2020年12月21日

千疋飯


「千疋飯(せんびきめし)」というのがある。

縮緬雑魚(ちりめんざこ)の炊き込みご飯、

をいう。

千疋飯.jpg


「ちりめんじゃこ」は、

縮緬雑魚(ちりめんざこ)の転訛、

イワシ類(カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚(シラス)を食塩水で煮た後、天日などで干した食品、

だが、

収量が多く、油分の少ないカタクチイワシの仔魚が用いられることが多い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%8A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%93

ちりめんじゃこ.jpg


ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた、

ようである(仝上・日本語源大辞典)。

白縮緬のしわのように見える、

のが理由である。「縮緬」とは、

縦糸にはほとんど撚り(より)のない糸を使い、横糸に強い撚りをかけた右より(右回りにねじる)と左より(左回りにねじる)の糸を交互に織ったものである。そのため精練すると布が縮み生地の表面にシボ(凹凸)が現れる、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%8A%E3%82%81%E3%82%93

布面に細かな縐(しじら)縮み

がある(日本語源大辞典)。

ちりめん.jpg


ちりめんぼし、

とも呼ばれる。「千疋」とは、

たたみいわし、

のことで、

カタクチイワシの稚魚(シラス)を洗い、生のままあるいは一度ゆでてから、(海苔をすくように)葭簀(よしず)や木枠に貼った目の細かい網で漉いて天日干しし、薄い板状(網状)に加工した食品、

である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%97・たべもの語源辞典)。「かたくちいわし」は、

別に、

ひしこ、

とも言うが、海苔のように抄(す)いて簀子(すのこ)に並べた様が、

小さい魚が千疋もいるように見える、

ので、

千疋、

と呼んだ(たべもの語源辞典)、という。「たたみいわし」は、俗に、

白子(シラス)、

といい、江戸では、

白子干(しらすぼ)し、

とも呼んだ。

たたみいわし.jpg


ということで、

千疋飯、

というと、「たたみいわし」ということになるが、

たたみいわし、

ちりめんざこ、

の差は、

生干し、
か、
煮干し、

の違いになる。しかし、一匹ずつばらばらになった

ちりめんざこ、

のほうが飯に良く混ぜ合せることができる(たべもの語源辞典)。この飯を、

茶碗に盛って、かけ汁をかけ、おろし大根、ネギの小口切、唐辛子など好みの加薬を用いて食べる、

とある(仝上)。

「千疋飯」と「疋」を使うのは、「疋」を、

布帛、絹織物の長さの単位、

として使い、

古くは四丈、令制では、小尺で五丈一尺、または五丈二尺(幅二尺二寸)、現在は鯨尺で六丈(約22.8メートル)で、幅九寸五分が標準、

とある(日本語源大辞典)ためかと思われる。

疋 説文.png

(疋(小篆) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%96%8Bより)

ちなみに「疋」(①漢音ソ、呉音ショ、②慣用ヒキ、漢音ヒツ、呉音ヒチ、③漢音ガ、呉音ゲ)は、

象形、足の形をえがいたもので、足の字と逆になった形で、左右あい対した足のこと。また左右一対で組をなすので、匹(ヒツ 二つで一組)に当ててヒツという音をあらわし、日本では、ヒキと誤読した。また正と混同して、正雅の雅をあらわす略字として転用された、

とあり(漢字源)、

動物を数える単位、

のほか、

織物を数える単位、

であり、

布二反のこと、

である。また、わが国だけの用例であるが、銭を数えるのに使った。「疋」は、

鳥目(ちょうもく 錢)十文の称、

である(大言海)。

百文を十疋とし、百疋を一貫文、

これが江戸時代は、銀貨一分に当たる。『奇異雑談集』『貞丈雑記』などによると、

1疋=10銭(文)とされたのは犬追物に使う犬1疋(匹)の値段が10銭(文)だったから、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8B・大言海)。

「疋」は、

ピキ、
ビキ、

と動物を数えるが、

ヒキ、

と訓ませるほかに、

くれはどりといふ綾をふたむら包みてつかはしける(後撰・詞書)、

というように、

ムラ、

と訓ませて、

巻いた織物を数える、

のに用いる。で、

千疋、

は、

ちむら、

と訓ませ、

布帛千巻き、

を指し、

たくさんの布帛、

の意であり、

せんびき、

とも呼ぶ(精選版日本国語大辞典)。

千疋飯、

の「千疋」は、あるいは、

たたみいわし、

を指している(たべもの語源辞典)のではなく、

千疋(ちむら)、

からきているのではあるまいか。「千疋」には沢山の意があり、

千疋猿(せんびきざる)、

というと、

くくり猿(布に綿を入れて作った猿のぬいぐるみ)を多くの糸で連ねたもの。女児の災難除けや芸能の上達などを祈る、

ものがある(広辞苑)。

千疋猿.png

(住吉大社の千疋猿 http://www.sumiyoshitaisha.net/charm/ema.htmlより)

なお、「いわし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460405863.htmlについては触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:千疋飯
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2020年12月22日

引出物


「引出物(ひきでもの)」は、

饗宴の時、主人から来客へ贈るもの、

の意で、

古く馬を庭に引き出して贈ったことから起こり、後には武具を贈った、

とある(広辞苑)。「引出物」は、

古くからの習俗であるが、《江家次第》の大臣家大饗に〈引出物 馬各二疋〉とあるように、平安中期以降の貴族たちの大饗に当たっては、ふつう馬が引き進められたが、鷹や犬、あるいは衣類も用いられている。武家の場合、源頼朝が1184年(元暦1)平頼盛を招待したとき、刀剣、砂金、馬を贈っており、刀などの武具がこれに加わる。こうした引出物とされた物からみて、この行為は本来、みずからの分身ともいうべき動物、物品を贈ることによって、共食により強められた人と人との関係を、さらに長く保とうとしたものと思われる、

とある(世界大百科事典)。後代は、

引出物の名のもとに馬代(うましろ)として金品を贈るのが普通、

になり(日本語源大辞典)、現在は、

鰹節、砂糖など饗応の膳に添える土産物、

更に広く、

招待客への土産物、

をいう。

結婚式など慶事に限らず、法事のお返しにも引出物という言い方をするが、結婚式引出物も、もともとは、

結婚披露宴に供された料理の一部を披露宴出席者の家族へのお土産として持ち帰ってもらうもの、

であったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E5%87%BA%E7%89%A9

「引出物」は、別に、

ひきいでもの、
かづけもの、
禄、
はな、
祝儀、
纏頭、
膳羞、

等々ともいう(大言海)、とある。「かづけもの」は、

被物、

と当て、

功を賞し、労をねきらふに賜う物、

で(大言海)、

禄、

ともいう。「禄」は、

封禄、

の給金の意の他に、

当座の褒美(かづけもの)として賜る物、

の意である(仝上・広辞苑)。

「膳羞」(ぜんしゅう)は、

「羞」は料理を勧める意で、料理。ごちそう、

の意(広辞苑)だが、

ひきでもの、

の意もある(大言海)。「纏頭」(てんとう・てんどう)は、

祝儀、はな、心づけ、

の意だが、

歌舞・演芸などをした者に、ほうびとして堪えるもの、もとは衣服を脱いで、その頭に纏わせた、

かずけもの、

ともいう(広辞苑・大言海)。

いま多くは、金銭なり、

とある(大言海)。「はな」は、

花、
華、

と当て、

かづけもの、

の意だが、

古へ、贈物には、草木の花枝をつけてやりしに起こり、転じて人に与ふる金銭などの称、

とあり(大言海)、

技芸を奏せる者に、当座の賞に与ふるもの、元は真に花を与えたり、後には専ら衣服、金銭となる、

とある(仝上)ので、

纏頭、

と同義であり、

芸者の揚げ代、
花代、

の意でもある(広辞苑)。ただ、

引出物の転、

ともされるが、

引き添ふるまでの意、

ともある(大言海)。

「引出物」は、また、

引物(ひきもの)、

とも言うが、

特に、膳に添えて出す肴やお菓子類、客の携へ帰るに供ふ、

をいう(岩波古語辞典・大言海)、とある。ただ「引物」は、

引出物の転、

ともされるが、

引き添ふるまでの意、

ともある(大言海)ので、本来の「引出物」の意味とは変わって、

饗宴の膳に添える物品、

を指すようになってからの用語に思われる。もともとは、「引出物」は、

ひきいでもの、

と訓んでいた。それが、

ひきでもの、

に転訛した。だから、

ヒキイデモノ→ヒキデモノ→ヒキモノ、

と転化したものと思われる(たべもの語源辞典)。ただ、『今川大双紙』に、

武家の間では、引出物は五献と定め、征矢、鞍鎧、太刀、小袖、馬とした、

とあり、この流儀が食膳にも及び、

1の膳 (本膳)、2、3、4(与)、5の膳というように、客がその席で食べられずに持帰るものをも予想した引出物の膳も備えた、

ともあり(ブリタニカ国際大百科事典)、「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れたように、

室町時代に主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く『御成』が盛んになり本膳料理が確立した、

というような、武家の習わしが料理にも確立する中で「引物」へと変化していったもののようである。

本膳料理 膳組.gif

(本膳料理 三汁七菜膳組 http://hac.cside.com/manner/6shou/14setu.htmlより)

その場合も、「本膳料理」で、

客に膳を出すとき、本膳、二の膳、三の膳から焼物膳の次に引物をすすめた。焼物膳は本膳と二の膳の間の向こう右に、引物台は本膳と三の膳の向こう左に置いた。下げるときに、台も一緒に引くので「台引」ともいう。ほとんど客はこれに箸をつけず、みやげ料理となった(たべもの語源辞典)、

とする説と、前出のように、

客の膳部に別に添える菓子などの類、

なので、

引き添える物、

から来たとする説(仝上)とがある。いずれにしても、「引出物」は、

饗宴のみやげ、

に変わっている。「引物」には、

焼物・鴫・酢うなぎ・蒸貝・焼鮎・伊勢海老・蒲鉾・煮蒲鉾・いり鳥・つぐみ・千甘鯛、

等々があると料理書には載る(仝上)という。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:引出物 引物
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2020年12月23日

菱餅


「菱餅」は、

熨斗餅を菱形に切ったもの、

で(大言海)、

鏡餅に戴す、

また、

餅を菱形に切りて、三枚重ねたるものは、三月の雛祭りに供す、

とあり、これは、

小笠原氏の家紋の、三蓋菱に因(ちな)めるものかと云ふ、

とある(仝上)が、それは間違いで、

菱形は、桃の葉をかたどったものである、

とある(たべもの語源辞典)。「鏡餅に戴す」というのは、古く、

鏡餅の上に菱餅を載せる、

風習がありhttp://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui8/data8-1/index8_1_1_2.htm、御所では、

2段重ねの餅の上に薄く丸いはなびらという白い餅が12枚、上に高黍菱餅、さらに砂金餅、伊勢海老がのせられていますhttps://ameblo.jp/chocola0927/entry-10195189166.html

とか、

加賀藩・前田家の鏡餅。城内床の間に飾られる鏡餅は丸い紅白鏡餅の上に菱餅を12枚その上に丸餅を16枚、ほんだわら、熨斗鮑、昆布、串柿、橙。水引結びの伊勢海老と金塊に砂金袋がのせられ、譲り葉、裏白が飾られます(仝上)、

という例がある(仝上)。

菱餅.jpg


雛祭りに飾る菱餅は、白・赤・緑の三色を用いるが、

地方によっては異なり、2色であったり、5色や7色になっている餅を菱形に切って重ねて作る地域もある。今の形になったのは江戸時代からである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85

白は普通に搗いた餅を切り、紅はしょうえんじ(生臙脂)か食紅で、緑は草餅の汁で色を染めて搗く。やや柔らかく搗き上げた餅を、菱形に詰めて形状を整え、粉を敷いた板の上で冷まし、餅の間を水で示して三枚か五枚に重ねあわせる。後、庖丁に水をつけ、菱台に合うように、その周りを立ち落とす、

とある(たべもの語源辞典)。「生臙脂」(しょうえんじ)は、江戸時代に中国から渡来した鮮やかな紅色の染料である。

菱形にした餅、

ということで、「菱餅」となづけられた(仝上)。餅は、

白色の他、青・紅・黄や、もちぐさなどで色づけする、

という(仝上)。なお、御供餅の上に重ねる際は、餅の周囲を切り落とさない、という(仝上)。

赤い餅は、

先祖を尊び、厄を祓い、解毒作用がある山梔子の実で赤味を付けて健康を祝うためであり、桃の花を表している、

白い餅は、

この白い色が清浄を表し、残雪を模している。また、菱の実を入れて血圧低下の効果を得るという意味もある、

緑の草餅は、

初めは母子草(ハハコグサ)の草餅であったが、「母子草をつく」と連想され、代わりに、増血効果がある蓬を使った。春先に芽吹く蓬の新芽によって穢れを祓い、萌える若草を喩えた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85。これを、

赤は「桃の花」を、白は「純白の雪」を、緑は「新緑」を連想させるということで、組み合わせによって「春の情景」を表現しているのです。下から「緑・白・赤」の順番で配置されている菱餅は、雪の下に新芽が芽吹き、梅の花が咲いている情景。下から「白・緑・赤」の順番のときは、雪の中から新芽が吹き出、桃の花が咲いている情景です、

と絵解きしhttps://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/

菱形の形は、大地を表す、

という説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85

なお、宮中では、菱餅のことを、

オヒシ、
ヒシガチン、

ともいい、

ヒシハナビラを「御焼ガチン」と呼ぶ。餅をオカチンというので、ヒシハナハナビラは焼いた餅である、

とある(たべもの語源辞典)。足利時代の「牛中定例記」によると、

おもてむき御対面過て、内々の御祝まいる。次にあかきもちゐ白きひしのもちをやがてかさねて、ちぎりて、角之折敷にすへ、ちいさき土器にあめを入てそへて、御四方にすハりて参候。此もちゐ御老女うやかれ候、

とある(仝上)。すでにこの時期、菱餅が用いられていた。しかし、雛祭りの雛壇に菱餅を供えるのは、江戸後期になってのことである(仝上)。

菱形については、

宮中で正月に食べられる菱葩餅が起源であるという説、
元は三角形であったが、菱の繁殖力の高さから子孫繁栄を願ったという説、
菱の実を食べて千年長生きしたという仙人にちなんで長寿の願いを込めて菱形にしたという説、
室町時代の足利家には、正月に紅白の菱形の餅を食べる習慣があり、宮中に取り入れられて、草餅と重ねて菱餅になったという説、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85がはっきりしていない。

ただ、「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.htmlで触れたように、餅には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米(もちごめ)の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米(うるちまい)を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(日本食生活史)。

はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、

内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、

と呼ばれたとある。「カチン」は、

搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、

とみられる(仝上)。

三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、

は中世になってからであり、

雑煮、

は江戸時代になってからである。この時代になって、

正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、

等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)のである。

また「草餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.htmlで触れたように、

上巳(じょうし)の供とす、

とある(大言海)。

古への、母子餅(ははこもち)の遺なり、

ともある(仝上)。鎌倉時代後期の「夫木抄」(夫木和歌抄 ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)に、

花の里、心も知らず、春の野に、はらはら摘める、ははこもちひぞ(和泉式部)、

とある。「ははこもちい(ひ)」は、

母子(這兒)に供ふる餅の義ならむ、

とある(仝上)。「母子(ははこ)」とは、

這兒、

であるが、この流れは「天兒(あまがつ)」から始まる。

「天兒」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460034293.htmlは、

幼児の守りとして身の近くに置き、凶事をこれに移し負わせるのに用いる信仰人形。幼児用の形代として平安時代に貴族の家庭で行われた。『源氏物語』などの諸書には、幼児の御守りや太刀(たち)とともにその身を守るまじない人形の一種として登場する。1686年(貞享3)刊の『雍州府志』によると、30センチメートルほどの丸い竹1本を横にして人形の両手とし、2本を束ねて胴として丁字形のものをつくり、それに白絹(練り絹)でつくった丸い頭をのせる。頭には目鼻口と髪を描く。これに衣装を着せて幼児の枕元に置き、幼児を襲う禍や穢をこれに負わせる。1830年(文政13)刊の『嬉遊笑覧』には子供が3歳になるまで用いたとある。天児を飾ることは室町時代に宮中、宮家などで続いてみられ、江戸時代には民間でも用いられるようになった。また天児と同じ時期に発生した同じような人形に縫いぐるみの這子(ほうこ)があり、江戸時代に入ると天児を男の子、這子を女の子に見立てて対にして雛壇に飾り、嫁入りにはこれを持参する風習も生まれた、

とある(日本大百科全書)。室町時代の「御産之規式」には、

あまがつの事は、はふことも言ひ孺形(じゅぎやう)とも云ふ。是は若子の御傍に置きて、悪事災難を、このあまがつに負はするなり、若子の形代なり、

ともある。つまり、

稚児の身に副へおく、祓いの人形(ひとがた)、

であったものが、後世、

小兒の守として、枕頭に置くものとなり、幼児の形したる人形、

となり、

室町時代には白絹にて綿を包みて作り、江戸時代になると、尺余の竹筒に、白絹にて頭を作りつけ、又、尺余の竹筒を其下に横たへて、両肩とし、白絹の小袖を着す、小袖には、金銀にて、鶴・龜、松、竹、寶盡しなどを画く、

ようになる(大言海)。この「あまがつ」が雛人形につながるのだから、

後世此の餅をひなに供す、

となることになる(広辞苑)。つまり、「菱餅」の由来の一つは、

母子餅、

になる。「ははこもちひ」は、

古へ、米の粉に、ははこぐさ(母子草)の葉を和し、蒸して製したる餅、

で、

又、今のくさもちひ(草団子)、後に艾餅(よもぎもち)の草餅となる、

とある(大言海)。『三代実録』の嘉祥二年(849)三月三日の条に、母子草を、

蒸しつきて糕(もち)とす、

とある(たべもの語源辞典)。中国では、

鼠麹草(そきくそう)、

を用いていた。「ははこぐさ」の漢名である。そのため、昔は母子草を用いていたが、

室町中期頃から艾(もぐさ)

を用いるようになる。

よもぎ(艾)、

である。「母子草」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474409213.htmlは、春の七草のひとつ、「ごぎょう(御形)」のことである。「母子草」は、

臼と杵を陰陽と考える伝説もあって、母と子を同じ臼に付くことを忌む、

考え方から、母子草を用いることが廃れた、とある(たべもの語源辞典)。

「草餅」の起源は、中国である。

周の幽王が身持ち放埓のため群臣愁苦していたとき、三月上巳曲水の宴に草餅を献上するものがあった。王がその味を賞味して宗廟に献じしめた結果、國大いに治まって太平になったという。後にこれにならって祖霊に進めるようになったのが起源、

とされる(たべもの語源辞典)。荆楚歳時記によると、

6世紀ごろの中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜(みつ)を合わせ、それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習俗があった、

とされる(世界大百科事典)。これが日本に伝えられた、とみられる。「菱餅」の緑は、草餅に由来する。

これが、どういう経緯で「菱餅」になったかはっきりしないが、菱形になったのは江戸時代初期とされる。当時は、菱の実から作られた白い餅の層と菱の実の餅を蓬で色付けした緑の餅の層の二色、それを3段~5段組み合わせた、とある。三色になったのは明治時代というhttps://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:菱餅 草餅 母子餅
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2020年12月24日

のっぺい


「のっぺい」は、

能平、
濃餅、

と当て、

油揚、大根、椎茸・人参・里芋・蒟蒻・豆腐などをすまし汁に仕立てて、葛粉を加えてとろみをつけた料理、

で(広辞苑)、日本全国に分布する郷土料理の一つであり、

のっぺい汁、
ぬっぺい、
のっぺい鍋、
のっぺい煮、
のっぺい湯(とう)
のっぺ、
のっぺ汁、
のっぺ鍋、
のっぺ煮、

等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81、たべもの語源辞典、広辞苑)、微妙に訛ったさまざまな呼び名がある。

のっぺい汁.jpg

(のっぺい汁 https://www.honmirin.org/recipes/70より)

鶏肉と豆腐、ニンジン、ダイコンなどの野菜を刻んで煮て、葛粉や片栗粉を加えてとろみをつけた料理、

と(たべもの語源辞典)、鶏肉と豆腐に主眼を置いたものもあるので、

料理の際に残る野菜の皮やへたをごま油で炒め、煮て汁にしたもの、

で、

地域によって使用する材料やとろみの加減などが大きく異なり、

主にサトイモ、ニンジン、コンニャク、シイタケ、油揚などを出汁で煮て、醤油、食塩などで味を調え、片栗粉などでとろみをつけたものであることは共通する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81が、たとえば、新潟県の「のっぺ」は、

「汁」でも「澄まし汁」でもなく「煮物」であり、残った野菜を使うわけでもなく、ごま油で炒めるようなことはしないため、「のっぺい汁」とは異なる、

ともあり(仝上)、名前は同じでも、具も、中身も微妙に異なる場合がある。江戸語大辞典には、

豆腐・人参・牛蒡などを葛煮にした汁、上方は同名異物、

とある。

はじめは小麦粉でとろみをつけた。汁を残さず食べる目的で葛を使ったものと思われるが、中国料理が多くこれを用いていたので、中国伝来の料理法、

ではないか、とする(たべもの語源辞典)が、原型は、

寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理「雲片」を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%84%E6%B1%81

「普茶料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.htmlの「雲片(うんぺん)」とは、

調理の際に残ったへたなども余すことなく、細かく刻んで葛でとじ、雲に見立てた、

普茶料理の代表的な料理、

であるhttps://www.obakusan.or.jp/eat/が、

数種の野菜類を刻んでごま油で炒めて調味し、水溶きのくず粉でとろみをつけた料理、

で(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典)、料理山家集(1802)には、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なし、

とあり、「ごま油」を用いるのが特色である。

雲片.jpg


本来は、鶏肉料理であったものが、野菜だけ用いる料理にもその名がついた、

とある(たべもの語源辞典)が、

「卓袱(しっぽく)料理」の精進なるものが「普茶料理」

である(大言海)なら、その「雲片」を始原とする「のっぺい」は、逆に、初め野菜だけだったのではあるまいか。

「のっぺい」は、

ぬらりとしている意の「ぬっぺい」が訛って「のっぺい」となった(たべもの語源辞典)、
滑(ぬめら)の意(大言海)、

という説がある。「濃餅」と当てたのは、

汁が粘って餅のようであるから(たべもの語源辞典)、

という理由とする。他に、

のっぺり(擬態語)+汁(日本語源広辞典)、

というのもある。江戸語大辞典には、

のっぺいやろう(濃平野郎)、

という言葉が載る。

なまっ白いのっぺい野郎、

というように、

のっぺい汁のようにのっぺりした野郎、

の意で、

美男や優男を罵った言葉、

らしい。「のっぺり」は、

表面が滑らかで起伏がないさま、

の意で、江戸時代、

ぬっぺり、
ぬっぺら、
ぬっぽり、

とも使い(擬音語・擬態語辞典)、「のっぺり」よりも、

ぬっぺり、

の方が古い言い方で、

内心をあらわさぬ平然とした様子、

の意味もある(仝上)。

のっぺらぼう、

の「のっぺら」は、

のっぺり、

の方言になる。こうみると、

のっぺい、
ぬっぺい、
のっぺ、

は、「のっぺり」「ぬっぺり」の転訛とみるべきではあるまいか。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年12月25日

白雪糕


「白雪糕(はくせつこう)」は、

白雪糖、
白雪羹、

ともいい、

落雁の一種、

軟落雁、

ともいう(日本大百科全書)。

精白した粳米〈うるちまい〉粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とある(仝上)。

白雪糕泣き止む寝々様(ねねさま)、

という諺や、

七人目白雪こうで育て上げ(柳多留)

という川柳があったように、「白雪糕」は、

砕いて湯にとかし、母乳の代用品、

とされた(江戸語大辞典・精選版日本国語大辞典)。

「糕」(コウ)は、

形声。「米」+音符「羔(コウ こひつじ)」、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B3%95。「糕」は、

餻(コウ)、

と同じで、

ケーキ。こなもち。穀物の粉を他の成分とまぜて蒸し固めた菓子、

の意である(仝上)が、

北宋以後、重陽節は菊花をめでる日ともなり、種類の飛躍的な増加とともに、菊の鉢を山や塔の形に陳列したり、展覧会が開かれたりした。また唐代以来、米の粉を蒸して作った菓子〈糕(こう)〉を食べる風習があり、重陽糕・花糕とも呼ばれ、互いに贈答しあった。現在、重陽節は菊花をめでることなどを除けば、ほとんどすたれている、

とある(世界大百科事)。本来のハスの実の粉末の代わりに、海藻に、さらにシソの葉の粉末にかえたものが宮城県塩竈市の「しおがま」であり、煎り玄米を混ぜたものが島根県松江市の「菜種の里」である。この菓子と並ぶ「山川(やまかわ)」は紅白だが、着色の場合は砂糖を染めて用いる。また白雪糕に少量の塩を入れ、餡を包んで型押しすると塩味まんじゅうとなる。さらに白雪糕を木型に押して乾燥させれば口あたりの堅い落雁となる、

ともある(仝上)。

「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.htmlで触れたように、落雁の製法には、

①すでに蒸して乾燥させた米(糒(ほしい、干飯))の粉を用い、これに水飴や砂糖を加えて練り型にはめた後、ホイロで乾燥させたもの、
②加熱していない米の粉を用いて、上記同様に水飴を加え成型し、セイロで蒸し上げた後、ホイロで乾燥させたもの、

二通りあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81が、

近松や西鶴の作品では魅力的な歌詞として登場するが、現在のものとはやや違い、『御前菓子秘伝抄』(1718)には、干飯を煎り、砂糖蜜で固めたものとあるので、いわゆる「おこし」に近かったものと思われる、

とある(日本語源大辞典)。「おこし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.htmlについては触れた。

通常は、上記の①は落雁、②は白雪糕(白雪羹)(はくせつこう。関西地方では「はくせんこ」とも)と呼ばれるものである(仝上)。ただ、

加熱処理済の粉を砂糖で固めた日持ちのよい落雁が普及すると、熱処理していない米粉を成形して蒸す白雪糕(はくせきこう)が廃れ始めた。『和漢三才図絵』は、白雪糕といいながら、その実、落雁の製法と同じものがあることを指摘している。結局、本来の製法の白雪糕は消えてしまったが、名前だけは残り、現在でも西日本には落雁の類をハクセッコー、ハクセンコーと呼ぶ地方がある、

とある(日本語源大辞典)。「白雪糕」は、

色が白いところが特色であるから白雪と名づけられた、

もの(たべもの語源辞典)だが、

さんぎがし、

とも呼ぶのは、占いに用いる、

算木の形に似ている菓子、

だからである(仝上)。「落雁」の製法は、

明時代の中国における軟落甘に基づく。これは小麦粉・米粉を水飴や脂肪で練り固めて乾燥させた菓子で、西~中央アジアに由来するといわれ、元時代に中国に伝来した、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%9B%81、室町末期に、「軟落甘」の和製化したものであるが、「白雪糕」は、

元禄年間(1688~1704)に清の商人陳芝香が長崎の女性に唐菓子を教えてつくらせた口沙糖(こうさとう)が長崎名物になったが、これが先駆、

とされる(たべもの語源辞典)。

白雪糕.jpg

(新潟・大黒屋の白雪糕 https://www.icoro.com/200901112583より)

宝暦・明和(1751~72)ころ、名古屋、越後高田でつくられたものがあり、尾張名所図会には、

名産白雪糕、……興米(おこし)の一種、

とあり(大言海)、高田のものは、

精製された粉が細かいので口の中に入れると雪の如く消える、

ところから

越の雪、

と名づけられた、とある(たべもの語源辞典)。江戸には、安永年間(1772~81)に神田豊島町に米屋吉兵衛が、

仙錦糕(せんきんこう)、

と、唐菓子の原名そのままで売り出した、とある(仝上)。

良寛が、死の前年の文政13年(1830)、病に倒れ衰弱の激しい折、滋養に富む白雪糕を望み、

白雪羔少々御恵たまはりたく候 以上 十一月四日 菓子屋 三十郎殿 良寛、

と、出雲崎の菓子屋宛の手紙が残っているhttps://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/018/

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年12月26日

二八蕎麦



「二八蕎麦」は、

蕎麦粉八、うどん粉二で打った蕎麦、寛文(1661~1673)頃定式化したという、

の意と、

天保の頃、もり・かけ一杯の値が16文だったことから、安価な蕎麦、「にはち十六」に掛けて「二八そば」と呼んだ、

の二説がある(広辞苑・大言海)。個人的には、江戸ッ子気質から見て、

当時、「二六」「三四」で12文というのもあったようですし、「二八うどん」もあったことから「しゃれ」から来た代価説が元々の起源、

というhttps://www.itomen.com/product/brand/28soba/history.php「しゃれ」説が妥当だろう。

蕎麦屋.jpg

(歌川国貞「今世斗計十二時 寅ノ刻」の蕎麦屋の屋台 https://otakinen-museum.note.jp/n/n428f41694305より)

江戸後期の『嬉遊笑覧』に、

享保半(1725)頃神田辺にて二八即座けんどんといふ看板を出す、二八そばといふこと、此の頃始なるべし、

とある(たべもの語源辞典・大言海)。ちなみに、「けんどん」とは、

倹飩、
慳貪、

と当て、

江戸時代、蕎麦、饂飩、飯、酒などを売るとき、一杯盛り切りにしたもの、

を言う(広辞苑)が、「けんどん」は、

上から蓋・扉をはめこむもの、

をもいい、出前用の岡持ちのことを、このふたが「けんどん」になっていることから「けんどん箱」とも呼ぶ。蕎麦屋・うどん屋のことを「けんどん屋」と呼ぶことの由来とする説もある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B9%E9%A3%A9

