2021年01月21日

どぶろく


「どぶろく」は、

濁酒、
濁醪、

と当てる。

滓を漉しとらない酒、

の意で、

もろみ酒、
濁り酒(にごりざけ)、
濁酒(だくしゅ)、
白馬(しろうま)、

等々ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F・広辞苑)。

日本の伝統的な酒のうち、米と米麹と水を原料として発酵させただけで漉す工程を経ていない酒、

である(仝上)。ただ、「どぶろく」と「濁り酒」とは区別される。「どぶろく」は、

米と米麹、水を発酵させただけのもので、しぼりやろ過を一切行っていない、もっとも簡単な造られ方をしているお酒、

で、清酒の定義は、

米と米麹、水を発酵させてこしたもの、

なので、どぶろくは清酒ではないが、「にごり酒」は、

透明ではない白く濁った酒であり、

発酵したお米をしぼる時、酒袋の目をわざと荒くして澱を残したままにされたもの、

で、清酒の一種とされるhttps://macaro-ni.jp/3299、とある。

どぶろく.jpg

(どぶろく https://www.senjyo.co.jp/dobucol/より)

「白酒」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478932688.htmlは、

しろき、
しろさ、
しろささ、

と訓み、

御神酒(おみき)の一種、

を指す。「さけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.htmlで触れたように、「き」は「さけ」の古名。

新嘗祭、大嘗祭に供え、

黒酒(クロキ)、

と並べ称す、とある(大言海)。白酒(しろき)、黒酒(くろき)は、

白貴、
黒貴、

とも書くhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92

古醸なるは、詳らかならず、

としつつ、

或は云ふ、荒稲(アラシネ 平精(ヒラシラゲ))にて醸せるが黒酒にて、和稲(ニコシネ 眞精(マシラゲ))なるが白酒なるべしと、

とある(大言海)。「荒稲(アラシネ)」とは、籾のままのもの、「和稲(ニコシネ)」は、「にぎしね」ともいい、殻を取ったものを指す。

『延喜式』によれば、

白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したもの、黒酒は白酒に常山木の根の焼灰を加えて黒く着色した酒(灰持酒)である、

と記載されている、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92。後に、

平安朝の頃は、白酒は常の酒にて、これに常山(クサギ)の焼灰を入れたるを黒酒とす。室町時代なるは、醴酒(アマザケ)を白酒とし、これを黒胡麻の粉を入れて黒酒を作れり、

とあり(大言海)、今日では、

清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用、

とすることも多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92、という。

ところで、「濁醪」の「醪」(ロウ)は、

会意兼形声。翏(リョウ)は、入り交じる意を含む。醪はそれを音符とし、酉を加えた字。かすが入り交じっている濁酒、

とあり(漢字源)、

醸造してまだ濾過していない、どろどろの酒、

の意で、

濁醪(ダクロウ)、

は漢語である。因みに、甘酒は、

醴(レイ)、

といい、

一晩だけ醸してつくった酒、白酒、

である(仝上)。

醴酒(レイシュ)、

という(字源)。

で、「どぶろく」は、

濁醪(ダクロウ)の訛りなりと云ふ、また、どびろく(酴醿醁)の転訛と云ふは鑿(いりほが 穿ち過ぎ)ならむ、

とある(大言海)。梅園日記(1845年)に、

濁醪、俳諧新式に、ドブロクとあるを、俳諧通俗志には、酴醿漉と見えたれども誤りなり、(中略)松岡怡斎(恕庵)の詹詹(せんせん)言にも、ドブロクは、酴醿漉の転語なりと云へるも、その子松岡洙が按語に、ドブロクは、濁醪の轉語歟とある説あたれり、

とある(大言海)。「濁醪」は、和名抄には、

もろみ、

とあり、室町時代の辞書、下學集には、

濁醪(ダクラウ)、

とあり、江戸時代の節用集大全には、

濁醪白酒也、

とあり、方言辞典「物類称呼」(1775年)には、

関西にてどびろくと云ふ、関東にてはどぶろくとも、濁り酒とも云ふ、

とある(たべもの語源辞典)。「とびろく」というのは、

その色が酴醿(とび)に似ているので、酴醿漉(とびろく)と言い、清酒に対しての名である、

とある(仝上)。「酴醿」とは、

頭巾薔薇(トキンイバラ)の別名、

とある。頭巾薔薇は、

バラ科の落葉小低木。高さ約1メートル。葉は3~5枚の小葉からなる複葉。5、6月ごろ、八重咲きの白い花を開く、

とある(デジタル大辞泉)。物類称呼は、

酴醿漉、

を、

どぶろく、

と訓んでいる。「どぶろく」に、

酴醿漉、

と当てたのではあるまいか。

トキンイバラ.jpg

(トキンイバラ http://mie0123.blog44.fc2.com/blog-entry-440.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年01月22日

濁る


「濁る」の「濁」(漢音タク、呉音ダク)は、

会意兼形声。蜀(ショク)は目の大きい桑虫を描いた象形文字で、くっついて離れない意を含む。觸(=触 くっつく)・屬(=属 くっつく)などと同系のことば。濁は「水+音符蜀」で、どろがくっついて、濁っている水のこと、黷(トク きたない)とも縁が近い、

とあり(漢字源)、「清」の対である。「溷濁」(こんだく)の「溷」(漢音コン、呉音ゴン)も、同じ意であり、

会意兼形声。圂(コン)は、「□印(かこい)+豕(ブタ)」の会意文字で、きたないブタ小屋のこと。転じて、便所をいう。溷はそれを音符とし、水を加えた字で、ごたまぜになった汚い汚水をさす、

とあるので、微妙に含意は異なる。

「にごる」は、

験(しるし)なき物を思はずば一坏(ひとつき)のにごれる酒を飲むべくあるらし(大伴旅人)、

とあるように、

澄む、
清む、

の対であり、

水などに汚れが混じる、

意であり、それをメタファに、

邪念を持つ、
とか、
潔白でない、
とか、
色・音声などが鮮明でなくなる、
とか、
濁音になる、

といった意味の広がりを持つ。

「にごる」の語源は、「泥」や「土」の塊りから見てか、

鈍(にぶ)り凝るの意(大言海)、
ニコル(煮凝)の義(名言通・和訓栞)、
ニは土、コルは凝るの義(和句解)、
ニゴ居るの義で、ニは土の義、ゴは染凝の義(国語本義)
ニコル(二凝)の義(和語私臆鈔)、
ニクハハル(土加)の義(言元梯)、

と、「土」や「凝る」と絡める説が多いが、どうも語呂合わせの感がしてならない。

たしかに、「土」は、

に、

と言い、

櫟井(いちひゐ)の丸邇坂(わにさ)のに(土)を端土(はつに)は膚赤らけみ、底土(しはに)は黒きゆゑ三栗のその中つ邇(ニ)を(古事記)

と、「に」と呼ぶ。しかし「に」は、

此の山のすなごを取りてに(丹)にあてき。因りて丹生(にふ)のさとといふ(豊後風土記)、

と、

丹、

とも当て、顔料にした、

朱色の土、

の意でもある(岩波古語辞典)。「に(土)」は、

土器の材料や顔料にする、

という意であり(仝上)、

特に赤色の土、また辰砂(しんしゃ)あるいは、赤色の顔料、

の意であり(日本語源大辞典)、だから「に(丹)」は、そこから、

赤い色、

という色の意ともなった。とすると、「に」は、ただの、

土、

の意でもあるが、

丹、

の意でもあった。「に」(丹)は、

アカニ(赤土)、

の意から出た(国語本義・大言海・日本語源=賀茂百樹)、とする説もある。とするなら、

ニ(丹・赤土)+凝る(日本語源広辞典)、

もあり得る。経験的に言うなら、顔に塗るために、「丹」を説いたときの感覚なのかもしれない。抽象度の高い「ことば」ではなく「具体物」から言葉が生まれている和語の傾向から見るなら、

丹+凝る、

が近い気がする。

赤土.jpg


「凝る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478167855.htmlでふれたように、「こる」「こごる」「しこる」「こごゆ」はつながっている。当然、「こほり」(氷)とも関わるとみていい。「こる」の語源諸説をみると、その関係が見える。

コル(固)の義(言元梯)、
コはコ(濃)の義で、コム(込)のコに同じ(国語の語根とその分類=大島正健)、
コは所、学ぶ所や好む所に心が集中することをいうところから(国語本義)、
コホル(氷)の義(名言通)、
コオ(冱)に諧調のラ行音を添えた語コオリを活用した語コオルから(日本語原学=与謝野寛)、
カル(離)から(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々の中で、「こほり」との関係が注目される。抽象度の高い解釈よりは、具体物を表現したものの方が、和語にふさわしい。「こほる」は、

氷る、
凍る、

とあて、

平安仮名文では、コホリ・ツララは、水面に張り詰めた氷にいうことが多く、ヒ(氷)は固まりの氷に言うことが多い、

とある(岩波古語辞典)。「こほり」の語源諸説は、

水が凝り固まったものであるところからコル(凝)の転(滑稽雑誌所引和訓義解・類聚名物考)、
コゴリから(円珠庵雑記)、
コリヒ(凝氷)の義(和訓栞)、
ココリ(氷凝)の義(言元梯)、
コリヲレ(凝折)の転(柴門和語類集)、
コハリ(強)の義(名言通)、

等々と、どうやら「こる」「こごる」とつながる。

「こごる」の語源諸説をみると、

コイコル(凍凝)の義(大言海)、
コイコユ(凍凍)の義(和訓栞)、
語幹コゴは動詞クグム(屈・曲)のクグに由来する(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
コゴエ・コゴシと同根(岩波古語辞典)、

等々「こごゆ」との関係とつながる。「こごゆ」の語源諸説を見ると、

コイコユ(凍凍)と重ねて意を強めた語で上二段活用が下二段活用に変化した語(大言海)、
コゴユルは古くコイといい、コホリイル(氷入)の義(名言通)、

等々、「こい」「こゆ」とつながる。「こい」は、

寒い、
凍い、

と当て、

凍える、

意であり(岩波古語辞典)、「こゆ」は、

此語(下二段)活用は違えど「凝る」(四段)と通ず、

とあり、「こる(凝)」へと戻ってくる。ちなみに「しこる」は、

シ(接頭語)+コル(凝る)、

のようである(日本語源広辞典)。

こう見てくると、抽象的な言葉より、具体的な指示に基づいた言葉の方が古いのだとすると、

こる→こゆ(氷)→こほる、

よりは、具体的な「凍る」のを見て、

こゆ→こほる→こる、

という変化なのではないか、という気がする。すくなくとも、「凝る」は、

凍ゆ(凍える)、
あるいは、
氷る(氷る)、

とつながり、それが語源のように思われる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:濁る
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2021年01月23日

すむ


「すむ」は、

澄む、
清む、
済む、
住む、
棲む、
栖む、

等々と当てる。和語「すむ」のもつ意味の幅を、漢字を当て分けて分化したように見える。

澄む、
清む、
済む、

は、

住むと同根、浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意、

とあり(岩波古語辞典)、

濁るhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/479647503.html?1611259439の対、

とある(仝上)。そして、

済む、

は、

澄むの転義、

とあり(広辞苑)、

澄むに通ず、落ち着き、片付く意、

とある(大言海)。

住む、
棲む、
栖む、

は、

澄むと同根。あちこち動き回るものが、一つ所に落ち着き定着する意(岩波古語辞典)、
澄むに通ず、落ち着く意(大言海)、

とあり、

す(巣)と同源か。生物が巣を定めたところで生活を営む意、

とある(広辞苑)。「す(巣)」は、

栖、
窼、

とも当て(広辞苑・大言海)、

鳥・獣・魚・虫のすみか、

である(岩波古語辞典)。結局、

澄む、
清む、
済む、
住む、
棲む、
栖む、

は、いずれも、「す」(巣)にいきつく。しかし、「すむ(住む)」と「す(巣)」とは相互絡まり、「す」(巣)の語源を、

スム(栖・住)の義(和句解・言元梯・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
スム(住む)の語幹スが名詞に転じた語。スは、物事の落ち着くさまを示す(国語の語根とその分類=大島正健)、
住居(すまひ)を占むる意(大言海)、
スミカ(栖)の義(日本釈名・和訓栞)、

等々と「すむ(住む)」につなげ、「すむ(住む)」の語源を、

スメ(巣目)の義(名言通)、
スウ(窼居)の義(言元梯)、
卜居の意で、シム(卜)の転(和語私臆鈔)、
「巣」から出た動詞か(小学館古語大辞典)、

等々とあり、「す(巣)」と「すむ(住む)」に由来があるように見える。

見方を変えれば、「巣」「住(棲)む」「据う」、さらに「澄む」の語幹スには、「ひとところに落ち着く」といった共通の意を読み取ることが可能、

であり(日本語源大辞典)、それは、

落着く意の語根スから出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

と通じる(日本語源大辞典)、と見られる。だから、

落着くことは、「終わる」「かたづく」と通じる、

ことから、

済む、

へとつながった(仝上)、とみることができる。ただここで「据う」の「ス」も同列に於いているが、「据う」は、

うヱ(植)と同じ(岩波古語辞典)、
直居(すう)の義。居(すを)るの他動詞(大言海)、

とあり、少し異なる気もするが、

植える、

もまた、

落着く、

意と重ならないでもない。

キジバトの巣 (2).jpg


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年01月24日

椿餅


「椿餅」は、

ツバイモチイ、

あるいは、

ツバイモチ

と訓ませる(広辞苑)。

ツバキモチイの音便、

である。

アマズラをかけ、ツバキの葉二枚にて包んだ餅、

である(広辞苑・大言海)。

椿餅(虎屋).jpg


餅は、道明寺糒(どうみょうじほしい)を用いて、中に餡を入れる、

とある(たべもの語源辞典)。「桜餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475836259.htmlで触れたが、「道明寺」は、尼寺である。道明寺も、

糒(ほしい 干飯)の一種、

で、保存食として使われ(「ほしいhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/474940298.html」)、

糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、

道明寺の尼僧、

で、

道明寺糒、

として有名になって、

道明寺、

といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。

源氏物語に、

つばいもちひ、梨、柑子(カウジ)やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもに取りまぜつつあるを、若き人びとそぼ(戯)れ取り食ふ。さるべき乾物ばかりして、御土器参る、

とあるが、室町時代初期の『源氏物語』の注釈書『河海抄』に、

椿の葉を合はせ、餅の粉にあまづらをかけて包みたる物なり、

とある(大言海)ように、平安時代に、軽食代わりとして食べられた餅菓子で、

平安時代の菓子は唐菓子と言う中国伝来の揚菓子がほとんどだが、桜餅のように団子を植物の葉で挟む形式などが珍しく、この椿餅は日本独自のものでないかと言う見解もある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E9%A4%85。「椿餅」は、蹴鞠の後、食べられることが多いのは、上記の、

源氏物語「若菜上」の蹴鞠の場面で描かれていることにより、後世、様式化した、

のではないか、との推測もあるhttp://kakitutei.web.fc2.com/taiken/tubaimotihi.html

「唐菓子」については「干菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.htmlで触れたように、文武天皇の治世の704年に、遣唐使によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、

餛飩(コントン 麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 小麦粉を練って緒のように結び、油で揚げたもの。加久縄(かくのあわ)とも)
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。

「モチヒ」というのは、「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.htmlを、古くは、

モチヒ、

といったが、「餅」には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米(もちごめ)の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米(うるちまい)を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(日本食生活史)。はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期になってからである。

また、「アマヅ(ズ)ラ」というのは、

甘葛、
味葛、

と当て(大言海)、

今のアマチャヅルに当たるといわれる蔓草の一種、その蔓草からとった甘味料、

をいい(広辞苑)、

甘葛煎(あまずらせん)、
味煎、

ともいう(仝上・大言海)。

アマヅル.jpg


「甘茶」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473914947.htmlで触れたように、「甘茶」をつくる植物には、三種あり、そのひとつが、

アマヅル、
アマヅラ、

で、別名、

ツタ、
ナツヅタ、

その幹から液を採って煮詰めて甘味料をつくった、

とある。ツル性の植物で、甘い液の出るツルがその名になった(たべもの語源辞典)。

いまひとつは、ヤマアジサイ(あるいはガクアジサイ)に似た、

ユキノシタ科の落葉低木、

で、

コアマチャ、

とも呼ばれるものがある(仝上)。これを、

アマチャ、

といい、

その葉を乾かすと甘くなるので、甘茶をつくった。漢名で土常山(どじょうざん)と称するのがこれであり、アマチャの木という。

三つめは、ウリ科の、

アマチャヅル、

である。

ツルアマチャ、
アマカヅラ、

ともいい、

夏から秋にかけて新芽をとって蒸してからよく揉み、青汁をとり除いてから乾燥させる。黄褐色で甘みが強く、香りがよいので、飲料とした、

とある(仝上)。

「椿餅」は、延喜式に、

つばい餅、

とあり(たべもの語源辞典)、

上古は砂糖がなかったので、米の粉をこねて桂枝(ケイシ 桂の枝の皮)を細かにしたものを少し入れ、甘茶の煎汁でよく練って丸め、椿の葉を両方から合わせて包み込んで蒸しあげたもの、

で(仝上)、唐菓子に暗示されてつくられたもの、という(仝上)。

なお「つばき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/457874557.htmlについては、触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年01月25日


「枝」(漢音シ・キ、呉音シ・ギ)は、

支、

とも当てる。

幹の対、

であり、

会意兼形声。支(キ・シ)は「竹のえだ一本+又(手)」で、一本のえだを手に持つさま。枝は「木+音符支」で、支の元の意味をあらわす、

とある(漢字源)。手足の意では、

肢(シ)、

指の意では、

跂(キ)、

の字が同系である。

小篆  枝.png

(小篆「枝」説文(後漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9E%9Dより)

和語「えだ」は、もとは、

かき数(かぞ)ふ二上山(ふたがみやま)に神(かむ)さびて立てる栂(つが)の木幹(もと)も枝(え)も同じ常葉にはしきよし……(万葉集)、

と、一語であり、平安時代以後は、

梅が枝(え)、
花の枝(え)、

等々と、複合語に残った(岩波古語辞典)。

「えだ」は、もちろん、和名抄に、

枝、條、衣太、

とあるように、

幹から分かれた部分、

の意だが、これをメタファに、

四肢、

の意でも、

本家から分かれた一族、

本体から文脈したもの、

の意でも使う。和名抄には、

肢、衣太、

とあり、

さらに、その他、

雉ひと枝奉らせたまふ(源氏)、

のように、

木の枝につけた贈物を数えるのや、

いづくともなく長櫃一枝持ち来たり(御伽草紙)、
一柄、ヒトエダ、長刀(饅頭屋本節用集)、

というように、

細長いものを数えるのにも使う。

枝.jpg


古へは、心葉(ココロバ)として、贈物に生花、造花の花枝を添えたれば云ふ、

のが、始まりのようである(大言海)。で、大言海は、「えだ」を、

枝、
肢、
枝(接尾語)、

の三項に分ける見識を示す。

「えだ」は、もともと「え」一語だったとすると、語源はなかなか難しいが、「え(枝)」+「だ」の「だ」をどう考えるかになる。

エ(枝)にからだ(体)のダのついた語(岩波古語辞典・日本語源広辞典)
本言はエなり、エダは、枝出(えで)の轉か、小枝(コエダ)をコヤデとも云ふ、肢をもエと云ふは、身体の枝(エ)の義、又エダとも云ふは、枝手(エデ)の轉か(柄(エ)を、テとも云ふ)、ウタテ、ウタタ(大言海・日本語源広辞典)、

のいずれかと思われる。「うたた」http://ppnetwork.seesaa.net/article/477890130.htmlで触れたように、

うたた→うたて、

うたて→うたた、

の転訛は、結構古く、両用されてきたことを思わせるので、あり得るとは思うが、それよりは、「て(手)」の古形は、

於子之中、自我手俣(タナマタ)、久岐斯(くきし)子也(古事記)、
天皇(すめらぎ)の神の御子のいでましの手火(たひ)の光そここだ照りたる(万葉集)、

にあるように、

た、

であった。とすれば、

枝(エ)+手(タ)→枝+手(ダ)

なのではあるまいか。古形「た」は、

手(た)玉、
手(た)力、
手(た)枕、
手(た)挟む、

等々複合語の中に生きているのだから(岩波古語辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:
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2021年01月26日

祐庵焼


「祐庵焼(ゆうあんやき)」は、

幽庵焼、
幽安焼、
柚庵焼、

等々とも当てられる、

鮎の祐庵焼、

という風に用いられる(たべもの語源辞典)、

和食の焼き物のひとつ、

で、

アマダイ、マナガツオ、イナダなどを使い、酒・醤油を四対六に合わせたものに漬けておき、焼き上がりにタレをもう一度つけて出す、

とある(仝上)、そのタレを、

幽庵地(醤油・酒・味醂の調味液にユズやカボスの輪切りを入れたもの)、

というらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%BA%B5%E7%84%BC%E3%81%8D。汁気を切って蒸すと、

幽庵蒸し、

となる(仝上)。

幽庵焼き.jpg

(サワラの柚庵焼き https://www.sirogohan.com/recipe/sawarayaki/より)

江戸時代の茶人で、食通でもあった、

北村祐庵(堅田幽庵)、

が創案したとされる(仝上)。しかし、

江戸時代の料理本などの文献には幽庵焼きの記載はなく、また幽庵焼きで用いる味醂も非常に高価なものであった為、一般的に料理に用いられるようになるのは北村祐庵の死後、約百年後からである。よって幽庵焼きを北村祐庵が創案したとするのは疑念がある、

との説もありhttps://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.html)、

幽庵の時代は味醂は非常に高価な飲み物であった、
味醂の料理使用は幽庵の時代から100年後、

等々から、

料理に味醂が使われるようになった経緯をみると、1820年頃の江戸時代後期に入ってからやっと料理に味醂が使われるようになったことが分かる。北村祐庵の生きた時代は江戸時代中期(1648年(慶安元年)~1719年(享保4年))であるので、味醂を使った料理が『料理通』などの本で紹介されるようになる約100年以上も前に、北村祐庵が「幽庵焼き」を創案したとするのはやはり無理があるだろう、

としている(仝上)。

北村祐庵.png

(北村祐庵 肖像集 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287791より)


北村祐庵については、「北村祐庵(堅田幽庵)」https://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.htmlが詳しいが、

江戸時代の茶人。美食家としても有名。諱は政従(まさより)、通称佐太夫(さだゆう)。別に道遂(どうずい)と号す。慶安元年(1648)、近江・堅田の豪農の北村家に生まれた。堅田幽庵、堅田祐安(北村祐庵、北村幽庵)と記されることもある、

とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A5%90%E5%BA%B5)。

『近世畸人伝』によると、北村祐庵は、

味を見分ける事、易牙のようであったと書かれている。易牙とは、中国の春秋時代、斉の桓公に仕えた中華料理の基礎を作ったとも言われる料理人で、「淄澠の水を混ぜても、嘗め分けることができた」と『淮南子』に書かれている、

とありhttps://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuan.html

水の味に鋭敏であった、

とされ、

ある時下男が骨惜しみして指図通りの水を汲まず、近くの湖辺のものを持参したことを看破し、下男は恐れ入った、

というエピソードがある(仝上)。また、当時の文化人として芸道のあらゆる分野に造詣深く、特に作庭・茶室設計・茶器製作に独特の手腕を発揮し、

天和元年(1681)頃、幽安が師の庸軒と共に創った「天然図画亭(てんねんずえてい)」(居初氏庭園)は、入母屋造りの草庵式と書院式を融合させた茶室「図画亭」と琵琶湖と湖東連山を借景にした枯山水庭園で、大津市指定文化財・国の名勝に指定されている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A5%90%E5%BA%B5

享和三年(1803)『新選庖丁梯(かけはし)』には、巻頭には料理の心得と茶人北村祐庵伝。続いて、珍しい盆や椀など器物の図と説明があるがhttp://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2005/e-tenji/list1/017.html、その小伝に、

庭園の作意にも秀で、物の味を知ること、海内の一人者で、魚肉、きのこ、野菜はもちろんのこと、木・竹・水・石といえども、なめれば、ただちに、その出所の善悪を分かつこと神の如し、

とある(たべもの語源辞典)、とか。「利休煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474289336.htmlで触れたように、「利休」を冠する、

利久煮
利休蒸、
利休焼、
利休和、
利休蒲鉾、
利休善哉、
利休煎餅、
利休醤(びしお)、

等々に利休考案のものはひとつもない(たべもの語源辞典)のと同様、「祐庵焼」も、「味きき」伝説の祐庵に名を借りた物なのだろう。

居初氏庭園.jpg

(居初氏庭園 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%85%E5%88%9D%E6%B0%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年01月27日

はんぺん


「はんぺん」は、

はんぺい、

とも言う。で、

半片、
半平、

と当てる。

半片、
半平、

が古く、少し後に、

半弁、

と素材などから当てた、

鱧餅、

等々と表記される(語源由来辞典)とあるが、

近世中期から後期にはハンペイが用いられることが多い。明治以降、東京地方では、ハンベンとすることが多く、次第にこちらの語形が定着した、

とある(日本語源大辞典)。江戸語大辞典には、

はんぺい(半平)、
はんぺん(半片)、

両方載り、

半平と名をかへさかなうつて來る(天明五年(1785)「柳多留」)、
時に半ぺん菜を入る安す料理(文化八年(1811)「柳多留」)、

という用例からみると、「半平」の方が古い(江戸語大辞典)。幕末の『守貞謾稿』には、

半平、江戸の半平は、半圓と方形と二種あり、

とあるので、両用されてきた、というのが正しいのかもしれない。

享保年間の『近世世事談』に、

慶長中、駿府の膳夫半平と云ふものに始まる、

とあるのは、どう考えても間違いである。また、

日本橋室町の「神茂」の祖先である神崎屋茂三郎が創製した、

とするのも、津田宗及の天正三年(1575)七月二十六日の手記に、

仕立ある折敷、かまほこのはんへん、

と「ハンペン」が出てくるので、当たらない。また、「はんぺん」の名は室町末期の料理書、『運歩色葉集』(1548)や『今古調味集』(1580)に見られるとあるhttps://www.kibun.co.jp/contact/faq/history/faq102.htmが、

豆腐料理として「はんぺん」が中世後期の「節用集」などにみられ、「はんぺん」との関係は明らかではない、

とされる(日本語源大辞典)。

はんぺん.jpg


ただ、宗及の記述する「かまほこのはんぺん」は、「蒲鉾」の由来と関わる。

「竹輪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475520541.htmlで触れたが、「蒲鉾」の名は、

親指の太さくらいの丸竹のまわりに、魚肉のすり身を厚保さ四分(1.2センチ)ばかりに丸くつけ、竹とともに湯煮して、揚げ、竹を抜いて用いた、

からである(たべもの語源辞典)。大言海には、

鯛、鱧、鮫などの肉を、敲き擂りて、鹽、酒などを加へて泥(デイ)とし、竹串を心とし、円く長く塗りつけて、炙りたるもの。形、色、蒲槌(かまぼこ)の如くなれば、名としたり、

とある。蒲槌(ほつい)とは蒲の穂のことである。これを意識して、形作ったか、結果として蒲の穂に似たかは、はっきりしないが、

蒲鉾、

つまり、蒲の穂に似ているから、「蒲鉾」となった。

室町時代に、すり身を竹に塗りつけて焼き、儀式に用いたのが始まり、

とある(日本語源大辞典)。その後江戸時代、この竹輪蒲鉾とは別に、

板付蒲鉾、

がつくられるようになる。

板付蒲鉾が蒲鉾になると、竹輪蒲鉾は、竹輪という別な食品になってしまった、

とある(たべもの語源辞典)。もとは、いずれも、

蒲鉾、

であが、中央にさした竹を抜いて、きったきりくちが竹の輪に似ているので、

竹輪、

と別にされた。「はんぺん」は、

竹輪蒲鉾を縦二つに切って平らにしたもの、

で、それを、

半片(ハンペン)、

と呼んだものである(たべもの語源辞典)。だから「かまほこはんぺん」である。安政六年(1859)の『蒹葭堂雜禄(けんかどうざつろく)』に、

竹輪……二つに割りて板に付けたるを半片(ハンペン)と云ひ、……後に蒲鉾と云ひ習はせしが、京師にては、其の名残りにて、半平と云ふものあり(浪花にてスリミと云ふ物なり)、

とあり、さらに、

京師にて半平と號くるものに、浪花にて葛餡をかけて販ぐに、安平(アンペイ)と號せり、これ半片に餡をかくるよりしての名なるべし、

とあり、

安平、

と呼ぶものもあったらしい(大言海)。

江戸の「はんぺん」には、

円形中高のものと方形の二種があった、

とある(たべもの語源辞典)のは、「かまぼこはんぺん」からみるとあり得るので、

蒲鉾と同く磨肉也。椀の蓋等を以って製之、蓋、半分に肉を量る、故に半月形を以って名とす(守貞謾稿)、
中国語の方餅(fangpin)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

という説は成り立たない。また、

ハモの肉で作るところからハモヘイ(海鱧餅)の訛(嬉遊笑覧)、
魚肉のみではなく半分は山芋がまじったものであるから(たべもの語源辞典)、

も、考え過ぎではあるまいか。

「はんぺん」は、

関東周辺のみで食されていた地域色の強い食品であった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%89%87

戦後になって東京の紀文食品が「紀文のはんぺん」として全国的に販売するようになって以降はこの白いはんぺんが「はんぺん」として定着したが、現在も消費の殆どは関東周辺である、

とあり、

静岡県では、イワシなどを丸ごと用いて作った青灰色のいわゆる黒はんぺんを「はんぺん」と呼び、白いはんぺんは「白はんぺん」と区別して呼称する、

とある(仝上)。焼津市近隣では、昔から、

はんべ(半平)、

と呼んできた(仝上)、という。魚の練り物を揚げたものの総称として、

はんぺん、

と呼ぶ地域もあり、いわゆる「薩摩揚げ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478807562.htmlと同じだと他の地方の人が誤解することが多い、とある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年01月28日

羽二重


「羽二重」は、

経糸(たていと)に生糸、緯(ぬきいと)に濡らした生糸を織り込んだ、緻密で肌触り良く光沢のある平組織の上質な白生地、

をいう(広辞苑)が、それを、

地合いを引き締め光沢を出すために、よこ糸を水で湿らせて柔らかくする「湿緯(しめよこ)」という羽二重独特の製織法、

という(テキスタイル用語辞典)。

非常に柔らかく、握ったり結んだりすると、キュッキュッという絹ならではの摩擦音「絹鳴り」がするのが特徴、

とある(仝上)。

羽二重.jpg


享保二年(1717)の『書言字考節用集』に、

光絹(又作、輕光)湖紬、羽二重(和俗所用)はぶたへ、、

とあるように、

光絹(こうきぬ)、

とも呼ばれる。それは、

通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる。織機の筬(おさ)の一羽に経糸を2本通すことから、

この名があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BA%8C%E9%87%8D。平安時代の『古語拾遺』には、

衣服謂之白羽(篤胤云、羽は蓋し布帛の総名)、

とあり、江戸中期の『和漢三才図絵』には、

光絹(はぶたへ)、光繪、俗云、羽二重、按光絹出京師、而繪之最上、以為御服出於加賀者、名加賀光絹、稍劣、但馬之産次之、

とある。羽二重が始まったのは近世からで、

明治10年頃から京都や群馬県桐生などで機織り機の研究が進められ、明治20年頃には福島県川俣、石川県、福井県などで生産されるようになった。明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心であり、欧米に向けてさかんに輸出され、日本の殖産興業を支え、羽二重は国内向けのものと輸出向けのものがあり、輸出されるものを「輸出羽二重」と呼んだ、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BA%8C%E9%87%8D。別に、

明治4年。「五箇条の御誓文」の草案者である由利公正公が欧州から絹織物数種を持ち帰った。それを福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼し、羽二重製織の技術研究が始まりました。そもそも一年中いつでも昼と夜の乾湿の差が少ない福井地方は、まさに最高の条件をそなえた土地でした。明治20年頃には技術の基礎も確立し、福井県は名実ともに世界一の生産地となったのです、

と福井の羽二重の由来を説くものもあるhttp://www.fukukinu.jp/habutae/knowhow.html

「羽二重」の言葉の由来は、

和名抄に、「帛、波久乃岐奴」とあり、帛栲(ハクタヘ 栲は白布)の訛(大言海・日本語源広辞典)、
埴生帛(はぶたへ)の義、下総國、埴生(はぶ)郡ょり始めて製出す、因りて名あり(大言海)、
ふつうの絹糸を二重に合わせたような絹であるところから(三省録)、
羽振妙の義(和訓栞)、
ハクウタヘ(白羽布)の義(名言通)、

等々ある。「光絹」の名が、正式で、俗に、

羽二重、

と言ったとすると、

帛栲(ハクタヘ)、

白羽布(ハクウタヘ)、
か、

何れも同義だが、どちらかなのではないかと思うが、しかし、「光絹」の由来とつながる、

撚りのない生糸で織られた羽二重は、鳥の羽根のようなふわっとした風合いであること、また、たて糸を2本引き揃えて製織することから“二重”という意味にとり「羽二重」という名が生まれた、

とするhttp://www.fukukinu.jp/habutae/knowhow.htmlのが妥当かもしれない。

ところで、「羽二重」に因んだ、「羽二重餅」というものがある。

「求肥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473642635.htmlで触れたように、江戸時代の初期に、

葛粉・蕨粉・玉砂糖の三味を糯米粉に入れて火にかけて煉り、さらに水飴を混ぜて煉って冷ましてから菱型に切った。糯米を主材料にしたので求肥餅とよばれたが、次第に餅より飴に発達して文化・文政(1804~30)のころにはその技術は最高となり、加工品もできた。餡を求肥で包んだものは、羽二重餅といった、

というhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317673943。文化年間(1804~18)の滑稽本『浮世床』にも、

紅毛やうかん、本やうかん、最中まんぢゅに、羽二重もち、

とあり、おなじみのものであった。ただ、この「羽二重餅」は、

外皮が羽二重のように滑らかできめ細かく搗いてある餅、

を指す(たべもの語源辞典)。いわゆる、

羽二重餅、

は、福井の名物、松岡軒の特製品である(仝上)、とあるが、

弘化四年(1847)錦梅堂(きんばいどう)で作られた、

ともありhttp://nyancoroge.info/mame_habutae、背景には、

「名産品の羽二重を彷彿とさせるような土産物を」という、福井の人たちの思いがあったようです。聞くところによると、ほぼ同時期に、福井の複数の菓子屋さんから同時多発的に販売が始まった、

ともあるhttps://www.kansendo.com/habutaemochi/

「求肥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473642635.htmlそのものが普及した後のことだから、この発想が取り立てて珍しいものではないのだろう。

羽二重餅.jpg


糯米(もちごめ)と砂糖と水飴とで柔らかく求肥に練り上げたものを取粉引きの厚い箱に、厚さ三ミリくらいに流し込み、冷やしてから包丁で長さ六センチくらいの短冊型に切る、

という(たべもの語源辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:羽二重
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2021年01月29日

ぬた


「ぬた」は、

饅、

と当てる(広辞苑)。

沼田、

とも当てる(たべもの語源辞典)。

饅和え、
饅韲え、

あるいは、

かきあえ、

ともいい(広辞苑)、

ぬたなます(饅膾)、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%9F。つまり、「ぬた」は、

饅膾(ぬたなます)の略称

である(仝上)が、大言海は、

沼田和へ膾(なます)の略、

としているので、「ぬた」は、正式には、

沼田和へ膾(なます)の略、

である。

魚介や野菜などを酢味噌で和えたもの、

で(広辞苑)、

酢味噌和え、

ともいい(世界の料理がわかる辞典)、

なますhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.htmlの一種、

である。室町末期の日葡辞書にも、

「Nuta」(饅)の見出しで「Namasu(膾)などを調理するのに用いる一種のソース。または、酢づけ汁(escaueche)。Nutanamasu(饅膾)この酢づけ汁で作ったNamasu、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%9F、室町時代末期までに料理として成立していたとうかがえる。

「ぬた」に当てる、「饅」(漢音バン、呉音マン)は、

会意兼形声。「食+音符曼(マン 上に丸くかぶさる)」で、丸く薄皮をかぶった蒸しパン、

で(漢字源)、「小麦粉をねって丸く付加したもの」を意味し、「饅頭」の「饅」である。これを「ぬた」に当てた経緯がはっきりしない。『字源』も『漢字源』も、「饅」の意は載せない。ネット上では、

①食品の「饅頭(マンジュウ)」に用いられる字、
②ぬた。魚肉や野菜を酢みそであえた料理、

とある場合があるhttps://www.kanjipedia.jp/kanji/0006593900が、そう訓ませたところから後世の判断で、我国だけの使い方なのではないか。

だから、

沼田、

の当て字が正しいのかもしれない(たべもの語源辞典・大言海)。「沼田」は、

沼地、
泥土、

の意で、おそらく、それをメタファに、

酢味噌に和えた状態、

をも意味させたのではあるまいか(岩波古語辞典)。

ぬた打つ、
とか、
ぬたくる、

と泥まみれになる状態の言葉も、それと関わる(仝上)。

沼田和え(大言海)、
沼田膾(俚言集覧)、
泥に似ているところから泥濘の義、ヌタナマスの略(猪に関する民俗と伝説=南方熊楠)、

はその説だし、

ヌト(泥所)の意(言元梯)、

も同趣である。

味噌のどろりとした感じが沼田に似ている、

ところからの名である(たべもの語源辞典)。万葉集に、

醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗きかてて鯛願我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)、

とある「醤酢」は、酢味噌を指し、鯛の刺身と蒜(ノビル・アサツキ・ニンニクなどの総称)との「ぬた」らしい。「蒜(ひる)」については「あさつき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476380949.htmlで触れた。

「あえる」は、

和へる、
饅へる、

と当て、「あふ」は、

合ふ、

である。

雜ぜ合わせる、
一緒にする、

意になる。和名抄に、

俗に云、阿閉豆久利、……此あへづくりは、料理の書に、のたあへと云ふものにあたれり、

とある。

わけぎの酢みそ和え(ぬた和え).jpg

(わけぎの酢みそ和え(ぬた和え) https://www.sirogohan.com/recipe/nutaae/より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:ぬた 沼田 饅和え
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2021年01月30日

ニンニク


「ニンニク」は、

大蒜、
葫、

と当てる(広辞苑)が、

蒜、
忍辱、

とも当てているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%AF。室町時代の文明本節用集には、

荵蓐、ニンニク、或云蒜、或云葫、

とある。漢名は、

葫(コ)、
蒜(サン)、
葷菜(グンサイ)、
麝香草(ジャコウソウ)、
莙蒿菜(クンコウサイ)、

等々(たべもの語源辞典)。「葫」(漢音コ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。艸+音符胡(コ えびす、西域)、

で、大蒜(ダイサン)、にんにく、大ビルなどを指す。「蒜」(サン)は、

会意兼形声。祘(サン)は。高さの揃った計算用の棒のこと。蒜はそれを音符とし、艸を加えた字で、算木のように、高さがそろってのびる草、

であり、にんにく、ノビルなどを指す(漢字源)。

ニンニク 日本の農業百科事典 (1804年).jpg

(ニンニク 「日本の農業百科事典」(1804)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%AFより)

仏教ではネ「ニンニク」「ニラ」「ネギ」「ラッキョウ」「ノビル」など、臭気の強い五種の野菜を「五葷(ゴクン)」「五辛(ゴシン)」などといい、これを食べると情欲・憤怒が増進する食品として、僧侶たちは食べることを禁じられていた、

とあり(語源由来辞典)、「五葷」は、

五辛、

とも言うとあるので、ほぼ同じ意味らしいが、挙げているものが、

忍辱(にんにく)、野蒜(のびる)、韮(にら)、葱(ねぎ)、辣韮(らっきょう)(「五葷」 精選版日本国語大辞典)、
にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、はじかみ(しょうが、さんしょう)(「五辛」 ブリタニカ国際大百科事典)、
忍辱(にんにく)、葱(ねぎ)、韮(にら)、浅葱(あさつき)、辣韮(らっきょう)(「五辛」 精選版日本国語大辞典)、

と、微妙に違うのは、楞厳経(りょうごんきょう)だと、

大蒜(ニンニク)、小蒜(ラッキョウ)、興渠(アギ)、慈葱(エシャロット)、茖葱(ギョウジャニンニク)、

梵網経(ぼんもうきょう)では、

葱(ネギ)、薤(ラッキョウ)、韮(ニラ)、蒜(ニンニク)、興渠(アギ:アサフェティダ)、

楞伽経(りょうがきょう)では、

大蒜(ニンニク)、茖葱(ギョウジャニンニク)、慈葱(エシャロット)、蘭葱(ニラ)、興渠(アギ)、

と違うためだが、

辛味や臭気の強い五種の野菜、

ということで、『説文解字』に、「葷」は、

臭菜也。从艸軍声(臭い野菜。部首は草冠で音は軍)、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F、本来はネギ属の植物を指していたものと思われる(仝上)。「らっきょう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474273141.htmlで触れたように、「葷(クン)」(「艸+音符軍(なかにこもる、むれる)」)は、

ねぎ、にら、などにおいの強い菜、また味の辛い菜、

の意味である(漢字源)。

不許葷酒入山門

とあるように、

肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくない、

としたためと思われる。仏語「忍辱」は、仏様の境涯に到るための六つの修行、

六波羅蜜、

の一つhttps://www.rokuhara.or.jp/rokuharamitsu/

さまざまな苦難や他者からの迫害に耐え忍ぶこと、

であり、

内心能安、忍外所辱境、故名忍辱、

とある(大言海)

この背景から、「にんにく」は、

忍辱、

と当て、

五葷のひとつである「ニンニク」を、僧侶たちが隠し忍んで食べたことから、「忍辱」の語を隠語として用いた、

という「ニンニク」の由来説がある(大言海・語源由来辞典・たべもの語源辞典)。隠語は、

忍辱(にんじゅく)、

で、音からニンニクと称せられた、

ともされる(たべもの語源辞典)。

臭気なく行者も食ふべしとて行者ニンニクなり、

とある(大言海)。

ニホヒニクム(匂惡・匂憎)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・名言通・柴門和語類集)、

は、少し無理筋ではあるまいか。日本書紀の日本武尊の条に、

以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之、

という節があり、蒜を以て白い鹿に弾き飛ばしたとある。この「一箇蒜」は、ニンニクである。

「ニンニク」は、古名、

おほびる(大蒜)、

といい、和名抄に、

葫、於保比流、

とある。「ひる」は、和名抄に、

蒜、比流、大小蒜総名也、
大蒜、葫、於保比流、
小蒜、古比流、一云米比流、
澤蒜、禰比流、

とある。本草和名をみると、

葫、於保比流、
蒜、古比流、

とあるので、「葫」はおおびる、「蒜」はこびる、と使い分けていた気配である(大言海)。

朝鮮語pïl(蒜)と同源(岩波古語辞典)、

という説がある。しかし、日本書紀をみるまでもなく、

日本には太古から自生していた、

とされる(たべもの語源辞典)。とすると、

根の味辛く、口に疼(ひひら)ぐ意(大言海・箋注和名抄・名言通)、
味のヒラヒラするところから(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
ニはニホヒ(匂)、ニクはニクム(嫌)の略、ニニクをニンニクと称した(たべもの語源辞典)、

