア、
東洋系ニンジンの原産地は中央アジア、
といわれ、原産地のアフガニスタン周辺で東西に分岐し、世界各地に伝播した、とされる(仝上)。東洋系ニンジンは、
中国元の時代(1271~1368)に西方から伝わり、
胡蘿蔔、
と呼ばれ、日本伝来はそれ以降で、寛永年間(1624~44)の『清良記』(1628)、『多識編』(1631)に記載されているところから、1600年頃と推定される(日本語源大辞典・たべもの語源辞典)。「多識編」には、
胡蘿蔔、今案世利仁牟志牟、
とあり(仝上)、当初その葉が芹に似ていることから、
セリニンジン、
と呼ばれた(仝上)。日本に伝わると、短い期間で全国に広まり、江戸時代の農書に、
菜園に欠くべからず、
とあるほどになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3)。江戸時代に栽培されていた品種は東洋系が主流だったが、江戸時代後期に西洋系ニンジンが伝わり、明治期に入ると欧米品種が次々と導入され、東洋系ニンジンは栽培の難しさから生産量が減少し、戦後は西洋系品種が主流になっている、とある(仝上)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月06日
物色
「物色」は、
室内を物色する、
というように、
多くの中から探し求める、
意で使うが、漢語由来であり、文字通り、
物の色、
の意味であり(字源)、菅原道真の漢詩文集では、
物色と人情と計会すること愚かなり、
と(菅家文草)、
風物景色、
の意で使っている(広辞苑)。万葉集の、
さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露、
という大伴家持の歌の後記に、
右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり、
と注がある。この「物色」は、現物の気色を見て作ったという意となる。
書言字考節用集には、
色目、
とある(大言海)ので、
物の色、動物の毛色、自然の景色、
等々を指していたと思われる。
しかし「物の色」は、
仲秋之月、……命宰祝循行犠牲、視全具案、芻豢(スウカン)、瞻肥瘠、察物色、
とあり、「芻豢」とは、
「芻」は草を食べる畜類。「豢」は穀物を食べる畜類、
で、牛、羊、豚、犬など、人間が飼育して、食用や労役などに用いる家畜の意(精選版日本国語大辞典)であるが、
体格が揃っているかをみて、草と穀物の食べ方を検討し、肥えているか痩せているかを調べ、毛色を見る、
意になる(https://kenbunroku-net.com/kotoba-20201116/)らしい。で、ここでは、「物色」は、物の色は色でも、
犠牲(となる動物)の毛の色、
の意となる(大言海)。これが「物色」の語源とする説もある。
しかし、この意味が、転じて、『後漢書』嚴光傳に、
帝令以物色訪之、後齊國上言、有一男子、披羊羹釣澤中、帝疑其光、……遣使聴之、三反而至、
とあり、
人相書にて人を求める(大言海)、
人相書または容貌によってその人を探すこと(広辞苑)、
意になり、『唐書』李泌傳の、
肅宗即位、靈武物色、求訪會、泌亦自至、已謁見、陳天下所以成敗事、帝悦、
という、
任ずべき人物を探す、
意となる(大言海)。ここから、
尹喜が老子を物色して求めて著させたぞ(史記抄)、
というように、
探し求める、
意まではひと続きである。戦国期の永祿一三年(1570)には、
「信玄者、去一六、集人数、急速出張之由申候、雖然、境目至于今日、物色不見得候」(上杉家文書・北条氏康書状)
と、物事の様子、特に、戦(いくさ)の様子、
の意でも使われている。
「物色」の「物」(漢音ブツ、呉音モツ・モチ)は、
会意兼形声。勿(ブツ・モチ)はいろいろな布で作った吹き流しを描いた象形文字。また水中に沈めて隠すさまともいう。はっきりと見分けられない意を含む。物は「牛+音符勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色がない意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、ものの代表として選んだにすぎない、
とある(漢字源)が、別に、
会意兼形声文字です(牜(牛)+勿)。「角のある牛」の象形と「弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)から、清められたいけにえの牛を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「もの」を意味する「物」という漢字が成り立ちました、
とあり(https://okjiten.jp/kanji537.html)、
会意形声。「牛」+音符「勿」。勿は「特定できない」→「『もの』の集合」の意(藤堂)。犂で耕す様(白川)。古い字体がなく由来が確定的ではない、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%89%A9)。「物」は、
植物、
動物、
鉱物、
の三別の「物」を指す(漢字源)。もし、特に「牛」と絡めない、ということに意味があるとすると、語源に、
生贄の牛、
と限定する説には意味がないことになる。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:物色
2020年12月07日
ぶっきらぼう
「ぶっきらぼう」は、
言動に愛敬がないこと、
とある(広辞苑)が、ちょっとニュアンスが違い、
不愛想、
のような気がする。大言海は、
打切坊、
とあて、
木強(きすげ)なること、木の切れ端のやうなること、質朴すぎて愛敬なきこと(東京)、
の意とする。「木強」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/476709001.html)は、
ぼっきょう、
と訓ませ、
心が木石のように一徹なこと、
飾り気がなく、剛直なこと、
無骨、
という意であり(広辞苑)、
木強漢(ぼっきょうかん)、
と、
一本気で飾り気のない男、
の意で使う言い方もある。「木強」は、
きすぐ、
と訓ませ、副詞的に、
気性の質朴にして、飾りなき状を云ふ、
とあり(大言海)、
気健、
とも当てる(岩波古語辞典)のを、名詞化したものと見える。江戸語大辞典は、「ぶっきらぼう」を、
打切棒、
と当て、
ぶっきりぼうの転訛、
とする。「ぶっきりぼう」は、
棒状の固飴を七、八分位にぶっきりにしたもの、
で、
ぶっきり飴、
の意とする。それが転じて、
「野暮で固めし手づくねに、土気の抜けぬ宵子の小指、ぶっきり棒に釣鐘と、提灯掛けて引担ぎ」(享和元年(1801)名歌徳三舛玉垣)
というように、
無愛想、
の意となった、とする。「ぶっきり飴」とは、
固飴を引き伸ばして2センチメートル程度の長さに切ったもの、
を言う(広辞苑)。だから、「ぶっきらぼう」の語源としては、
木の切れ端(大言海)、
と、
ぶっきり飴(江戸語大辞典)、
とがあることになる。「ぶっきり」は、
打ち切り、
の、
うち→ぶち→ぶつ、
の転訛だが、「打ち切り」は、
ぶっきること、
であるが、「打ち切る」の「打(う)ち」は、
切るを強めている語、
であり、
うちきる→ぶちきる→ぶっきる、
うちとばす→ぶっとばす、
うちのめす→ぶちのめす、
うちころす→ぶちころす→ぶっころす、
うちたたく→ぶったたく、
うちあけ→ぶちあけ→ぶっちゃけ、
等々というよう、「切る」を強調しているだけだ。「ぼう」は、
坊、
とか
棒、
と当てるが、
けちんぼう(坊)、
くいしんぼう(坊)、
どろぼう(泥棒・泥坊)、
のように擬人化したり、
あめんぼう(棒)、
おさきぼう(棒)、
かたぼう(片棒)、
ごかぼう(五家宝・五荷棒)、
と、その形状に準えたりする擬物化にすぎない。だから、「ぼう(棒・坊)」には意味がなく、
ぞんざいにぶっ切った状態、
のような気質を指している、とみられる。
ぶっきり飴、
や
ぶっ切った木の端、
は例えにすぎない。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年12月08日
ぶっちょうづら
「ぶっちょうづら」は、
仏頂面、
と当てるが、
仏頂顔(ぶっちょうがお)、
ともいう。「仏頂」だけでも、
仏頂面、
の意味になるが、
仏の頭頂、仏の肉髻(にっけい)、
の意味と、
仏頂尊(ぶっちょうそん)の略、
の意味がある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「肉髻」は、
仏・菩薩の頭の頂上に隆起した、髻髻(もとどり)の形のような頭頂の隆起、
を指す(仝上)。仏が備えているという優れた姿・形の32の特徴を言語によって数え上げた、
三十二相(さんじゅうにそう)、
のひとつに、肉髻(にくけい)を示す、
頂髻相(ちょうけいそう)、
がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8)。
(肉髻 精選版日本国語大辞典より)
「仏頂尊」とは、
仏の頭頂の功徳である智慧を仏格化した最勝の尊で、胎蔵界第三院釈迦院に属する白傘蓋仏頂、除蓋仏頂などの五仏頂尊および大転輪などの三仏頂尊、その他の総称、
とある(仝上)が、肉髻を独立した仏として神格化したものも仏頂尊と呼ぶようである。たとえば、如来の胎蔵界(金剛界と対)三部(仏部・蓮華部・金剛部)の徳を表す「三仏頂」は、
広大仏頂(こうだいぶっちょう)、
極広大仏頂(ごくこうだいぶっちょう)、
無辺音声仏頂(むへんおんじょうぶっちょう)、
とされ、また、如来の五智を表す「五仏頂」は、
白傘蓋仏頂(びゃくさんがいぶっちょう)、
勝仏頂(しょうぶっちょう)、
最勝仏頂(さいしょうぶっちょう)、
光聚仏頂(こうしゅぶっちょう)、
除障仏頂(じょしょうぶっちょう)、
とされる(http://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/bucho.html)、とか。
(和歌山・根来寺大伝法堂、手前から尊勝仏頂、大日如来、金剛薩埵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8B%9D%E4%BB%8F%E9%A0%82より)
この「仏頂」つながりで、「仏頂面」の語源として、
仏頂尊の恐ろしい顔から、(岩波古語辞典)、
仏頂尊の厳めしい顔から(日本語源広辞典)、
仏の顔は年中変らないところから出た(隠語大辞典)、
等々、「仏頂尊」に絡めた説がある。しかし、いくらなんでも、
仏頂尊の面相は知恵 に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌にも見えることから、
という理由(語源由来辞典)は、信仰心のかけらも感じられない。仏の面との関りで、
ブッチョウシュ(仏頂珠 仏の眉間にあるしろい巻き毛)の義。指ではじいても動かないところから(松屋筆記)、
面をふくらませ、螺髪(仏の頭髪の縮れちた巻き毛)を見るようであるというたとえから(物類称呼)、
というのもあるが、ともに、
仏頂面、
と当て持した後から生れた、後付けの説ではないか。その他、
不承面の転訛(大言海)、
不貞面の訛り(上方語源辞典=前田勇)、
もあるが、
仏頂は仏頂尊の略とも「ふて」「不承」の訛りともいうが、あるいは付会あるいは音訛無理、
というのが妥当だろう(江戸語大辞典)。
ブッチョウ(膖脹)の促呼か(上方語源辞典=前田勇・江戸語大辞典)、
という説もある。「膖脹」は、
ボウチョウ、
と訓む。つまり、
ボウチョウ→ブッチョ→ブッチョウ、
と転訛したという説である。これも、仏教とつながり、「膖脹」は、
白骨観・膖脹(ぼうちょう)血観(けつかん)、
など三十種禅観(坐禅観法)の一つ(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%A6%85%E7%B5%8C)とある。
正直のところ、どれかということは手に余るが、「仏頂」と絡ませたのは、後付けだとしか考えられない。「仏頂」とふてくされ顔とはつながらない。それなら、意味の上から、転訛に無理はあるが、
ふくれっ面→ふっちょう面、
か、
ぶうたれ面→ぶっちょう面、
か、
むっと面(「むっと顔」というのはある)→ぶっちょう面、
か、
むっつり面→ぶっちょう面、
等々と擬態語からの転訛の方が納得がいくのだが。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年12月09日
左近伝説
花ヶ前盛明編『島左近のすべて』を読む。
本書は、島左近を、
参謀、
だの、
軍師、
だの、
と、当時ありもしない役割を押しつけて、
参謀の身でありながら、最前線で采配を振るったことが、軍師として大きな誤算だった、
等々と決めつけている段階で、讀むに値しない「俗書」の部類であることを証明している。
本書はともかく、通称、
島左近、
は、実名が、
勝猛、
清興、
友之、
清胤、
昌仲、
等々と流布し、はっきりしないが、多聞院日記に、
嶋左近清興高麗陣立無意儀、
と記載されているなど、残された自署などから、
嶋左近清興(きよおき)、
であることははっきりしているが、その生国もはっきりせず、筒井家に仕えたのち、石田三成が、四万石の知行の内、一万五千石をさいて、召し抱えたことで、後世、
治部少(三成)にすぎたるものがふたつあり島の左近と佐和山の城、
と揶揄された。これも、実のところ良質の史料にはない。
実は、関ヶ原の合戦での、三成陣での左近の勇名が、後々左近を伝説化したと思える。
要地をとり、旗正々としてすこしも撓まず、寄手の軍勢を待ち受け、……大音声をあげて下知しける声、雷霆のごとく陣中に響き、敵味方に聞こえて耳をおどろかしける、
とある(黒田家譜)、左近の、
左の手に槍を取り、右の手に麾を執り、百人ばかりを引具し、柵より出て過半柵際に残し、静かに進みかかりけり(常山紀談)、
その時の、
かかれ、かかれ、
と戦場に轟きわたる大声が、
石田が士大将、鬼神をも欺くといひける島左近が其の日の有様、今も猶目の前にあるや如し、
と、戦後、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」とその恐ろしさが心に残っていると、語られる(常山紀談)。しかし、その時の左近の出立を思い出せなかった、という。で、元石田家の家臣に確かめると、
朱の天衝の前立の兜に、溜塗の革胴を着け、木綿浅黄の陣羽織、
であったという。
近々と寄せながら見覚えがなかったとは、よくよく狼狽えていた、
と、皆恥じた、という(仝上)。その采配ぶりは、
70人ばかりを柵際に残し、30人ばかりを左右に配置して、30人ばかりの兵どもが、槍の合うべき際にさっと引き、味方がばらばらと追い駆けるのを近くまで引き寄せ、70余のものども、えいえいと声を上げて突きかかり、手もなく追い崩して残りなく討ちとっていた、
という。しかし黒田勢の側面からの銃撃に、
左近も死生は知らず倒れしかば、ひるむ所を、(黒田)長政どっと押懸かり切り崩されけり、左近は肩にかけてそこらを退きぬ、
という(仝上)。
その左近の生死は、はっきりしていない。
戦死した、
とする説もあるが、左近の遺体は見つかっていない。あるいは、京都市の立本寺には島清興の墓があり、
関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されている、
とある。あるいは、
静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住している。23代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催した、
という。あるいは、
滋賀県伊香郡余呉町奥川並には関ヶ原合戦後も左近は生き延び、同村に潜伏していたという、
伝承がある。その他、
幕府に仕官した、
とする説すらある。まさに、関ヶ原の戦いの一瞬に鬼神の如き姿を現し、その後、杳として行方が知れない。まさしく、伝説の人である。
(伝・島左近清興所用「五十二間筋兜」 https://www.toshogu.or.jp/news/no.phpより)
参考文献;
花ヶ前盛明編『島左近のすべて』(新人物往来社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年12月10日
白酒
「白酒」は、
しろき、
しろさ、
しろささ、
と訓むと、
御神酒(おみき)の一種、
を指す。「さけ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.html)で触れたように、「き」は「さけ」の古名。
新嘗祭、大嘗祭に供え、
黒酒(クロキ)、
と並べ称す、とある(大言海)。白酒(しろき)、黒酒(くろき)は、
白貴、
黒貴、
とも書く(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92)。
古醸なるは、詳らかならず、
としつつ、
或は云ふ、荒稲(アラシネ 平精(ヒラシラゲ))にて醸せるが黒酒にて、和稲(ニコシネ 眞精(マシラゲ))なるが白酒なるべしと、
とある(大言海)。「荒稲(アラシネ)」とは、籾のままのもの、「和稲(ニコシネ)」は、「にぎしね」ともいい、殻を取ったものを指す。
『延喜式』によれば、
白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に常山木の根の焼灰を加えて黒く着色した酒(灰持酒)である、
と記載されている、とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92)。後に、
平安朝の頃は、白酒は常の酒にて、これに常山(クサギ)の焼灰を入れたるを黒酒とす。室町時代なるは、醴酒(アマザケ)を白酒とし、これを黒胡麻の粉を入れて黒酒を作れり、
とあり(大言海)、今日では、
清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用、
とすることも多い(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92)、という。
「白酒」を、
パイチュウ、
ハクシュ、
と訓めば、中国伝統の蒸留酒の総称。別名、
白乾児(パイカル)、
を指すが、ここでは、
しろざけ、
と訓ます「白酒」である。
精(しら)げたる糯米(もちごめ)を蒸し、久しく味醂に浸して、味醂を加えながら、碾(ひきうす)にて碾きて成る、色、白くして、甚だ濃し、多く上巳の雛遊びに用ゐる、
とある(大言海)。白酒の由来は、はっきりしていない。古来の製法は、
上酒に蒸した糯米を加え、さらには麹も加えて仕込んだ上で7日ほど熟成させてからすりつぶしたものを濾さずに飲用とした、
が、
現在の製法に近づいたのは江戸時代中期以降で、焼酎もしくはみりんをベースに製造されるようになった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92))。白酒が雛祭りのお供えとされるようになったのは、江戸時代からであるが、「雛祭り」は、
平安時代、貴族の子女の雅びた「遊びごと」として行われていたとする記録がある。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためであるという。
「天児」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460034293.html)で触れたが、
三月上巳の日に人間の形をした形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を作り,それで身体をなでたり息を吹きかけたりして身のけがれや災いを移し、川や海に流し捨てた、
とされる「形代」から、
天児(あまがつ)、
這子(ほうこ)、
と呼ばれる、
形代の代わりに、幼児の身近に置き、幼児にやってくる災いをそれらに移す人形、
が登場する(https://www.hinaningyou.jp/know02.html)。これが雛人形の由来の一つとされる。これが、江戸時代一般に広まり、
天児を男の子に、這子を女の子に見立てて飾るようになって、後に天児の姿は立雛の男雛へ、這子の姿は立雛の女雛へ、
と変化していく(仝上)。この上巳(桃の節句)において、室町時代から、
桃の花を浸した酒を飲んでいた、
のが変化して白酒の風習になった、(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92))とされている。
桃の節句に「白酒」を用いるのは、
桃には白い花がなくてみな桃色であったから、これに白酒を配して、赤と白とにして,日と月を祀るという意を表した、
とする説がある、らしい(たべもの語源辞典)。
(坂東三津五郎の白酒売り https://www.kabuki-za.com/syoku/2/no79.htmlより)
明和・安永の頃(1764~81)まで、白酒売りが江戸の街を売り歩いていた、という(たべもの語源辞典)。白酒は、
旧称を「山川酒」といい、『守貞謾稿』では、
「白酒売りはかならず「山川」と唱え、桶の上に硝子徳利を納める」
と記述している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92))。関東では山川白酒というが、関西では、
東白酒、
という、とある(たべもの語源辞典)。
白酒の元祖は、
鎌倉河岸の豊島屋の初代十右衛門である。後陽成天皇の慶長年間(1596~1615)のある日、彼が自宅でうたたねしていると、可愛らしい紙雛が枕元に現われて、親切に白酒の製法を教えてくれた。そのとおりにつくるとすばらしい甘い酒ができたという。初めは物見遊山などに用いられたが、三代将軍家光のころは腿の節句の前後四日間に豊島屋で250~260石の白酒が売れた、
とある(たべもの語源辞典)が、
京都六条油小路の酒屋で造っていた白酒の色を山間部を流れる川の水が白く濁るのになぞらえて「山川」と呼ばれるようになった、
ともあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%85%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92))、
京都の「山川」という銘柄、
が有名とある(焼酎・泡盛用語集)。
寛政四年(1792)の『江戸総鹿子新増大全』には、
本所表町、金や長左衛門博多練酒 山川白酒無類名物、
とある。これは、
この家の祖が諸国を遍歴して筑紫で練酒の製法を覚えてきた、
といい、
その色のなめらかなところが練絹のようなので練酒と称した、
という(たべもの語源辞典)。その他、江戸浅草では、
富士の白酒、
が有名で、歌舞伎「助六所縁(ゆかりの)江戸桜」では、
富士の白酒といっぱい、
のセリフもある(仝上)。
因みに、「白酒」と「甘酒」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470325231.html)は異なり、甘酒は、
ご飯やおかゆなどに米こうじを混ぜて保温し、米のデンプンを糖化させたもので、アルコールをほとんど含まない甘い飲み物、
である(https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1201/a02.html)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:白酒
2020年12月11日
そのとき
O・クルマン『キリストと時』を読む。
本書は、サブタイトルに、
原始キリスト教の時間観及び歴史観、
と題されている。別段、キリスト教に造詣があるわけではないので、正直、よく分からない箇所が何ヶ所かあったのは事実だし、キリスト教の学問としてのパースペクティブを持たないので、本書がどんな位置づけになっているのかも分からないまま言うのもおこがましいが、細部にわたる論旨の細やかさには、別して感慨深いものがあった。
「序」で、著者は、
「本研究の対象は、キリスト教の宣教における中心的な点に関する問題である」
と述べたうえで、これについては、
「我々自身の気に入り、そのためにまた最も重要なものと思われる事柄を、その『核心』またその『本質』となし、それに対し我々に縁遠いものを、除去しうる外形的な『枠』として考える傾向」
を戒め、こうした、
主観的な態度、
は、
「それがなお全く無自覚である場合も、その解決にとっては、最も不適當なものとして郤けられねばならぬことは明らかである。なぜならば、キリスト教の本質的核心を定める基準は、いかなる場合にも、何らかの、豫め確立した――例えば哲学的――立場であってはならぬからである。明らかに外部からのものたる物差を新約にあてて、原始キリスト教の福音のあれこれの要素を独断的に選び出し、そして中心的なものと做す、その素朴な無頓著さは、見るも者をして驚かしめる。原始教団自身にとっては、それらの要素は確かに存在しているが、しかし決して中心におかれているのではなくて、自身、他の、真実の中心から解釈されねばならないのである。キリスト教の種々の傾向の代表者達、またそれを超えて、おそらくキリスト教の信仰の敵対者達も、キリスト教の本質的中核を規定する際に、最古のキリスト教文書自身以外のところから取られた尺度をすべて抛棄する素直な努力に心を盡すべきであろう。」
当たり前のようだが、歴史を見るとき、また科学においても、大事な視点である。
史料は、史料自身をして語らしめる、
という当たり前が、科学の名のもとに平気で打ち破られるのをいつも目撃させられている。先入観は、何もイデオロギー的立場ばかりではない。歴史で、その時代のどこにも無い現代の基準を持ち込むなどというのは、日本の中でも、再三見かける、学問に携わる者とは思えない不見識が横行しているだけに、このことばは新鮮である。だから著者は、こう断る。
「筆者は、豫め本書の読者に次のことをお願いしたい。読まれる際に、我々の正しいと確信している、あれこれの哲学的見解と矛盾する場合、自然に起こってくる、それがキリスト教の福音の中心でありえようかという問いを、ひとまず全く郤けておいて頂きたい。」
と。そして、関心を、
「新約の啓示における、キリスト教独自のものの内容は何であるか」
の問い集中させてほしい、と。
本書では、キリスト教の救済史的な時間把握について、
「救済が、過去現在未来を包括する連続した時間的出来事に結びつけられ……、啓示と救済は上昇してゆく時間の線上において行われる。ここに新約聖書の厳密に直線をなした、線的な時間の考え方が、ギリシャ的な円環的なそれに対し、又救済が常に『彼岸』にあって自由になるとする、すべての形而上学に対して、一線を画さねばならぬ」
ことと、
「この救済の線のすべての点が、中心たる一つの歴史的事実に結びつけられていることである。即ち、その平凡な一回性において救済を決定的にする、イエス・キリストの死と復活という事実である」
ことに、独特のものがある、と著者は整理する。
イエス死後の原始教団にとって、
「キリストの復活という、大いなる事実がその活動の頂点をなす」
のは、
「中心は、いまやある歴史的なできごとの中に存在している。中心はすでに到来した。しかし終わりはまだ来たらないでいる。」
それを、著者はこういう例で表現する。
「戦争の際に、その勝敗を決する戦闘は、戦争の比較的に初期の段階ですでに行われてしまっていることがありうる。しかも戦争は、なお長い間つづけられる。かの戦闘の決定的影響力は、おそらく全部の人には認識されないのであるけれども、それはすでに勝利を意味している。しかし戦争は、なお或る期間『勝利の日』まで継続されねばならないのである。まさにこれが、新しき時の区分の認識によって、新約の自覚している状態である。啓示とは、十字架上のかの出来事が、それに続く復活とともに、すでに行われた決戦であったということがのべ傳えられる、まさにその点にある。」
と、それは、
「何よりも先ず圧倒的なキリストの出来事が、時に新しい中心を与えたという、まったく新しい積極的な確信にもとづいている。」
その確信とは、
「(新約聖書が好んで用いる)『満ちること』がすでに実現したという信仰、もはや再臨ではなくて、キリストの十字架と復活がすべての出来事の中心であり、それに意味を与えるものであり、そしてそれは先ず時間的に展開してゆくできごと全体の純粋に時間的な中心であり、次にまた方向を定める指導的な中心であり、それに意味を与える中心であるという信仰である。」
歴史的事実が線上の時間の中心である、ということは、
「未来に対する希望が、いまや過去に対する信仰に、その拠り所を見出しうるという事である。それは、すでに戦われたかの決戦を信ずる信仰である。すでに起こった事が、未来に起こるであろう事に対する、確かな保証を与える。最後の勝利に対する希望は、勝利にとって決定的な戦闘がすでに行われたという確信が不動であるほど、ますます強烈なのである。」
この原始キリスト教の考え方は、
「かの中心……からして、神の救済計画は、前方及び後方に向かって明らかにされた」
のである。それは、
「初代のキリスト教徒達は、その線を、事後的に、やはり始めから中心を通って終わりにまで走る線として理解したからである。この年代的な順序による叙述のしかたこそ、線全体が実際に中心から出発して形作られていることを示している。なぜならば、それは最初からキリストの線」
であって、
キリストと時、
として理解されていたからである。そして、救済の線は、創造の時から、
「順次縮減されながらイエス・キリストまで、その歩みを運ぶ。即ち人類―イスラエルの民―(民の身代わりとなる)イスラエルの遣りの者―一人のキリストである。そこに到るまで、多数が一人に向かって、即ちイスラエルの救世主として、人類の、さらに創造の救贖者となる、イエス・キリストに向かっている。そしてここにおいて救済史はその中心に達したのである。」
そして、「キリストの復活において到達した中心からの道から」は、
「多数から一人に向かうのではなくて、反対に一人の人から順次多数に向かう……。今やその道は、キリストから、彼を信ずる者達、彼の代贖の死を信ずる信仰において自己の贖われたことを知っている者達に向かってゆく。それは使徒達に到り、かの一人の人の體であり、ここから神の国における贖われた人類に、そして新しき天と新しき地の贖われた創造にまで到るのである。」
という、多から縮減し、一人に収斂し、そこから多へと拡散していく、この原始キリスト教の救済史の時間観、歴史観は、西暦の年号算定に見事に顕現されている。
「我々の年代は、キリストの生誕の歳を一年と数え、そしてそれ以前の時を次第に減少する数によって、この年に向かわしめ、それ以後の時を次第に増加する数によって、この年から出発せしめる。斯してその年代の数え方において、……新約の救済の線が、象徴的に驚くべき適切さをもって叙述される。」
ここに原始キリスト教の時間観と歴史観が明示されている、というのである。
参考文献;
O・クルマン『キリストと時』(岩波現代叢書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月12日
なゐ
「なゐ」は、
地震、
と当てる(岩波古語辞典)。「地震」(じしん)は、漢語である。中国春秋時代を扱った歴史書『国語』の周語に、
陽伏而不能出、陰遁而不能蒸、于是有地震、
とある(字源・大言海)。「なゐ」は、
地震の古言、
である(大言海)。字類抄に、
地震、なゐ、
とある(仝上)。
ナは土地の意、ヰは場所や物の存在を明らかにする語尾(広辞苑・日本の言葉=新村出)、
ナは土地、ヰは居、本来地盤の意(岩波古語辞典)、
であり、その、
地、
の意が、転じて、
地震、
の意となった、(広辞苑)とあるが、
なゐ震(ふ)り、
なゐ揺(よ)り、
で地震の意であったが、後に、
なゐ、
だけで地震を言い表すようになった、とみられる(岩波古語辞典)。「な」は、
オオナムチ、
スクナヒコナ、
というように神の名にあり、「大地・地」を意味した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E7%A5%9E)。
さらに、允恭紀五年七月には、
地震(ナヰフル)、
とあり、武烈即位前紀に、太子歌曰として、
臣の子の八符(やふ)の柴垣下動(したとよ)み地震(なゐ)が揺(よ)り来ば破(や)れむ柴垣、
とある。また推古紀七年四月に、
地震(なゐふり)舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神、
とあり、「地震神」は、
なゐの神、
と呼ばれた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E7%A5%9E)は、日本神話に登場する地震の神である。
さらに天智紀三年三月にも、
是春地震(ナヰフル)、
とある(日本書紀)。
ネヰフル(根居震)の下略(日本語原学=林甕臣)、
ネユリ(根揺)の約轉(大言海)、
等々も、似た発想である。
「なゐ」は元来「大地」の意であり、「なゐがよる」「なゐふる」とは「地面が揺れる」の意である。動詞部分が省略されて「なゐ」が地震そのものをさすようになった、
のである(日本語源大辞典)。
こんにちでも、
ナイ、
ナエ、
ネー、
などの形で、九州・沖縄のほか、東日本の各地にも点在し、周圏分布をみせている、とある(仝上)。「周圏分布」とは、『蝸牛考』で柳田國男が提示した仮説で、
相離れた辺境地域に「古語」が残っている現象を説明するための原則で、文化的中心地において新語が生れると、それまで使われていた単語は周辺へ押しやられる。これが繰返されると、池に石を投げ入れたときにできる波紋のように、周辺から順に古い形が並んだ分布を示す、
とするものである(ブリタニカ国際大百科事典)。柳田國男は、
蝸牛を表わす語が、時期を違えて次々と京都付近で生まれ、各々が同心円状に外側に広がっていったという過程である。逆からみると、最も外側に分布する語が最古層を形成し、内側にゆくにしたがって新しい層となり、京都にいたって最新層に出会う。地層を観察すればかつての地質活動を推定できるのと同様に、方言分布を観察すればかつての言語項目の拡散の仕方を推定できる、
としたものである(http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2012-03-07-1.html)。
(鯰絵 「世直し鯰の情」 安政2年の地震の瓦版 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%B0%E7%B5%B5より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月13日
な
「な」は、
肴、
魚、
菜、
と当てる。「肴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477167042.html)で触れたように、「肴」(漢音コウ、呉音ギョウ)は、
会意兼形声。「肉+音符爻(コウ 交差する)」で、料理した肉を交差させて俎豆(ソトウ)の上に並べたもの、
とあり(漢字源)、
食べるために煮た魚肉、
の意である。俎豆とは、
昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき、
の意(デジタル大辞泉)。「肴」を、
飲食の時に食べる副産物、
の意で用いるのはわが国だけである(漢字源)とあるが、
酒肴、
珍肴、
という用語があり、
穀物以外の副産物、
肉と魚との熟して食うもの、
という意味がある(字源)ので、魚類に限定していても、的を外しているわけではなさそうである。
「魚」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、
象形。骨組みの張った魚の全体を描いたもの、
で(漢字源)、いわゆる「さかな」の意であるが、
鱗と鰭のある水族、
を指し(字源)、
池魚、
海魚、
等々と使う。「さかな」の意味では、
鮭、
の字もあるが、「鮭」(漢音ケイ、カイ、呉音ケ、ゲ)は、
会意兼形声。「魚+音符圭(ケイ 三角形に尖った形がよい)」
とある(漢字源)。日本語では、「さけ」にあてるが、
鮭肝死人、
とあるように、
ふぐ、
を指し、さらに、
鮭菜、
というように、
調理せる魚菜の総称、
の意味がある(字源)。「菜」(サイ)は、
会意兼形声。「艸+音符采(サイ=採、つみとる)」。つみなのこと、
とあり(漢字源)、
野菜、
蔬菜、
というように、
葉・茎を食用とする草本類の総称、
の意だが(仝上)、
惣菜、
菜館、
というように、
酒または飯の副植物、
おかず、
の意でもある(仝上・字源)。
俗に肴饌をいふ、
とある(仝上)。「ご馳走」の意である。
和語「な」は、
肴、
と当てて、
野菜・魚・鳥獣の肉などの副食物、
つまり、
おかず、
の意味で、古く古事記に、
前妻(こなみ)が肴 (な) 乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね、後妻(うはなり)がな(肴)乞はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね(神武天皇)、
とある。「な」で、
肴、
を当て、「おかず」を指していた。だから、「肴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477167042.html)で触れたように、「さかな」(肴)は、
酒菜(さかな)の意、
とされ(広辞苑)、平安時代から使われ、
サカは酒、ナは食用の魚菜の総称(岩波古語辞典)、
酒+ナ(穀物以外の副食物)、ナは惣菜の意(日本語源広辞典)、
「菜」(な)は、副食物のことを指し、酒に添える料理(酒に添える副菜)を「酒のな」と呼び、これが、なまって 「酒な」となり、「肴」となった(http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.html)、
「酒菜」から。もともと副食を「な」といい、「菜」「魚」「肴」の字をあてた。酒のための「な(おかず)」という意味である。「さかな」という音からは魚介類が想像されるが、酒席で食される食品であれば、肴となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B4)、
サカは酒なり、ナは食用とする魚菜の総称(大言海)、
等々とされ、中国春秋時代を扱った歴史書『國語』晉語に、
「飲而無殽」注「殽俎實(モリモノ)也」、広韻「凡非穀而食者曰肴、通作殽」
とあり、かつて、
酒を飲むとき、副食(アハセ)とするもの、魚、菜の、調理したるもの、其外、すべてを云う、
とし、
今、専ら、魚を云ふ、
とした(大言海)。しかし、今日、「酒の肴」というとき、「肴」は、必ずしも「魚」を指さない。それは、「な」に、
菜、
を当て、
籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも(雄略天皇)
と、
葉・茎などを食用とする草木類の総称、
とし、「な」に、
魚、
を当て、
足日女(たらしひめ)神の命(みこと)の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰(たれ)見き(山上憶良)
と、
食用とする魚類、
として、意味に応じて、「な」に、魚、肴、菜の漢字を当て分けた結果である。
しかし、「おかず」の意の「な」は、
肴、
なのか、
菜、
なのかは、語源と関わる。
なむ(嘗)の義(大言海・槻の落葉信濃漫録)、
とするのは、
肴・菜・魚が同源、
とする考え方からきている。とすると、
肴(な)→菜(な)・魚(な)、
と分化したことになる。しかし、「菜」(な)も「おかず」の意味でも使われていたので、「菜」(な)は、
ナメクサ(嘗草)の下略(柴門和語類集)、
ナエハ(萎葉)の下略(日本語原学=林甕臣)、
ナゴム(和)の義。葉はやわらかいところから(和句解・名言通)、
根があって生えるところからネハフの約(和訓集説)、
や、「魚」(な)は、
酒ナの略。ナは菜の義(梅の塵)、
とする説があり、これからすると、「菜」(な)が先にあり、
菜(な)→肴(な)・魚(な)、
と分化したことになる。確かに、抽象度の高い、
おかず、
が先にあって、個別の菜と魚に分化するより、個別の菜と魚から、「おかず」に抽象化する方があり得る気がする。
はじめ、ひっくるめて、
な、
と、
おかず、
の意として、意味の重なる、
肴、
を使ったのか、という方に、一応与しておくが、やはり「おかず」の意のある、
菜、
を使い、
酒の肴、
と
魚、
へと、分離したという考え方もあり得ると思う。
ところで、副産物を指した「菜」は、
サイ、
と、漢語を音読した形が、後世一般的になる。特に中世には、
食用となる野菜のいの「菜」(さい)より、
一汁二菜、
のように、
副食物、
を指すようになる。中世末の日葡辞書では、「サイ」を、
飯と汁とを除いた食物で、魚、肉、野菜などでつくった料理、
とし、「な」は、
野菜、
の意味としている(日本語源大辞典)。その意味で、副食物の意の、
菜(な)、
は、野菜の、
菜(な)、
と、副食の、
菜(さい)、
に分化したことになる。江戸時代、日常の「菜(さい)」を、上方では、
番菜(ばんざい)、
江戸では、
惣菜(そうざい)、
といういい方が一般化する(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)。こう見ると、あるいは、副食物としての「菜(な)」が、先ということなのかもしれない。
ただ、「菜(さい)」は漢字の音読ではなく、
調菜(ちょうざい)の略(大言海)、
添物のソヘ・ソヒ(添・副)から(東牖子・松屋筆記・米櫃と糧と菜=柳田國男)
と、別の由来とする説もある(日本語源大辞典)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月14日
こなみ
「こなみ」
は、
前妻、
嫡妻、
と当て、
後妻、
次妻、
とあてる「うはなり」の対とされる(岩波古語辞典)。「こなみ(前妻)」「うはなり(後妻)」は、『古事記』神武紀に、
宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨障(さや)る 前妻(こなみ)が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 菜乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ、
と詠われている。因みに、日本書紀では、神武の皇后は、
媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、記;比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひる))、
妃は、
吾平津媛(あいらつひめ、記;阿比良比売(あひらひめ))、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87)。
「こなみ」は、
一夫多妻のころの制度で、先に結婚した妻。前妻または本妻、
で(広辞苑・デジタル大辞泉)、和名抄には、
前妻、毛止豆女、一云古奈美(こなみ)、
とあり(岩波古語辞典)、別に、
もとつめ、
むかひめ、
ともいったらしい(大言海)。
「うはなり」は、
あとに迎えた妻。上代は前妻または本妻以外の妻をいい、のちには再婚の妻をいう、
とあり(デジタル大辞泉)、
第二夫人や、めかけなどを云うことが多い、
とある(岩波古語辞典)。和名抄には、
後妻、宇波奈利、
とある(仝上)。
古へは、妻、二人を持ちて、二妻(ふたつま)とも云ひき、本妻(こなみ)の、次妻(うはなり)に対する嫉妬を、うはなりねたみと云ひ、打ちたたくをうはなりうちと云へり、
とある(大言海)。
山彦冊子に、コナミは、着馴妻(こなれめ)の轉(着物、ころも。雀、すずみ)。ウハナリは上委積妻(ウハナハリメ)の轉(なげかはし、なげかし)。古へ、二妻(ふたづま)を、衣を、二重着るに譬えたり、とあり(和訓栞、コナミ「熟妻(こなめ)、或は、モトツメと読めり」、ウハナリ「ウハは、重なる義也、ナリは並(ならび)の義、ラ、ビの反(かえし)、リ」)。仁徳紀廿二年正月、「天皇納八田皇女将為妃、皇后御歌『夏蟲の譬務始(ヒムシ 夏蠶(ナツコ))の衣二重着て隠み宿りは豈良くもあらず』、萬葉集「おおよそに吾し思はば下に着て馴れにし衣を取りて着めやも」「紅の濃染の衣下に着て、上らに取り着ば言成さむかも」。何れも、二妻のことを云へりなりと云ふ、
とあり(大言海)、「こなみ」「うはなり」ともに、着物に喩えた、と見る。「うはなり」の「うは」は、
ウハヲ(上夫)・ウハミ(褶)・ウハ(上)などのウハと同根、後から加えられるものの意、
とあり(岩波古語辞典)、
うはづつみ(上包)、
うはつゆ(上露)、
うはぬり(上塗り)
等々同趣の言葉が多く、これは、重ねるという意味にもなり、同趣の説が多い。
ウヘニアリ(上在)の転(名語記・俚言集覧)、
後にきてウヘ(上)ニナルという意か(和句解)、
ウハは上で、重なる意。ナリは並の義(和訓栞・名言通・日本語源=賀茂百樹)、
ウハ(上)ナリ‐メ(女)の略。ウハナルは下に着た着物の上にもう一重重ねる義(山彦冊子)、
ウハナリ(上也)の義(言元梯)、
ウハは後の意(古事記傳)、
しかし、「なり」の説明が得心がいかない。単純に考えれば、
上成、
なのだが、そうあけすけには言うまいから、
ならぶ(並)、
が妥当なのかもしれない。
「後夫」は、
宇波乎(ウハヲ 上夫)、
というのに対して、前夫は、
之太乎(したを 下夫)、
とわかりやすい言い方になっているが、「こなみ」(前妻)については、
こなため(此方女)の義(名言通)、
コノカミノメの略(和訓集説)、
キナレメ(着馴女)の転(山彦冊子)、
こなめ(熟女)の転(和訓栞)、
等々と諸説苦戦している。唯一、
コヌアミの約。アミは日鮮満蒙を通じて女性の総称。朝鮮語に、嫡室を意味するKŭnömiがある(日鮮同祖論=金沢庄三郎・国語學通論=金沢庄三郎)、
というのが着目されるが、「こなみ」だけが、朝鮮語由来というのは、腑に落ちない。
コ(子)ノ‐アミ(母)の約。子持ちの意から前妻の意に転じた(日本古語大辞典=松岡静雄)、
というのも面白いが、「こなみ」だけが他と対比できないのは納得できない。
夫が、
之太乎(したを 下夫)⇔宇波乎(ウハヲ 上夫)、
ならば、妻も、
こなみ⇔うはなり、
は、セットでなくてはおかしい。やはり、
着馴妻(こなれめ)の轉、
と、着物に準えたというのが、おしゃれではないだろうか。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月15日
あざとい
「あざとい(あざとし)」は、
思慮が浅い、小利口である(広辞苑)、
無知浅薄だ、小利口だ、大人が子供っぽい浅はかな言動をする形容(岩波古語辞典)、
意で、
なま才覚あるをあざとしと云ふ(志不可起)、
とある(岩波古語辞典)。大言海は、「あざとい」に、
稚、
と当て、
あざとし「俗語なり、浅く聡しの義なるべし」(和訓栞後編)、
を引き、
児童に云ふ、関西語なり、
とある。どうやら、「あざとい」は、
子供の小才、
を言ったものらしい。それが、
大人の浅はかな言動、
を、子供ぽいとして「あざとい」といったものと想定される。それが最近では、
あざとい商法、
というように、
押しが強くて、やり方が露骨で抜け目がない、
と、より貶めた意味に転じて使われるようになっている(広辞苑)。