蕎麦の値段は、

寛文四年(1664)に玉売りが始まったころは八文、その後、七文、六文、寛政年間(1789~1801)には、十四文、文化・文政年間(1804~30)になって十六文、天保年間(1830~44)には十六文が通り相場となった、

とある(たべもの語源辞典)。

二八のぶっかけ、
二八蕎麦切、
二八の蕎麦、

等々いずれも「二八蕎麦」のことだが、「二八蕎麦」とは、

駄そば、

の意である(仝上)。16文は、

天麩羅蕎麦32文、
豆腐一丁50文、
豆腐田楽一本2文、
串団子一本4文、
長命寺の桜餅4文、
しじみ一升10文、
ところてん一杯70文、
鮨一貫8文、
大福餅一個4文、
納豆一束4文、
米一升100文https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/25/news108.html

あるいは、

チリ紙1帖7文、
銭湯6文、
浮世絵1枚32文、
草鞋一足15文、
沢庵1本15文、
あんま一回50文、
長屋の家賃600文(月)、
蝋燭(7匁掛)1本18文、
髪結28文https://www.kumanekodou.com/tayori/13666/

等々と比べてみると、物価変動があるので、あくまで目安だが、必ずしも安いとばかりは言えない、微妙な値段に思える。

「蕎麦切り」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.htmlで触れたように、

明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、煮売り(振売り)が急増、その中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた、

というhttps://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/

最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年(1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かった、らしい(仝上)。「かる口」(貞享)には、

「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」

とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、

「むしそば切、一膳七文」

とある。これは、「夜鷹そば」とよばれたものもの値段に思われる。元文(1736~41)頃から、夜そば売りが「夜鷹そば」と呼ばれるようになる、とある。売り物は温かいぶっかけ専門だった、らしい(仝上)。天保・嘉永期(1830~54)になると、「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)とある(仝上)。

物価の上昇から慶応年間に値上がりし20文を超えるようになったころから、「二八そば」とは、そば粉8割、小麦粉2割のそばを表すという文献が著され、「二八そば」は割合を示す名称と言われるようになった、

とされるhttps://www.itomen.com/product/brand/28soba/history.php。確かに、

二八蕎麦が蕎麦粉と小麦粉の混合率であるとする説を唱えたのは、嘉永・慶應(1848~68)になってからで、「二八うどん」(江戸中期以降の一杯十六文のすうどん)という名称もあるし、一八(一杯八文)とか二六・三四そば(一杯十二文の意)という呼称もあり、混合説では説明がつかない(たべもの語源辞典)。

今市中に二八と看板を出すことは、細井廣澤が、神田三河街の杵屋と呼ぶ蕎麦屋を売る者へ、一蒸籠を錢十六文に定めし時に、松板へ二八と價を書與へしより始まる(先哲叢談)

ともあり、

慶応年間(1865~1868)以前には、2×8=16で、1杯16文のそばをいったとされる。時代が下って小麦粉を混ぜて作ったそばに質の低下したものが増えると、「二八そば」はそのような安価なそばの代名詞のように用いられ、高級店ではそば粉だけで打つ『生そば』を看板とした。こんにちでは単に配合をいい、そばの質や店の格とは無関係に用いる(和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典)、

幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになってニハチの根拠が無くなってしまう。それで一時期は単に「二八そば」という呼称だけが習慣として残ることになる。それがふたたび「二八」はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとして再出現し、さらに高品質イメージに加えて、「打つ側も味わう側も」ちょうど頃合いの配合比率であったところから、「粉の配合割合」を表す言葉として、「二八の割合」という新しい解釈が生まれて現在に至ったhttp://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html

というのが今日の用法の背景だろう。三田村鳶魚は、

玉子つなぎ・芋つなぎなんていうのを、格別に言い立てて売物にしていたのが、それを看板にしなくなったのは、天保以後だと思います。一体、一八・二八・三八などというということが、蕎麦と饂飩との配合の加減をいったものだという説がある。けれども、芋つなぎ・卵つなぎということから考えてみると、一方には、生蕎麦といって、蕎麦ばかりで拵えるということを呼びものにする。それも田舎蕎麦は生蕎麦であるということを標榜するために、手打蕎麦というのを名としてさえいる。もしつなぎに饂飩粉を入れる分量を名称に現すとしたならば、それだけ蕎麦が悪いことになる。正味の少ないことを看板にするようなもので、これはおかしい。だからだから昔から、二八といえば十六文、三八といえば二十四文というふうに、蕎麦の代価だと解している、

とし、さらに、

蕎麦粉は「引抜」といって、色が白くなりましたのは、寛政元年の秋からで、それまでは蕎麦というものは、少し黄色味を帯びたものと思っていたのです。これ等のものは、江戸ッ子なんていう連中が食うには、少し銭が高い。けれども、毎月二度や三度は物食いに出るというような風習をもっていた江戸ッ子は、奢りに行くと称して、随分五十文、七十文の蕎麦を食ったろうと思われる。 安い二八や三八の方はいうまでもない。その時分の労銀としては、三百か四百しか取れませんが、火事があった、嵐があったというようなことがあれば、日雇取連中は、二倍、三倍、甚しきは五倍も七倍もの賃銀を取った。 …江戸ッ子連中は、時たま、どうかして余分な銭でも取れれば、じきに何か食ってしまう。自宅では食えないものを食いに出掛ける。奢りにゆく風習は、彼の日常を存分に説明しています。あるいはまた下駄のいいのを穿く、手拭に銭をかける、というふうがあった、

とすれば、日常は、「二八蕎麦」は、まさに落語の江戸ッ子の食い物なのである。因みに、鳶魚の言う、

江戸ッ子、

とは、裏店(商売の出来ない場所)に住む、

日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない、

表店に住むのが、町人である。

蕎麦売り.bmp

(そば売り 精選版日本国語大辞典より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年12月27日

口上


「口上」は、

口状、

とも当てる。表記は、古くは、

口状、

で、「俚言集覧」(1797年頃)は、

(口上の)上の字は口状のかり字なるべし、

としているように、元は、

口状、

と当てた。大言海、広辞苑は、二つを分け、「口上」は、

口頭と云ふに同じ、言語上(クチノウヘ)にて演(の)ぶるを下略して、口上とのみ云ふなり、案内を知るを案内、獄門にかくるを獄門と云ふが如し、

とし、

言葉にて用事を申し述ぶること、
(文書(かきもの)なるに対し)演舌、
口演、

の意で、それを記録したものを、

口状、
または、
口上書(こうじょうがき)、

という、とする。「口状」は、

口頭で陳述すること、
もしくは、
口上書、

の意である。この意が転じて、

久敷う逢はぬうちに口上があがった(狂言・八句蓮歌)、

というように、

弁舌、
口のきき方、

の意となり(広辞苑)、さらに、

芝居の幕明きの前に、舞台にて、見物人に、狂言外題、役者替名、役割、其外を述ぶること、

とし、その述べる者を、

口上人、
口上言(いい)

という。

口上.bmp

(口上 精選版日本国語大辞典より)

「隅から隅まで」という意味で、東西あるいは東西東西(とざいとうざい)という呼び声に始まるのが通例。「仮名手本忠臣蔵」の大序(最初の部分)で、人形がすべての役名と演者を読み上げる習わしに往時をとどめる。現在では、口上といえば襲名興行や追善興行の際に行われることが多い、

とあるhttps://imidas.jp/genre/detail/L-108-0118.html

「口上書」には、

口上を記した文書、

の意の他に、

近世、武士・寺僧・社人に関する裁判上の口述の筆記で、当事者の捺印のある文書、

の意がある。寺社士以上は、

口上書、

というが、足軽以下、並びに百姓町人は、

口書(くちがき)、

と言った。要は、申し立てや、自白などを指す。ちなみに、島原の乱の唯一の生き残り、山田右衛門佐(右衛門作)の陳述(口供)は、侍扱いではなく、「山田右衛門作口書」として遺っている。

ところで「前口上」は、

本題に入る前に述べる口上、

で、芝居の幕開き前の、

口上、

と同義である。ただ、「前口上」は、由来が、

古代ギリシャ劇の合唱隊「コロス」の最初の登場に先立つ部分を指す「プロロゴス」という言葉が、

語源とし、「プロロゴス」は、

プロローグ、

の意で、

劇の内容の予告や劇の必要な情報を観客に提供したり、劇の出来栄えの言い訳をしたり作者の言葉を代弁したり、

と、「口上」と同義となるhttps://sanjijukugo.com/maekoujou/#i-2

なお、「口上」には、

口上茶番の略、

の意があり、「口上茶番」とは、

立茶番の対、

で、

坐ったままで種々の品物を取り出し、その品を種として洒落、諧謔を述べて越智をつける、

とある(江戸語大辞典)。「立茶番」つまり「茶番」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.htmlについては触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年12月28日

鏑矢


「濫觴」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469150181.htmlと同義の「嚆矢(こうし)」は、

鏑矢(かぶらや)、
鳴箭(めいせん)、

の意である。

矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(かぶら)が取り付けられた矢のこと。射放つと音響が生じることから戦場における合図として、合戦開始等の通知に用いられた、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

古く中国で開戦のしるしに『かぶらや』を敵陣に向けて射掛けた、

ことから、

始まり、

の意で用いる。「嚆」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

形声。『口+音符蒿(コウ)』で、うなる音を表す擬声語、

で(漢字源)、

矢のうなる音、

そのものを指す。出典は『荘子』在宥(ざいゆう)、

焉知曾(曾參)史(史鰌)之不為桀(夏桀王)跖(盗跖)嚆矢也、故曰、絶聖棄知、而天下大治(在宥篇)、

で初めて、「始まり」の意で使われたとされる。「賢者として知られた曾子や史鰌(しちゅう)も、極悪人として有名な桀王や盗賊団の主領の盗跖(とうせき)も『嚆矢』ではなかった、とだれに言えるだろうか」と、こざかしい知恵を振り回すことが世の中の乱れの原因だと嘆いている(故事成語を知る辞典)。

鏑矢.bmp

(鏑矢 精選版日本国語大辞典より)

「鏑」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。「金+音符適(テキ まっすぐに行く)の略体」。まっすぐにとがったやじり、

とある(仝上)が、「鏑」は、

かぶら、

と訓ませ、

木・竹の根または角で蕪(かぶら)の形に作り、中を空にし、数個の孔を穿って矢につけるもの、

の意で、多く、

雁股(かりまた)、

を用いる。「雁股」は、

狩股、

とも当て、

先が叉(また)の形に開き、その内側に刃のある鏃。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

雁股.bmp

(雁股 精選版日本国語大辞典より)

「鏑」は、

大きさは全長で5cm前後から20cm前後まで大小様々で、円筒形、円錐形、或は紡錘形を基本とし、詳細な形状は一様ではない。矢への取り付けは基部から先端まで矢箆(やの 矢柄)を貫通させ、先端から鏃を挿して固定する。中身が刳り貫かれており中空構造になっており、通常は割れが生じないよう数カ所糸で巻き締め固定し、仕上げに漆で塗り固めてある。材質は朴や桐など軽量で加工性の良い木材、かつては鹿角や竹根も用いられた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

「鏑」を、矢柄(やがら)の先の鏃につけるが、鏃につけた矢を、

鏑矢、
また
鳴鏑矢(なりかぶら)、

というが、「鏑」のみで、

かぶらや、

の意を持ち、

中を空にし、いくつか穴をあけた蕪(かぶら)の形をした球を屋の先につけ、その先に雁股(かりまた)をつけた矢。射ると、かぶらの穴に空気が入って響きを発する、

とある(仝上)。

紀の国の昔弓雄の鳴矢もち鹿取り靡けし坂の上にぞある、

と万葉集にあるように、

なりや(鳴箭、鳴矢、響矢)、
鳴鏑(めいてき)、

ともいう(広辞苑)が、

飛鏑、
峰鏑、

とも言う(字源)。匈奴傳に、

作為鳴鏑、

と載る(仝上)。大言海は、

鳴かぶら、

というのが正しい、とする。

「鏑矢」は、戦場における合図として合戦開始等の通知や、騎馬民族の信号用に用いられたが、

遊牧国家匈奴を大帝国に発展させた冒頓単于が、親衛隊に冒頓の射る鏑矢の向けられた先を一斉に射るよう厳命し訓練をほどこし、クーデターに成功した、

と史記にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2。日本では、古墳時代中期以降に現れ、『古事記』『万葉集』に「比米加夫良」「鳴鏑」の名がみえ(ブリタニカ国際大百科事典)、鎌倉時代にも記述が見られる(保元物語)が、初期の頃は名称も定まっておらず起源、いつ頃から使われていたのかは解っていない、とある(仝上)。

「鏑矢」は、

中世は鏑矢を一手(ひとて)を征矢(そや)などの普通の矢と共に箙(えびら)に盛り上差矢(うわざしや)とするのが作法であった。現在では流鏑馬など故実の祭礼式などで使用され、また飾り矢として邪を払う縁起の良いものとして親しまれている、

とある(仝上)。「征矢」は、

征箭、

とも当て、戦闘で用いる矢を意味し、狩り矢・的矢などに対していう、とある(広辞苑)。

流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)は、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC、鎌倉時代、流鏑馬、犬追物(いぬおうもの)と並んで「騎射三物(きしゃみつもの)」と称されたものに、

笠懸(かさがけ)、

がある。これは、やはり、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いが、格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%87%B8

「男衾三郎絵詞」第2段の笠懸の場面.jpg

(「男衾三郎絵詞」笠懸の場面https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%87%B8より)

なお、「鏑矢」の「鏑」の他に、

蟇目(ひきめ 引目)、
神頭(じんとう 矢頭)、

があり、それぞれ、

蟇目矢(ひきめや)、
神頭矢(じんとうや)、

がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2

笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)には、鏃(やじり)をつけない鏑の一種である蟇目(ひきめ)(引目)を用いた、

とある(日本大百科全書)。

なお、「鏑」の語源とかった「かぶら」は、古名「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.htmlで触れたように、

蕪菁、
蕪、

と当てる。「かぶら」は、

かぶらな(蕪菜)の略、

とされる。「かぶらな」は、

根莖菜(カブラナ)の義、

とあり(大言海)、「かぶら」は、

根莖、

と当て、

カブは、頭の義。植物は根を頭とす、ラは意なき辞、

とする(大言海)。「かぶ」は、

カブ(頭・株)と同根、

とする(岩波古語辞典)と重なる。「かぶ」と「かぶら」のつかいわけは、

「かぶら」の女房詞「おかぶ」から変化した語か。類例に「なすび」の女房詞「おなす」から「なす」が出来た例がある、

とある(日本語源大辞典)ので、

かぶらな→かぶら→おかぶ→かぶ、

と、転化してきたものらしい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年12月29日

流鏑馬


「流鏑馬(やぶさめ)」は、「鏑矢(かぶらや)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479232210.html?1609099233で触れたように、平安時代〜鎌倉時代に成立する騎射三物(きしゃみつもの)という、騎射により行う、

犬追物、
笠懸、

と並ぶ騎射の一つである。「流鏑馬」は、

鏑流馬、

とも当て、

疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2。特に、

馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら的を射る、

とされ、的は、

方板を串に挟んで三ヶ所に立て、白重藤弓に矢三本、一人おのおの三的(みつまと)を射る、

とされる(広辞苑・大言海)。射手は、

水干(あるいは狩衣)、綾藺笠、行縢(むかばき)、籠手を着く、

とある(岩波古語辞典・大言海)。「水干(すいかん)」は、

水張りにして干した布、

の意(有職故実図典)で、

糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いる、

からであり、晴雨両用に便利なため(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B9%B2、続深窓秘抄)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾である、

ことが由来で、

狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した、

とある(仝上)。因みに、「蜻蛉(とんぼ)」とは、とんぼ結びの意で、トンボが羽を広げた形に結ぶものをさす。

水干.jpg

(水干姿 有職故実図典より)

「狩衣(かりぎぬ)」は、

野外遊猟に際して用いた衣(きぬ)、

のためこの名があり、

左右の脇を広げている、

もので(有職故実図典)、狩衣は袴の上に着すのに対して、水干は、袴の中に着籠めて行動の便をはかっている(仝上)。

「重藤の弓」とは、弓は、

木材と竹を組み合わせ、それを膠で接着し、補強のために藤を巻き付けてある。この巻き付け方の形式を重藤と言う。弓の全長は220cm程度で、弦は弓のしなりと反対側に掛ける。滋藤とも書く。重藤の弓の例:全長220cm、幅28mm、厚さ22mm。全体に黒漆塗り、断面はほぼ角で、皮革製の握りは下から85cm、上から135cm にある、

とありhttp://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/legacy/yumiya/yumi/index.htm、「重藤の弓」は、現在だと、

小笠原流では最高格の免許弓です。小笠原流で精進して許しを得なければ使用することができません、

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14208319799、かなり力と技を要する弓のようである。「弓矢」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.htmlについては触れた。

「水干」は、

狩衣と源流を等しくし、時に水干狩衣とも呼ばれたが、狩衣が行為の顕官をはじめ、広く有司に使用されて、華麗に形式化されたのに対し、水干はもっぱら一般の庶民に用いられた、

とある(有職故実図典)。「行縢(むかばき)」は、

行騰、

とも当て、

向脛(むかはぎ)にはく意で、

鹿・熊・虎などの毛皮で作り、腰から脚にかけておおいとしたもの、

で、

奈良時代は短甲に用い、平安初期には鷹狩が用い、平安末期から武士が、狩猟・遠行に当たって騎馬の際に着用した、

ものである(広辞苑)。つまり、「流鏑馬」の衣装は、狩りの衣装なのである。狩装束は、

萎烏帽子(なええぼし)をかぶり、その上より藺草で編んだ綾藺笠(あやいがさ)をかぶる。中央は巾子(こじ)といい、髻(もとどり)をいれる為に高くなっている。下には水干(あるいは直垂)を着、射籠手(いごて)を左腕につけるが、手には鞢(ゆがけ 革手袋のこと、流鏑馬では手袋という)をはめ、腰に行縢むかばきという鹿の夏毛革の覆いをつける。足にはくのは物射沓という。腰に太刀、腰刀を佩び、空穂(うつぼ 矢を入れるもの)(流鏑馬の時は箙(えびら))を吊して弓を持つ、

とあるhttp://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000084。流鏑馬を含む弓馬礼法は、

寛平八年(896年)に宇多天皇が源能有に命じて制定された、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC

関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記)し、9月17日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた、

とある(仝上)。鎌倉時代には、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された、という(仝上)。足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い廃れ、現在は、各地神社の神職や氏子または保存会などに受け継がれた流鏑馬が、儀式や祭典として実施されている。

流鏑馬の射手の狩装束 (『流鏑馬絵巻』穴八幡宮蔵より).jpg

(流鏑馬の射手の狩装束 (『流鏑馬絵巻』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%ACより)

「流鏑馬」の語源は、馬を馳せながら矢を射ることから、

ヤハセメ(矢馳馬)の転(大言海)、
ヤバセマ(矢馳馬)の略(貞丈雑記)、
矢伏射馬の義(和訓栞)、
矢馳せ馬(やばせうま)の転訛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC
矢馳馬(やばせめ)」の転訛https://mag.japaaan.com/archives/95710/2
流鏑馬(やばせむま)、馬を駆けさせながら鏑を射る意http://www.yabusame-fed.jp/yabusame.html

等々の語源説がある。

ヤハセメ→ヤブサメ、
ヤバセマ→ヤブサメ、

のいずれかのようだが、

yabaseme→yabusame、

という感じかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:流鏑馬
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2020年12月30日

骨柄


「骨柄」は、

人品骨柄、

などと使う。

人柄や品性など、その人から受ける印象のこと、
人相や風体から判断できる性格や風格などをいう、

とある(学研四字熟語辞典)。「人品」は、

品性や気品のこと、
あるいは、
風采、様子、

「骨柄」は、

体格や人相から想像する人柄のこと、

の意味、とされる(仝上)。

「骨柄」は、

コトガラ、

と訛り、

事柄、

とも当て、

骨組み、体つき、
の意と、
それから感じられる人柄、

の意とされる(広辞苑)。大言海は、「がら(柄)」の項で、

體(カラ)、即ち、體(テイ)、様子の義、大がら、人がらなど、連聲に因りて濁る、

とし、

身体(大がら)、
物事の容子を云ふ語。しな、くらい、品位、品種(人がら、家がら、身がら、品がら、手がら、事がら、日がら)、
其様子に連れて、相応したるを云ふ語(所がら、世がら、時節がら)、
布帛、織模様、染模様などに、品質、大小、醜美を云ふ語(端物の地がら、縞がら、染がら、大がら、中がら、小がら、新かぎら、珍がら)、

と使い方を示す。

骨柄(こつがら)→事柄(ことがら)、

と転訛としたためか、大言海は、「事柄」を、本来の、

ことのおもむき、
事の様子、

の意の「事柄」と、

骨柄の轉、

として、

骨柄、
体格、

を載せる。たとえば、平治物語では、

源氏勢沙汰、容儀、事柄、人に優れてぞ見えられける、

と、また太平記では、

篠塚勇力事、其勢、事柄、勇鋭たるのみならず、兼ねて聞こえし大力なれば、

と使われている。しかし、

「平家物語」の古写本で「ことがら」とあるものが後に「こつがら」と改められていることなどから、「ことがら」が本来の形で、それが語形変化したのが「こつがら」とする説がある、

とある(日本語源大辞典)。とすると、「ことがら」が、

「ひとがら」と同じく、「こと」の様子を意味した言葉であったが、「気骨」などの「骨」への語源俗解から語形が変化した、

とみられる、とある(仝上)。だから、

ことがら→こつがら→ことがら、

と再転訛したのか、あるいは、

こつがら→ことがら、

とは別に、古い「ことがら」が残り、そのまま「骨柄」の意で使われたかのいずれかということになる。

「こと」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462119208.htmlで触れたように、「ことがら(事柄)」の「こと(事)」は、

「こと(言)」は同源である。

古代社会では口に出したコト(言)は,そのままコト(事実・事柄)を意味したし,コト(出来事・行為)は,そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで,言と事とは未分化で,両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも,事の意か言の意か,よく区別できないものがある。しかし,言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると,コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり,コト(事)と別になった。コト(事)は,人と人,人と物とのかかわり合いによって,時間的に展開・進行する出来事・事件などをいう。時間的に不変な存在をモノという。後世モノとコトは,形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた、

とある(岩波古語辞典)。モノは空間的,コト(言)は時間的であり,コト(事)はモノに時間が加わる,という感じであろうか。

人がら、

の意の「骨柄」を、

ことがら、

とみなすことは、「がら」の、大言海の挙げる、

人がら、家がら、身がら、品がら、手がら、事がら、日がら、

と使われる、

物事の容子を云ふ語。しな、くらい、品位、品種、

の意味からは、十分あり得るとは思う。

なお、「もの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462101901.htmlは触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年12月31日

屠蘇


「屠蘇」

とそ、
とうそ、

と訓み(岩波古語辞典)、

椒酒、

とも当てている(大言海)。

屠蘇の、屠の字は尸の頭に、一點を加へて、戸に作るは、醫家丹波氏の故実にて、尸の字を忌む也と云ふ。又屠蘇は草の名、庵中に此草を畫き、庵名となす、

とある(仝上)のは、『広韻』北宋の大中祥符元年(1008年)に陳彭年(ちんほうねん)らが先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書に、

屠蘇は草庵なり、

とあるのによる(たべもの語源辞典)。

屠蘇散、
屠蘇延命散、

ともいい、

元日、邪気を祓い延命長寿を保つために飲む薬の名、

である(岩波古語辞典)が、

白朮(びゃくじゅつ)・桔梗・山椒・肉桂・防風・大黄などを細末にして調合した散薬、紅袋に入れて酒にひたして、度嶂散・白散などと共に、若年の者から年齢順に飲む。

とある(仝上)。

屠蘇散.jpg



中国の漢の時代に、華佗が発明した薬酒、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87、屠蘇に酒を用いることを始めたのは唐の孫思邈(孫真人)で、『屠蘇飲論』で、

大黄・蜀椒(さんしょ)・桂心(にっけい)・防風各半両(五匁)、白朮(おけら)・虎杖(いたどり)各一分、鳥頭半分、

の八品の薬を挙げて、

八神散、

と呼んだ、とある(たべもの語源辞典)。後に、

いたどりの代わりに、茱萸(かわはじかみ)になり、さんしょうが胡椒になっていく(仝上)。孫思邈は仙人とされ、

紅い袋にいろいろの薬を入れて、除夜の暮れがた井戸の中に吊るしておき、正月元旦にこれを出して袋のまま酒にひたし、しばらくたってその酒を飲むとき、「一人これを飲めば一家族病なく、一家これを飲めば一里病なし」と祈った。そして、年少者から先に飲んで年長者を後にし、飲むときは東に向かって飲んだ、

とある(仝上)、医書『小品方』(454~73)の記述が古いもので、

その薬嚢らを再び井戸に投ずれば、病むことなし、

とされたともある(日本語源大辞典)。別に、

唐の世の、孫思邈の居たる草案……より、毎年大晦日に、薬を其の里人に送り、袋に入れて井の中に浸さしめ、元旦に取出して、酒樽に入れ、屠蘇酒と名づけ、之を飲まば、其の年に疫病に侵されまじと云ひ、一人飲めば一家に病なく、一家飲めば、一里に病なしと云ふ。飲むに、年少のものより始めて、年長のものに至る。是れ少者は年多きを以て先ず賀し、老者は年を失ふを以て、後に進むなりとも云へど、さにあらざるべし、少者の先ず飲むは、薬なれば、先ず長者の為に試むるなり(毒味)、

とある(大言海)。こちらの方が、実態を表している感じである。

中国明代(1596年)の『本草綱目』では、

赤朮・桂心・防風・菝葜・大黄・鳥頭・赤小豆を挙げている(現在では山椒・細辛・防風・肉桂・乾姜・白朮・桔梗を用いるのが一般的)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87

日本には、「公事根源・正月・供御薬」によれば、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁期(810~24)より、宮中の元旦行事として行われるようになった、とされる(日本語源大辞典)。孫思邈の、年少者から毒味として飲む、という由来は、日本にもそのまま伝わり、

禁中にて、元日に屠蘇を天子に奉るに、薬子(クスリコ 少女のまだ嫁せざるものを任ぜらる)鬼の間より出て、先ず試むるなり。鬼の間は、禁中の一室にて、白澤王(はかたおう)の、鬼を斬る絵を襖とせらるれば云ふ、

とある(大言海)。江戸時代、「毒味」を、

鬼をする、

と言うのも、これに起源がある(大言海)。「鬼の間」は、京都御所において、仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿南西隅の部屋。すなわち裏鬼門の位置にあり、

平安遷都(794年)時の内裏に大和絵師・飛鳥部常則が、康保元年(964年)の間に鬼を退治する白沢王像を描いたとされる。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王(はかたおう)といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、順徳天皇が著した『禁秘抄』(きんぴしょう)を解釈した『禁秘抄講義』(関根正直著)に記述されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%81%AE%E9%96%93。なお、現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていないらしい。

「屠蘇」の由来は、

孫思邈の庵を屠蘇庵、

といったから(大言海・たべもの語源辞典)とするものがある。

屠蘇という庵に住む人が、里人の疫病を予防して除夜に薬を配り、元旦にそれを浸した水を飲ませたことによる(甲子夜話所引歳華紀麗)、

も同趣旨である。他に、

「屠」は鬼気を去る意、「蘇」は神気を生じる(岩波古語辞典)、
「屠」は屠滅し人魂を蘇醒する意(甲子夜話所引四時纂要)、

と字面からくる説もある。もともと草庵に「屠蘇」とつけたとすれば、邪気を祓う意味でつけたとみていい。

「屠」(漢音ト、呉音ド。ズ)は、

形声。「尸(からだ)+音符者(シャ)」は、動物のからだを切り開くこと、

であり(漢字源)、「蘇」(漢音ソ、呉音ス)は、

会意兼形声。穌は「魚+禾(イネ科の植物)」の会意文字。まったく縁のないものを並べて、関係がない、隙間が空いていることを示す。疏(ソ 離れて別々になる)・疎(ソ 離れて別々になる)・粗(ソ ばらばらに離れるあらい米)などと同系。蘇はそれを音符とし、艸をくわえた字で、葉と葉の間にすきまがある植物を表す。転じて、喉に隙間があいて詰まった息が通ること、

とあり(仝上)、蘇る、生き返る、意である。とすると、

「屠」は鬼気を去る意、「蘇」は神気を生じる意
「屠」は屠滅し人魂を蘇醒する意、

何れの意味もある。意味は、いずれかだろう。謂れは、孫思邈に帰すよりほかはない。『土佐日記』には、

廿九日、大湊にとまれり。くす師ふりはへて屠蘇白散酒加へてもて來たり。志あるに似たり。元日、なほ同じとまりなり、

と、「屠蘇」が出てくる。

宮中では、一献目に屠蘇、二献目に白散、三献目は度嶂散を一献ずつ呑むのが決まりであった。貴族は屠蘇か白散のいずれかを用いており、後の室町幕府は白散を、江戸幕府は屠蘇を用いていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E8%98%87。「白散」(びゃくさん)は、

山椒・防風・肉桂・桔梗・白朮(びゃくじゅつ)・桔梗・細辛(さいしん)・附子(ぶし)などを刻み、等分に調合したもの、

とある(広辞苑)が、

刻みながら銚子に入れるものなりとそ、

とある(大言海)。「度嶂散」(としょうさん)も、新しい年の健康を祈って元日に飲んだ薬の一つで、

麻黄、山椒、細辛、防風、桔梗、乾姜、白朮、肉桂、

からなる(精選版日本国語大辞典)。

「屠蘇」の風習は、中国では唐の時代から確認できるが、現在の中国には見当たらない、という(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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