「たま」は、
魂、
魄、
霊、
と当てる。「たま(玉・珠)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.html)で触れたように、「たま(玉・珠)」は、
タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、
とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」というが同一視されたということであろうか。
未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、
ともある(仝上)。だから、いわゆる、
たましい、
の意であるが、
物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、
↓
人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、
↓
人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、
↓
死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、
と変化していくようである。そこで、
生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閒にても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、
ということになる(大言海)。ちなみに、「たまふり(靈振)」とは、
人の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力をつける、
のを言う。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているもので、樹木・岩石・御幣(ごへい)等々。「鎮魂(みたままつり)」「みたましずめ」も同義である。万葉集に、
たましひは朝夕(あしたゆふべ)にたまふれど吾が胸痛し恋の繁きに、
という歌がある。
「たま」に当てられている「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、
会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、
とあり、
たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、
とある(漢字源)。
(小篆・「魂」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%82より)
しかし、後述の「鬼」の意味からは、
会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、
とする説明もあり得る(https://okjiten.jp/kanji1545.html)。
(小篆・「魄」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84より)
「魄」(漢音ハク、呉音ヒャク)の字は、
会意兼形声。「鬼+音符白(ほのじろい、外枠だけあって中味の色がない)」。人のからだを晒して残った肉体のわくのことから、形骸・形体の意となった、
とあり(仝上)、また別に、
会意形声。「鬼」+音符「白」、「白」は白骨とも、しゃれこうべとも、
とするものもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84)。やはり、
たましい、
肉体をまとめてその活力のもととなるもの、
の意だが、「魂」と「魄」は陽と陰の一対、
「魂」は陽、「魄」は陰で、「魂」は精神の働き、「魄」は肉体的生命を司る活力人が死ねば魂は遊離して天上にのぼるが、なおしばらくは魄は地上に残ると考えられていた、
とあるのは、それは、
「魂」と対になり、「魂」が精神的活動で陽、「魄」が肉体的活動で陰とされ、魂魄は生きている間は一体であるが死後すぐに分離し、魂は天界に入るが、魄は地上をさまようとされた、
からである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84)。
さらに、「靈(霊)」(漢音レイ、呉音リョウ)の字は、
会意兼形声。靈の上部の字(音レイ)は「雨+〇印三つ(水たま)」を合わせた会意文字で、連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし、巫(みこ)を加えた字で、神やたましいに接するきよらかなみこ。転じて、水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。冷(レイ)とも縁が近い。霊はその略字、
とある(仝上)。やはり、
たましい、
の意だが、
形や質量をもたない、清らかな生気、
の意で、
形ある肉体とは別の、冷たく目に見えない精神、また死者のからだから抜け出たたましい、
とある(仝上)ので、「たま」に重なるのは、「霊」である。
で、和語で言う「たま」を指す。
ちなみに、「たま」とも訓ませる「鬼」(キ)の字は、和語「おに」とは別で、
象形。大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの。『爾雅』(漢初の、最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)に、「鬼とは帰」とあるがとらない、
とする(仝上)。別に、
会意兼形声文字です(霝+巫)。「雲から雨がしたたり落ちる」象形と「口」の象形と「神を祭るとばり(区切り)の中で人が両手で祭具をささげる」象形から、祈りの言葉を並べて雨ごいする巫女を意味し、そこから、「神の心」、「巫女」を意味する「霊」という漢字が成り立ちました、
という説もある(https://okjiten.jp/kanji1219.html)が、後述の「鬼」の意味から見れば、前者ではあるまいか。
中国では魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降には泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた、
とある(漢字源)。和語「たま」が、遊離靈とみなすようになるのは、この影響かと推測される。
なお、漢字源が採らない、「鬼は帰」とは、
鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う、
であり、
帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる、
とある、とか(https://blog.tokyo-sotai.com/entry/2015/11/19/111406)、
人は、仮にこの世に身を寄せて生きているにすぎず、死ぬことは本来いた所に帰ることである、
とある(「淮南子(えなんじ)」 )ところからすると、「霊」の意味からは離れてしまうと思われる。
さて、「たま」の語源であるが、
靈と玉は前者が抽象的な超自然の不思議な力、霊力となり、後者は具体的に象徴するものという意味で、両者は同一語源、
と考えるなら(日本語源大辞典・岩波古語辞典)、
タマチハイ(賜幸)恵み守るものであるところから、また、造花神が賦与するものであるところから賜ふの義、あるいは円満の義、あるいは入魂は丸い玉のようであるところからともいう(日本語源=賀茂百樹)、
イタクマ(痛真)の義で、タマ(玉)と同義(日本語原学=林甕臣)、
タは直の意の接頭語、マはマル(丸)・マト(円)等の語幹(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タは接頭語、マはミ(実)の転。草木が実から生ずるように、人も魂の働きによって生長すると考えたところから(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
[tama]は[ta]と[ma]。[ta]は「て(手)[te]」のはたらきを表す。[ma]は「むすぶ(結ぶ)」行為の根拠を意味する。「たま」は「はたらいて実を結ぶ」こと(http://aozoragakuen.sakura.ne.jp/aozoran/teigi/jisyov1v2/jisyoI/node57.html)、
等々の諸説はひねくり回し過ぎではあるまいか。単純に、「タマ(玉)と同源」から、
「魂」の形を「マルイ」とする、
説(日本語源広辞典)だと、
タマ(魂)→マルイ→玉、
となる。形の丸については「まる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように、「まる」「まどか」という言葉が別にあり、
中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも『万葉-二〇・四四一六』の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、『塵袋-二〇』には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、
とあり(日本語源大辞典)、更に、
平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、
と(仝上)、本来、
「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、
と使い分けていた。やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して、「まどか(まとか)」の項には、
ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま、
とある。平面は、「円」であり、球形は、「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。
とすると、本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、
丸い石、
を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。
「たま」は、
魂、
でもあり、
依代、
でもある。何やら、
神の居る山そのものがご神体、
となったのに似ているように思われる。
なお、「たましい」については、「魂魄」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456697359.html)で触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95