どうも「あざとい」は、近世に使われた言葉ではないか、という気がする。江戸語大辞典には、「あざとい」を、
気が利いているようで思慮が浅い、子供らしい、ばかばかしい
の意とし、
あざとさは雪見の留守で湯を沸かし、
という川柳を載せる。「ばかばかしさ」に意味のウエイトがある。その意味で、
幼稚、
稚拙、
の「稚」を当てたのは意味がある。「稚(穉)」(漢音チ、呉音ジ)は、
会意。もと「禾(イネ、作物)+遅(チ 成長が遅い)」で、稚はその俗字。成長が遅れて小さい作物、
とあり、「おさない」「ちいさい」意だが、どこかに「まだ伸び切らない、丈が小さい」という含意がある(漢字源)。
アサ(浅)くサトシ(聡)の義(和訓栞後編)、
が、「稚」を当てた含意に近い。しかし、
動詞アザル(戯れる意)と形容詞トシ(疾)の複合語(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦・日本語源広辞典)、
アは接頭語、ザルは戯れる。トシは疾しでアザリトシの略か(上方語源辞典=前田勇)、
とする説もある(日本語源大辞典)。
アザル+トシ→アザトシ、
か
アサ+サトシ→アザトシ、
か、
何れかと決める根拠はない。ただ、
子供っぽい、
という含意と、
稚、
を当てた意味から見ると、
浅い+聡し、
を採りたい気がする。江戸語大辞典には、
あさどい、
という言葉が載る。
小利口だ、
小癪だ、
ばかばかしい、
と、「あざとい」とほぼ意味が重なる。
「へゝ、矢兵衛に頼ま待伏するとは浅どい奴」(文政六年(1823)小脇差夢の蝶鮫)、
「山家の猿の浅どい智慧で」(文政十年(1827)契情肝胆粒志)、
浅どい、
という当て字から見ても、また「あざとい」を、
「おはつどん聞ねへ、安さんはまたいつあさとひ事を言ひなんすよ」(寛政元年(1798)南極駅路雀)、
と、
あざとい→あさとい、
という転訛が見られることや、
あざとい→あさどい、
と転訛したものとみられることなどから、
浅い+聡し、
の証のように思える。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年12月16日
粉
「粉」は、
こな、
と訓ませるが、
身を粉にする、
というように、
こ、
とも訓む。
「粉(こ)」は、
砕けてこまかくなったもの、
すりつぶした細かくしたもの、
という意で、
米の粉(コ)、
麦の粉(コ)、
石の粉(コ)、
等々と使う(大言海)。
「細かく砕く」という意のメタファ―か、
心身をひどく労する、
意もあり(岩波古語辞典)、
身体がくたくたになる、
意で、
粉(こ)にされる、
粉(こ)に成る、
という言い方もした(江戸語大辞典・広辞苑)。
「粉(こ)」の「細かく砕く」意の転化と思うが、
薬味、
や、
汁の実、
の意味が載る(広辞苑)。和名抄に、
粉、古(こ)、
と載るので、これが古形かと思う。「粉(こな)」が、
用いられるようになるのは近世から、
とある(日本語源大辞典)。
上代には、ア(足)、ハ(羽)など多くの一音節語が存在したが、語の不安定性、上代特殊仮名遣いの区別が失われるなどの音韻変化による同音衝突を避ける目的もあって、次第に、
ア(足)→アシ、
ハ(羽)→ハネ、
など、単音節語から複数音節語への交替現象が見られるようになった。この変化は、特に近世に盛んで、コもこのような変化の中で、コナと交替し始めた、
とある(日本語源大辞典)。しかし、「粉(コ)」と「粉(コナ)」とは、語源を異にするように思え、一般論では、
コはコ(小)の義から出た語。ナは無意義の接尾語(国語の語根とその分類=大島正健)、
という説があるように、
単音節語→複数音節語、
といえるかもしれないが、
コ→コナ、
は、別の由来のような気がする。
「粉(コ)」は、
小(コ)の義なるべし(和訓栞・大言海)、
なのに対し、「粉(コナ)」は、
熟(こなし)の語根(俚言集覧・大言海)、
こなす・こなるの語幹(江戸語大辞典)、
コ(細・小)+なす(為す)(日本語源広辞典)、
とする。つまり、「粉(コ)」から出た、
粉にする、
粉になす、
という言葉から派生したのではないか。これが、
こなす(熟)、
になり、
こな、
に転じた。「こなす」は、
粉(こ)になすが原義(岩波古語辞典)、
粉熟(な)すの義(大言海)、
とある。
粉になす・粉にする→こなす(熟)→こな(粉)、
という転訛である。
何やら粉名(こな)を入れ置きたる器を(文久三年(1863)七偏人)、
という使い方がある(江戸語大辞典)ので、
コナ(細名)の義(言元梯)、
もなくはなく、
粉になす・粉のなる→こなす(熟)→こな(粉名)→こな(粉)、
という転訛の経緯なのかもしれない。
この「こな」という使い方は、江戸の戯作に見られ、
コナは江戸語、
と意識されていた可能性もある(日本語源大辞典)という。しかし、
明治になっても、コが代表的形とされてきたが、現代では、コナが一般的になり、逆に、
小麦粉、
メリケン粉、
というように、複合語に「こ(粉)」が残り、
身を粉にする、
というような慣用句に残った。
なお、「こなす」については項を改める。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年12月17日
こなす
「こなす」は、
熟す、
と当てる。「粉」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479033172.html?1608062156)で触れたように、「こなす」は、
粉(こ)になすが原義(岩波古語辞典)、
粉熟(な)すの義(大言海)、
コ(細・小)+なす(為す)(日本語源広辞典)、
とある。つまり、
粉にする、
義である。それとかかわって、自動詞、
こなる(熟)、
あるいは、
こねる、
という言葉もある。「こなる」は、
粉熟(な)るの義、
で(大言海)、いまは、
こなれる(熟)、
といういい方をする(広辞苑)。「こねる(捏ねる)」は、
粉練る、
で、
粉(こ)成す、
粉(こ)熟(な)れる、
と同趣とある(大言海)。いずれも、「粉(こ)」から出ている。
さて、「こなす」は、従って、
粉にする、
つまり、
砕いて細かくする、
意で、室町末期の日葡辞書にも、
ツチヲコナス、
と載り、
熟田(コナダ 熟(こな)し田)、
というように、
土を掘り起こして、砕き熟(な)らす、
意に使う(大言海)。それをメタファに、
消化する、
意でも使うが、
数ヵ国語をこなす、
というように、
意のままに扱い馴らす、
思うままに扱う、
意でも、
ノルマをこなす、
仕事をこなす、
というように、
処理する、
仕事を済ませる、
意でも使う(広辞苑・大言海)。それとつながるが、
使いこなす、
乗りこなす、
というように、
動詞について、その動詞を要領よくうまくする意を添え、
うまく~する、
完全に~する、
意でも使う(広辞苑・デジタル大辞泉)。その、
思うままにする、
意が、
大敵の西夏をこなさんと(四河入海)、
というように、
思うままに処分する、
征服する、
意にもなり、
あんまりこなした仕打ちだ(梅暦)、
のように、
見下す、
軽蔑する、
意にも使う。悪意に使われると、
他宗をこなし貶めんと思へり(御文章)、
というようにも使う(岩波古語辞典)。
砕いて粉にする、
は、
圧し潰す、
に通じるからだろう。
粉にする、
というただの状態表現であった言葉が、価値表現へと転じ、遂には、感情表現にまで収斂したことになる。これは、名詞化し、
こなし、
となると、
こなすこと、
自分の思うままに取り扱うこと、
という意の他に、
とりなし。男女ともに、よく取り入りて、心のままに引く貌(かたち)を言ふに通ふ詞也(色道大鏡)、
と、
物のとりなし、その場の適当な振舞い、
の意で使われ(岩波古語辞典)、この振舞いの言葉が、歌舞伎用語「こなし」で、
台詞によらず主として動作で心理を表現する、
と特定した意味で使われる(江戸語大辞典)。
「思入れ」に似るが、顔の表情よりも身ぶりが主となる点で異なり、しぐさに重なる、
とあり(仝上)、
墾(こなし)、その場合相応の仕打、銘々の振りにてするをいふ也(天保十四年(1843)「伝奇作書」)、
とか(仝上)。「開墾」の「墾」を、「こなし」に当てているところは、なかなか含蓄がある。ちなみに、歌舞伎用語の「思入れ」は、
台詞によらず体の動きや顔の表情で心理を表現する演技、
とあり、作者は、ト書きで、
台詞の間で思入れを指定する場合は〇の符号を用いる、
とある(仝上)。また台詞のある場合は、
思入にて言ふ、
と指定する(仝上)、とある。
名詞「こなし」にも、
けなすこと、
ひどくやっつけること、
の意があり、今日でも、
頭(あたま)ごなし、
といういい方が残っている。これは、かつては、
頭(あたま)くだし、
頭(あたま)おろし、
頭(あたま)へし、
ともいい(大言海・江戸語大辞典)、
相手の言い分を聞かず最初から押さえつける、
意である。「へす」は、
圧(へ)し潰す、
意で(大言海)、「頭」は、
最初、
の意である(江戸語大辞典・日本語源広辞典・大言海)。ただ、「あたまくだし」は、
頭から水を浴びせかける、
意の他に、
歌を初句からなだらかに詠み下す、
意がある。その他に、
他人の言うことの理非も考えず最初から圧しつぶすこと、
の意がある。あるいは、「あたまくだし」は、前二者と、後者とは、意味が距り、由来を異にする言葉なのかもしれない。
「熟」(漢音ジュク・ズク、呉音シュク)は、
会意。享は、郭の字の左側で、南北に通じた城郭の形。突き通る意を含む。熟の左上は、享の下部に羊を加えた会意文字で、羊肉に芯を通すことを示す。熟は丸(人が手で動作するさま。動詞の記号)と火を加えた字で、芯にとおるまで柔らかく煮ること、
とある(漢字源)。これでは、少しわかりにくい、別に、漢字源の説を含めて、
会意形声。「火」+音符「孰」、「孰」は「享」+「丸(←丮)」の会意。「享(古体:亯)」は「郭」の原字で、城郭の象形、「丮」は、両手で工事するさま。「孰」は城郭に付属して建物を意味していたが、音を仮借し、「いずれ、だれ」の意に用いるようになったため、元の意は「土」を付し「塾」に引き継がれた。古体は「𦏧」であり、「羊」が加えられており食物に関連。「享」が献上物をとおして、「饗」と通じていたことから、饗応のための食物をよく煮る意となったか。藤堂明保(漢字源)は、「享」に関して、城郭を突き抜けるさまに似る金文の形態及び「亨」の意義などから、城郭を「すらりと通る」ことを原義としていることから、熱をよく通すことと解している。なお、「亨」に「火」を加えた「烹」も「煮(にる)」の意を有する、
と解説している(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%86%9F)。意味としては、「うれる」「なれる」の意で、
熟す、
といういい方だと、
成熟、
精熟、
熟練、
といったように、和語「こなす(熟)」と意味が重なる。和語の方は、けなす意味へとシフトしているが、当初、「こなす」に、「熟」という字を当てた見識に敬服する。
なお、「こなし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442172647.html)は触れたことがある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2020年12月18日
ことわり
「ことわり」は、
断、
理、
と当てる。「断」とあてる「「ことわり」は、
物事の理非を分かち定めること、判断、判定(源氏「中将はこのことわりを聞きはてんと」)、
申し訳、言い訳(源氏「いみじうことわりして聞こゆとも、いとしかるべいわざぞ」)、
前もって理由を告げること(浄瑠璃・淀鯉出世滝徳「きつう酔うて御座んす故、ことわりいうて内からお駕籠に召させます」)、
の意があり、「理」とあてる「ことわり」は、
道理、条理(万葉集「父母を見れば貴し妻子(めこ)見ればめぐし愛(うつく)し世間(よのなか)はかくぞ道理(ことわり)」山上憶良)、
格式、礼儀に適っていること(欣明紀「新羅ことわり無し」)、
理由、わけ(源氏「そのことわりをあらはにえ承り給はじ」)、
当然のこと、もっともなこと(源氏「人の御心を尽し給ふも、げにことわりと見えたり」)、
(副詞的に)もちろん、無論(枕草子「わが得たらむはことわり、人の許なるさへ憎くこそあれ」)、
の意がある(広辞苑)が、どうも両者に差があるとは思えない。
「断(斷)」(漢音タン、呉音ダン)は、
会意。「糸四つ+それをきるしるし+斤(おの)」で、ずばりと糸の束を断ち切ることを示す、
とあり(漢字源)、「上から下へズバリと断ち切る」意で、「決断」「切断」「断乎」である。
断は、ものを二つにたちきること。または物の中たえたることにも用ふ。断碑、斷橋、斷雲の如し。転じて、決断の義に用ふ。斷獄の如し、
とあり(字源)、「断」には、
ことわる、ことわり、理由を説明して相手の要求を退ける、訳を述べて許可を得る、又はその許可、
といった意味はない(仝上)。「理」(リ)は、
会意兼形声。里は「田+土」からなり、すじめをつけた土地。理は「玉+音符里」で、宝石の表面にすけてみえるすじめ。動詞としては、すじをつけること、
で(漢字源)、「物事のすじめ」「ことわり」の意で、「道理」「論理」と使い、
理は、玉を治むる義。筋道をただしてをさむるなり、
とあり(字源)、むしろこの「理」のほうが、和語「ことわり」に当てるのに適っている。
岩波古語辞典をみると、
話の筋道をつける、筋道を立てて説明する
↓
筋ありとする、道理ありとする、
↓
(理非・正邪の)判断を下す、
↓
前もって事の次第を知らせる、予告する、
↓
拒絶する、
という意味の流れが見え、
筋道が通っている、
↓
道理、
↓
判断、
が主たる意味の流れで、だから、
拒絶する、
や
もちろん、
という意はこの意味の流れから当然帰結するし、敢えて言えば、
前もって知らせる、
のが、
筋通に通じる、
とも言える。
大言海は、「理」と「断」を分ける。「理」は、
筋道、
礼儀、
の意であり、「断」は、
告げおくこと、
過去の過ちを詫びること、
拒むこと、
とする。つまり、
話の筋道をつける、筋道を立てて説明する
↓
筋ありとする、道理ありとする、
は「理」を当て、
(理非・正邪の)判断を下す、
↓
前もって事の次第を知らせる、予告する、
↓
拒絶する、
は、「断」を当てるとする。「理」の用例は古く、神代紀に、
於義(ことはり)不可、
とある(大言海)。用例を見ると、「断」は、近世以降に見える。
一般に、「ことわり」は、
動詞「ことわる」の連用形の名詞化、
とされ、「ことわる」は、
事割る(広辞苑)、
言割る(大言海)、
のいずれかとされる。「言霊」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba2.htm#%E8%A8%80%E9%9C%8A)で触れたように、一般的に、「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは、正確な言い方をすると、
こと
というやまとことばには、
言
と
事
が、使い分けてあてはめられていたが、古代の文献に見える『こと』の用例には、『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく、それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる、とある(佐佐木隆『言霊とは何か』)。
「ことわり」は、
物事の筋道を見つけたり、つくり出したりする意、
で(岩波古語辞典)使われたのがはじめと見える。そして、
「万葉集」や「竹取物語」などの中古前後の和文資料には、動詞コトワルの例がみられず、中古中期などでも名詞、形容動詞の例に比べ、動詞例はごくわずかであるところから、
ことわり(名詞)→ことわる(動詞)、
という転化ではないか、と見る説がある(日本語源大辞典)。大言海は、動詞も、「断る」と「理る」を区別している。
言い別く、裁断す、判断す、
言い訳する、
を「断る」「理る」と当て、この転として、
告げおく、報告する、
理(ことわり)を云ひて押し戻す、
拒む、
を「断る」と当て、
常に断の字を当てるも(「断る」「理る」より)移れなり、
と。江戸語大辞典は、
断る、
と当て、
告げる、
訴える、
届ける、
抗議する、
意を載せる。
「理」の意味が、
筋道、
の意味から、主体の、
(理非・正邪の)判断を下す、
↓
前もって事の次第を知らせる、予告する、
↓
拒絶する、判断する、
といった言動にシフトした時が、動詞化のきっかけであり、「理」と「断」の分化につながったのではないか、と推測する。
参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年12月19日
船場煮
「船場煮」というものがある。
塩鯖と短冊形に切った大根を昆布だしで煮た汁もの、
とある(広辞苑)。
塩または粕・味噌煮の肴と大切りの大根・人参などの野菜を取り合わせた鍋料理、
ともある(岩波古語辞典)。
船場汁、
船場鍋、
せんば、
ともいう(仝上・たべもの語源辞典)。
(さばの船場汁 https://www.nissui.co.jp/recipe/00962.htmlより)
薄味で汁たっぷりに煮たもの、
だが、今日多くつくられるのは、
大根と塩鯖の汁、
で、江戸時代は、
せんば、
せんばいり、
せんばに、
と呼ばれ、
千羽、
千羽煎、
前葉煮、
と当てられていた(たべもの語源辞典)。「千羽」は、
煎り鳥の手軽な料理法、
で、
わけなく千羽でもできる、
ということで名づけられた(仝上)、とある。江戸時代の川柳に、
からざけをせんば煮にする照手姫(宝暦十三年(1763)「川柳評万句会」)、
というのがある(江戸語大辞典)。
どうも初めは鳥料理だったらしい。
鳥肉にだしにたまりを少しさしてつくった、
とある(仝上)。
せんばいり、
は、煎り鳥に青物を加えて、
前葉、
の名がついた(仝上)。
煎り鳥と同じ料理法、
ということを示している(仝上)。鳥からはじまって、タイ、サケ、マスなとげの魚を用いるようになる、とある(仝上)。室町後期の《証如上人日記》《津田宗及自会記》には、
雁およびヒラタケ(平茸)のせんばいり、
が記録されているが、これはそれらの材料を煎りつけるように煮て、塩、ことに焼塩で調味したものだった(世界大百科事典)、とあり、《料理綱目調味抄》(1730)にも、
船場煮の名が見え、
船場煮、熬(いり)とも、
とあり、
大略うしほ煮のごとく多くは塩魚に大根、ふき等を加ふ、
とある(仝上)。
船場、
という字が当てられたのは、船場では、
使用人の待遇が非常に悪かった、おかずにしても、一日一度の菜葉に、あと二度は、一斗塩漬けという塩辛いたくあんと、ダイコンの葉をきざんで塩漬けにしたものがあればいい方で、たまに魚がでても、イワシ、サバ、サケなど塩干しくらいであった。これらの粗末な材料を利用してつくったのが船場煮であった、
とあり(仝上)、一名、
丁稚汁、
ともいい、
薄い塩味に、鯖の脂が適度に加わり、何杯でもお代わりが出来るし、それで相当に腹が張るので、しぜん、飯のほうはそれほど食べられない。旨い上に、至極経済的でもある、
ともある(大阪歳時記)が、船場の商家の食生活は、
「朝粥や昼一菜に夕茶漬け」といわれる、つましいものでした。日常は野菜本位のお惣菜で、月に2回だけ魚がつきました。その塩鯖や塩鮭を食べた後の頭やアラを出汁にして短冊にした大根を煮たのが船場汁で、いわば廃物利用の食物です。塩鯖一本で十人前のおかずになる、などとして魚を全部使っている例もありますが、これも頭から中骨まで使い切る無駄のない料理です、
とあり(日本国語大辞典)、使用人ではなく、
つましかった大阪船場の商人が食べた、
とされるらしいが、何れが正しいかは別として、これが、
船場煮の由来、
とする説がある。しかし、この説は、付会らしい(日本語源大辞典)。大言海は、
洗馬煮、
と当て、
木曽山中の洗馬駅に起こる、
とあり、
鰹・鮭の類の鹽漬魚を湯にて煠(ゆ)でこぼし、鹽気を去り、鰹節出汁煮にて煮たるもの、
とある。東海道中膝栗毛には、
鮪のせんば煮も、おざりまあす、
とある(大言海)。他に、
前葉煮の意(上方語源辞典=前田勇)、
という説も、
塩鯖の頭や中骨と短冊に切った大根を入れて作った潮汁(うしおじる)」のこと、
という説もある(日本国語大辞典)。どうも、入っている具も、
塩漬魚、
と、
鳥肉、
では差がありすぎる。ひょっとすると、鳥系の、
千羽、せんばいり、前葉、
と、塩漬魚系の、
船場煮、
洗馬煮、
とは、由来を異にするのかもしれない。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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2020年12月20日
あしびきの
「あしびきの」は、
足引の、
と当てる。奈良時代は、
あしひきの、
と清音であった(岩波古語辞典)。
「山」「を(峰)」にかかる枕詞である、
が、かかり方は未詳(仝上)、とある。万葉集には、
絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花咲かむ春へは君し偲(しの)はむ(播磨娘子)
あしひきの山のしづくに妹(いも)待つとわが立ち濡れし山のしづくに(大津皇子)
あしひきのやまどりのをのしだりをのながながしよをひとりかもねん(柿本人丸)
等々、多くの歌がある。
「山」及び「山」を含む複合語、「山」と類義語「を(峰)」にかかる、
枕詞が(日本語源大辞典)、次第に、
あしひきの岩根(いはね)こごしみ菅(すが)の根を引かば難(かた)みと標(しめ)のみそ結(ゆ)ふ(大伴家持)
あしひきの木の間立ち潜(く)く霍公鳥(ほととぎす)かく聞きそめて後恋ひむかも、
等々と、
「山」の意を含み、「岩根」「木の間」などにかかる、
ように変ずる。
枕詞を言馴れて、下略して、直ちに山の義とす、
とある(大言海)。本来、
あしひきの岩根(いはね)、
は、
あしひきの(山の)岩根、
を略した使い方になる、ということである。
ひさかたの(天の)月、
ぬばたまの(夜の)夢、
の用例の如し(仝上)、ということである。「岩根」「木の間」以外にも、
「あらし」、「をてもこのも」にかかる例がある。「岩根」、「木の間」は、山に関連する語であり、「あらし」は山から吹き下ろす風、「をてもこのも」は山のあちらこちら、と理解できるので、山にかかる枕詞として「あしひきの」が定着し、慣用化されて、山の意味を内包する語として成立したと考えられる、
とある(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193)。
この「あしひきの」の語源については、
アシヒキは万葉仮名ではkïの音の仮名で書いてあるから、四段活用の「引き」ではなく、ひきつる意をあらわす上二段活用の「ひき」であろう。医心方の傍訓には「攀」をアシナヘともヒキと訓んだ例がある。なお、平安時代の歌人たちは、アシヒキのアシを「葦」の意に解していたらしい、
とあり(岩波古語辞典)、特殊仮名遣いについては、
一字一音で記された例(「阿志比紀」(允恭記など)や「足日木」の表記は、乙類仮名であり、「足引」「足疾」「足病」「足曳」の表記は、甲類仮名であり、甲類乙類の仮名が混同されている。甲類仮名による表記は、記紀や万葉初期の歌には、用いられておらず、柿本人麻呂歌集以降にしか表れていない。人麻呂は新たな枕詞を創作したり、従来の枕詞に新たな表記を用い枕詞の再解釈を行った例もあるので、原義が既に不明になった「あしひきの」の語も、新たな解釈が行われ、表意的な「足引」「足疾」などの用字が選択されたのではないか、
とある(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193)。したがって、たとえば、
推古天皇が狩りをしていた時、山路で足を痛め足を引いて歩いた故事から(和歌色葉)、
天竺の一角仙人は脚が鹿と同じだったので、大雨の山中で倒れて、足を引きながら歩いた故事から(仝上)、
国土が固まらなかった太古に、人間が泥土に足を取られて山へ登り降りするさまが脚を引くようであったから(仝上)、
大友皇子に射られた白鹿が足を引いて梢を奔った故事から(古今集注)、
アシヒキキノ(足引城之)の意。足は山の脚、引は引き延ばした意、城は山をいう(古事記伝)、
足敷山の轉。敷山は裾野の意(唔語・和訓栞)、
足を引きずりながら山を登る意、
「ひき」は「引き」ではなく、足痛(あしひ)く「ひき」か(広辞苑)、
『医心方』に「脚気攀(あしなへ)不能行」を一つの根拠として足の病の意、
等々は、
「あしひきの」の「あし」を「足」と解釈しているが、平安時代のアクセントからは、「葦」と理解すべきとの指摘もある。万葉初期では、「き」が「木」と表記される例もあり、その表記には、植物のイメージがあるかも知れない、
とし(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68193)、「あし」が「葦」と重なる例として、石川郎女が大伴田主に贈った歌を挙げ、
我が聞きし耳によく似る葦の末(うれ)の足ひく我が背(せ)つとめ給(た)ぶべし、
で、
足の悪い田主を「葦の末の足ひく我が背」と、足をひきずる様子が柔らかく腰のない葦の葉に喩えられている、
としている。
「あしひきの」「あし」を、「葦」とする説には、
一説に「あし」を葦と解する(広辞苑)、
古くはヤの音を起こす枕詞らしく、アシフキノヤ(葦葺屋)か、馬酔木の木から山を連想したとする(万葉集講義=折口信夫)、
国土創造の時、神々が葦を引いた跡が川となり、捨てたところが山となったので、葦引きの山という(古今集注)、
等々がある。大言海は、
冠辞考に、生繁木(オヒシミキ)の約轉と云へり(織衣(オリキヌ)、ありぎぬ。贖物(アガヒモノ)、あがもの。黄子(キミ)、きび)。上古の山々は、樹木、自然に繁かりし故、山にかかる。万葉集「青山の葉繁木山」。他に、語原説、種々あれど、皆、憶説なり、
と、
生繁木(オヒシミキ)の約轉説、
を採る。「青山の葉繁木山」は、柿本人麻呂の、
垣(かき)越しに犬呼び越して鳥猟(とがり)する君青山の繁き山辺(やくへ)に馬休め君、
である。
アオシゲリキ(青茂木)の約か(音幻論=幸田露伴)、
イカシヒキ(茂檜木)の意か(万葉集枕詞解)、
も同趣の主張になる。他に種々説があるというのは、たとえば、
悪しき日來るの意、三方沙弥が山越えの時、大雪にあい道に迷った時、「あしひきの山べもしらずしらかしの枝もたわわに雪のふれれば」と詠じたところから(和歌色葉)、
アソビキ(遊処)の音便(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アスイヒノキの意。アスは満たして置く義の動詞、イヒは飯、キは界限する義の動詞クから転じた名詞「廓(キ)」(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
あはしひくいの(会はし引くいの)。「は」は消音化し「くい」が「き」になった。「あはし(会はし)」は「あひ(会ひ)」の尊敬表現。お会いになりの意。「い」は指示代名詞のそれ。古い時代、「それ」のように漠然とことやものを指し示す「い」があった。「お会ひになり引くそれの」のような意だが、お会いになり引くそれ、とは、お会いになり(私を)引くそれであり、それが山を意味する(https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12447616732.html)、
等々である。しかし、何れも理窟をこねすぎる。「あしひきの」の「あし」が、「足」でなく「葦」なら、個人的には、次の説が最もシンプルで説得力がある。
「ヒ」の母交(母音交替)[iu]を想定してアシフキ(葦葺き)としただけですぐに解ける。〈茅屋ども、葦葺ける廓めく屋などをかしうしつらひなしたり〉(源氏・須磨)とあるが、アシフキノヤ(葦葺きの屋)をヤマ(山)と言い続けて「山」の枕詞としたものであるが、いつしかアシヒキ(足引)に母交をとげたのであった。
アツヒトノユ(猟人の弓)をユツキ(弓月)が岳と言い続け、ハルヒ(春日)のカス(霞)むカスガ(春日)と言い続け、鳥が鳴きアツマ(集)るアヅマ(東)と言い続けて、それぞれ枕詞が成立したのと同工異曲の造語法である(日本語の語源)。
平安時代のアクセントからは、「葦」と理解すべきとする説とも合致するではあるまいか。
参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95