2020年12月09日

左近伝説


花ヶ前盛明編『島左近のすべて』を読む。

島左近のすべて.jpg


本書は、島左近を、

参謀、
だの、
軍師、
だの、

と、当時ありもしない役割を押しつけて、

参謀の身でありながら、最前線で采配を振るったことが、軍師として大きな誤算だった、

等々と決めつけている段階で、讀むに値しない「俗書」の部類であることを証明している。

本書はともかく、通称、

島左近、

は、実名が、

勝猛、
清興、
友之、
清胤、
昌仲、

等々と流布し、はっきりしないが、多聞院日記に、

嶋左近清興高麗陣立無意儀、

と記載されているなど、残された自署などから、

嶋左近清興(きよおき)、

であることははっきりしているが、その生国もはっきりせず、筒井家に仕えたのち、石田三成が、四万石の知行の内、一万五千石をさいて、召し抱えたことで、後世、

治部少(三成)にすぎたるものがふたつあり島の左近と佐和山の城、

と揶揄された。これも、実のところ良質の史料にはない。

実は、関ヶ原の合戦での、三成陣での左近の勇名が、後々左近を伝説化したと思える。

要地をとり、旗正々としてすこしも撓まず、寄手の軍勢を待ち受け、……大音声をあげて下知しける声、雷霆のごとく陣中に響き、敵味方に聞こえて耳をおどろかしける、

とある(黒田家譜)、左近の、

左の手に槍を取り、右の手に麾を執り、百人ばかりを引具し、柵より出て過半柵際に残し、静かに進みかかりけり(常山紀談)、

その時の、

かかれ、かかれ、

と戦場に轟きわたる大声が、

石田が士大将、鬼神をも欺くといひける島左近が其の日の有様、今も猶目の前にあるや如し、

と、戦後、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」とその恐ろしさが心に残っていると、語られる(常山紀談)。しかし、その時の左近の出立を思い出せなかった、という。で、元石田家の家臣に確かめると、

朱の天衝の前立の兜に、溜塗の革胴を着け、木綿浅黄の陣羽織、

であったという。

近々と寄せながら見覚えがなかったとは、よくよく狼狽えていた、

と、皆恥じた、という(仝上)。その采配ぶりは、

70人ばかりを柵際に残し、30人ばかりを左右に配置して、30人ばかりの兵どもが、槍の合うべき際にさっと引き、味方がばらばらと追い駆けるのを近くまで引き寄せ、70余のものども、えいえいと声を上げて突きかかり、手もなく追い崩して残りなく討ちとっていた、

という。しかし黒田勢の側面からの銃撃に、

左近も死生は知らず倒れしかば、ひるむ所を、(黒田)長政どっと押懸かり切り崩されけり、左近は肩にかけてそこらを退きぬ、

という(仝上)。

その左近の生死は、はっきりしていない。

戦死した、

とする説もあるが、左近の遺体は見つかっていない。あるいは、京都市の立本寺には島清興の墓があり、

関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されている、

とある。あるいは、

静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住している。23代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催した、

という。あるいは、

滋賀県伊香郡余呉町奥川並には関ヶ原合戦後も左近は生き延び、同村に潜伏していたという、

伝承がある。その他、

幕府に仕官した、

とする説すらある。まさに、関ヶ原の戦いの一瞬に鬼神の如き姿を現し、その後、杳として行方が知れない。まさしく、伝説の人である。

伝・島左近清興所用「五十二間筋兜.jpg

(伝・島左近清興所用「五十二間筋兜」 https://www.toshogu.or.jp/news/no.phpより)

参考文献;
花ヶ前盛明編『島左近のすべて』(新人物往来社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする