2021年05月01日

水前寺海苔


「水前寺海苔」というものがある。

淡水産の藍藻、清流の川底などに生え、体は丸い単細胞から成り、粘液質により多数集まって塊状をなす。これを厚紙状に漉いて食用とする、

とある(広辞苑)。

九州の一部だけに自生する食用の淡水産藍藻類、

であり、

茶褐色で不定形。単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成する。群体は成長すると川底から離れて水中を漂う、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA

熊本市の水前寺成趣園(水前寺公園)の池で発見され、明治5年(1872年)にオランダのスリンガーによって世界に紹介された、

とある。ために、

水前寺海苔、

の名がある(仝上)。現在も、水前寺公園の石橋に、水前寺海苔発祥の地の立札が立っている(たべもの語源辞典)。別に、

カワタケノリ、
カワノリ(緑のカワノリとは別)、

ともいう(広辞苑・たべもの語源辞典)し、久留米では、

紫金苔(しきんたい)、

福岡県甘木では、

寿泉苔(じゅせんたい)、

と呼び名が変わるhttps://www.oishi-mise.com/SHOP/mimisuise.html

水前寺公園.jpg

(水前寺成趣園 https://kumamoto.guide/spots/detail/12351より)

スリンガーによって、「聖なる」を意味する学名の"sacrum"がつけられたが、それはこの藍藻の生息環境の素晴らしさに驚嘆して命名したものである(仝上)が、熊本市の上江津湖にある国の天然記念物「スイゼンジノリ発生地」では平成9年(1997年)以降、水質の悪化と水量の減少でスイゼンジノリはほぼ絶滅した、とされる(仝上)。現在、自生しているのは、

福岡県の朝倉市甘木地区の黄金川のみ、

とされ、

そこでも年々減少の一途をたどっている、

というhttps://www.projectdesign.jp/201310/pn-kumamoto/000864.phpが、養殖が試みられており、

熊本の嘉島にて、丹生慶次郎が人工養殖に成功。最近では翠色が強い水前寺のりの亜種が発生し、継体養殖の末、品種として安定させた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA

水前寺海苔.jpg


歴史的には、

宝暦十三年(1763)遠藤幸左衛門が筑前の領地の川(現朝倉市屋永)に生育している藻に気づき「川苔」と名付け、食用とされた。1781~1789年頃には、遠藤喜三衛門が乾燥して板状にする加工法を開発し、寛政五年(1792)に商品化された、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8E%E3%83%AA

寿泉苔、
紫金苔、
川茸、

等々の名で、将軍家への献上品とされた(仝上)。肥後でも、「水前寺海苔」は、

ひご野菜、

のひとつとされ、細川藩から幕府への献上品であったhttps://www.projectdesign.jp/201310/pn-kumamoto/000864.php

戻した水前寺海苔.jpg

(戻した水前寺海苔 https://www.oishi-mise.com/SHOP/mimisuise.htmlより)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年05月02日

すなわち


「すなわち」は、

即ち、
則ち、

と当てる(広辞苑)が、

乃ち、

とも当て(デジタル大辞泉)、

便ち、
輒ち、
迺ち、

とも当てる(大言海)。今日、ほとんど、

接続詞、

としての用法しかないが、この語の語源は、

いわゆる「時を表す名詞」の一種であり、平安時代以後、「即・則・乃・便」などの字の訓読から接続詞として用いられるようにもなったと考えられ、現在ではその用法に限られるといってよい、

とあり(デジタル大辞泉)、同趣旨で、

本来、ある時を示す名詞であったが、「即」「則」「乃」「便」「輒」などの接続語として用いられたことで、それらの語の元来の意味、用法をも併せもつようになった、

ともある(日本語源大辞典)。だから、たとえば、接続詞として、

載、
斯、
就、
曾、
茲、
焉、

等々も、「すなわち」と訓ませている(漢字源)。

「即」 漢字.gif

(「即」 https://kakijun.jp/page/0740200.htmlより)

本来は、和語「すなはち」は、名詞として、

ほととぎす鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも(大神女郎(おおみわのいらつめ)・万葉集)

と「即刻」の意や、

(行列が)渡りはたぬるすなはちは、心地もまどふらむ(枕草子)、

と「当座」の意等々と使われ、この、

何かをして、すぐさま、即刻という意がもっとも古く、当座・直後の意の名詞として室町時代まで使われた、

とある(岩波古語辞典)。それが、副詞として、

(対面を)例ならず許させ給へりし喜びに、すわはちも参らまほしく侍りしを(源氏)、

と、「即座に」「すぐさま」「直ちに」の意や、

是れすなはち正法を久しく世にとどむるなり(金光明最勝王経平安初期点)、

と、「そのまま」「とりもなおさず」の意等々に転用されるようになる(岩波古語辞典)。

これとは別に、仏典などの訓読に接続詞として、

そのまま、
そこで、
そのとき、
ところで、

等々の意で使われるようになる(仝上)。

平安時代には、漢文の接続詞「則」をスナハチと訓むのは仏教関係者で、儒学関係者は、トキニハ・トキンバと訓んだが、鎌倉時代以後、仏家の訓み方が次第に広まり、スナハチの訓み方も広く使われるようになった、

とある(仝上)。平安末期の『名義抄』には、

仍、スナハチ、
便、スナハチ、
即、スナハチ、
則、スナハチ、

と載る(大言海)。

では、「即刻」「即座」の意の名詞「すなはち」の語源は何か。

其程(そのほど)の転と云ふ、當れり、六帖「春立たむ、スナハチ毎に」、宇津保物語「生れ給ひし、スナハチより」など、見るべし(大言海)、

その他、音韻から、

ソノハチ(間道)の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ソノハテ(其果)の転(類聚名物考)、
ソノハシ(其間)、またはソノハテ(其終)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
スナホチ(直処)(国語溯原=大矢徹)、

等々がある。確かに、「間」は「はし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473930581.htmlで触れたように、「はし」とも訓ますが、理屈が勝ち過ぎる気がする。すなおに、

そのとき、

の意で、

其の程、

が妥当に思えるが、大言海は、

為之後(スノノチ)の転、
直路(スナホヂ)の転(名言通・和訓栞)、

に疑問を呈して、もうひとつ、

墨縄路(スミナハヂ→スナハヂ)の略、

を挙げている(日本語源広辞典も)。「墨縄」は、

墨糸、

とも言い、大工が直線を引くのに用いる「墨壺」に、

墨を含んだ綿が入っている。糸車に巻き取られている糸をぴんと張り、糸の先についたピン(カルコ)を材木に刺す。この状態から糸をはじくと、材木上に直線を引くことができる、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%A3%BA、そこで引いた黒線のことを言っている、と思われる。確かに正倉院にも最古の墨壺が保存されてはいるが、少し穿ち過ぎではあるまいか。

いろんな漢字を「すなわち」と訓ませているが、

「仍」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、

会意兼形声。人の右の乃(柔らかい耳たぶ)を加え、乃(ナイ)の転音が音をあらわすもので、柔らかく粘りついて、なずむ意を含む、

とあり(漢字源)、「よる」「なず」「重なる」意で、今日あまり、「すなわち」とは訓まさず、

しきりに、
なお、
かさねて、

等々と訓ませる。「乃」を「すなわち」と訓ませた関連で、「すなわち」と訓ませた可能性がある。

「仍」 小篆.png

(「仍」 小篆・説文(漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BB%8Dより)

