2021年04月06日
イノベーション
J・A・シュムペーター(塩野谷祐一他訳)『経済発展の理論―企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究』を読む。
シュムペーターは、経済発展の駆動力を、
(生産手段の)新結合(neue Kombination)の遂行、
とみた。今日の言葉でいうと、
イノベーション、
である。生産をするということは、
われわれの利用しうるいろいろな物や力を結合することである。生産物および生産方法の変更とは、これらの物や力の結合を変更することである。旧結合から漸次に小さな歩みを通じて連続的に適応によって新結合に到達することができる限りにおいて、たしかに変化または場合によっては成長が存在するであろう。しかし、(中略)新結合が非連続的にのみ現われることができ、また事実そのように現われる限り、発展に特有な現象が成立するのである。
とし、その「新結合」のパターンを、五つ挙げている。
①新しい財貨、すなわち消費者の間でまだ知られていない財貨、あるいは新しい品質の財貨の生産、
②新しい生産方法、すなわち当該産業部門において実際上未知な生産方法の導入。これはけっして科学的に新しい発見に基づく必要はなく、また商品の商業的取扱いに関する新しい方法をも含んでいる。
③新しい販路の開拓、すなわち当該国の産業部門が従来参加していなかった市場の開拓。ただしこの市場が既存のものであるかどうかは問わない。
④原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得。この場合においても、この供給源が既存のものであるか―単に見逃されていたのか、その獲得が不可能とみなされていたのかを問わず―あるいは始めてつくり出されねばならないかは問わない。
⑤新しい組織の実現、すなわち独占的地位の形成あるいは独占の打破。
そして、この新結合は、
とくにそれを具現する企業や生産工場などは、その観念からいってもまた原則からいっても、単に旧いものにとって代わるのではなく、いちおうこれと並んで現れるのである。
とする。そして、
新結合の遂行およびそれを経営体などに具体化したもの、
を、
企業(Unternehmung)、
と呼び、
新結合の遂行をみずからの機能とし、その遂行に当たって能動的要素となるような経済主体、
を、
企業者(Unternehmer)、
と呼ぶ。企業者は、今日、
Entrepreneur、
と呼ばれるものである。ただ、企業者は起業者ではあるが、今日の起業者は、企業者ではない。企業者の困難を、
成果のすべては「洞察」にかかっている。それは事態がまだ確立されていない瞬間においてすら、その後明らかとなるような仕方で事態を見通す能力であり、人々が行動の基準となる根本原則についてなんの成算ももちえない場合においてすら、またまさにそのような場合においてこそ、本質的なものを確実に把握し、非本質的なものをまったく除外するような仕方で事態を見通す能力である。周到な準備工作や事実知識、知的理解の広さ、論理的分析の才能でさえ、場合によっては失敗の源泉となる、
困難であり、さらに、
固定的な思考習慣の本質や、それが労力を省く事によって生活を促進する作用は、その習慣が潜在意識となっていて、結論を自動的に導き、批判に対しても、個々の事実の矛盾に対しても保障されているという事実に基づいている。(それが)障害物と化すのである。……新しいことをおこなおうとする人の胸中においてすら、慣行軌道の諸要素が浮かび上がり、成立しつつある計画に反対する証拠を並べ立てるのである。(中略)新結合の立案と完成のために可能なものとみなしうるようにするためには、……意志の新しい違った遣い方が必要になってくる、
のであり、さらに、
経済面で新しいことをおこなおうとする人々に対して向けられる社会環境の抵抗である。この抵抗はまず第一に法律的または政治的妨害物の存在として現われる。しかしこの点を別にしても、社会集団の一員が他と異なる態度をとることはすべて批難の的となる。
と。企業者としては、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)の創業者たちやマイクロソフトのビル・ゲイツを思い起こすが、そんな例を出すまでもなく、我国でいえば、当時の運輸省と裁判を通してまで戦った、宅急便の小倉昌男氏の例でも、シュムペーターのいう通りの事態が起きていることがわかる。
シュムペーターは、自らの「発展」の理論の嚆矢を、マルクスに位置づける。
発展問題への唯一の偉大な試みはカール・マルクスのそれである。われわれはここで彼の歴史観を考えているのではない。なぜなら、この見解は彼の精密な理論とは関係がないからである。(中略)これを別にしても、マルクスはなお「発展」に関する誇るべき業績をもっている。彼は経済生活自体の発展を経済理論を手段として取り扱おうと試みた。彼の蓄積の理論、窮乏化の理論、崩壊の理論は実際純粋に経済学的推論から生じている。そして彼の眼は、単に一定時点における経済生活の循環のみならず、経済生活の展開そのものを思考的に考え抜こうという目標に絶えず向けられている。
だから、
発展の息吹を感じさせる、
が、しかし、あくまで古典学派の延長線上に、
静態的、
にとどまり、
動態的、
ではない、とする。しかし、その上で、自らの発展理論を、マルクスの、
内発的な経済発展、
という建造物の、
表面の小さな一部分を覆うにすぎない、
と位置づけている。シュムペーターが、「日本語版への序文」(1937年)で、
「自分の考えや目的がマルクスの経済学を基礎にしてあるものだとは、はじめ気づかなかった」
「マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。私はそう確確信する」
と述べているのは、そうした背景からである。
しかし、マルクスとの接触点を、シュムペーターは、こう整理し、その違いに言及する。
マルクスは周知のように、資本が労働者の「搾取手段」として役立つという点に資本の特質を認め、しかもこの「搾取」は明らかに企業者―もちろんマルクスは古典的見解にしたがってこれを資本家に一括した―が労働者の力に対する支配を獲得するということに基づいている。(中略)したがってマルクスとわれわれとの一致はあまり広汎に及ぶものではない。なぜなら、彼はまさに労働者が物的生産手段から分離されている点に重点をおき、後者を前者の搾取手段としているからである。また「搾取」という表現もわれわれの方向とは異なった方向を意味している。しかし最後に、彼の根本観念は、資本は本質的に生産に対する支配手段であるということであって、この観察はまったくわれわれのものである。さらにその観念は事実観察に基づいている。そしてたとえマルクスがこの観念からわれわれの共鳴しえない結論を引き出したとはいえ、またたとえ彼がその根本観念を不正当に精確化し、ことにその完成に当たってまったく迷路に陥ったとはいえ、ここはわれわれの見解と彼の見解―および彼の見解によって多かれ少なかれ影響されたあらゆる見解―とが接触する一つの点が存在する。
ただ、個人的には、総資本としての資本の自己増殖を論及していたマルクスとは遥かに別の企業者という個々のレベルに発展の起因をもっていったことは、その理論の成否とは別に、理論の矮小化の印象は免れない気がしてならない。シュムペーター自身が、
マルクスの内発的な経済発展という建造物の、表面の小さな一部分を覆うにすぎない、
と言ったのは、必ずしも謙遜ではなかったのかもしれない。
ところで、たしか、ケインズは、経済学理論はアダム・スミスに任せて、日々パンフレット風に政策論をすればいいという趣旨のことを書いていたが、まさに、今日、数学的モデルを構築し、その妥当性を競っている経済学の流れは、いまのありようを構造として把握し、どうすればいいのかを考えようとした、マルクスやシュムペーターの流れの途絶そのもののように見える。
参考文献;
J・A・シュムペーター(塩野谷祐一他訳)『経済発展の理論―企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95