等々味か匂いからきていると見るのが妥当ではあるまいか。同じ匂いの強い「ニラ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461598032.htmlは、古名「かみら(韮)」が、

カは香、臭気ある意、

とし、

カミラ→ミラ→ニラ、

と転じた(岩波古語辞典)とする説があった。やはり「匂い」由来ではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ニンニク 大蒜
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2021年01月31日

奈良漬


「奈良漬」は、

糟漬の一種、上等の酒糟に、瓜、茄子、胡瓜、守口大根などを漬けたるものにて、上品なるものとす。初、大和の奈良より製し出したるものと云ふ、

とある(大言海)。醒睡笑(元和、安楽庵策傳)に、

瓜の糟づけ、奈良づけと云ふ事は、かす(糟)がの(春日野)があればよいといふ縁なり、

ともじっている(仝上・たべもの語源辞典)。

奈良漬け.jpg


漬物の中でも高級なもので、一貫目(3.75キログラム)の酒糟に瓜二本という割合に漬けるのが良いとされるほどに贅沢なものである、

とし、

大阪の淀屋辰五郎が四斗樽(約72リットル)一挺の糟に瓜二本ずつを漬けて得意がったという話がある、

ともあり(たべもの語源辞典)、

糟が多いほどうまいものができる、

ということらしい(仝上)。奈良漬けは、粕漬として、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも、

進物(たてまつりもの)加須津毛瓜(かすづけけうり)、加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)、

と記された貢納品伝票があり、正倉院文書には、

生姜と瓜の粕漬、

が記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91とあるし、平安中期の延長五年(927)編纂の延喜式にも、

粕漬瓜九斗、粕漬冬瓜一石、粕漬茄子等、

とあり、「粕漬」という名で、瓜、冬瓜・ナスが記載されていた、とある(仝上・「奈良の食文化についての実態調査報告書」)。この背景にあるのは、

奈良では古くから酒造りが行われており、室町時代(1338~1573)になると「南都諸白」と呼ばれる良酒の産地となり、質のよい酒粕を使った野菜の粕漬が作られるようになった、

という酒造が盛んであったことがある(仝上)。なお、当時の酒はどぶろくを指していて、

粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物の染(おり)に野菜を漬けこんだものであった、

とされる(仝上)。当時は、上流階級の保存食・香の物として珍重され、高級食として扱われていた、ともある(仝上)。

「奈良漬」という言葉は、明応元年(1492)『山科家礼記』に、宇治の土産として、

ミヤゲ、ナラツケオケ一、マススシ一桶、御コワ一器、

とあるのが初見とされる。慶長八年(1603)の日葡辞書にも、

奈良漬は奈良の漬物の一種であり、香の物の代わりに使う、

とある(仝上)、とか。

シロウリ.jpg


「奈良漬」の代表は、

越瓜(しろうり)、

である(たべもの語源辞典)、とある。

白瓜、

とも当て、

ウリ(メロン)の品種、

で、

アサウリ、
ツケウリ、
カタウリ、
モミウリ、

とも言い、

完熟すると皮の色が白っぽくなることにちなむ。身が緻密で味が淡白であるため、奈良漬けなどの漬物での利用が適している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%AA

江戸時代に入り、

奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596~1615)に、シロウリの粕漬けを、

奈良漬、

という名で売り出しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91、これが奈良漬という言葉を広めた(仝上)。綱吉の時代には、浅草の観音の門前で「奈良漬を載せたお茶漬け」が評判となり、大当たりし、「奈良漬」は、

白瓜のほか、なす、小型のスイカ、きゅうりなども素材として用いられ、幕府への献上物や東大寺に参拝する人々にみやげ物として売り出され、奈良を訪ねる旅人によって一般に普及され始めた。江戸時代の川柳に、「奈良漬にひょっとおの字をつける下女」、「ほんのりと嫁奈良漬の船に酔い」の句が残っている。また、野菜の粕漬が酒造家の副業として全国に広がり、各地方独特の素材を使った漬け方が考案された、

ことで(「奈良の食文化についての実態調査報告書」)、瓜の粕漬から野菜の粕漬の総称となる。幕末の『守貞謾稿』には、

酒の粕には、白瓜、茄子、大根、菁を専らとす。何国に漬たるをも粕漬とも、奈良漬とも云也。古は奈良を製酒の第一とする故也、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91、銘醸地奈良の「南都諸白」から生まれる質のよい酒粕に負うところが大きい(仝上・たべもの語源辞典)、という。

「南都諸白」は、

なんともろはく、

と訓ませ、

平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称、

であり、

菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」

を筆頭として、

山樽(やまだる)、
大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」、

等々が有名でhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E8%AB%B8%E7%99%BD、僧坊酒全盛の時代が終わってからも、奈良流の造り酒屋がその製法を引き継ぎ、江戸時代に入ってもこのブランドで下り酒の販路に乗せていた(仝上)。

因みに、「諸白」とは、

麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%99%BD

現在の清酒では当たり前の手法であるが、精米が困難であった時代には玄米を用いて酒造りが行われていた、

とあるhttp://www.nada-ken.com/main/jp/index_mo/557.html

室町時代(1338~1573)に、奈良の寺院において、麹米・掛米とも白米を用いる南都諸白が考案されるまで、

は、麹米には玄米、掛米には白米を用いた片白と呼ばれる濁り酒が一般的であった、とある(仝上)。

参考文献;
「奈良の食文化についての実態調査報告書~奈良漬・茶がゆの魅力度向上策の提言(中小企業診断協会 奈良支部)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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