2021年03月30日

挙藩流罪


星亮一『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』を読む。

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本書は、会津藩士荒川勝茂の日記をベースに。彼の一生を追う。「勝茂」は、明治四年以降であり、それまでは、俗名、

類右衛門、

で、

荒川類右衛門勝茂、石高百三十石。

ただ、身分は特殊で、藩候保科正之以来の重臣、北原家に仕えた。

北原家に仕える二十人余中の家臣の筆頭で、会津家臣団の格を示す羽織の紐は、七階級中の第五位、茶紐をつけていた。文久二年(1862)当時数え三十一歳。

彼の日記は、

折々に書き溜めておいたものを、明治三十年代にまとめたもので、元、亨(コウ)、貞(テイ)、利(リ)の四巻に分かれ、藩政の仕組み、戊辰戦争の顛末、身の回りの出来事を克明に記述している。
各巻とも自筆、半紙判、墨書。和紙に楷書風の書体できちんと書かれており、それぞれ百二十五枚(二百五十頁)前後の厚さである、

とある。このうち、

貞と利は、会津藩の職制や幕末の政治情勢、戊辰戦争前後の会津藩の公式文書、嘆願書、斗南藩関係資料をまとめたもので、なかでも斗南藩関係資料は貴重である。
元と亨は、戊辰戦争前後の勝茂の行動と、家族の模様を日記体に記している。特に元は、容保が京都守護職として上洛したところから書き起こし、会津城下の戦闘を、体験にもとづいて生々しく記述している。

会津戦争では、勝茂は、佐川官兵衛麾下のゲリラ戦に加わる。


会津藩は籠城戦の戦略が欠如していたため、城内に弾薬・食糧の備蓄がなく、(中略)たちまち食糧が底をついた。弾薬は城内で製造に当たったが、粗悪品が多く、武器も消耗する一方である。
そこで会津藩軍事局は、日光口に長く延びている田島方面の敵兵站戦を襲い、ここから武器・弾薬・食糧を奪って城内に運び入れる作戦、

である。大芦村での戦闘では、

蔵の傍より一人現れいでたり。予を見るやいなや刀を抜き、真甲に振りあげ、進み来たる。これよき相手なりと槍を捻って進み、汝一突に斃しくれんと突きいれたり。彼の者、槍切り払いて進まんとす。二の槍を入れしにまた払いたり。残念、逃さじとまた突く槍を払い、直ちに槍に乗って進み、手元まで来る。予、柄を槍首まで引きしを得たりと切り込みたり。予、手早く太刀下を潜って跪ずき、槍首とって岩をも通さんと、臍下に突き当てたり。蹣跚(まんさん)逡巡するをすかさず胸板突きて斃したり、

といった戦いを経て、大戦果を上げたが、数日後、容保より会津藩降伏の知らせを受ける。越後高田での一年三ヶ月に及ぶ謹慎後、再興された斗南藩へ向かう。これが地獄である。米の取れない不毛の地で、

挙藩流罪、

でしかなかった。斗南藩領は、

二つの領知に分断されていた。下北半島と三戸、五戸を中心とした岩手県に隣接した部分である。平地のある三沢周辺は斗南藩領ではなく、七戸藩領である。同じように、港のある八戸周辺は八戸藩領で、肥沃な土地は斗南藩から外されていたことになる。

とある。わざわざ、不毛の地を与え、家名復興をぬか喜びさせる、という手の込んだ悪意といっていい。

明治三年(1870)から明治五年(1872)まで、

栄養失調・病人が続出し、一銭の金もない貧乏暮らし、

と日記に記す惨憺たる悪戦苦闘の結果、廃藩置県を機に、

斗南藩の開拓、

は無残な失敗であると認め、藩庁は、

開拓中止、

を決断、

職業の自由、移住の自由、

を認めた。会津藩士の進退は、ほぼ四つに分けられる、と著者はまとめる。

第一は、斗南藩大参事の山川浩に代表される、明治新政府に仕官する道である。
第二は、斗南藩少参事の広沢安任に代表される、陸奥の地に残った人々である。
第三は、斗南藩少参事の永岡久茂に代表される、新政府への反乱である。
第四は、故郷会津へ戻った人々である。

勝茂は、母と三男を斗南の地で失い、会津へ戻った直後、妻と長男と長女をなくした。官公庁は薩長土肥の出身者で占められ、教員以外働く場はなかった。幸い、勝茂は、小学校教員の職を得る。

勝茂は越後の高田に謹慎中も、南摩綱紀に師事して漢学を学び、また多くの門弟を抱え、斗南の地でも周囲の子供たちに漢学を教えた。この経歴を評価、

された。しかし、

大半の藩士たちは、苦難の生活を強いられ、薄幸の生涯をおえた、

と、著者は締めくくる。そして、著者の日記について、

全編を通じていえることは、数ある会津藩の資料の中でも、第一級の内容を持っていることで、記述の正確さ、適格なものの見方には驚かされる。また人間としての嘆き悲しみ、怒りも随所に見られ、読む人に感動を与える、

と評する。しかし、遺族は、

これは荒川家だけの小さな歴史、祖父は他見を禁ず、と書いていた。わたしはそれを守るだけ、

と公刊には否定的とか。

象徴的なのは、勝茂が、明治二十七年(1894)に拝受した、

正三位松平容保御写真、

を、日記の第一頁に貼り、さらに、

二枚も、三枚も手に入れ各冊にはった、

とある。著者は記す。

亡くなる直前の老いた主君の写真である。(中略)主君の写真のなかから過ぎ去った人生が走馬灯のように浮かぶのであろう、

と。勝茂の没年は、

明治四一年(1908)、享年七十七歳。

参考文献;
星亮一『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:19| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする