2021年03月21日

事上磨錬


王陽明(溝口雄三訳)『伝習録』を読む。

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陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、本書は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた三巻で構成されるが、各巻それぞれ成立の時期と事情を異にするという。

本書の「伝習」とは、『論語』学而篇の、

曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、与朋友交言而不信乎、伝不習乎、

の、

曾子曰く、吾、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、

伝不習乎、

から採った、とされる。場違いだが、かつての海軍兵学校の、

五省、

一、至誠に悖る勿かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に缺くる勿かりしか
一、努力に憾み勿かりしか
一、不精に亘る勿かりしか

を思い出した。これは、

学は須らく己に反るべし、(中略)若し能く己に反りみて、方(まさ)に自己の許多(きょた)の未だ尽くさざる処有るを見れば、奚(なん)ぞ人を責むるに暇あらんや、

に通じる(下巻)のだろう。「切問而近思」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480566811.html?1616095990でも触れたが、『論語』為政篇にある、

学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し、

について、陽明は、

此れ亦為にすること有りて言えり。其の実は思うが即ち学ぶなり、学びて疑う所有れば、便(すなわ)ち須らくこれを思うべし。思いて学ばざる者とは、蓋し此れ等の人有れば、只だ懸空(けんくう)に去(ゆ)きて思いて、一箇の道理を想出せんと要し、却って身心の上に在りて実に其の力を用いて、以て此の天理を存せんことを学ばず。思うと学ぶとを両事と作(な)して做す、故に罔(な)しと殆(あやう)しの病(へい)有り。其の実は、思うとは、只だ其の学ぶ所を思うのみにして、原(も)ともと両事に非(あら)ざるなり、

という(下巻)。これを、

実際は考えることはとりもなおさず学ぶことである。学んでいて疑問にぶつかれば、かならず考える。考えるだけで学ばないというのは、宙空にいたずら思惟をめぐらせ、そこに何か道理を懸想しようとする人々のためにいわれたことだ、

と訳す(溝口雄三)。確かに、これは、

事上磨錬(じじょうまれん)、

と言っていることと一致する。つまり、

何ぞ更に念頭を起こすを須(もち)いんや、人は事上に在りて磨錬し功夫(こうふ=工夫)を做すを須(ま)ちて、乃ち益在り(下巻)、

実戦の中で研鑽すべき、ということに通じていく。これが、いわば、

知即行(ちそくこう)、
または、
真知即行(しんちそっこう)、

といわれる、

知行合一(ちこうごういつ)、

に通じるのだが、この、

学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し、

に関してだけは、僭越ながら、ちょっと承服しかねる。

考えることはとりもなおさず学ぶこと、

では、

学ぶ、
と、
思う、

というのダイナミズムが消えてしまう。確かに、『論語』衛霊公篇に、

子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寐(い)ねず、以て思う。益なし、学ぶに如かざるなり、

とあるし、『荀子』勧学篇には、

吾嘗て終日にして思う。須臾の学ぶ所に如かざるなり、

とあるように、いたずらな思索は意味がないが、

確かめつつ、考え、考えつつ、疑い、学んで、また、考える、

は、一つにはならないのではないか。そこで思うのは、

知は行の主意(きほん)、行は知の功夫(じっせん)、また知は行の始(もと)、行は知の成(じつげん)、

にある、

知行合一(ちこうごういつ)、

は、

真知は即ち行たる所以なり、行なわざればこれを知というに足りず(中巻)、

とか、

未だ知りて行わざる者あらず、知りて行わざるはただ是れ未だ知らざるなり(上巻)、

とあるのは、貝原益軒の言う、

知って行わざれば知らざるに同じ、

というのが、「知」への戒めなのであるとするなら、

知即行、

は、その意味でなければ、いわゆる、

PDCA(Plan→Do→Check→Action)、

は、そもそも成り立たない。

考えて、実践し、そしてまた考える、

別に実践している最中に何も考えないのではない。その意味では、

事上磨錬、

である。それは、

知と行の一体化、

ではなく、

知と行のダイナミックな「正反合」(止揚)、

に見える。

王陽明が、朱子の、知と行を先後軽重と分割する、

先知後行説、

への反措定であること(吉田公平)や、治世の学としての朱子学に対する、

儒教の民衆化、

という役割(溝口雄三)といった、位置づけはともかくとして、いま、その言葉を受け止めるとするなら、こんな感想なのである。

王陽明.jpg


なお、呂新吾『呻吟語』については、[新吾]http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.htmlで、また「論語」については、「注釈」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.htmlで、孟子については「倫理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.htmlで、「大学」については「修身斉家治国平天下」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480516518.html?1615836541で、「近思録」については、「切問而近思」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480566811.html?1616095990で、それぞれ触れた。

参考文献;
王陽明(溝口雄三訳)『伝習録』(中公クラシックス)
吉田公平編訳『伝習録』(タチバナ教養文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:21| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする