2021年03月01日

さかやき


「さかやき」は、

月代、
月額、

と当てるが、訛って、

さかいき、
さけえき、

ともいう(江戸語大辞典)。時代劇で見る、

男の額髪を頭の中央にかけてそり落としたもの、

である(広辞苑)。

もともと冠の下に当たる部分を剃ったが、応仁の乱後は武士が気の逆上を防ぐために剃ったといい、江戸時代には、庶民の間にも流行し、成人のしるしとなった、

とある(広辞苑)が、しかし、「月代」は、

つきしろ、

とも訓み、本来の意は、

月の出る直前に、月の近くの空が半円形に白んで見えるもの、

を(誤って「月」そのものをも)指し(岩波古語辞典)、日葡辞書にも、

Tçuqixiroga(ツキシロガ)ミエタ(すでに月がのぼった。または月の光が見えた)、

と載る。それに準えて、

半円形にそり落としたもの、

を指した(仝上)。それは、

古へ、男子、頂髪の中央の毛を、圓く抜き去りおくもの。後世に云ふ中剃(なかぞり 頭頂の中央のところのみ剃り去ること)なり。古へは皆総髪にて、全髪を頂に束ねて髻(もとどり)とし、冠の巾子(コジ)に挿したり。然して逆上(のぼせ)を漏らさむために、中剃をしたるなりと云ふ。又、冠の額に当たる髪際を、半月形に抜けるを額月(ひたいづき)と云ひき、

とある(大言海)。貞丈雑記(1784頃)にも、

古代の人はさかいきをそる事なし。髪のもとどりをばかしらの百会の所にてゆふ也、

とある。「百会(ひゃくえ)」は、頭のてっぺんにあるツボを指す。「巾子(こじ)」は、

(「こんじ」の「ん」を表記しない形)冠の頂上後部に高く突き出ている部分。髻(もとどり)を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにする。古くは髻の上にかぶせた木製の形を言った。元来は、これをつけてから幞頭(ぼくとう 冠部分)をかぶったが、平安中期以後は冠の一部として作り付けになった、

とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

巾子(こじ) (2).jpg

(冠の名所並びに家別冠の刺繍紋様 『有職故実図典』より)

「額月」(ひたいづき)とは、

額の月代(つきしろ)の意、

で、

額付、
額突、

等々とも当て、

古へ、男子の額上の毛髪を半月形に抜き去りおくもの。又月額(さかやき)とも云へり、冠又は烏帽子を被りて、額の髪際(はええぎわ)の見えぬやうにとて抜き去れるなり、

とあり(大言海)、略して、

ひたひ、

という(仝上)。

だから、「つきしろ」とは、

形、圓ければ、月の代わりにて、月様(つきよう)の意なるべし、

と、本来の「月代」の意味に準えたものといっていい。

しかも、本来は、剃るのではなく、抜いていたと見え、

天正年代(1573~92)まで毛抜きを用いて頭髪を抜いた、

とある(日本大百科全書)。そのため、ルイス・フロイスは、

合戦には武士が頭を血だらけにしている、

と記しているhttps://www.kokugakuin.ac.jp/article/11121、とある。ただ、

頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる、

という次第https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8B%E3%82%84%E3%81%8Dで、剃るのに代わる。

月代をした浅井長政.jpg


戦国時代は,貞丈雑記に、

合戦の間は月代をそれども、軍やめば又本のごとく惣髪になるなり、

あるように、戦の時だけであったが、やがて、

月代を剃っていることが勇敢さの印にもなり,武家の男子が成人になると兜をかぶらないでも,月代を剃るようになった、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、それが江戸時代、庶民にまで広まった理由のようである。もともとは、

武士は鉄製の兜をかぶったが,頭が蒸れるので,兜の頂上に通気孔を開けて,その穴の真下の髪を剃った、

とあり(仝上)、

頭髪の蒸れによって、のぼせるのを防ぐために編み出されたもので、……最初は半月のような形をしていて、中剃り的なものであった。元来、公家、武家ともに日常生活で頭に冠や烏帽子を着用したが、戦乱が続くようになって、甲冑姿で頭が蒸れるところから、百会に月代をあけ、戦いが終わると同時にもとに戻していた。しかし、室町時代に入って応仁の乱など戦いが長く続くようになってからは日常化し、それがいつとはなく、戦乱が終わったのちでも、月代をあけておくのが習わしとなった。それも最初は小さな月代であったのが、だんだんと大きくなっていった、

とある(日本大百科全書)。「つきしろ」の由来から鑑みると、額際(額月)と頭頂部(つきしろ)を抜いていたものを、つなげて、ひろく「さかやき」にしたのだと見える。もともとは、「つきしろ」と「額月」とは離れていたし、「さかやき」とも別であったものが、つなげて額から頭頂部までを剃るようになって、ひとくくりに、

さかやき、

というようになった、というように見える。

つきしろと同義なので、(さかやきに)月代と当てた、

とある(岩波古語辞典)のはその意味である。では、「さかやき」はどこから来たか。

頭が蒸れるので,兜の頂上に通気孔を開けて,その穴の真下の髪を剃った。空気が抜けるので,逆息(さかいき)といい,その音便とするもの

とする、貞丈雑記の、

「さかいき」と云ふは、気さかさまにのぼせるゆえ、さかさまにのぼするいきをぬく為に髪をそりたる故「さかいき」といふなり、

説があるが、大言海は、

サカイキ云ふは、後世の音便なり、これを、逆息の義とし、逆上の気なりと云ふ説は、後世に云ふサカヤキには云へ、額月(ひたいづき)の語原とはならず、また月代(ゲッタイ)の字は、ツキシロにて、異義なるを因襲して用ゐるなり、

と、否定し、

逆明(さかあき)の転にて(打合(うちあひ)、うちやひ)、髪を抜きあげて、明きたる意、

とする。他に、たとえば、

サカ(境・生え際)+アキ(明き)、生え際を広く明けて剃り上げる意、

とする(日本語源広辞典)のは、「額月」(ひたいづき)の意味とは重なっても、「さかやき」のそれには当たらないのではないか。あるいは、

昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は船名の意(茅窓漫録・嬉遊笑覧・和訓栞・風俗辞典=森本義彰等々)、
額毛をいうサカヒケ(界毛)の訛り(俗語考)、
サカイケヤキ(頭毛焼)の略転(燕石雜志)

も、「額月」(ひたいづき)や「つきしろ」の説明にしかなっていない。「つきしろ」は、月の出のことを指していて、和訓栞が、

冠下に劫月(大言海は初月(みかづき)の誤りか、とする)の如く剃るなるべし、似たるを持って名づくる也、

としている通り、月の形ないし、月の出の光の暈を指しているし、「額月」(ひたいづき)は、

額の月代(つきしろ)の意、

である。しかし、「さかやき」の由来を、説明する説は、

サカは栄、若えさかやぐと祝っていう語から(類聚名物考)、
サカエケ(栄毛)の義(名言通)、
ソキアケ(刵欠)の義(言元梯)、

というものしかなく、結局由来不明とするしかない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年03月02日

ちょんまげ


「ちょんまげ」は、

丁髷、

と当てる(広辞苑)が、

髷が「ゝ(ちょん)」の形に似ているところからという、

とする説(広辞苑)と、

「ちょん」は、ちょう(丁)の音便の誤、

とする説(大言海)がある。しかし、

結んだ髪の毛先を前に折り返した形がチョン(ゝ)に似た髷だから(日本語源広辞典)、
前面に折り返した髷の形が踊り字 の「ゝ(ちょん)」に似ているからで、「丁髷」の「丁」は当て字(語源由来辞典)、

とするのが妥当なようである。ただ、別に、「ちょんまげ」の「ちょん」は、

「ちょん」が「ちいさい」「すくない」などの意味で、丁髷が小さいため「ちょんまげ」となった、

とする説がある(仝上)。確かに、「わずかな時間」の意の、

ちょんの間、

という言葉があるし、「ちょっぴり」の意の、

ちょんぼり、
ちょんびら、
ちょんびり、

もある(岩波古語辞典・江戸語大辞典)。「ちょっと切る」意の、

ちょん切る、

もある(大言海・江戸語大辞典)。しかし「ちょんまげ」は、

額髪を剃り上げ、後頭部で髻(もとどり )を作り、前面に向けた髷、

の意であり(仝上)、「少し」という感じではないのではあるまいか。ただ、「ちょんまげ」を、

江戸時代中期以降、額髪を広く剃り上げ、髻(もとどり)を前面に向けてまげた小さな髷、

をさす(広辞苑)とする説明もあり、「ちいさい」という感じを捨て切るのには躊躇う。本来の「丁髷」は、

髪の少ない老人などが結う貧相な髷、

を指す、ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9D%8F%E9%AB%B7、「小さい」「少ない」の含意は捨てきれない。

ところで、「ちょんまげ」の、「髻(もとどり)を前面に向けてまげる髷」は、中世後期には、

一般に烏帽子などをかぶらなくなり、髷を後ろに纏めて垂らし、烏帽子や冠は公家・武士・神職などが儀式に着用する程度になり、近世には、月代が庶民にまで広がって剃るのが一般化し、髷を前にまげて頭の上に置く、

ようになったためhttps://www.kokugakuin.ac.jp/article/11121であるが、大坂の陣以降、戦国時代が遠くなり、兜をかぶる機会が減った、平和な時代ということなのだろう。「さかやき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480265673.html?1614541415の由来については触れた。

成人男性の丁髷は、大きく分けて、束ねた髪を元結(もとゆい)で巻いて先端を出した、

茶筅髷(ちゃせんまげ)、

と、元結の先端を二つ折りにした、

丁髷、

とがみられ、元服前の男子は前髪を残し中剃りする、

若衆髷(わかしゅまげ)、

で元服後に前髪を剃り落としたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E9%AB%B7、とある。「ちょんまげ」といわれる由来のもとになったのは、本多忠勝家中の髪形から広まったという、

本多髷(ほんだまげ)

といわれる、明和・安永(1764~1781)のころに流行した男子の髪形のようである。

本多髷②.jpg

(本多髷 デジタル大辞泉より)

中ぞりを大きく、髷(もとどり)を細く高く巻き、7分を前、3分を後ろにしてしばったもの、

であり(広辞苑・デジタル大辞泉)、

ほんだわげ、

ともいい、

金魚本多、
兄様本多、
団七本多、
浪速本多(なにわほんだ)、
豆本多(まめほんだ)、
蓮懸本多(はすかけほんだ)

等々の種類を生み、通を競った(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%AB%B7・広辞苑)、という。「本多髷」は、

文金風の変化したもので,宝暦〜明和(1751年―1772年)ごろに芝居の役者が結い始め,安永(1772年―1781年)ごろ全盛をきわめた、

とある(百科事典マイペディア)。

本多髷.bmp

(本多髷 精選版日本国語大辞典より)

その結い方は、

耳の上ぎりぎりから側頭部にかけてまで極端に広く月代(さかやき)を取り、鬢の毛を簾のように纏め上げる。鼠の尻尾のように細く作りなした髷は元結で高く結い上げて、急角度で頭頂部にたらすというもの。広い月代と頭と髷先、髷の根元を線で結んだ間の部分に空間ができるのが特徴、優美で柔和な印象で最初吉原に出入りする客の間で大人気を博した髷で、本多髷でなければ吉原遊郭では相手にされない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%AB%B7

文金風.jpg

(文金風 デジタル大辞泉より)

「文金風(ブンキンフウ)」というのは、

髷 (まげ) の根を元結で高く巻き上げ、毛先を月代 (さかやき) のやや前方に出したもの。豊後節の祖、宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじょう) が始めたという。通人に好まれた、宮古路風ともいう、

とあり(デジタル大辞泉)、

元文年間(1736~41)の文字金(「文」の極印のある金貨)と同じころ始まったからという、

とある(広辞苑)。

辰松風(たつまつふう)から出て、まげの根を上げて前に出し、月代に向かって急傾斜させた、

とある(広辞苑)。

辰松風.jpg

(辰松風 デジタル大辞泉より)

辰松風(たつまつふう)とは、

江戸中期、辰松八郎兵衛が結い始めた、

とされ、

元結で髷 (まげ) の根を高く巻き上げ、毛先を極端に下向きにしたもの、

である。

辰松風→文金風→本多髷、

と、まさに、本来の「月代」の実用性を逸脱し、広く大きく剃り、髷も、現代の髪型を競うのに似て、江戸期、平和な時代になった証のように、様々な髪型が流行したのである。

一般的だった男性の髪形、特に時代劇などで使われている銀杏髷(いちょうまげ)、
中間・奴の間に流行した、月代が大きく、髱が小さく、髷が太く短い髪型奴髷(やっこまげ)、
後頭部で髷を細く結った材木屋風」(ざいもくやふう)、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%AB%AA%E5%9E%8B、正に現代さながらに髪型を競ったようである。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ちょんまげ 丁髷
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2021年03月03日

将門眼鏡


江戸川乱歩の『鏡地獄』を読んでいたら、

将門目がね、
万華鏡、

と出てきた。「万華鏡(まんげきょう)」は、

ばんかきょう、

とも訓み、

百色眼鏡(ひゃくいろめがね)、
錦眼鏡(にしきめがね)、

とも呼ばれ、

カレイドスコープ(kaleidoscope)、

のことである。

2枚以上の鏡を組み合わせてオブジェクトと呼ばれる内部に封入または先端に取り付けた対象物の映像を鑑賞する筒状の多面鏡、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%8F%AF%E9%8F%A1が、

三枚の長方形の鏡板を三角柱状に組み、色紙の小片などを入れ、筒を回しながら一方の端の小孔からのぞくと、美しい模様が見えるようにしたもの、

とある(広辞苑)方がわかりやすい。

万華鏡(内部).jpg


万華鏡はわかるが、

将門目がね、

というのはわからなかった。

鏡三枚の時.jpg

(万華鏡 鏡三枚の時 https://www.nikon.co.jp/sp/kids/kaleidoscope/より)

鏡四枚の時.jpg

(万華鏡 鏡四枚の時 https://www.nikon.co.jp/sp/kids/kaleidoscope/より)

「将門目がね」は、

将門眼鏡、

とも当てるが、落語「めがねや」(別名「眼鏡屋盗人」「がみはり」)でも、

店にあった将門眼鏡を節穴の前の桟に乗せますと、7~8つに像が見えます、

と出てくるhttps://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html。別に、

眼鏡を物が七つに見える将門眼鏡に付け替えた。平将門が七人の影武者を従えていたことから将門眼鏡というやつだ、

ともあるhttp://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/meganedoro.html。これが、「将門眼鏡」の由来らしい。

「将門眼鏡」とは、

プリズムスコープ、

の謂いで、「将門眼鏡」の他に、

ドラゴンフライ、
八角眼鏡、
将軍鏡、
タコタコ眼鏡、

等とも呼ばれる、

複眼鏡の一つ。板に据えられたレンズがトンボの目のように多面にカットされ被写体が複数重なって見える。江戸末期には子供達にこれを覗かせる大道芸もあった、

とあるhttps://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html。現在はカメラのレンズにフイルターとして装着し、3面や5面の多重映像を記録できる物もある(仝上)らしい。古くは、7面カットを将門鏡、13面カットを明治将門鏡とよんだhttp://yamada.sailog.jp/weblog/2018/09/post-9a6c.html、とある。

タコタコメガネ.jpg

(紅毛百眼鏡(将門メガネ) https://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.htmlより)

「将門眼鏡」という名は、

将門七変化、

由来するとみていい。

将門眼鏡.jpg


これは、将門伝説のひとつ、

七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)、

に由来する。

将門と全く同じ姿の者が六人いた(俵藤太物語)、
とか、
同じ姿の武者が八騎いた(師門物語)、

等々とされ、

将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説、弟六人説、

などがあるhttps://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e4855b02e311db7808dd7250eb35f0a1とかで、これが、

7面カット、

を「将門眼鏡」といった理由になる。

各種のドラゴンフライ.jpg

(各種のドラゴンフライ https://www.spij.jp/2019/06/20/より)

山東京伝(1761-1816)の黄表紙『時代世話二挺鼓』では、

身体が7つあった将門に対抗するため、藤原秀郷(俵藤太)は、八角眼鏡を取り出し、「わたしは姿が8つあるからお前よりも勝っている。お前には見えないだろう。この眼鏡で見てみろ」と、将門にかけさせて自分の姿を見させ、将門の度肝を抜いた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E4%B8%96%E8%A9%B1%E4%BA%8C%E6%8C%BA%E9%BC%93、この時代の人々が、八角眼鏡を知っていた、ということになる。

黄表紙(時代世話二挺鼓).gif

(黄表紙『時代世話二挺鼓』 https://hamasakaba.sakura.ne.jp/062k/062800/062810/sub062810より)

参考文献;
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tashi/page010.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E4%B8%96%E8%A9%B1%E4%BA%8C%E6%8C%BA%E9%BC%93
https://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年03月04日

ちょぼちょぼ


「ちょぼちょぼ」は、

点々、

と当てる(広辞苑・大言海)。

疎(まばら)に点を打つ状に云ふ語(大言海)、

が原意のように思われる。それをメタファに、

量や程度が少ないさま、ちょびちょび(虎明本狂言・鱸庖丁(室町末‐近世初)「なりてんぢくのかいしきに、ふかくさがわらけに、ちょぼちょぼとよそふておまらせうが」)、
物が所々に少しずつあるさま、ちょびちょび(病論俗解集(1639)「斑点小児はもがさ、或ははしか、大人はかざぼろし等ぞ。何さまちょぼちょぼ見ることぞ」)、

とか(精選版日本国語大辞典)、さらに、

所々に、

とか、

小さい、または少ない、

といった意味でも使い(広辞苑・大言海)。また、「点々」の意の派生で、

点を並べて打つ記号「:」や踊字「〻」などを、

チョボチョボで書てある線は始の波、また波形で書てある線は後の波(「颶風新話(航海夜話)(1857)」)、

とも使い(精選版日本国語大辞典)、さらに、同じことを重ねて記す場合に、略して点を打つ(〃)ところから、

前に同じ、
両者とも大したことがないさま、

の意で、

二人の成績はちょぼちょぼ、

等々とも使う(広辞苑)。ただこれについては、

ともども(共々)→ちょぼちょぼ(伯仲)、

と転訛したとする説がある(日本語の語源)。

「ちょぼ」を、大言海は三項別に分けている。ひとつは、

点、

を当てる「ちょぼ」で、

しるしに打つ点、

の意で、

ぽち、
ほし、

とも言い(広辞苑)、本の中のその部分に傍点が打ってあるところから、

歌舞伎で、地の文(登場人物の動作・感情などの部分)を浄瑠璃で語ること、

を指す(広辞苑)。

芝居の義太夫語は丸本を全部語らず、役者のセリフに文中に言ふ語のときに、自分の語るだけの所を、本の中に点(ちょぼ)をつけてそこを語りしに云ふ、

とある(大言海)。元来は、

説経節から出た称、脚本中の語るべき文句にチョボ(墨譜)が打ってある、

とある(江戸語大辞典)。「墨譜(すみふ・ぼくふ)」とは、

雅楽、声明(しょうみょう)、平曲、謡曲、浄瑠璃などに見える日本音楽の楽譜の一つ。文句の右側に墨でしるす点や線の譜、節博士(ふしはかせ)、ごまてん、

とある(精選版日本国語大辞典)。浄瑠璃の譜も,平曲の記譜法にならったものである。

義太夫節.jpg


ついでに、「義太夫節」とは、

竹本義太夫が大坂に竹本座を興して創始した浄瑠璃(語り物)で、劇的要素や豪快さ緻密さにひときわ優れ、人形浄瑠璃はもとより歌舞伎を芯で支える重要な音曲となっています。竹本義太夫と共に作者として近松門左衛門が台頭し、人形浄瑠璃を隆盛に導いてゆきましたが、その後歌舞伎にも多く移され、歌舞伎の中で義太夫物は重要なポジションを担っています。三味線は太棹と呼ばれる豊かな音量とともに低音が利いた大型で、語りも低音から高音まで幅広く使われ、ドラマティックな表現力の豊かさがまさに命です、

とあるhttp://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3432。このため、「ちょぼ」を語ることを、

ちょぼ語り、

という(岩波古語辞典・江戸語大辞典)。

「ちょぼ」の二項目は、

江戸の佃島にて、白魚の廿一疋の称、これを一堆にして一ちょぼ、二ちょぼと云ふ、

とあり、これは、

博奕の簺(サイ)の目、廿一点出づるを勝とす、これより出でしか、

とある(大言海)。廿一は、サイコロの目の総和と等しいのである。

「ちょぼ」の三項目は、

樗蒲、
摴蒱、

と当てる。

サイコロ (2).jpg


サイコロを使った日本の賭博、

で、

ちょぼうち(樗蒲打)、

が訛って

ちょぼいち(樗蒲打)、

とも言う(大言海)。その道具を、

かり(樗蒲子)、

というため、

かりうち(樗蒲)、

ともいう(大言海)。

「ちょぼいち」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81の詳細は譲るが、

一個の賽で勝負する博奕。賭けた目がでれば賭金の四倍・四倍半・五倍を得るなど種類がある、

とある(江戸語大辞典)。「ちょぼいち」の、

「一」は、サイコロを一つだけしか使わないことに由来、

するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81ともある。

「ちょぼちょぼ」と「ちょぼいち」と関連づける説がある。

点を並べて打つ符号「:」や踊字「〻」などを「ちょぼちょぼ」ということがある。中国渡来の遊び「ちょぼ(樗蒲)」に使うサイコロの目に似ているので、点を「ちょぼ」というようになり、それを重ねたところから。また前と同じということも「〃」と表すことから、二つ以上の物事が同程度である様子も「ちょぼちょぼ」と言う、

とある(擬音語・擬態語辞典)。ただ、「ちょぼいち」は、

起源は江戸時代頃、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81、「かりうち(樗蒲)」の項には、

後世に、樗蒲(ちょぼ)と音読する博奕あり、

ともある(大言海)。あるいは、「ちょぼ(樗蒲)」と「かりうち(樗蒲)」は別なのかもしれない。

「かり(樗蒲)」が中国から渡来したのは古く、

晋の時代には大変流行したようで、『晋書』劉毅伝には劉毅と劉裕が樗蒲を行ったときの様子が詳しく記されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%97%E8%92%B2。しかし宋の頃には滅んだらしい。嬉遊笑覧には、

樗蒲と云ふものは、和名抄にも出、令などにもあれど、ここに盛んに行はれたるものとも見えず、されど、万葉集に是を仮名に用ひたる事見ゆれば、まれまれ此戯したる事なきにはあらず、漢土にても、こはいと古き戯にて、早く宋の代には滅びて、その制を知るものなし、

とある。ただ「かり(樗蒲子)」は、和名抄に、

樗蒲、一名、九采、加利宇知、

とあり、万葉集にも、

折木四哭(かりかね)、
切木四之音泣(かりがね)、

とあり、これについて、

雁(かり)が音(ね)の借字。折、切の字は、木を切りて作る意かと云ふ。木四は樗蒲子(かり)の四木なるを云ふなり、又万葉集「三伏一向(つくよ)」「一伏三起(ため)」「一伏三向(ころ)」などある、ツク、タメ、コロなど、四箇の樗蒲子(かり)を投げ、起伏してあらはれたる象、則ち、采の名称なり、突出(つけ)、囘(ため)、自(ころ)にもあるべきか。然れども、詳なることは知らず、

とある(大言海)。どうも「樗蒲」を「ちょぼいち」と呼ぶものと、「樗蒲」を「かり」と呼ぶものとは別のようである。前者は賽一個で出目を競うが、後者は、

中国古代のダイスゲーム・賭博で、後漢のころから唐まで遊ばれた。サイコロのかわりに平たい板を5枚投げて、その裏表によってすごろくのように駒を進めるゲームであったらしい、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%97%E8%92%B2。樗蒲は、唐の李翺『五木経』および李肇『唐国史補』によると、

サイコロのかわりに5枚の板(五木)を投げた。板は片面が黒く、もう片方が白く塗られていた。5枚のうち2枚には白い側に雉が描かれており、その2枚の裏側(黒い側)には牛(犢)が描かれていた。目の出方には下の10通りがある、

とある(仝上)が、大言海には、

木造の橢圓、扁平なるもの、四個を用いる。各箇一面黒くして、其中二箇に犢を畫き、他の一面は、各白くして、其二個に雉を畫きく、此四箇のカリを、盤上に投げうつが、カリウチにて、其黒、白、犢、雉の面の種種に表るることを、采と云ふ、其色采の象(カタ)に寄りて、勝負あるなり、

とある。個数の違いなと、細かな点は別にして、ゲームの中身は、似ているが、ここからは、「ちょぼ」は出にくい。

五木.png


「ちょぼちょぼ」の語感からいうと、「ちょぼいち」の「しょぼい」ゲーム感がなくもないが、わざわざ「ちょぼいち」とつなげる必要はなさそうで、

擬態語、ちょぼ、ちょび、ちょぼっ(日本語源広辞典)、

でいいのではないだろうか。

ちょぼっ、

は、

ひとつだけ小さくまとまってある様子、

ちょびっ、

は、

数量や程度が少しだけある様子、

のそれぞれ擬態語である(擬音語・擬態語辞典)。

ちょっぴり、
ちょびちょび、
ちょびりちょびり、
ちょろちょろ、
ちょろり、

等々近縁の擬態語はいっぱいある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年03月05日

刀自



「刀自」は、

とじ、

と訓ませる。「おも」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480055678.html?1613419123で触れたように、「母刀自」は、

おもとじ、
とも、
ははとじ、

とも訓ませる。「とじ」は、

トヌシ(戸主)の約、戸口を支配する者の意、家公(いへきみ)の対、

とあり(岩波古語辞典)、

「刀自」は万葉仮名、

とある(広辞苑)。

一家の主婦、老若に関わらない、

意である。

「家長」は男ですから、「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました、

ということらしいhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312892348が、

古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓はオホトジである。……7~8世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称としてみえ、……さまざまなレベルの人間集団を統率する女性が原義か。族刀自的なものから家刀自へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もいて、後世のような主婦的存在に限られない、

とある(日本大百科全書)のが分りやすい。万葉集に、

真木柱(まけはしら)頌めて造れる殿のごといませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず(坂田部首麻呂)、

とある。この意が転じて、

女性に対する敬称(岩波古語辞典)、
あるいは
主に年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語(広辞苑)、

として、

青海夫人(おおとじ)(欽明紀)、

と、名前の下につけて用いる、とある。更に、

御膳宿(おものやどり)の刀自を呼びいでたるに(紫式部日記)、

のように、

禁中の御厨子所(みずしどころ)、台盤所(だいばんどころ)、内侍所(ないしどころ)に奉仕した(事務・雑務に従う)女房、

の意でも使う(仝上)。

能面 姥.jpg

(能面「姥」 http://sakurai.o.oo7.jp/men.uba.htmより)

「刀自」の語源は、岩波古語辞典が、

tonusi→tonsi→tonzi→tozi、

というの転訛を示したように、

トヌシ(戸主)の義で、家をつかさどる者の意(万葉考別記・萍(うきくさ)の跡・俚言集覧・八重山古謡=宮良当壮・日本語源広辞典・広辞苑)、

と多数派である。大言海も、

戸主(とぬし)の義か。ジは宮主(みやじ)・群主(むらじ)・主(あるじ)などと同趣。叉、古書に負と書けるは、白水郎(あま)を泉郎と書けると同趣にて、倭名抄の誤を承けたり、

とする。確かに、和名抄に、

負、度之、劉向、列女列伝云、古語老母為負、今案和名度之俗用刀自二字者訛、

と「刀自」を誤用とし、さらに、「刀自」を老女に言うについて、

謂老女為召(度之)、字従目也、今訛以貝為自歟、

とする。和名抄がこう書くには理由がある。「刀自(トウジ)」は漢語であり、

老母の称、

とある(字源)。そして、

婦、即ち「女篇+負」の古字たる負の字を誤りて二分し、さらに転訛せしものか(書言字考)、

とある(仝上)。つまり、

負→刀+貝→刀+自、

と転訛したのであり、和名抄は、「負」を「刀」と「貝」に二分したのが、劉向・列女伝であること、それがさらに転訛して「刀」と「自」になったことを承知していたのである。我国では、それを、

主婦、また年たけたる夫人の称、

の意味で使う(字源)。つまり和語「とじ」に当てたのである。今日では、「負」(慣習フ、漢音フウ、呉音ブ)の由来にも、

会意。「人+貝(財貨)」で、人が財貨を背負うことを示す、

とあり、「負」は、「おう」とか「せおう」「せをむける」といった意であり、「婦」の含意は丸きりないが、

老母の称、

の意は、確かに辞書に載る(漢字源)。

つまり、「負」は「婦」の古字であった。それが、誤って、「刀」と「自」に分けたとき、

刀+自なのに刀+貝とした、

とまで言っているのだから、和名抄は、漢語「刀自」の由来を弁えていたのである。この来歴から考えると、

刀自、

を、意味のずれを承知の上で、和語「とじ」に当てたと見える。あるいは、本来、「とじ」は、

老母、

を指していたのかもしれない。そう見てくると、

トジ(戸知)の義(話の大事典=日置昌一)、
トジ(杜氏)の転。女性が酒を管理したことから(明治大正史=柳田国男・たべもの語源抄=坂部甲次郎)、
トは富、ジはアルジ・ヂ(主)の意で女性への敬称(仙覚抄・日本古語大辞典=松岡静雄)、
トドマリテ、シマリをすべき人の意(本朝辞源=宇田甘冥)、

等々の諸説は、採りがたい。

「負」(慣用フ、漢音フウ、呉音ブ)は、

会意。「人+貝(財貨)」で、人が財貨を背負うことを示す、

とあり、「おう」とか「せおう」「せをむける」といった意であり、「婦」の含意はない。

「刀自」の「刀」(漢音トウ、呉音ト・トウ)は、刀そのものを描いた象形文字(漢字源)。

金文 刀.png

(金文(殷) 「刀」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%80より)

「婦」(慣用フ、漢音フウ、呉音ブ)は、

会意。「女+帚(ほうきをもつさま)」で、掃除などの家庭の仕事をして、主人にぴったり寄り添う嫁や妻のこと、

とある(漢字源)。

甲骨文字 婦.png

(甲骨文字(殷) 「婦」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A9%A6より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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ラベル:刀自
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2021年03月06日

杜氏


「杜氏(とうじ)」は、「刀自(とじ)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480333578.html?1614887969で触れたように、「刀自」を、

トジ(杜氏)の転。女性が酒を管理したことから(明治大正史=柳田国男・たべもの語源抄=坂部甲次郎)、

と、「杜氏」由来とする説がある。確かに、「刀自」も、

とうじ、

とも訓ませる。だから、当然、「杜氏」も、「刀自」由来とする説がある。ひとつは、

酒造家の酒壺をいう刀自から(東雅・名言通・木綿以前のこと=柳田国男)、

というものである。これは、

奈良・平安時代造酒司(さけのつかさ)が酒をつくるのに用いた壺を〈大刀自(おおとじ)〉〈小刀自(ことじ)〉と呼び,後の人が酒をつくる人をも刀自と呼んだとする説、

とつながる(世界大百科事典)。いまひとつは、

寺社で酒つくりが行われる以前,酒つくりは家庭を取りしきる主婦(刀自)のしごとであり,刀自が転じたものであるとの説(仝上)、

である。これは、「刀自」の由来の、

トジ(杜氏)の転。女性が酒を管理したことから、

と通じ、上代、「酒」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.htmlは、

濁酒なれば,自ら,食物の部なり。万葉集二,三十二『御食(みけ)向ふ,木缻(きのへ)の宮』は,酒(き)の瓮(へ)なりと云ふ。土佐日記には,酒を飲むを,酒を食(くら)ふと云へり。今も,酒くらひの語あり,或は,サは,発語にて,サ酒(キ)の転(サ衣,サ山。清(キヨラ),ケウラ。木(キ)をケとも云ふ)、

とあり(大言海),「さけ」の古語「酒(キ)」は,

醸(かみ)の約,字鏡に「醸酒也,佐介加无」とあり。ムと,ミとは転音、

とある(仝上)。「醸す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464017690.htmlの古語は、

か(醸)む,

であり(岩波古語辞典)、酒は、

もと,米などを噛んで作ったことから、

であり(大言海)、「カム(醸)」は,

口で噛むという古代醸造法、

だからである(日本語源広辞典)。だから、

口噛みは女性の仕事で、殊に神に供える神酒は、若い生娘が噛んだものでなければならなかった、

https://wajikan.com/note/sakezukuri/、その娘たちを束ねていたのが「刀自」だから、

酒造りの責任者、

の「杜氏」につながる(仝上)、とするものである。確かに、「刀自」は、

さまざまなレベルの人間集団を統率する女性が原義か、

とされる(日本大百科全書)ように、

族刀自的なものから家刀自へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もいて、後世のような主婦的存在に限られない、

含意ではある(仝上)。また、『大隅国風土記』逸文(713年(和銅6年)以降)に、

大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があり、「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

口噛み酒は唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米にも分布している、

という(仝上)ことで、

現在のところ最有力説、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E6%B0%8F

杜氏は元々、刀自(とじ)という文字が宛がわれていた。刀自とは、日本古語では戸主(とぬし)といい、家事一般をとりしきる主婦のことを指し、働く男を指したという刀禰(とね)の対語にあたる。東南アジア各地には、煮た穀物を口で唾液と共に噛みつぶし、空気中から野生酵母を取り込んで発酵させて酒を造る、いわゆる口噛みの酒という原始的な醸造法が広く存在した。……こうした製法の時代に、酒造りは女性の仕事であったと考えられている。やがて朝廷の造酒司(みきのつかさ)において酒が造られていた飛鳥時代以降にも、酒部にはまだ女性も含まれていたが、時代を下るにつれ酒造りは次第に男性の仕事になっていった。それでも職名には「とじ」の音だけが受け継がれたとする、

ということになる(仝上)。しかし、「杜氏」が「刀自」からきているとするには、

口噛み酒→女性が口噛み→それを束ねる刀自→杜氏、

と、口噛みの女性を束ねるだけで、「刀自」と酒造りとつなげるのは、少し無理がありはしまいか。「杜氏」は、確かに、

酒造家の酒を醸造為る長(おさ)、

の意もあるが、広く、

酒造りの職人、

をも指す。むしろ、酒との直接のつながりを示すのは、

杜康説、

である(日本語源広辞典・俚言集覧・閑窓瑣談)。

魏武帝、短歌行「對酒當歌、人生幾何、譬如朝露、去日苦多、慨當以慷、憂思難忘、何以解憂、只有杜康、

とあり、「杜康(とこう)」は、

古、酒を造りし人、転じて酒の異名、

である(字源)。文明九年(1477)の史記抄に、

さかとうじとありて古き語なり、和邇雅(元禄)に杜氏とあり(人倫訓蒙圖彙、幷に合類節用集)、又、支那三代の周の世に杜康と云ふ者、酒を造りたりとて、支那にては、酒の事を杜康と云へり、杜氏の字は、杜康より考へたるものと見ゆ。杜氏を延べてトウジの意か、又は、ウジの仮名遣は氏の訓か、

とあり(大言海)、

東寺に伝わる『東寺執行日記』にもこれを裏づけるように読める記述がある、

ともあるhttp://www28.tok2.com/home/okugawa/kodawarinihonsyu/nihonsyu/s-chisiki/2.htm

確かに、最もあり得ると思うが、大言海は、一蹴する。職人たちが、

杜康の事を知りて、互いに杜氏など呼びあぐる理なし、

と。しかし、「杜氏」という職掌が生じるのは、

江戸期以降、産業としての酒作りが高度化、複雑化し、日本酒造りが寒造りになってからは一時期に集中するようになり、季節労働力の組織化が起こった。各地の酒蔵が冬場の働き口として次第に定着していき酒造りの最高責任者としての杜氏が一層重要になり、蔵で働く人々を組織化していった、

というところに起因(仝上)する、新しい言葉ではないのか。

伊丹での酒づくり(『日本山海名産図絵』より.jpg

(伊丹での酒づくり(『日本山海名産図絵』)https://edo-g.com/blog/2017/05/sake.html/sake7_lより)

酒造りの初出は、『日本書紀』崇神紀に、

高橋邑(たかはしのむら)の人(ひと)活日(いくひ)を以て、大神(おほみわ)の掌酒(さかびと)(掌酒 此をば佐介弭苔(さかびと)と云ふ)とす、

http://hjueda.on.coocan.jp/koten/shoki14.htm、「杜氏」の言葉は使われない。その後、

朝廷による酒造りが営まれるようになり、飛鳥時代には朝廷に造酒司(みきのつかさ)という部署が設けられ、酒部(さかべ)と呼ばれる専門職が酒造りを担当していた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E6%B0%8F

《令義解(りようのぎげ)》によれば大和,河内,摂津の3国出身の60人の酒部(さかべ)が造酒司で酒造に従事し,彼らは調(ちよう),雑徭(ぞうよう)を免ぜられている、

とある(世界大百科事典)。やがて主流は寺院に移り、

醸造についての専門知識を備えた僧たちが僧坊酒を造るようになった。この僧たちは造酒司の酒部とは異なり、菩提酛に代表されるようなそれぞれの寺院の味や造り方を分化させていった、

が(仝上)、ここにも「杜氏」は存在しない。やがて、酒部の子孫を自称する人々などが、民間で酒を造り始め、

酒師(さかし)、

といい、また酒を造り販売した店を造り酒屋(あるいは「酒屋」)という、とある。現在では完全に杜氏集団のなかの仕事である麹造りについても、

まだ酒造りの職人集団の仕事ではなく、造り酒屋の仕事ですらなかった。なぜなら、それは麹屋という、麹造りを生業とする別の業界の店へ外部発注に出していたからである、

とある。これが完全に組織化される必要が生まれるのは、慶長5年(1600)、

鴻池善右衛門による大量仕込み樽の技法、

の開発、さらに、幕藩体制が敷かれ、

各地方において農民と領主の関係が固定したこと、

で、

概して土地が乏しく夏場の耕作だけでは貧しかった地方の農民が、農閑期である冬に年間副収入を得るべく、配下に村の若者などを従えて、良い水が取れ酒造りを行なっている地域、いわゆる酒どころへ集団出稼ぎに行ったのが始まりである、

と、これが現在の「杜氏」「蔵人」が制度化した理由とある(仝上)。

とすると、「杜氏」という言葉は、比較的新しいのではないか。人倫訓蒙図彙(1690)に、

酒屋〈略〉酒造る男を杜氏(トウジ)漉弱(ろくしゃく)といふなり、

とある(精選版日本国語大辞典)。とすれば、その集団に、

杜氏(とし)、

と名づけることはあり得る。室町時代の「史記抄」などに、

さかとうし、

の表記があるので、

杜氏(とし)→とうし→とうじ、

といった転訛かと推測する。もちろん憶説だが。

因みに、「氏」(漢音シ、呉音ジ・シ)は、

象形、氏はもと、先の鋭いさじを描いたもので、匙(シ)と同系。ただし古くより伝逓の逓(テイ つき次と伝わる)に当て、代々と伝わっていく血統を表す、

とあるが(漢字源)、

平たい小刀や匙を表す。ここから同じ食事を分かつ一族の意が生じた、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%8Fのが、「匙」の意味がよくわかる。

甲骨文字 氏.png

(甲骨文字(殷)「氏」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B0%8Fより)

本来は、

中国で、同じ女性先祖から出たと信じられた古代の部族集団(姓)のうち、住地・職業、または兄弟の序列などによって分かれた小集団のこと、またその小集団の名につける、

とある(漢字源)。しかし、姓と氏が混同され、

すべての家の血統を表す名の下につける、

となる。日本の場合、「氏(ウヂ)」も、

同じ血族の集団を示す名、

として(広辞苑)、

蘇我氏、物部氏、大伴氏等々、

氏神をまつり、氏人を率いて、姓(かばね)を定められて天皇氏の政治に参加した、

が(岩波古語辞典)、後には、

単に人命に添えて敬意を示す語、

となった。この「杜氏」の「氏」もそれと考えていい。

「杜氏」の語源説には、他に、

社司説 神社でお神酒(みき)を造る人という原義から由来するとする説。時代の推移のなかで、「社」は「杜」、「司」は「氏」へ変換されたとされる。
頭司説 酒造りチームの一党を率いるリーダーという意味の「頭司」(とうじ)が起源だとする説。現在でも「杜氏」を「頭司」と書く酒蔵もある。

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E6%B0%8F。大言海は、物類称呼の挙げる、

藤次郎と云ふ者、善く酒を造りたるより始まる名なり、

という説を採る。是非の判断はつかない。

なお「杜氏」の「とうじ」の表記については、

歴史的かなづかいは「さかとうじ(酒杜氏)」の項に引用の「史記抄」など室町時代の文献に「さかとうし」の表記がみえ、当時まだ「とう・たう」「じ・ぢ」の区別はあったと考えられるところから「とうじ」とする説に従う、

とあり、「とうじ」であったと推測される(精選版日本国語大辞典)。とすると、「氏」は、

うぢ、

とある(岩波古語辞典)ので、「トウヂ」と読ませたのではなさそうである。

また、「杜氏」については、http://www28.tok2.com/home/okugawa/kodawarinihonsyu/nihonsyu/s-chisiki/2.htmに、詳しい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:杜氏
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2021年03月07日

糝粉


「糝粉(しんこ)」は、

精白した粳米(うるちまい)を乾燥して挽いた粉、

の意である(たべもの語源辞典)。江戸後期の『瓦礫雜考』に、

他物の混ざらない米の粉の意で、シンコ(真粉)の義か、

とある。「糝」(シン、サン)は、

こながき。米の粉をかきまぜて煮たてたあつもの、

の意だが、

米粒、

意でもあり(字源)、「糝粉」は漢語で、

粳米(うるち米)の粉、

の意である(仝上)。中国由来と考えていい。今日、

新粉、

と書き,

米粉(こめこ)、

と呼ぶこともある。普通品を、

並新粉,

きめの細かい上質品を、

上新粉,
上用粉、

と呼ぶことも多い(世界大百科事典)とあるが、細かく、目の粗いものを、

新粉(糝粉、しんこ)・並新粉(並糝粉、なみしんこ)、

細かいものを上新粉(上糝粉)、

更に細かいものを上用粉(じょうようこ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%96%B0%E7%B2%89とあり、その用途は、

新粉  団子・すあま等、
上新粉 団子・柏餅・ういろう等、
上用粉 薯蕷饅頭等に配合。薯蕷粉(じょうよこ)とも言う、

とある(仝上)。大言海が「しんこ」に、

新粉、

と当て、

粳米の粉を水に捏ねて蒸して、餅の如くしたるもの、

とは、

糝粉餅、

を略して言うのを指す。俚言集覧には、

真餻、

と当てて、

米を粉にしてねりて蒸して叉搗きたる餅をいふ、

とある(たべもの語源辞典)。

糝粉も違う流行したため、それを「糝粉」と略して呼び、その方が粉より多く用いられるようになった、

とある(仝上)。

糝粉細工.bmp

(糝粉細工 精選版日本国語大辞典より)

江戸時代、文化(1804~18)頃に糝粉に色をつけたりして鳥獣草木の形に作って四角な薄い杉板の上に載せた糝粉細工がはやって子供の玩具になった、

とある(仝上)。はじまりは、『毛吹草』(1638)に見える、

しんこ馬、

という、新粉餅で馬の形をつくったものと思われる(世界大百科事典)が、これが江戸中期ころから子ども相手の屋台店などで行われ,昭和まではよく見かけた。僕の子供の頃の昭和廿年代までは、まだ縁日にこんな細工を、実演していた記憶があるが,いまはほとんど見られない。

はさみ,竹串(たけぐし),へらなどを用いて細工したものに色をつけ,蜜(みつ)をかけて食べるようにする、

らしいが,幕末期の『守貞漫稿』に、すでに食べる子はまれだとされている(仝上)。

しんこ細工.jpg


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年03月08日

おぞまし


「おぞまし」には、

悍し、

とあてる語と、

鈍し、

と当てる語がある(広辞苑)。前者は、

ぞっとするようで嫌な感じだ、恐ろしい、
我が強い、強情だ、

という意味であり、後者は、

鈍い、愚かしい、

という意である。どうも、「おぞまし(鈍し)」は、

おそし、

からきて、

遅し、
鈍し、

と当て、

はやし(速し)・とし(疾し)の対、

とあるので、

動作や心の動きがにぶい、

意であり、それが、

おぞし、

と転じ、

おぞまし、

へと転じた(大言海)ものと見られる。

「おぞまし(悍し)」は、

おぞくれ、おぞしと同根、

とある(岩波古語辞典)ので、

おぞし(悍し)、

からきている。ただ、「おぞし」は、

気の強さと能力を備えている(源氏「(乳母は)物づつみせずはやりがに(短気で)おぞしき人」)、

という意であり、それを傍から見て、

強烈で恐ろしい(源氏「(身投げなどとば)おどろおどろしくおぞしきやうなりとて」)、

という意になる(岩波古語辞典)。この原意は、

押すを活用せしめたる語なるか、

とある(大言海)ので、

強気、

の含意からきているのかもしれない。

なお、「おぞし」には、

おずし(悍し)、

という、

オゾシの母音交替形があり、ほぼ同義だか、

強烈で恐ろしい(源氏「(荒々しい関東で育ったから身投げなどという)すこしおぞかるべき事を思い寄るなりけむかし」)、

という意で使われる(仝上)。「気が強い」「強情だ」の意の、「おずし」は、

上代から見られるが、「おぞし」は中古からで、意味の中心も、(恐ろしい)へと移っていった、

とある(日本語源大辞典)。

おずし→おぞし、

と同様、「おぞまし」にも、

おずまし、

という「おぞまし」の母音交替形があり、

おずまし→おぞまし、

の転訛がある(岩波古語辞典・大言海)。

「おぞし(鈍し)」と「おぞし(悍し)」とは、別由来と考えられるが、ただ、「おぞし」は、

オゾシ(鈍)とオヅ(怖)の混合か(両京俚言考)、

との説もある(仝上)し、「おぞくれ」が、

オゾオクレの約、オゾはオゾシのオゾと同根。オクレは遅れの意、

気が強くて愚かである意、

とあり(岩波古語辞典)、「おぞし(鈍し)」と「おぞし(悍し)」は、辿れば、無縁ではないかもしれない。因みに、名義抄には、

仡・忔 オゾクレタリ、

とある(仝上)。「仡」(漢音キツ、ギツ、ゴツ、呉音コチ、ゴチ)は、

形声。「人」+音符「乞」、

いさましい、勇壮、

の意https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BB%A1、「忔」(キツ、ギツ)は、喜ぶ、嫌う、と真逆の意味を持つ。ついでながら、「悍」(漢音カン、呉音ガン)は、

会意兼形声。旱はからからに乾くこと、悍は「心+音符旱」で、かわいてうるおいのない心、むき出しの性分のこと、

とあり(漢字源、)、「気が強くて荒々しい」意である。

漢字 悍.gif

(漢字「悍」 https://kakijun.jp/page/kanar10200.htmlより)

なお、「おぞし」から「おぞまし」に転ずる、「おぞし」+「まし」の助動詞「まし」については、

将(む)より転ず。動作を未然に計りて云ふ助動詞、稍、願ひ思ふ意を含めて用ゐるもあり、

とあり(大言海)、また、

現実にはおこらないことや、事実と異なることを仮定し、仮想する意を表す。また、仮定や空想に立つ種種の主観的な情意を表す、

ともある(明解古語辞典)。その造語法は、

現実の事態(A)に反した状況(非A)を想定し、「それ(非A)がもし成立していたのだったら、これこれの事態(B)が起こったことであろうに」と想像する気持ちを表明するものである。世に多くこれを反実仮想の助動詞という。「らし」が現実の動かし難い事実に直面して、それを受け入れ、肯定しながら、これは何か、これは何故かと問うて推量するに対し、「まし」は動かし難い目前の現実を心の中で拒否し、その現実の事態が無かった場面を想定し、かつそれを心の中で希求し願望し、その場合起こるであろう気分や状況を心の中に描いて述べるものである。これは「行く」から「ゆかし」(見たい、聞きたいと思う意。原義はそちらへ行きたい)、「うとむ」から「うとまし」、「むつ(睦)ぶ」から「むつまし」、「つつむ」から「つつまし」などの形容動詞がつくられた造語法(yuku+ashi→yukasi)と同一の方法によって、推量の「む」から転成した(mu+asi→mashi)ものと思われる、

とあり(岩波古語辞典)、「おぞし」の、主体が現実に感じている感情ではなく、相手(事態)を見ながら、

そうなってほしくはないがそうなるだろう→そうなると恐ろしい、

といった含意があり、「おぞし」とは異なる使い方であったはずである。「おぞし」の、

「(荒々しい関東で育ったから身投げなどという)すこしおぞかるべき事を思い寄るなりけむかし」、

と、「おぞまし」の、

「(嫉妬深い女が)腹立ち怨ずるに、かくおぞましくは、……絶えて見じ」

とは。共に源氏物語だが、(そうなってほしくないのにそうなるという)事態に対する内的心の葛藤の差が、含意としてあったものと思われる。

なお、

オゾシ・オゾマシに類する型の語は、ツベタシ・ツベタマシ(冷)、アラシ・アラマシ(荒)などある、

とある(岩波古語辞典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2021年03月09日

糝薯


「糝薯(しんじょ)」は、

真薯、
真蒸、
真丈、

とも表記しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%96%AF

糝蒸、

と書くものもあり(たべもの語源辞典)、

しんじょう、

とも呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%96%AF

エビ、カニ、魚の白身などをすりつぶしたものに、山芋や卵白、だし汁などを加えて味をつけ、蒸したり、ゆでたり、揚げたりして調理したもの。お吸い物やおでんの具にしたり、直接薬味をつけて食べるなどする(仝上)、
魚、鳥、蝦などの肉のすりみに、すった山の芋・粉類を加えて調味し、蒸しまたは茹でたもの(広辞苑)、
魚をすりつぶし、すったヤマノイモを加えて調味し、蒸したり揚げたりゆでたりした練り物(デジタル大辞泉)、
すり身にした魚や鳥肉に、卵白やだし汁で味をつけてすりまぜ、固めて蒸したもの。わさび醤油でそのまま食べたり、吸いものの実にする(精選版日本国語大辞典)、

等々とあり、

糝薯を油で揚げたものを揚げ糝薯、海老を使ったものを海老糝薯、

といい、糝薯の上物とされた、という(たべもの語源辞典)。川柳に、

野田平がけに親玉の海老糝薯、

とある。野田平は蒲鉾屋、親玉の海老は団十郎にかけている、とある(仝上)。

「糝薯」の「糝」は、「糝粉」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480366901.html?1615060023で触れたように、「糝」(シン、サン)は、

こながき。米の粉をかきまぜて煮たてたあつもの、

の意だが、

米粒、

意でもあり(字源)、「糝粉」は漢語で、

粳米の粉、

の意である(仝上)。もともと、「糝薯」は、

古くは米の粉とヤマノイモを原料としたことからこの名がある(「書言字考節用集(1717)」)、

ので(精選版日本国語大辞典)、本来、

糝薯、

と思われる。「糝薯」の「糝」は、

ねばるという意味から用いられている、

という(たべもの語源辞典)のは、確かに、

魚肉をすり鉢ですったところに、薯(山の芋)を加えてさらにすったものは粘ったものになる、

けれども、

この状態をあらわしたのが糝であり、薯を加えてつくったものであるから、この字が用いられた、

とする(仝上)のは、「糝」の意味から考えると、後世のこじつけではないか。むしろ素直に、

古くは米の粉とヤマノイモを原料とした、

からこそ、「糝」(こめつぶ)と「薯」(山の芋)と当てたと見るべきではないか。

「いも」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479827829.htmlで触れたように、「薯」(漢音ショ、呉音ジョ)は、

会意兼形声。「艸+音符署(ショ 集まる、中身が充実する)」。根が充実してふといいも、

とある。「藷」と同じで、「いも」の意。「薯蕷」(ショヨ)は「ナガイモ」、「蕃薯」(バンショ)、「甘藷」は「さつまいも」になる(漢字源・字源)。「とろろ汁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479813734.htmlで触れたように、「やまいも」は、

山芋、
薯蕷、

とあて、

ヤマノイモ(山の芋)、

と同じである。鎌倉時代に編纂された字書『字鏡(じきょう)』には、

薯蕷、山伊母、

と載る。山野に自生するので、

自然生(じねんじょう)、
自然薯(じねんじょ)、

と言った。これは、里芋に対して、山地にあるから

ヤマイモ、

と言ったのである。漢名は、

薯蕷(じょよ)、

とされるが、牧野富太郎が、これはナガイモの漢名としている(たべもの語源辞典)のは、

古くは中国原産のナガイモを意味する漢語の薯蕷を当ててヤマノイモと訓じた、

からである。「糝薯」「糝」「薯」の字を当てたのには意味があるはずである。

「糝薯」が創めて出るのは、元禄時代(1688~1704)、文化・文政(1804~30)頃に大流行した、という(仝上)。

八百善の四代目当主、栗山善四郎によって著された江戸料理の献立集、『料理通』(1822年)によれば玉子(たまご)の白みだけを加えたものを蒲ぼこ、薯蕷(やまのいも)と鶏卵(とりのこ)の白みを加えて練ったものを真薯というとされている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%96%AF。似たものに、

はんぺん、

があるが、これはすり下ろした白身魚に山芋を加えて練ったもので、主に関東で食されていた(仝上)。なお、「はんぺん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479729382.htmlについては触れた。

えび真薯揚げ.jpg

(えび真薯揚げ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%96%AFより)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:糝薯
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2021年03月10日

のべつまくなし


「のべつまくなし」は、

のべつ幕なし、

と当てるが、

芝居で、幕を引かず、休みなく引き続いて演ずること、

の意(広辞苑)で、

幕を引かず(つまり休みなく)続けざまに演じられる長丁場の芝居を指す、


とあるhttp://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess004.html。そこから転じて、

ひっきりなしに続くさま、

の意で使う(広辞苑)。この「のべつまくなし」を、

のべつくまなし、

と使う人が、「のべつまくなし」(32.8%)に対して、42.8%もいるという(文化庁の平成23年度「国語に関する世論調査」)。「くまなし」は、

隈無し、

と当て、

隠れるところ(隈)がない、

という意味なので、少し意味が変わる。ま、言葉は生きものなので、いずれ、

のべつくまなし、

が、

のべつまくなし、

と重なって行くのかもしれないが。

「のべつ」は、

絶え間ないこと、
ひっきりなし、

という意味で、

のべたら、
のべたん、

等々とも言う。「のべ」は、

延べ、

と当て、

延べること、
のべたもの、

の意だが、ここから、

延べ百人、

等々と使う、

同一のものが何回もふくまれていても、それぞれを一単位として数えた総計、

の意で、今日使う。「のべ」には、

延紙の略、

もあり、

小形(縦七寸、横九寸ほど)の小型の鼻紙、中世の公家の懐中紙で吉野ののべ紙に由来する、

とある(広辞苑)が、

杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ)、

ともある(江戸語大辞典)。また、「のべ」には、

延打(のべうち)の略、

の意もあり、これは、

金属を鍛えて平らに打ち延べつくること、

を意味し(広辞苑)、特に、

延打煙管、

というように、

羅宇(キセルの火皿と吸い口とをつなぐ竹の管)を用いず、全部金属で製した煙管、

の意である。

延棹、

というのも、

継棹でない三味線の棹、

を指す(江戸語大辞典)。「杉原紙」は、

楮を原料として製した、奉書に似て薄く柔らかな紙。平安時代から播磨の杉原谷で製し、中世に多く流通した、

とある(広辞苑)。

米粉を添加し、凹凸(皺)のない和紙、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E7%B4%99。とくに武士や僧侶の間で慶弔用,贈答用,目録用,錦絵用などに広く使用された。小判の小杉原は男子用の高級懐紙として好まれた(百科事典マイペディア)が、江戸中期には庶民も使うほどに普及し、需要を賄うため各地で様々な「杉原紙」が生産されるようになった、という。縦約二一センチメートル、横約二七センチメートルと小さなものなので、ほぼ広げたまま懐紙にする。半紙というものは、

杉原紙の寸延判を全紙としてこれを半分にした寸法の紙、

をさしhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%B4%99、延紙(延べ紙)を半分にした寸法の紙と定義される。「延紙」の「のべ」は、その意味ではないか、と想像する。

こう考えると、「のべつまくなし」の「のべつ」を、

「のべつ」は「述べる」の「述べ」に助動詞の「つ」が付いた語、

という説(語源由来辞典)は、あり得ない。むしろ、

延べ+ツ+幕+無し(日本語源広辞典)、
ノベ(延べ)に助動詞ツをつけたもの、マクナシは芝居用語で幕を引くことなしに場面を連続すること(上方語源辞典=前田勇)、

とし、

ツは継続・反復だから、「延ばし続けて膜を下ろさない」意の芝居用語で、庶民の作った言葉、

とする(日本語源広辞典)ほうがまともだろう。語感からいえば、

同義語ノベツ・マクナシを重ねた強調語、

というのが正確な気がする(上方語源辞典=前田勇)。

国立劇場の定式幕.jpg

(国立劇場の定式幕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BC%8F%E5%B9%95より)


「幕」といえば、この場合、

定式幕(じょうしきまく)、

という、

引幕、

を指す。

幕を引く人が手動で左右に開け閉めする、

ので、引幕というらしいhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol110.html)。これは、

狂言幕、

といい(仝上)、

三色に染めた布を縦に縫い合わせて作った引幕、

で、

おもに歌舞伎の舞台で使われる。歌舞伎の舞台では演目や場面によって様々の幕が使われるが、定式幕は芝居の幕開きと終幕に使われる。「定式」とは「常に使われるもの」といった意味である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BC%8F%E5%B9%95)。江戸時代には下手から上手に引いて閉じていたらしい(仝上)。江戸時代、芝居小屋における引幕は、

いわゆる『江戸三座』(中村座・市村座・森田座)と呼ばれる官許(幕府の許可)の芝居小屋だけに許されていた大変名誉なもので、それ以外の小芝居では、引幕の使用は許されませんでした。また、定式幕の三色の配列は各座(江戸三座)によって、異なっており、中村座は黒・白・柿、市村座は黒・萌黄・柿、森田座は黒・柿・萌黄の順序(左から)でした、

とあるhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol110.html

中村座式の定式幕 (黒-白-柿色).png

(中村座式の定式幕(黒-白-柿色) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BC%8F%E5%B9%95より)

市村座式の定式幕 (黒-萌葱-柿色).png

(市村座式の定式幕(黒-萌葱-柿色) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BC%8F%E5%B9%95より)

森田座式の定式幕 (黒-柿色-萌葱).png

(森田座/守田座式の定式幕(黒-柿色-萌葱) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BC%8F%E5%B9%95より)

定式幕の起源は、

中村座座元初世中村勘三郎が、幕府の御用船『安宅丸』の江戸入港の際、得意の木遣りで艪漕ぎの音頭とり、見事、巨船の艪の拍子を揃えた褒美に船覆いの幕(帆布ともいわれている)を拝領したものとされています。これが黒と白の配色だったようで、その後、黒・白・柿の中村座の定式幕となった、

と伝えられる(仝上)、とある。現在劇場で主流の、上下に開閉する、

緞帳、

は、江戸時代から明治初期頃までは、

ごく簡素で粗末な巻き上げ式の幕を緞帳と呼び、引幕の使用を許されない小芝居に専ら使われていましたので、俗に小芝居のことを緞帳芝居と蔑称していました、

とありhttp://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/2568

明治後期あたりから西洋式の劇場が建設され、西洋演劇の影響を受けて緞帳は豪華でモダンなものへと生まれ変わりました、

とある(仝上)ので、「のべつまくなし」の「幕」は、緞帳ではなく、引幕を指していたと思われる。

「のべつまくなし」は、江戸語大辞典には載らず、大言海にも載らない。

「絶え間なく」といった意味の「延べつに」は、江戸時代から見られるが、「のべつ幕なし」の用法は明治以後から見られる、

とあるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1059210765ので、あるいは、「緞帳」の可能性が、微かにある。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年03月11日

めくちかわき


「めくちかわき」は、

目口乾き、

と当てるが、僕は方言だと思っていた。

噂好きで、ご近所に目ざとく、妙に人のことに詳しい、

そんな含意で受け取ってきた。

穿鑿好き、

という意味である。似た言葉が見つからないが、

隣近所の噂を触れ回る、

金棒曳(かなぼうひ)き、

が、どちらかというと近い含意だと思っていた。ところが、「めくちかわき」は、ちょっと意味がずれているが、

目はしがきいてくちやかましいこと、また、他人のあらさがしをする人(広辞苑)、

あるいは、

他人の欠点などを目ざとく見つけ、口やかましく言うこと。また、その人(デジタル大辞泉)、

と辞書に載るのである。

つねに見たり言ったりして目や口をうるおさないと、乾ききってしまう意、

とある(仝上)ので、井戸端会議的な、

穿鑿好き、
噂好き、

の意味がなくもない。ただ、江戸語大辞典には、

新関は目くちかわきの人ばかり、

という川柳(明和六年(1769)『柳多留』)のように、

他人のあらさがしばかりしたがる性癖、またその性癖の人、

と載る。これが古い意味とすると、方言に、古い意味が残ったとも考えられる。「めくちかわき」は、

もとは上方語、

という説http://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/ibaraki-me.htmlもあり、式亭三馬の『浮世風呂』(文化六~十年(1809~13))に、

人品(ひとがら)の能風(いいふう)をして居て、とんだ目口乾きだの。遊ばせの、入らっしゃいのと、食べつけねえ言語(ものいひ)をしても、お里がしれらあ、

とあり(仝上)、

現代でも名古屋で使われると言う、

とある(仝上)。まさに方言として残っている、ということか。

長屋の井戸端会議風景(東海道中膝栗毛より).png

(長屋の井戸端会議風景(『東海道中膝栗毛』)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF%E4%BC%9A%E8%AD%B0より)

浄瑠璃の、

「三つ寄すれば姦 (かしま) しい、目口乾きの色ばなし」(矢口渡)、

他人の欠点などを目ざとく見つけ、口やかましく言うこと、

の意味だが(江戸語大辞典)、その前に、そういううわさ話、世評を目ざとく耳にしている、という意味でもある。

「目口」というのは、

目と口、

の意だが、

目ざとく見つけて、噂する、

という含意がなくもない。

目口はだかる、

という言い回しは、

あきれ、驚いて、目と口が大きく開いたままふさがらない、

という意味(広辞苑)だが、「立ち開かる」の「はだかる」で、

広がり開く、

意で、

これを聞くにあさましく、目口はだかりておぼゆ(宇治拾遺)、

と使われる(広辞苑・デジタル大辞泉)。

目口を立てる、

といういい方もあり、

目くじらを立てる、

に同じ意で、「めくじら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/403963816.htmlで触れたように、

ささいなことにむきになる、
目角を立てて他人の欠点を探し出す、

という意味だが、語源的には、

「目+くじら(端・尻)」

で、目尻のことである。で、めくじらを立てるで、眼角を立てて、他人の欠点を言い立てる意となる。

人の噂をいうはかもの味がする、

とか、

他人の不幸は蜜の味、

とかいう。昔も今も、噂は尽きないが、噂が、リツイートされると、嘘も重なれば真実に化す、とはトランプ騒動で、いまも余震が続いている。考えれば恐ろしい世の中になった。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2021年03月12日

働き者


毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』を読む。

江藤新平.jpg


佐賀藩主鍋島直正に、

江藤は働き者にて、副島は学者なり、

評された江藤新平は、慶応三年(1867)東征大都督軍監に任命されてから、佐賀の乱に巻き込まれて処刑された明治七年(1874)の僅か七年ばかりの間に、疾風怒涛のように、明治政権の屋台骨づくりに奔走して、果てた。僅か四一歳の生涯であった。

著者は、こう評する。

明治維新は、徹底的民主主義者の江藤新平を立役者のひとりに加えたことで、一際光彩を放ったといえよう。西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允はじめ明治維新で活躍した人物は多い。かれらは、それぞれに大きな役割を果たしたが、それにもかかわらず代役を想定することは困難ではない。かれらが居なければ、誰かが多かれ少なかれ代わりを勤めたであろうことは推測可能である。ところが、江藤にだけはふさわしい代役が見当たらない。明治政府の草創期にもし江藤が不在であったなら、はたして人間の解放と人権の定立が現実ほどに前進したであろうか。多分に疑問が残る。明治維新の現場に江藤が居合わせたのはひとつの奇蹟だったのかもしれない。

明治三年(1870)、岩倉の求めに応じてまとめた、国政基本方針に関する答申書がある。そこで、

日本の建国の体、

は、

君主独截、

とし、こう付け加える。

独裁といえども合して不分は万機混雑して凡百のこと弘張せざるの思いあり、

として、統治権の一ヵ所への集中は弊害を生むと指摘し、

制法(立法)・政令(行政)・司法の三体、

要は、

三権分立を、

治国の要、

とする見解を示し、政体案と官制を提示した。そこには、上下議院制度までも構想し、

上議員が貴族院であるのに対し、下議院はひろく士族・平民から選出された議員からなる一種の民選議院、

とし、議院を設けなければならない理由を、

「天下の法」というものは天皇(政府)といえども恣意的に決めるべきではなく衆議を尽くさなければならないからであると説き、下議院についても、「天下の貨幣と転訛の債」の決定において天皇(政府)の独断は許されず民意に基づかなければならないからだ、

と説明した。

江藤改革案.jpg

(江藤の政治制度構想 本書より)

さらには、民法典の編纂にも取り組み、

フランス民法を手本にして新日本の民法をつくろう、

と決意した。江藤は、

フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい、
誤訳も妨げず、ただ速訳せよ、

というほどフランス民法典を高く評価し、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒めた漢詩を残している。

廟堂用善無漢蕃 廟堂善を用いるに漢蕃無し
孛国勢振仏国蹲 孛国(プロシャ)勢い振るい仏国蹲る
仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も其の法は美なり
哲人不惑敗成痕 哲人惑わず敗成の痕、

さらには、司法卿に転ずると、司法制度の確立を図り、

司法行政と裁判とを明確に分離、

し、

司法省は官の司直ではなく、「民の司直」であり、「人民ノ権利ヲ保護」することが最大の職責、

とし、裁判制度の確立をはかっていく。

しかし、佐賀の乱に際しては、彼自身の作った、単独で死刑判決はできない「司法職務規定」を無視して、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。これらはすべて法律を無視した(大久保による)私刑であった。さすがに、福沢諭吉は、

公然裁判もなく、其の場所に於いて、刑に處したるは、之を刑と云うべからず、其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し、

と痛烈に批判した。皮肉なことに、司法卿として司法制度確立の陣頭指揮を執った時、江藤は、裁判において特に留意すべき点として、

事務敏捷、

冤枉(冤罪)、

の二点を戒めていた。迅速さの代償として、

冤枉、

に自らが陥れられるとは思ってもみなかったろう。裁判長は、司法卿時代の部下、

河野敏鎌、

であった。裁判は形式的であり、

先ず結論ありき、

で、

判決案(擬律)、

は決まっていた。司法制度の確立に精魂を傾けていた江藤には心外の極みだったに違いない、

暗黒裁判、

であった。著者は、掉尾、

明治維新の精神における最良質部分の惜しみて余りある終焉だった、

と締めくくる。

江藤新平 写真.jpg


参考文献;
毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(中公新書)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年03月13日

のり


「のり」は、

海苔、

と当てる「のり」である。「海苔」は、

カイタイ、

と読む漢語である。

海の藻、

の意で、南越志に、

海藻、一名海苔、

とある(字源)。「のり」の漢名は、

紫菜(シサイ)、

といい、

水苔(スイタイ)、
海菜(カイサイ)、
石衣(セキイ)、
苔哺(タイホ)、
石髪(セキハツ)、

等々ともいう(たべもの語源辞典)、とある。日本では、古く、

紫菜、
神仙菜、

と呼ばれたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%8B%94、とあるのは、漢名由来である。平安時代の字書『天治字鏡』には、

海糸藻、乃利、

とある(大言海)。「海苔」は、

nöri、

で、「糊」も、

nöri、

で、同源のようである(岩波古語辞典)。

海苔はすでに上代、縄文時代から食用にされていたが、文字として海苔が初めて登場したのは、『常陸風土記』で、

古老の曰(い)へらく、倭武の天皇 海辺に巡り幸(いでま)して乗浜(のりのはま)に行き至りましき。時に浜浦(はま)の上に多(さは)に海苔(俗(くにひと)、乃理(のり)と云ふ)を乾せりき、

とあるhttps://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.html。「大宝律令」(701年制定)の賦役令(ぶやくりょう)では、大和朝廷への「調」(現在の税金)の一つに、

紫菜(むらさきのり)、

があるが、「紫菜」は「凝海藻(こもるは)」(=ところてん)やその他海藻類の2倍以上の価値があった、とある(仝上)。「出雲風土記」(733年)にも、

紫菜は、楯縫(たてぬひ)の郡(こほり)、尤(もつと)も優(まさ)れり、

とあり(仝上)、延喜式(平安中期)には、志摩・出雲・石見・隠岐・土佐などから算出したとある(たべもの語源辞典)。

粗朶(ソダ 海苔をつけるための樹の枝)を立てて海苔をとり始めたのは元禄年間(1688~1704)とされる(仝上)が、これには、

江戸の漁師は毎日将軍家に鮮魚を献上しなければならず、そのため浅瀬に枝のついた竹などで生簀を作り、常に魚を用意していました。冬になるとその枝にたくさんの海苔が生えることに着目したことが海苔養殖の始まりと言われています、

とあるhttps://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.html。「武江年表(ぶこうねんぴょう)」には、

大森で海苔養殖が始まった、

と記されている(仝上)。享保二年(1718)に、

品川の海に初めて海苔養殖のための「ソダヒビ」が建てられました。ちなみに「ソダヒビ」とは、葉を落として枝を束ねて作った物です。しかし、この頃は海苔の胞子(種)のつき方が不明で、もっぱら経験則に基づいた養殖であったため、年によって収穫量が違い、豊作なら大金が入り、失敗すると借金が残るので、海苔は「運ぐさ」と呼ばれていた、

とある(仝上)。その後、海苔養殖は幕府の保護を受け、江戸の特産品となった。「紫海苔」を、

浅草海苔、

と呼ぶのは、品川大森辺でとった海苔を浅草で製造して売ったから、という(たべもの語源辞典)。昔は、隅田川からも海苔がとれたという(仝上)。

海苔.jpg

(海苔(広益国産考) 日本語源大辞典より)

和語「のり」の語源は、

糊と同じで、ねばったさま、ヌルヌルした状態から「のり」といった(たべもの語源辞典)
粘滑(ヌルスル)の義(大言海)、
ヌルリ、ヌリがノリに変化した(日本語源広辞典)、
「糊(のり)」と同源で、「ヌルヌル」や「ヌラヌラ」などが変化した語(語源由来辞典)、

というところだと思われる。

粘り気があるところから(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヌル(濡)と同源の、ヌルヌルと辷る義の動詞ヌル(辷)の連用形名詞法ヌレが変化したもの(続上代特殊仮名音義=森重敏)

も同趣だと思うが、ただ「ぬる」(濡る)は、

ぬる(塗る)と同根、湯・水・涙など水分が物の表記につく意、

とあり(岩波古語辞典)、擬態語の「ぬるぬる」とは別由来と思われる。

板海苔.jpg


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:のり 海苔 紫菜
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2021年03月14日

桁違いの超人


高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学~人間のフリをした悪魔』を読む。

フォン・ノイマンの哲学.jpg


ノイマン型コンピュータで知られるノイマンだが、ノイマンの名のついたものは、量子論の、

ノイマン環、

ゲーム理論における、

ノイマンの定理、

等々、

20世紀に進展した科学分野のどの分野を遡っても、いずれとこかで必ず何らかの先駆者として「ノイマン」の導いた業績に遭遇する、

といい、「ノイマン」と冠のついた専門用語は、

ノイマン集合、
ノイマン・ボトルネック、
ノイマン・モデル、
ノイマン・バラドックス、

等々50種以上発見する、

とある。

わずか五三年あまりの短い生涯の間に、論理学・数学・物理学・化学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・社会学・政治学に関する150編の論文を発表、

し、

天才だけが集まるプリンストン高等研究所の教授陣のなかでも、さらに桁違いの超人的な能力を発揮した、

と著者は「はじめに」で書く。今日のコンピュータ、スマホへと続く、

ノイマン型アーキテクチャー、

で、

プログラム内蔵方式の概念を明確に定式化、

して、

コンピュータの父、

と呼ばれる一方、原子爆弾開発の「マンハッタン計画」の中心メンバーとして、

爆縮型原子爆弾、

を開発する。多忙な中、モルゲンシュテルンと『ゲーム理論と経済行動』を著したが、サミュエルソンは、

人生で出会った中でノイマンは「最も心の動きが速い天才」だと認め、「比類なきジョン・フォン・ノイマン」と呼んで敬意を表し、「私たちの専門分野なのに、彼は少し顔を出しただけで、経済学を根本的に変えてしまったのです!」

と述べている。

その天才ノイマンが、

人間のフリをした悪魔、

と呼ばれるのは、ノイマンとともに原子爆弾を開発し、核反応理論でノーベル物理学賞を受賞したベーテの、

フォン・ノイマンの頭脳は、常軌を逸している。彼は人間よりも進化した生物ではないか、

と言っている、

超人、

という意味ではない。非人道的な原子爆弾開発の罪悪感に悩む若きファインマンに、ノイマンは、

われわれが生きている世界に責任を持つ必要はない、

と断言して、彼を苦悩から救ったという。著者は、

要するに、ノイマンの思想の根柢にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、そしてこの世界には普遍的な責任や道徳など存在しないという一種の「虚無主義」である、

とする。事実原子爆弾開発のさなかのある夜、ノイマンはこう言ったとされている。

我々が今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている!……それでも私は、やり遂げなくてはならない。軍事的な理由だけでもだが、科学者として科学的に可能だとわかっていることは、やり遂げなくてはならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ。これははじまりにすぎない、

と。しかし、ノイマンを、

超人的な新人類が生まれることがあるとしたら、その人々はジョン・ノイマンに似ているだろう、

と評した「水爆の父」エドワード・テイラーの、

考えることを楽しめば、ますます脳は発達する。フォン・ノイマンは、自分の脳が機能することを楽しんでいたんだよ、

という言葉の方が、ノイマン自身に近いのではないか、という気がする。それも桁外れに高速な、

自働思考マシン、

なのではないか。ノイマン型コンピュータ発想のきっかけとなった、ジョン・エッカートとジョン・モークリーが開発していたコンピュータENIACにアドバイスして、計算速度を毎秒5000回まで向上させたとき、

これで、ようやく私の次に計算の早い機械ができた、

と言ったほどなのだから。

最後、ノイマンは、核実験に立ち会った時に浴びた放射線が原因とされる癌を発症し、

全身にガンの転移したノイマンは、ワシントンのウォーター・リード陸軍病院に入院した。彼の病室は、大統領の病室と同じ病棟にある特別室だった。その光景を、ルイス・ストロース原子力委員会委員長は、「もともと移民だったこの五〇代の男の周りを、国防長官、国防副長官、陸・海・空軍長官、参謀長官が取り囲んでいるという、驚くべき構図」だと述べている、

というアメリカという国家の最重要人物として死去した。

参考文献;
高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学~人間のフリをした悪魔』(講談社現代新書)

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2021年03月15日


糊、

と当てる「のり」は、

海苔、

と当てる「海苔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480467069.html?1615577953で触れたように、「海苔」は、

nöri、

で、「糊」も、

nöri、

で、同源である(岩波古語辞典)。ために、

黏滑(ヌルヌル)の意、滑(スル)に通ず、

とあり(大言海)、「海苔」の、

粘滑(ヌルヌル)の義、

とする(大言海)のと重なる、擬態語「ヌルヌル」由来と思われる。ただ、大言海が「黏」と「粘」と、旧字と新字とに使い分けている理由はわからないが。

ネマリ(粘)の転(東牖子)、
ネバリヲリ(粘居)の義(日本語原学=林甕臣)、
ヌメリ(滑)の義(言元梯・名言通)、
ノはヌラヌラのヌとネバネバのネとに通う(国語の語根とその分類=大島正健)、

も同趣旨、

ノリ(海苔)から(和訓栞)、

もあり得る。ただ、

米と水で煮てねる意で、ネリの義(和句解)、

はともかく、

絹と紙にぬるところから、ヌリ(塗)の義(日本釈名)、

は、「海苔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480467069.html?1615577953で触れたように、「ぬる(塗る)」は、

「ぬる(濡る)」と同根、湯・水・涙など水分が物の表記につく意、

とあり(岩波古語辞典)、別由来と思われる。

「糊」は、

米・正麩(しょうふ)などの澱粉質から製した粘り気のあるもの、

の意で、広くは、

接着剤、

を指す(広辞苑)が、衣服の形を整えるために使う。粘り気が必要で、米以外にも、

麦・大豆、

等々も煮てつくる(岩波古語辞典)。正倉院文書に、

叉下白米弐升、右合白土能(のり)汁料、

とある(仝上)。また平安末期の古辞書『色葉字類抄』には、

糊で貼る、

と載る(広辞苑)。

漢字 糊.gif


「糊(黏)」(漢音コ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。胡(コ)は「肉+音符古」の形声文字で、牛の下あごの上にかぶさる垂れた肉。糊は「米+音符胡(かぶせる)」で、誤字の上にかぶせて消す白い粉、

とあり(漢字源)、「糊粉」(ゴフン)、「模糊」(モコ)というように、「書き間違った處の上にぬりかぶせてそれを消す米の粉」の意で、「糊塗」はここからきている。他に、「のり」の意があり、「粥」の意から、「糊する」の使い方が出る(仝上)。他に、

会意兼形声文字です(米+胡)。「横線(穀物の穂の枝)と6点(穀物の実)」の象形(「米」の意味)と「ぼんやりしているさまを表す擬態語と切った肉」の象形(肉の1部なのか、あごひげなのか「ぼんやりしてわからない」の意味)から米粒がぼんやりして見えない「のり」、「かゆ」を意味する「糊」という漢字が成り立ちました、

とする別解釈があるhttps://okjiten.jp/kanji2649.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:
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2021年03月16日

修身斉家治国平天下


金谷治訳注『大学・中庸』を読む。

大学・中庸.jpg


『大学・中庸』については、「架空問答(中斎・静区)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475470344.htmlでも触れたことがあるが、『大学』『中庸』は、『論語』『孟子』と合わせて、「四書」と呼ばれ、儒教の教典として扱われてきた。『大学』は、

孔子の門人曾子、

『中庸』は、

曾子の門人子思、

が著したとされ、孟子は、

子思の門人に学んだ、

とされる。で、孔子から孟子までのつながりの中、

四書を学ぶことによって儒教の正統的な血脈がそのまま体得できる、

とされてきた(「はしがき」)。朱子学以降のことである。しかし朱子の体系化に反して、

『大学』と『中庸』は、もともと『論語』や『孟子』と並ぶ単行本ではなかった。「五経」(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)のなかの一つとして伝わってきた『礼記(らいき)』四十九編のなかに編入された二編であって、その作者や時代も明確ではない。朱子が大学篇を曾子に関係づけたのは、なんの根拠もない武断であった。そして、中庸篇の方は、『礼記』のなかでそれにつづく三編とともに『子思子』から採用されたという記録が伝わるが、その内容は孔子の孫の子思の時代のものとはとても思えないものがある。

とされ(仝上)、いわば朱子に権威づけられて「四書」に食い込んだものだが、

儒学の精髄をわかりやすく巧みにまとめて、

儒学を代表する古典になっている、とされる(仝上)。

たしかに、

修身斉家治国平天下、

は代表的なフレーズで、

古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者はまずその身を脩(おさ)む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むる者は物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至りて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。

である。これは、『孟子』の、

天下の本は国にあり、国の本は家にあり、家の本は身にある、

を、

修身→誠身→正身→正心→誠意→致知→格物、

と深化させている、ということらしい。しかし、普通に考えると、

個人→家→国家、

は、地続きではなく、吉本隆明ではないが、国家は、

共同幻想、

家は、

対幻想、

というように、本来、次元の異なるもののはずだ。それを、擬制的に、

家と国を地続き、

としているのは、中国という国のありようと関わる。ヘーゲルが、「法哲学」で、それを、

家父長制的原理、

といい、

一人の専制君主が頂点に位し、階統制(ヒエラルヒー)の多くの階序を通じて、組織的構成をもった政府を指導している。そこでは宗教関係や家事に至るまでが国法によって定められている。個人は徳的には無我にひとしい、

と指摘し、

家族関係の上に築かれている国家、訓戒としつけによって全体を秩序づけている国家、

とした(日本政治思想史研究)。丸山眞男は、それを受けて、

家父長の絶対的権威の下に統率された閉鎖的な家族社会があらゆる社会関係の単位となり、国家秩序もまたその地盤の上に階序的に構成され、その頂点に「父としての配慮」をもった専制君主が位する。かうした社会構成はシナ帝国においては非常に鞏固であるため、その内部において主体(個体)が己れの権利に到達せず、対立を自己のうちに孕まない直接的統一にとどまり従ってそれは「持続の帝国」でありうる、

と分析する(仝上)が、それは、漢の武帝の時、官学としての地位を占め確立された儒学の、

子の父に対する服従をあらゆる人倫の基本に置き、君臣・夫婦・長幼(兄弟)といふ様な特殊な人間関係を父子と類比において上下尊卑の間柄において結合せしめている厳重なる「別」を説く、

儒教思想は、

「帝国の父としての配慮と、道徳的な家族圏を脱しえず従つて何らかの独立的・市民的自由を獲得し得ない子供としての臣下の精神と」によって構成された壮麗なる漢の帝国に最もふさわしい思想体系、

であり(仝上)、それ以降の、清に到るまでの全中国王朝の国家的権威を保証するものであった(仝上)、と。

その意味で、一見個人の心掛けに見えるものは、君主としての、あるいは臣としてのそれでしかない。たとえば、

心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず。此れを、身を脩むるはその心を正すに在り、と謂う、

もそうである。しかし、「修身世家治国平天下」は、国を治めるための思想である。それだけに、

小人をして国家を為(おさ)めしむれば、葘害(さいがい)並び至る。善き者(ひと)ありと雖も、亦たこれを如何ともするなきなり、

は痛烈である。わが国は、小人をして治めしめ、既に八年になんなんとする、もはや手遅れかもしれない。

なお、呂新吾『呻吟語』については、[新吾]http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.htmlで、また『論語』については、「注釈」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.htmlで、『孟子』については「倫理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.htmlで、それぞれ触れた。

参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大學出版会)

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2021年03月17日

煮しめ


「煮しめ」は、

煮染、

と当てる。煮物料理のひとつで、

肉や野菜などを醤油で煮染めた料理、

である(広辞苑)が、古くは、

にじめ、

ともいい、

煮染肴の略、

とある(たべもの語源辞典)。

煮汁が残らないように時間をかけてじっくり煮る調理法を「煮しめる」というが、これが転じてそのように料理されるものを「煮しめ」と称する、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E3%81%97%E3%82%81

煮締め、
お煮しめ、

などとも言う(仝上)。転じて、

惣菜料理の煮物類、

を指す用語となり(たべもの語源辞典)、

煮染海老、
煮染田楽、
煮染麩、

といった使い方をする(仝上)。室町時代は、

煮染は精進料理、

であったが、近世には、魚貝の煮染もあり、魚菜の煮染を売る店を、

煮染屋、

とよび、多くは屋台であった(仝上)。落語の『七度狐』や『二人旅』に登場するのは、

煮売屋、

で、

煮魚・煮豆・煮染など、すぐに食べられる形に調理した惣菜を販売する商売のこと、

をいい、

菜屋(さいや)、

とも言ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E5%A3%B2%E5%B1%8B

重箱に詰めたお煮しめ.jpg

(重箱に詰めたお煮しめ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E3%81%97%E3%82%81より)

正月の重詰の煮染のことを、

おせち、

と呼んだが、今は正月料理を指して「おせち」という。しかし、

「節(せち)」の食べ物は、その季節の野菜をいうので、野菜を煮染めたもの、

が「おせち」であった(たべもの語源辞典)。室町時代に「醤油」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.htmlができ、醤油で煮染めたものを、

煮染、

と呼ぶようになり、砂糖やみりん、しょうゆなどで甘辛く煮たものを、

うま煮、

たっぷり汁を含ませたのが、

ふくめ煮、

煮あがりに照りのつかないのが、

煮しめ、

と呼ぶ(たべもの語源辞典)らしいが、

うま煮とふくめ煮の中間にある煮方、

が「煮染」らしい(仝上)。この「にしめ」は、

「煮しめ」のシメは染まることをいう。色がつくことをソメルという。ものを煮ると醤油の色がいたから、ニソメ(煮染)といい、ニソメがニシメになった、

とある(仝上)。

ニソメ(煮染)→ニジメ→ニシメ(煮染)、

といった転訛である。染物にも、

煮染め、

という技法があるが、こちらは、

にぞめ、

と読むことが多いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E3%81%97%E3%82%81、とあるが、発想は同じのようだ。

ただ、ネットで料理のものを見ていると、

おせち料理の中でも「煮しめ(筑前煮)」は、各家庭の味が色濃く出やすい料理です、

などhttps://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-osechi_nishime/と、「煮しめ」と「筑前煮」が同義のような使われ方をしている。しかし、筑前煮は、

鶏肉と野菜、こんにゃくなどを油で炒め、甘辛く味付けした煮物で、福岡県の北部・西部の筑前地方の郷土料理です。具材を「油で炒めてから煮る」という作り方が、筑前地方独特のものであったことが、名前の由来だとされています、

とあるhttps://delishkitchen.tv/articles/407ように、

植物油で材料を炒めてから煮る、

のが特色のはずである。「筑前煮」は、

がめ煮、

とも呼ばれ、これは、秀吉が、文禄元年(1592)に、

博多の入江や沢にスッポンが多くいたので、これと野菜を一緒に煮て食べた、

らしいが、スッポンは川龜、またはドロガメというので、

ガメ煮、

といった(たべもの語源辞典)、とある。後には、スッポンの代わりに鶏肉を使い、

人参や牛蒡ヤコンニャクや筍などを甘煮(うま煮)にするようになった、

とある(仝上)。

筑前煮.jpg


あくまで、「煮染」は、

煮汁を残さずに具材に染み込ませていく調理法、

であり、「筑前煮」は、

材料を油で炒めてから煮る、

のであり、「うま煮」は、

旨煮、
もしくは、
甘煮、

から来ており、

具材を煮ることによって引き出される旨味や、砂糖やみりん、しょうゆなどで甘辛く煮たときの甘さを表現したもの、

とあるhttps://delishkitchen.tv/articles/407。「ふくめ(含め)煮」は.

多めの煮汁で、材料に味をしみ込ませるように時間をかけて煮る調理法、

であるhttps://cookpad.com/cooking_basics/6191

なお、「がめ煮」については、

筑前煮同様、鶏肉と野菜などを炒めてから甘辛く煮た福岡県の郷土料理、

ではあるが、

「寄せ集めの」という意味を持つ方言「がめくり込む」から来ているという説、

もあり、一般には、がめ煮は、

骨付きの鶏肉、

使うhttps://delishkitchen.tv/articles/407、ともある。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年03月18日

煮切り


「煮切り」とは、

料理で、酒や味醂の旨味成分を利用するため、それらを煮立てたり火をつけたりしてアルコール分を除く、

意である(広辞苑)が、また、

煮つめて水分や煮汁を除く、

意でも使う(デジタル大辞泉)。煮切ったものは、

煮切りみりん、
煮切り酒、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E5%88%87%E3%82%8A。和食独特で、西洋料理のフランベと似ているところがあるが、

フランベが具材に対して行われるのに対して、煮切りではそのような対象物がない。あくまでみりんや酒に含まれる、調味に余分なアルコールを除くために行われる、

のが特徴(仝上)、とされる。

味醂をそのまま用いるのに比べて、たいへん味がよくなり、煮物でも焼物でもきわめて美しい光沢が出る、

のである(たべもの語源辞典)。

この「煮切り」は、

ラ行五段活用の動詞「煮切る」の連用形、あるいは連用形が名詞化したもの、

であり(日本語活用形辞書)、「煮切り」の「きり」は、

終わり、

の意とある(たべもの語源辞典)。「切る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467643440.htmlで触れたように、「切る」は、

「物に切れ目のすじをつけてはなればなれにさせる意。転じて、一線を画して区切りをつける意。類義語タチ(断)は、細長いもの、長く続くことを中途でぷっつりと切る。」

とあり(岩波古語辞典)、

刈(か)る、伐(こ)るに通ず、段(きだ)、刻(きざむ)、岸、際(きは)などと語根を同じうす、

でもあり(大言海)、

「キ(切断・分断)+る」

である(日本語源広辞典)。

「にる」の意の漢字は、

煮、
烹、
煎、

等々などがあるが、三者は、本来使い分けられている。

「煎」は、火去汁也と註し、汁の乾くまで煮つめる、
「煮」は、煮粥、煮茶などに用ふ。調味せず、ただ煮沸かすなり、
「烹」は、調味してにるなり。烹人は料理人をいふ。左傳「以烹魚肉」、

とある(字源)。漢字からいえば、「煮切る」は、誤用ということになる。

狡兎死して走狗烹らる、

の成句からみると、「煮る」は「烹る」で、「煮切る」は「烹切る」でなくてはならないのかもしれない。

煮 漢字.gif


「煮」(慣用シャ、呉音・漢音ショ)は、

会意兼形声。者は、コンロの上で木を燃やすさまを描いた象形文字で、火力を集中して火をたくこと。のち、助辞にもちいられたため、煮がつくられて、その原義をあらわすようになった。「火+音符者」。暑(熱が集中してあつい)と縁が深い、

とあり(漢字源)、「煮沸」というように、「たぎらせる」意で、「容器に入れて湯の中でにる」意である。別に、

会意兼形声文字です(者(者)+灬(火))。「台上にしばを集めつんで火をたく」象形(「にる」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「にる」を意味する「煮」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1199.html

とも、

会意形声。者は庶と古く同声であるため、この両者が声符として互易することがあり、庶蔽の庶はもと堵絶の意であるから者に従うべき字であり、庶は煮炊きすることを示す字であるから、庶が煮の本字である。本来、者は堵中に隠した呪禁の書であるから、これに火を加えて煮炊きの意に用いるべき字ではない(白川)、

ともありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%85%AE、今日の「煮炊き」の意味ではなかったと思われる。

煮 成り立ち.gif

(煮 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1199.htmlより)

「烹」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)は、

会意。亨(キョウ)は、上半の高い家と下半の高い家とが向かい合ったさまで、上下のあい通うことを示す。烹は「火+亨(上下にかよう)」で、火でにて、湯気が上下にかよい、芯まで通ることを意味するにえた物が柔らかく膨れる意を含む、

とある(漢字源)。「割烹」(切ったりにたり、料理する)と使い、「湯気を立ててにる」意である。やはり「煮る」は、「烹る」がふさわしいようだ。別に、

会意。「亨」+「火」、「亨」の古い字体は「亯」で高楼を備えた城郭の象形、城郭を「すらりと通る」ことで、熱が物によくとおること(藤堂)。白川静は、「亨」を物を煮る器の象形と説く。ただし、小篆の字形を見ると、「𦎫」(「亨(亯)」+「羊」)であり「chún(同音:純)」と発音する「燉(炖)(音:dùn 語義は「煮る」)」の異体字となっている。説文解字には、「𦎫」は「孰也」即ち「熟」とあり、又、「烹」の異体字に「𤈽」があり、「燉」に近接してはいる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%83%B9、「烹る」と「煮る」の区別は、後のことと知れる。

煎 成り立ち.gif

(「煎」の成り立ち https://okjiten.jp/kanji2170.htmlより)

「煎」(セン)は、

会意兼形声。前の「刂」を除いた部分は「止(あし)+舟」の会意文字。前はそれに刀印を加えた会意兼形声文字で、もと、そろえて切ること。剪(セン)の原字。表面をそろえる意を含む。煎は「火(灬)+音符前」で、火力を平均にそろえて、鍋の中の物を一様に熱すること、

とある(漢字源)。「水気がなくなるまでにつめる」「水気をとる」意で、「いる」意でもある。別に、

形声文字です(前+灬(火))。「立ち止まる足の象形と渡し舟の象形と刀の象形」(「前、進む」の意味だが、ここでは、「刪(セン)」に通じ(同じ読みを持つ「刪」と同じ意味を持つようになって)、「分離する」の意味)と「燃え立つ炎」の象形から、「エキスだけを取り出す為によく煮る」、「いる(煮つめる、せんじる(煎茶))」を意味する「煎」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2170.html

とあり、「水気を飛ばす」意になり、「煎薬」と、「煮出す」意でも使う。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:煮切り
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2021年03月19日

切問而近思


朱熹・呂祖謙編(湯浅幸孫訳注)『近思録』を読む。

近思録.jpg


本書は、朱熹と呂祖謙が、周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂し、

その大体に関し、日用に切なるもの、

を採り、四子の入門書としたものであり、朱子学の入門書でもある。

卑近な日常の実践道徳から、高遠な自然存在学に到るまで、四子の梗概はほぼこの書に尽くされている、

といい(編者「まえがき」)、日本では江戸時代後期に各地の儒学塾で講義された。豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園では、(王陽明の)『伝習録』とともに学業の最後の段階に位置づけられていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2、とある。

『近思録』の「近思」は、『論語』子張篇にある、

子夏曰く、博く学びて篤く志(し)り、切に問いて近く思う、仁はその中に在り、

博学而篤志、切問而近思、

の、「切問而近思」からきている。「切」とは、学而篇の、

子貢曰く、貧しくして諂(へつら)うことなく、富みて驕ることなきは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくて道を楽しみ、富みて礼を好むものには如かざるなり。子貢曰く、詩に、切するが如く、嗟するが如く、琢するが如く、磨するが如し、と云へるは、それ斯(こ)の謂(いい)か。子曰く、賜(し)や始めて与(とも)に詩を言うべきなり。諸(これ)に往(おう)をつげて來を知るものなり、

とある「切するが如く、嗟するが如く」の「切」で、

珠を磨くように鋭く問いかける、

意とある(貝塚茂樹)。しかし、僕は、衛霊公篇の、

如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともする末(な)きのみ、

のもつ「問い」の重要性を思い出す。「近く」にとらわれすぎれば、

人にして遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり(仝上)、

にもなる。『近思録』では、格物窮理篇で、

問う、如何なるか是れ「近く思う」。曰く、類を盛って推(お)す、

とあり、

類推、

を言っている。類推は、

メタファ、

でもあるが、

分かっていることから、分からないことを類推し、分かるようにする、

という学びの方法論を言っている。道体篇に、

仁至(きわ)めて言い難し、故に止(た)だ曰く、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達し、能く近く取りて譬う、

とある。これは、『論語』雍也篇にある、

夫(そ)れ仁者は己れ立たんと欲して人を立たしめ、己れ達せんと欲して人を達せしむ。能く近くを譬える、

を引用したものだが、ここでも、

能近取譬、

と、身近な例を譬えとして挙げている。「近く」の同じ使い方である。教学之道篇にある、

才の高きものをして、亦た敢て近きを易(あなど)らざらしむ、

は、逆に卑近なことを蔑ろにしないようにする意図である。

格物窮理篇には、

学は思に原(もとづ)く、

とある。程伊川の言とされる。

思はその聡明を起発する所以なり、

とある(朱子語録)。『論語』為政篇には、

学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う、

とある。「殆(うたが)う」は、貝塚注によるが、

朱子の新注では、あやうし、不安、ととるが、古注では怠、つまり「つかれる」と読んでいる。王引之にしたがって「疑う」と読んだ、

とある(貝塚茂樹)。しかし、「あやうし」の方が、語感としては合う気がする。『論語』衛霊公篇に、

子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寐(い)ねず、以て思う。益なし、学ぶに如かざるなり、

とある。『荀子』勧学篇には、

吾嘗て終日にして思う。須臾の学ぶ所に如かざるなり、

とある。ただ、この時代は、

学ぶとは、つまり先王や書物について先王の道を習うことである。先王の道は、人間一般のすぐれた経験の結晶である。思う、つまり考えることは個人の理性のなかだけにたよった思索である、

とある(貝塚訳注)。全般に、

子思曰く、學は才を益(ま)す所以なり、礪(といし)は刃を致す所以なり。吾嘗て幽処して深く思うも、學の速やかなるに若(し)かず(『説苑』)、

というように、

古代儒学は、独り思索するよりも、古の聖賢の道を学ぶことを奨めた。思索を重んずるのは。宋代儒学の新傾向である、

という(湯浅訳注)。特に、程伊川は、

「学」とはただ客観的事物を研究することだけではなく、自己の内省によって獲得される、

と考え、

内省の努力を重んじ、「自得」「自ら内感する」「悟」を重視した(仝上)。いわば、

腑に落ちる、

感じを重視したのだと思われる。

凡そ思いを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審思明弁するは、乃ち善く学ぶと為す、

である。より現代感覚に近づいている風であるが、しかし、それは、孔子の、

学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う、

にも十分うかがえる気がする。

治世の処方箋でもあるので、今日、たとえば、

天下の事は、一家の私議に非ず。願わくは公気を平かにして以て聴け(君子処事之方篇)、

官と做(な)れば人の志を奪う(改過及び人心疵病篇)、

天下の事を公にすと雖も、もし私意を用いて之を為さば、便(すなわ)ち是れ私なり(仝上)、

は、痛烈に響く。「做」は「作」の俗字、

作官、

という言葉があり、

官吏となる、

意の俗語である(字源)が、これは、

官吏となること自体を非難したのではなく、出世欲、権力欲のために、道を曲げ、節操を失い、或いは、廉恥や身分的品位を失うような行為をすることを戒めたもの、

とある(湯浅訳注)。まさに今日我が国の官吏に見ている光景である。

近思録(中).jpg


これと真反対なのが、「新吾」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.htmlで触れた、

呂新吾、

である。

「吏治、良なきは、いまだ大吏より治まらざるものにあらず」

と、上に立つものの姿勢にあるとして、

「およそ事、皆自ら責め自ら任じ、饋遺贖羨、尽くこれを途絶す」

というほど、おのれの身を律した。

近思録(下).jpg


呂新吾『呻吟語』については、[新吾]http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.htmlで触れたが、「論語」については、「注釈」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.htmlで、孟子については「倫理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.htmlで、「大学・中庸」については、「修身斉家治国平天下」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480516518.html?1615836541で、それぞれ触れた。

参考文献;
朱熹・呂祖謙編(湯浅幸孫訳注)『近思録』(タチバナ教養文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年03月20日

南禅寺揚


「南禅寺揚(なんぜんじあげ)」というものがある。

豆腐を砕いて、少量の小麦粉に卵黄・酒・塩・煮出汁などを加えた衣をつくって、魚とか魚菜を揚げたもの、

とある(たべもの語源辞典)。

京都の蹴上(けあげ)にある「南禅寺」付近で良質の豆腐が作られたことから、豆腐を使った料理名によくつけられ、南禅寺揚げ、南禅寺蒸等々、「南禅寺~」ということがある(世界の料理がわかる辞典)。

イサキの南禅寺揚げ (2).jpg

(イサキの南禅寺揚げ https://abukamo.exblog.jp/8358231/より)

「南禅寺揚」は、

水切りをしてくずした豆腐を衣にした揚げ物、

だから、「南禅寺」の名が付いた。

南禅寺 三門 (2).jpg


南禅寺(なんぜんじ)は、

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と称する。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ、

とありhttps://www.wikiwand.com/ja/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA、「湯豆腐」は、

南禅寺周辺参道の精進料理が起源、

とされている(仝上)。

湯豆腐はもともとお坊さんの精進料理でした。いま有名な湯豆腐は昆布だしで豆腐をゆでて食べるのですが、当時のものは、焼き豆腐を煮たものでどちらかというとおでんみたいな感じ、

だとあるhttp://www.ryokan-yachiyo.com/ryokan-kyoto-yudofu.html

「南禅寺豆腐」といわれるものに、いくつかあって、天明二年(1782)刊の『豆腐百珍』には、

高津湯とうふ、

が載り、

ゆでた絹こし豆腐に熱い葛をあんかけにして芥子を添えます。南禅寺とも言います、

とあるhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html。また、

京都東山名物の豆腐で、豆腐を小判型に切って、両面を油でキツネ色に焼いたものをいう、

ともある(たべもの語源辞典)。さらに、「南禅寺豆腐」には、

酒田市の南禅寺屋が発祥といわれている半球形の豆腐、

があるhttps://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_1000838/。これは、

南禅寺豆腐.jpg

(南禅寺豆腐 https://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_1000838/より)

酒田市南禅寺屋の祖先がお伊勢参りの途中で病気になり、路銀を使い果たしたため、京都の南禅寺で住み込みで働いた。そこで丸く軟らかい豆腐に出合い、その作り方を学んだ後、庄内で「南禅寺豆腐」として売り始めた、

といわれているhttps://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_1000838/。現在、南禅寺から商標「南禅寺どうふ」の使用許可を得た店は、唯一、

南禅寺豆腐屋服部、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA%E8%B1%86%E8%85%90

その他、「南禅寺」の名のついたものに、

南禅寺蒸、

がある。

豆腐を当たって漉し、卵白を加えてすり混ぜ、だしを加え好みの材料(麸、銀杏、鶏肉、青味など)を入れて茶碗蒸しの器などで蒸し上げる。蒸しあがったら葛あんをかけてワサビを天盛り、

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/992_R/032.html

南禅寺蒸し.jpg

(南禅寺蒸し(鰆、豆腐、木耳、人参、百合根、銀杏、山葵) https://www.recipe-ru.com/nanzenji-musi-sampleより)

なお、江戸時代を通じて評判だった豆腐料理に、南禅寺前の湯豆腐の他、

京都の八坂神社鳥居前の茶屋で出された「祇園豆腐」という木の芽田楽、

があるhttps://souda-kyoto.jp/knowledge/culture/tofu.html

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:南禅寺揚
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