2021年01月31日
奈良漬
「奈良漬」は、
糟漬の一種、上等の酒糟に、瓜、茄子、胡瓜、守口大根などを漬けたるものにて、上品なるものとす。初、大和の奈良より製し出したるものと云ふ、
とある(大言海)。醒睡笑(元和、安楽庵策傳)に、
瓜の糟づけ、奈良づけと云ふ事は、かす(糟)がの(春日野)があればよいといふ縁なり、
ともじっている(仝上・たべもの語源辞典)。
漬物の中でも高級なもので、一貫目(3.75キログラム)の酒糟に瓜二本という割合に漬けるのが良いとされるほどに贅沢なものである、
とし、
大阪の淀屋辰五郎が四斗樽(約72リットル)一挺の糟に瓜二本ずつを漬けて得意がったという話がある、
ともあり(たべもの語源辞典)、
糟が多いほどうまいものができる、
ということらしい(仝上)。奈良漬けは、粕漬として、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも、
進物(たてまつりもの)加須津毛瓜(かすづけけうり)、加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)、
と記された貢納品伝票があり、正倉院文書には、
生姜と瓜の粕漬、
が記されている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)とあるし、平安中期の延長五年(927)編纂の延喜式にも、
粕漬瓜九斗、粕漬冬瓜一石、粕漬茄子等、
とあり、「粕漬」という名で、瓜、冬瓜・ナスが記載されていた、とある(仝上・「奈良の食文化についての実態調査報告書」)。この背景にあるのは、
奈良では古くから酒造りが行われており、室町時代(1338~1573)になると「南都諸白」と呼ばれる良酒の産地となり、質のよい酒粕を使った野菜の粕漬が作られるようになった、
という酒造が盛んであったことがある(仝上)。なお、当時の酒はどぶろくを指していて、
粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物の染(おり)に野菜を漬けこんだものであった、
とされる(仝上)。当時は、上流階級の保存食・香の物として珍重され、高級食として扱われていた、ともある(仝上)。
「奈良漬」という言葉は、明応元年(1492)『山科家礼記』に、宇治の土産として、
ミヤゲ、ナラツケオケ一、マススシ一桶、御コワ一器、
とあるのが初見とされる。慶長八年(1603)の日葡辞書にも、
奈良漬は奈良の漬物の一種であり、香の物の代わりに使う、
とある(仝上)、とか。
「奈良漬」の代表は、
越瓜(しろうり)、
である(たべもの語源辞典)、とある。
白瓜、
とも当て、
ウリ(メロン)の品種、
で、
アサウリ、
ツケウリ、
カタウリ、
モミウリ、
とも言い、
完熟すると皮の色が白っぽくなることにちなむ。身が緻密で味が淡白であるため、奈良漬けなどの漬物での利用が適している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%AA)。
江戸時代に入り、
奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596~1615)に、シロウリの粕漬けを、
奈良漬、
という名で売り出し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)、これが奈良漬という言葉を広めた(仝上)。綱吉の時代には、浅草の観音の門前で「奈良漬を載せたお茶漬け」が評判となり、大当たりし、「奈良漬」は、
白瓜のほか、なす、小型のスイカ、きゅうりなども素材として用いられ、幕府への献上物や東大寺に参拝する人々にみやげ物として売り出され、奈良を訪ねる旅人によって一般に普及され始めた。江戸時代の川柳に、「奈良漬にひょっとおの字をつける下女」、「ほんのりと嫁奈良漬の船に酔い」の句が残っている。また、野菜の粕漬が酒造家の副業として全国に広がり、各地方独特の素材を使った漬け方が考案された、
ことで(「奈良の食文化についての実態調査報告書」)、瓜の粕漬から野菜の粕漬の総称となる。幕末の『守貞謾稿』には、
酒の粕には、白瓜、茄子、大根、菁を専らとす。何国に漬たるをも粕漬とも、奈良漬とも云也。古は奈良を製酒の第一とする故也、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%BC%AC%E3%81%91)、銘醸地奈良の「南都諸白」から生まれる質のよい酒粕に負うところが大きい(仝上・たべもの語源辞典)、という。
「南都諸白」は、
なんともろはく、
と訓ませ、
平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称、
であり、
菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」
を筆頭として、
山樽(やまだる)、
大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」、
等々が有名で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E8%AB%B8%E7%99%BD)、僧坊酒全盛の時代が終わってからも、奈良流の造り酒屋がその製法を引き継ぎ、江戸時代に入ってもこのブランドで下り酒の販路に乗せていた(仝上)。
因みに、「諸白」とは、
麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%99%BD)、
現在の清酒では当たり前の手法であるが、精米が困難であった時代には玄米を用いて酒造りが行われていた、
とある(http://www.nada-ken.com/main/jp/index_mo/557.html)。
室町時代(1338~1573)に、奈良の寺院において、麹米・掛米とも白米を用いる南都諸白が考案されるまで、
は、麹米には玄米、掛米には白米を用いた片白と呼ばれる濁り酒が一般的であった、とある(仝上)。
参考文献;
「奈良の食文化についての実態調査報告書~奈良漬・茶がゆの魅力度向上策の提言(中小企業診断協会 奈良支部)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95