2021年01月01日

年神


「年神(としがみ)」は、

歳神、

とも当てる。

五穀を守る、五穀の神、

であり、平安時代の神道資料『古語拾遺』には、

是今神祇官以、白猪白馬白鶏、祭御歳神之縁也、

とある(大言海)。

大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話、

によるものらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E。『古事記』において、

須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ 大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる、

とある(仝上)。

また「歳神」は、

歳徳神(とくとくじん)、

の意でもある(広辞苑)。「歳(年)徳」は、

としとく、

ともいい、

一年中の吉方を司る女神、

であり、

婆利塞女(はりさいじょ)、
または、
大歳神、

で、

その神の居る方角、

をも指す(岩波古語辞典)。室町初期の『暦林問答集』には、

歳徳とはなんぞや、……皆十干の徳なり、但し五は陽徳となし、五は隠徳となす、

とある(岩波古語辞典)。

「歳神」は、

毎年正月に各家にやってくる来訪神である、

が、地方によって、

お歳徳(とんど)さん、
正月様、
恵方神、
大年神(大歳神)、
年殿、
トシドン、
年爺さん、
若年さん、
としこしさま、

等々とも呼ばれるのは、神話を反映している。多くは、その名からも、

白髪の老人、

とみなされているが、

長頭の翁、
女神、

とみなす土地もある(日本昔話事典)。

遠い土地からくる神の声によってその一年の祝福を期待していたという、

古い形が想像される(仝上)、とある。これが、後に、

千秋万歳、大黒舞などのホカヒ人や、小正月に村の若者が蓑をつけて顔をかくして村中を回る、

という形に移行したものらしい(仝上)。「ほかい人」とは、

乞児、

と当て、

門戸に立ち壽言(ほがいごと)を唱えて回る芸人、

を指す(広辞苑)。「歳神」が、

田の神を同一神と信じる土地も多い、

とされる(日本昔話事典)のは、「歳神」の、

原初形態は明らかでないが、冬至から立春までの間、つまり年の境に、遠くの他界(あの世)から霊威が訪れてきて、人々に幸(さち)を与えてくれるという信仰に基づくもののようである。水田稲作が広がるにつれて、食生活においても生産活動においても稲はもっとも重視され、一年生の稲の成育過程を人間生活の1年に当てはめ、稲魂(いなだま)を育てる神を年神と考えるようになった、

ことによる(日本大百科全書)、と思われる。それが、近世の初めになると、

先祖の霊を万能の神とする日本的な祖霊信仰が形成され、年神をも祖霊の一機能とみなして年中行事や民間の信仰を体系づけようとした。その時点では、年神は天空から降臨するものとされていたから、山上の松とともに年神を迎えて門松とし、屋内には祭壇として年棚を設け、供物としては米や鏡餅など稲作の産物を中心とする、現在の正月行事の基本ができあがった、

とある(仝上)。これには、

正月行事に盆の祖霊祭と類似した点が認められること、

からみて、

歳神がまた祖霊の性格も持つと考えられていた、

ということがあるようである(日本昔話事典)。

「歳神」は、

年棚という臨時の祭壇をつくり、鏡餅、海産物、乾果などを供えて祀る、

とある(日本昔話事典)のはその意味である。ただ祖霊信仰では、年神は天空から降臨するとしながらも、正月に仮装仮面で訪れるなまはげ系の行事が各地に残っており、また米や鏡餅を供物の中心に据えながらも、搗栗(かちぐり)、椎の実、干し柿など山野での採集生活の名残と思われるものが混在する(日本大百科全書)、ともある。

「門松」には、かつて、

木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、年神を家に迎え入れるための依り代、

としての意味が強いのではあるまいかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%9D%BE

門松.jpg


なお、「年(とし)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455913434.htmlの語源は触れたように、「とし」も、

爾雅、釋天篇、歳名「夏曰歳、商曰祀、周曰年、唐虞曰歳」。注「歳取歳星行一次、祀取四時一終、年取禾一熟、歳取物終更始」。疏「年者禾塾之名、毎年一熟、故以為歳名」。左傳襄公廿七年、註「穀一熟為一年」トシは田寄(たよし)の義、神の御霊を以て田に成して、天皇に寄(おさ)し奉りたまふ故なり、タヨ、約まりて、ト、となる、

としている(大言海)ように、穀物の収穫と関わり、特に、

古くは「穀物」、特に「稲」を「とし」といい、稲が実ることも「とし」といった。『名義抄』には「年、稔、季」に「トシ」とあり、「稔」には「ミノル」と「トシ」の訓がある、

と、「稲」そのものを「とし」と訓んでいた可能性が高いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4。つまり「歳神」は、もともとは稲の神なのである。それが、吉方を司る神となり、正月に来訪する神となったのである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:年神 歳神
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2021年01月02日

お年玉


「お年玉」は、

年玉、

とも言うが、

新年の祝儀として贈るもの、

の意である。

歳贄、

とも当てる(大言海)。江戸時代の町家では、

貝杓子(かいじゃくし)、
鼠半紙、
塗箸、
粗製の扇、

等々粗末な物を用いた、とある(精選版日本国語大辞典)。江戸中期の医師・小川顕道は『塵塚談(ちりづかだん)』で、

正月、玄関に年玉の扇箱を飾る事、商醫が業をうらんとして、専らにせし事也、……年玉に貰ひし扇子箱を井桁に積重ね、高きを伊達にし、内より持出し飾るも有し也、

と揶揄している(大言海)。商人も、武家風の正装をして、年礼に回った。

大店の主人ともなると、紋付きの着物に裃、白足袋に脇差で、店の小僧や出入りの職人などを供に連れていた。連れている小僧はお年玉を載せるためのお盆をもつ、

とあるhttps://suumo.jp/journal/2016/12/26/123331/

年始御礼帳  四方赤良他.jpg

(「年始御礼帳」四方赤良他 https://suumo.jp/journal/2016/12/26/123331/

年初に贈り物をする習慣は古くから存在し、宮中での正月の賜物に関する記述は多い。広く盛んになったのは室町時代で、太刀、金子、硯、酒等さまざまな品物が用いられた。特に男児のいる家には毬杖(ぎっちょう 毬を打つ道具)や振々(ぶりぶり 振々毬杖)、女児のいる家には羽子板や紅箱などを贈った、

という(日本語源大辞典)。近世には、

武士は太刀、
商人は扇子、
医者は丸薬、

等々と自分の作った物や家業と関係深いものを贈るようになった。

その中でも扇子は広く用いられた(仝上)、とある。末広がりで縁起が良いという理由かららしいhttps://suumo.jp/journal/2016/12/26/123331/。明治に入っても、

年賀の際の簡素で有用な手土産、

という性格は引き継がれ、

手拭い、
略歴、

等々が贈られたが、対象が目下、特に子供に限られてきた。子供に小遣いをやる習慣は、一般的には近代以降のものである(日本語源大辞典)。特に、

現金を渡すのが一般的になったのは、昭和30年代以降、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B9%B4%E7%8E%89

年玉の起源は、

正月に歳神(年神)を迎えるために供えられた、丸い鏡餅(=歳神(年神)の霊魂が宿った依り代、歳神(年神)の象徴)が、家長によって子供に分け与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことから、

とする説があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B9%B4%E7%8E%89。つまり、

その年を、1年間を、生きるために必要な、歳神(年神)の霊魂=生命を、子供に分け与えることで、(強い生命力には、魔=災厄を退ける力がある)、子供の無事な成長を願う、宗教的な意味がある(仝上)。また他に、

年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたから、

とする説(大言海)、

トシ(年)タマ(贄・手土産)の、礼物の意(日本語源広辞典)、

とする説もある。やはり、「年神」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479304962.html?1609457289とつながっていると見るのが自然だろう。ただ、「歳贄」とあてる「贄」(シ)は、

会意兼形声。「貝+音符執(シュウ 手に取る、たずさえる)」

で、

君主または先生にはじめて会見する際に携える礼物、手土産、

の意である。どうも、後世になってからの当て字ではあるまいか。「たまふ」は、

賜ふ、
給ふ、
玉ふ、

と当てる。「たまふ」は、

目下の者の求める心と、目上の者の与えようとする心とが合わさって、目上の者が目下の者へ物を与えるという意が原義、

とあり、

転じて、目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表す、

とある(岩波古語辞典)。「たまふ」は、

タマ(魂)アフ(合)約、

とする説(仝上)もあり、

(求める)心と(与えたいと思う)心とが合う意で、それが行為として具体的に実現する意。古語では、「恨み」「憎しみ」「思ひ」など情意に関する語は、心の内に思う意味が発展して、それを外に具体的行動として表す意味を持つ、

とある(仝上)。「歳魂」と重なるし、「たま」http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba12.htm#%E3%81%9F%E3%81%BEで触れたように、「玉」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

である(岩波古語辞典)。

なお、「賜物」は、

たまひものの約、

である(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年01月03日

遠い


「とおい(とほし)」に当てる、「遠」(漢音エン、呉音オン)は、

会意兼形声。「辶+音符袁(エン 間があいて、ゆとりがある)」、

とあるが(漢字源)、

会意形声。「辵」(=道、行く)+音符「袁」、「袁」はゆったりした衣服(藤堂)、死者の服の襟を開け玉を胸元に置いた様で死出の旅立ちをいう(白川静)、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%A0

会意兼形声文字です(辶(辵)+袁)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「足跡の象形と玉の象形と身体にまつわる衣服のえりもとの象形」(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさま(様)から、「とおざかる」の意味)から、「とおくへ行く」を意味する「遠」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji212.html

近の対、

であり、

距離・時間の距りが大きい、

意である(漢字源)。「辶」は、

元は「辵」という漢字だった。これは彳(道の形)と止(足の形)からなり、道を行くという意味、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B5%E9%83%A8、「遠」にも、

遠ざかる、

意もある。

和語「とほし」は、

近しの対、

で(大言海)、

関係が切れてしまうほど相手との間に距離がある意。空間的にも時間的にも、心理的関係にも用いる。類義語ハルケシは、両者の中間に広々とした何もない空間が広がって存在する意、

とある(岩波古語辞典)。

「遠い」は、その語感から、

ト(外)+多し、ト(外)が語根で、中心から外方向へ隔たる意(日本語源広辞典)、
トは外、ヲシは多い(和句解)、

というのがあり得る。しかし「ト(外)」の対は、

内(うち)、
奥(おく)、

であり、むしろ、

自分を中心にして、ここまでがウチだとして区切った線の向こう。自分に疎遠な場所という気持ちが強く働く所。時間に転用されて、多くは未だ時の至らない以前を指す。類義語ホカは、はずれの所、ヨソは、無縁・無関係の所、

とある(岩波古語辞典)ので、距離としての遠近よりは、区域の親疎に重きがある。「うち(内)」は、

古形ウツ(内)の転。自分を中心にして、自分に親近な区域として、自分から或る距離のところを心理的に仕切った線の手前。また、囲って覆いをした部分。そこは、人に見せず立ち入らせず、その人が自由に動ける領域で、その線の向こうの、疎遠と認める区域とは全然別の取り扱いをする。はじめ場所についていい、後に時間や数量についても使うように広まった。ウチは、中心となる人の力で包み込んでいる範囲、という気持ちが強く、類義語ナカ(中)が、単に上中下の中を意味して、物と物とに挟まれている間のところを指したのに相違していた。古くは、「と(外)」と対して使い、中世以後「そと」また「ほか」と対する、

とある(仝上)。とすると「と(外)」は、少し語源からはずれる。他には、

トホル(通)に通う(和訓栞)、

というのもある。現に、「通る」の語源を、

トホアル(遠有)の義(名言通)、

と、「とほし」とからめる説もある。しかし、「通る」は、

一方から他方に届く、
あるところを過ぎて、先へ進む、

という経過を示し、距離を意味するわけではない。ちなみに、逆の「近い」の語源は、

手所(ちか)しの義、手の届く所、着くに通ず(大言海・言元梯・国語溯原=大矢徹)、
チ(手)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で手の届くこと(日本語源広辞典)、
ツキカシ(著付)の約(和訓集説)、
チは小の意で、小距離の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
チ(小)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で小さい道のりの所の意(日本語源広辞典)、

と、「手」や(隔たりが)「小」と絡める説がある。「手」でいうと、

手近、
手掛かり、

という言葉もある。それとの関連で言うなら、

手の届かないところから、トホはテホ(手欲)の義(国語溯原=大矢徹)、
トホクはテホコ(手隔所)の義(言元梯)、

等々がある。しかし「て(手)」の古形は、

た、

である。

たなごころ(手(た)の心)、
たばさむ、

等々に残っている。「とほし」の語源で言うなら、ひとつは、この「て」の古形「た」と絡めるのがありえるし、もうひとつ、「すくな(少・小)」の対でいうと、「おほき(大)」がある。

「おおき(大)」について、

もとオホシ(大・多)の連体形として、分量の大きいこと、さらに、質がすぐれ、正式、第一位であることをあらわしたまた、オホキニとして、程度の甚だしさもいった。平安時代に入ってオホシの形は数の多さだけに用い、量の大きさ、偉大などの意はオホキニ・オホキナルの形で表し、正式・第一位の意はオホキ・オホイの形で接頭語のように使った、

とあり(岩波古語辞典)、「おほし(大・多)」は、

オホ(大)の形容詞形。容積的に大きいこと、また、数量的に多いこと、さらに、立派、正式の意。平安時代に入ってオホシは数量的な多さにだけ使い、他の意味にはオホキニ・オホキナルの形を用いるように分化し、中世末期からはオホイ(多)とオホキイ(大)との区別が明確になった、

とある(仝上)ので、この元となった、

数・量・質の大きく、優れていること、

の意の「おほ(大)」と絡めることも可能である。

結句、結論が出ないのだが、和語の成り立ちを推測するなら、「た(手)」の、

ア(a)→オ(o)→イ(i)、

と、

タ(ta)→ト(to)→チ(ti)、

の母韻交替の範囲なのかもしれない。とすると、「近い」の語源説、

チ(手)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で手の届くこと、

と絡めて、何れも、「手」を語幹とする、

tikasi、
tohosi、

という変化ということになるし、「近い」の語源説、

チは小の意で、小距離、
チ(小)+カ(所)+い(形容詞を作る接尾語)で小さい道のりの所の意、

と対比しつつ、

「オホ(大)」の、

oho→tho、

という音韻変化がありえるなら、「オホ」の形容詞化と考えられるのだが。勿論憶説である。

参考文献;
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年01月04日

塩辛


「塩辛」は、

魚介類の身や内臓などを加熱すること無く塩漬けにし、素材自体の持つ酵素及び微生物によって発酵させ、高濃度の食塩により保存性を高めた発酵食品、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%BE%9B

熟成中は食塩の働きによって腐敗が防止されるほか、特に内臓に含まれている強力な酵素と微生物の生産する酵素の作用によって原料中の蛋白質、炭水化物、脂質がペプトン、ペプチド、ぶどう糖、乳酸などに変り、さらにアミノ酸が増加してきてうまみが増す、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。魚貝類の肉、内臓、卵などの塩づけを、古く中国では、

醢(かい)、

と総称し、

肉醬(にくしよう)、
魚醬、

とも呼んだ。和名抄は、

醢、

を「ししびしお」と訓み、延喜式には「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍は肉の意)などの語が見られる、

とある(世界大百科事典)。この、奈良朝時代に、

醢(ししびしお)、

と呼ばれたものが「塩辛」に当たる(たべもの語源辞典)、とある。これは、肉に塩を混ぜて汁気を少なく製するから、

肉干塩(にくびしお)、

といい、「ししびしお(醢)」は、

肉醤(にくしょう)、

のことであるから、「肉醤」を「ししびしお」と呼び、

魚醤、

と書いて、

しおから、

と訓ませた(仝上)、とある。「醤油」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.htmlで触れたことだが、

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。「酉+音符将(細長い)」。細長く垂れる、どろどろした汁、

で(漢字源)、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)、とある。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「ひしお」の醤は、

ヒは隔つる義、醸造久しければ塩と隔つ、故に名とすと云ふ、或いは云ふ、浸塩(ひたししお)の意か、

とある(大言海)が、

干(ヒ)塩(しほ)の意、

である(たべもの語源辞典・岩波古語辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

他方、「ししびしお」の「醤」の方は、シシは肉である。肉に塩を混ぜて汁気を少なく製するから、

肉干塩(ししびしお)、

である(たべもの語源辞典)。

藤原京跡から、地方より税としておくられた品物につけた木製の荷札である多数の木簡が発掘されている。その一つにフナの塩辛を意味する「鮒醢」、と書かれたものがあり、これが日本における塩辛の文献的初出、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%BE%9B、とされる。その後平安末期の『今昔物語』に、

鯵の塩辛、鯛の醤などの、もろもろに塩辛きものどもを盛りたり、

と、「塩辛」との文字が現れる(たべもの語源辞典)が、江戸時代以降の塩辛と同じものと確認できないため、室町末期の『日葡辞書』が初出とされることもある(仝上)。

塩辛、

が定着したのは、江戸中期後半以降という(仝上)。

鮎の腸を塩蔵したものを、

ウルカ、

といい、「鮎の塩辛」には、鮎の内臓のみで作る、

苦うるか(渋うるか、土うるか)、

内臓にほぐした身を混ぜる、

身うるか(親うるか)、

内臓に細切りした身を混ぜる、

切りうるか、

卵巣(卵)のみを用いる子うるか(真子うるか)、

精巣(白子)のみを用いる、

白うるか(白子うるか)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E3%81%8B・たべもの語源辞典)。

ナマコの腸の塩蔵は、

コノワタ、

カツオの腸を用いた塩辛は、

酒盗、

という。

因みに、塩漬け肉の「醢(かい)」は、古代中国の王朝では処刑した罪人の死体を塩漬けにして晒し者にする刑罰のことを醢とも呼んだ。子路は、その直情径行の性格が災いし、クーデターを起こした太子を諫めて怒りを買い、殺されて醢にされてしまったエピソードが残されているhttps://esdiscovery.jp/sky/info01/food_menu003.html

イカの塩辛.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年01月05日

大福餅


「大福餅」は、

中に餡を包んだ餅菓子、

で、

大福、

ともいう。この起源は、

うずら餅、

とされる。

うずら餅.jpg


「うずら(鶉)餅」は、室町後期、

丸くふっくらして、餅皮がすく、中の餡は赤小豆に塩を入れただけの形の大きいもの、

で、

丸くふっくらしている様子がウズラに似ているから鶉餅とよばれた、

あるいは、

ウズラの腹がふくれていること、

そう呼ばれたが、

餅が大きくて食べると腹がふくれるので、

はらぶと(腹太)餅、

とも呼ばれた(たべもの語源辞典)、とある。「うずら餅」は、

これを焼いたり、焼印を押したりしたものを鶉焼と呼んだ。塩味のあんをたっぷり入れ、丸くふくらんだ形にしていた、

とある(世界大百科事典)、塩餡で「あんびん」とも称した、とある(日本大百科全書)。こんにちでも、

京の街の餅屋では道明寺を使って表面がブチブチとなっている餅菓子をうずら餅といいます。鶏の羽を取り去った皮の表にはその穴のあとが凹凸になっています、

https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_8_12a.html、「うずらもち」と名づけたものがあるが、かつてのものと同じかどうかはわからない。

その後、明和八年(1771)に、江戸小石川箪笥町のお玉(おたよとも、お福ともいわれる)という後家が、はらぶと餅の形を小づくりにして、餡の中に砂糖を加えたものを、

大腹餅(だいふくもち)、

として売り出し、のちに、「大腹餅」の「腹」は佳字の「福」に書き換えられ、

大福餅、

となった(たべもの語源辞典・語源由来辞典他)、とされる。

大福.jpg


宝暦現来集(1831)は、

おた福餅、

としたとする(https://www.ishizakisyouten.com/column/1378/・世界大百科事典)。大福の両面を鉄板で焼いたものを、

焼き大福、

というが、昔は焼き大福を、

大福餅、

焼かないものを、

生(なま)の餡餅、

といった(日本大百科全書)、とある。

餅まんじゅう、

とも呼ばれたらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A6%8F

寛政年間(1789‐1801)にいたって流行し、寛政紀聞には、江戸の町には毎夜、

籠の内へ火鉢を入れ、焼き鍋をかけ、その上に餅をならべて焼いた大福餅売の姿が見られた、

とあり(たべもの語源辞典・世界大百科事典)、

寒い夜など、温かい大福餅が喜ばれた、

という(たべもの語源辞典)。

大ふくもち、あったかい、

と売り声をあげたとある(享和二年(1802)綿温石石奇効報条)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年01月06日

滝川


「滝(瀧)川」というのは、

瀧津瀬(たきつせ)、

と同じ(大言海)で、

谷川など、はげしく流れる川、
急流、

で、

滝つ川、

ともいう。

早瀬.jpg


ただ、「滝つ瀬」は、

水の激しく流れる瀬、

の意(岩波古語辞典)もあり、

急湍(きゅうたん)、
急灘(きゅうだん)、
早瀬、

と重なり、「滝つ瀬」は、

滝、

の意も持つ。奈良時代は、

タギツセ、

と濁った(広辞苑)のは、

タキツはもとタギツとにごり、動詞「たぎつ」(滾・激)の連体形であったが、平安時代以後タキツとすみ、タキを滝、ツを助詞とみるようになった、

という理由からである(岩波古語辞典)。だから、本来「滝つ瀬」は、

急流の意であったのに、

滝の中に滾りて落つるところ、

の意となり(大言海)、

滝、

そのものの意となっていく。「だぎつ」の「つ」のはずが、

滝+つ、

と変じたのと重なる。「たぎつ(滾・激)」は、

泊瀬川(はつせがは)白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し吾を(万葉集)、

と詠われるように、

水が激しく沸き返る、

意で、名詞「たぎち」は、

激流、

の意である。しかし、「たき」自体が、もともと、

水が湧きたち激しく流れるところ、

の意と、

高い崖から流れ落ちる水、

の両義をもち、

たぎつ(滾つ)・タギル(滾る)のタギと同根。奈良時代はタギと濁音であったろう、

とある(岩波古語辞典)。となると、

たぎつ→たきつせ→滝、

とは限らず、

上代、動詞「たぎつ」の語幹に「滝」を当てているものがあり、あるいは「き」が清音であった、

かもしれず、そうなると、

滝の活用(大言海)、

という可能性もある。ただ、古代、「滝」は、

垂水(たるみ)、

と言った。あるいは激しい滝と緩やかな滝とを、「滝」と「垂水」で使い分けたか、と思いたくなるが、

命の幸(さき)くあらむと石ばしる垂水の水を結び飲みつ(万葉集)、

という歌をみると、そういう区別はない。

み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ(万葉集)、
皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも(万葉集)、
山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも(万葉集)、

等々と、この「滝(たぎ)」は濁る。やはり、「たぎる」から「たき」へ転じたとみていいようである。「垂水」と「滝」を使い分けていたのだとすると、「滝」には急流の含意がつきまとっている気配である。

滝.jpg

(大悲の滝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9Dより)

「滝」の、

急流、

滝、

の両義は、「滝(瀧)」(ロウ)自体が、

会意兼形声。「水+音符龍(太い筒型をなす、龍)」、

で、

龍のような形をした急流、早瀬、

高い所から長い筋をなして流れ落ちる水、滝、

の二義をもつことも反映しているかもしれない。

ところで、その「滝川」に因んで、

滝川豆腐(たきがわどうふ)、

というものがある。

豆腐に寒天・ゼラチンを入れて冷まし、凝固させてから切ってトコロテン突きにいれて押し出すか、庖丁で千切りにしたもの、

という(たべもの語源辞典)。

この料理を器にもったところが、滝川のようにみえるところから、

とある(仝上)が、「滝川」の語意を辿ってみると、

滝川、

というより清流に見えてしまう。

滝川豆腐.png


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:滝川
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2021年01月07日

たかんな


「たかんな」は、

タカムナの音便、

とある(広辞苑)が、

たかむな、

とも表記し、

たかうな(たこうな)、

ともいう(デジタル大辞泉)。

takamuna→takanna、

マ行音(m)→ナ行音(n)の子音交替、

takanna→takouna、

は、「思はう」→「思ほゆ」のような、ア列音→オ列音といった母音交替かと思われ(日本語の語源)、

タカムナ→タカンナ→タカウナ、

といった転訛であろうか。「たかんな」は、

筍、
笋、

と当て、

タケノコの古名、

である。古名には、

からまた、

ともいう、とある(たべもの語源辞典)。

また、「漢語」には、

篛(ジャク)、

もあり(字源)、「篛笠」という言葉もあり、

何人方舟順流下、草衣篛笠倶瀟灑(王冕)

と詠われる(字源)。他に、

筠(イン)、

とも書き、「筠」は、

匀(キン)は均の原字である。均というのは、……全部を平らにならすということである。タケノコがその周囲を竹の皮で取り巻かれている姿をいった、

とある(たべもの語源辞典)。

「筍(笋)」(ジュン、シュン)は、

会意兼形声。「竹+音符旬(シュン 周囲を取り巻く)」で、竹の皮がとりまいているたけのこ。転じて、たけのこのように突き出たもの、

とあり(漢字源)、「タケノコ」の意である。

竹の胎なり、

というとあり(たべもの語源辞典)、

旬内に竹の子となり、旬外に竹となる、

ところからつくられた字という(仝上)。他に、漢名として、

竹前、
牙筍(ガジュン)、
竹芽(チクガ)、
籜龍(タクリュウ)、
竹笋(チクイン)、
猫頭(ビョウトウ)、
妬母草(トボソウ)、

等々がある、という(仝上)。

タケノコ.jpg


「たかんな」の語源としては、
タカメナ(竹芽菜)の転(大言海・雅言考・古事記伝)、
タカノナ(竹菜)の約(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タカナ(竹菜)の義(俗語考)、

といったところが、妥当ではなかろうか。

タケメネ(竹芽根)の義(日本語原学=林甕臣)、

も、ほぼ同じ発想である。その他、

竹笛の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・言元梯・俚言集覧)、
形が蜷(ごうな)に似ているところからタカミナ(竹蜷)の義(日本語の発想=白石大二所引中川芳雄説)、

というのは考え過ぎではないか。「蜷」(ごうな)とは、

寄居虫、

と当て、

ヤドカリの別名、

である。似ていなくもないが、音韻からの付会ではあるまいか。

「竹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.html?1607996078で触れたことだが、

新井白石の「東雅」には、「万葉集抄」にタは高いことだとあって、ケとは古語に木をケというようであり、タケとは、生じて高くなる木という意味でつけられて名である、と説いている。タカムナという筍の異名からタカムは高くなることで、ナは「菜」でたべものを意味するという説もある、

とある(たべもの語源辞典)。「タケノコ」が、「菜」と見られていたことは確かである。「菜」は、

葉・茎などを食用とする草木類の総称、

であったhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/478982915.html

本朝食鑑(1697)は、

今本邦食する所の筍は苦竹、淡竹、長間竹の筍なり、

と、食用にされるのはマダケ、ハチク、シノダケのものだとしているように、明和・安永(1764‐81)以降モウソウチクの栽植が進むまでは、たけのこといえばだいたいマダケとハチクのそれであったらしい(世界大百科事典)。

「竹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.html?1607996078で触れたように、

モウソウという竹は、元文年間(1726-41)徳川八代将軍吉宗のとき、琉球から薩摩に二本移植されたのが始まりである。これは中国中部の江南竹で、雪竹ともいう。日本で孟宗竹とよんだのは、中国の筍の産地として有名な西湖近くの法華山一帯から出るものを毛笋(モウシュン)とよんでいるから、これが訛ってモウソウとなり、孟宗とあて字したものである。中国から日本に移植された竹は、マダケ(漢名、苦竹。ニガタケともよぶ)、ハチク(漢名、淡竹。苦味がうすいからである。クレタケ、カラダケともいう)、布袋竹(ホテイチク。短い節間がふくれていて、ほていさんの腹を連想させるところからの名)、鼓山竹(ゴザンチクともいう。漢名多般竹)である、

とあり(たべもの語源辞典)。日本原産の竹は、中部山岳地帯、東北地方にあるスズタケ(篶竹。スズ・ミスズともいう。スズは篠(しの)と同じ意)である(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年01月08日

このわた


「このわた」は、

海鼠腸、

と当てる。「こ」は、

海鼠、

の古名(江戸語大辞典)、あるいは、

本名、

とある(大言海)。和名抄に、

海鼠、古(コ)、似蛭而大者也、

とある。で、「このわた」は、

「こ」(海鼠)+の(助詞)+わた(腸。内臓という意味)、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F

ナマコの腸(はらわた)、

を指すが、多く、

その塩辛、

を指す(広辞苑)。

ナマコの内臓から作る塩辛。はらわたをよく洗い、20〜30%の食塩を加え樽詰とし熟成する。特有の香気があり、酒のさかなとして珍重、

とある(マイペディア・たべもの語源辞典)。

火力で乾燥したものを、

煎海鼠(いりこ)、
海参(いりこ)、

というが、別に、乾燥したものを一般に、

干海鼠(ほしこ)、
俵子(たわらご)

ともいう(大言海)。和名抄には、

熬海鼠、伊里古、

とある(大言海)。

「俵子」は、「なまこ」の異称である(たべもの語源辞典)。『嬉遊笑覧』には、

俵子(たわらこ)は沙噀(さそん:海鼠の別称)の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F)、伊勢貞丈も、

海鼠の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり、

とする(仝上)。

串に刺して乾燥させたものは、

串海鼠(くしこ)、

また「なまこ」の卵巣を干したもの

海鼠子(このこ)、

といい、

紅梅腸、

とも称した、とある(仝上)。特に、金華山でとれた「なまこ」を、

金海鼠(きんこ)、

と称した、とある(仝上)。また、「金を帯ぶるものあり、略、虎斑(とらふ)に似たれば」、

虎海鼠(とこら)、

というが、味は劣る、とある(大言海)。

このわた.jpg


「このわた」は、尾張徳川家が師崎のこのわたを徳川将軍家に献上したことで知られ、江戸時代、

三河(愛知県)の「このわた」、長崎県の「からすみ」(ボラの卵巣)、越前の「うに」とともに「天下の三珍」として賞味された、

とある(日本大百科全書)。「このわた」は、

能登国の産物、

として平安時代の史料に登場する。延長五年(927)成立の『延喜式』では、

中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠(いりなまこ)に加えて「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されており、かなり量産されていた、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F。元禄十年(1697)の『本朝食鑑』では、「奈麻古」(なまこ)について、

腹内ニ三條ノ黄腸(きわた)ガ琥珀ノ如クシテ、之ヲ淹(つ)ケテ醬(しゃう)ト爲シ、味ワヒ香美、言フヘカラス。諸(さまざま)ナ醢(ひしお=塩辛)ノ中ノ第一ト爲スナリ、

と記す(仝上)。幕末の『千蟲譜』に、「このわた」について

此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり、

と記すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9F

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年01月09日

国民の富


アダム・スミス(大内兵衛・松川七郎訳)『諸国民の富』を読む。

国富論Ⅰ.jpg


本書は、『国富論』とも呼ばれる、原題は、

An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations

諸国民の富の性質と諸原因に関する一研究、

であり、スミス自身は、

前著、

道徳的感情の理論、

の続編と位置づけ、本書を、

政治経済学、

と同義と考えていた、と本書の編者が見做している。しかし少なくとも、本書の編成からみるなら、

諸国民の富の性質、

を順次分析しており、

国富論、

というよりは、

諸国民の富、

というタイトルが正鵠を射ている。

本書は、まず、

富の増殖の原理を、

第一篇において、富の生産関係の要素として、労働と資財と土地のうち、労働の生産力が決定的であり、それを改善するものが分業であるとし、商品となった生産物が、貨幣によって交換され価格化し、それが賃金、利潤、地代へ分配される流れを、

第二篇で、生産によって蓄積され、再度生産に使われる資財の性質、資本蓄積を、

第三篇で、国別の国民の富裕の進歩の差異を、自然的進歩とは異なり、外国貿易、製造業、農業と転倒された秩序を、

述べ、結論として、資本の活用は、

「自分の資本を国内の勤労の維持に使用するあらゆる個人は、必然的に、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの勤労を方向づけようと努力する。勤労の生産物とは、勤労が使用される対象すなわち原料に付加するものをいう。この生産物の価値の大小に比例して、雇主の利潤もまたそうなるであろう。
ところで、ある人が勤労の維持に資本を使用するのは、ただ利潤のためだけにそうするのであり、したがってかれは、生産物が最大の価値をもちそうな、すなわち、それが貨幣またはその他の財貨のいずれかの最大量と交換されそうな勤労の維持に、それを使用しようとつねに努力するのである。
 ところが、あらゆる社会の年々の収入は、つねにその勤労の年々の全生産物の交換価値と正確に等しい、否むしろこの交換価値とまったく同一物なのである。それゆえ、あらゆる個人は、自分の資本を国内の勤労の維持に使用すること、したがってまた、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの勤労を方向付けること、この双方のためにできるだけ努力するのであるから、あらゆる個人は、必然的に、この社会の年々の生産物をできるだけ多くしようと骨おることになるのである。いうまでもなく、通例かれは、公共の利益を促進しようと意図もしていないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。……また、その生産物が最大の価値をもちうるようなしかたでこの勤労を方向づけることによって、かれはただ自分の利得だけを意図するにすぎぬのであるが、しかもかれは、このばあいでも、他の多くのばあいと同じように、見えない手に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。かれがこの目的を全然意図してもみなかったということは、必ずしもつねにその社会にとってこれを意図するよりも悪いことではない。かれは自分の利益を追求することによって、実際に社会の利益を促進しようと意図するばあいよりも、より有効にそれを促進するばあいがしばしばある。」

と述べる。つまり、

「財貨の交換の自由さえ保障されていればいわば人間相互の道徳的感情と彼らの生来もっている利己心とが集まって、自然に労働と資本の生産は拡大する」

という「見えない手」に、本書を『道徳的感情の理論』の続編と位置づけたスミスの意図がみえる。

以後、第四編は、政治経済学の、

商業の体系、

農業の体系、

を通して、重商主義と重農主義という経済学を批判する。ある意味で、後年、マルクスがスミスを『経済学批判』したように、スミスの既存の経済学批判である。

そして、最後、第五編は、国家の収入で、軍備、司法、教育、土木その他の公共施設について、国家は何をすべきで、その経費の補填として、租税と公債を論じて終る。

この展開は、

一国民の富は一人当たりの所得によって計算されるべきものだ、

とするスミスの考え方を正確に反映している。だから、本書の序論は、

「あらゆる国民の年々の労働は、その国民が年々に消費するいっさいの生活必需品や使益品を本源的に供給する元本である。これらの必需品や使益品は、つねにこの労働の直接の生産物か、またはこの生産物で他の諸国民から購買されるものかのいずれかである。
 それゆえ、この生産物またはそれで購買されるものが、それを消費すべき者の数に対する割合の大小に応じて、その国民は、必要とするいっさいの必需品や使益品を十分にまた不十分に供給されることになる。」

と書き始められる。だから、

国民の福祉は、その成員の福祉の平均によって計算されるべきであって、福祉の総計によるべきではない、

という含意が読み取られる、とやはり本書の編者が見做しているのは首肯できる。

周知にように、マルクスは『資本論』を、

商品と貨幣、

から書き起こしたが、スミスは、本書を、

分業、

から書き起こす。時代の差もあるが、だから、マルクスは、

商品の使用価値と交換価値、

の分解から始めていく。しかし、スミスは、分業から書き始めたことによって、

価値そのもの、

ではなく、

価値を生み出す諸形態、

を横展開していくことになる。だから、

交換価値=価格、

を前提に展開していくように見える。たとえば、

「製造工の労働は、一般に、加工する材料の価値に、自分自身の生活維持費の価値と、自分の親方の利潤の価値とを付加する。」

としか触れない。だから、「価値」の様々な形態は横展開で例示されるが、その価値の生れ出てくる仕組みは、どこかブラックボックスというより自明のように展開されていく気がする。そこに展開される事例の連続は、いささか読んでいて、退屈させられるのを否めない。だが、経済に疎いので、素人のたわ言かもしれないが、マルクスに批判されたスミスは、

死んではいない、

気がしてならない。

資本主義、

は、まだ厳然としてあるし、彼の、

見えざる手論、

安価なる政府(チーフガバメント)論、

も、まだ生きている気がする。

参考文献;
アダム・スミス(大内兵衛・松川七郎訳)『諸国民の富』(岩波書店)

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スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年01月10日

ナマコ


「ナマコ」は、

海鼠、

と当てるが、

生子、
奈麻(万、末)古、

とも当てたりし(日本大百科全書)、

タワラゴ(俵子)、
タワラ、

等々とも言い、上方では、

トラゴ、

ともいった(たべもの語源辞典)。漢名では、

沙噀(さそん)、
沙蒜(ささん)、
塗筍(どじゅん)、

等々とあり(仝上)、また、ケンペル『日本誌』では、

土肉、

を、

なまこ、

と訓ませているhttps://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GF024017&hid=4085

土肉.jpeg

(土肉 ケンペル『日本誌』 https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GF024017&hid=4085より)

中国語でナマコを指す、

「海参(ハイシェン)」は、その強壮作用から「海の人参(御種人参)」との意味でつけられた名前である、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B3

ナマコ.jpg


「このわた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479417966.html?1610050202で触れたように、古くはふるくは、和名抄に、

海鼠、古(コ)、似蛭而大者也、

とあるように、

こ(海鼠)、

と呼ばれた。「こ」の語源は、

凝るの語根にもあらむか、體、凝れるが如し(大言海・名言通)、
小を意味する原語コからの転義で、コ(蚕)に似ているところから(日本古語大辞典=松岡静雄)、

の説がある。是非を判断する手立てはないが、

こ(蚕)、

は、

子(コ)、卵(コ)の転義、

とある(岩波古語辞典)。

桑子(くはこ)のコならむ。家にて養ふに因りて、常に、養蠶(カヒコ)と云ふなり、

ともある(大言海)。「かいこ」は、

たらちねの母がかふこ(蚕)の繭隠(まよこも)り隠れる妹を見むよしもがも(万葉集)、

とも詠われるほど古い。確かに、「蚕」に似ていなくもない。となると「小」ではないだろう。

蚕.jpg


「ナマコ」は、

円筒状で左右対称の体形をした無脊椎動物で、日本近海には約200種が生息する。主に食用になるのはマナマコで、体表の色からアカナマコ、アオナマコ、クロナマコの3種に区別される。アカナマコは国内の生食向けに1キロあたり500~1千円程度で取引される。アオナマコ、クロナマコの乾燥品は高級食材として主に香港や中国に輸出される、

とある(朝日新聞掲載「キーワード」)。生食が中心の日本に対し、中国では乾燥させた干しナマコとして利用するのが一般的だからである。

日本人とナマコの関わりは古く、『古事記』に、

海鼠(コ)、

と載る。『養老律令』賦役令及び『延喜式』にも諸国からの貢納品として挙げられ、『和名類聚抄』には「老海鼠」「虎海鼠」などと載る。江戸時代の『本朝食鑑』には、その形がネズミに似ていることから「鼠」の字が用いられたといい、江戸時代には米俵に似ているということで豊作に通じた縁起物として正月の雑煮の具(上置)に用いられた、長崎貿易においては「俵物」として清などに輸出された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%B3

「ナマコ」の語源は、

乾海鼠(ほしこ)、熬海鼠(いりこ)などに対して、生(なま)なるを、ナマコと云ひて、通名とす、

というのが通説である(大言海)が、

再生力が強く、体を切っても時間が経つと元へ戻ることから、「生き返る」という意味の「生」(語源由来辞典)、

と、再生力から「生」というとする説もある。その他、

ヌメリコ(滑凝)の義(日本語原学=林甕臣)、
ナメリ(滑)コの義(滑稽雑誌所引和訓義解)、

と、その特徴からとする説がある。たべもの語源辞典は、

生だからナマコだという説は間違っている。生きていることが特色ではない。名称は、それ自体の特色を見てつけるもので、ヌラヌラとしたなめらかなもの、ナメリコ(滑りこ)が略されてナマコになったのである、

とする。しかし、その形態は、

体は筒形で、腹面が平たくて背面の盛り上がったかまぼこ形のものが多いが、背腹の区別のないものもある。口の周りにはふさふさした触手が何本もある。腹面には小さいいぼのような管足が無数にある。管足は縦に3対列をなして並ぶことが多いが、背腹の区別のないものでは、体の周りに5対列をなして並ぶ。管足がまったくないものもある。体表は粘液でぬるぬるしていて、皮革のような手ざわりのものや、ぶよぶよした柔らかいものもあり、また滑らかなものも、ざらざらして手に吸い付くような感じのものもある。皮膚の中には顕微鏡的な小骨片が無数に埋もれている。骨片の形は櫓(やぐら)、錨(いかり)、車輪などに似ていて、ナマコを分類するときの標徴とされる

とあり(日本大百科全書)、一概に、「なめらか」とはいかないようである。やはり、古くから、

乾海鼠(ほしこ)、熬海鼠(いりこ)などに対して、生(なま)なるを、

ナマコと言ってきたのには意味があるのではないか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ナマコ 海鼠
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2021年01月11日

なびく


「なびく」は、

靡く、

と当てる。

(根元が押さえられていて)先の方がゆらゆらと横に揺れ動く、

のを言い、それをメタファに、

さ寝(ぬ)がには誰とも寝(ね)めど沖つ藻の靡きし君が言待つ我を(万葉集)、

というように、

(心や態度が、ある人の方へ)揺れ動いて寄る、

意であり、さらに、

上は下に助けられ、下は上になびきて(源氏)、

というように、

他人の威力・意志などに従う、
服従する、

意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。

「靡」(漢音ビ、呉音ミ)は、

形声。「麻(しなやかな麻)+音符非」

とある(漢字源)が、別に、

形声。「非」+「麻」。「非」は、分離すること。「麻」は、水に浸した麻のこと、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9D%A1が、

燕従風而靡、

と、

外から加わる力に従う、

意から考えると、「麻」を水に浸したイメージが浮かぶ。

「なびく」の語源は、

ナビク(並)は、下二段動詞ナブ(並)と同源。ナブは、同じ方向に揃うという意味的共通性からみて、ナブ(並)・ナム(並)と同源と考えられる、

とする(日本語源大辞典)、

並ぶ意のナム(列)、ナラブと同系か(語源大辞典=堀井令以知)、
ナミク(並木)の義(名言通)、
ナミフス(並偃)の義(言元梯)、

という「並」とみなす説と、

ナビは擬態語。元がささえられながら、先がしなやかに揺れ動く意。擬態語を語根とし、接尾語クをつけて、動詞を作る、さわぐ(騒)・かがやく(輝)・とどろく(轟)などの類(岩波古語辞典)、

と、擬態語とする説に大別される。

他に、

偃(な)え延(ひ)くの意(大言海)、
ナ(和)+引く、物の力に引き寄せられる(日本語源広辞典)、

もあるが、上記二説が有力である。

なぶ(並)、

は、列をなす意である(大言海)が、

なむ(並)、

も、

横に凹凸なく並ぶ意。縦に一列並ぶのはツレ(連)という、

とある(岩波古語辞典)。で、

ならぶ(並)、

は、

二つのものがそろって位置している意が原義、類義語ナム(並)は三つ以上が凹凸なく横に並ぶ意、

である(岩波古語辞典)。つまり、

なぶ(並)、

なむ(並)、
も、
ならぶ(並)、

も、並んだ状態を示す言葉の可能性が高い。となれば、

なぶ(靡)、

もその意味の外延にあるかもしれないが、「さわぐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465482949.htmlが、

奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語

とある(岩波古語辞典)。「サワ」は、

さわさわ、

という擬態語であり、「とどろく」が

ドロドロという音ないし声から(国語溯原=大矢徹・時代別国語大辞典-上代編)、
ドドは擬音語(岩波古語辞典)、

と、また擬音語であり、「かがやく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473231684.htmlも、

カガは、赫(かが)、ヤクは、メクに似て、発動する意。あざやく(鮮)、すみやく(速)(大言海)、
カガ・カガヤ(眩しい・ギラギラ)+く(動詞化)(日本語源広辞典)、
カクエキ(赫奕)の転(秉穂録)、
カガサヤクの約言(万葉考)、

と、「赫」とつなげる説が多く、擬態語と見ることができる。「なふ」「なむ」も並んだ状態の擬態語と考えれば、二説は、

並んだ状態、

靡いた状態、

と、重なるのかもしれない。

風になびく.jpg

(風になびく https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8よる)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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ラベル:なびく 靡く
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2021年01月12日

とどろく


「とどろく」は、

轟く、

と当てる。「轟」(慣用ゴウ、呉音・漢音コウ)は、

会意。「車+車+車」で、多くの車が往来することを表す、

とあり(漢字源)、

ごろごろととどろく音の形容、

の意である。

轟音、
喧轟、



地響き、
どんととどろく音、
ざわざわと騒ぎ乱れる音、

等々につかう(仝上)し、

轟轟烈烈、

と、

物事が盛んで激しいさま、

にも使う(仝上)し、

轟飲、
轟笑、

と、

大いに、むやみに、の意でも使う(字源)。

音が鳴り響く、
とか、
胸が轟く、
とか、
名前が世間に知れ渡る、

等々という意味で使うのは、我国だけのようである(仝上・漢字源)。

「とどろく」は、

トドロの活用、

とある(大言海・日本語源広辞典)。

「とどろ」は、

擬音語、

で、

とどろき響くさま、

で(岩波古語辞典)、使用範囲は広く、

磯波・激流・馬の音、鹿・鶴・蝉の声、橋板を踏み鳴らす音、

等々に、

みよしのの滝(たぎ)もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまく欲しき白波(万葉集)、
伊勢(いせ)の海の磯(いそ)もとどろに寄する波恐(かしこ)き人に恋ひわたるかも(仝上)、
梅柳(うめやなぎ)過(す)ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに(仝上)、

等々、幅広く使う(岩波古語辞典)。その「とどろ」は、

ドロドロという音から(言元梯・名言通・国語溯原=大矢徹)、
トドロはトドと同じく擬声語で、大きな物音を表す(時代別国語大辞典-上代編)、

等々とあるが、「とど」は、

馬の音のとどともすれば松蔭(まつかげ)に出でてぞ見つるけだし君かと(万葉集)、
奥山の真木の板戸をとどとしてわが開かむに入り来て寝(な)さね(万葉集)、

等々の擬音語「とど」からきているとみていいが、この「とど」は、

ことこと、

といった優しい音の意であり、

どど、

とも訛った(岩波古語辞典)。「ろ」は、

接尾語、

で、

名詞の下につく。意味は明確ではない。歌の調子で用いられているような例もあり、親愛の情を示すように見える例もある、

とある(仝上)。

目ろよしに寄しより來ね(記紀)、

は前者、

武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵(よひ)より背ろに逢はなふよ(万葉集)、

の場合は、後者だろう。

「とどろ」が、

とどろき響くさま、

に転じたとき、同じ意の擬音語、

轟、

を当てたのは慧眼である。漢字より、意味の外延は広いが。

「とどろく」は、「なびく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479466279.html?1610309273で触れたように、

擬音語・擬態語+ク(動詞を作る接尾語)、

で、

なびく(靡)、
さわぐ(騒)、
かがやく(輝)、

と同種の言葉である(岩波古語辞典)。

那智滝.jpg


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:とどろく 轟く
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2021年01月13日

なまづ


「なまづ(ず)」は、

鯰、

と当てるが、

魸、

とも当てる。共に、国字である。中国では、「なまず」は、

鮎、

である。これを「あゆ」に当ててしまったので、国字を作った、という(たべもの語源辞典)。

「鮎」(漢音ネン、呉音デン)は、

会意兼形声。「魚+音符占(=粘、ねばりつく)、

で、「なまず」である。中国では、

鯷(テイ、シ)、
鮧(イ、テイ)、

は、「おおなまず(大なまず)」を意味し、

鯷冠、

という言葉があり、

この皮を以て冠を作る、

という(字源)が、日本では、「鯷」を「ひしこ(いわし)」に当てている。

鰋(エン)、

も「なまず」で、小雅に、

魚麗于罶鰋鯉、

という詩が載る(字源)。

「なまず」は、また、

鯰公(ねんこう)、
鮎鯰(でんねん)、
慈魚(じぎょ)、
鮰魚(かいぎょ)、
偃額魚(いんがくぎょ)、
水底羊(すいていよう)、

とも呼ばれ、

なまだ、
にぜんぎょう(二漸経)、
ちんころ(東京)、

とも言い、

じょうげんぼう、

という異名もある(たべもの語源辞典)。梅雨のころが産卵期で、

梅雨鯰(つゆなまず)、

というが、享保十三年(1728)に、洪水があって、手賀沼、井の頭の池などから、神田川、墨田川になまずが流れ出て、これで江戸になまずがいるようになり、鯰料理が始まった、とある(仝上)。

ナマズ(歌川国芳).jpg

(ナマズ(歌川国芳) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%BAより)

「なまず」の語源は、

滑らかなる意(大言海・日本釈名・和語私臆鈔・日本語源=賀茂百樹)、

とか、

ぬめる(日本語源広辞典)、

という触覚系の語感が主流で、

ナメリデ(滑手)の義(名言通)、
ナメハダウオ(滑肌魚)の義(日本語原学=林甕臣)、

も同趣。

鱗がなくて滑らかなので「なまる」「なめらか」「ねばる」といった意から(たべもの語源辞典)、

というところだろう。「なめくじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460423231.htmlで触れたように、

ナメは滑の義(大言海)、

であり、「づ」は、

川や沼の泥底にすむことから、「どじょう」の「ど」とおなじく、「泥」や「土」の意味、

とある(語源由来辞典)。ただ、「どじょう」は、和名を、

登知也于(壒嚢抄)、

と当てるのに対して、「なまず」は、

奈萬豆(和名抄)、
奈末都(本草和名、

と当て、別のようである。「つ」は、

津、豆、渡水處也(和名抄)、

であり、「つ」は、

ト(戸)の母音交替形、

であり、「と」は、

ミナト(港)・セト(瀬戸)のトに同じ、

とあり、水の出入り口、の意である。「どじょう」は、

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいる。感覚器として発達した口ヒゲを利用して餌を探し、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエル、亀、蛭などの小動物を捕食する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%82%BAので、生態からみると、「泥」と当てるのは当たらないのかもしれない。「つ」も、少し的から外れているような気がする。

なお「なまず」には、

地震、

の意もある。

地底に鯰ありて、地震は其しわざなりとの伝説がある、

ためである(大言海)。この鯰は、

大鯰(おおなまず)、

とされ、

地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる、

と信じられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AF%B0)。地震にまつわる古代の世界観として、

地底には巨大な毒蛇が棲んでおり、このヘビが身動きをするのが自身である、という「世界蛇」伝説が、アジア一帯において共通して存在していた。これは日本も同様で、江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた、

が(仝上)、江戸時代後期になると、民間信仰から、

竜蛇、

が、

ナマズになった、とある(仝上)。

なお、地震については「なゐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478967716.htmlで触れた。

大鯰が描かれた鯰絵.jpg

(大鯰が描かれた鯰絵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%AF%B0より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:なまづ なまず
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2021年01月14日

どじょう


「どじょう」は、

泥鰌、
鰌、
鯲、

等々と当てる。「鰌」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

会意兼形声。「魚+音符酋(シュウ しまって細い)」

とある(漢字源)。「酋」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

象形。壺の中に酒が醸されて、外へ香気がもれでるさまを描いたもの。シュウということばは、愁(シュウ 心が小さく縮む)・就(ひきしめる)などと同系で、もと酒をしぼる、しぼり酒の意であったが、のち、それを酒の字にかきあらわし、酋はおもに一族をひきしめる頭の意にもちいるようになった、

とある(漢字源)。「酋」は、

ミミズを意味する、

とあるがhttps://zatsuneta.com/archives/001987.html、調べた限り、その意はない(漢字源・字源)。なお、「どじょう」の意では、

鰍(シュウ)、
鯲、

を当てるが、「鰍」は、

会意兼形声。「魚+音符秋(ぐっとひきしまる、締まって細い)」

で、我国では、

になだ、

かじか、

に当てる。「鯲」は、

会意。「魚+於(とごる、どろ)」、

と、「どじょう」と訓ませる、国字。

「どじょう」は、室町期の「壒嚢抄」は、

鯲、どぢゃう、

江戸期の林羅山の本草學「多識篇」は、

鰌魚(シウギョ)、和名登知也宇、異名泥鰍(デイシウ)、

慶長期の易林節用集は、

鰌、ドヂャウ、

江戸期林逸節用集は、

土町、ドジャウ、

等々と、歴史的仮名遣いでも、

どぢゃう、
どづを、
どぢを、
どじゃう、

と種々の表記がされてきたが、

「ぢ・じ」「ちゃう・ちょう」の発音の別が存した室町中期に編纂された辞典「壒嚢抄」に、

ドヂャウ、
土長、

の表記が見られることから、

どぢゃう、

とする説に従う(日本語源大辞典)、とある。だから、江戸時代に、

どぜう、

という表記が看板・暖簾などにみられるが(語源由来辞典)、江戸期の「駒形どぜう」に由来するとするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86。現に、「駒形どぜう」では、

もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。文化三年(1806)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます、

としているhttps://www.dozeu.com/history/。「どじょう」は、地域で、

ウナマ(石川県河北地方)、
ノロマ、ノロ(石川県鹿島地方)、
ジックリ、ドジュクリ(鹿児島)、
トドヨ(和歌山)、
ドロンボ(滋賀県)、
ドンキ(山形村山地方、福島北部)、
ドンキュー(広島、鳥取、岡山)、
メロ(青森)、

等々、さまざまな異称で呼ばれている(たべもの語源辞典)。

どじょう.jpg


「どじょう」の語源については、はっきりしないが、大言海は、

泥之魚(ドロツヲ)の義、泥の中へちょろちょろするより起こる。泥鰌(デイシウ)の轉と云ふは、少し鑿(イリホガ)なるべし、壒嚢抄(あいのう)に、土長、増補下學集に土𩸎。又は土生、泥生などと云ひ、髭あれば泥尉(どぜう)と云ふ説なども據所なし、

と、「土長」説を否定している。これと似ているのが、

ドロツヲ(泥津魚)の義(三余叢談・日本語源広辞典)、

であり、

ドロツウオ→ドロツオウ→ドロジオウ→ドロジヨウ→ドジョウ、

と転訛したとみる(日本語源広辞典)。

しかし最古の文献が、

どぢゃう、

としたことから見ると、「ツ→ジ」ではなく、「ツ→ヂ」を経て、

ドロツウヲ→ドロツヲウ→ドロヂヲウ→ドロヂヤウ→ドヂャウ→ドジョウ、

といった転訛だったことも考えられるが、

ドヂャウ→ドジョウ、

と見るのが自然だろう。

「どじょう」は、江戸期の「料理物語」(1643)をみると、

鰌汁、
すし、

とあり、「すし」は「なれずし」であったとみられる(日本語源大辞典)。江戸で「どじょう汁」を始めたのは、文政年間(1818~30)で南伝馬町三丁目店に住む万屋が、ドジョウをさいて骨首・わたを取り去って、鍋煮にして売った、とある(たべもの語源辞典)。その後天保(1830~44)の初めころ横山同朋町に「柳川」という屋号で、どじょう鍋を売る店ができ、この商売が広まり、「どじょう鍋」を「柳川鍋」というようになる(仝上)。いまもある「浅草駒形のどぜう」は、文化元年(1804)に開業した。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:どじょう 泥鰌
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2021年01月15日

どさまわり


「どさまわり(回り)」は、

劇団などが地方まわりをすること、また常設の劇場をもたない地方回りの劇団の称、

の意と、

盛り場などを歩きまわるよたもの、
地回り、

の意とがある(広辞苑)。「地回(廻)り」は、

地回りの酒、

というように、

近くの土地から回送してくること、またその品物、

の意だが、そこから、

地廻商人、
地廻船、

というように、

その地方の近辺を巡回すること、

の意であり、たとえば、

江戸では、上方からもたらされた品物を「下り物」「下り荷」と呼んでいた。一方、江戸の近郊、関東各地から来た品物は「地廻り物」と呼ばれた、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference17.html。それが、

近郷を巡り歩いて商売すること、またその商人、

の意になり、

地廻の若者、

というように、

その土地に住み着いている、土地っ子、

をさし(大言海)、さらに、特に、

遊里や盛り場に住んでうろつきまわるならず者、

の意に転じた(広辞苑)。江戸期に確定したらしい最後の意味は、

地廻下駄組、

という、

下駄をはいた地廻りの一団を侠客などの集団名に擬していった語があるほどで、

吉原では用心棒として地廻りをかかえ、喧嘩などの際取鎮めに当たらせた娼家もあった、

とある(江戸語大辞典)。

小屋掛け.jpg


「どさ」は、

どさぁの意、
(隠語)賭場に役人が踏み込むこと、手入れ、

の意の他に、

地方または田舎をさげすんで言う語、

の意がある(広辞苑)。「どさぁ」の意というのは、

奥州にて、他人の事柄を相手に話す時、「と云ふ」の意に使う語、

であり(大言海)、転じて、

奥州弁、
どさことば、

の意で使う(仝上)。だから、

東北人、
田舎者、

の意に転じ(江戸語大辞典)、「どさまわり」の語源に、

ドサァ言葉、つまり東北弁の土地へ行って行う芝居の意(演劇大百科事典・上方語源辞典=前田勇)、

とするのだが、如何であろうか。また、手入れの意の「どさ」から、

江戸時代の賭場言葉が芸能界に受け継がれ、博打で逮捕されて遠く佐渡へ贈られることをサドの倒語をもちいてドサといったところから(演劇大百科事典・上方語源辞典=前田勇)、

とする説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B5%E5%9B%9E%E3%82%8A・日本語源広辞典)。

また、「どざ」に、

土座、

を当てて、

板敷でない地面のままのところ、
土間、

の意があり、そこから、

客席にも楽屋にも筵が敷いてあったから(演劇大百科事典)、

という語源説もある。

土砂降りになると休みになるような田舎芝居の意(仝上)、
ドサは土臭い意の土砂から(ことばの事典=日置昌一)、

も、趣旨は同じである(日本語源大辞典)。どれかと特定する識見があるわけではないが、

左は男桟敷右のかたは女中とさだめ土座はすゑすゑの万人自由に見るため」(浮世草子・「新可笑記(1688)」)、

ともあり、

のみにしらみにうきはまたぐら土さに唯しけるむしろもよしなしや(俳諧・寛永十三年「熱田万句(1636)」)

では、「どさ」と訓ませてもいる。江戸時代、

芝居小屋の「江戸三座」(中村座、森田座、市村座)は、町奉行所から歌舞伎興行を許された格式の高さを誇り、「大芝居」とも言った。一方、寺社の境内などで小屋掛け興行する一座は「宮芝居」、または「小芝居」と呼ばれ、大芝居とは格段の差があった、

とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference16c.html。寺社などの空き地を借りて小屋掛けするという意で、「土座」説に与したい気がする。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:どさまわり
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2021年01月16日

経済学の方法


カール・マルクス(大内兵衛・向坂逸郎他訳)『経済学批判』を読む。

経済学批判.jpg


マルクスは、『「経済学批判」序説』で、「経済学の方法」について、こんなことを書いている。

われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
 現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口をつくり上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの成素は、交換、分業、価値等々を予定する。例えば、資本は賃労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。したがって私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向かって進み、最後に私は最も単純な諸規定に達するだろう。さてここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてではなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。

そして、後者の方法こそが「科学的に正しい方法」であるとし、

具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現れるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが、

と付け加える。ふと、ヴィトゲンシュタインの、

人は持っている言葉によって見える世界が違う、

という言葉を思い出す。ある意味で、概念の、

チャンクアップ、
チャンクダウン、

を言っているのだが、「人口」という概念で見える世界と、各「階級」という概念で見える世界とは異なる。例えば、統計数値を使うとする。しかし、コンマいくつで丸められたのか、そして、そう丸められたのは、どういう前提に基づいているのか、と分析していくと、その統計数値を生み出すための、調査なら質問の、また数値結果としての各数値間の関係が見えてくるはずである。何かありふれた概念を、安易に前提にすれば、それだけのものしか見えてこないということである。だから、

抽象的な諸規定が、思惟の手段で具体的なるものを再生産することになる、

と言い切れるのである。それは、

具体的なものを自分のものにし、これを精神的に具体的なものとして再生産する思惟の仕方にすぎない、

のであり、

理解された世界それ自体がはじめて現実的なもの、

なのだから、

範疇の運動は現実の生産行為……として現われ、この行為の結果が世界、

である、と。しかし、である。それは、ヘーゲルの陥った、

実在的なものを、それ自身のうちに綜合し、それ自身のうちに深化され、それ自身のうちから運動してくる思惟の結果として理解する幻想、

とは、どこか紙一重に思えてならない。ある意味「仮説」というもののもつ宿命ではあるにしても。

こんな、

思惟具体物として、事実上思惟の、すなわち理解の産物、

として、典型的なのは、例えば、

商品は、商品としては、直接に使用価値と交換価値の統一である。(中略)商品は使用価値である。すなわち小麦、亜麻布、ダイヤモンド、機械等々である。しかし、商品としては、商品は同時に使用価値ではない。(中略)所有者にとっては、商品はむしろ非使用価値である。すなわち、交換価値の単なる素材的な担い手である。あるいは単なる交換手段である。交換価値の能動的な担い手としては、使用価値は交換手段となる。商品は、所有者にとっては、ただ交換価値であって、はじめて使用価値である。したがって、使用価値としては、商品はこれから、まず第一に他人のための使用価値にならなければならない。(中略)もしそうでなかっら、彼(所有者)の労働は無用の労働だったのである。……他方では、商品は、所有者自身にとって使用価値とならなければならない。何故かというに、所有者の生活手段は、その商品の外にある他の商品の使用価値の中に存するのであるからである。使用価値となるためには、商品は、それが充足の対象にあたる特定の欲望に出あわなければならない。だから、商品の使用価値は、全面的に位置を変えて、それが交換手段である人の手から、それが使用対象となる人の手に移って、はじめて使用価値となる。商品がこのように全面的に己を譲り渡すことによってはじめて商品に含まれている労働は有用労働となる。(中略)商品がその使用価値となってゆく際におこなう唯一の形態転化は、商品がその所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値であったというこの形態のもつ性質を止揚することである。商品が使用価値となることは、商品の全面的譲り渡しを、すなわち、商品が交換過程に入り込むことを予定している。しかしながら、商品が交換のためにあるということは、交換価値としてあるということである。したがって、使用価値として実現されるためには、商品は交換価値として実現されなければならない。

として、確かに、商品の価値の転換のプロセスは、単純な交換とは異なる視界が開ける。さらに、

商品が交換されることができるのは、ひとえに等価であるからである。そして、それらが等価であるのは、対象化された労働時間の等量であるからである。(中略)商品は、個々の人の特殊な労働そのものであるだけでなく、社会的に有用な労働であるために、商品の特殊な使用価値をぬぎすてて、これを引き渡すことによって素材的な条件をみたしたとしよう。こうなると、商品は、交換過程において交換価値として、他のすべての商品に対して一般的等価、すなわち対象化された一般的労働時間とならなければならない。そしてこのようにして、もはや特別の使用価値の限定された作用をもつだけでなく、その等価としてのすべての使用価値の中に直接的な表示能力をうることにならなければならない。

量的に表現するためには、確かに、その生産のために必要な労働時間、で表現する他はない。しかし、この労働時間という概念も、「人口」と言う概念と同様に、チャンクダウンしていくと、発想、企画、設計、製造等々と別れていくだろう。今日付加価値と呼ぶ、別の基準が見えてくる可能性はある。ま、そこはそのままスルーするとして、ついで、

(それぞれの商品の)特殊な使用価値に表されている個人的な労働は、それらの使用価値が現実にその中に含まれている労働の継続時間の割合でおたがいに交換されてはじめて、一般的な、そしてこの一般的という形で社会的な労働になるのである。社会的な労働時間は、いわば潜在的にこれらの商品の中にあるだけであって、その交換過程ではじめて発現するのである。

その交換過程で発言する「労働時間」という量を、一つの商品、マルクスは、亜麻布で代替しつつ、こう貨幣の出現を説明する。

すべての商品がそれぞれ自身の中に含まれている労働時間を亜麻布で表現しているので、逆に、亜麻布の交換価値は、その等価としてのすべての他の商品の中に展開され、亜麻布自身の中に対象化されている労働時間が、直接に、他の全ての商品のちがった分量に均等に表されている一般的労働時間となる。(中略)このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、これが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するお互いの交換価値の結晶である。

そして、

諸商品の交換価値は、ある特殊な商品に、あるいはある特殊な商品と諸商品との唯一の方程式に一般的等価性も、同時にこの等価性の度もりも与えられていることを表現されるにいたって、価格となる。価格は、諸商品の交換価値が流通過程内で現われる転化形態である。

多く金は、一般的等価の形態、貨幣の形態を与えられが、その場合、

すべての商品がその交換価値を金で測定されるのであるから、すなわち一定量の金と一定量の商品とが同一の大いさの労働時間を含んでいることに応じて測定されるのであるから、金は、価値の尺度となる。そして金が貨幣となるのは、ひとえに、まずこの価値の尺度であるという規定によるのであって、このような尺度として金自身の価値が直接に全範囲の商品等価で測られるからである。

そして、金は、

商品は労働時間によって量定される交換価値としてよりも、むしろ金において量定された同一名目の大いさとして相互にあい関係することになって、金は価値の尺度から価格の尺度標準に転化する。(中略)金は、対象化された労働時間として、価値の尺度である。金は一定の金属重量として、価格の尺度標準である。交換価値としての金が交換価値としての諸商品と関係することによって、金は価値の尺度となる。価格の尺度標準においては、一定量の金が他の量の金に対して単位の役割をなす。金が価値尺度となるのは、その価値が可変的であるからであり、価格の尺度標準となるのは、金が不変の重量単位として固定されるからである。

金もまた商品が持つ使用価値と交換価値という二重性を持っているからである。使用価値としては価値尺度、交換価値としては、価格の尺度標準という機能になる。

貨幣は唯一の現実的な商品である。交換価値、すなわち一般的社会労働、いいかえると抽象的富の独立の存在をただ表すにすぎない諸商品に対して、金は、抽象的富の物質的な存在である。使用価値の面からいえば、どの商品も、ただある特別の欲望に関係することによって、富の個別化された一面であるにすぎない素材的富の一要素を表現するだけである。ところが貨幣は、あらゆる欲望の対象に直接に転化されうるかぎり、あらゆる欲望を充足させる。貨幣自身の使用価値は、その等価物を成している使用価値の無限の系列として実現される。貨幣は、清浄無垢の金属として、商品の世界に広がっているすべての素材的富を未開封のまま含んでいる。だから、諸商品はその価格で一般的等価または抽象的富、いいかえると金を、代表しているとすれば、金はその使用価値の中に、すべての商品の使用価値を代表している。

貨幣にしても、

価値の尺度としての貨幣、
貨幣で測られた価値、つまり価格、
流通手段としての貨幣、

をさらに、流通過程で、鋳貨と区別すると、鋳貨は、

計算貨幣の尺度標準にしたがって鋳造される。

しかし鋳貨は、

その進行が中断されると、貨幣となる。鋳貨は、これを自分の商品と交換して得る売手の手中では、貨幣であって、鋳貨ではない。それが、彼の手を去るや否や、再び鋳貨となる。(中略)貨幣が鋳貨として絶えず流動しているためには、鋳貨は絶えず貨幣になることをいそがなければならない。(中略)流通W(商品)-G(貨幣)-W(商品)においては、第二の項G-Wが一挙に行われるものではなくて、一定時の間に継続的に行われる一系列の買いに分裂して、したがってGの一部分が鋳貨として流通しているのに、他の部分は貨幣として休息している……。

これによって、流通過程で、鋳貨として顕在化している部分と貨幣として潜在化している部分が視界に開ける。それは確かなのだが、観念形態の「貨幣」と現実形態の「鋳貨」をあえて分けることは、ヘーゲルの思惟の自己展開と紙一重に思えてならない。

参考文献;
カール・マルクス(大内兵衛・向坂逸郎他訳)『経済学批判(マルクス・エンゲルス第7巻選集)』(新潮社)

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2021年01月17日

たまふ


「お年玉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479319063.html?1610655746で触れたように、「たまふ」は、

賜ふ、
給ふ、
玉ふ、

等々と当てる。「たまふ」には、

目下の者の求める心と、目上の者の与えようとする心とが合わさって、目上の者が目下の者へ物を与えるという意が原義、転じて、目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表す、

(目下の者に)お与えになる、
(慣用句として「いざ~賜へ」と命令形で)是非どうぞ、是非~してください(見給へ、来給へ)、

意の他動詞(岩波古語辞典)と、それが、

タマ(魂)アフ(合)の約か。(求める)心と(与えたいと思う)心とが合う意で、それが行為として具体的に実現する意。古語では、「恨み」「憎しみ」「思ひ」など情意に関する語は、心の内に思う意味が発展して、それを外に具体的行動として表す意味を持つ、

助動詞として、動詞の意味の外延を引きずって、

天皇が自己の動作につけて用いる。天皇は他人から常に敬語を使われる位置にあるので、自分の動作にも敬語を用いたもの、

として、

~してつかわす(「「労(ね)ぎたまふ」)、

意と、さらに、

~してくださる(「いざなひたまひ」)、

と、目上の者の行為に対する感謝・敬意をあらわし、また、

~なさる(「位につきたまふ」)、

と、広く動作に敬意を表す(仝上)使い方をする。助動詞「たまふ」は、

元来、ものを下賜する意で、それが動詞連用形(体言の資格をもつ)を承けるように用法が拡大されて、「選び玉ヒデ」「御心をしづめたまふ」などと用い、奈良時代以後ずっと使われた。そこから、相手の動作に対する尊敬の助動詞へと転用されていったものと考えられる。つまり相手の動作を相手が(自分などに対して)下賜するものとして把握し表現したのである。
平安時代になると、単独の「たまふ」よりも一層厚い敬意を表す表現として、……使役の「す」「さす」「しむ」と、「たまふ」とを組み合わせる形が発達した。「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」という形式…である。それは、「~おさせになる」という、人を使役する行為を貴人が下賜することを意味し、その意味で使われた例も多く存在する。しかし、貴人自身の行為であっても、それを侍者にさせるという表現を用いることによって単に「~し給ふ」と表現するよりも一層厚い敬意を表すこととになったものである、

とある(仝上)。

さらに、「たまふ」には、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、
主として自己の知覚を表す動詞「思ふ」「聞く」「知る」「見る」などの連用形について、思うこと、聞くこと、知ること、見ることを(相手から)いただく意を表し、謙譲語、

として、

伺う、
拝見する、

等々の意としても使う。尊敬語(下さる)の受け身なのだから、謙譲語(していただく)になるのは、当然かもしれない。

「たまふ」と同義に、

たぶ(賜)、
たうぶ(賜)、

がある。「たうぶ」は、

「たまう」あるいは「たぶ」の音変化で、主として平安時代に用いた、

とあり、訛ったものと想像がつく。「たぶ」を、大言海は、四段動詞「たまふ」は、

だぶの延、

その助動詞用法には、

たぶの転、

とする。しかし、

たまふ(tamafu)→たぶ(tabu)、

はあり得ても、その逆はあり得ないのではあるまいか。つまり、「たぶ」は、

たまふの転、

である(岩波古語辞典)。

さて、「たまふ」の語源は、岩波古語辞典は、前述の通り、

タマ(魂)アフ(合)の約か、

とする。「タマ」を魂とする説には、

タマフル(魂+振る)(日本語源広辞典・日本の敬語=金田一京助)、

がある。あとは、「た」を、「手」の古形「た」とするもので、

タ(手)マフ(幣)で、手土産をもってものを頼む意が本義(日本語源学の方法=吉田金彦)、
タマフ(手間触)の義(言元梯)、

がある。さらに、

タマ(玉)の動詞化(山口栞)、
タマウ(玉得)の義(柴門和語類集)、

と「たま」とするもものがある。「たま(玉・珠)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.htmlで触れたように、「玉(珠)」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典・日本語源広辞典)。つまり「魂」の「たま」と「玉」の「たま」は、同源である。とすると、「たまふ」の「たま」は、そのいずれかと見ていい。

「たま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.htmlで触れたことと重なるが、

本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、

丸い石、

を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。

丸い石.jpg


その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。とすると、

タマ(玉)の動詞化、

が最も近い気がする。しかし、例によって、『日本語の語源』は、音韻変化から、

アフ(合ふ)は「みんな……しあう」という意で、複数のものの動作をあらわす補助動詞であるが、支配者が庶民の生活苦を助けるために食料を分け与えることをタベアフ(食べ合ふ)といった。ベア[b(e)a]の縮約でタバフ・タマフ(給ふ)に転化した。食料を分配する支配者の恩恵に対する感謝の気持ちはおのずから尊敬の念となり、「与ふ」「授く」の尊敬動詞が成立した。(中略)
受身形を作ったナル(為る)を補助動詞として用いたタマヒナル(給ひ為る)は、ヒナ[h(in)a]の縮約でタマハル(賜る)になった「受く」「もらふ」の謙譲語であり、「与ふ」「授く」の尊敬語でもある。
また、タマフ(給ふ)のマフ[m(af)u]を縮約するときには、タム・タブ(給ぶ)になった、

と説明する。

タマフ(給ふ)のマフ[m(af)u]を縮約してタブ(給ぶ)になった、

はあり得るかと思う。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年01月18日

たま(魂・魄)


「たま」は、

魂、
魄、
霊、

と当てる。「たま(玉・珠)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.htmlで触れたように、「たま(玉・珠)」は、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」というが同一視されたということであろうか。

未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、

ともある(仝上)。だから、いわゆる、

たましい、

の意であるが、

物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、

人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、

人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、

死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、

と変化していくようである。そこで、

生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閒にても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、

ということになる(大言海)。ちなみに、「たまふり(靈振)」とは、

人の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力をつける、

のを言う。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているもので、樹木・岩石・御幣(ごへい)等々。「鎮魂(みたままつり)」「みたましずめ」も同義である。万葉集に、

たましひは朝夕(あしたゆふべ)にたまふれど吾が胸痛し恋の繁きに、

という歌がある。

「たま」に当てられている「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、

会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、

とあり、

たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、

とある(漢字源)。

魂 小篆.png

(小篆・「魂」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%82より)

しかし、後述の「鬼」の意味からは、

会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、

とする説明もあり得るhttps://okjiten.jp/kanji1545.html

魄 小篆.png

(小篆・「魄」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84より)

「魄」(漢音ハク、呉音ヒャク)の字は、

会意兼形声。「鬼+音符白(ほのじろい、外枠だけあって中味の色がない)」。人のからだを晒して残った肉体のわくのことから、形骸・形体の意となった、

とあり(仝上)、また別に、

会意形声。「鬼」+音符「白」、「白」は白骨とも、しゃれこうべとも、

とするものもあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84。やはり、

たましい、
肉体をまとめてその活力のもととなるもの、

の意だが、「魂」と「魄」は陽と陰の一対、

「魂」は陽、「魄」は陰で、「魂」は精神の働き、「魄」は肉体的生命を司る活力人が死ねば魂は遊離して天上にのぼるが、なおしばらくは魄は地上に残ると考えられていた、

とあるのは、それは、

「魂」と対になり、「魂」が精神的活動で陽、「魄」が肉体的活動で陰とされ、魂魄は生きている間は一体であるが死後すぐに分離し、魂は天界に入るが、魄は地上をさまようとされた、

からであるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84

さらに、「靈(霊)」(漢音レイ、呉音リョウ)の字は、

会意兼形声。靈の上部の字(音レイ)は「雨+〇印三つ(水たま)」を合わせた会意文字で、連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし、巫(みこ)を加えた字で、神やたましいに接するきよらかなみこ。転じて、水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。冷(レイ)とも縁が近い。霊はその略字、

とある(仝上)。やはり、

たましい、

の意だが、

形や質量をもたない、清らかな生気、

の意で、

形ある肉体とは別の、冷たく目に見えない精神、また死者のからだから抜け出たたましい、

とある(仝上)ので、「たま」に重なるのは、「霊」である。

で、和語で言う「たま」を指す。

ちなみに、「たま」とも訓ませる「鬼」(キ)の字は、和語「おに」とは別で、

象形。大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの。『爾雅』(漢初の、最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)に、「鬼とは帰」とあるがとらない、

とする(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(霝+巫)。「雲から雨がしたたり落ちる」象形と「口」の象形と「神を祭るとばり(区切り)の中で人が両手で祭具をささげる」象形から、祈りの言葉を並べて雨ごいする巫女を意味し、そこから、「神の心」、「巫女」を意味する「霊」という漢字が成り立ちました、

という説もあるhttps://okjiten.jp/kanji1219.htmlが、後述の「鬼」の意味から見れば、前者ではあるまいか。

中国では魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降には泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた、

とある(漢字源)。和語「たま」が、遊離靈とみなすようになるのは、この影響かと推測される。

なお、漢字源が採らない、「鬼は帰」とは、

鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う、

であり、

帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる、

とある、とかhttps://blog.tokyo-sotai.com/entry/2015/11/19/111406

人は、仮にこの世に身を寄せて生きているにすぎず、死ぬことは本来いた所に帰ることである、

とある(「淮南子(えなんじ)」 )ところからすると、「霊」の意味からは離れてしまうと思われる。

さて、「たま」の語源であるが、

靈と玉は前者が抽象的な超自然の不思議な力、霊力となり、後者は具体的に象徴するものという意味で、両者は同一語源、

と考えるなら(日本語源大辞典・岩波古語辞典)、

タマチハイ(賜幸)恵み守るものであるところから、また、造花神が賦与するものであるところから賜ふの義、あるいは円満の義、あるいは入魂は丸い玉のようであるところからともいう(日本語源=賀茂百樹)、
イタクマ(痛真)の義で、タマ(玉)と同義(日本語原学=林甕臣)、
タは直の意の接頭語、マはマル(丸)・マト(円)等の語幹(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タは接頭語、マはミ(実)の転。草木が実から生ずるように、人も魂の働きによって生長すると考えたところから(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
[tama]は[ta]と[ma]。[ta]は「て(手)[te]」のはたらきを表す。[ma]は「むすぶ(結ぶ)」行為の根拠を意味する。「たま」は「はたらいて実を結ぶ」ことhttp://aozoragakuen.sakura.ne.jp/aozoran/teigi/jisyov1v2/jisyoI/node57.html

等々の諸説はひねくり回し過ぎではあるまいか。単純に、「タマ(玉)と同源」から、

「魂」の形を「マルイ」とする、

説(日本語源広辞典)だと、

タマ(魂)→マルイ→玉、

となる。形の丸については「まる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.htmlで触れたように、「まる」「まどか」という言葉が別にあり、

中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも『万葉-二〇・四四一六』の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、『塵袋-二〇』には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、

とあり(日本語源大辞典)、更に、

平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、

と(仝上)、本来、

「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、

と使い分けていた。やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して、「まどか(まとか)」の項には、

ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま、

とある。平面は、「円」であり、球形は、「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。

とすると、本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、

丸い石、

を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。

「たま」は、

魂、
でもあり、
依代、

でもある。何やら、

神の居る山そのものがご神体、

となったのに似ているように思われる。

なお、「たましい」については、「魂魄」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456697359.htmlで触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:たま
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2021年01月19日

注釈


貝塚茂樹訳注『論語』を読む。

論語 (中公文庫) (日本語) 文庫.jpg


「架空問答(中斎・静区)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475470344.htmlでも取り上げたし、何度も何度も、折を見ては、繰り返し繙(紐解)いているので、今更めくが、きちんと取り上げていなかったことを思い出して、改めて、書いてみた。

訳注者貝塚茂樹氏は、ときに、人口に膾炙している訓み下しでも、独自の解釈をする。たとえば、

子曰 学時習之 不亦説乎 有朋自遠方來 不亦楽乎 人不知而不慍 不亦君子乎

は、論語の冒頭の「学而篇」の劈頭に来る、有名なフレーズだ。一般には、

子曰く、学んで時に之を習う、亦た説ばしからず乎、朋有り遠方自り来たる、亦た楽しからず乎、人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎、

と訓み下す(井波律子『論語入門』)。しかし、本書では、

子曰く、学んで時(ここ)に習う、亦説(よろこ)ばしからずや。有朋(とも)、遠きより方(なら)び来たる、亦楽しからずや、人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや、

と訓み下す。そして、

学んで時(ここ)に習う、

について、

従来は、注釈家はみな「時(とき)に習う」と読み、定まった適当な時期に、先生から習った本を復習するという意味にとってきた。しかし、孔子の時代の古典の教科書の『詩経』『書経』などでは、「時(こ)れ邁(ゆ)く」というように、「時」は具体的な意味をもたない、助字としてもちいられていた。この場合も同様で、「時」は「これ」とか「ここ」とか読んで、「そのあとで」などと訳すのは私の新説である、

と述べ、その傍証として、「憲問篇」の、

子問公叔文子於公明賈、曰、信乎、夫子不言不笑不取乎、公明賈對曰、以告者過也、夫子時然後言、人不厭其言、樂然後笑、人不厭其笑也、義然後取、人不厭其取也、子曰、其然、豈其然乎、

を、

子、公叔文子を公明賈に問いて曰わく、信(まこと)なるか、夫子(ふうし)は言わず笑わず取らずと、公明賈対えて曰わく、以て告ぐる者の過つなり。夫子は時にして然る後に言う、人その言うことを厭わざるなり、楽しくして然る後に笑う、人その笑うことを厭わざるなり、義ありて然る後に取る、人その取ることを厭わざるなり、子曰わく、それ然り、豈にそれ然らんや、

と、

夫子は時にして然る後に言う、

と訓み下し、

適当の時にはじめて発言する、

という意として、こう貝塚氏は付言する。

吉川幸次郎博士は、この「時」という用法によって、學而篇第一章の「学んで時に習う」の「時」が、しかるべき時という意味である証拠とされている。私が学而篇でいったように、「時」を助字として使うのが、その古典的用法である。これにたいしてこの場合のように、「時」を実字として、適当の時という意味として使うのは、孔子時代あるいはそれ以後のいわば現代的用法である。この場合に、「時にして然る後」というように、「時」の古典的用法からはずれて、現代的用法で使うには、かなりこの「時」ということばに念を入れて発音する必要があったのである。このことから考えると、「学んで時に習う」の「時」は、ずっと軽く使われているから、古典的な助字として使われており、適当な時ではないと私は考える、

と。

『論語』には伝統的に複数の注釈書があり、最古の注釈は、魏の何晏(かあん)がまとめたとされている『論語集解(しっかい)』が、

古注、

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E、井波律子・前掲書)。ただ、『三国志』巻九の何晏列伝には編纂したことは書かれておらずどこまで何晏の解釈か難しい、とされる(仝上)。しかし、訳注者は、

漢代の『論語』の注釈として、後漢の鄭玄の注を、

古注、

としている。不幸にして宋代に佚(いっ)して、部分的にしか残っていない、という(本書「解説」)。これに対して、

新注、

とされるのが、南宋の朱熹(しゅき 朱子)が、独自の立場から注釈を作った『論語集註(しっちゅう)』で、江戸時代以降の日本ではもっぱら新注が用いられた、とある(仝上)が、

宋学という新しい形而上学の体系をもって、孔子の原始儒教を強引に解釈しすぎたため多くの難点を残している、

とし(仝上)、日本では、朱子の新注を批判し、『論語』の本文に即して、その意味をすなおに理解しようとした、

伊藤仁斎『論語古義』

荻生徂徠『論語徴』

がある(仝上、井波・前掲書)。

特に、徂徠は、漢の古注に傾斜した。また、清朝の考証学者の劉宝楠(りゅうほうなん)、潘維城(はんいじょう)は、漢代の古注をもとにした注釈をあらわした、

とあり(仝上)、貝塚氏は、

だいたい、仁斎、劉、潘からさらに武内義雄博士にうけつがれたこの新古注派の線に沿って口訳をすすめようとしたが、新古注派の中にも異説が多く、それを取捨することは大変な仕事であった。私は、鄭玄の古注、朱子の『集註』をはじめ無数の注釈のなかから、穏当な説を、

選んだとしている(仝上)。

閑話休題、

さらに、

有朋自遠方來、

について、

ふつうは、「朋あり、遠方より来たる」と読んできた。「遠方」は現代語の遠方ではなく、遠国の意味にとるとしてもこの時代では見なれぬ用法である。中国近世の学者愈樾(ゆえつ)の説をもとにして、孔子の同僚や旧知人たちがそろってやってきて、孔子の学園の行事に参列したと解釈する、

と、その説の根拠を述べる。因みに、この時代の学問は、

当時は紙がなく、書物はすべて木や竹の札に書いてつづりあわせて巻物としていたので、(中略)学問といっても、先生から『詩経』『書経』などという古典を読んでもらって、暗唱するだけで、現在のような読書や講義によるものではなかった。礼・楽・射・御・書・数など、貴族社会の行事における正しい礼儀作法の口伝をうけることが、学問の第一歩として重視されていた。孔子の教育もこれをもとにしている、

とある。解釈の是非はわからないが、なじんだ訓読の先入観がどうしても、新説を妨げるのは、どんな場合も同じようだ。

『論語』は、ある意味、政治の鑑である。たとえば、子路篇にある、

子路曰、衞君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣、

の中の、

名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち禮樂興らず、禮樂興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず、刑罰中たらざれば、則ち民手足措く所なし、故に君子これを名づくれば必ず言うべきなり、これを言えば必ず行なうべきなり、君子その言に於おいて、苟くもする所なきのみ。

と訓み下される部分は、今日、尚更辛辣である。本書の訳注は、実に丁寧で、この「子路篇三」でも、「名を正す」を、

「名」つまりことばと「実」つまり実在とが一致することが必要である。実在に適合した「名」を与えねばならない、

とする。ここでは具体的に、「衛の君」とは、出(しゅつ)公輒(ちょう)(前492~481年在位)を指す。衛国から亡命していた父の荘公蒯聵(かいがい)と、祖父の靈公の遺命によってその後即位した出公輒とに、それぞれ適当な名、つまり称号を与えることにより、内乱を解決しようとしたことを指す、とある。

「名正しからざれば則ち言順わず」については、

「名」は単語であり、「言」は文章である。単語の意味がはっきりしていないと、文章の意味がよく通らなくなることをさしている。漢語は単綴語で、一字が一語をなしているから、「名」はまた「一字」と訳してよい、

とする。

「名称が正確でなければ言語が混乱する」(井波律子『論語入門』)
「名分が正しくないと論策が道をはずれる」(下村湖人『現代訳論語』)

という訳では、間違っているわけではないが、意味の外延が広すぎる。ここでは、具体的に孔子が何について「名正しからざれば」と言っているかを見ないと、意味を広げてしまう。貝塚氏は、

孔子の立場は、荘公蒯聵(かいがい)は亡父霊公から追放されてはいるが、父子の縁はきれていないし、また太子の地位は失っていないから、出公は父である蒯聵に位を譲らねばならないと考えた。「名を正さん」とはこのことをさしている。子路はそんなことを出公が承知するはずはないから、孔子の言は理論としては正しいが、現実的ではないと非難したのである。孔子はしかし、自分の「名を正す」という立場が絶対に正しいことを確信して、子路を説得しようとした。「名」つまりことばと、「実」つまり実在とが一致せねばならないという「名実論」は、これ以後中国の知識論の基本となっている。「名」つまり単語の意味が明確でないと、「言」つまり文章の意味が不明になるという中国の文法論の基礎となり、また論理学の基本となった、

と解説する。しかし「名分論」として解釈することについては、

孔子が「名実論」をはっきり意識していたかどうかについては若干疑いがある、

とし、

弟子たちにより、「名実論」「大義名分論」の立場で解釈された、

と解している。因みに、『史記』「孔子世家」と「衛康叔世家」によれば、蒯聵が(姉の子、甥の)孔悝(こうかい)を脅してクーデターを起こした折、子路は、衛の重臣の領地の宰(管理者)をしていた(井波律子『論語入門』)が、

反乱を諫め、「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔悝を放逐されるだろう」と言い放ったために、激怒した蒯聵の家臣の石乞と于黶が投げた戈で落命した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%B7%AF。死の直前、冠の紐を切られた彼は、

君子は死すとも冠を免(ぬ)がず、

と、紐を結び直して絶命した、という。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は、

嗟乎(ああ)、由(ゆう、姓は仲、名は由、字子路)や死せり、

と悲しみ(井波・前掲書)、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる(仝上)。

もうひとつ、

子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。繪事後素。曰。禮後乎。子曰。起予者商也。始可輿言詩已矣

にある、

素以為絢兮(素以て絢(あや)となす)、

について、子夏が、

繪事後素、

と答えたのについて、鄭玄の古注では、

絵の事は素(しろ)きを後にす

と、絵とは文(あや)、つまり模様を刺繍することで、すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると、五彩の模様がはっきりと浮き出す、

と解すると、訳注にはある。しかし新注では、

絵の事は素(しろ)より後にす、

と読み、絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する、そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する、と解する。これをとって、大塩中斎は、諱を後素とした。しかし貝塚氏は、

洋画をかくときでも最後にホワイトでハイライトを入れる。この入れ方で絵がぐっとひきたつそうである。私は欧米の画廊でレンブラントのような巨匠の鋭くさえたハイライトに接したとき、「絵の事は素きを後にす」ということばを思い出した、

と古注に与した。新注の、

絵の事は素(しろ)より後にす、

では、当たり前すぎないだろうか。

『論語』はある意味、アフォリズムのように短いものが多く、含意が深いが、どうとでも解釈できる部分がなくはない。いくつか、いつも僕自身が気になり、読み返すフレーズを拾っておく。

三軍を行わば、則ち誰と与(とも)にかせん。暴虎憑河(ぼうこひょうか)し、死して悔いなき者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀を好みて成さん者なり(述而篇)、

如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともする末(な)きのみ(衛霊公篇)、

人に備わらんことを求むるなかれ(微子篇)、

(小人は)その人を使うに及びてや、備わらんことを求む(子路篇)、

道を聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄つるなり(陽貨篇)、

これを知る者は好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(雍也篇)、

力足りらざるものは中道にして廃(や)む。今汝は画(かぎ)れり(雍也篇)、

約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし(里仁篇)、

由よ、汝に知ることを誨(おし)えんか、知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり(為政篇)、

学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う(為政篇)、

教えありて類なし(衛霊公篇)、

人にして遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり(衛霊公篇)、

事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す、學を好むと謂うべきなり(学而篇)。

最後に、

死生、命あり。富貴、天にあり(顔淵篇)、

である。

天を楽しみて命を知る。故に憂えず、

でもある(易経)。「天」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.htmlで書いたことだが、

彼を是とし又此れを非とすれば、是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け、心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)

あるいは、

心虚なれば即ち天を見る、天理万物和す
紛紛たる閑是非、一笑逝波に付さん(同)

で言う天は、もう少し敷衍すると、

道既に形躰無ければ、心何ぞ拘泥あらんや
達人能く明らかにし了えて、渾(す)べて天地の勢いに順う(同)

でいう天地自然の勢いとなる。自然の流れ、というとあなたまかせだが、天理、自然の道理というと、人間としてのコアの倫理に通じていく。だから、

人事を尽くして天命を俟つ

の天命は、精神科医、神田橋條治氏流に、逆に言うと、

天命を信じて人事を尽くす

には、コアの天理にかなうはずという、自らへの確信という、主体的な意味がある。だから、

楽天、

である。

なお、『易経』http://ppnetwork.seesaa.net/article/445726138.htmlについては触れた。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
井波律子『論語入門』(岩波新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年01月20日

倫理


小林勝人訳『孟子』を読む。

孟子.jpg


『論語』の見直しに続いて、再度、『孟子』を繰ってみた。しかし、もともと孟子はあまり好きにならない。孟子というと、たとえば、

齊(せい)の宣王(せんのう)問いて曰く、湯(とう)・桀(けつ)を放ち、武王紂(ちう)を伐てること、諸(これ)有りや。孟子対えて曰く、伝に於いてこれ有り。曰く、臣にして其の君を弑(しい)す、可ならんや。曰く仁を賊(そこの)う者之を賊(ぞく)と謂い、義を賊(そこの)う者之を殘(ざん)と謂いう、殘賊(ざんぞく)の人は、之を一夫(いっぷ)と謂う、一夫を誅せるを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり(梁惠王章句下)、

に、

放伐、

つまり、

殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐してそれぞれ新しい王朝を始めたように、暴力による交代、

である、姓をか(易)え、命をあらた(革)める、

という、

易姓革命、

といった思想や、あるいは、文天祥の、

天地に正気あり、
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る

に見られるような「浩然の気」の、

我言(ことば)を知る。我善く浩然の気を養う。敢えて問う、何をか浩然の気と謂う。曰く、言い難し。その気たるや、至大至剛にして直(なお)く、養いて害(そこの)うことなければ、則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや、義と道とに配(合)す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ 会)いて生ずる所の者にして、襲いて取れるに非ざるなり。行(おこない)心に慊(こころよ)からざることあれば、則ち餒う也(公孫丑章句上)、

という、どこか大げさな物言い、きれいごとなところがどうも好きになれない。

「浩然の気」は、本書の訳注者は、

趙岐いう、浩然之大気也、またいう、至大至剛正直之気也。朱子は、浩然は正大流行の貌と注し、蓋天地之正気而人得以生者といっておる。おもうに、管子内業篇には浩然和平以為気淵とあり、浩然は和平の形容であり、浩然の気は、天の和気と解される、

と注し、また、

至大至剛にして直(なお)く、

の原文、

至大至剛以直、

について、

趙注、言此至大至剛直之気也、おもうに、趙氏は下の以直の二字を連ねて、一句としておる。以は而と同じで、至大至剛而直の六字は一句である。朱子が、以直の二字を下に続けて讀むのは正しくない、

と注する。「浩然の気」については、しかし、

人間の内部より発する気で、正しく養い育てていけば天地の間に満ちるものとされる。また、道義が伴わないとしぼむとされ、道徳的意味を強くもつ概念である。いわば道徳的活力とでもいうべきものであるが、多分に生理的なニュアンスをはらむ(ブリタニカ国際大百科事典)、

とか、

〈夜気〉〈平旦の気〉や《楚辞》遠遊篇の〈六気を餐(くら)いて沆瀣(こうがい)を飲む〉の〈沆瀣〉などと同じもの。これらはいずれも明け方近くの清澄な大気を意味する。おそらく孟子は、ある特殊な呼吸法を行っていたと想像される(世界大百科事典)、

とか、

人間内部から沸き起こる道徳的エネルギー。これは自然に発生してくるもので、無理に助長させず正しくはぐくみ拡大していけば、天地に充満するほどの力をもつとされる。……気とは、もと人間のもつ生命力、あるいは生理作用をおこすエネルギーのようなものを意味するが、孟子はこれに道徳的能力をみいだした。仁義に代表される徳目は人間の内部に根源的に備わっているものとし、それが生命力によって拡大されることを「浩然の気」と表現したのである(日本大百科全書)、

等々と説かれる。しかし、大袈裟である。

予(われ)三宿して昼を出ずるも、予(わ)が心に於いては猶以て速(すみやか)なりとなす。王庶幾(こいねがわ)くば之を改めよ。王如(も)し諸(これ)を改めば、則ち必ず予(われ)を反(よびかえ)さん。夫れ昼を出ずるも王は予(われ)を追わず、予(われ)然る後に浩然として帰る志(こころ)有り。予(われ)然りと雖も豈王を舎(す)てんや(公孫丑章句下)、

と使われる「浩然」は、朱注では、

水が流れと止めることのできない形容、

とある。そうみると、後世の儒者や志士の大袈裟な言いようは別として、

天地自然と共にあるゆったりした気、

が原義なのだろう。「義」http://ppnetwork.seesaa.net/article/411864896.htmlで触れたが、漢字「義」(ギ)を構成する、



は、「ぎざぎざとかどめのたった戈」を描いた象形文字であり、「義」は、

「羊+我」

で、

かどめがたってかっこうのよいこと、
きちんとして格好の良いと認められるやり方、

を意味する(漢字源)。孟子の言う意味は、

よしあしの判断によって、適宜にかど目をたてること、

という。あるいは、

羞悪の心が義の端(はじめ)、

とする(公孫丑章句上)。悪、すなわち悪く、劣り、欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を羞じる心である。それは、あくまで、倫理である。倫理とは、

(おのれが)いかに生くべきか、

であって、人に押し付けたり、押し付けられたりするものではない。そう見れば、文天祥の義に対して、藤田東湖や幕末の志士の義は、大義や正義に紐づけられている。おのれの生き方ではないところから、義を語っている。そういう大袈裟な語り口が闊歩し始めたら、危険の兆候である。

僕は、義とは、

問い

であると思う。どこかに正しい答えがあるのではない。これでいいのか、このありようでいいのか、とみずからを問うものである。その意味で、答えは永遠にないはずなのである。それは、倫理に通じる。倫理とは、

いかに生きるか、

という、

生き方の問い、

である。この生き方でいいのか、と自らに問う。それと同じである。だから、孟子の言う、

天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行い、志を得(う)れば民と之に由(よ)り、志を得ざれば独り其道を行ひ、富貴も淫(みだ)すこと能わず、貧賤も移(か 易)うること能わず、威武も屈(くじ挫)くこと能わざる、此れを大丈夫(だいじょうぶ)と謂う(滕文公章句下)、

は、ひどく矮小化するようだが、おのが「倫理」(生き方)を指す。人に押し付けるものではない。それが見事に現われているのが、有名な、

人皆人に忍びざるの心有り。先王(せんのう)人に忍びざるの心有りて、斯(すなわ)ち人に忍びざるの政(まつりごと)有りき。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らす(が如くなる)べし。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以(ゆゑん)の者は、今、人乍(にわかに)孺子(こじゅし 乳飲み子 釈明「児始めて歩くを孺子(おさなご)という」)の将に井(いど)に入(おち)んとするを見れば、皆怵惕(じゅつてき 恐れること)惻隠(そくいん いたわしく思う)の心有り、交わりを孺子の父母に内(むす)ばんとする所以にも非(あら)ず、誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以にも非(あら)ず、其の声(な 名)を悪(にく)みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲(じじょう)の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是(こ)の四端有るは、猶其の四体有るがごときなり、是の四端ありて、自ら(善を為す)能わずと謂う者は、自ら賊(そこの)う者なり(公孫丑章句上)、

と、いわゆる「四端」、つまり、仁・義・礼・智を説いた。

惻隱之心、仁之端也、
羞惡之心、義之端也、
辞譲之心、禮之端也、
是非之心、智之端也、

である。それを、惻隠の情から説いたところが、孟子の孟子たる所以に思える。

孟子が再三言うのは、

王の王たらざるは、為さざるなり、能わざるに非(あら)ざるなり(梁惠王章句上)、

為さざると、能わざるとの形は、何以(いか 如何)に異なるや。曰く、大山(泰山)を挟(わきばさ)みて以て北海(渤海)を超えんこと、人に語(つ)げて我能わずと云う、是れ誠に能わざるなり。長者(めうえ)の為に、枝(てあし 肢)を折(ま)げんこと、人に語(つ)げて我能わずと曰う、是為さざるなり。故に王の王たらざるは、大山を挟みて北海を超ゆるの類にあらざるなり。王の王たらざるは、是れ枝を折(ま)ぐるの類なり(仝上)、

人豈勝(た)えざるを以て患(うれい)となさんや、為さざるのみ(告子章句下)、

である。これも、倫理の核である。

能わざるに非(あら)ず、為さざるなり、

である。孔子は、

力足りらざるものは中道にして廃(や)む。今汝は画(かぎ)れり(雍也篇)、

と言っている。似たことを言っているが、主体に即している分、孔子に分がある、と僕は思う。

孟子下.jpg


参考文献;
小林勝人訳『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:倫理 孟子
posted by Toshi at 05:09| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする