2021年01月16日
経済学の方法
カール・マルクス(大内兵衛・向坂逸郎他訳)『経済学批判』を読む。
マルクスは、『「経済学批判」序説』で、「経済学の方法」について、こんなことを書いている。
われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口をつくり上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの成素は、交換、分業、価値等々を予定する。例えば、資本は賃労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。したがって私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向かって進み、最後に私は最も単純な諸規定に達するだろう。さてここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてではなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。
そして、後者の方法こそが「科学的に正しい方法」であるとし、
具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現れるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが、
と付け加える。ふと、ヴィトゲンシュタインの、
人は持っている言葉によって見える世界が違う、
という言葉を思い出す。ある意味で、概念の、
チャンクアップ、
チャンクダウン、
を言っているのだが、「人口」という概念で見える世界と、各「階級」という概念で見える世界とは異なる。例えば、統計数値を使うとする。しかし、コンマいくつで丸められたのか、そして、そう丸められたのは、どういう前提に基づいているのか、と分析していくと、その統計数値を生み出すための、調査なら質問の、また数値結果としての各数値間の関係が見えてくるはずである。何かありふれた概念を、安易に前提にすれば、それだけのものしか見えてこないということである。だから、
抽象的な諸規定が、思惟の手段で具体的なるものを再生産することになる、
と言い切れるのである。それは、
具体的なものを自分のものにし、これを精神的に具体的なものとして再生産する思惟の仕方にすぎない、
のであり、
理解された世界それ自体がはじめて現実的なもの、
なのだから、
範疇の運動は現実の生産行為……として現われ、この行為の結果が世界、
である、と。しかし、である。それは、ヘーゲルの陥った、
実在的なものを、それ自身のうちに綜合し、それ自身のうちに深化され、それ自身のうちから運動してくる思惟の結果として理解する幻想、
とは、どこか紙一重に思えてならない。ある意味「仮説」というもののもつ宿命ではあるにしても。
こんな、
思惟具体物として、事実上思惟の、すなわち理解の産物、
として、典型的なのは、例えば、
商品は、商品としては、直接に使用価値と交換価値の統一である。(中略)商品は使用価値である。すなわち小麦、亜麻布、ダイヤモンド、機械等々である。しかし、商品としては、商品は同時に使用価値ではない。(中略)所有者にとっては、商品はむしろ非使用価値である。すなわち、交換価値の単なる素材的な担い手である。あるいは単なる交換手段である。交換価値の能動的な担い手としては、使用価値は交換手段となる。商品は、所有者にとっては、ただ交換価値であって、はじめて使用価値である。したがって、使用価値としては、商品はこれから、まず第一に他人のための使用価値にならなければならない。(中略)もしそうでなかっら、彼(所有者)の労働は無用の労働だったのである。……他方では、商品は、所有者自身にとって使用価値とならなければならない。何故かというに、所有者の生活手段は、その商品の外にある他の商品の使用価値の中に存するのであるからである。使用価値となるためには、商品は、それが充足の対象にあたる特定の欲望に出あわなければならない。だから、商品の使用価値は、全面的に位置を変えて、それが交換手段である人の手から、それが使用対象となる人の手に移って、はじめて使用価値となる。商品がこのように全面的に己を譲り渡すことによってはじめて商品に含まれている労働は有用労働となる。(中略)商品がその使用価値となってゆく際におこなう唯一の形態転化は、商品がその所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値であったというこの形態のもつ性質を止揚することである。商品が使用価値となることは、商品の全面的譲り渡しを、すなわち、商品が交換過程に入り込むことを予定している。しかしながら、商品が交換のためにあるということは、交換価値としてあるということである。したがって、使用価値として実現されるためには、商品は交換価値として実現されなければならない。
として、確かに、商品の価値の転換のプロセスは、単純な交換とは異なる視界が開ける。さらに、
商品が交換されることができるのは、ひとえに等価であるからである。そして、それらが等価であるのは、対象化された労働時間の等量であるからである。(中略)商品は、個々の人の特殊な労働そのものであるだけでなく、社会的に有用な労働であるために、商品の特殊な使用価値をぬぎすてて、これを引き渡すことによって素材的な条件をみたしたとしよう。こうなると、商品は、交換過程において交換価値として、他のすべての商品に対して一般的等価、すなわち対象化された一般的労働時間とならなければならない。そしてこのようにして、もはや特別の使用価値の限定された作用をもつだけでなく、その等価としてのすべての使用価値の中に直接的な表示能力をうることにならなければならない。
量的に表現するためには、確かに、その生産のために必要な労働時間、で表現する他はない。しかし、この労働時間という概念も、「人口」と言う概念と同様に、チャンクダウンしていくと、発想、企画、設計、製造等々と別れていくだろう。今日付加価値と呼ぶ、別の基準が見えてくる可能性はある。ま、そこはそのままスルーするとして、ついで、
(それぞれの商品の)特殊な使用価値に表されている個人的な労働は、それらの使用価値が現実にその中に含まれている労働の継続時間の割合でおたがいに交換されてはじめて、一般的な、そしてこの一般的という形で社会的な労働になるのである。社会的な労働時間は、いわば潜在的にこれらの商品の中にあるだけであって、その交換過程ではじめて発現するのである。
その交換過程で発言する「労働時間」という量を、一つの商品、マルクスは、亜麻布で代替しつつ、こう貨幣の出現を説明する。
すべての商品がそれぞれ自身の中に含まれている労働時間を亜麻布で表現しているので、逆に、亜麻布の交換価値は、その等価としてのすべての他の商品の中に展開され、亜麻布自身の中に対象化されている労働時間が、直接に、他の全ての商品のちがった分量に均等に表されている一般的労働時間となる。(中略)このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、これが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するお互いの交換価値の結晶である。
そして、
諸商品の交換価値は、ある特殊な商品に、あるいはある特殊な商品と諸商品との唯一の方程式に一般的等価性も、同時にこの等価性の度もりも与えられていることを表現されるにいたって、価格となる。価格は、諸商品の交換価値が流通過程内で現われる転化形態である。
多く金は、一般的等価の形態、貨幣の形態を与えられが、その場合、
すべての商品がその交換価値を金で測定されるのであるから、すなわち一定量の金と一定量の商品とが同一の大いさの労働時間を含んでいることに応じて測定されるのであるから、金は、価値の尺度となる。そして金が貨幣となるのは、ひとえに、まずこの価値の尺度であるという規定によるのであって、このような尺度として金自身の価値が直接に全範囲の商品等価で測られるからである。
そして、金は、
商品は労働時間によって量定される交換価値としてよりも、むしろ金において量定された同一名目の大いさとして相互にあい関係することになって、金は価値の尺度から価格の尺度標準に転化する。(中略)金は、対象化された労働時間として、価値の尺度である。金は一定の金属重量として、価格の尺度標準である。交換価値としての金が交換価値としての諸商品と関係することによって、金は価値の尺度となる。価格の尺度標準においては、一定量の金が他の量の金に対して単位の役割をなす。金が価値尺度となるのは、その価値が可変的であるからであり、価格の尺度標準となるのは、金が不変の重量単位として固定されるからである。
金もまた商品が持つ使用価値と交換価値という二重性を持っているからである。使用価値としては価値尺度、交換価値としては、価格の尺度標準という機能になる。
貨幣は唯一の現実的な商品である。交換価値、すなわち一般的社会労働、いいかえると抽象的富の独立の存在をただ表すにすぎない諸商品に対して、金は、抽象的富の物質的な存在である。使用価値の面からいえば、どの商品も、ただある特別の欲望に関係することによって、富の個別化された一面であるにすぎない素材的富の一要素を表現するだけである。ところが貨幣は、あらゆる欲望の対象に直接に転化されうるかぎり、あらゆる欲望を充足させる。貨幣自身の使用価値は、その等価物を成している使用価値の無限の系列として実現される。貨幣は、清浄無垢の金属として、商品の世界に広がっているすべての素材的富を未開封のまま含んでいる。だから、諸商品はその価格で一般的等価または抽象的富、いいかえると金を、代表しているとすれば、金はその使用価値の中に、すべての商品の使用価値を代表している。
貨幣にしても、
価値の尺度としての貨幣、
貨幣で測られた価値、つまり価格、
流通手段としての貨幣、
をさらに、流通過程で、鋳貨と区別すると、鋳貨は、
計算貨幣の尺度標準にしたがって鋳造される。
しかし鋳貨は、
その進行が中断されると、貨幣となる。鋳貨は、これを自分の商品と交換して得る売手の手中では、貨幣であって、鋳貨ではない。それが、彼の手を去るや否や、再び鋳貨となる。(中略)貨幣が鋳貨として絶えず流動しているためには、鋳貨は絶えず貨幣になることをいそがなければならない。(中略)流通W(商品)-G(貨幣)-W(商品)においては、第二の項G-Wが一挙に行われるものではなくて、一定時の間に継続的に行われる一系列の買いに分裂して、したがってGの一部分が鋳貨として流通しているのに、他の部分は貨幣として休息している……。
これによって、流通過程で、鋳貨として顕在化している部分と貨幣として潜在化している部分が視界に開ける。それは確かなのだが、観念形態の「貨幣」と現実形態の「鋳貨」をあえて分けることは、ヘーゲルの思惟の自己展開と紙一重に思えてならない。
参考文献;
カール・マルクス(大内兵衛・向坂逸郎他訳)『経済学批判(マルクス・エンゲルス第7巻選集)』(新潮社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95