2020年12月11日

そのとき


O・クルマン『キリストと時』を読む。

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本書は、サブタイトルに、

原始キリスト教の時間観及び歴史観、

と題されている。別段、キリスト教に造詣があるわけではないので、正直、よく分からない箇所が何ヶ所かあったのは事実だし、キリスト教の学問としてのパースペクティブを持たないので、本書がどんな位置づけになっているのかも分からないまま言うのもおこがましいが、細部にわたる論旨の細やかさには、別して感慨深いものがあった。

「序」で、著者は、

「本研究の対象は、キリスト教の宣教における中心的な点に関する問題である」

と述べたうえで、これについては、

「我々自身の気に入り、そのためにまた最も重要なものと思われる事柄を、その『核心』またその『本質』となし、それに対し我々に縁遠いものを、除去しうる外形的な『枠』として考える傾向」

を戒め、こうした、

主観的な態度、

は、

「それがなお全く無自覚である場合も、その解決にとっては、最も不適當なものとして郤けられねばならぬことは明らかである。なぜならば、キリスト教の本質的核心を定める基準は、いかなる場合にも、何らかの、豫め確立した――例えば哲学的――立場であってはならぬからである。明らかに外部からのものたる物差を新約にあてて、原始キリスト教の福音のあれこれの要素を独断的に選び出し、そして中心的なものと做す、その素朴な無頓著さは、見るも者をして驚かしめる。原始教団自身にとっては、それらの要素は確かに存在しているが、しかし決して中心におかれているのではなくて、自身、他の、真実の中心から解釈されねばならないのである。キリスト教の種々の傾向の代表者達、またそれを超えて、おそらくキリスト教の信仰の敵対者達も、キリスト教の本質的中核を規定する際に、最古のキリスト教文書自身以外のところから取られた尺度をすべて抛棄する素直な努力に心を盡すべきであろう。」

当たり前のようだが、歴史を見るとき、また科学においても、大事な視点である。

史料は、史料自身をして語らしめる、

という当たり前が、科学の名のもとに平気で打ち破られるのをいつも目撃させられている。先入観は、何もイデオロギー的立場ばかりではない。歴史で、その時代のどこにも無い現代の基準を持ち込むなどというのは、日本の中でも、再三見かける、学問に携わる者とは思えない不見識が横行しているだけに、このことばは新鮮である。だから著者は、こう断る。

「筆者は、豫め本書の読者に次のことをお願いしたい。読まれる際に、我々の正しいと確信している、あれこれの哲学的見解と矛盾する場合、自然に起こってくる、それがキリスト教の福音の中心でありえようかという問いを、ひとまず全く郤けておいて頂きたい。」

と。そして、関心を、

「新約の啓示における、キリスト教独自のものの内容は何であるか」

の問い集中させてほしい、と。

本書では、キリスト教の救済史的な時間把握について、

「救済が、過去現在未来を包括する連続した時間的出来事に結びつけられ……、啓示と救済は上昇してゆく時間の線上において行われる。ここに新約聖書の厳密に直線をなした、線的な時間の考え方が、ギリシャ的な円環的なそれに対し、又救済が常に『彼岸』にあって自由になるとする、すべての形而上学に対して、一線を画さねばならぬ」

ことと、

「この救済の線のすべての点が、中心たる一つの歴史的事実に結びつけられていることである。即ち、その平凡な一回性において救済を決定的にする、イエス・キリストの死と復活という事実である」

ことに、独特のものがある、と著者は整理する。

イエス死後の原始教団にとって、

「キリストの復活という、大いなる事実がその活動の頂点をなす」

のは、

「中心は、いまやある歴史的なできごとの中に存在している。中心はすでに到来した。しかし終わりはまだ来たらないでいる。」

それを、著者はこういう例で表現する。

「戦争の際に、その勝敗を決する戦闘は、戦争の比較的に初期の段階ですでに行われてしまっていることがありうる。しかも戦争は、なお長い間つづけられる。かの戦闘の決定的影響力は、おそらく全部の人には認識されないのであるけれども、それはすでに勝利を意味している。しかし戦争は、なお或る期間『勝利の日』まで継続されねばならないのである。まさにこれが、新しき時の区分の認識によって、新約の自覚している状態である。啓示とは、十字架上のかの出来事が、それに続く復活とともに、すでに行われた決戦であったということがのべ傳えられる、まさにその点にある。」

と、それは、

「何よりも先ず圧倒的なキリストの出来事が、時に新しい中心を与えたという、まったく新しい積極的な確信にもとづいている。」

その確信とは、

「(新約聖書が好んで用いる)『満ちること』がすでに実現したという信仰、もはや再臨ではなくて、キリストの十字架と復活がすべての出来事の中心であり、それに意味を与えるものであり、そしてそれは先ず時間的に展開してゆくできごと全体の純粋に時間的な中心であり、次にまた方向を定める指導的な中心であり、それに意味を与える中心であるという信仰である。」

歴史的事実が線上の時間の中心である、ということは、

「未来に対する希望が、いまや過去に対する信仰に、その拠り所を見出しうるという事である。それは、すでに戦われたかの決戦を信ずる信仰である。すでに起こった事が、未来に起こるであろう事に対する、確かな保証を与える。最後の勝利に対する希望は、勝利にとって決定的な戦闘がすでに行われたという確信が不動であるほど、ますます強烈なのである。」

この原始キリスト教の考え方は、

「かの中心……からして、神の救済計画は、前方及び後方に向かって明らかにされた」

のである。それは、

「初代のキリスト教徒達は、その線を、事後的に、やはり始めから中心を通って終わりにまで走る線として理解したからである。この年代的な順序による叙述のしかたこそ、線全体が実際に中心から出発して形作られていることを示している。なぜならば、それは最初からキリストの線」

であって、

キリストと時、

として理解されていたからである。そして、救済の線は、創造の時から、

「順次縮減されながらイエス・キリストまで、その歩みを運ぶ。即ち人類―イスラエルの民―(民の身代わりとなる)イスラエルの遣りの者―一人のキリストである。そこに到るまで、多数が一人に向かって、即ちイスラエルの救世主として、人類の、さらに創造の救贖者となる、イエス・キリストに向かっている。そしてここにおいて救済史はその中心に達したのである。」

そして、「キリストの復活において到達した中心からの道から」は、

「多数から一人に向かうのではなくて、反対に一人の人から順次多数に向かう……。今やその道は、キリストから、彼を信ずる者達、彼の代贖の死を信ずる信仰において自己の贖われたことを知っている者達に向かってゆく。それは使徒達に到り、かの一人の人の體であり、ここから神の国における贖われた人類に、そして新しき天と新しき地の贖われた創造にまで到るのである。」

という、多から縮減し、一人に収斂し、そこから多へと拡散していく、この原始キリスト教の救済史の時間観、歴史観は、西暦の年号算定に見事に顕現されている。

「我々の年代は、キリストの生誕の歳を一年と数え、そしてそれ以前の時を次第に減少する数によって、この年に向かわしめ、それ以後の時を次第に増加する数によって、この年から出発せしめる。斯してその年代の数え方において、……新約の救済の線が、象徴的に驚くべき適切さをもって叙述される。」

ここに原始キリスト教の時間観と歴史観が明示されている、というのである。

参考文献;
O・クルマン『キリストと時』(岩波現代叢書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする