2021年03月27日

超人


ニーチェ(手塚富雄訳)『ツァラトゥストラ』を読む。

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神は死んだ、

というフレーズ(「ツァラトゥストラの序説」)が劈頭に出てくる。この言葉から、変な連想だが、ジョン・レノンの「イマジン」を思い出した。

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today・・・(「Imagine」)

今日、もはやこの言葉にはインパクトは薄い。そういう時代だということを考えると、『ツァラトゥストラ』のもつ衝撃はもはや分からないのかもしれない。まして、たとえば、

こういうふうに比喩でしか語れない(「新旧の表」)、

と比喩や寓話だけで語られる意味の背景を掴めるほど教養がないのだから、全部が理解できたとは思わない。しかし、改めて、感じたことがいくつかある。

ひとつは、

山上の垂訓、

に準えたのか、

隠者、

に喩えたのか、四部構成のその都度、何かというと、

山に籠る、

という行動パターンは、東洋的に言えば、悟りを開く典型的パターンで、僭越ながら、僕には古臭く感じられてならなかった。

いまひとつは、「神が死んだ」世界での生き方を提示するという意図はわかるが、たとえば、

人間として生存することは無意味であり、しょせんそれは意味を持たない。(中略)わたしは人間たちにかれらの存在の意味を教えよう。意味とは超人である。人間という暗黒の雲を破ってひらめく雷光である(「ツァラトゥストラの序説」)、

一つの目標が欠けている、人類はまだ目標をもっていない(「千の目標と一つの目標」)、

「何からの自由?」そんなことには、ツァラトゥストラは何の関心もない。君の目がわたしに明らかに告げねばならぬことは、「何を目ざしての自由か」ということだ(「創造者の道」)、

まことに、ツァラトゥストラは一つの目標をもっていた。かれはかれのまりを投げた。さあ、君たち友人よ、わたしの目的の相続者となれ(「自由な死」)、

すべての神々は死んだ。いまやわれわれ超人が栄んことを欲する(「贈り与える徳」)、

君たちの最愛の「本来のおのれ」、これが君たちの徳の目標である(「有徳者たち」)

等々というのは、「超人」を目指すべきものとして提示していることだ。それでは、救済史に変わって、別の歴史主義を押し付けているだけなのではないかという危惧を感じた。ブルトマン『歴史と終末論』http://ppnetwork.seesaa.net/article/478082202.htmlで触れたように、

救済史→地上化→個人化、

の流れの中に入ってしまうのではないか。

レーヴィット『世界と世界史』http://ppnetwork.seesaa.net/article/478347758.htmlは、地上化した救済史を、

ヘーゲルの世界精神、
史的唯物論、

とたどり、ハイデガーにすら、人間は、

終わりに向かう存在、

という個人史の中に歴史主義が生きている。そのハイデガーの「存在の定め」は、あるいは、このニーチェの個人化した歴史主義の後裔なのかもしれない。そういえば、ハイデガーが、

人は死ぬまで可能性の中に在る、

と言っていたのを思い出す。

しかし、人間を、

過渡、

とみなし、

人間から超人へ、

というのなら、たとえば、

人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である――深淵の上にかかる綱である。渡って彼方に進むのも危うく、途上にあるのも危く、うしろをふり返るのも危く、おののいて立ちすくむのも危うい(「ツァラトゥストラの序説」)。

「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。
およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなた方は、……むしろ獣類になろうとするのか。
人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ(「ツァラトゥストラの序説」)。

生は語った。「わたしはつねに自分自身を超克し、乗り越えざるをえないものなのだ」(「自己超克」)

生あるところにだけ、意志もある。しかし、それは生への意志ではなくて――力への意志である(「自己超克」)

等々というのは、

自己超克、

としての意味はある。けれども、

あなたがたは橋にすぎない。により高い者たちが、あなたがたを渡ってかなたへ進んで行かんことを! あなたがたのもつ意味は階段だ。だからあなたがたは、あなたがたを踏み越えておのれの高みへ登って行く者に怒りの思いをもってはいけない(「挨拶」)

とあるので、すべての人が、

過渡、

とはみなされていない。ここを悪意に取れば、

選別主義、

へと堕す。たとえば、

自分自身を、そして自分の星々を見おろすこと、それこそが自分の頂上の名にあたいするのだ。それが自分の最後の頂上として残されていたのだ(「さすらいびと」)

「人間は平等ではない」と。また、人間は平等になるべきでもない(「毒ぐも」)

等々は、その意味で取れば、上から目線、エリート主義になる。

さらに、ニーチェと言えば、たとえば、

一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている。一切は死んでゆく。一切はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている(「快癒しつつある者」)

わたしはふたたび来る、この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。――新しい生、よりよい生、もしくは類似した生へ返って来るのではない。
――わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ。それは最大のことにおいても最小のことにおいても同一である。だからわたしはふたたびいっさいの事物の永劫の回帰を教えるのだ(「快癒しつつある者」)

「今日」を、「未来のいつか」と「過去のかつて」と言うのと同じように言うこと(「大いなる憧れ」)

「これが――生だったのか」わたしは死に向かって言おう。「よし! それならもう一度」と(「醉歌」)

等々と、

永劫回帰、

を主張した。しかし、個人化した「歴史主義」の「超人」とは背反する。なぜなら、

救済史、

の時間軸は戻らない。だからこそ、

この一瞬、

は、かけがえのないものなのではないか。

僕には、『ツァラトゥストラ』は、

強気と弱気、

が交錯する、ニーチェの迷いを反映している気がしてならない。まだ、

決意表明、

に過ぎないのかもしれない。むしろ、ツァラトゥストラが感じた悲哀、

なぜ? 何のために? ?何によって? どこへ? どこで? どうして? なおも生きてゆくのは、愚かなことではないか。……わたしの内部からこのように問いかけてくるのは、たそがれなのだ。わたしの悲哀を許せ(「舞踏の歌」)、

「ここはどこ?」と「自分はどこから?」と「自分はどこへ?」と問いながら(「蜜の供え物」)

というのが、本来の人のありようなのではないのか。そうであればこそ、

「さてこれが――わたしの道だ――きみらの道はどこにある?」「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた。つまり万人の道というものは――存在しないのだ(「重さの靈」)、

人間における過ぎ去ったことを救済し、いっさいの「かつてそうであった」を創り変えて、ついに意志をして「しかし、かつてそうであったのは、わたしがそれを欲したのだ。またこれからもそうであることを、わたしは欲するだろう――」と言うに至らしめることを教えたのだ(「新旧の表」)

等々の言葉は生きる。とりわけ、

「生がわれわれに約束するところのもの――それをわれわれの生に対して果たそう」(「新旧の表」)

ということばは、

そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです、

というフランクルの言葉と重なるのであり、まさに、これこそが、

実存

なのではないか。そこには、

一回性、

しかないのである。

参考文献;
ニーチェ(手塚富雄訳)『ツァラトゥストラ』(『ニーチェ(世界の名著46)』)(中央公論社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:24| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする