2021年03月23日
サグラダ・ファミリア
カール・マルクス(岡崎次郎訳)『資本論』を読む。
若いころ、マルクス=エンゲルス全集版の23巻aと23巻b(文庫版で第一巻~三巻)で頓挫していたものを、同じ版の文庫版を継続して読み通してみた。しかし、完成度は、第一巻(文庫版での第一巻~三巻)、第二巻(文庫版での第四巻~六巻)、第三巻(文庫版での第六巻~八巻)、だんだん完成度が薄くなり、草稿の寄せ集め感はぬぐえなくなる。しかし、未完のままのサグラダ・ファミリアである(ただ、本家の方は、2026年には完成予定らしいが)。
いまさら、素人の僕がこの本の是非を論評してもあまり意味がないだろうから、あくまで個人的な感想をいくつか述べてみたい。
ひとつは、その方法である。『経済学批判』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479551754.html)で触れたことと重なるが、マルクスは、『「経済学批判」序説』で、「経済学の方法」について、こう書いている。
われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口をつくり上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの成素は、交換、分業、価値等々を予定する。例えば、資本は賃労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。したがって私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向かって進み、最後に私は最も単純な諸規定に達するだろう。さてここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてではなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。
そして、後者の方法こそが「科学的に正しい方法」であるとして、
具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現れるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが、
と付け加える(「経済学批判」序説)。ある意味で、概念の、
チャンクダウン、
チャンクアップ、
を言っているのだが、ふと、ウィトゲンシュタインの、
人は持っている言葉によって見える世界が違う、
という言葉を思い出す。たとえば、「人口」という概念で見える世界と、各「階級」という概念で見える世界とは異なる。例えば、統計数値を使うとする。しかし、コンマいくつで丸められたのか、そして、そう丸められたのは、どういう前提に基づいているのか、と分析していくと、その統計数値を生み出すための、調査なら質問の、また数値結果としての各数値間の関係が見えてくるはずである。何かありふれた概念を、安易に前提にすれば、それだけのものしか見えてこないということである。だから、
抽象的な諸規定が、思惟の手段で具体的なるものを再生産することになる、
と(仝上)言い切れるのである。それは、
具体的なものを自分のものにし、これを精神的に具体的なものとして再生産する思惟の仕方にすぎない、
のであり(仝上)、
理解された世界それ自体がはじめて現実的なもの、
なのだから(仝上)、
範疇の運動は現実の生産行為……として現われ、この行為の結果が世界、
である(仝上)、と。しかし、である。それは、ヘーゲルの陥った、
実在的なものを、それ自身のうちに綜合し、それ自身のうちに深化され、それ自身のうちから運動してくる思惟の結果として理解する幻想、
とは、どこか紙一重に思えてならない。ある意味「仮説」というもののもつ宿命ではあるにしても、である。
さて、「概念」によって見える世界が異なる典型は、たとえば、
使用価値、
交換価値、
貨幣資本、
生産資本、
商品資本、
絶対的剰余価値、
総体的剰余価値、
支払労働、
不払労働、
必要労働、
剰余労働、
追加資本、
可能的追加資本、
可能的追加貨幣資本、
可能的追加生産資本、
利潤率、
剰余価値率、
利子生み資本、
機能資本、
貨幣資本、
現実資本、
等々、それぞれの概念を通して、確かに、そこで描かれる世界像が変わるのだが、ここでは、
不変資本、
可変資本、
固定資本、
流動資本、
を対比してみる。
不変資本、
可変資本、
については、生産過程における、生産手段と労働力を、こう説明する。
生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを超えるすなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別される(第一巻224頁)。
この不変資本部分には、
労働手段、
といわれる、
作業用の建物や機械など、(中略)一度生産面にはいってしまえば、けっしてそこを去らない。……同種の新品と取り替えられる必要がないあいだは、…不変資本価値が固定されている(仝上)、
固定資本、
があり、生産過程でのすべての素材的成分は、
流動資本、
を形成する。
固定資本と流動資本という範疇と不変資本と可変資本という範疇との混同という、「従来の概念規定の混乱」を、マルクスは、こう正している。
人々は、労働手段が素材としてもっている特定の諸特性、たとえば家屋などの物理的な不動性のようなものを、固定資本の直接的属性だとする。このような場合にいつでもたやすく指摘できるのは、労働手段としてやはり固定資本である他の労働手段が反対の属性をもっているということであり、たとえば船などの物理的な可動性である。
あるいはまた、価値の流通から生ずる経済上の形態規定を物的な属性と混同する。あたかも、それ自身では決して資本ではなくてただ特定の社会的諸関係のもとでのみ資本になる物が、それ自身としてすでに生まれながらに固定資本とか流動資本とかいう一定の形態の資本でありうるかのように。われわれが第一部第五章でみたように、生産手段は、労働過程がどのような社会的諸条件のもとで行われようと、どの労働過程でも労働手段と労働対象に分けられる。しかし、資本主義的生産様式のなかではじめてこの二つのものが資本になるのであり、しかも……「生産資本」になるのである。それと同時に、労働過程の性質にもとづく労働手段と労働対象との相違が、固定資本と流動資本との相違という新しい形態で反映するのである。これによってはじめて労働手段として機能するものが固定資本になる。もしその物がその素材的諸属性によって労働手段の機能以外の諸機能にも役だつことができれば、それはその機能の相違にしたがって固定資本であることもあればそうでないこともある。家畜は、役畜としては固定資本である。肥育家畜としては、最後には生産物として流通にはいって行く原料であり、したがって固定資本ではなく、流動資本である(第二巻163頁)。
この四者の関係は、「不変資本」と「可変資本」が価値増殖過程の資本役割を、「固定資本」と「流動資本」が生産過程の資本区分を描こうとしていることが分る。
不変資本のうち補助材料や原料からなっている部分の価値は―労働手段からなっている部分の価値とまったく同じに―ただ移転された価値として生産物の価値に再現するが、労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物につけ加える(第二巻164頁)。
したがって、
価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本部分とのあいだにどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力と不変資本成分とに共通なものである。生産資本のこれらの成分―生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と―は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本に対して流動資本として相対するのである(同166頁)。
二つ目は、付加価値についてである。今日、「付加価値」は、一般に、
生産によって新たに加えられた価値、
を指し、
総生産額から原材料費・燃料費・減価償却費などを差し引いた額、
をいう(粗付加価値。減価償却費を差し引くと純付加価値)。マルクスの、
剰余価値、
は、生産過程での、
労働者の生活に必要とする労働(必要労働)とそれを超える剰余労働(不払労働)、
のうち、後者の、生活に必要な労働を超えた剰余労働(不払労働)を言う。別のところで、マルクスは、
総収益、
純収益、
総収入、
純収入、
について、こう書いている。総収益または総生産物は、
再生産された生産物全体である。固定資本中の充用はされたが消費はされなかった部分を除いて考えれば、総収益または総生産物の価値は、前貸しされて生産に消費された不変資本と可変資本との価値・プラス・利潤と地代とに分解する剰余価値に等しい(第三巻848頁)。
総収入は、
総生産物のうちの、前貸しされて生産で消費された不変資本を補填する総生産物中の価値部分およびそれによって計られる生産物部分を引き去ったあとに残るところの、総生産物中の価値部分およびそれによって計られる生産物部分である。だから、総収入は、労賃(または生産物中の再び労働者の収入になるという使命を持っている部分)・プラス・利潤・プラス・地代に等しい(仝上)。
純収入は、
剰余価値、
になる(仝上)。付加価値と総収入はほぼ重なるが、「付加価値」といういい方と「剰余価値」といういい方では、見える世界が違う。ことの是非を、省略するなら、同じことでも、異なる世界になる。
労働力の対象化によって生み出す価値、
とみるか、
生産手段も含めた生産活動で生み出した価値、
と見るかで、180度とは言わないが、見える世界がかなり変わる。しかし、今も昔も、価値を生み出すのは、生産手段ではなく、人の思考力、発想力、想像力も含めた労働力以外にはない。
だから、「自分の価値」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill1.htm#%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4)で触れたことだが、今日でも、(組織で)働く人のコストは、最低限、
自分の年収(×1.7~2.3)、
とされる。それは、ある意味、その人の労働力が生み出す価値は、
二倍、
だと言っているようなものである。確か、青色LEDの量産化に成功した中村修二氏の訴訟が明らかにしたのは、個人の創造力(労働力と置き換えてもいい)という主張と、それをお膳立てする設備や機器という手段があったからこそできたことではないかという会社側の主張との争いといっていい。変なたとえだが、中村修二氏は、
剰余価値説、
に立ち、日亜化学工業は、
付加価値説、
に立っている、ということになる。生み出した価値が、
生産活動によって価値が生み出された、
のだとして、それを、
人に起因させるか、
不変資本に帰属させるか、
は、まだ結論は出ていないところがある。
三つめは、本書を読みながら、とりわけ、第一巻の、過酷な労働、少年労働、幼児労働の実態に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、イワンが語った、
大審問官、
を思い出した。
「大審問官」とは、
虐げられている子供たちのために何をするか、
という問いかけであり、それは、
神は何かしたか、
という詰問でもある。大審問官は、
お前は人はパンのみにて生きるにあらずと答えたが、よいかな、ほかならぬこの地上のパンの名において、地上の悪魔はお前に反旗を翻し、お前に戦いをいどみ、ついにお前に打ち克つのだ。そしてすべての人間は、《この獣に似たるものこそ、天より火を盗みてわれらに与えたるものなり!》と叫びながら、そのあとに従うことになるのだぞ(小沼文彦訳)、
という。僕は、これは、貧困と、幼児虐待への一つの処方箋として、思考実験として示されたものだと思う。マルクスもまた、その時代の政府報告書を引用しつつ、悲惨な労働実態を描き出している。
「詐欺的な工場主は朝の六時十五分前に、ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く、作業を始め、午後の六時十五分過ぎに、ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く、作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の初めと終わりから五分ずつを取り上げ、または昼食のためにとってある一時間の初めと終わりから十分ずつを削り取る」(五日間で三百分になる)
(十歳の少年)「昼食のためにまる一時間もらえるとは限らない。半時間だけのこともよくある。木、金、土曜日はいつでもそうだ。」
(十二歳の少年)「私は型を運び、ろくろを回す。私が来るのは朝の六時で、四時のこともよくある。昨夜はけさの八時まで夜通し働いた。私は昨夜から寝ていない。ほかにも八人か九人の子供が昨夜夜通し働いた。一人のほかは、けさもみなきている。」
「各種の裁縫女工や婦人服製造女工や衣服製造女工や普通の裁縫女工は三重の困苦に悩んでいる―過度労働と空気不足と栄養不良または消化不良とである。概してこの種の労働は、どんな事情のもとでも、男よりも女の方が適している。しかし、この営業の害毒は、それが、ことに首都では、26人ほどの資本家に独占されていて、彼らは、資本から生ずる権力手段によって、節約を労働から絞り出す(彼の考えている意味では、労働力の乱費によって出費を節約する)ということであある。かれらの権力は、この部類の女工全体のあいだに感知される。一人の女裁縫師がわずかな顧客でも獲得できたとすれば、競争は彼女に、客を失わないために自宅で死ぬほど労働することを強制し、そして必然的に彼女は自分の女助手たちにも同じ過度労働を押しつけなければならないのである。」
「鍛冶工は毎年1000人につき31人の割合で、またはイギリスの成年男子の平均死亡率よりも11人多い割合で、死んでいる。その仕事は、……ただ労働の過重だけによって、この男を破壊するものになるのである。」
「陶工は、男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。遅鈍で活気がなく、彼らの体質の虚弱なことは、胃病や肝臓病やリューマチスのような痼疾にかかることでもわかる。しかし、彼らがかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。ある型の喘息は彼らに特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨やその他の身体部分を冒す瘰癧(るいれき)は、陶工の三分の二以上の病気である。この地方の住民の退化がもっとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげ」
等々。
どうしてそういうことが起きるのか、
それは何によるのか、
それを解決するにはどうすればいいのか、
そのために何をすればいいのか、
マルクスがここで示した問題の構図は、「大審問官」によって、一つの解決策を示されている。それはマルクスが示した処方箋とは異なるが、大審問官が、
スターリン(埴谷雄高)、
レーニン(D・H・ローレンス)、
に準えたりするように、一つの解決策を、寓意によって示したとみていいのである。それは、
一つの思想体系、
をなす、といってもいい。ある意味、マルクスと拮抗している。
四つ目は、「思想」ということを考えたとき、変なたとえを出すようだが、僕は、道元は宗教家ではあるが、思想家ではないと思う。しかし、親鸞は、宗教家である以上に、思想家である、と思う。思想とは、
現実の問題に立ち向かい、それと相渉り、なぜこうなるのか、どうすればいいのかを考え詰めていく、
そして、処方箋を出す。
親鸞のなしたことは、宗教を突き破り、
南無阿弥陀仏、
を唱え、
本願他力に委ねる、
という処方箋を出した。「はからう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444177777.html)で触れたように、
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、
という親鸞の言い回しで、
これだけ信心のためにしたのだから、
これだけ修行したのだから、
往生とげるだろうと思うのを、
計らい、
として一蹴したことを思い出す。計らいには、その行為の相手を意識する言葉である。その意味では、それは宗教の破壊でもある。
マルクスもまた、一つの処方箋を出した。多く、仮説は、思考実験を出ないところもある。しかし、一つのパラダイムシフトをもたらしたことは事実である。そして、まだそのシフトをシフトさせる思想は出ていない、と思う。相変わらず貧困は続き、貧富の格差はなお拡大している。しかしこのシフトを微調整したり、弁明したりする思想らしきものはあったにしても、この現実に立ち向かい、その構造を分析し、その処方箋を示そうとする思想は、以降出ていないと思う。
参考文献;
カール・マルクス(岡崎次郎訳)『資本論(1~8)』(国民文庫)
ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟Ⅰ』(筑摩書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95