一般に、「すなわち」に当てるのは、

即ち、
則ち、

だが、それに、

乃ち、
便ち、
輒ち、
迺ち、

等々を「すなはち」と訓ませるが、その使い分けが、

「乃」は、そこでと譯す。「継事之辞」と註す。一事を言ひ畢りて更に或事に言ひ及ぶ義。月令「仲春之月、雷乃発声」とあり、雷は仲春に至りて、そこで漸く声を発すとの義、
「迺」は、乃と同字、
「則」の類は、皆句中にある字なり、句尾にあることなし、則は「れば」「らば」「るならば」「るなれば」「は」などと譯し、「然後之辞」と註す、「これはかうそれはさう」という辭。論語「子弟入則孝、出則弟」とある如し、則の字、字を隔てて置くことあり。左伝「山有木、工則度之」とある如し、則の字木の字の下に置くべきを一字隔てて工の字の下に置けり、これ工の字を重く主としたるなり、毛詩「既見君子、我心則喜」とあるも、此れと同じ子の字の下に則の字を置くべきを、我心の二字を隔てて置きたるなり、
「即」は、とりもなおさずと譯す、そのままの義、性即理也の如し、則の字は緩にして、即の字は急なり。史記・項羽紀「徐行即免死、疾行則及禍」とあり、ここにては徐行を主とするに由りて、徐行に即を用ひ、疾行には則を用ひたるなり、
「便」は、そのまま、たやすくと譯し、即也と註す、即よりは稍軽し、
「輒」は、たやすくと訓む。便に近し、「毎事即然也」と註す、
「載」は、受け載する義にて上を受くる辞。「たやすく、そのまま」の義。便に近し、

と説明されている(字源)。しかし、訓読では、その微妙なニュアンスは消えて、「すなはち」一色である。

「すなわち」に当てられた漢字の語源を見ておくと、

「即」(漢音ショク、呉音ソク)は、

「即」 甲骨文字.png

(「即」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%B3より)

会意。左側は「皀」で、人がすわって食物を盛った食卓のそばにくっついたさまをしめす。のち、副詞や接続詞に転じ、口語では便・就などの語にとってかわられた、

とある(漢字源)。別に、同趣旨だが、

会意。「皀」+「卩(卪)」、「皀」は食物(「食」の下部)、「卩」はこれに向き合う様を表し、物を今にも食べようとする様子を表す。なお、食べ終わって食物から顔を背ける様を表す漢字が「旣(既)」である、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%B3

会意文字です(皀+卩)。「食物」の象形と「ひざまずく人」の象形から、人が食事の座につく事を意味し、そこから、「位置・地位につく」を意味する「即」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1398.html。「そばにくっつく」意だが、副詞として「すぐに」、接続詞として、

先即制人(先んずればすなわち人を制す)、

というように(史記)、

AするとすぐにBとなるというように、前後に間をおかず、直結しておこることを示す、

と使われ(漢字源)、「くっつく」とか「すぐに」の意味が残っている。

「則」 金文.png

(「則」金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87より)

「則」(ソク)は、

会意。「刀+鼎(カナエ)の略形」。鼎にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフをそえたさま。そばにくっついて離れない意を含む。即(そばにくっつく)と同じ。転じて、常に寄り添う法則の意となり、さらにAのあとすぐBがくっついて起こる意をあらわす助詞となった、

とある(漢字源)。同趣旨で、

会意。「貝(元は「鼎」)」と「刀」を合わせて、鼎かなえで煮物をする脇に取り分ける刃物を置き、場に「のっとる」こと。音は「即」等と共通、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%87

会意文字です(貝+刂(刀))。「鼎(かなえ-中国の土器」の象形と「刀」の象形から、昔、鼎に刀で重要な法律を刻んだ事から「法律」、「法則」、「規則」を意味する「則」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji754.html。「そばに寄り添って離れない」いから、副詞の「すなわち」、接続詞の「すなわち」の意で使われるが、接続詞としては、

行有余力則以學文(行いて余力有らばすなわちもって文を学べ)

というように(論語)、

AならばBというように、前段のあとすぐ後段が続くことをしめす、

形で使われる(漢字源)。

「乃」甲骨文字.png

(「乃」甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%83より)

「乃」(漢音のダイ、呉音ナイ・ノ)は、

指事。耳たぶのようにぐにゃりと曲がったさまを示す。朶(ダ だらりと垂れる)・仍(ジョウ 柔らかくてなずむ)の音符となる。また、さっぱりと割り切れない気持ちをあらわす接続詞に転用され、迺とも書く、

「迺」 金文.png

(「迺」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BF%BAより)

とある(漢字源)。また、別の解釈として、

象形文字です。「母の胎内で、まだ手足のおぼつかない身をまるくした胎児」の象形から、「妊娠する」の意味を表しましたが、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「なんじ(おまえ)」、「昔」、「以前」を意味する「乃」という漢字が成り立ちました、

との説もあるhttps://okjiten.jp/kanji2307.html。意味としては、

ずばりと割り切らず、間をおいてつなげる気持ちをあらわす、

とあり(漢字源)、「すなわち」の意ではあるが、

乃所謂善也(すなわちいわゆる善なり)(孟子)、

のような、

まあそのくらいで、

という含意がある(仝上)。

「便」金文.png

(「便」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%BFより)

「便」(漢音ヘン、呉音ベン、慣用ビン)は、

会意。丙は、尻を開いて両股(モモ)をぴんと張ったさまを描いた象形文字。更(コウ)は「丙+攴(動物の記号)」の会意文字で、ぴんと張る意を含む。便は「人+更」で、かたく張った状態を人が平易にならすことをあらわす。かど張らないこと、平らに通ってさわりがないの意を含む、

とある(漢字源)。別に、

会意文字です(人+更)。「横から見た人」の象形と「台座の象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語」(「台を重ねて圧力を加え平らにする」の意味)から、人の都合の良いように変えるを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「つごうがよい」を意味する「便」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji563.htmlが、「平らで支障がない」意から、接続詞としては、

物事がAからBへすらりと運ぶことを示す、

とあり(漢字源)、「すなわち」の意味でも、

林尽水源、便得一山(林は水源に尽き、便ち一山を得たり)(陶潜)、

と、直結の含意がつよくなる。

「載」(漢音・呉音サイ、呉音ザイ)は、

会意兼形声。才(サイ)の原字は、川の流れを断ち切る堰の形。載の車をのぞいた部分は「戈(ほこ)+音符才」から成り、カットして止めること。載はそれを音符とし、車を加えた字で、車の荷がずるずると落ちないように、わくや縄でとめること、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です。「食器に食べ物を盛り、それにふたをした」象形(「食べ物」の意味)と「川のはんらんをせきとめる為に建てられた良質な木の象形とにぎりの付いた柄の先端に刃のついた矛の象形」(災害を「たちきる」の意味)から、食事の材料を切り整えて食卓にのせる事を表し、そこから、「(物を)のせる」を意味する「載」という漢字が成り立ちました。(当初は、「食卓にのせる」の意味を表しましたが、一般に「のせる」の意味を表す為に、「食器に食べ物を盛り、それにふたをした象形」から、「車」の象形へと変わりました)、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1307.html。「のせる」意だが、「すなわち」は、接続詞としてではなく、助詞として、

載笑載言(すなわち笑ひすなわち言ふ)(詩経)、

と、使われる。

「就」 甲骨文字.png

(「就」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%B1より)

「就」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

会意。「京(大きいおか)+尤(て)」で、大きい丘に設けた都に人々を寄せ集めるさまを示す。寄せ集めてある場所やポストにひっつけること。転じて、まとめをつける意にもつかう、

とある(漢字源)。別に、同趣旨ながら、

会意。「京(大きな丘)」+「尤」、「尤」は目立って高いところでそこに寄せること(説文解字)、また、「尤」は腕の象形であり、腕を振って呼び寄せること(藤堂)。白川静は「尤」は犠牲とする犬であり、丘に犬を埋め、事の成就を祈ることを表すと説く、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%B1。接続詞としては、古典語の、

即、
則、

に当たる俗語として使われる(漢字源)、とある。

「輒(輙)」(チョウ)は、

会意兼形声。耴(チョウ)は、耳たぶをあらわす。輒はそれを音符とし、車を加えた字で、耳たぶのような形の、車のもたれ木。べたべつとくっつく、うすっぺらで動きやすいなどの意を含む、

とあり(漢字源)、

車の両脇にとりつけた、耳たぶのようなもたれ木、

の意で、

わきぎ、
あるいは、
車の両側の前にそりだしている板、

の意https://kanjitisiki.com/jis2/2-3/796.htmlで、接続詞としてよりは、副詞として、

動輒(ややもすればすなわち)、
造飲輒尽(造り飲んで輒(たちま)ち尽くす)(陶潜)、

といった形で、

どうかするとすぐ、
いつでもすぐ、

の意で使われる(仝上)。

「輒」 漢字.gif

(「輒」 https://kakijun.jp/page/E76B200.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年05月03日

じじむさい


「じじ(ぢぢ)むさい」は、

爺むさい、

と当て、

年よりじみている、
むさくるしい、

という意味だが(広辞苑)、年寄り自身に言うよりは、今日、

じじむさい身なり、
じじむさい意見、

というように、

男性の容姿や衣服などが年寄りのように感じられる様子、
また、
年寄りのようで汚らしい様子、

の意味で使う(デジタル大辞泉)。ただ、「じじむさい」に、

爺穢い、

と当て、

ぢぢむさい女房を持っている者も損だよ(文化十年(1813)「浮世床」)、

というように、

はなはだ穢い、
不潔、

という意味(大言海)や、

ちぢむさくも無く、小ざっぱりと洗濯物が着られるのは(文化六年(1809)「浮世風呂」)、

というように、

むさくるしい、

という意味(岩波古語辞典)で使う。

年寄りじみている、

という意味と、

むさくるしい、ひきたない、

という意味とが並立しているが、用例から見ると、室町から近世前後の、比較的新しい言葉に思える。方言では、

意地汚い、食い意地が張っている(松本)、
不細工、洗練されていない(東近江)、

等々と、汚さの意味が少しスライドして残っている。

どうも、「爺むさい」と「爺」を当てるのは、当て字なのではないか、という気がする。

「爺」 漢字.gif


「むさい(むさし)」は、

もとより礼儀をつかうて身を立つる人には心むさければ(甲陽軍鑑)、
心せばく、意地むさけれど(仝上)、

と、

むさぼり欲する心が強い。まだ欲望・意地などが強すぎてきたない(岩波古語辞典)、
卑しい、下品である(広辞苑)、

の意味と、

傍近う使ふにはちとむさいなあ(狂言・粟田口)、

と、

汚い、不潔である、

の意味がある。どうやら、

意地汚い、

という状態表現が、

汚い、

という価値表現へと転じたものと見える。方言には、この「むさい」の原意が残っていると見ることができる。

「むさい」は、

穢い、

と当てるが、

ムサト・ムサボルのムサと同根、

とある(岩波古語辞典)。「むさと」は、副詞で、

人の国をむさと欲しがる者は、必ず悪しきぞ(三略鈔)、

と、

むさぼるように強く、
むやみに、
無造作に、

といった意味で使い、「むさぼる」は、

ムサはムサト・ムサムサ・ムサシのムサと同じ、ホルは欲りの意、

とあり(仝上)、

汚らしくむさぼる、

意である(仝上)。「むさむさ」も、

むさぼり欲する心が強いさま、

で、

意地汚さ、

を言っている。こうみると、「じじむさい」は、

意地汚い、

意の「むさい」を強めている意味で、「爺」の意味は元来ない。「爺」は当て字の印象が強い。その当て字「爺」に引きずられて、今日の、

年寄りのよう、

という意味が加わったのではないか。となると、

老人の意の俗語ヂヂイ(老翁)にシジカム(蹙)のシジをだぶらせて、むさくるしい意のむさいを強調したもの(語源辞典・形容詞篇=吉田金彦)、
ジジムムサイ(字染穢)の義か(語簏)、
ジジムサイ(字染穢)の義か(俚言集覧)、

は付会ではないか。

一説に爺(ぢぢい)かとする説は従い難く、またぢじみ(字染)は仮名違い、

とする(江戸語大辞典)のが妥当で、

ぢぢは、鼻汁の小児語「ぢぢ」か、

とする説(仝上)の方が納得できる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年05月04日

中国を定む


佐藤信弥『戦争の中国古代史』読む。

戦争の中国古代史.jpg


「中国古代史は、様々な勢力間の戦争を通じた『中国』形成史と見ることができる。」

と、著者は「まえがき」で述べる。本書は、

「甲骨文など同時代の文字資料に軍事に関する記録が現れはじめる殷代から漢王朝成立までの戦争を見ていくことで、この『中国』形成」

を見ていく、と。

『史記』五帝本紀のいう三皇五帝の神話時代である新石器時代から、本書は始まるが、それは、

黄河中・下流域、

である。戦争の痕跡とみられる、骨鏃の食い込んだ骨が発見されるのは、紀元前4300~2800年、さらに、紀元前3000~2500年頃の廟底溝第二期文化期から紀元前2500~1750年の中原龍山文化の間に、鏃(やじり)は、

