2021年02月04日

得体の知れぬ人物


福島克彦『明智光秀―織田政権の司令塔』を読む。

明智光秀.jpg


「はじめに」で、著者は、光秀をこうまとめる。

「光秀の前半生はほとんどわからない。光秀本人が語るところでは、先祖は足利将軍家の御判御教書(ごはんみぎょうしょ)を保持した家柄であったという。しかし、光秀の時代は、すでに知行地は手放した状態であり、たとえ過去の御教書があっても役に立たないと認識していた(早島大祐『明智光秀』)。彼自身は武家出身という自覚を持ちつつも、変化激しい戦国の現実社会との距離感をしっかり認識していた。実際彼は「一僕(いちぼく)の者、朝夕の飲食さえ乏(とぼし)かりし身」を経験したことがあるという(『当代記』)。亡くなったのは五十五歳(『明智軍記』)とも、六十七歳(『当代記』)とも言われ、もう老齢になりつつあった世代である。あらゆる人生の浮き沈みを知り得た人物であったと言えよう。老齢でありつつも、信長の傍に侍り、諸政策を実行、具体化していく……ある意味、得体の知れぬ人物であった。」

と。

確かに、「老齢になりつつあった世代」というのは、年齢も不確かで、はっきりしないが、信長49歳を筆頭に、秀吉、家康は四十代であるのに比べると、老境にあるといえる。

「得体の知れぬ人物」とは、フロイスの、

「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
「彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
「裏切りや密会を好む」

という光秀評と通じるものがある。なお、「御判御教書」とは、

足利将軍,室町殿の発給する、花押もしくは自署を加える直状形式の御教書、

である。「一僕の者」とは、

奉公人がたった一人の侍を、

一僕の者、
一僕の身、

と呼んだ。一騎駆けをするのは、一廉の侍ではないという含意があった。少し後の基準だが、

普通騎乗の武士(二百石取以上)は、馬の口取りと主人の武器、鑓、鉄炮などを持つ者、小荷駄を持つ者、主人警固の徒士侍等々を連れている。これが騎馬武者の下限である。徒士でも、(自弁の)鑓持ち一人、その他二人の供を連れる。これが、鑓一筋の武士の最下限である(百石取)。これ以下は、自弁の鑓ではなく御貸鑓となる、

とされる(図説 日本戦陣作法事典)。

さて、本書の特色は、サブタイトルにもあるように、光秀のポジションに着目しているところだ。

「光秀の場合、天正八年八月(細川藤孝が丹後宮津へ転封になって)以降、丹後の藤孝を指導監督する立場を維持しているものの、本人が信長の馬廻衆に(秀吉や勝家のように)検使を受けた形跡は見られない。やはり信長は光秀をより近い立場に置き、最後まで信頼を寄せていたのであろう。信長の信頼を背景に、光秀は、大和・丹後の指出検地の指導、軍法整備による近世的軍隊の創出、その実践を進めた京都馬揃えと、まさしく織田権力の中枢政策を最後まで担っていたと言えよう。さらに、天正八年以降の対毛利、対長宗我部との外交についても関わっていた。織田権力の政策の屋台骨を背負いつつ、『司令塔』といっていいような存在になっていた。」

とみる。それは、のちの秀吉や勝家の言動にも、

「光秀が信長から多大の恩賞を得ていた」

と、周囲もまた光秀が信長に重用されていたと認識していた。

その光秀が謀叛を起こした理由について、二つのことを挙げている。ひとつは、信長が京都に拠点を持たなかったこと。

「元亀四年(1573)の義昭の京都退去の際、光秀は信長に吉田山における『御屋敷』構築を強く勧めた。これは、義昭に代わる公儀権力の主として、京都における築城を献策したのであろう。しかし、朝廷や寺社勢力に対する気兼ねからか、信長は築城を結局実現しなかった。相変わらず少人数で京都へ向かう姿勢は、隣接する近江志賀郡、丹波を治める光秀を信頼していることの裏返しであったろう。換言すれば、織田権力の中枢にいた光秀だったからこそ、本能寺の変は可能だったのである。」

いまひとつは、外交政策の変更である。この説は近年着目されているが、対長宗我部政策の変更である。

「織田権力による畿内・近国の制圧は、中国地方の毛利氏や四国の長宗我部氏との外交関係とも大きく関連していた。斎藤利三の姻戚関係もあって、光秀は長宗我部氏との外交を取り仕切っていた。しかし、三好(康長)氏との関係強化により、毛利氏との前線に立っていた秀吉に対外交渉の覇権が移ってしまう。すなわち、天正九年(1581)後半には信長による西国支配の構想が、『秀吉―三好ライン』の派閥にまとまり、少なくとも天正六年から四国政策を担っていた『光秀―長宗我部ライン』は敗北したと言われている(藤田達生『本能寺の変研究の新段階』)。」

しかし、それを直接担っていた斎藤利三は、天正十年五月になっても(長宗我部)元親と手紙のやり取りをし、

「元親とのぎりぎりの交渉を進めていた。その間も、着々と(神戸)信孝による四国攻めの準備が進められていた。その直後の六月二日に本能寺の変が起こるのである。」

光秀は、天正八年(1580)にも、対毛利「和談」交渉を進めていたが、ここでも、

「宇喜多を寝返らせた秀吉の政策が受け入れられ、以後織田権力は毛利氏との全面戦争の道をあゆむことになる。」

という外交政策でも敗北を余儀なくされている。確かに、

「織田権力の外交政策においては、さまざまなチャンネルを並行して進める場合があり、こうした外交政策のずれは、織田権力の武将である以上、常に認識していたことと思われる。しかし、対毛利、対長宗我部という西国政策は、さまざまな国衆の利害が絡んでおり、大きな派閥抗争に至った可能性はある。」

とし、最近の方向性として、本能寺の変の背景は、

「信長による四国政策の変更とそれに関する派閥間抗争」

に収斂しつつあり、本書も、

「信長による長宗我部元親の外交関係が、光秀から秀吉へと移行したことが、武将間の派閥抗争を先鋭化させた」

とする説を採る。特に、長宗我部との正面衝突が迫る緊迫した状況で、

「斎藤利三が本能寺の変直前の五月まで長宗我部氏と交渉していた事実は、信長に敵対する側の論理や思惑を知る機会となった。同時に、当時織田権力を取り巻く政治情勢を、多角的に分析することになったと思われる。」

とする。当時の記録に、

「今度謀叛随一也」(言経卿記)、
「かれなと信長打談合衆也」(天正十年夏記)、

等々と、いくつも斎藤利三の名がのぼるのは、

「四国政策の変更が大きな要因だった」

といえるのではないか、と。

それにしても、その対抗馬の秀吉が、

「流言飛語や敵失を狙ったデマが飛び交う」

戦国期の前線で、

三日の晩ニ彼高松表へ相聞(浅野文書)、
四日ニ注進御座候(秀吉書状)、
六月六日夜半許り、密かに注進あり(惟任退治記)、

と、いずれにの日にそれを知ったにしろ、

「特筆されるのは、秀吉が信長横死の情報を信じ、『毛利氏がそれを知るよりも早く己に有利な和睦を結んだ』こと」

である。その背景を、

「秀吉は確信をもって変の情報を受け止め、独自の判断で素早く毛利氏と和睦したことになる。京都や畿内・近国との間によほど信頼し得る情報網を持っていたと考えられる。……信長の西国出陣がかねて予定されており、こうした準備が情報伝達に好都合に働いたのかもしれない。」

と述べる。

確かに、『武功夜話』によると、信長が直々出陣する準備のため、街道の手配り、備中支援に、播州、備前の路次の整備、宿駅、宿所、兵粮の備え等々を、前野将右衛門が終えており、

「御内府(信長)公出馬に付き、筑前(秀吉)様格別の御思召しこれあるに付き、御路次の宿泊所備前境目まで、路次の次第土を均(なら)し石を取り除き、御通路手易き様に各々手分け仕り候。此度の御出馬の御進路、海上をさけ陸路を取り、播州より備前入りの道程、すなわち摂州尼ヶ崎より播州に越しなされ、三木御泊りこれより姫路へ御成り御泊り、これより西海道を備前の三石(みついし)へ罷り在り候次第、御通路越度なく相働き待ち居り候なり。御内府公播州入りは六月七日、右の旨御沙汰の次第、岐阜中将より御取次の御使者、猪子(いのこ)兵助申し越し候なり。前将殿は揖東(いっとう)郡、揖西(いっさい)郡、蜂須賀彦右衛門の御領分竜野まで罷り出られ、清助殿は前将様に御供仕り竜野へ罷り出て、彦右衛門様御内の御留守居役、岩田七左衛門、牛田四郎兵衛御案内候ひて、備前の堺目赤穂郡おくまの、竹原、有牟(うむ)、船坂峠、備前三石(みついし)まで罷り出て、道普請、御宿泊の所務手当候なり。それがし(前野義詮)は岩田七左殿連れ立ち、赤穂峠まで浦々等海上の船行の見張り等蜂須賀内にて取構え候なり。播州の御通過路次万端滞りなく仕り、御主前将様ともに三木へ立ち帰り候は、五月二十八日昼下り、これより明石郡国限まで案内人差し向け、待ち構え候折の異変に候」

とある。この連絡網が効いたと見ることができる。

そういえば、十年前の天正元年(一五七三)十一月将軍義昭の京都復帰のため秀吉と交渉したことがある安国寺恵瓊は、十二月に毛利家臣の児玉三右衛門(元良)・山県越前守、小早川家臣井上春忠(又右衛門尉)宛書状で、

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」

という有名な手紙を書いている。この予言が当たったとされている。それほど、傍から見て、信長が危うかったのだとすると、

「わずかな手勢で、嫡男信忠とともに在京したことは大きな失態」

であることは確かである。

光秀関連については、
高柳光寿『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476798591.html
諏訪勝則『明智光秀の生涯』http://ppnetwork.seesaa.net/article/473070700.html
金子拓『信長家臣明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/472831218.html
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』http://ppnetwork.seesaa.net/article/469748642.html
高柳光寿『本能寺の変』http://ppnetwork.seesaa.net/article/476815575.html
谷口研語『明智光秀』http://ppnetwork.seesaa.net/article/399629041.html
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』http://ppnetwork.seesaa.net/article/389904174.html
等々で触れた。

参考文献;
福島克彦『明智光秀―織田政権の司令塔』(中公新書)
笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』(柏書房)
吉田雄翟編『武功夜話―前野家文書』(新人物往来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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