2021年02月01日

とろろ汁


「とろろ汁」に、

薯蕷汁、

と当てている(大言海)。

いもじる、
とろろ、
とろ、

ともいう(仝上)。とろろ汁は飯がよく進むことから、「飯(いい)やる」を「言いやる」に掛けて、

言伝(ことづて)汁、

という異称があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8D%E3%82%8D、とか。

月見とろろ汁.jpg


ヤマイモ(薯蕷)、又は、仏掌薯(つくねいも)を擂りて、熱き味噌汁、又は、清澄(すまし)汁に溶かしたもの、

とある(仝上・広辞苑)

盪(トウ)汁の義、

とある(大言海)。

ヤマノイモやヤマトイモをおろし金ですりおろし、擂鉢に入れてすって、清(すまし)汁か味噌汁を加えて、すりのばし、この中に卵を割り入れる。出すときに、きざみ葱・青海苔などを薬味にする(たべもの語源辞典)、

生の山芋または長芋をすり下ろしたものhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8D%E3%82%8D

ともあり、汁物にしてとろろ汁、吸物にして吸いとろ、麦飯にかけて麦とろ、などとして食べられる。とろろを鮪のぶつ切りにかけた料理を山かけといい、山かけ蕎麦や山かけうどん等々がある(仝上)。

梅若菜まりこの宿のとろろ汁、

と芭蕉が江戸に下る弟子の乙州(おとくに)に与えた句がある、「鞠子の宿」の「とろろ汁」は、参勤交代の大名に気に入られたので有名になった、という(たべもの語源辞典)。慶長元年(1596)創業の丁子屋(ちょうじや)は、鞠子宿の名物とろろ汁を提供する店の一つで、創業以来400年間場所を変えずに営業している。

歌川広重「東海道五十三次・鞠子」.jpg

(歌川広重「東海道五十三次・鞠子」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%A0%E5%AD%90%E5%AE%BFより)

「とろろじる」の「とろろ」については、

トロトロの略(たべもの語源辞典)、

とある。

トロトロした汁の意(類聚名物考・俗語考・日本語源=賀茂百樹・音幻論=幸田露伴)、

も同じである。

トロロは動詞トトロク(盪)の語幹に由来する(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、

は、大言海の、

盪汁の義、

と同じ意味である。これも、「とろく」

盪く、
蕩く、

固まっているものが溶解する、

意とすれば、同趣である。

「トロ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453836534.htmlで触れたように、擬態語の、「とろ」は、

トロトロ、

からきており、

固形物がとけてやわらかくなったり、液状の物が粘り気を帯びている様子、

を意味する(擬音語・擬態語辞典)。同じ擬態語「とろっ」「とろり」「とろとろ」と比べると、

「とろり」よりも、「とろっ」の方が状態を瞬間的にとらえて切れのある感じを表す。また、「とろり」と比べて「とろーり」の方が持続的でより滑らかに流れる感じを表す。「とろり」が状態を一回で切り取って把握するのに対して、「とろとろ」は何度も繰り返して継続的な感じを表す、

とある。「とろろ汁」の「とろとろ」はこれだろう。

ところで、「とろろ汁」に使う「薯」は、

とろろいも、

といい、

薯蕷芋、
薯蕷藷、

と当てるが、その種類は、

ヤマノイモ、
ナガイモ、
ツクネイモ、

等々があり(広辞苑)、

ヤマノイモとナガイモは全くの別種であるが、ともにヤマノイモ属であり、区別せず広義でヤマノイモ(山芋)と呼ぶ、

こともあり、しかも、一般に山芋と呼ばれるものには、大きく分けて、

ヤマノイモ、
ジネンジョ、
ダイジョ、

の3つの種類に分かれるhttps://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/tukuneimo.htm、という。「ナガイモ」は、

長芋群(細長い棒状の山芋)、
いちょう芋群(関東地方では「大和芋」とよばれているねばち形や手のひら状に広がった形のナガイモ)、
つくね芋群(「丹波いも」「大和いも」「伊勢いも」などね握りこぶしのように固くてゴツゴツした塊形)、

の3群に分けられるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2、とある。栽培種になって、ますます品種がややこしいが、「ヤマイモ」にも、

よくスーパーで見かける長いナガイモ群、
関東で大和芋として売られていることもあるイチョウのような形のイチョウイモ(銀杏いも)群、
塊状のヤマトイモ群、

の3つに分けられるhttps://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/tukuneimo.htm、とある。

「やまいも」は、

山芋、
薯蕷、

とあて、

ヤマノイモ(山の芋)、

と同じである。鎌倉時代に編纂された字書『字鏡(じきょう)』には、

薯蕷、山伊母、

と載る。山野に自生するので、

自然生(じねんじょう)、
自然薯(じねんじょ)、

と言った。これは、里芋に対して、山地にあるから

ヤマイモ、

と言ったのである。漢名は、

薯蕷(じょよ)、

とされるが、牧野富太郎が、これはナガイモの漢名としている(たべもの語源辞典)のは、

古くは中国原産のナガイモを意味する漢語の薯蕷を当ててヤマノイモと訓じた、

からである。「やまいも」は、

日本特産で、英名はジャパニーズ・ヤム(Japanese yam)、中国名は、日本薯蕷(にほんしょよ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%A2

やまいも.jpg


「ながいも」は、

長薯、

とあて、古く中国から伝来し、畑で栽培された。漢名は、

山薬(さんやく)、
薯蕷(しょよ)、

とされるが、中国では、

同種のナガイモは確認されていない。日本で現在流通しているナガイモは日本発祥である可能性もある、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2

ナガイモ.jpg


「ヤマトイモ」(大和いも)は、

ヤマノイモ科のつる性多年草の芋で、奈良県在来のツクネイモの品種である。関東などでは、イチョウ芋を「やまと芋」と呼ぶ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%84%E3%82%82

芋が球形をしたものをツクネイモ群と称し、表皮が黒いものは大和いも、白いものは伊勢いもと呼ばれるが、いずれも中身は白色である、

とある。大和いもを含むツクネイモ群は、

大陸から渡来したナガイモの一種で、山に自生する日本原産のヤマノイモとは別の種、

とされる(仝上)。つくねいもの名前が最初に登場するのは『清良記』(1654年頃)で、

江戸時代の『本草綱目啓蒙』および『成形図説』に「大和イモ」「大和芋」の名が現れるが、この頃は「仏掌薯(つくねいも)」を指していた。1924年(大正13年)の『本場に於ける蔬菜栽培秘法』(三農学士編 柴田書房)にも「大和蕷薯〔ママ〕 一名仏掌薯(ツクネイモ)」の項があり、この頃まで「仏掌薯(つくねいも)」が「大和いも」と呼ばれていた、

とされる(仝上)。

大和いも.jpg


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月02日

いも


「いも」は、

芋、
薯、
藷、
蕷、

等々と当てる(広辞苑・大言海)。

サトイモ、ツクネイモ、ヤマノイモ、ジャガイモ、サツマイモなどの総称、

で(広辞苑)、

植物の根や地下茎といった地下部が肥大化して養分を蓄えた器官である。特にその中で食用を中心に利用されるものを指すことが多い。但し、通常はタマネギのような鱗茎は含めない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B

ジャガイモ.jpg

(ジャガイモの塊茎(地下茎) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8Bより)

「芋」(ウ)は、

会意兼形声。「艸+音符于(ウ 丸く大きい)」

とあり、「いも」の総称。とくにサトイモをさす、とある(漢字源)。

「薯」(漢音ショ、呉音ジョ)は、

会意兼形声。「艸+音符署(ショ 集まる、中身が充実する)」。根が充実してふといいも、

とある。「藷」と同じで、「いも」の意。「薯蕷」(ショヨ)は「ナガイモ」、「蕃薯」(バンショ)は「さつまいも」、「甘藷」も「さつまいも」になる(漢字源・字源)。

「藷」(ショ)は、

会意兼形声。「艸+音符諸(ショ あつまる、中身が充実する)」、

とあり、「薯」と同じで、根が充実したいも、を指し(漢字源)、「甘藷」(カンショ さつまいも)と使う。「藷藇」(ショショ)は「やまのいも(やまいも)」の意になる(字源)。

「いも」は、鎌倉時代に菅原為長によって編纂された字書、字鏡(じきょう)に、

蕷、芋、伊毛、

と載り、古く、

使掘薯蕷(武烈紀)、

とあり、この場合、

山芋、

を指すと思われる(岩波古語辞典)。古くは、「いも」は、

山芋・里芋をさし、江戸時代中頃からさつま芋、末期からじゃがいもをいう、

とある(仝上)。

和語「いも」の語源は、古くは、

うも(芋・薯蕷)、

と言ったとあり(大言海・岩波古語辞典)、

沖縄にては、ウム、

とある(大言海)。語源説は、古名「うも」なら、

ウモの転(岩波古語辞典)、
ウモの転、ウヲ、いを(魚)、根塊に就きての名か(大言海)、
ウモ(埋も)の音韻変化(日本語源広辞典・日本古語大辞典=松岡静雄)、
ウヅムから埋むの転。土に埋めて蓄えるから(滑稽雑誌所引和訓義解)、

が、大勢のようだが、

ウヅマリミ(埋実)の義(日本語原学=林甕臣)、

も同趣と見ていい。

うむ(埋)の転訛、

とするのが妥当だろう。ただ、異説はある。

子をもつから、イモ(妹)となぞらえた(和訓栞・和句解)、
オモ(母)の転呼(言元梯)、
ウマシ(旨)の転(和語私臆鈔)、
イモのイはイキ(息)、イノチ(命)、スカル(怒)などのイとは共通で、内在するちからをいう。モはモモ(桃・腿)、モミ(籾)などのように、まるみのある身、まるい実をいう。イモはモが本体で、内容の充実したまるい物をいう意味になる(南島叢考=宮良当壮)、

しかし、どうしても、語呂あわせの屁理屈にしか見えない。複雑に考えれば考えるほど実態から乖離するのは、語源論の基本だと思う。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:いも
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2021年02月03日

さうらふ


「さうらふ」は、

候、

と当てる。

目上の人のそばに控える、仕える、
「あり」の謙譲語、ありの丁寧語、おります、ございます、

の意だが(広辞苑)、助動詞として、

聞こえさうらふ、
義経にて候、

というように、

動詞及びある種の助動詞の連用形に、「に」「で」などの助詞について、目下の者が自分に関することを目上の者に述べるのに用いた。鎌倉時代以降は「侍り」などと同じく丁寧な言い方に用いられた。今日の「ます」「ございます」にあたる。のちにはいわゆる「候文」として書簡などに用いられる、

とあり(広辞苑)、

言葉遣いを丁寧・丁重にするために添える、

形で使われる(岩波古語辞典)。「さうらふ」は、

さもらふ、さむらふ、さぶらふの転、

とされる(大言海)。

候.gif


「候」(漢音コウ、呉音グ)は、

会意兼形声。侯の右側は、たれた的(まと)と、その的に向かう矢との会意文字で、的をねらいうかがう意を含む。侯は、弓矢で警護する武士。転じて、爵位の名となる。候は「人+音符侯」で、うかがいのぞく意味をあらわし、転じて身分の高い人の機嫌や動静をうかがう意となる、

とあり(漢字源)、「さうらふ」に似ているが、別に、

会意形声。「人」+音符「矦(=侯)」、「侯」は矢で的を狙う軍人、時代が下って王の側近を意味するようになり、「候」に元の「ねらう」等の意が残った、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%80%99

「斥候」の「うかがう」意であり、「候門」のように「待つ」意であり、「時候」のように「きざし」の意であるが、身分の高い人の傍近くに仕えて機嫌をうかがう意の「さぶらふ」意でもある。

「さうらふ」に転訛した「さぶらふ」は、

候ふ、
侍ふ、

とあてるが、

さもらふの転。じっとそばで見守り待機する意。類義語ハベルは、身を低くして貴人などのそばにすわる意、

で(岩波古語辞典)、「さもらふ」は、

「様子を伺い見る」が古い意味である。……主人の側に仕えて、絶えず主人の意向を見守っていたことに発する語である。それが「さぶらふ」となって、貴人の命を伺い待つ意として使われ、やがて、広く丁寧の意を表すのに用いられるようになった、

とある(仝上)。

「居り」「有り」の謙譲語。また丁寧にいう語としても使われた、

が(広辞苑)、丁寧語としては、

奈良・平安時代にはバベル(侍)が使われていたが、次第にサブラフがとって代わった、

とあり(岩波古語辞典)、

鎌倉・室町時代には、男性は「さうらふ」、女性は「さぶらふ」「さむらふ」と使うという区別があった、

(平曲指南抄・ロドリゲス大文典)、とある(仝上・広辞苑)。

「さぶらふ」に転訛した「さもらふ」は、

候ふ、
侍ふ、

と当て、

サは接頭語、モラフは、見守る意の動詞モ(守)ルに反復・継続の接尾語フが付いた形、

とある(岩波古語辞典)。そしてこの接尾語「フ」は、

四段活用の動詞を作り、反復・継続の意を表す。例えば、『散り』『呼び』といえば普通一回だけ散り、呼ぶ意を表すが、『散らふ』『呼ばふ』といえば、何回も繰り返して散り、呼ぶ意をはっきりと表現する。元来は四段活用の動詞アフ(合)で、これが動詞連用形のあとに加わって成立したもの。その際の動詞語尾の母音の変形に三種ある。①[a]となるもの。例えば、ワタル(渡)がウタラフとなる。watariafu→watarafu。②[o]となるもの。例えば、ウツル(移)がウツロフとなる。uturiafu→uturofu。③[ö]となるもの。例えば、モトホル(廻)がモトホロフとなる。mötöföriafu→mötöföröfu。これらの相異は語幹の部分の母音、a、u、öが、末尾の母音を同化する結果として生じた、

とある(仝上)。とすると、「モリ(守)に反復・継続の接尾語ヒのついた形」の

「もる+あふ」

つまり、「もらふ」である。接頭語「さ(sa)」を付けると、

samöriafu→samörafu→samurafu→saburafu→saurafu、

といった転訛になろうか。ただ、大言海は、「さ」は、

万葉集の歌に、佐守布(サモラフ)とあり(遣る、やらふ)、或いはまもらふ(守)と通ずるか(惑す、まどはす)。サは、側の約か(多蠅(ははばへ)、サバヘ)。側にいて、目を離さず候(ウカガ)ひ居る意なり、

と、「そば」の意とする。「もる」は、

守る、

と当て、

固定的に或る場所をじっと見る意。独立した動詞としては平安時代にすでに古語となり、多く歌に使われ、一般には,これの上にマ(目)を加えたマモルが用いられるようになった、

とある(岩波古語辞典)。つまり、「もる」には、

見守る、

意はあるが、「そば」と特定する意味はない。とすれば、「さ」は、単なる接頭語とはいえず、

さもらふ、

の「さ」は、大言海の言うように、「側」の意があったと考えるべきではあるまいか。「サモラフ」の原義は、

相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D。「さ」がついて、はじめて「傍らに」の意味が出てくるのではあるまいか。

「さうらふ」は、「さもらふ」から、

さもらふ

さむらふ

さぶらふ

さうらふ、

そうろ、

そろ、

と音がつまるようになり、活用形が欠けて来て用いにくくなり、室町時代からは「まゐらする」が「候ふ」に代わって次第に広く使われ始め、「候ふ」は、文章語、書簡体のための用語となった、

ということになる(岩波古語辞典)。

「サムライ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463927433.htmlで触れたが、「さむらい(侍・士)」は、

サブラフの転、

であり、

主君のそば近くに仕える、

意から(岩波古語辞典)、その人を指した。

平安時代、親王・摂関・公卿家に仕え家務を執行した者、多く五位、六位に叙せられた、

つまり、「地下人」である。さらに、

武器をもって貴族まったく警固に任じた者。平安中期、禁裏滝口、院の北面、東宮の帯刀などの武士の称、

へと特定されていく。とすると、

samöriafu→samörafu→samurafu→saburafu→samurafi

といった転訛であろうか。「サムライ」は16世紀になって登場した比較的新しい語形であり、

鎌倉時代から室町時代にかけては「サブライ」、平安時代には「サブラヒ」とそれぞれ発音されていた。「サブラヒ」は動詞「サブラフ」の連用形が名詞化したものである、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D、「サブラフ」は、

「侍」の訓としても使用されている、

のであり、

平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。「侍」という漢字には、元来 「貴族のそばで仕えて仕事をする」という意味があるが、武士に類する武芸を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである、

とある(仝上)。つまりは、

サモラフ→サムラフ→サブラフ→サムラヒ、

と、途中から、「さうらふ」とは別れて、転訛していったことになる(日本語源広辞典)。

『初心仮名遣』には、「ふ」の表記を「む」と読むことの例の一つとして「さぶらひ(侍)」が示されており、室町期ころから、「さふらひ」と記してもサムライと発音していたらしい。一般的に「さむらひ」と表記するようになるのは、江戸中期以降である、

という(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月04日

得体の知れぬ人物


福島克彦『明智光秀―織田政権の司令塔』を読む。

明智光秀.jpg


「はじめに」で、著者は、光秀をこうまとめる。

「光秀の前半生はほとんどわからない。光秀本人が語るところでは、先祖は足利将軍家の御判御教書(ごはんみぎょうしょ)を保持した家柄であったという。しかし、光秀の時代は、すでに知行地は手放した状態であり、たとえ過去の御教書があっても役に立たないと認識していた(早島大祐『明智光秀』)。彼自身は武家出身という自覚を持ちつつも、変化激しい戦国の現実社会との距離感をしっかり認識していた。実際彼は「一僕(いちぼく)の者、朝夕の飲食さえ乏(とぼし)かりし身」を経験したことがあるという(『当代記』)。亡くなったのは五十五歳(『明智軍記』)とも、六十七歳(『当代記』)とも言われ、もう老齢になりつつあった世代である。あらゆる人生の浮き沈みを知り得た人物であったと言えよう。老齢でありつつも、信長の傍に侍り、諸政策を実行、具体化していく……ある意味、得体の知れぬ人物であった。」

と。

確かに、「老齢になりつつあった世代」というのは、年齢も不確かで、はっきりしないが、信長49歳を筆頭に、秀吉、家康は四十代であるのに比べると、老境にあるといえる。

「得体の知れぬ人物」とは、フロイスの、

「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
「彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
「裏切りや密会を好む」

という光秀評と通じるものがある。なお、「御判御教書」とは、

足利将軍,室町殿の発給する、花押もしくは自署を加える直状形式の御教書、

である。「一僕の者」とは、

奉公人がたった一人の侍を、

一僕の者、
一僕の身、

と呼んだ。一騎駆けをするのは、一廉の侍ではないという含意があった。少し後の基準だが、

普通騎乗の武士(二百石取以上)は、馬の口取りと主人の武器、鑓、鉄炮などを持つ者、小荷駄を持つ者、主人警固の徒士侍等々を連れている。これが騎馬武者の下限である。徒士でも、(自弁の)鑓持ち一人、その他二人の供を連れる。これが、鑓一筋の武士の最下限である(百石取)。これ以下は、自弁の鑓ではなく御貸鑓となる、

とされる(図説 日本戦陣作法事典)。

さて、本書の特色は、サブタイトルにもあるように、光秀のポジションに着目しているところだ。

「光秀の場合、天正八年八月(細川藤孝が丹後宮津へ転封になって)以降、丹後の藤孝を指導監督する立場を維持しているものの、本人が信長の馬廻衆に(秀吉や勝家のように)検使を受けた形跡は見られない。やはり信長は光秀をより近い立場に置き、最後まで信頼を寄せていたのであろう。信長の信頼を背景に、光秀は、大和・丹後の指出検地の指導、軍法整備による近世的軍隊の創出、その実践を進めた京都馬揃えと、まさしく織田権力の中枢政策を最後まで担っていたと言えよう。さらに、天正八年以降の対毛利、対長宗我部との外交についても関わっていた。織田権力の政策の屋台骨を背負いつつ、『司令塔』といっていいような存在になっていた。」

とみる。それは、のちの秀吉や勝家の言動にも、

「光秀が信長から多大の恩賞を得ていた」

と、周囲もまた光秀が信長に重用されていたと認識していた。

その光秀が謀叛を起こした理由について、二つのことを挙げている。ひとつは、信長が京都に拠点を持たなかったこと。

「元亀四年(1573)の義昭の京都退去の際、光秀は信長に吉田山における『御屋敷』構築を強く勧めた。これは、義昭に代わる公儀権力の主として、京都における築城を献策したのであろう。しかし、朝廷や寺社勢力に対する気兼ねからか、信長は築城を結局実現しなかった。相変わらず少人数で京都へ向かう姿勢は、隣接する近江志賀郡、丹波を治める光秀を信頼していることの裏返しであったろう。換言すれば、織田権力の中枢にいた光秀だったからこそ、本能寺の変は可能だったのである。」

いまひとつは、外交政策の変更である。この説は近年着目されているが、対長宗我部政策の変更である。

「織田権力による畿内・近国の制圧は、中国地方の毛利氏や四国の長宗我部氏との外交関係とも大きく関連していた。斎藤利三の姻戚関係もあって、光秀は長宗我部氏との外交を取り仕切っていた。しかし、三好(康長)氏との関係強化により、毛利氏との前線に立っていた秀吉に対外交渉の覇権が移ってしまう。すなわち、天正九年(1581)後半には信長による西国支配の構想が、『秀吉―三好ライン』の派閥にまとまり、少なくとも天正六年から四国政策を担っていた『光秀―長宗我部ライン』は敗北したと言われている(藤田達生『本能寺の変研究の新段階』)。」

しかし、それを直接担っていた斎藤利三は、天正十年五月になっても(長宗我部)元親と手紙のやり取りをし、

「元親とのぎりぎりの交渉を進めていた。その間も、着々と(神戸)信孝による四国攻めの準備が進められていた。その直後の六月二日に本能寺の変が起こるのである。」

光秀は、天正八年(1580)にも、対毛利「和談」交渉を進めていたが、ここでも、

「宇喜多を寝返らせた秀吉の政策が受け入れられ、以後織田権力は毛利氏との全面戦争の道をあゆむことになる。」

という外交政策でも敗北を余儀なくされている。確かに、

「織田権力の外交政策においては、さまざまなチャンネルを並行して進める場合があり、こうした外交政策のずれは、織田権力の武将である以上、常に認識していたことと思われる。しかし、対毛利、対長宗我部という西国政策は、さまざまな国衆の利害が絡んでおり、大きな派閥抗争に至った可能性はある。」

とし、最近の方向性として、本能寺の変の背景は、

「信長による四国政策の変更とそれに関する派閥間抗争」

に収斂しつつあり、本書も、

「信長による長宗我部元親の外交関係が、光秀から秀吉へと移行したことが、武将間の派閥抗争を先鋭化させた」

とする説を採る。特に、長宗我部との正面衝突が迫る緊迫した状況で、

「斎藤利三が本能寺の変直前の五月まで長宗我部氏と交渉していた事実は、信長に敵対する側の論理や思惑を知る機会となった。同時に、当時織田権力を取り巻く政治情勢を、多角的に分析することになったと思われる。」

とする。当時の記録に、

「今度謀叛随一也」(言経卿記)、
「かれなと信長打談合衆也」(天正十年夏記)、

等々と、いくつも斎藤利三の名がのぼるのは、

「四国政策の変更が大きな要因だった」

といえるのではないか、と。

それにしても、その対抗馬の秀吉が、

「流言飛語や敵失を狙ったデマが飛び交う」

戦国期の前線で、

三日の晩ニ彼高松表へ相聞(浅野文書)、
四日ニ注進御座候(秀吉書状)、
六月六日夜半許り、密かに注進あり(惟任退治記)、

と、いずれにの日にそれを知ったにしろ、

「特筆されるのは、秀吉が信長横死の情報を信じ、『毛利氏がそれを知るよりも早く己に有利な和睦を結んだ』こと」

である。その背景を、

「秀吉は確信をもって変の情報を受け止め、独自の判断で素早く毛利氏と和睦したことになる。京都や畿内・近国との間によほど信頼し得る情報網を持っていたと考えられる。……信長の西国出陣がかねて予定されており、こうした準備が情報伝達に好都合に働いたのかもしれない。」

と述べる。

確かに、『武功夜話』によると、信長が直々出陣する準備のため、街道の手配り、備中支援に、播州、備前の路次の整備、宿駅、宿所、兵粮の備え等々を、前野将右衛門が終えており、

「御内府(信長)公出馬に付き、筑前(秀吉)様格別の御思召しこれあるに付き、御路次の宿泊所備前境目まで、路次の次第土を均(なら)し石を取り除き、御通路手易き様に各々手分け仕り候。此度の御出馬の御進路、海上をさけ陸路を取り、播州より備前入りの道程、すなわち摂州尼ヶ崎より播州に越しなされ、三木御泊りこれより姫路へ御成り御泊り、これより西海道を備前の三石(みついし)へ罷り在り候次第、御通路越度なく相働き待ち居り候なり。御内府公播州入りは六月七日、右の旨御沙汰の次第、岐阜中将より御取次の御使者、猪子(いのこ)兵助申し越し候なり。前将殿は揖東(いっとう)郡、揖西(いっさい)郡、蜂須賀彦右衛門の御領分竜野まで罷り出られ、清助殿は前将様に御供仕り竜野へ罷り出て、彦右衛門様御内の御留守居役、岩田七左衛門、牛田四郎兵衛御案内候ひて、備前の堺目赤穂郡おくまの、竹原、有牟(うむ)、船坂峠、備前三石(みついし)まで罷り出て、道普請、御宿泊の所務手当候なり。それがし(前野義詮)は岩田七左殿連れ立ち、赤穂峠まで浦々等海上の船行の見張り等蜂須賀内にて取構え候なり。播州の御通過路次万端滞りなく仕り、御主前将様ともに三木へ立ち帰り候は、五月二十八日昼下り、これより明石郡国限まで案内人差し向け、待ち構え候折の異変に候」

とある。この連絡網が効いたと見ることができる。

そういえば、十年前の天正元年(一五七三)十一月将軍義昭の京都復帰のため秀吉と交渉したことがある安国寺恵瓊は、十二月に毛利家臣の児玉三右衛門(元良)・山県越前守、小早川家臣井上春忠(又右衛門尉)宛書状で、

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」

という有名な手紙を書いている。この予言が当たったとされている。それほど、傍から見て、信長が危うかったのだとすると、

「わずかな手勢で、嫡男信忠とともに在京したことは大きな失態」

であることは確かである。

光秀関連については、
高柳光寿『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476798591.html
諏訪勝則『明智光秀の生涯』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473070700.html
金子拓『信長家臣明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472831218.html
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』http://ppnetwork.seesaa.net/article/469748642.html
高柳光寿『本能寺の変』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476815575.html
谷口研語『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/399629041.html
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/389904174.html
等々で触れた。

参考文献;
福島克彦『明智光秀―織田政権の司令塔』(中公新書)
笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房)
吉田雄翟編『武功夜話―前野家文書』(新人物往来社)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年02月05日

居候


「居候」(ゐさうらふ・いそうろう)は、

他人の家に寄食すること、またその人、

の意である。略して、

居(ゐ)そ、

ともいう(江戸語大辞典)。

「しくじれば又いそだ、むづかしい咄はねへ」(享和元年(1801)「二布団」)

かかりうど(掛人)、

ともいい、

「かかりびと」の音変化、

である(広辞苑)。また、

食客(しょっかく)、

と意味が重なるが、微妙な齟齬もある。

居候三杯目にはそっと出し、

という川柳が有名だが、

居候因果と子供嫌いなり、

というのもある。

誰々方へ居候という言葉から出た、

とある(江戸語大辞典)。

「居候」は、「ごんすけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478489648.htmlで触れたが、

権八、

ともいう。権八は、

白井権八、

で、

侠客幡随院長兵衛の家の食客だったところから、

居候、
食客、

の代名詞として使われている(江戸語大辞典・広辞苑・大言海)。これも、

天明八年(1788)、江戸中村座にて、傾城吾妻鑑の狂言ありて、白井権八と云ふ者が、幡随院長兵衛の食客たりしことを演ず、

による(大言海)。

白井権八.jpeg

(三代目歌川豊国『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%ABより)

ただ「食客」は、

士不外索、取千食客門下矣(平原君傳)、

とあるように、

門客(もんかく)、
門下(もんか)、

とも言い、

客分としてかかえおく臣、

を指す(字源)。日本では、

他人の家に寄食する人,たとえば師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられている書生などを含めて,

食客、

と言い、

多くの地方で不意の食客を意味し,カンナイド,ケンナイド,ケイナイヤツ,ケナイドなどの民俗語彙でよばれていた。ケはハレに対する日常の意味であり,とくに大和地方ではケナイドは〈招かざるに来て食事などをする客〉の意味であり,ここでは居候の存在は喜ぶべきものではなかった、

とある(世界大百科事典)が、中国では、

有力者の門に召しかかえられる寄食者,居候をさし,門客,門下客などともよばれる。春秋戦国時代の社会変動の中から放出された多数の浮動的な士や遊民は,一定の生業をもたないために,個人の才能だけをたよりに有力者に仕えざるをえず,他方,諸侯や貴族も彼らを集めて勢力をのばす必要があった、

とある(仝上)ので、「居候」と重ねるのは難がある。

多数の食客を抱えたことで有名な人物は、

戦国四君(斉の孟嘗君、 趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)、
秦の呂不韋、

等々がいる。彼らの食客は俗に三千人と言われhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%AE%A2

招諸侯賓客、……食客數千人(孟嘗君傳)、

とあり(大言海)、食客は、

その土地に封土を有さないため、諸侯などの「館(『官』が原字)」に起居し、「官」の起源となった。また、生計を封土からの収穫ではなく、その特別な技術・才能からの報酬により立てたので、「論客」「剣客」「刺客」等の語源ともなる、

とある(仝上)。

天子は諸侯を賓礼によって遇し,賓客は礼遇すべきものと観念される。しかし春秋戦国の変動期以後,主家に寄食する〈食客〉がふえると,賓客に対する処遇にも格差が生じ,またその中に〈俠客〉の要素も加わって,やがて客や賓客が居候・とりまきの意味を帯びてくる。さらに主家に傭われて働く〈傭客〉,土地を失って豪族や地主の小作人となる〈田(佃)客〉や〈荘客〉,はては衣食を支給される代りに労働の成果をすべて主家に取られる〈衣食客〉まで現れる、

ともあり(世界大百科事典)、白井権八の「居候」との差がなくなる。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2021年02月06日

食う


「食う(ふ)」は、

喰う、

とも当てる(広辞苑)し、

齧う、

とも当て(岩波古語辞典)、

噛う、

とも当てる(大言海)。

食物を口に入れ、かんでのみこむ、

つまり、

たべる、

意である(広辞苑)。それをメタファに、

暮らしを立てる、

という意でも使う。

ものに歯を立てる、または飲みこむ意、類義語くはふは食ひ合ふの約で、上下の歯でしっかりものをはさみ支える意、

とあり(岩波古語辞典)、大言海が、「くふ」に、

噛ふ、

と当て、

噛むに同じ、

とするように、「噛む」とつながる。「かむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464032673.htmlで触れたように、

カム(醸)と同根。口中に入れたものを上下の歯で強く挟み砕く意。類義語クフは歯でものをしっかりくわえる意、

であり(岩波古語辞典),古くは、「醸す」を、

かむ(醸)、

といっていた(大言海)。そして、

カム(噛む)は上下の歯をつよく合わせることで,『噛み砕く』『噛み切る』『噛み締める』などという。カム(噛む)はカム(咬む)に転義して『かみつく。かじる』ことをいう。人畜に大いに咬みついて狂暴性を発揮したためオホカミ(大咬。狼)といってこれをおそれた。また,人に咬みつく毒蛇をカムムシ(咬む虫)と呼んで警戒した。カム(咬む)はハム(咬む)に転音した。(中略)カム(噛む)はカム(嚼む)に転義して食物を噛み砕くことをいう。米を嚼んで酒をつくったことからカム(醸む)の語がうまれた。(中略)カム(嚼む)はカム(食む)に転義した。(中略)カム(食む)は母交(母音交替)[au]をとげてクム・クフ(食ふ)に転音した、

と(日本語の語源)、

カム(噛む)

カム(嚼む)

カム(醸む)

カム(食む)

クム(食む)

クフ(食ふ)、

と、「カム(噛む)」から「カム(醸む)」を経て「クム・クフ(食ふ)」への転訛を、音韻変化から絵解きして見せる。そして、「かむ」は、

「動作そのものを言葉にした語」です。カッと口をあけて歯をあらわす。カ+ムが語源です、

と(日本語源広辞典)、擬態語説を採るものがある。あるいは、

カは,物をかむ時の擬声音(雅語音声考・国語溯原=大矢徹・音幻論=幸田露伴・江戸のかたきを長崎で=楳垣実),

ともあり(日本語源大辞典)、

かむ行為の擬態語,擬音語、

というのが、オノマトペの多い和語の由来としては、一番妥当に思える。だから、

「噛む」

「醸す」

「食う」

は、殆ど由来を重ねている。さらに、「食う」の意味では、上代、

はむ、

が使われていた。「はむ」は、

食む、
噬む、

と当て(岩波古語辞典)、

歯を活用す(大言海)、
「歯」を動詞化した語。歯をかみ合わせてしっかり物をくわえる意。転じて、物を口に入れれて飲み下す意。クフが口に加える意から、食べる意に転じた類(岩波古語辞典)、
歯の動詞化(日本語源広辞典)、

とあるように、「はむ」もまた「かむ」とつながっている。

「食う」は、

上代では口にくわえる意での用例が多く、「食」の意にはハムが用いられた、

とある(日本語源大辞典)。しかし、

平安時代には、和文脈にクフ、漢文脈にクラフが用いられ、待遇表現としてのタブ(のちにはタブルを経てタベル)も登場する。室町時代には、クラフが軽卑語、クフが平常語となり、タブルも丁寧語としての用法から平常語に近づいていった。江戸時代には、待遇表現としてのメシアガルなどが増加し、現在の用法とかなり近くなった。現在では、上位の者から下位の者が物をいただくの意から転じた「たべる」の方が上品な言い方とされる、

とある(仝上)。それは、「たまふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479566809.htmlで触れたように、「たまふ」には、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、

の意味に転じたので、

「たべる(たぶ)」はもともと謙譲・丁寧な言い方であった、

のが、敬意がしだいに失われ通常語となったものだからである。そのため、現代語では、食する意では「食う」がぞんざいで俗語的とされ、一般に「食べる」を用いる(デジタル大辞泉)。しかし、

泡を食う、
一杯食う、
犬も食わぬ、
同じ釜の飯を食う
霞を食う、
気に食わない、
すかを食う、
側杖を食う、
他人の飯を食う、
年を食う、
弾みを食う、
人を食う、
道草を食う、
無駄飯を食う、
割を食う、

等々、複合語・慣用句では「食う」が用いられ、「食べる」とは言い換えができない(仝上)。それだけ「食う」の方が、平常語として使われていたということである。

最後に、漢字に当たっておくと、「食」(①漢音ショク、呉音ジキ、②漢音シ、呉音ジ、③漢・呉音イ)は、

会意。「あつめて、ふたをするしるし+穀物を盛ったさま」をあわせたもの。容器に入れて手を加え、柔らかくして食べることを意味する、

とある(漢字源)。しかし、別に、

象形文字です。「食器に食べ物を盛り、それに蓋(ふた)をした象形」から「たべる」を意味する「食・飠・𩙿」という漢字が成り立ちました、

とするものもあるhttps://okjiten.jp/kanji346.html。甲骨文字から見ると、後者の方が正確のようだ。

甲骨文字 殷 食.png

(甲骨文字(殷)「食」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A3%9Fより)

「喰」は、和声漢字、

会意。「口+食」。食の別体として、「くう」という訓を表すために作られた、

とある(漢字源)。「齧(囓)」(漢音ゲツ、呉音ゲチ、慣用ケツ)は、「かむ」意で、

会意兼形声。上部は、竹や木(|)に刃物で傷(彡)をつけたさまを表す。この音(ケツ・ケイ)は、これに刀(刃物)をそえたもの。齧はそれを音符とし、歯を加えた字で、歯で噛んで切れ目をつけること、

とある(漢字源)。「噛」(漢音ゴウ、呉音ギョウ、慣用コウ)も、「かむ」意で、

会意。「口+歯」。咬(こう)とちかい。「齧」の字に当てることもある、

とある(仝上)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ラベル:食う
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2021年02月07日

食べる


食うとは、ものを食べるという意味。「食べる」と比べてやや下品な表現である、

とある(笑える国語辞典)ように、どちらかというと、今日「食う」は、余りいい表現とはみなされない。

「食う」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479896241.html?1612555520で触れたように、

平安時代には、和文脈にクフ、漢文脈にクラフが用いられ、待遇表現としてのタブ(のちにはタブルを経てタベル)も登場する。室町時代には、クラフが軽卑語、クフが平常語となり、タブルも丁寧語としての用法から平常語に近づいていった。江戸時代には、待遇表現としてのメシアガルなどが増加し、現在の用法とかなり近くなった。現在では、上位の者から下位の者が物をいただくの意から転じた「たべる」の方が上品な言い方とされる、

とあり(日本語源大辞典)、「たまふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479566809.htmlで触れたように、「たまふ」には、

タマフの受動形。のちにタブ(食)に転じる語、

である下二段動詞として、

(飲み物などを)いただく、

の意味に転じたので、

「たべる(たぶ)」はもともと謙譲・丁寧な言い方であった、

のが、敬意がしだいに失われ通常語となったものだからである。そのため、現代語では、食する意では「食う」がぞんざいで俗語的とされ、一般に「食べる」を用いる(デジタル大辞泉)に至ったためである。

賜 漢字.gif


「たまふ」と同義に、

たぶ(賜)、
たうぶ(賜)、

がある。「たぶ」は、

タマフの轉、

であり(岩波古語辞典)、「たうぶ」も、

「たまふ」あるいは「たぶ」の音変化で、主として平安時代に用いた、

とあり、「たぶ」も、

「たまふ」の訛ったもので、

tamafu→tamfu→tambu→tabu

という転訛と思われる(岩波古語辞典)。で、大言海は、「たうぶ」を、

たうぶ(賜) たぶ(賜、四段)の延、賜ふ意、
たうぶ(給) たぶ(給、四段)の延、他の動作に添えて云ふ語、
たうぶ(給) 上二段、仝上の意、
たうぶ(食) たぶ(食、下二段)の延、

と四項に分ける。それは、「たぶ」が、

たぶ(賜・給、自動四段) 君、親、又饗(あるじ)まうけする人より賜るに就きて、崇め云ふ語、音便にたうぶ、
たぶ(賜、他動四段) たまふに同じ、
たぶ(食、他動四段) 賜ぶの転、食ふ、

とある(仝上)のと対応する。もともと自動詞の「たぶ」自体に、

飲み食ふの敬語、

の用例があるので、その意味が、

謙譲語、

としての「食ぶ」の用法につながっていくとも見える。

下二段の活用の「たまふ(給)」と同じく、本来は「いただく」の意であるが、特に、「飲食物をいただく」場合に限定してもちいられる、

にいたる(日本語源大辞典)。

なお、「たぶ(賜・給、自動四段)」にある「饗(あるじ)まうけ」とは、「あるじ(主・主人)」は、

客人(まらうど)に対して云ふが元なり、饗応を、主設(あるじまうけ)と云ふ、

の意味である(大言海)。「たぶ」は、「たまふ」の、

たまふ(賜、他動四段) 授ける、与えるの敬語、
たまふ(給、自動四段) 他の動作の助詞に、敬語として言ひ添ふる、
たまふ(自動下ニ) 己れが動作の動詞に、敬語として言ひ添ふる語、

と対応している(大言海)

賜ぶ→食ぶ→食べる、

という転訛とは別に、音韻変化として、

カム(噛む)がカム(嚼む)を経てカム(食む)に転義し、(中略)「カ」が子交(子音交替)[kt]をとげて、「カム(食む)」はタム・タブ(食ぶ)に転音した。(中略)タベルはその口語形である、

とする説(日本語の語源)もある。ただ、同じ著者が、

タマフ(給ふ)のマフ[m(af)u]を縮約するときには、タム・タブ(給ぶ)になった、

としている(仝上)。これを受け入れるとするなら、やはり、「食べる」には、

お食べになる、

という尊敬語の含意と、

頂戴する、

という謙譲語の含意が、含まれているのではないか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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2021年02月08日

いただきます


「いただきます」は、

頂きます、
とか、
戴きます、

と当てたりする。食事を始める際の日本語の挨拶であるが、挨拶として広く慣習化されたのは恐らく昭和時代からであり、

箱膳で食していた時代には、「いただきます」は決して一般的とは言い難いものであった。ほとんどの家庭において食前に神仏へのお供えがあった一方で、食前の挨拶はないことが非常に多く、またあったとしても様々な挨拶の言葉が存在した。それがやがて必ず言うようなものとなり、その文句(「いただきます」に限らない)も統一されてきたのは、軍国主義化していった時代ごろからのしつけや教育によるものであると推測されている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99、柳田国男も「いただきます」が近頃普及したものだと言及している(1946年「毎日の言葉」)。

「いただきます」の「いただき」は、

動詞いただく(頂く・戴く)の連用形、

であり、「いただく」は、

本来は、頭上に載せる意の普通語であったが、上位者から物をもらう時、同様の動作をしたところから、中世以降、もらう意の謙譲用法が確立した。また、上位者からもらった物を飲食するところから、飲食する意の謙譲用法が生じ、さらに丁寧用法も派生した、

とあり(日本語源大辞典)、同趣旨ながら、

山や頭の一番高いところを「頂(いただき)」と言うように、本来は「いただく」は頭上に載せる意味を表した語である。中世以降、上位の者から物を貰う際に頭上に載せるような動作をしたことから、「いただく」に「もらう」という意味の謙譲用法が生じた。やがて、上位の者から貰った物や神仏に供えた物を飲食する際にも、頭上に載せるような動作をし食事をしたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ……た、

とある(語源由来辞典)。

頭にのせる(万葉集「母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴きて角髪(みづら)の中に合へ巻かまくも」)

大切なものとして崇め扱う(万葉集「家の子と選(えら)ひたまひて勅旨(おほみこと)いただきもちて」)

(よいものを)授かる(宇治拾遺「いよいよ悦びをいただきて、かく参りたるなり」)

高く捧げる(日葡辞書「サカヅキヲイタダク」)

(「もらふ」の謙譲語。暮れる人にへりくだって言う(虎明本狂言・鏡男「安堵の御教書をいただいて下った」)

「食う」「飲む」の謙譲語(狂言・猿座頭「さらば差さう。飲ましめ。いただきましょう」)

等々といった転化であろうか(広辞苑・岩波古語辞典)。

戴き餅(もちひ)、

という言葉があり、

今年正月三日まで、宮たちの御いただきもちひに、日日にまうのぼらせ給ふ(紫式部日記)、

と、

幼児の頭に餅をいただかせてその前途を祝う言葉を述べる儀式が、元日または正月の吉日に行われていた、

とあるので、文字通り、「頂」に戴いていた(岩波古語辞典)。中世になると、

位階が細かくなると、人と会えばどちらかが目上であるということになり、また、相手を目上と思って尊ぶことを礼儀とするようになってからは、「いただく」機会は激増し、この謙譲用法は確立されていった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99

「食う・飲む」の謙譲語としての「いただく」は、室町末以後に成立した狂言に使用例がみられる。したがって本来は、飲食物を与えてくれる人、または神に対しての感謝の念が込められていたと考えられる、

とある(仝上)。その意は広がり、

古本高価にていただきます、

と(広辞苑)、買い取る意の謙譲語でも、

今度の試合はいただいたも同然だ、

と、苦労もなく、手に入れる意でも、

小言をいただく、

と、しかられる意でも使う(デジタル大辞泉)。

ただ語源については、

難解なり、先輩の二三説あれど、採るべくもあらず、

としている(大言海)ように、はっきりしていない。岩波古語辞典は、

イタはイタリ(至)・イタシ(致)のイタと同根。極限・頂点の意。ダクは「綰(た)く」で、腕を使って仕事をする意。頭のてっぺんで両手であれこれする意、

とする。「だく」は、しかし、

腕をはたらかせて仕事をする意、

として、

たけばぬれたかねば長き妹が髪この頃見ぬに掻きれつらむか(万葉集)、

の「髪を掻き上げる」意であったり、

大船を荒海(あらみ)に漕(だ)ぎ出彌船(やふね)かけわが見し児らが目見(まみ)は著(しる)しも(万葉集)、

の「舟をこぐ」意や、

秋づけば 萩咲きにほふ岩瀬野に馬だきゆきて(万葉集)、

の「馬の手綱を取る」意等々で、どうも、両手を頭上にささげるような動作とはかけ離れている。大言海が、「たく」を、

手を活用せる語、

としているので、その意味ではなくもないが、「いただく」を「イタ」と「タク」に分けたところが、如何であろうか。

「難解」として大言海は、「強いて、試みに、予が牽強説を云はば」と断って、

イは発語、タダクは、手手上(たたあ)くの約、

と、(「我れながら失笑す」と)自嘲しつつ述べているが、むしろ、「いただく」の原義から見て、

頂くは、もとは物を頭に載せること。食べものを頂くとは、神や貴人の前で、改まった儀式の日に、神と人とが同じ物を食べるとき、食べ物を頭と額に押しいただいたことから、

とする(堀井令以知『決まり文句語源辞典』)のが素直ではあるまいか。

「頂き+く(動詞化)」です。「物を頭の上(頂き)に載せる」意の動詞(日本語源広辞典)、

イタダクは、もともと「頭に載せる」の意であったが、身分の高い人から物をもらうときに頭の上に捧げ待つ動作をしたところから、もらうこと、さらには飲食することをへりくだって表現する言い方になった(山口佳紀『暮らしのことば新語源辞典』)、

「いただき」は「頂き」で、いちばん上、てっぺんのことです。人間の場合は、「頂」は頭です。神様や目上の人から物をもらうときは、頭の上で受け取るのが礼儀です。これが「頂く」です(子どもとおとなのことば語源辞典)、

も同趣旨である。

戴.gif


因みに、「いただく」に当てる「戴」(タイ)は、

形声。異を除いた部分は、在(ザイ 切りとめる)の原字で、切り止めること。戴はそれに異を音符としてそえた字で、じっと頭の頂上に止めておくこと。異の古い音はタイの音をあらわすことができた、

とある(漢字源)。「戴冠」というように、頭の上に載せて置く意で、そこから「君主からありがたくもらう」意に転じている。まさに「いただく」にふさわしい字を当てている。

説文 頂.png

(説文解字(漢)小篆「頂」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%82より)

「頂」(漢音テイ、呉音チョウ)は、

会意兼形声。「頁(あたま)+音符丁(直線がてっぺんにつかえる、てっぺん)」。胴体が直線につかえる脳天、

とある(仝上)。別に、

会意形声。「頁」+音符「丁」。「丁」は上が平らになったくぎの象形であり、「釘」の原字。打ち付ける釘の最上部の部分、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%82。「てっぺん」の意だが、やはり、「頭上にのせる」という意味もある(漢字源)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月09日

マツタケ


「マツタケ」は、

松茸、

と当てるが、

松蕈、

とも当て、

マツダケ、

と訓ませた(大言海)。林逸節用集には、

松茸、マツダケ、

とある(仝上)。語源は、

松+茸、

赤松林に自生する、

ところから来た(日本語源広辞典)、と見ていい。

「きのこ」に当てる漢字は、

菌、
茸、
蕈、

がある(字源)。漢字では、

松菌、

で、

松蕈、

の意である。つまり「マツタケ」である。明代の、『本草集解(しゅうげ)』に、

松蕈生松陰、采無時、凡物松出、無不可愛者、

とある(字源)。「菌」(漢音キン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。囷(キン・コン)は、まるくまとまる、まるいの意を含む。菌はそれを音符とし、艸を加えた字、

であり、「きのこ」「たけ」の意(漢字源)。「茸」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、

会意。「艸+耳(柔らかい耳たぶ)」。柔らかい植物のこと、

とあり、柔らかい葉がふさふさと茂る意で、「きのこ」の意は、ない。「茸」に当てるのはわが国だけの用法である(仝上・字源)。「蕈」(漢音シム、呉音ジン)は、

会意。「艸+音符覃」

で、「きのこ」の意であり、「マツタケ」は、

松蕈、

と当てるのが正しいことになる。「覃」(漢音タン、呉音ドン)は、

会意。「襾(ざる)+高の逆形(下に深く下がったことを示す)」で、奥深くくぼんだざるのこと。下に深いことを示す、

とあり(漢字源)、「深い」という意である。まさに、

松蕈、

は、「マツタケ」である。

松茸.jpg


「タケ(茸)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461300903.htmlで触れたことだが、「タケ」は、

茸、
菌、
蕈、

と当て、「きのこ」の意であるが、「きのこ」にも、同じ字を当てる。「きのこ」は、

木の子、

で、「たけのこ(竹の子)」に対しての語(日本語源広辞典)とあるが、

「竹の子、芋の子もあり」

としている(大言海)ので、必ずしも対ではなさそうだ。木に寄生するために、そう名づけたものらしい。「くさびら」(クサヒラ)とも言うらしいが、古くは、

木茸(きのたけ)、
土茸(つちたけ)、

といったらしい。大言海は、「たけ(茸・菌・蕈)」の項で、

椎茸、榎茸の類は木ノタケと云ひ、
松茸、初茸の類を土タケと云ひ、
岩茸の類は岩タケと云ふ、

と区別している。和名抄は、

菌茸、菌有木菌木菌岩菌、皆多介、如人著笠者也、

とし、箋注和名抄は、

菌、太介、有數種、木菌土菌石菌云々、形似蓋者、

とし、本草和名は、

木菌、岐乃多介、地菌、都知多介、

としている(仝上)。「たけ」の訓みについて、

日本語のキノコの名称(標準和名)には、キノコを意味する接尾語「〜タケ」で終わる形が最も多い。この「〜タケ」は竹を表わす「タケ」とは異なる。竹の場合は「マ(真)+タケ(竹)」=「マダケ」のように連濁が起きることがあるが、キノコを表わす「タケ」は本来はけっして連濁しない。キノコ図鑑には「〜ダケ」で終わるキノコは一つもないことからもこれがわかる、

としているがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%82%B3、上記、

松茸、マツダケ(林逸節用集)、

の例があるので、「連濁」云々は、ちょっと当てにならない。しかし、「タケ(茸)」は、「タケ(竹)」とは異なることは確かである。たとえば、「竹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461199145.html?1611288809は、

タケ(丈)・タカ(高)と同源とする説は、アクセントを考えると成立困難である、

とされ、

タケ(丈)、
タカ(高)、

と語源をつなげることはできないが、たとえば、「たけ」(茸)は、異なり、

タケ(長)と同根。高く成るものの意(岩波古語辞典)、

とする説があり、「長け」を見ると、

タカ(高)の動詞化。高くなる意。フカ(深)・フケ(更)・アサ(浅)・アセ(褪)の類、

とある。この「長け」は、身の丈の「丈」とも通じる。「丈」については、

「ゆきたけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443380153.html
「たけなわ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456786254.html

で触れたことがあるが、「たけなわ」の「たけ」には、

タケ(長)の義、

タカキ(高)の義、

の二系統に分かれる。

長く(タク)は、高さがいっぱいになることの意で使います。時間的にいっぱいになる意のタケナワも、根元は同じではないかと思います。春がタケルも、同じです。わざ、技量などいっぱいになる意で、剣道にタケルなどともいいます、

というように(日本語源広辞典)、長さや高さという空間的な表現を時間に転用することは、十分考えられる。

ある行為・催事・季節などがもっともさかんに行われている時。また、それらしくなっている状態。やや盛りを過ぎて、衰えかけているさまにもいう。最中(さいちゅう)。もなか。まっさかり、

と(日本語源大辞典)、長さと高まりとが重なり合うイメージになっていく。

それと重なるのが、

タケル(長ける・時が過ぎ、開いたキノコ)のタケ、

とする(日本語源広辞典)説である。「タケ(茸)」は、

長け、丈であり、タケナワの「タケ」なのではないか、と思う。

春タケナワ、

の「タケ」にある、時間経過が過ぎると、カサが開くという意ではないか。

さて、「マツタケ」は、

キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節のキノコの一種、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%82%B1

秋にアカマツの単相林のほか針葉樹が優占種となっている混合林の地上に生える、

とあるが(仝上)、「マツタケ」の類似菌は、日本に四種あるという(たべもの語源辞典)。

マツタケモドキ、

は、

マツタケより小型で、往々ささくれ状をしている。秋にマツタケより少し遅れて赤松林に発生する。マツタケのような芳香はない。俗に、マツタケノオバサン、オバマツタケと呼ばれる(仝上)。

マツタケモドキ.jpg

(マツタケモドキ http://www.yamatabi.net/main/zukan/kinoko/kac0051.htmlより)

バカマツタケ、

は、

広葉樹林(主にコナラ属)に発生し、マツタケと同じく芳香がするが、少し小型である(仝上)。

バカマツタケ.jpg


ニセマツタケ、

は、椎やコナラなどの広葉樹林に発生する。マツタケより一ヶ月ほど早く発生する。芳香はなく肉は柔らかい、とある(仝上)。

ニセマツタケ (2).jpg


サマツ、

は、水ナラやコナラなどの広葉樹林に生えるhttp://www.sansai.blue/category2/entry26.html

サマツ.jpg


「マツタケ」は、万葉集にも、

高松のこの峯も狭(せ)に笠立ちてみちさかりたる秋の香のよさ、

と詠われるほど、古くから知られていた。

土の中から頭を出したカサと軸の違いがわからぬ太く短い棒のようなマツタケを、

コロ、

と呼ぶが、

初々しいが香りがない、

とある(たべもの語源辞典)。この後、カサがはっきりわかるようになり、この時が、

味が一番いい、

が、香りはまだ不十分。カサが開きかける時が、香りが一番高い、という。八分通り開いたときが香りが一番強いが、味は下り坂、とある(仝上)。この香は、一種のアルコールで、

マツタケオール、

異性体イソマツタケオール、

桂皮酸メチル、

の混合物とある(仝上)。

マツタケ.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年02月10日

テロ


一坂太郎『暗殺の幕末維新史―桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』を読む。

暗殺の幕末維新史.jpg


サブタイトルには、

桜田門外の変から大久保利通暗殺まで、

とあるが、実際は、

大津浜異人上陸事件、

というイギリス捕鯨船の着岸事件で、藤田東湖が、

夷虜を鏖(みなごろし)、

にしようとした矢先、乗組員は立ち去った後、ということから始め、

伊藤博文狙撃事件、

までを描く。その伊藤博文は、塙保己一の子、

塙次郎、

を、ただ廃帝調査を受けたとの噂だけで、殺害し、加藤一周という塙の友人も、巻き添えに殺害するのに与し、さらに、

宇野東桜(八郎)、

を、幕府のスパイという疑いだけで、長州藩邸に連れ込み、刀を取り上げ、なぶり殺しにした。伊藤の、

その手はずいぶん血で汚れていた、

が、

半世紀を経ても噂で他人の命を奪ったことを反省する気は、さらさらなかったらしい、

という。そして、

リーダー格だった(高杉)晋作の交遊録『観光録』末尾には「宇野八郎・塙二郎斬姦」と不気味なメモが残る、

という。その伊藤が、最期にテロに倒れる。

著者は、「おわりに」で、こう皮肉る。

幕末維新に活躍した「英雄」だの「偉人」だのと称賛される人物の多くは、暗殺や暗殺未遂事件に一度や二度は関与している。近代化の牽引者として私が高く評価する伊藤博文も、若いころは噂話で他人の命を簡単に奪ってしまった。しかも、終生反省していた気配が感じられない。やがて伊藤自身も暗殺されてしまうのだから、因縁めいたものを感じずにはいられない、

と。しかも、暗殺の多くは、闇討ち、不意打ち、背中から切りつけるという卑怯未練な手段が多い。ために、馬上で襲われた、

佐久間象山、

は、

武士たる者が後ろ疵を負うとは、この上もない不覚だとして松代藩から改易を申し渡される、

という理不尽な仕打ちを受ける。多くの逸材が殺されたが、この海舟の義弟に当たる、

佐久間象山、

と明治になって殺された、

横井小楠、

の二人をとりわけ惜しむ。二人とも開国論者であった。

東洋の道徳(儒教)、西洋の芸術(科学)、

と言う佐久間の考えは、二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った、有名な送別の詩、

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

と通底する考え方である。横井も、単なる噂だけで暗殺されたが、今日の、ツイッターなどで、誤解と悪意とで「殺される」のとどこか似ている。

維新期の吉田松陰もそうだが、思い込みの視野狭窄は、

天下は一人の天下なり、

と天皇に帰属させようとしたのに対し、山形太華が、

天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり、

と反論したように、理非の彼方にある。勿論、時代の突破力として視野狭窄が必要なことを弁えた上でも、維新遂行者は、殆どが、テロリストであった。西郷隆盛は、益満休之助らを使って、500人の浪人を集め、江戸市内を意図的に混乱させる工作をした。これも立派なテロである。大久保利通と岩倉具視には、孝明天皇暗殺の疑いすらある。僕は、言葉通り、維新の立役者たちは皆、

テロリスト、

であったと思っている。その政権が、松浦玲氏の言われるとおり、いかがわしくないわけがない。

著者は、「はじめに」で、

テロ(テロリズム)とは政治的目的を達成するために暴力や脅迫を用いることで、暗殺は特定の要人などを不意に襲って殺害すること、

と整理している。いずれにしても、殺人は殺人である。

暗殺を軸にすると、政権交代としての「明治維新」を正当化するため、靖国合祀や贈位(追贈)が便利なシステムとして利用されたこともわかる、

と著者は「はじめに」で述べている。後ろめたさよりは、自己正当化なのだろう。

参考文献;
一坂太郎『暗殺の幕末維新史―桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』(中公新書)

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2021年02月11日


「松」は、

枩、

とも書く(漢字源)。「松」(漢音ショウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。「木+音符公(つつぬけ)」。葉が細くて、葉の間が透けて通るまつ、

とある(仝上)。ついでながら、「公」(漢音コウ、呉音ク)は、

会意。「八印(開く)+口」で、入り口を開いて公開すること。個別に細分して隠さず大っぴらに筒抜けにして見せる意を含む、

とあり(仝上)、

「背私謂之公(私ニ背クヲ公ト謂フ)」(韓非子)とあるように、私(細かく分けて取り込む)と公とは反対の言葉、

ともある(仝上)。

松.jpg


和語「まつ」の語源は、

一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意、

と、

また一説に、葉が二股に分かれるところからマタ(股)の意、

とする二説がある(広辞苑)。後者については、

二葉一蔕をマタバ(股葉)とよんでいたのがマツバ(松葉)・マツ(松)になった(日本語の語源)、
葉が二股に分かれているところから、マタの転か(ニッポン語の散歩=石黒修)、

があるが、前者については、

常緑樹なので、長寿、慶賀を表す木とされてきました。日本人は人知を超える願いごとには、何事につけても、神の助けを求めました。地上にお降り下さった神の力で、願いごとの実現を祈りました。田植え、雨乞い、工事など、現代でも神に祈ります。さて、神の降りていらっしゃるところは、清浄な場所であり、そこに生えている木が、不思議に常緑の針葉樹でしたので、その木を「神を待つ木」と呼んだのです。正常な砂浜などに、天人、天女の伝説などが、各地に残り、松原、松の木、松並木などがあり、しめ縄がはられています(日本語源広辞典)、
神を待つ意(ニッポン語の散歩=石黒修)、

とする説のほか、「待つ」と絡めて、

行く末を待つ意(円珠庵雑記)、
後の葉の生ずるのを待って前の葉が落ちるところから、待つの義(九桂草堂随筆)、
万年の齢をもち、常盤の色を堅固に保つところから、マツの義(柴門和語類集)、

等々もある。さらに、

「神を祀る木」ということから、「まつる木」から 「まつ」になった、

とする説https://mobility-8074.at.webry.info/201703/article_6.htmlも、

常緑であるところからマトノキ(真常木)の義、

とする説(円珠庵雑記)も、類種である。

確かに、常に葉の色を変えないことを、

常に変わらぬ磐に見立てて、

常磐(とこいわ)、

転じて、

常盤(ときわ)、

といい(広辞苑・大言海)、「松」は、杉とともに、

常盤(ときわ)木、

といわれる、

樹齢の長い常緑樹であり、古くから不変、長寿の象徴として神聖視され、一夜松、逆さ松、腰掛け松、天狗松、衣掛け松など各地に松の伝説が多いのは、松に神霊を迎えた民間信仰に基づくものである、

とあり(日本昔話事典)、

東アジア圏では、冬でも青々とした葉を付ける松は不老長寿の象徴とされ、同じく冬でも青い竹、冬に花を咲かせる梅と合わせて中国では「歳寒三友」、日本では「松竹梅」と呼ばれおめでたい樹とされる。また、魔除けや神が降りてくる樹としても珍重、

されhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84、たとえば、奈良・春日大社の、

影向(ようごう)の松、

で(春日の老松は枯死し後継樹が植えられている)、

影向とは、神仏が一時的に姿を現すこと、

とされhttp://www.cerasasiki.jp/bunkasi-matsu.pdf

春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓抄によると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描かれている老松の絵のルーツとされている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E5%90%91%E3%81%AE%E6%9D%BE_(%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE)

影向のマツ.jpg


また「門松」には、「年神」で触れたようにhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/479304962.html、かつて、

木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、年神を家に迎え入れるための依り代、

としての意味が強い。こう考えると、「待つ」に傾きたくなるが、「待つ」説は、意外と少数派なのである。

他の一つは、常緑樹の「松」から、「保つ」と絡めた説、

松の緑が長く「保つ」の、マツ→モツの音韻変化(日本語源広辞典)、
久しくよわい(齢)を保つところから、タモツの略転(日本釈名)、
久しきを保つところから、モツの義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

等々もあるし、

葉がまつげに似ているから(和句解)、
葉が幹にまつわりつくから(古今要覧稿)、
マはマコトの声母、ツはツヅマルの義(日本声母伝)、

等々もあるが、「松」の神聖視からみると、「依代」とする説に傾くが、これは、後の民間伝承から意味づけられたのかもしれない。しかし、そもそも「松」信仰そのものも、中国由来で、古代中国では、

社稷の社に土地の神と穀物の神を祀りましたが、その場に植える木としてはマツが第一のものとされていました。それ以前から松柏(マツとカシワ)は百木の長とされていたのです。それが伝わってきて、日本の神信仰にも影響をあたえたといわれています、

とあるhttp://www.cerasasiki.jp/bunkasi-matsu.pdf。「依代」の「待つ」とは限らないが、「まつ」が、信仰とつながっていること自体は確かのようである。

ところで、「松」は、

五大夫(ごたいふ)、

とも言うが、これは「史記」秦始皇本紀に、

始皇東行郡県……上泰山、立石封祠祀、下風雨暴至、休於樹下、因封其樹、為五大夫、

とあり、雨宿りした松の木に五大夫の位を授けたという故事からきている(精選版日本国語大辞典)。このため、「大夫」を、

松の位、

といい、「大夫」を、日本では、

太夫(たゆう)、

とも表記したため、これが、遊女の最高位、

太夫(たゆう)、

を指すようになったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84。因みに、慶事・吉祥のシンボル、

松竹梅、

も、中国由来で、

歳寒三友、

が伝わったもの。「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」は、

宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつであり、具体的には松・竹・梅の三つをさす。三つ一緒に描かれることも多いが、単体でも好んで描かれる。日本では「松竹梅(しょうちくばい)」と呼ばれる。
松と竹は寒中にも色褪せず、また梅は寒中に花開く。これらは「清廉潔白・節操」という、文人の理想を表現したものと認識された。日本に伝わったのは平安時代であり、江戸時代以降に民間でも流行するが、「松竹梅」といえば「目出度い」ことの象徴と考えられており、本来の、中国の認識とは大きく異なっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%AF%92%E4%B8%89%E5%8F%8Bとすると、古くある「松」への信仰とが絡み合って、「松竹梅」を縁起物と見做したのかもしれない。

松竹梅が吉兆の象徴とされるようになったのは、松が常緑で不老長寿に繋がるとして平安時代から、竹は室町時代から、冬に花を咲かせる梅は江戸時代から、

とある(語源由来辞典)。

『歳寒三友図』.jpg

(趙孟堅『歳寒三友図』(13世紀) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%AF%92%E4%B8%89%E5%8F%8Bより)

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:
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2021年02月12日

たそがれ


「たそがれ」は、

黄昏、

と当てるが、

黄昏時の略、

とある(岩波古語辞典)。

弓張月、

を、

ゆみはり、

と略すのと同列、とある(大言海)。

黄昏時の神戸港.jpg

(黄昏時の神戸港 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%98%8Fより)

「黄昏」(コウコン)は。漢語である。淮南子に、

日至于處淵、是曰黄昏、

とある(字源)。「黄」(漢音コウ、呉音オウ)は、

象形。火矢の形を描いたもの。上は、「廿+火」(=光)の略体。下は、中央にふくらみのある矢の形で、油をしみこませ、火をつけて飛ばす火矢。火矢の黄色い光をあらわす、

とあり(漢字源)、五色(青・黄・赤・白・黒)の一つで、

五方では中央(青:東、赤:南、黄:中央、白:西、黒:北)、五行(青:木、赤:火、黄:土、白:金、黒:水)では土の色に当たる。地上の支配者、皇帝の色。高貴な色とされる、

とある(仝上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%B9%E8%89%B2)。

「昏」(コン)は、

会意兼形声。民は、目を↑型の針でつぶしたさまを示し、目が見えずくらい意を含む。昏は、もと「日+音符民(ミン)」。物が見えないくらい夜のこと。のち、唐の太宗李世民が、自分の名の民を含んでいるために、その字体を「氏+日」に変えさせた、

とある(漢字源)。

和語「たそがれ」は、古くは、

たそかれ、

と清音であった。

薄暗くなって、人の顔が見分けにくい時分、

のことで、

「誰(た)そ、彼は」といぶかる頃の意、

とある(岩波古語辞典)。

元来、

誰彼(たそかれ)と我な問ひそ九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つ我を(柿本朝臣人麻呂歌集)、

というように、

アレハダレカ、

と尋ねる言葉であったものから、薄暗くて人の顔の見分けがつかない時分をさす、

たそがれどき、

という語が生じ、

さらに、その、

とき、

が省略された形であると考えられる、とある(日本語源大辞典)。今日の意の「たそがれ」で使われたのは、

光ありと見し夕顔の白露はたそがれ時のそらめなりけり(夕顔)、
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見ゆる花の夕顔(仝上)、

と、源氏物語にみられる。

「たそ」は、「逢魔が時」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.htmlで触れたことだが、

誰ぞ、

と当て、

タは代名詞、ソは、指定する意の助詞、

とあり、

たそかれと問はば答むすべを無み君が使いを帰しつるかも(万葉集)、

といった使い方をしていた。それが、

誰そ彼→たそかれどき→たそがれ、

と、比喩としてではなく、普通名詞と変じていった、とみられる。

「たそがれ」の対になるのが、暁に言う、

かはたれどき、

である。奈良時代までは、

カハタレトキ、

と清音であった。

彼は誰れの義、

である(大言海)。

暁(あかとき)の加波多例等枳に島蔭(しまかぎ)を漕ぎにし船のたづき知らずも(万葉集)、

とあり、

薄暗くて、人の顔もおぼろにしか見えず、あれは誰と見とがめるような時刻の意、

である(岩波古語辞典)。

「あかつき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.htmlで触れたように、古代の夜の時間は、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分し、「昼」は、

アサ→ヒル→ユウ、

と区分した。「たそかれ」は、

ユウ、

に、「かはたれ」は、

アカツキ、

に当たることになる。

逢魔が時.jpg

(鳥山石燕「逢魔時」 『今昔画図続百鬼』より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月13日

おやじ


「おやじ」は、

親父、
親爺、
親仁、

等々と当て(広辞苑)、

老爺、

とも当てる、とある(日本語源広辞典)。

自分の父親を、他人に対して称する語、

である(大言海・広辞苑)。旧仮名では、

おやぢ、

である。「おやじ」は、

親父、

から、

おやちちの転、

とされる(広辞苑・日本語源広辞典・大言海・和訓栞)。

江戸期以後の言葉、

とある(仝上)。旧仮名から見れば、

おやぢ、

で、「父」を、古くは、

ち、

と言っていたので、

おやちちの転、

とするまでもない(語源由来辞典)のだが、

男親を「ちち」と呼ぶようになって以降の言葉なので、「おやちち」の転、

とする(仝上)。ただ、「ち」に、

父、

と当てるのは、古く、古事記にも、

甘(うま)らに聞こし以ち食(を)せまろが父(ち)(古事記)

とあり、この場合、「ち」は、父親の意だけではなく、

男性である祖先・親・親方などに対する親愛の称、

で(広辞苑)、

チチ、オヂのチ、祖先、男親の意、

として使われた(岩波古語辞典)。で、

おほぢ(祖父)、
おぢ(「おぼぢ」の転)、
おぢ(小父)

のように他の語の下に付く場合は連濁のため「ぢ」となることがある(デジタル大辞泉)。いずれにしても、

もとは「ち」に父の意があったことは(上記の古事記から)わかる。「ち」はまた「おほぢ」(祖父)「をぢ」(叔父、伯父)の語基である、

とある(日本語源大辞典)ように、「ち」を父親の意味でも使っていたことに変わりはない。では、いつごろから、「ちち」と使っていたのかというと、

労(いた)はしければ玉鉾(たまほこ)の道の隈廻(くまみ)に草手折(たお)り柴(しば)取り敷きて床(とこ)じものうち臥(こ)い伏して思ひつつ嘆き伏せらく国にあらば父(ちち)取り見まし家にあらば母(はは)取り見まし……

と万葉集にある。「ち」も「ちち」も、ほぼ同時期に使われていたと思われる。ただ、

歴史的には、チ・チチ・テテ・トトの順で現われる、

とある(日本語源大辞典)ので、「ち」が先行していたようであるが、

常に重ねてちちと云ふ、

ともあり(大言海)、

母(おも)、母(はは)との対、

とあるところを見ると、

ちち、

はは、

は対である。とすると、やはり、「おやぢ」は、

おやちちの転、

と見ていいのかもしれない。ただ「おやぢ」と転訛したのは江戸期としても、「おやちち」は、かなり古いのではないか、という気がする。

で、「ち」あるいは「ちち」の語源だが、

霊(ち)を重ねて云ふ語、

とする(大言海)説がある。

威力ある神霊を称える語チ(靈)を重ねたもの(日鮮同祖論=金沢庄三郎)、

も同趣旨である。大言海は、

持ちの約、

とする。「持ち」とは、

神の御名に云ふ語。其の物を保ち知(しろ)しめす義。転じては貴(ムチ)と云ひ、約めては、チと云ひ、又転じて、ミ、ビとも云ふ、則ち大名持(ノ)神、保食(ウケモチノ)神、天御食(ミケノ)神、大日孁貴(オオヒルメノムチ)、野津霊(ノヅチ)など、

とする。ただ岩波古語辞典は、「貴(ムチ)」は、

神や人を尊び親しんで言う語、

であるが、

ムツの転と見られ、ムツには、皇睦神魯支(すめむつかむろぎ)など「睦」の字が当てられているから、ムチは単に尊貴の対象ではなく、親しく睦まじい対象を言ったものと思われる、

とある。もし、この意味だとしても、

ムツ→ムチ→チ→チチ、

の転訛があるなら、「ちち」の由来に当てはめられなくもない。まして、祖先をも「チチ」が指しているのなら、なおさらな気がする。「ちち」の由来としては、その他、

中国北魏の漢語、達達tata tiatiaが、音韻変化で、titiとなった(藤堂明保)、
乳を分けて子の血とした人であるところから。また父を見ると畏れて縮むところから(本朝辞源=宇田甘冥)、
チチ(千血)の義(柴門和語類集)、
チチ(血道)の義(言元梯)、
チは男子の尊称(古事記伝)、

等々あるが、こんな基本語を中国由来とする必要もないのではあるまいか。どうも、

ムツ→ムチ→チ→チチ、

モチ→ムチ→チ→チチ、

の、何れかなのではあるまいか。

「父親」を言う語には、中古以後に、

てて、

が見られるが、

てて、ちちの俗語也(和訓栞)、

とある(日本語源大辞典)。中世末期の日葡辞書には、

toto(とと)、

が見られるが、「とと」は、

ちちの転訛、

だが、幼児語である(日葡辞書・大言海・広辞苑・物類称呼他)。しかし、この「とと」の語形は、これにさまざまな接辞のついた語形が近世になってあらわれ(仝上)、

ととさん(上方語)、
ととさま(仝上)、
おとっちゃん(江戸語)、
おとっつぁん(仝上)、
おととさん(仝上)、
とうさん(仝上)、
おとうさん(仝上)、

等々。ちなみに、

ちゃん、

は、

おとっちゃんの略語、
とも、
ちちの転訛、

ともみられる(仝上)。「おとうさん」は、どうやら、

1903年(明治36年)に尋常小学校の教科書に採用されてから急速に広まった。それ以前は「おとっつぁん」が多かった(武士の階級では「父上」)、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93、標準語を強制したように、上から指示されたもののようである。ただ、江戸期の、「おとっつぁさん」は、

御父様、

と当てるが、

おととさまの転訛、

であり(江戸語大辞典)、「おととさま」(御父様)は、多く武家用語で、中流以上の商家でも用いる、

おととさん、

を丁寧に言う称で、

おかかさま(御母様)の対、

となり、やはり武家、富商でもいった(仝上)、とある。どうやら、本来幼児語の、

とと、

が、

おとうさん、

にまで格上げされ、「おとっつぁん」より上とされるのは、何だか、嗤える。

ところで、チの重複形は、チチだが、これは、

チチの有声化(濁音化)がヂヂ(爺)で、ハハ(母)―ババ(婆)と対をなす、

とある(日本語源大辞典)。

甲骨文字 父.png

(甲骨文字(殷) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%B6より)

なお「父」(漢音フ、呉音ブ、慣習ホ)は、

会意。父は「おの+又(手)」で、手に斧を持って打つ姿を示す。斧(フ)の原字。もと拍(うつ)と同系。成人した男性を示すのに、夫という字をもちいたが、のち父の字を男の意に当てて、細分して「父」は「ちち」、夫は「おとこ、おっと」をあらわすようになった、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月14日

おふくろ


「おふくろ」は、

御袋、

とあてる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。

母親を親しんで呼ぶ語、

である。由来は、諸説あり、

昔は、金銭、衣類、器什、すべて袋に入れたり、外出にも、従者に持たする物、皆袋に入る、母は家政を取り、袋の出し入れの締めくくりをすれば、時世の詞にて称したるなり(大言海)、
かやうに家の御袋とならむ人は、物の締めくくりをよくしはべる故に、家の内の人、お袋様と申しはべる也(俗語考)、
今は借り盡し貰ひ盡して、お袋の袋の内も空しくなりにけり(負博奕)、

と、「袋」に絡める説が多い。一理あるとは思うが、理屈ばっているのが気になる。他にも、

袋の中の物を探りとるような安産を祝って名づけられたるものか(嬉遊笑覧)、
家計の袋(日本語源広辞典)、
オ+袋、ふくれるものが袋の語源ですから、家の繁栄のために子袋に子宝を宿して身を膨らませて産んでくださった御方の意(日本語源広辞典)、

等々「袋」由来とする説は多い。その他に「ふところ」と絡めて、

オ(御)フトコロの義(貞丈雑記)、
母は子供をふところに包み懐くところから(日本語源=賀茂百樹)、

というのもある。しかし、

「観智院本名義抄」に、「胞 胎衣也、はらむ フクロ」とあり、フクロが子宮、胞衣を指す例が見える、

とあり(日本語源大辞典)、

母の胎内で胞衣をかぶり包まれ、あたかも袋に入れた状態であるところから(後宮名目抄)、
フクロが子宮を指すところから(江戸東京語=杉本つとむ)、

という説は捨てがたい。前出の、

袋の中の物を探りとるような安産を祝って名づけられたるものか(嬉遊笑覧)、
オ+袋、ふくれるものが袋の語源ですから、家の繁栄のために子袋に子宝を宿して身を膨らませて産んでくださった御方の意(日本語源広辞典)、

とする説も、「胞衣」絡めると見え方が変わる。

室町末期の日葡辞書には、

Fucuro(ふくろ)、

の項で、

普通はヲフクロと言い、これは女性たちの間でもまた他の人々(男性)の間でももちいる、

とあるので、「胞衣」説が妥当とする(日本語源大辞典)が、「袋」とも「胞衣」とも決めがたい。

「おふくろ」は、敬称の意で、たとえば、

本日室町殿姫君御誕生也、御袋は大館兵庫頭妹也(享徳四年(1455)「康富記」)

というように、

高貴な対象にも使用したが、徐々に待遇価値が下がり、近世後期江戸語では、中流以下による自他の母親の称となった、

とあり(日本語源大辞典・江戸語大辞典)、

おやじの対、

として(江戸語大辞典)、

おやじよりやァおふくろがやかましくって成りやせん(安永四年(1775)「甲駅新話」)、

と使われるに至る。

母親の意では、他に、

かか、

という呼び方がある。これは、

ととの対、

で、

小児語、母を親しんで言う語、

であり(岩波古語辞典)、

可愛しの首肯を重ねたる小児語、

とあり(大言海)、「可愛(かはゆ)し」が、

愍然の意より可愛いの意に移せるは、室町時代なり、

とする(仝上)。「かか」は、

母、
嚊、
嬶、

と当てる。「かか」の転訛で、

かかあ、
おっかあ、
おっかさん、
おっかちゃん、

ともいうが、

自分の妻に対しても使う(仝上)のは、

子が母をカカと呼ぶを父が、口真似して云ひしより移れる、

とある(大言海)のは、妻が「おとうさん」と夫を呼ぶのに類似している。

「かか」は、「とと」が、「おやじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480008165.html?1613160043で触れたように、武家や中流以上の商家で、

おととさん、
おととさま、

といったように、

おかかさん、
おかかさま、

といい、

御母様、

と当てる(江戸語大辞典)。庶民では、

おとっつぁん、
おっかさん、

の対になる。今日の「おかあさん」は、「かか」とつながり、

元来は小児語、

で、

おかかさんの転訛、

とある(江戸語大辞典)。

おとっつぁんの対、

になる。「おかあさん」は、

江戸時代に上方の中流階級以上の家庭の子女で使われ始め、明治36年(1903年)に尋常小学校の国定教科書に採用され急速に広まった。それ以前の江戸・東京では「おっかさん」が多かった、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AF%8D%E3%81%95%E3%82%93・広辞苑)、「おとうさん」の普及の仕方と同一である。

ところで、「かか」を幼児語とみるのは、「とと」との関連で妥当に見えるが、

幼児語カカは疑問、

とする異説があり(日本語源広辞典)、「おかあさん」も、

御方(おかた)+様、

とし、「おっかさん」は、

大方様が語源、

であり、

カカサマ、カアチャン、カアサン、キカア、カカ、オカカは、方様が、

とする(仝上)。

オカタの小児語(綜合日本釈名民俗語彙)、

はそれだし、

カミ(上)のカを重ねた語(懐橘談)、

も似た発想になる(日本語源大辞典)。これについては、

カミサマのカを重ねた語とする説は、近世初期の儒者・黒沢石斎が「懐橘談」で唱えたのが古いが、その後、江戸中期の伊勢貞丈の「安斎随筆」で否定されてからはほとんど顧みられなかった。しかし、近年になって、カミサマ出自の女房詞カモジの存在などから、カミサマとカカの関係を見直す考えもある、

と説いている(日本語源大辞典)。しかし、「とと」と「かか」は対なのではないか、と思うので、「かか」のみ「カミ」「カタ」とつなげるのはどうなのだろう。

夢にうなされる子どもと母.jpg

(喜多川歌麿「夢にうなされる子どもと母」 https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=23_24&products_id=407より)

なお「はは」については、項を改める。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年02月15日

はは


「はは」は、

母、

と当てる。ただ、上代、「母」を、

オモ、

とも訓ませた(岩波古語辞典)。

「母」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム・モ)は、

象形。乳首をつけた女性を描いたもので、子を産み育てる意味を含む、

とある(漢字源)。

甲骨 殷 母.png

(甲骨文字(殷)「母」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8Dより)

母の字の成り立ち.jpg

(女の人がひざまずき乳房を出している姿から「母」へ(書道家 八戸 香太郎氏) http://blog2.kotarohatch.com/?eid=1380984より)

「はは」の意味の漢字には、

「嬢(孃)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)、

があり、

会意兼形声。「女+音符襄(ジョウ 中にこもる、ふんわりとして柔らかい)」で、からだつきの柔らかい女性のこと、はは・むすめの両義に用いる、

とあり(仝上)、

爺嬢(やじょう)、

というと、「ちちはは」の意になる。

妣(ヒ)、

は、

会意兼形声。「女+音符比(ならぶ)」。父と並ぶ人という意味であろう、

とあり(仝上)、死んだ父に対して、

死んだ母の意、

で、

生前には母といい、死後は妣という、

とある(仝上)。

媽(漢音ボ、呉音モ)、

は、

形声。「女+音符馬」。父をパといい母をモまたはマというのは上古の漢語以来の古い称呼である。媽は、俗語の中に保存されたもの、

で、

かあちゃん、

の意(仝上)。

嫗(ウ、慣用オウ)、

は、

会意兼形声。「女+音符區(ク ちいさくかがむ)」。背中の屈んだ老婆、

で、「老いた母」を意味する。

さて、和語「はは」は、

奈良時代はファファ、平安時代にはファワと発音されるようになった。院政期の写本である「元永本古今集」には「はわ」と書いた例がある(広辞苑)、
ファファが平安、中世の発音(日本語源広辞典)、
平安時代以後ハワと発音が変化したが、ロドリゲス大文典などによると、室町時代はハハとする発音もあった(岩波古語辞典)、

等々とあり、「母」を、

はは、

と訓むのは後のことのようである。

は行子音は、語頭では、p→Φ→h、語中ではp→Φ→wと音韻変化したとされる(Φは両唇摩擦音。Fとも書く)。これに従えば、「はは」は、papa→ΦaΦa→Φawa→hawaとなったはずで、実際、ハワの形が中世に広く行われたらしい。仮名では「はは」と書かれたものの読み方がハハなのかハワなのかは確かめようがないが、すでに12世紀の初頭から「はわ」と書かれた例が散見されるから、川のことを「かは」と書いてカワと訓むごとく、「はは」と書いてハワと読むことも少なくなかったと考えられる。キリシタン資料を見ると、「日葡辞書」では「Fafa」と「faua」の両形が見出しにあるが、「天草本平家」などにおける実際の用例ではハワの方が圧倒的に多い、

とある(日本語源大辞典)。したがって、「はは」は、「母」と表記しても、

ファファ(奈良時代)→ファワ(平安時代)→ハハ(「ハハ」と表記してハワと読む。室町時代)→ハハ(江戸時代以降、ハハ)、

と読んでいったという経緯になる。なお、国際音声記号で、

[ɸ]は無声両唇摩擦音を、[ø]は円唇前舌半狭母音を表す、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%CE%A。無声両唇摩擦音(むせいりょうしんまさつおん)は、

子音のひとつである。両唇で調音される摩擦音で、ロウソクの火を吹いて消したり、粥を吹いて冷ます時に発生する音、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%A3%B0%E4%B8%A1%E5%94%87%E6%91%A9%E6%93%A6%E9%9F%B3

現代日本語では、ファ行全段とハ行の「フ」をこの音で発音する。これらの文字の子音はローマ字表記においてFで転写されることが主流であるが、多くの日本語話者は外国語などの無声唇歯摩擦音([f])もこの音で発音してしまうことがある。(中略)日本語の歴史上では、平安中期から江戸初期までは、ハ行の全段をこの音で発音していたが、ハ行転呼の現象により両唇接近音[β](下唇と上唇が接近することで作られた隙間から生じる音)、すなわちワ行の音に変化した、

とある(仝上)。「こんにちは」を、「こんにちわ」と発音するのがそれだろう。その意味で、和名抄に、

母、波波、

字鏡に、

母、波波、

は、「はは」と訓ませたとは限らないことになる。

おもしろいことに、どの呼び方にせよ、「おやじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480008165.html?1613160043、「おふくろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480023558.html?1613246072で触れた「かか」「とと」と同じように、「はは」も、

乳首を求める乳児の甘え声が語源(日本語源広辞典)、
愛(は)しの首言の身を重ねて云へるにて、小児語に起これるならむ(大言海)、
子供が発音しやすく偶然発した音声ファアから(国語溯原=大矢徹)、

等々、幼児語由来とする説がある(日本語源大辞典)。

室町末期(17世紀初頭)までは、「母」は、「ハワ」が優勢だったが、それが、表記、発音とも「ハワ」が滅び、「ハハ」になっていったのだが、その理由として、

①他の親族名称、チチ・ヂヂ・ババ……は、二音節語、同音反復、清濁のペアをなす、といった特徴があるから、ババから期待される形はハハと類推されるから、
②江戸時代には、口頭語で母を……、カカ(サマ)・オッカサンなどが次第に一般的となり、「はは」は子供がちいさいとき耳で覚える語ではなく、大人になって習得する語になっていった、
③江戸時代でも、仮名表記する際には「はは」が一般的であり、この表記の影響による、

等々があるとする(仝上)。表記と読みが違うのは、

てふてふ、

を、「ちょうちょう」と読ませることなど多々ある。「ちち」「はは」と連呼したとき、「チチ」「ハワ」は、言いにくいということが大きいのではあるまいか。

こうみると、「はは」の語源は、

子をハラム(孕)ところから(本朝辞源=宇田甘冥・日本語源=賀茂百樹)、
ハゴクムの義(仙覚抄)、
ハはヒラフシ(日足)の転ヒタラサの約(和訓集説)、
ハラ(腹)の義(言元梯)、
胞衣の意のフフム(含)から(名語記)、
母の意の古語イロハのハを重ねたもの(国語蟹心鈔)、

はいずれも、語呂合わせに近い。ただ、「いろは」との関連については、

母をイロハと云ふときは、ハの一音に云へり(大言海)、

というのもあり気になるが、「母」の意の「いろは」は、名義抄にも、

母、イロハ、俗云、ハハ、

とあり、

イロは、本来同母、同腹を指す語であったが、後に単に母の意と見られて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう、

とあり(岩波古語辞典)、

伊呂(イロ)兄(え)、
伊呂兄(せ)、
伊呂姉(せ)、
伊呂弟(ど)、

等々、同腹の兄弟姉妹を云ひし(大言海)とある。どうやら、由来が先後逆である。

「はは」と同義の「おも」については、項を改める。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:はは
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2021年02月16日

おも


「母」は、古代、

おも、

と訓ませ、万葉集に、

わが門の五本柳(いつもとやなぎ)いつもいつも母(おも)が恋ひすす業(なり)ましつしも(矢作部真長)、

とあり、

はは、

の意であったが、同じく万葉集に、

緑児のためにこそは乳母(おも)は求むといへ乳(ち)飲めや君が乳母(おも)求むらむ(作者未詳)、

とあるように、

乳母(うば)、

の意でもあった(広辞苑)。

上代語であり、中古以降は「おもとじ」など複合語の構成要素にのみみられる。東国では、「おも」「おもちち」とともに「あも」「あもしし」「あもとじ」の形が見える、

とある(日本語源大辞典)。因みに、「おもとじ」は、

母刀自、

と当て、

ははとじ、

ともいい、「とじ」は、

トヌシ(戸主)の約、主婦の意、

とある(岩波古語辞典)。

「おも」から想定するのは、朝鮮語、

オモニ(어머니)、

である。「おも」は、

ömö、

「オモニ」は、

ömi、

である(仝上)。

朝鮮語と通じる(東雅・古事記伝・和訓栞)、

とする説は長く主張されてきたが、「おも」は、

東国語形が古形とすれば、アモの母音交替したもの、

ではないか、とされている(日本語源大辞典)。沖縄では、

あんまあ、

という、とある(大言海)。「なゐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478967716.htmlで触れたことと重なるが、

周圏分布、

と見られなくもない。「周圏分布」とは、『蝸牛考』で柳田國男が提示した仮説で、

相離れた辺境地域に「古語」が残っている現象を説明するための原則で、文化的中心地において新語が生れると、それまで使われていた単語は周辺へ押しやられる。これが繰返されると、池に石を投げ入れたときにできる波紋のように、周辺から順に古い形が並んだ分布を示す、

とするものである(ブリタニカ国際大百科事典)。柳田國男は、

蝸牛を表わす語が、時期を違えて次々と京都付近で生まれ、各々が同心円状に外側に広がっていったという過程である。逆からみると、最も外側に分布する語が最古層を形成し、内側にゆくにしたがって新しい層となり、京都にいたって最新層に出会う。地層を観察すればかつての地質活動を推定できるのと同様に、方言分布を観察すればかつての言語項目の拡散の仕方を推定できる、

としたものであるhttp://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2012-03-07-1.html

つまり、古形が、東北に残っている、ということである。この説が比較的受け入れやすい。ただ、その由来を辿ると、やはり朝鮮語「おもに」と無縁とは思えない。

『大言海』は、「はは」と同様に、

オモと云ひ、アモと云ひ、共に、形容詞うまし(旨)、あまし(甘)の語根にて、……乳の味に就きて云ふ語なり、

と「あまし」「うまし」にこだわっているが、

乳を、ウマウマと云ひ、さらに約めて、乳母を、ママと云ふ、母は百済語にも、オモ、今の朝鮮語オマニ、沖縄にてアクマア、翻訳名義集、梵語「阿摩、此云女母」、

との説明は説得力がある。和訓栞も、

梵語の阿摩で、乳母の意、

としているが、幼児語由来は、「かか」「はは」と通じるものがあり、

擬声語で、嬰児の最初の発音ウマはオモとも聞こえ、これをとって、その欲求するもの、すなわち母および乳の名としたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

も同じ発想である。

母(Mo)に、親愛の接頭語、阿(o)を添えたもの(日本語原考=与謝野寛)、
母のオン(恩)はオモ(重)いということから(円珠庵雑記)、

等々の説は考え過ぎではあるまいか。

ところで、

母屋、

と当てる「おもや」は、

母家、
主家、

とも当て、

もや、

ともいうが、

寝殿造りなどの建物の紂王の部分、

で、

庇、廊、

などに対して言う、とある(日本語源大辞典)。この「母」とあてる「おも」を、「母」の複合語と思ったが、「母屋」は、

もともと「もや」と読み、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E5%B1%8B、漢字「母屋」を訓んだだけの、別由来である。

蝉取りの子と母.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:おも
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2021年02月17日

会津降人


星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』を読む。

会津落城.jpg


会津人は、

会津降人(こうじん)、

という国賊、犯罪者のレッテルをはられ、明治期、苦難の道を歩むことになる(「はじめに」)。しかし、著者はいう。

「この戦いを詳細に検証すると、いくつもの疑問点が浮かんでくる。……なぜここまで戦う必要があったのか」

と(仝上)。

現に、16歳で越後に出兵した少年兵遠藤平太は、重傷を負った父を敵襲を受けた野戦病院からかろうじて救い出し、母の実家に担ぎ込んだが、父は恐怖のあまり錯乱し、悶死した。戦後、平太は、

「かくのごとき悲痛凄惨な憂き目を見たのは、先見の明なく、無知短才の致すところであり、感慨無量の次第なり」

と、この戦争を痛烈に批判した。

悲劇の会津、

というが、それは、ある意味、戦略を欠いた対応で、自ら招いた部分もあるのである。たとえば、城下の戦闘の当日、大勢の婦女子が殉難したが、著者は、こう突き離す。

「婦人の鑑ととらえることはしなかった。それは避難態勢の不徹底であり、会津軍事局の手落ちが存在したからであり、むしろ人災の部分が濃厚だった。」

と。それには理由がある。

「主君容保の指導力に限界があり、白河では戦争を知らない西郷頼母を総督に立てて失敗し、…内藤介右衛門や田中土佐が戦況を見誤り、母成峠を破られた。そして、佐川官兵衛が十六橋で防戦に失敗した。判断ミスの連続で戸ノ口、大野ヶ原とまたたく間に破られ、敵は城下に殺到した。ここでさらにミスが起こった。城下に住む人々に対する告知の遅れである。城下の人々は軍事局を信じ、砲声を耳にしながらも多くは避難せずに城下にとどまっていた。」

のである。著者は、会津戦争を、こう要約する。

「会津藩の見事さは、若き政務担当家老梶原平馬の努力によって、奥羽越列藩同盟が結成され、仙台藩が白河に兵を出し、越後の長岡藩が参戦したときに示された。
 しかし戦闘に入ると、どこの戦場でも敗れ、同盟は瓦解した。その責任のいくつかは会津藩にあった。それは長州の大村益次郎に匹敵するような戦略家の不在だった。
 かつて京都守護職の時代、会津藩には公用局があり、情勢分析に大きな成果を上げたことがあった。だが、会津戦争では冷静に戦争を見つめ、勝利の方程式を立案、実施する参謀が不在だった。
 会津藩は同盟がなった時点で、勝てると判断し、戦争に対する取り組み方に、革命的な発想が見られなかった。軍事局もあるにはあったが、俗吏が詰めているに過ぎなかった。
 母成峠が破られても、何処からも連絡が入らず、たまたま猪苗代に出かけた藩士が急報し、半日後にやっとわかる始末だった。このとき、軍事局の面々は、唖然、呆然とし、ただただ顔を見合わせるだけだった。」

つまり、戦闘態勢だけで、広い意味の防備、戦時体制づくりが完全に抜けていたのである。この原因を、会津もまた他藩と同様、

寄らば大樹、

と、幕府が助けてくれると信じていた、と著者は見る。

「フランスの支援で洋式陸軍を持ち、東洋一の大艦隊を品川の海に浮かべていた。(中略)幕府はこれらの近代兵器で会津藩を守ってくれる」

と。その結果、

「近代戦争を熟知した戦略家、参謀の育成を怠り、武器弾薬の備蓄もすくなかった。」

と。しかし転換点はあった、と僕は思う。鳥羽伏見の戦いの最中に、

「将軍徳川慶喜と会津藩主松平容保が大阪から軍監開陽丸で江戸へ逃げかえった」

ところである。慶喜もそうだが、容保も、近侍のものにも告げず逃げ帰った。容保は、後に江戸で、

余が過ちなり、

と答えたというが、容保は、

「将軍から『東下に決したので会津(容保)、桑名(容保の実弟、桑名藩主松平定敬)は随うように』と命令があったという。『余は驚いて、ねんごろにこれを止めんとしたが、却って怒りに逢った』」

と答えた、という。著者はいう、

「この正直さが容保の純粋で、憎めないところであった。容保には、慶喜から誘われたならば断り切れない人のよさ、優柔不断さがあった。」

と。

しかし以降、慶喜は、おのれの命と徳川家の存続だけを考えた。慶喜の命を受けた勝海舟も、それのみを交渉した。会津と容保は見捨てられた。にもかかわらず、会津には、一人の勝海舟もおらず、どうして、薩長の、

「会津本城攻撃の話が伝えられると、会津藩主従は死を決意した。鳥羽伏見の戦いで壊滅的な損害を出し、武器弾薬も乏しく、勝算はないが、討ち死にの覚悟で臨むしかなかった」

となるのか。鳥羽伏見の惨敗の、

雪辱を期す、

ということだったのだろうか。ふと、論語の、

暴虎馮河し、死して悔なき者は吾れ与にせざるなり、必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀(はかりごと)を好みて成さん者なり、

を思い出す。容保は、

「後年、日光東照宮の宮司として東照宮の永久保持に努めた。『往時のことは茫々として何も覚えてはおらぬ』が口ぐせだった。明治二十六年(1893)、59歳で没した。」

という。犠牲者は、

「ゆうに数千人を超すと見られた。一体、この戦争で何人の人が命を落としたのか、いまもって不明である。下北に移住した会津人はまず最初に戦死者の名簿の作成に当たった。三千人ほどの名を確認したが、この戦争に従軍した農兵、郷兵、人夫などは全く把握できず、『死者数千人』と算定した。凄まじい戦争であった。」

にもかかわらず、トップはのうのうと生き残った。結局、死者数千人を犠牲にして、藩主容保の命を救っただけに見える。ふと今次大戦を、思い起こす。

参考文献;
星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』(中公新書)

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2021年02月18日

おやま


「女形」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430104540.htmlについては触れたことがある。「おやま」は、

女形、

と当て、

仮名遣いでは、

をやま、

とも表記した(広辞苑)。また、「おやま」は、

お山、
於山、

とも当て、

女形人形の略、またはその人形遣い手、
歌舞伎で、女の役をする男役者、おんな形、またはその略、
(上方語)色茶屋の娼妓、後に遊女の総称、
美女、または女、

といった意味がある(広辞苑)。幕末の『守貞謾稿』には、「於山」について、

江戸にて芝居の女形を於山とも云也、一座中の女形の上品をたておやまと云也、立於山也、

とあり、さらに、

妓品の名目に非ず、京阪の俗は、太夫、天神の二妓を除きて、その他は官許非官許の賣女ともに、遊女の惣名をおやまと云也、

とある(大言海)。で、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

小山次郎三郎といふもの女の人形をよくつかふ。遊女傾城の類をおやまといふにより是をおやま人形といふといへり。紛らわしき書やうなり。思ふに上かたにて遊女をおやまといふによりとなへしならむ、

とある(日本語源大辞典)。つまり、

上方には人形遣いや歌舞伎に先立ってもともと遊女を意味する「おやま」という語があった、

と考えられる(仝上)。その由来は、

遊女は眉墨を山の形につけたから(嬉遊笑覧・和訓栞)、
遊女を指す「やましゅう」(山衆・山州)に、接頭語「お」をつけて「しゅう」を略した(物類称呼)、

等々があるが、「おやま」を「遊女」の意で使ったのは上方のみであり、『守貞謾稿』と同様、江戸中期の『物類称呼』も、

江戸にてはをやまと云名は戯場(しばい)のみ有、

としている。ちなみに、歌舞伎では、

貞享元年(1684)刊の役者評判記「野良三座詫」に、二代目伊藤小太夫が他の女形と区別して「おやま」と称されているのが最初、

とある(日本語源大辞典)。なお、「女形人形」(おやまにんぎょう)とは、

承応年間(1652~1655)、人形遣いの小山次郎三郎が江戸の操り人形芝居で巧みに使った遊女の人形、また女形の人形、おやま、

の意で、このため「おやま」の語源を、

小山次郎三郎が巧みに使った女の人形を「小山人形」といい、その後、女の人形を使う人形遣いを「おやま……」というようになり、それが歌舞伎の世界に移って「女形(おんながた)」のことを「おやま」というようになって、美女や遊女の称に用いるようになった、

とする説があるのである。しかし、上記の「おやま」の上方での由来を見ると、

遊女を指す「おやま」→小山(おやま)人形→女形(おやま)、

と真逆の変遷とみるべきなのかもしれない。

なお、今日東京都の無形文化財 に指定された「江戸糸あやつり人形」というのがあるが、これは、

江戸時代の寛永12年(1635年)に初代結城孫三郎が創設以来、現在12代目結城孫 三郎まで380年以上の歴史があります、

とあり、「小山人形」とのつながりはないが、面影を推測はできる。

伽羅先代萩.jpg

(江戸糸あやつり人形「伽羅先代萩」 http://www.tokyo-tradition.jp/archive/15/program/p01_03.htmlより)

「女形」を、

おんながた、

と訓むと、

女方、

とも当て(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BD%A2・江戸語大辞典)、

演劇で、女役に扮する男の役者、またその役柄、

という意味で、

おんなやく、

とも言い、

おとこがた、

がその対で、

男形、
男方、

と当てる。いわゆる、

立役(たちやく)、

とも言うが、ただ、「立役」は、

もとは座っている地方(じかた)・囃子方に対して、立って舞う立方(たちかた)すなわち俳優全体の意であったが、後には女形以外の男役の総称となり、さらに老役(ふけやく)・敵役(かたきやく)・道外方(どうけかた)以外の男役の善人の役を言うようになった、

と少し意味を変えているが(広辞苑)。

「おとこがた」「おんながた」の、「がた」は、

接尾語で、ガタと濁る、

とあり、

~役、

という意味になる(岩波古語辞典)。囃子方などと同じとある。だから、

ガタは「方」つまり、能におけるシテ方、ワキ方などと同様、職掌、職責、職分の意を持つものであるから、原義からすれば「女方」との表記がふさわしい。歌舞伎では通常「おんながた」と読み、立女形(たておやま)、若女形(わかおやま)のような特殊な連語の場合にのみ「おやま」とする、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BD%A2、ここでも、

「おやま」は一説には女郎、花魁の古名であるともされ、歌舞伎女形の最高の役は花魁であることから、これが転用されたとも考えられる、

とある(仝上)。

これは、「女形」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430104540.htmlで触れたように、小谷野敦氏が、遊女の由来から、女形の呼び方について、

「遊女」というのは平安朝以来の名称で、むしろ中世の、江口・神崎で、水辺に棲んで舟に乗り、淀川を下ってくる男たちに声をかけるのが遊女、地上を旅して春を鬻ぐのを傀儡女(くぐつめ)、男装したものを白拍子などといった。中世には前の二つはあわせて遊女とされ、遊女の宿といったものが宿駅に出来たりしたし、京の街中には、地獄などと呼ばれる遊女宿があり、遊君(ゆうくん)、辻君(つじきみ)、厨子君(ずしきみ)といった娼婦が現れた。…近世以来、上方では娼婦を「おやま」と呼んだ、

とし、

歌舞伎の女形が「おやま」と言われるのは、人形浄瑠璃で、遊女の人形を「おやま人形」と呼んだことから来ている。だから、女形の人は、「おやま」と言われるのを嫌い、「おんながた」としてもらうことが多い、

とするのとも重なる。「女形」を、

おんながた、

と呼ばせる謂れはここにあるらしい。『大言海』が、「をやま」の項で、

歌舞伎の女形(おんながた)の称、その大立者(おおだてもの)なるを立をやま、少女なるを、わかをやまと云ふ、

と、「おんながた」と「をやま」を区別しているのは、この由来のようである。

坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹と岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波.jpg

(坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹と岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波(東洲斎写楽) https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/sharaku023/より)

参考文献;
小谷野敦『日本恋愛思想史~記紀万葉から現代まで』 (中公新書)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2021年02月19日

ごとし


「ごとし」は、

~の如く、

と使う。これは、

比況の助動詞「ごとし」の連用形、

で、

活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、

彼の言うごとく、
とか、
今さらのごとく、

といったように、

比喩・例示を表し、~のように、~のとおり、

の意で使う(デジタル大辞泉)。現代では文章語的表現、または改まった表現をする場合に用いられる(仝上)、とある。

甲骨文字 殷 如.png

(甲骨文字(殷)「如」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82より)

「ごとし」に当てる「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には若とともに、近くもなく、遠くもない物を指す指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B」(AはほぼBに同じ、似ている)という不則不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も現場にないものを指す働きの一用法である、

とある(漢字源)。「人世如朝露」というように、「~のようだ」の意で使うが、「若」と同じく、「如有復我者(もし我を復する者有らば)」のように「もし」の意でも使うし、A如B(AもしくはB)の形でも用いる(仝上)。

「如」については、

会意形声。「口」+音符「女」。「女」は「若」「弱」に共通した「しなやかな」の意を有し、いうことに柔和に従う(ごとし)の意を生じた。一説に、「口(神器)」+音符「女」、で神託を得る巫女(「若」も同源)を意味し、神託に従う(ごとし)の意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlあるので、旁の「女」には、「神託を得る巫女」の意があるものとみてよさそうである。

さて「ごとし」は、確かに助動詞であるが、

動詞・助動詞の連体形を承ける。しかし、「……がごとし」「……のごとし」のように助詞の「の」「が」にもつづく。助動詞は助詞を承けることはないものであるから、上のような用法のある「ごとし」は本来の助動詞ではない、

とされる(岩波古語辞典)。その背景は、「ごとし」の成り立ちと絡む。「ごとし」は、

同一の意味の体言「こと」の語頭の濁音化した「ごと」に、形容詞化する接尾辞「し」のついた語。活用語の連体形、助詞「が」「の」につく。まれに名詞につく使い方もある。古くは「ごと」が単独で使われた。活用形の変則的用法として、副詞的には「ごとく」の他に「ごとくに」も用いられ、指定の助動詞「なり」には「ごとき」の他に「ごとこく」「ごとし」からも続く。平安時代には漢文訓読分に用いられ、かな文字系(女流文学系)では「やうなり」が一般であった。現代口語では、文章語的な文体で「ように」の意味で「ごとき」が用いられる、

とある(広辞苑)。「ごと」は、

同、
如、

と当て(岩波古語辞典)、

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし我が恋るごと(額田王)

と使われ、

コト(同)と同根、後に如しの語幹となる、連体修飾語をうけて、

とあり(仝上)、「~と同一」の意で、

ごと(毎)、

とはアクセントと意味から別語とある(仝上)。「こと」は、

同、

と当て、

花細(ぐは)し桜の愛(め)でてこと愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら(允恭天皇)、

と使われ、

如し(ゴトシ)と同根、仮定の表現を導くに使う。「こと」(別・異)とは起源的に別語、

とあり(仝上)、

此語、常に多く、何のごと、某(ソレ)のごとと、他語のしたに用ゐられ、連声にて濁る、されど独立なるときは清音なるなり(万葉集古義)。ただし、清音にて、語尾の活用したるを見ず、古今集の歌の、ことならむを、顕注密勘に、かくの如くならむの意と釈せり、

としている(大言海)。

しかしもともと、「こと」は、体言である。だから、

「見けむがごと」といえば、「見たというのと同一」の意である。この用法の発展として、他の事・物に比較して「……とおなじだ」「……のようだ」の意を表す「ごとし」があらわれた(岩波古語辞典)、

というような用法を可能にしたのである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ごとし 如し
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2021年02月20日

しく


「しく」は、

及ぶものはない、

の意で、

如くは無し、

と使い、また、

百聞は一見に如かず、

の「しか」は至り及ぶ意の「しく」の未然形に打消しの助動詞ズをつけて、

(それに比べて)及ばない、
(それに)まさるものはない、

の意で使う(岩波古語辞典)。「しく」は、

如く、

と当てる。「如く」を、

ごとく、

と訓む「ごとし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480100196.html?1613678333は触れた。そこで触れたことと重なるが、「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には若とともに、近くもなく、遠くもない物を指す指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B」(AはほぼBに同じ、似ている)という不則不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も現場にないものを指す働きの一用法である、

とある(漢字源)。「人世如朝露」というように、「~のようだ」の意で使うが、「若」と同じく、「如有復我者(もし我を復する者有らば)」のように「もし」の意でも使うし、A如B(AもしくはB)の形でも用いる(仝上)。

「如」については、

会意形声。「口」+音符「女」。「女」は「若」「弱」に共通した「しなやかな」の意を有し、いうことに柔和に従う(ごとし)の意を生じた。一説に、「口(神器)」+音符「女」、で神託を得る巫女(「若」も同源)を意味し、神託に従う(ごとし)の意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlあるので、旁の「女」には、「神託を得る巫女」の意があるものとみてよさそうである。

甲骨文字 殷 如.png

(甲骨文字(殷)「如」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82より)

しかし、「しく」は、

及く、
若く、

とも当てる。

甲骨 殷 若.png

(甲骨文字(殷)「若」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5より)

「若」(漢音ジャク・ジャ、呉音ニャク・ニャ)は、

象形。しなやかな髪の毛をとく、からだの柔らかい女性の姿を描いたもの。のち、草冠のように変形し、また口印をくわえて若の字になった。しなやか、柔らかく従う、遠回しに柔らかく指を指す、などの意を表す。のち、汝(ジョ)、如(ジョ)とともに、「なんじ」「それ」をさす中称の指示詞に当てて用い、助詞や接続詞に転用された、

とある(漢字源)が、

象形。手を挙げて祈る巫女を象る物であり、「艸」(草)とは関係ない。髪をとく、体の柔らかい女性を象る(藤堂)。手や髪の部分が、草冠のように変形した。後に「口」を添え、「神託」の意を強くした(藤堂)、又は、神器を添えたものとも(白川)。神託から、「かく」「ごとし」の意が生じる。「わかい」巫女が祈ることから、「わかい」の意を生じたものか。音は、「女」(本当?)「如」「弱」「茹」等と同系で、「やわらかい」の意を含む。また音を借り、中称の代名詞、助詞や接続詞に用いられた、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5、「若」の由来がよくわかる。「如」と似た使い方をされ、「A若B」で、AもしくはB、AまたはBの意や、若是と、かくのごとしのように、「ごとし」の意で使われる。ために、「しく」に当てたものと思われる。

「及」(漢音キュウ、呉音ゴウ)は、

会意。「人+手」で、逃げる人の背に追う人の手が届いたさまを示す。その場、その時にちょうど届くの意を含む、

とあり(仝上)、「如」「若」とは異なり、AとBと事物を列挙する意を表す。むしろ後述の通り、「しく」の意から、「及」を当てたと見える。「如」の項で、

奈良時代の日本語で、「及ぶ、届く」の意、「不如(しかず)」(~に及ばない)、「莫如(しくなし・しくはなし)」(其れに及ぶものはない)、「不如学也(学ぶに如かず)」

とある(仝上)のは、その意味と受け止めた。

甲骨(殷)及.png

(甲骨文字(殷)「及」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%8Aより)

和語「しく」は、まさに、「及」の意で、

距離を隔てたものの後を追って対等に並ぶ意(広辞苑)、
追って行って、先行するものに追いつく意(岩波古語辞典)、

とあり、

追いつく、
及ぶ、肩を並べる、
匹敵する、

意味である。

シク(敷・頻)と同根、

とある(岩波古語辞典)。「しく」(敷・領)は、

一面に物や力を広げて限度まで一杯にする、すみずみまで力を及ぼす意、シク(及・頻)と同根、

とあり、

曲廬(まげいほ)の内に直土(ひたつち)に藁解き敷き父母は枕の方(かた)に妻子(めこ)どもは足(あし)の方(かた)に囲み居て憂へ吟(さまよ)ひ(貧窮問答歌)

と、

物を平らに延べ広げて隅まで一杯にする、

意だが、「しく」に「領」を当てると、

すめろぎの神の命(みこと)の敷きいます国のことごと湯はしもさわにあれども(万葉集)、

と、

辺り一面に隅々まで力を及ぼす、一帯を治める、

意となり、「しく」に「頻」「茂」を当てると、

シク(敷・及)と同根、

で、

住吉の岸の浦廻(うらみ)にしく波のしくしく妹(いも)を見むよしもがも(万葉集)、

というように、

痕から後から追いついて前のものに重なる、

意で使われる。「しくしく」は、

及く及く、

で、

波が寄せてくるように後から後から絶えないで、

という意味で、要は、

絶え間なく、

の意である。「しくしく」と「しく(頻)」とつながる言葉と思われる。こうみると、「しく」(及)と「しく」(頻)とは、

痕から追いつく、

という含意で、ほぼ意味が重なる。とすると、「しく」は、

物を平らに延べ敷く、
あるいは、
力が目一杯広がった、

結果、

追いついた、という意味に、意味の外延が広がった、と見ることができるのではないか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:しく 如く 及く 若く
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