「軽くて遠くまで飛ぶことを重視したものから、重くて深く突き刺さるものへ」

と、画期が現れる。龍山文化期の陶寺遺跡は、

尭の都、

とする説もあり、

城壁に囲まれた集落、

が出現する。青銅器の武器が現われてくるのは、

夏王朝の王都、

と推定されている二里頭(にりとう)遺跡(前1600~1300)からで、殷前期の二里岡(にりこう)文化(前1600~1300)に属する、

殷代初期の都城、

と目されている偃師(えんし)商城は、殷の湯王が二里頭文化を滅ぼした際の拠点と見なされている。夏と目される「二里頭王朝」から代わった殷の「二里岡文化」は、

青銅器文化で、その影響は、その勢力圏とされる、

漢中盆地、
江漢地区、
四川盆地、

に及んでいる。殷王朝の直轄地は、

王畿、

と呼ばれ、その外に、

方国(ほうこく)、

と総称される、殷にとっての外国がある。敵対する国もあれば服属する国もある。その方国の一つであった、

周、

が、

牧野(ぼくや)の戦い(前1000年代後半)、

で殷を破る。

西周(前1000年代後半~771)、

の成立である。詩経に、

牧野洋洋たり、
檀車(だんしゃ)煌煌たり、
駟騵(しげん)彭彭たり、

とある。駟騵(四頭立ての戦車)が勝敗を分けた。「中国」の初出は、二代武王の言葉を引いた三代成王の、

余其れ茲の中国に宅し、

という言葉に初めて登場する。ここでは狭い範囲で、殷の拠点のあった河南省北部の首都圏、つまり、

殷王朝の王畿、

を指す。西周の滅亡が紀元前771年、周が東遷するのが紀元前700年代半ば、770以降を東周というが、この前半が、

春秋時代、

後半が、

戦国時代、

である。これ以降、王朝と戎夷など外部勢力との闘いから、諸侯同士の内戦になっていく。所謂、

群雄割拠、

である。春秋時代は、

斉の桓公、
宋の襄公、
秦の穆公、
晉の文公、
楚の荘王、

等々の、

春秋の五覇、

戦国時代は、

韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦、



戦国の七雄、

の時代である。春秋時代は、孫武の時代であり、戦国時代は戦国策、孫臏、孟子の時代である。春秋と戦国の違いは、

「春秋は覇者が周王の権威のもとで諸侯に対する指導権を握った時代だが、戦国になると、諸侯は周王の権威を無視して自ら王号を称するようになった」

とされる。そして、紀元前256年周が滅ぶ。七雄中最強となった秦は、

「赧王(たんおう)の死によって周王朝が断絶した際に、秦の昭襄王は周よりその権威の象徴とも言うべき九鼎を接収し」

単独で秦に立ち向かえる国がなくなり、秦王政は、紀元前230年に、

「韓を攻めて王を捕らえたのを皮切りに、趙、魏、楚、燕、斉と次々に攻め滅ぼしていく」

この前230年、秦王政の十七年が、秦による、

統一戦争、

のはじまり、とみなされる。所謂コミックの『キングダム』の世界である。

『史記』が、

「十余年にして蒙恬死し、諸侯、秦に畔(そむ)き、中国擾乱す」

とする、秦三代目の混乱の中、

王侯将相寧(いず)くんぞ種有らんや、

という陳勝の言葉通り、庶民の劉邦が、下剋上を制した、

統一帝国、

を指して、

中国、

と呼び、

「是の時漢初めて中国を定む」

と、

秦・漢統一帝国の領域、

を指して「中国」と呼んだ。西周の時代、殷王朝の王畿をさした「中国」が八百年経て、膨張した広大な領域を指すに至っている。著者は、

「様々な勢力間による戦争を通じて『中国』が膨張していき、最終的に『草原帝国』を統一した匈奴との戦いを通じてその範囲が定まって」

いったとする。その象徴は、

万里の長城、

である。それまでは、戦国の各国が敵対勢力の侵攻を阻むために築いていたものだが、秦は趙・燕の築いていた長城を利用して、胡への対処として築かれていった。それは「中国」の外を意識したものである。

漢は、

「草原帝国」との戦いを経て「中国」の形を形成していった。(中略)現代中国に「敵国」があるとすれば、それは一体どういう存在なのだろうか? 中国は何を求めて戦っているのだろうか?」

という掉尾のまとめは、今日の膨張中国への、なかなかな皮肉である。

参考文献;
佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年05月05日

庖丁


「庖丁」は、

包丁、

とも当てるが、「庖」と「包」は別字である。日本では、「包」の字を、

「庖」と「繃」の代用字として使う、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%85ので、

庖丁→包丁、
繃帯→包帯、

という使い方はわが国だけである。

「包」 戦国時代.png

(「包」 簡牘(かんとく)文字・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%85より)

「つつむ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467683799.html?1562266983で触れたように、「包」(漢音ホウ、呉音ヒョウ)の字は、

象形。からだのできかけた胎児(巳)を、子宮膜の中につつんで身ごもるさまを描いたもの。胞(子宮でつつんだ胎児)の原字、

とあり(漢字源)、また、

会意兼形声文字です(己(巳)+勹)。「人が腕を伸ばしてかかえ込んでいる」象形と「胎児」の象形から、「つつむ」を意味する「包」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji672.htmlが、「抱」(つつみかかえる)、「泡」(空気をつつんだあわ)、「苞」(つぼみをつつみこむ)と同系ともあり(漢字源)、「つつむ」という意味である。

「庖」 漢字.gif


「庖」(漢音ホウ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意、

とあり(仝上)、「台所」の意であり、「厨」と同義である。

庖厨(ホウチュウ 台所)、
庖屋(ホウヤ 台所)
庖人(ホウジン 料理人 庖人は周代の料理(膳羞)のことを掌る官名、転じて料理人)、

と使う(字源)。「庖丁」は、『荘子』に、

庖丁為文惠君解牛、

とあり(仝上)、その牛の捌き方が見事だったので、コツを尋ねた粱の惠王に、彼は「刀を釈(すて)て」そのコツを語ったとある(たべもの語源辞典)。「庖丁」の「丁」(漢音テイ・トウ、呉音チョウ)は、

象形。甲骨・金文は特定の点。またはその一点にうちこむ釘の頭を描いたもの。篆文はT型に書き、平面上の一点に直角に釘を当てたさま。丁は釘の原字、

とある(漢字源)。この「くぎ」の意から派生する会意兼形声文字に、「打」(釘を打ち付けるように、直角に強い力を加える)、「頂」(頭のてっぺんの部分)。「(釘付けられ)じっと留まる」の意を有する会意兼形声文字として、「亭」(地上にじっと建つ建物)、「停」(じっと留まる)、等々があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%81

「丁」 甲骨文字.png

(「丁」 甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%81より)

「丁」 戦国時代.png

(「丁」 戦国時代・簡帛文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%81より)

「丁」は、

壮丁、
成丁、
園丁、

等々と使い、壮年の男の意である。齢盛りの男を、

丁男、
壮丁(そうてい)、

といい、

丁女、

は、二、三十歳の女性を指す(たべもの語源辞典)。だから、「庖丁」は、

料理人、

の意であり、

庖人(ほうじん)、

ともいうが、古代の漢語における「丁」は、

担税を課することに由来して「召使としての成年男性(古代中国の律令制で成年男性に該当するのは、数え年で21歳から60歳までの男性)」を意味し、「園丁」や「馬丁」という熟語があるように「その職場で働く成年の召使男性」の意味合いで用いられていた。したがって、「庖」と「丁」の合成語である「庖丁」は「台所で働く成年の召使男性」を指す、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81ので、単なる料理人ではない。しかし、わが国で、料理人の意で、

庖丁者(じゃ)、
とか、
庖丁人(じん)、
とか
庖丁師、

などと使う(たべもの語源辞典・岩波古語辞典)のは、「庖丁」の原意から考えると重複している。

奈良時代から平安時代初期にかけての日本では、刃物はひとくくりに、

かたな、

と呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81とある。この場合の「かたな」は、「かたな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html?1549439317で触れたように、

ナは刃の古語。片方の刃の意(広辞苑)、
片之刃の約か(水泡(みのあわ)、みなわ、呉藍(くれのアゐ)、くれなゐ)、沖縄にて、カタファと云ふ。片刃なり。西班牙語にも、刀をカタナと云ふとぞ(大言海)、

と、「諸刃(もろは)」の対の片刃だったと考えられる(日本語源広辞典)。

そして、「庖(台所、厨房)」で働く専門の職人を、

庖丁者(ほうちょうじゃ)、
または
庖丁人(ほうちょうにん)、

と呼ぶようになったのは、平安時代末期ごろhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81と考えられている。庖丁者・庖丁人が用いる刀を「庖丁刀ほうちょうがたな)」と呼ぶようになったのもこの時期で、『今昔物語集』に、

