2021年03月21日
事上磨錬
王陽明(溝口雄三訳)『伝習録』を読む。
陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、本書は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた三巻で構成されるが、各巻それぞれ成立の時期と事情を異にするという。
本書の「伝習」とは、『論語』学而篇の、
曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、与朋友交言而不信乎、伝不習乎、
の、
曾子曰く、吾、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、
伝不習乎、
から採った、とされる。場違いだが、かつての海軍兵学校の、
五省、
一、至誠に悖る勿かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に缺くる勿かりしか
一、努力に憾み勿かりしか
一、不精に亘る勿かりしか
を思い出した。これは、
学は須らく己に反るべし、(中略)若し能く己に反りみて、方(まさ)に自己の許多(きょた)の未だ尽くさざる処有るを見れば、奚(なん)ぞ人を責むるに暇あらんや、
に通じる(下巻)のだろう。「切問而近思」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480566811.html?1616095990)でも触れたが、『論語』為政篇にある、
学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し、
について、陽明は、
此れ亦為にすること有りて言えり。其の実は思うが即ち学ぶなり、学びて疑う所有れば、便(すなわ)ち須らくこれを思うべし。思いて学ばざる者とは、蓋し此れ等の人有れば、只だ懸空(けんくう)に去(ゆ)きて思いて、一箇の道理を想出せんと要し、却って身心の上に在りて実に其の力を用いて、以て此の天理を存せんことを学ばず。思うと学ぶとを両事と作(な)して做す、故に罔(な)しと殆(あやう)しの病(へい)有り。其の実は、思うとは、只だ其の学ぶ所を思うのみにして、原(も)ともと両事に非(あら)ざるなり、
という(下巻)。これを、
実際は考えることはとりもなおさず学ぶことである。学んでいて疑問にぶつかれば、かならず考える。考えるだけで学ばないというのは、宙空にいたずら思惟をめぐらせ、そこに何か道理を懸想しようとする人々のためにいわれたことだ、
と訳す(溝口雄三)。確かに、これは、
事上磨錬(じじょうまれん)、
と言っていることと一致する。つまり、
何ぞ更に念頭を起こすを須(もち)いんや、人は事上に在りて磨錬し功夫(こうふ=工夫)を做すを須(ま)ちて、乃ち益在り(下巻)、
実戦の中で研鑽すべき、ということに通じていく。これが、いわば、
知即行(ちそくこう)、
または、
真知即行(しんちそっこう)、
といわれる、
知行合一(ちこうごういつ)、
に通じるのだが、この、
学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し、
に関してだけは、僭越ながら、ちょっと承服しかねる。
考えることはとりもなおさず学ぶこと、
では、
学ぶ、
と、
思う、
というのダイナミズムが消えてしまう。確かに、『論語』衛霊公篇に、
子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寐(い)ねず、以て思う。益なし、学ぶに如かざるなり、
とあるし、『荀子』勧学篇には、
吾嘗て終日にして思う。須臾の学ぶ所に如かざるなり、
とあるように、いたずらな思索は意味がないが、
確かめつつ、考え、考えつつ、疑い、学んで、また、考える、
は、一つにはならないのではないか。そこで思うのは、
知は行の主意(きほん)、行は知の功夫(じっせん)、また知は行の始(もと)、行は知の成(じつげん)、
にある、
知行合一(ちこうごういつ)、
は、
真知は即ち行たる所以なり、行なわざればこれを知というに足りず(中巻)、
とか、
未だ知りて行わざる者あらず、知りて行わざるはただ是れ未だ知らざるなり(上巻)、
とあるのは、貝原益軒の言う、
知って行わざれば知らざるに同じ、
というのが、「知」への戒めなのであるとするなら、
知即行、
は、その意味でなければ、いわゆる、
PDCA(Plan→Do→Check→Action)、
は、そもそも成り立たない。
考えて、実践し、そしてまた考える、
別に実践している最中に何も考えないのではない。その意味では、
事上磨錬、
である。それは、
知と行の一体化、
ではなく、
知と行のダイナミックな「正反合」(止揚)、
に見える。
王陽明が、朱子の、知と行を先後軽重と分割する、
先知後行説、
への反措定であること(吉田公平)や、治世の学としての朱子学に対する、
儒教の民衆化、
という役割(溝口雄三)といった、位置づけはともかくとして、いま、その言葉を受け止めるとするなら、こんな感想なのである。
なお、呂新吾『呻吟語』については、[新吾](http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.html)で、また「論語」については、「注釈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.html)で、孟子については「倫理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.html)で、「大学」については「修身斉家治国平天下」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480516518.html?1615836541)で、「近思録」については、「切問而近思」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480566811.html?1616095990)で、それぞれ触れた。
参考文献;
王陽明(溝口雄三訳)『伝習録』(中公クラシックス)
吉田公平編訳『伝習録』(タチバナ教養文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年03月22日
こじつけ
「こじつけ」は、
こじつける、
の名詞。
牽強付会、
である(広辞苑)。あるいは、
道理ありげに云ふ、
という(大言海)か、あるいは、
無理に二者を結びつける、無理に筋の通ったことのように言う、
というのが(江戸語大辞典)、その含意を絵解きしてくれる。動詞、
こじつける、
は、文語では、
こじつく、
で、
無理に筋の通ったことのように言いなす、
無理に関係づける、
意である。
抉付ける、
と当てる(江戸語大辞典)ものもある。その意が、だから、
無理強い、
の意に(広辞苑)少しスライドし、
何様(どう)も夫婦合(やひ)の事許りは……親の威光で無理にこじつけにこじつけたと言って、夫れじゃあ和合(じんじく)するもんじやァねへ、
というように(文政七年「軒並娘八丈」)、
無理に行う、押し通す、
の意となり(江戸語大辞典)、当然、
あしたはあたらし橋の旦那にこぢつけようス、
と(文化十五年「辞十八癖」)、
押しかける、
意にもなり、それが「押す」意に焦点を絞ると、
夫にはあらで不得心、どふもこふもゆかぬのをこぢ付けるところが御伝授、
と(安永九年「根柄異軒之伝」)、
口説く、ねだる、
意に転じ、さらに、
こぢつけた侍の出る松の内、
と(安永八年・柳多留)、
似せる、
ばける、
意でも使われる(江戸語大辞典)。今日は、せいぜい、
無理強い、
どまりでしか使われないが。
「こじつける」の語源は、
古事付けるか、故実付ける(江戸語大辞典)、
故事付ける(広辞苑)、
故實附けるの約なるべし、水漬く、みづく(大言海)、
という、
故事、
や
故実、
とつなげる説が多い。しかし、江戸語大辞典が、
抉付け、
と当てていたように、
こじる(無理やりにする)+付ける、
と考える(日本語源広辞典)のが自然ではあるまいか。
「こじる」は、
こづ、
こず、
とも遣い、
えぐる、
意であるが、
くぐる(潜・抉)の転、潜(くぐ)る、こぐる、
とある(大言海)。よく似た意味の、
穿ち過ぎ、
という意の、「うがつ(穿つ)」が、
孔をあける、
意であるのとよく似ているのではないか。
「故事」は、
古事、
と同じ(字源)であり、
明習故事(漢書・蘓武伝)、
と、
むかしありし事実、
であり、「故實」は、
必問於遺訓、而咨於故実(魯語)、
と、
古き事実、
で(仝上)、ほぼ同じ意である。ただ、我国では、「故實」を、
有職故実、
というように、
古への儀式礼法など後世の手本、
の意で使うが(仝上)。
「故」(漢音コ、呉音ク)は、
会意兼形声。古は、かたくなった頭骨、またはかたいかぶとを描いた象形文字。故は「攴(動詞の記号)+音符古」で、固まって固定した事実になること。またすでにかたまって確立した前提を踏まえて、「そのことから」とつなげるので「故に」という意の接続詞となる、
とあり(漢字源)、「古」と同じく、「古い」意である。他に、
会意兼形声文字です(古+攵(攴))。「固いかぶと」の象形(「固くて古い」の意味)と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「強制する」の意味)から、古く固くしてしまう事を意味し、そこから、「死ぬ」、「わざわい」等を
意味し、また、「古(コ)」に通じ(同じ読みを持つ「古」と同じ意味を持つようになって)、「ふるい」の意味、「固(コ)」に通じ、「以前から」を意味する「故」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji874.html)。
(金文(西周)「故」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%85より)
「抉」(漢音ケツ・エツ、呉音ケチ・エチ)は、
会意兼形声。夬(ケツ)は「コ印+又(手)+指一本」の会意文字で、かぎ型の爪(ツメ)を指につけてひっかけるさま。抉は「手+音符夬」で、指をかぎ型に曲げ、ひっかけてえぐりの出すこと、
とある(漢字源)。「剔抉」というように「えぐる」意である。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:こじつけ
2021年03月23日
サグラダ・ファミリア
カール・マルクス(岡崎次郎訳)『資本論』を読む。
若いころ、マルクス=エンゲルス全集版の23巻aと23巻b(文庫版で第一巻~三巻)で頓挫していたものを、同じ版の文庫版を継続して読み通してみた。しかし、完成度は、第一巻(文庫版での第一巻~三巻)、第二巻(文庫版での第四巻~六巻)、第三巻(文庫版での第六巻~八巻)、だんだん完成度が薄くなり、草稿の寄せ集め感はぬぐえなくなる。しかし、未完のままのサグラダ・ファミリアである(ただ、本家の方は、2026年には完成予定らしいが)。
いまさら、素人の僕がこの本の是非を論評してもあまり意味がないだろうから、あくまで個人的な感想をいくつか述べてみたい。
ひとつは、その方法である。『経済学批判』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479551754.html)で触れたことと重なるが、マルクスは、『「経済学批判」序説』で、「経済学の方法」について、こう書いている。
われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口をつくり上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの成素は、交換、分業、価値等々を予定する。例えば、資本は賃労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。したがって私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向かって進み、最後に私は最も単純な諸規定に達するだろう。さてここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてではなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。
そして、後者の方法こそが「科学的に正しい方法」であるとして、
具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現れるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが、
と付け加える(「経済学批判」序説)。ある意味で、概念の、
チャンクダウン、
チャンクアップ、
を言っているのだが、ふと、ウィトゲンシュタインの、
人は持っている言葉によって見える世界が違う、
という言葉を思い出す。たとえば、「人口」という概念で見える世界と、各「階級」という概念で見える世界とは異なる。例えば、統計数値を使うとする。しかし、コンマいくつで丸められたのか、そして、そう丸められたのは、どういう前提に基づいているのか、と分析していくと、その統計数値を生み出すための、調査なら質問の、また数値結果としての各数値間の関係が見えてくるはずである。何かありふれた概念を、安易に前提にすれば、それだけのものしか見えてこないということである。だから、
抽象的な諸規定が、思惟の手段で具体的なるものを再生産することになる、
と(仝上)言い切れるのである。それは、
具体的なものを自分のものにし、これを精神的に具体的なものとして再生産する思惟の仕方にすぎない、
のであり(仝上)、
理解された世界それ自体がはじめて現実的なもの、
なのだから(仝上)、
範疇の運動は現実の生産行為……として現われ、この行為の結果が世界、
である(仝上)、と。しかし、である。それは、ヘーゲルの陥った、
実在的なものを、それ自身のうちに綜合し、それ自身のうちに深化され、それ自身のうちから運動してくる思惟の結果として理解する幻想、
とは、どこか紙一重に思えてならない。ある意味「仮説」というもののもつ宿命ではあるにしても、である。
さて、「概念」によって見える世界が異なる典型は、たとえば、
使用価値、
交換価値、
貨幣資本、
生産資本、
商品資本、
絶対的剰余価値、
総体的剰余価値、
支払労働、
不払労働、
必要労働、
剰余労働、
追加資本、
可能的追加資本、
可能的追加貨幣資本、
可能的追加生産資本、
利潤率、
剰余価値率、
利子生み資本、
機能資本、
貨幣資本、
現実資本、
等々、それぞれの概念を通して、確かに、そこで描かれる世界像が変わるのだが、ここでは、
不変資本、
可変資本、
固定資本、
流動資本、
を対比してみる。
不変資本、
可変資本、
については、生産過程における、生産手段と労働力を、こう説明する。
生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを超えるすなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別される(第一巻224頁)。
この不変資本部分には、
労働手段、
といわれる、
作業用の建物や機械など、(中略)一度生産面にはいってしまえば、けっしてそこを去らない。……同種の新品と取り替えられる必要がないあいだは、…不変資本価値が固定されている(仝上)、
固定資本、
があり、生産過程でのすべての素材的成分は、
流動資本、
を形成する。
固定資本と流動資本という範疇と不変資本と可変資本という範疇との混同という、「従来の概念規定の混乱」を、マルクスは、こう正している。
人々は、労働手段が素材としてもっている特定の諸特性、たとえば家屋などの物理的な不動性のようなものを、固定資本の直接的属性だとする。このような場合にいつでもたやすく指摘できるのは、労働手段としてやはり固定資本である他の労働手段が反対の属性をもっているということであり、たとえば船などの物理的な可動性である。
あるいはまた、価値の流通から生ずる経済上の形態規定を物的な属性と混同する。あたかも、それ自身では決して資本ではなくてただ特定の社会的諸関係のもとでのみ資本になる物が、それ自身としてすでに生まれながらに固定資本とか流動資本とかいう一定の形態の資本でありうるかのように。われわれが第一部第五章でみたように、生産手段は、労働過程がどのような社会的諸条件のもとで行われようと、どの労働過程でも労働手段と労働対象に分けられる。しかし、資本主義的生産様式のなかではじめてこの二つのものが資本になるのであり、しかも……「生産資本」になるのである。それと同時に、労働過程の性質にもとづく労働手段と労働対象との相違が、固定資本と流動資本との相違という新しい形態で反映するのである。これによってはじめて労働手段として機能するものが固定資本になる。もしその物がその素材的諸属性によって労働手段の機能以外の諸機能にも役だつことができれば、それはその機能の相違にしたがって固定資本であることもあればそうでないこともある。家畜は、役畜としては固定資本である。肥育家畜としては、最後には生産物として流通にはいって行く原料であり、したがって固定資本ではなく、流動資本である(第二巻163頁)。
この四者の関係は、「不変資本」と「可変資本」が価値増殖過程の資本役割を、「固定資本」と「流動資本」が生産過程の資本区分を描こうとしていることが分る。
不変資本のうち補助材料や原料からなっている部分の価値は―労働手段からなっている部分の価値とまったく同じに―ただ移転された価値として生産物の価値に再現するが、労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物につけ加える(第二巻164頁)。
したがって、
価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本部分とのあいだにどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力と不変資本成分とに共通なものである。生産資本のこれらの成分―生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と―は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本に対して流動資本として相対するのである(同166頁)。
二つ目は、付加価値についてである。今日、「付加価値」は、一般に、
生産によって新たに加えられた価値、
を指し、
総生産額から原材料費・燃料費・減価償却費などを差し引いた額、
をいう(粗付加価値。減価償却費を差し引くと純付加価値)。マルクスの、
剰余価値、
は、生産過程での、
労働者の生活に必要とする労働(必要労働)とそれを超える剰余労働(不払労働)、
のうち、後者の、生活に必要な労働を超えた剰余労働(不払労働)を言う。別のところで、マルクスは、
総収益、
純収益、
総収入、
純収入、
について、こう書いている。総収益または総生産物は、
再生産された生産物全体である。固定資本中の充用はされたが消費はされなかった部分を除いて考えれば、総収益または総生産物の価値は、前貸しされて生産に消費された不変資本と可変資本との価値・プラス・利潤と地代とに分解する剰余価値に等しい(第三巻848頁)。
総収入は、
総生産物のうちの、前貸しされて生産で消費された不変資本を補填する総生産物中の価値部分およびそれによって計られる生産物部分を引き去ったあとに残るところの、総生産物中の価値部分およびそれによって計られる生産物部分である。だから、総収入は、労賃(または生産物中の再び労働者の収入になるという使命を持っている部分)・プラス・利潤・プラス・地代に等しい(仝上)。
純収入は、
剰余価値、
になる(仝上)。付加価値と総収入はほぼ重なるが、「付加価値」といういい方と「剰余価値」といういい方では、見える世界が違う。ことの是非を、省略するなら、同じことでも、異なる世界になる。
労働力の対象化によって生み出す価値、
とみるか、
生産手段も含めた生産活動で生み出した価値、
と見るかで、180度とは言わないが、見える世界がかなり変わる。しかし、今も昔も、価値を生み出すのは、生産手段ではなく、人の思考力、発想力、想像力も含めた労働力以外にはない。
だから、「自分の価値」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill1.htm#%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4)で触れたことだが、今日でも、(組織で)働く人のコストは、最低限、
自分の年収(×1.7~2.3)、
とされる。それは、ある意味、その人の労働力が生み出す価値は、
二倍、
だと言っているようなものである。確か、青色LEDの量産化に成功した中村修二氏の訴訟が明らかにしたのは、個人の創造力(労働力と置き換えてもいい)という主張と、それをお膳立てする設備や機器という手段があったからこそできたことではないかという会社側の主張との争いといっていい。変なたとえだが、中村修二氏は、
剰余価値説、
に立ち、日亜化学工業は、
付加価値説、
に立っている、ということになる。生み出した価値が、
生産活動によって価値が生み出された、
のだとして、それを、
人に起因させるか、
不変資本に帰属させるか、
は、まだ結論は出ていないところがある。
三つめは、本書を読みながら、とりわけ、第一巻の、過酷な労働、少年労働、幼児労働の実態に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、イワンが語った、
大審問官、
を思い出した。
「大審問官」とは、
虐げられている子供たちのために何をするか、
という問いかけであり、それは、
神は何かしたか、
という詰問でもある。大審問官は、
お前は人はパンのみにて生きるにあらずと答えたが、よいかな、ほかならぬこの地上のパンの名において、地上の悪魔はお前に反旗を翻し、お前に戦いをいどみ、ついにお前に打ち克つのだ。そしてすべての人間は、《この獣に似たるものこそ、天より火を盗みてわれらに与えたるものなり!》と叫びながら、そのあとに従うことになるのだぞ(小沼文彦訳)、
という。僕は、これは、貧困と、幼児虐待への一つの処方箋として、思考実験として示されたものだと思う。マルクスもまた、その時代の政府報告書を引用しつつ、悲惨な労働実態を描き出している。
「詐欺的な工場主は朝の六時十五分前に、ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く、作業を始め、午後の六時十五分過ぎに、ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く、作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の初めと終わりから五分ずつを取り上げ、または昼食のためにとってある一時間の初めと終わりから十分ずつを削り取る」(五日間で三百分になる)
(十歳の少年)「昼食のためにまる一時間もらえるとは限らない。半時間だけのこともよくある。木、金、土曜日はいつでもそうだ。」
(十二歳の少年)「私は型を運び、ろくろを回す。私が来るのは朝の六時で、四時のこともよくある。昨夜はけさの八時まで夜通し働いた。私は昨夜から寝ていない。ほかにも八人か九人の子供が昨夜夜通し働いた。一人のほかは、けさもみなきている。」
「各種の裁縫女工や婦人服製造女工や衣服製造女工や普通の裁縫女工は三重の困苦に悩んでいる―過度労働と空気不足と栄養不良または消化不良とである。概してこの種の労働は、どんな事情のもとでも、男よりも女の方が適している。しかし、この営業の害毒は、それが、ことに首都では、26人ほどの資本家に独占されていて、彼らは、資本から生ずる権力手段によって、節約を労働から絞り出す(彼の考えている意味では、労働力の乱費によって出費を節約する)ということであある。かれらの権力は、この部類の女工全体のあいだに感知される。一人の女裁縫師がわずかな顧客でも獲得できたとすれば、競争は彼女に、客を失わないために自宅で死ぬほど労働することを強制し、そして必然的に彼女は自分の女助手たちにも同じ過度労働を押しつけなければならないのである。」
「鍛冶工は毎年1000人につき31人の割合で、またはイギリスの成年男子の平均死亡率よりも11人多い割合で、死んでいる。その仕事は、……ただ労働の過重だけによって、この男を破壊するものになるのである。」
「陶工は、男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。遅鈍で活気がなく、彼らの体質の虚弱なことは、胃病や肝臓病やリューマチスのような痼疾にかかることでもわかる。しかし、彼らがかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。ある型の喘息は彼らに特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨やその他の身体部分を冒す瘰癧(るいれき)は、陶工の三分の二以上の病気である。この地方の住民の退化がもっとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげ」
等々。
どうしてそういうことが起きるのか、
それは何によるのか、
それを解決するにはどうすればいいのか、
そのために何をすればいいのか、
マルクスがここで示した問題の構図は、「大審問官」によって、一つの解決策を示されている。それはマルクスが示した処方箋とは異なるが、大審問官が、
スターリン(埴谷雄高)、
レーニン(D・H・ローレンス)、
に準えたりするように、一つの解決策を、寓意によって示したとみていいのである。それは、
一つの思想体系、
をなす、といってもいい。ある意味、マルクスと拮抗している。
四つ目は、「思想」ということを考えたとき、変なたとえを出すようだが、僕は、道元は宗教家ではあるが、思想家ではないと思う。しかし、親鸞は、宗教家である以上に、思想家である、と思う。思想とは、
現実の問題に立ち向かい、それと相渉り、なぜこうなるのか、どうすればいいのかを考え詰めていく、
そして、処方箋を出す。
親鸞のなしたことは、宗教を突き破り、
南無阿弥陀仏、
を唱え、
本願他力に委ねる、
という処方箋を出した。「はからう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444177777.html)で触れたように、
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、
という親鸞の言い回しで、
これだけ信心のためにしたのだから、
これだけ修行したのだから、
往生とげるだろうと思うのを、
計らい、
として一蹴したことを思い出す。計らいには、その行為の相手を意識する言葉である。その意味では、それは宗教の破壊でもある。
マルクスもまた、一つの処方箋を出した。多く、仮説は、思考実験を出ないところもある。しかし、一つのパラダイムシフトをもたらしたことは事実である。そして、まだそのシフトをシフトさせる思想は出ていない、と思う。相変わらず貧困は続き、貧富の格差はなお拡大している。しかしこのシフトを微調整したり、弁明したりする思想らしきものはあったにしても、この現実に立ち向かい、その構造を分析し、その処方箋を示そうとする思想は、以降出ていないと思う。
参考文献;
カール・マルクス(岡崎次郎訳)『資本論(1~8)』(国民文庫)
ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟Ⅰ』(筑摩書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年03月24日
たたみいわし
「たたみいわし」は、
畳鰯、
と当てる。
カタクチイワシの稚魚(シラス)を洗い、生のままあるいは一度ゆでてから、葭簀(よしず)や木枠に貼った目の細かい網で漉いて天日干しし、薄い板状(網状)に加工した食品、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%97)。「カタクチイワシ」は、
ヒシコイワシ、
とも言い、
鯷魚、
鯷、
と当てる。ただ、「鯷」は、「ナマズ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479499856.html)で触れたように、中国では、
鯷(テイ、シ)、
鮧(イ、テイ)、
は、「おおなまず(大なまず)」を意味し、
鯷冠、
という言葉があり、この皮を以て冠を作る。「千疋飯」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479115906.html)で触れたことだが、「千疋」とは、
たたみいわし、
のことで、海苔のように抄(す)いて簀子(すのこ)に並べたさまが、
小さい魚が千疋もいるように見える、
ので、
千疋、
と呼んだ(たべもの語源辞典)、という。俗に、イワシの仔魚(主にカタクチイワシ)は、
白子(シラス)、
といい、江戸では、「たたみいわし」は、
白子干(しらすぼ)し、
とも呼び、「たたみいわし」を、
帖鰯、
とも書いた(仝上)。
「畳」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465497455.html)で触れたように、「畳」は、
畳む、
意である。「畳む」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465432269.html?1556881252)は、
幾重にも積み重なること、
であり(岩波古語辞典)、
筵(むしろ)を厚く畳み重ねたことによる
のである(仝上)。
古くは、筵・ござ・しとねなど敷物の総称。平安時代には、畳といえば薄縁(うすべり)であったが、厚畳(あつじょう)も既にできていて、寝殿造の廂(ひさし)には、随所に厚畳が敷かれた。縁の種類によって繧繝縁(うんげんべり・うげんべり)・高麗縁(こうらいべり)などがあり、この二つは最上とされた、
とあり(仝上)、
畳縁は目立つので、色や柄で部屋の雰囲気が大きく変わる。 昔は、身分等によって利用できる畳縁に制限があった。
繧繝縁(うんげんべり・うげんべり)…天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇、神仏像、
高麗縁(こうらいべり)…親王・摂関・大臣(大紋高麗縁)、公卿(小紋高麗縁)、
とされていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B3)。つまり、畳の原点は、
古代から存在する。古代の畳は、莚(むしろ)・茣蓙(ござ)・菰(こも)などの薄い敷物の総称であり、使用しないときは畳んで部屋の隅に置いたことから、動詞である「タタム」が名詞化して「タタミ」になったのが畳の語源とされる、
とあり(仝上)、古事記にも、
菅畳八重・皮畳八重・絹畳八重を波の上に敷きて、其の上に下り坐しき、
とある(広辞苑)が、『大言海』は、「畳」を、
「たたみ薦(こも)の略、重ねて敷く意」
とする。となると、「畳」は、
たたむ、
意という収納方法からではなく、「畳む」のもつ、
重ねる、
意という製造方法から来たと見る。「畳」の、
筵(むしろ)を厚く畳み重ねたことによる、
という意(岩波古語辞典)は、「畳む」の持つ使用方法を指す。つまり「畳む」には、
折り返して「畳む」(収納方法)から「たたみ」なのか、
積み重ねる「畳む」(製造方法)から「たたみ」なのか、
の二重の意味がある。元々「うすべり」だったから、
折り返した畳んだ、
という「収納方法」に由来するのか、「畳」が、
薦を幾重にも重ねて作られた、
という「製造方法」に由来するのか、という違いである。
いずれにせよ、平安時代には、
主としてうすべり(ふちどった茣蓙)の類、
を、「たたみ」と呼び(たべもの語源辞典)、「たたみ」は、
ござ、菰、皮畳、絹畳などの敷物の総称、
なのである(仝上)。だから、
小さいイワシを畳のような形にした、
ので、
たたみいわし、
であるが、
積み重ねられた、
あるいは
折り重ねられた、
から「たたみいわし」でもある。
畳菰(たたみこも)、
と
畳筵(たたみむしろ)、
があり、それが、略されて、
畳み、
となったという含意がある(たべもの語源辞典)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年03月25日
かゆい
「かゆい(かゆし)」は、
痒い、
癢い、
と当てる(大言海)。「痒」は「癢」の異字体である(https://mojinavi.com/d/u7662)。
痛い(し)の対、
である(大言海)。
皮膚を掻きたいような感じ、
とある(広辞苑)。
皮膚の下で非常に小さいものがうじゃうじゃと動き回っていてくすぐられるような感じがし、掻きむしってすっきりしたいという気持ちにさせられている様子をいう、
という感覚である(笑える国語辞典)。これは、ほとんど、
乾燥肌、
が原因で、実感とは、少し一致しないのだが、
全て乾燥肌に直結しています。健康な肌は角質細胞が隙間なくぴったりとくっつき合って皮膚の表面を覆っています。ところが、乾燥肌になると角質細胞の間に隙間ができ、体内の水分がどんどん失われていきます。同時に外部の異物が肌の奥に入り込み、よくない刺激を体に与えます。例えばアトピー性皮膚炎のかゆみも一部は乾燥肌に由来します、
とある(https://www.juntendo.ac.jp/co-core/research/kayumi.html)。
10世紀半ばの「和名抄(和名類聚抄)」には、
癢、加由之、
11世紀末から12世紀頃の「名義抄(類聚名義抄)」には、
痒、癢、カユシ、
とある。漢字「痒」(ヨウ)は、
形声。「疒」+ 音符「羊」。当初は「癢」であったが、音符を「羊」のみに簡略化した。「氧」も同じ成り立ちの字である、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%97%92)。「癢」(ヨウ)は、
会意兼形声。「疒+音符養(栄養の多い羊肉)」。羊肉を食べ過ぎると、痒みを起こすことからかゆい意となった、
とある(漢字源)。「痛痒」とも「痛癢」とも書く。因みに「養」(ヨウ)は、
会意兼形声。昔の中国では羊はおいしくて形のよいものの代表とされた。養は「食+音符羊」で、羊肉のように力をつける食物をあらわす。善は、羊のようにうまいこと。美は、羊のようにうつくしいこと。義は、羊のようにかっこうがよいこと。いずれも、羊をよい物の代表としている、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(食+羊)。「羊の首」の象形と「食器に食べ物を盛りそれにふたをした」象形から、羊(ひつじ)を食器に盛る・そなえるの意味から、転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「やしなう」を意味する「養」という漢字が成り立ちました、
とあり、少し異なるが、「羊」とは深くつながるようだ(https://okjiten.jp/kanji624.html)。
さて、和語「かゆい」は、
カ(痒)+ユシ(形容詞化)、
というのが(日本語源広辞典)、シンプルだが、「か」を痒いとしたものは見当たらなかった。
搔きたくなる、
という感覚からいえば、
カキユユシ(掻忌忌)の義(言元梯)、
掻ユスル義(和訓栞)
カキユルシキ(掻動如)の義(名言通)、
等々だが、説明がいま一つである。
掻(か)かま欲しき意の語なるべし、
が(大言海)、身体の感覚と最も近いのではないか。
「まほし」は、
まくほしの約、
で(明解古語辞典)、
動詞の未然形につき、希望を表す語、
である(仝上)。
平安時代に現われた語で、希求の意を表す。「……てほしい」と話し手の希望、また話し手以外の人の希望を表す、
とある(岩波古語辞典)。しかし、「かゆみ」は、万葉集に、
今日なれば鼻の鼻ひし眉(まよ)かゆみ思ひしことは君にしありけり、
と既に使われているし、倭名抄にも載る。少し時代的には合わないのが難点だし、
かかまほし→かゆし、
には少し飛躍がある。結局語源ははっきりしないが、体感覚の言葉は、語源は相当古いのではあるまいか。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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2021年03月26日
竜田揚
「竜田揚」は、
立田揚、
とも当て(たべもの語源辞典)、
魚とか、肉類を甘みのある醤油につけ、片栗粉を着けて揚げるもの、
である(仝上)。
片栗粉のまま付ける方法、
と
水どきしてからつける方法、
とがある(仝上)、とある。この名は、
揚った色が赤いので、紅葉の名所竜田川に因む、
とある(広辞苑)が、在原業平の歌、
ちるはやぶる神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは、
からとった(たべもの語源辞典)。紅葉そのものではなく、「唐紅に水くくる」の、
水を紅いくくり染にしたように見える、
ところに因ったものである(仝上)。「くくり染」とは、
絞り染め、
の意で、
糸でくくったところを白く染め残して模様を出す染め方、
で、
川面に流れる紅葉のさま、
になぞられた。
醤油につけて赤っぽい色を出すだけでなく、片栗粉をつける。火が通ると片栗粉は白くなる。赤い色のところに、点々と白いものが見える。紅葉の流れる竜田川の景を思わせる、
というものである(たべもの語源辞典)。
「竜田(たつた)」は、
海老、醤油などを使って紅葉(もみじ)のような赤色に仕上げた料理に使われ、
竜田揚げのほかにも、
竜田焼き、
竜田豆腐、
等があり(https://kondate.oisiiryouri.com/japanese-food-tatsuta-age/)、紅葉を連想させるため、秋の献立に使われる(仝上)。
「竜田揚」に似たものに、
唐揚げ、
がある。
空揚げ、
とも当てる(広辞苑)。これは、
衣をつけず、あるいは、小麦粉・片栗粉を軽くまぶして油で揚げるもの、
とある(広辞苑)。
小麦粉や片栗粉を薄くまぶす程度で、衣をつけずに高温の油で揚げる、
ところが「竜田揚」との差らしい。「空揚げ」の「空」はそこからきていると思われる。
「唐揚げ」の由来は、普茶料理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474648427.html)で、
とうあげ、
からあげ、
の訓みがあったとある(https://macaro-ni.jp/25377)。当時の唐揚げは、
豆腐を細かく切って油で揚げ、しょう油とお酒で似たもの、
という精進料理であった(仝上)。その場合、「唐揚げ」という言葉はなく、衣を付けずに揚げる料理は、
素揚げ(すあげ)、
といった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E6%8F%9A%E3%81%92)、らしい。
食材に小麦粉等をまぶして揚げる調理は、
衣揚げ、
とも言い、江戸時代には、
天ぷら、
衣かけ、
と呼んだ(仝上)。『料理歌仙の組糸』(1747年)に、「鯛切身てんぷら」として、
てんぷらは何魚にても、うんとんの粉まぶして油にて揚げる也、菊の葉てんぷら又ごぼう、蓮根、長芋其他何にても天ぷらにせんには、うんとんの粉を水醤油とき塗付けて揚る也、肴にも右のとおりにしてもよろし、又葛の能くくるみて揚るも猶よろし、
とあり、これが「衣揚げ」の初見とされる(仝上)。
「唐揚げ」という言葉は、後世のもので、江戸初期の『南蛮料理書』には、
魚の料理。何魚なりとも脊切り、麦の粉をつけ、油にて揚げ、その後、丁字の粉、にんにく磨りかけ、汁よき様にして煮〆申也、
とあり、「唐揚げ」と近い。その中で、
食材を醤油等で下味をつけて小麦粉や片栗粉をまぶして揚げた調理を、
竜田揚げ、
というが、「てんぷら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470781916.html)、「唐揚げ」とは異なる来歴と見られている。
因みに、
丁字の粉、
の「丁字」は、
丁子、
とも当て、
クローブ、
ともいい、
フトモモ科の樹木チョウジノキの香りのよい花蕾、
原産地はインドネシアのモルッカ群島で、香辛料として使われるほか、生薬としても使われ、漢名に従って丁香(ちょうこう)とも呼ばれる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B8)。その名は、花蕾が、
釘に似た形、また乾燥させたものは丁の字や、錆びた古釘のような色、
をしており、
中国では紀元前3世紀に口臭を消すのに用いられ、「釘子(テインツ)」の名を略して釘と同義の「丁」の字を使って「丁子」の字があてられ、呉音で「チャウジ」と発音した、
ちため、日本では、
チョウジ、
の名がつけられた、とある(仝上)。日本にも古く入り、正倉院の帳外薬物のなかにも丁子(丁香)がある。また上述のように、『南蛮料理書』に、から揚げに近い料理に紹介され、食用としても認知されてきたことが知れる。
(乾燥したチョウジ(クローブ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B8より)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年03月27日
超人
ニーチェ(手塚富雄訳)『ツァラトゥストラ』を読む。
神は死んだ、
というフレーズ(「ツァラトゥストラの序説」)が劈頭に出てくる。この言葉から、変な連想だが、ジョン・レノンの「イマジン」を思い出した。
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today・・・(「Imagine」)
今日、もはやこの言葉にはインパクトは薄い。そういう時代だということを考えると、『ツァラトゥストラ』のもつ衝撃はもはや分からないのかもしれない。まして、たとえば、
こういうふうに比喩でしか語れない(「新旧の表」)、
と比喩や寓話だけで語られる意味の背景を掴めるほど教養がないのだから、全部が理解できたとは思わない。しかし、改めて、感じたことがいくつかある。
ひとつは、
山上の垂訓、
に準えたのか、
隠者、
に喩えたのか、四部構成のその都度、何かというと、
山に籠る、
という行動パターンは、東洋的に言えば、悟りを開く典型的パターンで、僭越ながら、僕には古臭く感じられてならなかった。
いまひとつは、「神が死んだ」世界での生き方を提示するという意図はわかるが、たとえば、
人間として生存することは無意味であり、しょせんそれは意味を持たない。(中略)わたしは人間たちにかれらの存在の意味を教えよう。意味とは超人である。人間という暗黒の雲を破ってひらめく雷光である(「ツァラトゥストラの序説」)、
一つの目標が欠けている、人類はまだ目標をもっていない(「千の目標と一つの目標」)、
「何からの自由?」そんなことには、ツァラトゥストラは何の関心もない。君の目がわたしに明らかに告げねばならぬことは、「何を目ざしての自由か」ということだ(「創造者の道」)、
まことに、ツァラトゥストラは一つの目標をもっていた。かれはかれのまりを投げた。さあ、君たち友人よ、わたしの目的の相続者となれ(「自由な死」)、
すべての神々は死んだ。いまやわれわれ超人が栄んことを欲する(「贈り与える徳」)、
君たちの最愛の「本来のおのれ」、これが君たちの徳の目標である(「有徳者たち」)
等々というのは、「超人」を目指すべきものとして提示していることだ。それでは、救済史に変わって、別の歴史主義を押し付けているだけなのではないかという危惧を感じた。ブルトマン『歴史と終末論』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478082202.html)で触れたように、
救済史→地上化→個人化、
の流れの中に入ってしまうのではないか。
レーヴィット『世界と世界史』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478347758.html)は、地上化した救済史を、
ヘーゲルの世界精神、
史的唯物論、
とたどり、ハイデガーにすら、人間は、
終わりに向かう存在、
という個人史の中に歴史主義が生きている。そのハイデガーの「存在の定め」は、あるいは、このニーチェの個人化した歴史主義の後裔なのかもしれない。そういえば、ハイデガーが、
人は死ぬまで可能性の中に在る、
と言っていたのを思い出す。
しかし、人間を、
過渡、
とみなし、
人間から超人へ、
というのなら、たとえば、
人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である――深淵の上にかかる綱である。渡って彼方に進むのも危うく、途上にあるのも危く、うしろをふり返るのも危く、おののいて立ちすくむのも危うい(「ツァラトゥストラの序説」)。
「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。
およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなた方は、……むしろ獣類になろうとするのか。
人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ(「ツァラトゥストラの序説」)。
生は語った。「わたしはつねに自分自身を超克し、乗り越えざるをえないものなのだ」(「自己超克」)
生あるところにだけ、意志もある。しかし、それは生への意志ではなくて――力への意志である(「自己超克」)
等々というのは、
自己超克、
としての意味はある。けれども、
あなたがたは橋にすぎない。により高い者たちが、あなたがたを渡ってかなたへ進んで行かんことを! あなたがたのもつ意味は階段だ。だからあなたがたは、あなたがたを踏み越えておのれの高みへ登って行く者に怒りの思いをもってはいけない(「挨拶」)
とあるので、すべての人が、
過渡、
とはみなされていない。ここを悪意に取れば、
選別主義、
へと堕す。たとえば、
自分自身を、そして自分の星々を見おろすこと、それこそが自分の頂上の名にあたいするのだ。それが自分の最後の頂上として残されていたのだ(「さすらいびと」)
「人間は平等ではない」と。また、人間は平等になるべきでもない(「毒ぐも」)
等々は、その意味で取れば、上から目線、エリート主義になる。
さらに、ニーチェと言えば、たとえば、
一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている。一切は死んでゆく。一切はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている(「快癒しつつある者」)
わたしはふたたび来る、この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。――新しい生、よりよい生、もしくは類似した生へ返って来るのではない。
――わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ。それは最大のことにおいても最小のことにおいても同一である。だからわたしはふたたびいっさいの事物の永劫の回帰を教えるのだ(「快癒しつつある者」)
「今日」を、「未来のいつか」と「過去のかつて」と言うのと同じように言うこと(「大いなる憧れ」)
「これが――生だったのか」わたしは死に向かって言おう。「よし! それならもう一度」と(「醉歌」)
等々と、
永劫回帰、
を主張した。しかし、個人化した「歴史主義」の「超人」とは背反する。なぜなら、
救済史、
の時間軸は戻らない。だからこそ、
この一瞬、
は、かけがえのないものなのではないか。
僕には、『ツァラトゥストラ』は、
強気と弱気、
が交錯する、ニーチェの迷いを反映している気がしてならない。まだ、
決意表明、
に過ぎないのかもしれない。むしろ、ツァラトゥストラが感じた悲哀、
なぜ? 何のために? ?何によって? どこへ? どこで? どうして? なおも生きてゆくのは、愚かなことではないか。……わたしの内部からこのように問いかけてくるのは、たそがれなのだ。わたしの悲哀を許せ(「舞踏の歌」)、
「ここはどこ?」と「自分はどこから?」と「自分はどこへ?」と問いながら(「蜜の供え物」)
というのが、本来の人のありようなのではないのか。そうであればこそ、
「さてこれが――わたしの道だ――きみらの道はどこにある?」「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた。つまり万人の道というものは――存在しないのだ(「重さの靈」)、
人間における過ぎ去ったことを救済し、いっさいの「かつてそうであった」を創り変えて、ついに意志をして「しかし、かつてそうであったのは、わたしがそれを欲したのだ。またこれからもそうであることを、わたしは欲するだろう――」と言うに至らしめることを教えたのだ(「新旧の表」)
等々の言葉は生きる。とりわけ、
「生がわれわれに約束するところのもの――それをわれわれの生に対して果たそう」(「新旧の表」)
ということばは、
そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです、
というフランクルの言葉と重なるのであり、まさに、これこそが、
実存
なのではないか。そこには、
一回性、
しかないのである。
参考文献;
ニーチェ(手塚富雄訳)『ツァラトゥストラ』(『ニーチェ(世界の名著46)』)(中央公論社)
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2021年03月28日
だまくらかす
だまくらかす
も、
だまかす、
も、
だます、
も、
ほぼ同じ意味だが、
「だまくらかす」が、
だます、あざむく、だまかす、
「だまかす」が、
だます、あざむく、
に対して、「だます」は、
すかしなぐさめる、なだめる、
うそを本当と思わせる、あざむく、だまかす、たぶらかす、
と、少し意味に幅がある(広辞苑)。「だます」が始点だからだろうか。
「だます」と「だまかす」は、
騙す、
騙かす、
と当てている(仝上)が、「だまくらかす」は漢字を当てない(広辞苑)が、「だまかす」が「騙かす」なら、江戸語大辞典当てているように、「だまくらかす」も、
騙くらかす、
と当ててもよさそうである。
語感からいうと、「だまくらかす」には、
「だます」を強調した俗な言い方、
とあり(デジタル大辞泉)、
弟をだます、
↓
弟をだまかす、
↓
弟をだまくらかす、
と、より強く騙そうとする意志が強まる感がある。
たとえば、「だまかす」には、「だます」の語意が残り、
おこりちらして太平らくをいふゆへ、内中よつてたかつてだましてかへしてしまうと(寛政十一年(1799)「仲街艶談」)、
というように、
だましすかす、なだめすかす、
意がある(江戸語大辞典)が、「だまくらかす」には、
壬生狂言の道具を借りてだまくらかせし趣向なり(寛政三年(1791)「尽用面二分狂言」)、
というように、
いつわる、だます、
意味に完全にシフトしている(仝上)。ただ、
「だまくらかす」は、元は北海道の方言です、
とする説があり(https://meaning-book.com/blog/20191210131835.html)、その地方では、
「騙す」のこととして普通に使われている場合が多いですが、(中略)北海道以外では「騙す」のニュアンスが強くなった言葉として使われており、「だまくらかしてやる」とした時には、見事にそれをやってやるというニュアンスで使っている、または騙す内容がそれなりにすごいのだと考えていいでしょう、
とある(仝上)。
「だます」は、
黙ると同根、
とあり(岩波古語辞典)、
黙るの他動詞、
ともあり(大言海)、
黙す、
と当て(仝上)、
小児の泣く声を黙(だま)す、
と、本来の意味は、
黙るようにする、
意で、だから、
すかす、
なだむ、
の意となり、転じて、相手ではなく、主体側に変わって、
黙って知らぬ顔をして欺く、
というように(日本語源広辞典)、
あざむく、
たぶらかす、
意になった、とみられる(大言海)。ただ、「だまる」には、
黙る、
以外に、
騙る、
とあてるものもあり(日本語源大辞典)、この「騙る」は、
真実や真意・本心を画して表に表さないでいる、ということで「黙」の意を持つ、
のに対し、「騙す」は、
弁舌らをふるうなどの積極的な働きかけをして欺く、
と180度意味が変わる(仝上)、とする。つまり、「だまる」の場合、
黙る、
騙る、
も、
知らぬ顔をする、
という含意なのに対して、「騙す」となると、
すかす、なだむ、
にしろ、
あざむく、
にしろ、「黙」の含意は消えている、ということらしい。
なお、「だます」が現れたのは、室町時代で、それ以前は、
いつはる、
あざむく、
が用いられていた、とある(日本語源大辞典)。
「だます」には、
騙し込む、
といういい方がある。この場合、
騙し込んで寸分も疑われない、
というように、
すっかりだます、
意で、
だまくらかす、
の先を行くのかもしれない。
なお、当てられている感じを見ておくと、「騙」(ヘン)は、
会意兼形声。「馬+音符扁(ヘン うすい、かるい、ひらひらする)」
とあり(漢字源)、「ひらりと馬に飛び乗る」意で、他に、「たばかる」という意がある。他に、
会意形声。「馬」+音符「扁」。「扁」は「戸(片開きの戸)」と「冊(木簡・竹簡を綴ったもの)」を合わせたもので薄く平らなものがひらひらとしている様を表す。元は馬にひらりと飛び乗るの意。「だます」の意は、16世紀の世俗書に見られるようになり、また、正字通に「今俗借爲誆騙字」とあることから、比較的新しい用字。「言葉巧みに偽る」の意を有する同音異声の「諞」を仮借したものか、
とするものもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A8%99)。
「黙」(漢音ボク、呉音モク)は、
会意兼形声。「犬+黒(くらい、わからない)」
とあり(漢字源)、これだとよくわからないが、
会意兼形声文字です(黒(黑)+犬)。「上部の煙出しにすすがつまり、下部で炎が上がる」象形(「くろい・物の動きがない」の意味)と「耳を立てた犬」の象形から、犬が黙って人についてくる事を意味し、そこから、「だまる」を意味する「黙」という漢字が成り立ちました、
とあり(https://okjiten.jp/kanji1451.html)、由来がよくわかる。元の意は、「もだす」で、「口をきかないので意向がわからない」と、「だまる」「だます」に「黙」を当てた慧眼に畏れ入る。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年03月29日
かたる
「だまくらかす」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480711603.html?1616872311)で触れたように。
騙る、
は、
だまる、
とも訓ませるが、
騙る、
は、
かたる、
とも訓ませる。「かたる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.html)で触れたように、「騙る」は、
語る、
と同根である。「語る」は、
相手に一部始終を聞かせるのが原義。類義語ツグ(告)は知らせる意。イフ(言)は口にする意。ノル(宣)は神聖なこととして口にする意。ハナスはおしゃべりをする意で、室町時代から使われるようになった語、
とある(岩波古語辞典)。
「だまくらかす」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480711603.html?1616872311)で触れたように、
騙る、
は、
真実や真意・本心を画して表に表さないでいる、
という「黙」の意を持つ、
なだめすかす、
意から、
弁舌らをふるうなどの積極的な働きかけをして欺く、
意へと転じていった。それは、
騙(だま)る→騙(かた)る、
と、「黙」の意が消えていくことと対比できる。
言葉を口に出す、という言い回しの、
「言う」「話す」「申す」「述ぶ」「宣る」「告ぐ」
については、「はなす」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148)で触れた。
「語る」と「はなす」の違いは、「はなす」は、
放す(心の中を放出する)、
の(大言海)に対して、「かたる」は、
事柄や考えを言葉で順序立てて相手に伝える。一部始終をすっかり話す、
筋のある一連の話をする、
節や抑揚をつけてよむ、朗読するように述べる、
親しくする、うちとけて付き合う、
(物事の状態や成行きなどが)内部事情や意味などをおのずからに示す、
等々(広辞苑)、
「タカ(型、形、順序づけ)+る」で、順序づけて話す、
か、
「コト(物事・事象)+る」で、世間話をする、物事を話す、
の二説(日本語源広辞典・大言海)あるが、
筋のある、
事柄や考えを言葉で順序立てて相手に伝える、
ところがポイントとなる。カタリベ、カタライベなどがあるので、随分古い言葉だとされているのだが、
物をカタルとかのカタル(語)が、ダマス(瞞、騙)に使われるようになって、近世になって、ハナス、に漢字の『話』を当てて生まれた語です、
とあり(日本語源広辞典)、「話」は、19世紀以後の当て字であり、
16世紀以前は、語る(カタル型+る)、語り(カタリ型+り)デアリ、ハナス、ハナシは使わなかった、
とある(仝上)。それは、「かたる」が、語るから、騙るへと意味を広げた、ことが背景にある。「騙る」は、
虚を語る(大言海)、
(巧みに話しかけて)だます(岩波古語辞典)、
という意味になる。虚実いずれにせよ、「騙る」も「語る」も、
筋の通ったことを相手に伝える、
ことであり、それが「かたる」ことである。
「語」(漢音ギョ、呉音ゴ)は、
会意兼形声。「吾」は、「口+五(交差する意)」からなり、音符「五」は、指事文字。×は、交差を表す印。五は、「上下二線+×」で、二線が交差することを示す。片手の指で十を数えるとき、→の方向で(親指から折って)五の数で、(今度は指を立てて、逆の)←方向に戻る、その転回点にあたる数を示す。で、「吾」は、AとBが交差して話しあうこと。後に、吾が我(われ)とともに一人称を表す代名詞に転用されたので、「語」がその原義を表すことになった。語は「言+音符吾(ゴ)」、
とある(漢字源)。だから「対話」の意であり、「論語」は、対話を整理した書の意となる(仝上)。別に、
形声文字です(言+吾)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)と「棒を交差にさせて組み立てた器具と口の象形」(「神のおつげを汚れから守る為の器具」の意味だが、ここでは、「互(ご)」に通じ、「交互する」の意味から「交互に言う・かたる」を意味する「語」という漢字が成り立ちました、
とあり(https://okjiten.jp/kanji199.html)、解釈が違うが、「対話」では一致する。
(「語」金文(春秋時代) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AA%9Eより)
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年03月30日
挙藩流罪
星亮一『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』を読む。
本書は、会津藩士荒川勝茂の日記をベースに。彼の一生を追う。「勝茂」は、明治四年以降であり、それまでは、俗名、
類右衛門、
で、
荒川類右衛門勝茂、石高百三十石。
ただ、身分は特殊で、藩候保科正之以来の重臣、北原家に仕えた。
北原家に仕える二十人余中の家臣の筆頭で、会津家臣団の格を示す羽織の紐は、七階級中の第五位、茶紐をつけていた。文久二年(1862)当時数え三十一歳。
彼の日記は、
折々に書き溜めておいたものを、明治三十年代にまとめたもので、元、亨(コウ)、貞(テイ)、利(リ)の四巻に分かれ、藩政の仕組み、戊辰戦争の顛末、身の回りの出来事を克明に記述している。
各巻とも自筆、半紙判、墨書。和紙に楷書風の書体できちんと書かれており、それぞれ百二十五枚(二百五十頁)前後の厚さである、
とある。このうち、
貞と利は、会津藩の職制や幕末の政治情勢、戊辰戦争前後の会津藩の公式文書、嘆願書、斗南藩関係資料をまとめたもので、なかでも斗南藩関係資料は貴重である。
元と亨は、戊辰戦争前後の勝茂の行動と、家族の模様を日記体に記している。特に元は、容保が京都守護職として上洛したところから書き起こし、会津城下の戦闘を、体験にもとづいて生々しく記述している。
会津戦争では、勝茂は、佐川官兵衛麾下のゲリラ戦に加わる。
会津藩は籠城戦の戦略が欠如していたため、城内に弾薬・食糧の備蓄がなく、(中略)たちまち食糧が底をついた。弾薬は城内で製造に当たったが、粗悪品が多く、武器も消耗する一方である。
そこで会津藩軍事局は、日光口に長く延びている田島方面の敵兵站戦を襲い、ここから武器・弾薬・食糧を奪って城内に運び入れる作戦、
である。大芦村での戦闘では、
蔵の傍より一人現れいでたり。予を見るやいなや刀を抜き、真甲に振りあげ、進み来たる。これよき相手なりと槍を捻って進み、汝一突に斃しくれんと突きいれたり。彼の者、槍切り払いて進まんとす。二の槍を入れしにまた払いたり。残念、逃さじとまた突く槍を払い、直ちに槍に乗って進み、手元まで来る。予、柄を槍首まで引きしを得たりと切り込みたり。予、手早く太刀下を潜って跪ずき、槍首とって岩をも通さんと、臍下に突き当てたり。蹣跚(まんさん)逡巡するをすかさず胸板突きて斃したり、
といった戦いを経て、大戦果を上げたが、数日後、容保より会津藩降伏の知らせを受ける。越後高田での一年三ヶ月に及ぶ謹慎後、再興された斗南藩へ向かう。これが地獄である。米の取れない不毛の地で、
挙藩流罪、
でしかなかった。斗南藩領は、
二つの領知に分断されていた。下北半島と三戸、五戸を中心とした岩手県に隣接した部分である。平地のある三沢周辺は斗南藩領ではなく、七戸藩領である。同じように、港のある八戸周辺は八戸藩領で、肥沃な土地は斗南藩から外されていたことになる。
とある。わざわざ、不毛の地を与え、家名復興をぬか喜びさせる、という手の込んだ悪意といっていい。
明治三年(1870)から明治五年(1872)まで、
栄養失調・病人が続出し、一銭の金もない貧乏暮らし、
と日記に記す惨憺たる悪戦苦闘の結果、廃藩置県を機に、
斗南藩の開拓、
は無残な失敗であると認め、藩庁は、
開拓中止、
を決断、
職業の自由、移住の自由、
を認めた。会津藩士の進退は、ほぼ四つに分けられる、と著者はまとめる。
第一は、斗南藩大参事の山川浩に代表される、明治新政府に仕官する道である。
第二は、斗南藩少参事の広沢安任に代表される、陸奥の地に残った人々である。
第三は、斗南藩少参事の永岡久茂に代表される、新政府への反乱である。
第四は、故郷会津へ戻った人々である。
勝茂は、母と三男を斗南の地で失い、会津へ戻った直後、妻と長男と長女をなくした。官公庁は薩長土肥の出身者で占められ、教員以外働く場はなかった。幸い、勝茂は、小学校教員の職を得る。
勝茂は越後の高田に謹慎中も、南摩綱紀に師事して漢学を学び、また多くの門弟を抱え、斗南の地でも周囲の子供たちに漢学を教えた。この経歴を評価、
された。しかし、
大半の藩士たちは、苦難の生活を強いられ、薄幸の生涯をおえた、
と、著者は締めくくる。そして、著者の日記について、
全編を通じていえることは、数ある会津藩の資料の中でも、第一級の内容を持っていることで、記述の正確さ、適格なものの見方には驚かされる。また人間としての嘆き悲しみ、怒りも随所に見られ、読む人に感動を与える、
と評する。しかし、遺族は、
これは荒川家だけの小さな歴史、祖父は他見を禁ず、と書いていた。わたしはそれを守るだけ、
と公刊には否定的とか。
象徴的なのは、勝茂が、明治二十七年(1894)に拝受した、
正三位松平容保御写真、
を、日記の第一頁に貼り、さらに、
二枚も、三枚も手に入れ各冊にはった、
とある。著者は記す。
亡くなる直前の老いた主君の写真である。(中略)主君の写真のなかから過ぎ去った人生が走馬灯のように浮かぶのであろう、
と。勝茂の没年は、
明治四一年(1908)、享年七十七歳。
参考文献;
星亮一『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年03月31日
あざむく
「あざむく」は、
欺く、
と当てる(広辞苑)。
布施(ふせ)置きて吾は祈(こ)ひ祷(の)むあざむかず直に率(ゐ)ゆきて天路(あまぢ)知らしめ(万葉集)、
と、
だます、まどわす、
意と、
法師を見れども尊む心なし、若し教へすすむる人あれば、かへつてこれをあざむく(発心集)、
と、
あざける、そしる、
意と、
源氏どもにあざむかれて候はんは、誠に一門の恥辱でも候ふべし(平家物語)、
と、
あなどる、ばかにする、
意とがあり、他に、
近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず(後拾遺序)、
と、
(自動詞として)興に乗じて歌などを口ずさむ、
意があり、
雪を欺く御顔をもたげさせ給ひ、
昼を欺くばかりの明るさ(共に「のせ猿草子」)、
と、
……を欺く、
の形で、
……と間違える、……にひけをとらぬ、
の意でも使う(広辞苑)。
これを見ると、
だます、
意と、
あなどる、
意と、
あざける、
意とがまじりあっている。
あなどる、
と
あざける、
をほぼ同義の範囲とすると、
だます、
意と、
あなどる(あざける)、
意とに分かれる気がする。どうやらこれは語源と関わる。岩波古語辞典は、
アザはアザ(痣)・アザヤカ・アザケルのアザと同根。人の気持ちにかまわずどぎつく現れるものの意。ムクはブク(吹)の転。吹くは、自分の気持のままに、口から出まかせを言う意、
とある。このため、
近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず(後拾遺序)、
は、自分の気持ちのままに歌など口ずさむ、
の意にスライドしたと見ることができる。
アザケルやアザワラフのアザと、向くとの複合語(時代別国語大辞典-上代編)、
もほぼ同趣旨である(日本語源大辞典)。このアザは、
あざやか、
に当てる、
鮮、
ではなく、
痣、
である。「あざ(痣)」は、あばた、ほくろ、瘤なども含めており、和名抄には、
痣、師説阿佐(あざ)、
とあり、
瘤、アザ、肉起、
とある(文明本節用集)。
アザアザ・アザワラフ・アザケル・アザムク・アザヤカと同根、
とある(岩波古語辞典)。「あざあざ」は、
鮮々、
と当て、
はっきりしたさま、
である。「あざむく」とは意味が離れてしまう気がするが、「痣」と「あざやか」とは通じなくもない。
いま一つの説は、大言海の、
浅む、
を活用せしめた語、
というものである。
摘むが紡ぐとなる(酒水(さかみづ)く、鬘(かづら)く、枕(ま)く)、あさましく仕向くる意にもあらむか、
とする(大言海)。「浅む」は、
驚む、
とも当て、
あさみ笑ひ、嘲るものどもあり(更級日記)、
と、
人の行動を浅い、情けないと見下げる、軽蔑する、馬鹿にする、
意とともに、
人々見ののしり、あさね、さわぎあひたり(古本説話)
と、
余りの出来事にきれる、びっくりする、
意がある(岩波古語辞典・明解古語辞典)。これは、
浅(アサ)を活用して、アザムと云ふなり、あきれかえるに因りて濁る(淡(あは)む、あばむと云ふと同趣なり)、此語の未然形のアサマを形容詞に活用させて、アサマシと云ふ(勇む、いさまし。傷む、いたまし)。即ちあさましく思ふなり、あざ笑ふなり、
とあり(大言海)、この「あさ」は、
浅、
を当てる。
アサ(浅)の語根と、ムク(向)の複合語(俚言集覧)、
アサムカフ(浅向)の義(名言通)、
も同趣旨である(日本語源大辞典)。いま一つの説は、
アザ(交)ム+ク、つまり真偽をまぜあわせてだます、
と、「あさ」を、
交、
と当てる説である。この「あさ」は、
アザナフ・アザナハリ・アザハリ・アザヘなどのアザ、
で、
あぜ(校)の古形。棒状・線状のものが組み合う意、
である(岩波古語辞典)。しかし、この解釈は、
あざむく、
の「だます」意から逆算したような解釈ではあるまいか。
普通に考えると、
浅む、
から来たと考えたいが、しかし、「あさむ」は、
対象とする事物の属性や事態に処する自分の認識を「浅いとみなす」が原義か、
とあり(日本語源大辞典)、そこから180度意味を変えて、
人の行動を浅い、情けないと見下げる、軽蔑する、馬鹿にする、
意に転じるところまではよしとしても、「あざむく」の、
相手にあれこれと誘い掛け自分の思い通りにさせる、
相手に本当のことだと思わせる、
という(仝上)、
単なる自分の認識の意から働きかける意へ、
という飛躍があり、乖離がありすぎる。しかも「あさむ」は、
上代には適例がなく、「あざける」などからの類推で、江戸時代以降「あざむ」と言われた。しかし「あざむ」は、中世以前には確認できない、
とある(仝上)。つまり、
あさむ→あざむ→あざむく、
と転訛したとするには、万葉集にすでにみられる「あざむく」の由来の説明にはならない、ということなのである。
そこで、改めて、「あざむく」の「あざ」と同根とされる「あざける」をみると、
好き勝手な言葉を口にする、あたりかまわず勝手な口をきく、
ことばに出して射手をばかにする、相手を見下して物を言う、
の意だが、「観智院本名義抄」の「嗤・謾・欺」等々には、
あざける、
あざむく、
の二訓が含まれ、「色葉字類抄」には、「嘲・詐・謾・欺」等々も、二訓とある(日本語源大辞典)。前述の後拾遺の序文、
近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず、
では、八代集抄本では、
風にあざむく、
となっており、
あざむく、
と
あざける、
が同義に解されていた(仝上)、とある。となると、「あざむく」の、
見下す気持ち、
と、「あざける」の、
言葉に出して物を言う、
の意味が、「あざむく」で重なることはある。さらに、「あざける」には、
加持を参るに……侍女忽ちに狂ひて哭(な)きあざける。侍女に神つきて走り叫ぶ(今昔)、
というように、
好き勝手な言葉を口にする、
あたりかまわず、勝手な口をきく、
という意味があり、どうやら、「あざむく」の「あざ」は、
痣、
由来であり、
あざやか、
あざける、
あざわらふ、
に共通する「あざ」のようである。「あざむく」は万葉集の時代から使われる言葉だか、「あざける」とどこかの時点で意味が重なったようである。
(「欺」説文(漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AC%BAより)
「あざむく」に当てられた「欺」(漢音キ、呉音コ、慣用ギ)は、
会意兼形声。其(キ)は、四角い箕(ミ)を描いた象形文字。旗(四角い旗)や棋(キ 四角い碁盤)などに含まれて、四角くかどばった意を含む。欺は「欠(人が身体をかがめる)+音符其」で、角ばった顔をみせて、相手をへこませること、
とあり(漢字源)、「表面だけしかつめらしく見せておいて、実はごまかす」意である。他に、
形声文字です(其+欠)。「農具:(み)」の象形(「農具:箕・方形をして整っている」の意味だが、ここでは「期(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「期」と同じ意味を持つようになって)、「まつ(末)」の意味)と「人が口を開けている」象形から、期待したものが、最終的に得られなくて、あいた口がふさがらない事を意味し、そこから、「あざむく」を意味する「欺」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1524.html)。
(「欺」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1524.htmlより)
似た意味の漢字の使い分けは、
「欺」は、あなどりてだます義、大学「誠意者、毋自欺也」、
「瞞」は、ぱっとしたことを云ひてだます義、「謾」と同じ、
「誑」は、たぶらかすとも訓み、だまして迷わす義、
とある(字源)。「あざむく」に、「欺」の字を当てたのは、的確である。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:あざむく