「喬なる遣戸に庖丁刀の被指たりけるを見付て」、

とあり、略語の「庖丁」も、同じ『今昔物語集』に見られる(世界大百科事典)、とある。

わが国の「庖丁」の語義も、もともと、

料理人、

であるが(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、今日、ほぼ、

庖刀、

の意で使う(大言海)。これは、

庖丁刀の略、

とされる。そのためか、

「庖丁」は、その換喩として、

料理、割烹、

の意でも使われる。和名抄に、

庖、斷理魚鳥者、謂之庖丁、俗云抱長、

とある。江戸時代にも、料理上手を、

庖丁が利く、

という言い回しをした(江戸語大辞典)。

庖丁→包丁、

と字を当て換えられたのは、「庖」が、常用漢字でも人名用漢字でもないためで、戦後になってからのことである。なお、現代中国語では「庖丁」という語は、

日本の庖丁を指す語以外の、旧来の意味では死語になっており、「菜刀」または「廚刀(簡体字:厨刀)」と呼ばれている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E4%B8%81

ところで、「庖丁」は、『枕草子』に、

「園(そのの)別当入道は、さらなき庖丁者なり」

とあるが、これは、

料理人、

の意ではなく、

庖丁式、

という「庖丁儀式」を指している。

お客を招待したとき、これから、こんな材料で料理を差し上げますといった意味で、客の前に大きな俎板を出して、そこに魚とか鳥などをおき、真魚箸(まなばし)と庖丁刀を使って切って見せた、

という(たべもの語源辞典)、一種のデモンストレーションである。

出刃包丁.jpg


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:庖丁 包丁 庖丁式
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2021年05月06日

たたき


「たたき」には、

叩き、
敲き、

と当てるのと、

三和土、

と当てるのとがある。いずれも、「たたく(叩・敲)」の連用形で、「三和土」は、

叩き土の略、

とあり(大言海)、

合わせ土、

ともいい、

赤土、石灰、砂に、にがしお(苦汁(にがり))を加えて叩き固めたもの、

で(大言海・日本語源広辞典・日本語源大辞典)、

溝、泉水の底などを、これを敷きて固めてつくる、

とある(大言海)。

叩き、
敲き、

と当てる「たたき」も、

食べる料理を包丁で細かく叩いた料理、

で、「叩く」意味と関わる(たべもの語源辞典)。

アジのたたき(なめろう).jpg

(アジのたたき(なめろう) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8Dより)

この「たたき」には、たとえば、

鰹のたたき、というように、

カツオをおろして表面を火であぶり、そのまま、あるいは手や包丁の腹でたたいて身を締めてから刺し身状に切ったもの。薬味や調味料を添える、土佐作り、

の意と、

鯵のたたき、

というように、

生の魚肉・獣肉などを包丁の刃でたたいて細かくした料理、

の二つの意味がある(広辞苑・デジタル大辞泉)。本来は、「たたき」は、

生肉や生魚など未加熱の食材を細かく切り刻んだもの、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8D、もともとは膾(あるいは鱠)と呼ばれた(仝上)。

なます.jpg

(「なます」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BEより)

「さしみ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453881536.htmlで触れたように、「刺身」は、

指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた、

のであり(たべもの語源辞典)、倭名抄には、

鱠、奈萬須、細切肉也、

とある。「膾」は、「生肉」で、「鱠」は、「魚肉」、

漢字の「膾」は、肉を細かく刻んであわせた刺身を表す字なので、「月(肉)」が用いられている。その後魚肉使うようになり、魚偏の「鱠」が用いられるようになった、

ということである(語源由来辞典)。

「膾」は、「なます」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.htmlで触れたように、

大根・人参などを細かく切って酢で和えた食べ物、

を指すが、「膾」の意味が、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、

薄く切った魚貝を酢に浸した食品、

大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などで和えた料理、

と変わる(広辞苑)。野菜や果物だけで作ったものは「精進なます」と呼ばれ、魚介類を入れないことや、本来の漢字が「膾」であることから、「精進膾」と表記される、

とある(語源由来辞典)のは、「膾」の本来の意味から区別のためと思われる。初めは、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、

で、やがて魚の「なます」が多くつくられるようになり、

鱠、

が多く用いられるようになり、平安時代後期に魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わった。

というように、刃物で細かく叩き切ることから、「膾」が、

叩き鱠、
あるいは、
叩き、

と呼ばれるようになるのは、本来の「膾」が主として酢の物を意味する言葉へと変化していったという背景がある。

たたきごぼう.jpg


庖丁やすりこぎで叩いた「たたき」には、

たたきあわび(叩鮑)、
たたきいか(叩烏賊)、
たたき牛蒡(叩牛蒡)、
たたき豆腐(叩豆腐)、
たたきあげ(叩揚 魚鳥の肉を細かに叩いて丸めて油で揚げたもの)、
たたきな(叩菜)、
たたきなっとう(叩納豆)、
たたきびしお(敲醢 叩き潰してひしおにしたもの。しおから)、
たたきはしら(叩柱 貝柱のたたき)、

等々ある(たべもの語源辞典)。なお、「しおから」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479351026.htmlについては触れた。

これに対して、

鰹たたき、
鯖たたき、

等々、「たたき」を後に付けるのは、「炙るたたき」である、

おろして表面を火であぶり、そのまま、あるいは手や包丁の腹でたたいて身を締めてから刺し身状に切ったもの、

を指す。

カツオの叩き.jpg

(カツオのたたき デジタル大辞泉より)

なお、「たたく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465451606.htmlで触れたように、「叩」(漢音コウ、呉音ク)の字は、

形声。卩印は、人間の動作を示す。叩は「卩(人間のひざまずいた姿)+音符口」。扣(コウ)と通用する、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(口+卩)。「たたいた時の音を表す擬声語」と「ひざまずく人」の象形(「ひざまずく」の意味)から、「ひざまずいて頭を地にコツコツとうちあてて礼をする」を意味する「叩」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2259.html

叩は、聲也。たたくうつ、叩門、叩首と用ふ。論語「以杖叩其脛」、

とある(字源)ので、擬制音とみるのが妥当だろう。

「叩」 漢字の成り立ち.gif

(「叩」 漢字の成り立ち https://okjiten.jp/kanji2259.htmlより)

「敲」(漢音コウ、呉音キョウ)の字は、

形声。「攴(動物の記号)+音符高」、

とある(漢字源)が、

敲は、たたきて音聲を出す。叩より重し。敲金、敲門と用ふ。

とある(字源)。やはり擬音の可能性が高い。

「敲」 漢字.png

(「敲」 小篆・説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%95%B2より)

和語の「たた(叩)く」の「たた」も、

タタは擬音語。クは擬音語を承けて動詞を作る接尾語、

とある(岩波古語辞典)。

「たたく」の「た」は、「て」の古形で、

他の語の上について複合語をつくる、

とある(岩波古語辞典)。「手玉」「他力」「手枕」「手挟む」等々。「たたく」も、「手」の動作に絡んで、

叩くは、「タ(手)+ク(ハタク)」が語源です。手ではたくように打つ意です。さらに、打つ、なぐる、やっつける、非難する、安くさせる、質問する、また憎まれ口をいう意にも使います。造語成分として複合語を作ります。例::タタキ上げ(長く苦労して一人前になった人)、タタキ込む、…タタキ大工、タタキ出す、タタキつける、タタキなおす、…タタキのめす、

とあり(日本語源広辞典)、擬音と推測出来る。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年05月07日

しゃべる


「しゃべる」は、

喋る、

と当てる。

話す、
言う、

の意だが、特に、

口数多くぺらぺらと話す、

意とあり(広辞苑・デジタル大辞泉)、

騒々しく話しまくる、

ともある(岩波古語辞典)。室町末期の『日葡辞書』では、

他人にもらす、

意も載る(広辞苑)。

「喋」 漢字.gif


ことばを発する意の日本語には、

言う、
云う、
謂う、
曰う、
道う、

等々と当てる

いふ、

がある。「いふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472014795.htmlは、

必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう(広辞苑)、
とか、
「言う」は「独り言を言う」「言うに言われない」のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、「日本という国」「こういうようにやればうまく行くというわけだ」など引用的表現にまで及ぶ(デジタル大辞泉)、

等々と幅広く使われるが、

「話す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148は、

放す(心の中を放出する)、

意で(大言海・日本語源広辞典)、「言う」と「話す」の違いは、

「言うは単にことばを発することであり、内容は「あっと言った」のように非常に単純なこともあり、「言い募る」といえることからもわかるように、一方的な行動のこともある。それに反し「話す」のほうは、相手が傾聴し、理解してくれることが前提となっている(日本大百科全書)、

とある。

「語る」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.htmlは、

「タカ(型、形、順序づけ)+る」で、順序づけて話す(大言海)、
とか、
「コト(物事・事象)+る」で、世間話をする、物事を話す、

の二説あるが、

事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意(岩波古語辞典)、

である。

「述ぶ」は、「話す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148で触れたように、

伸ぶ、
延ぶ、

とも当てるので、

ノブ(延・伸)、

が語源で、ひっきりなしに続く、また横に長くのばし広げる意で、

長く話す、

意となる。

「つ(告)ぐ(仝上)」(仝上)も、「話す」で触れたように、

継ぐ・接ぐと同根、

で、

人に言を継ぎ述べる意(大言海)であるが、

ツグ(告)は、中に人を置いて言う語(岩波古語辞典)、

である。

「のり(宣り・告り・罵り)」も、「話す」で触れたが、

神や天皇が、その神聖犯すべからざる意向を、人民に対して正式に表明するのが原義。転じて、容易に窺い知ることを許さない、みだりに口にすべきでない事柄(占いの結果や自分の名など)を、神や他人に対して明かし言う意。進んでは、相手に対して悪意を大声で言う意、

で(岩波古語辞典・日本語源大辞典)、

ノルの本質はノル(乗)。言葉という物を移して、人の心に乗せ負わせるというのが原義(続上代特殊仮名音義)、

という語源説は意味がある。

「もおす(まをす)」も、「話す」で触れたように、

「マヲス」が上代後期にマウスに変化した語です。麻袁須―麻乎須と表記され、申す、白す、啓す、が当てられ平安期には、「申す」が主流になった語です。語源は、「マヰ(参上)の古語マヲ+ス(言上す)」と思われます。現在でも、神社の宮司等の祝詞にマヲスが使われていますので、「参上してあらたまって言う」意が語源に近い(日本語源広辞典)、

神仏・天皇・父母などに内情・実情・自分の名などを打ち明け、自分の思うところを願い頼む意。低い位置にある者が高い位置にある者に物を言うことなので、後には「言ひ」「告げ」の謙譲表現となった。奈良時代末期以後マウシの形が現れ、平安時代にはもっぱらマウシが用いられた(岩波古語辞典)、

等々とあり、原義は、

支配者に向かって実情を打ち明ける意、

である(岩波古語辞典)。

こう見てくる(以上)と、「しゃべる」は、

話す、
か、
言う、

のいずれかと近い。ただ、「しゃべる」は、

しゃべくるの略、

とある(大言海)。「しゃべくる」は、

しゃべる、

と同義(広辞苑・大言海)とされるが、

若(わけ)へもんなみにしゃべくるからのことさ(文化七年(1810)「浮世風呂」)、

と、

しきりにしゃべる、
あれやこれやとしゃべる、
多弁である、

とあり(江戸語大辞典)、単に「しゃべる」意とは違う。「しゃべくる」は、

喧語(さへ)ぐ、喧噪(さはぐ)の遺、

とする説がある(大言海)。しかし、「さへぐ」は、岩波古語辞典には載らず、明解古語辞典に、

さへく、

として、

騒々しい声で物を言う、
聞き分けにくく物を言う、

の意味が載る。大言海には、

ことさへく、

の項で、「こと」は言、「さへく」は、

囀る、喧擾(さば)めくに通ず、ざわざわと物言う義にて、

「ことさへく」は、敏達紀に、

韓語(からさへづり)、

と訓ませ、

外国人の言語の、韓(カラ)、百済にかかるなり、

とする(大言海)。しかしこれなら、

ざへづる(囀る)、

なのではないか。『日本語の語源』は、

サヘヅル(囀る)は人間にも用いられた。〈(七八人の男が)さへづりつつ入り来れば(源氏)〉。「ヅ」を落としてシャベルになった、

とする。この当否は別として、少なくとも、

囀る、

とつながる気がするのは、「さえずる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459963682.htmlで触れたように、

「さえずる」は、

サヒヅルの転(広辞苑)

であり、「さひづり」は、

サヘヅリの古形(明解古語辞典)、

とあり、

サヘは、喧語(さへ)くの語根…、ツルは、あげつらふ(論)、引(ひこ)つらふのツラフと通づ…。佐比豆留とある比(ヒ)は、閇(へ)の音に用ゐたるなり(大言海)、

と、

サヘク、

へと戻る。これは、

鳥が騒がしく喋りまくっている、

という感につながり、

しゃべくるにつながる。「さえずる」は、

サヘは擬声語(時代別国語大辞典-上代編)、
擬音さへ+ク(動詞語尾)(日本語源広辞典)、

と、擬声語につながる。これは「さわぐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465482949.htmlが、

奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語(岩波古語辞典)、

と似ていなくもない。

確かに、「しゃべくる」は、

さえずる、

と感覚的に似ている気がしなくもない。

「喋」(漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意兼形声。枼は、ぺらぺらした葉を描いた象形文字で薄い意を含む。喋はそれを音符として。口をそえた字で、薄い舌がぺらぺらと動くこと、

とあり(漢字源)、「ぺらぺらとしゃべる」意である。

「喋る」 漢字 成り立ち.gif

(「喋」漢字の成り立ち https://okjiten.jp/kanji2398.htmlより)

なお、
「かたる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.html
「いう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472014795.html
「話す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148
は、それぞれ触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:しゃべる 喋る
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2021年05月08日


「あけぼの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.htmlで触れたように、古代、夜の時間は、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分をし、昼の時間帯は、

アサ→ヒル→ユウ、

と区分した(岩波古語辞典)。「アサ」は、

夜の対ではなく、

ヨイ(宵)・ユウ(夕)の対になる(仝上、なお「夜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.htmlについては触れた)。

時間帯としては、昼の時間帯の「アサ」は、夜の時間帯の、

アシタ(明日・朝)、

と同じになるが、「アシタ」は、「あした」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447333561.htmlで触れたように、

「夜が明けて」という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた、

とあり(仝上)、

アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アシタ(明日)、

と転化していった(日本語の語源・日本語源広辞典)ので、時間帯は同じだが、

夜が明けた朝、
と、
昼を前にした朝、

とは含意が異なったと思われる。しかし、「アサ」は、

アシタ(明日・朝)の約、

と、「アシタ」由来とみなされる。

〈あが面(オモ)の忘れんシダ(時)は〉(万葉)とあるが、夜明けの時のことをアケシダ(明け時)といった。「ケ」を落としてアシタ(朝)になった。さらにシタ[s(it)a]が縮約されてアサ(朝)になった、

とある(日本語の語源)。

アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、

と転化したことになる(日本語源広辞典)。「シダ」は、

とき、

の意で、今日、

行きしな、
帰りしな、

と使う「しな」の古語である(岩波古語辞典・大言海)。「しな」については「しな、すがり、すがら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.html?1620242194で触れた。

「朝」 漢字.gif


となると、「あさ」の語源は、「あした」から考える必要があるが、

アは、明(ア)くの語根、明時(あけした)の意(東(アヅマ)も明端(アケヅマ)なるが如し)、アシタ、約(つづま)りて朝(アサ)となる、雅言考、アシタ「明節(アケシタ)の略なり、時節などを、古くシタといふ、

とする説(大言海)で、尽きている気がする。「あか」http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.htmlで触れたが、古代日本では、固有の色名としては、

アカ、クロ、シロ、アオ、

があるのみで、それは、

明・暗・顕・漠、

を原義とする(岩波古語辞典)といい、

赤(アカ)は、「明(アケ)」が語源、

であり、「アケ(明)」は、

アカ(赤・明)と同根、

で、

明るくなる、

意である(岩波古語辞典)。

アはアケル(明)のア(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、
アはアカの約(和訓集説)、

等々も同趣旨と見ていい。「アサ」の「サ」を、

サは接尾語(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、
サはスサの約(和訓集説)、

等々は、

アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、

の転化を考えると、意味のない穿鑿に見える。

なお、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

でいう、

アカツキ→アシタ、

と、「アサ」や「アシタ」の前の時間帯は、「あさぼらけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.htmlで触れたように、あかつきhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html、以外にも、 

ありあけ、
しののめ、
あさまだきhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html?1474144774
あけぼのhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html
あさぼらけhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.html

等々あり、この違いには微妙な区分がある。

「あかつき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.htmlは、上代は、

あかとき(明時)、

で、中古以後、

あかつき、

となり、今日に至っている。もともと、古代の夜の時間を、

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分した中の「あかつき」は、

夜が明けようとして、まだ暗いうち、

を指し(岩波古語辞典)、

ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が、女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという、

とする(仝上)が、

明ける一歩手前の頃をいう「しののめ」、空が薄明るくなる頃をいう「あけぼの」が、中古にできたため、次第にそれらと混同されるようになった、

とある(日本語源大辞典)。

「しののめ」は、

東雲、

と当て、

一説に、「め」は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、さらに夜明けそのものの意になったとする、

と注記して、

東の空がわずかに明るくなる頃。明け方、あかつき。あけぼの、

の意で、転じて、

明け方に、東の空にたなびく雲、

の意とある(広辞苑)。また、

万葉集に、「小竹之眼」「細竹目」と表記されて、「偲ぶ」「人には忍び」にかかる、語意未詳の「しののめ」がみられる。これを、篠竹を簾状に編んだものと考え、この編目が明かり取りの用をなしたところから、夜明けの意に転じたと見る説もある、

ともあり(日本語源大辞典)、

篠の目が明かり取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、夜明け、

の意となった(語源由来辞典)、とする見方はあり得る。

「ありあけ」は、

月がまだありながら、夜か明けてくるころ、

だから、かなり幅があるが、

陰暦十五日以後の、特に、二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが、かなり幅広い。

「あさまだき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.htmlは、

マダ(未)・マダシ(未)と同根か、

とあり(岩波古語辞典)、

早くも、時もいたらないのに、

という意味が載る。どうも何かの基準からみて、ということは、夜明けを基点として、まだそこに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。

朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)(日本語源広辞典)

で、未明を指す、とあるので、極端に言うと、まだ日が昇ってこないうちに、早々と明るくなってきた、というニュアンスであろうか。大言海には、

マダキは、急ぐの意の、マダク(噪急)の連用形、

とあり、「またぐ」は、

俟ち撃つ、待ち取る、などの待ち受くる意の、待つ、の延か、

とあり、

期(とき)をまちわびて急ぐ、

意とあるので、夜明けはまだか、まだか、と待ちわびているのに、朝はまだ来ない、

という意になる。

「あげぼの」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.htmlは、「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」と通じ、

ボノはホノカのホノと同根、

とある(岩波古語辞典)。「ほのか」とは、

光・色・音・様子などが、薄っすらとわずかに現れるさま。その背後に大きな、厚い、濃い確かなものの存在が感じられる場合にいう、

とある。また、

「あけ(明)」と「ほの(ぼの)」の語構成。「ほのぼのあけ(仄々明け)」とも言うように、「ほの」は「ほのぼの」「ほのか」などと同源で、夜が明け始め、東の空がほのかに明るんでくる状態が「あけぼの」である。古くは、暁の終わり頃や、朝ぼらけの少し前の時間をいった、

ともある(語源由来辞典)。どうやら、

夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ、

で、「あさぼらけ」と同義とある。

「あさぼらけ」は、

夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態、

とある(岩波古語辞典)。大言海に、

世の中を何に譬へむ旦開(あさびらき)漕ぎにし舟の跡無きが如(ごと)、

という万葉集の歌の「あさびらき」が、拾遺集で、「朝ぼらけ」としている、とある。ちょうど朝が開く瞬間という意になる。しかし、『日本語の語源』は、

アサノホノアケ(朝仄明け)は、ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり、「ナ」が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。「朝、ほのぼのと明るくなったころ…」の意である。「ボ」が母韻交替をとげて朝開きになった、

と、大言海と真逆である。しかし、時間軸を考えると、

アサビラキ→アサボラケ、

ではないか。

アサビラキ(朝開)の転。アケボノと混じた語(類聚名物考・俚言集覧・大言海)、
アサビラケの転(仙覚抄・日本釈名・柴門和語類集)、

とアサビラケ説に対し、

朝ホロ明けの約(岩波古語辞典)、
朝ホノアケの約(和訓栞)、

と、朝ホロ明け説があるが、これだと、ほぼ「あけぼの」と重なる。

「あけぼの」と並んで(「あさぼらけ」は)夜が明ける時分の視覚的な明るさを表す語である。「あけぼの」が平安時代に散文語で、中世には和歌にも用いられるようになるが、『枕草子』春はあけぼの以降春との結びつきが多いのに対し、「あさぼらけ」は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつくことが多い。「あさぼらけ」の方が、「あけぼの」よりやや明るいという説もあるが、判然としない、

とある(日本語源大辞典)。さて、

あさまだき、
ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あけぼの、
あさぼらけ、

の順序はどうなるのだろう。

「あさまだき」は、

マダ(未)・マダシ(未)と同根か、

とあり(岩波古語辞典)、

早くも、時もいたらないのに、

という意味が載る。夜明けに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。だから、

あさまだき→あかつき・ありあけ、

となろうか。「ありあけ」は、

月がまだありながら、夜か明けてくるころ、

だから、かなり幅があるが、「あかつき」も、

夜が明けようとして、まだ暗いうち、

と広く、たとえば、「あけぼの」と比べ、

「曙は明るんできたとき。「暁」は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、「曙」より時間の幅が広い、

とあるhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881。とすると、古代の、

アカツキ→アシタ、

の時間幅全体を「あかつき」「ありあけ」とみると、その時間幅を、細かく分けると、

しののめ、
あさまだき、
あけぼの、
あさぼらけ、

の順序が問題になる。「あさぼらけ」には異説はあるが、

夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。「あけぼの」より少し明るくなったころをいうか。」(デジタル大辞泉)、
「あさぼらけ」の方が「あけぼの」よりやや明るいと見る説もあるが判然としない(精選版日本国語大辞典)、

とあるので、

あけぼの→あさぼらけ、

とみると、「しののめ」の位置だけが問題になる。

『日本語の語源』は「しののめ」について、

イヌ(寝ぬ。下二)は、「寝る」の古語である。その名詞形を用いて、寝ている目をイネノメ(寝ねの目)といったのが、イナノメに転音し、寝た眼は朝になると開くことから「明く」にかかる枕詞になった。「イナノメのとばとしての明け行きにけり船出せむ妹」(万葉)。
名詞化したイナノメは歌ことばとしての音調を整えるため、子音[∫]を添加してシナノメになり、母音交替(ao)をとげて、シノノメに変化した。(中略)ちなみに、イネノメ・イナノメ・シノノメの転化には、[e] [a] [o]の母音交替が認められる、

と、「篠竹」説を斥けている。そうみると、「目を開けた」時を指しているとすると、「しののめ」が、

しののめ→あけぼの→あさぼらけ、

なのか、

あけぼの→あさぼらけ→しののめ、

かの区別は難しいが、一応、いずれにしても、人が気づいた後の夜明け時の順序なのだから、

しののめ→あけぼの→あさぼらけ、

を、暫定的な順序としてみるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html。しかし、「しののめ」「あけぼの」「あさぼらけ」は、ほとんど時間差はわずかのように思える。

「アサ」に当てた「朝」(チョウ)の字は、

会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、

とある(漢字源)。

「朝」 成り立ち.gif

(「朝」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji152.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年05月09日

ひる


「ひる」は、

昼、

と当てる。

「朝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788や、「夜」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.htmlでも触れたが、上代には昼を中心にした言い方と、夜を中心とした時間の言い方とがあり、

昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、
夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

と、呼び方が分けられている(岩波古語辞典)。「ひる」は、

アサ→ヒル→ユフ、

と、昼を中心にした言い方で言う、

「アサ」と「ユウ」の間、

の、

朝夕をのぞいた明るい時間、

をいう(日本語源広辞典)ことになる。つまり、「アサ」の対は、

宵(よひ)・夕(ゆふ)、

であり、「ひる」の対は、

よる(古形は「よ」)、

である(岩波古語辞典)。

「昼」 漢字.gif


日本語では、時間帯について昼という場合、ひとつは、

夜と対立する意味での昼で、太陽が見える時間帯すべてを指す、

場合と、いまひとつは、

(太陽が見える時間帯すべての意の)昼から朝と夕方を区別し、残りの時間を指す場合である。この場合、太陽が見えて以後にある程度以上高く登り、その日の南中高度に近くなった時間を指す。単に“お昼”といえば、正午前後の時間だけを指す場合もあり、昼はその前後、ある程度の幅の時間を指す、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%BCのは、

アサ→ヒル→ユフ、

という古代の感覚が残っている気がする。

「ひる」の語源は、

ヒ(日)と同根、

とあり(仝上)、「ヒ(日)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.html?1618440403は、

太陽というのが原義。太陽の出ている明るい時間、日中。太陽が出て没するまでの経過を時間の単位としてヒトヒ(一日)という。ヒ(日)の複数はヒビというが、二日以上の長い時間を一まとめに把握した場合には、フツカ(二日)・ミカ(三日)のようにカ(日)という、

とある(岩波古語辞典)ので、「ヒ」のみでも、

昼間、

の意味はある。だから、大言海は、「ひ(日)」を、

太陽、

の意と、

昼間、

の意の二項別に立てている。で、「ひる」は、

ヒ(日)+る(助辞)(大言海)、
ヒ(日)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、

という説になる。これは、「よる」が、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

とされるのと対であると思われる。ただ、「よる」と「よ」とは微妙に差があり、「よる」中心にした時間の区分は、上代、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

のうち、

ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と三分され、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、

「よる」が「ひる」に対し、

暗い時間帯全体を指す、

のに対し、「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と三分された、

特定の一部分だけを取り出していう、

ともある(仝上)。ついでながら、「よべ」は、古代、

日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)の、こちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。ちなみに、「ひ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463232976.html?1618440403で触れたことだが、

明け六つ(午前六時)を一日の初とし、次の明け六つを終とせしを、夜九つ(午前十二時)よりと改むる由、元文五年の暦の端書に見えたり、

とある(大言海)ので、江戸時代の元文四年(1740)に一日を今日の、零時からと替えた。時計の影響かもしれない。

「ひる」に当てた「昼(晝)」(チュウ)の字は、

会意。晝は「筆を手に持つ姿+日を視覚に区切った形」。日の照る時間を、ここからここまでと筆でくぎって書くさまを示す。一日のうち、主となり中心となる時のこと。夜(わきにある時間)に対することば、

とある(漢字源)。「夜」(ヤ)の字は、

会意兼形声。亦(エキ)は、人のからだの両わきにあるわきの下を示し、腋(エキ)の原字。夜は、「月+音符亦の略体」で、昼(日の出る時)を中心にはさんで、その両脇にある時間、つまりよるのことを意味する、

とある(仝上)ので、「昼」の視点から「夜」をみていることかをみていることがわかるし、昼夜は、きっちりと区切られている感覚らしい。和語の、

昼を中心にした時間の区分、アサ→ヒル→ユフ、
夜を中心にした時間の区分、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

というグラデーションの感覚とは違うようだ。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ひる
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2021年05月10日

ゆふ


「ゆふ(ゆう)」は、

夕、

と当てるが、

夕方、
日暮れ、
夕暮れ、
晩方(ばんがた)、

等々とも言い、

「夕暮れ」「日暮れ」は、あたりが暗くなりはじめた状態をいうことが多く、「夕方」「晩方」は、そのような時間帯をいうことが多い、

とあり、

「晩方」が最も遅い時間をさす、

とある(類語例解辞典)。他にも、

入相、
夕刻、
黄昏http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html
薄暮、
宵の口、
暮れ方、
夕間暮れ(ゆうまぐれ http://ppnetwork.seesaa.net/article/464333025.html)、
逢魔が時http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html

等々という言い方もある。

夕の空(夕焼け).jpg

(夕の空(夕焼け) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95より)

「朝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788で触れたように、古代、夜の時間は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分をし、昼の時間帯は、

アサ→ヒル→ユフ、

と区分した(岩波古語辞典)。ヒル→ユフの「ユウ」は、ユフベ→ヨヒの、

ユウベ、

と重なる。「ゆふべ」は、

夕方(ゆうべ)の義

とある(大言海)。

古くは、ユフヘと清音。朝(あした)の対。……ユフベは夜を中心とした時間の区分の、ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタの最初の部分の称。昼を中心とした時間の区分の最後の名であるユフと実際上は同じ時間帯を指した。平安時代には、文章語・歌語と意識され、漢文訓読体や和歌、源氏物語に限られた和文作品に使われた、

とあり(岩波古語辞典)、平安女流文学では、普通「ゆふべ」ではなく、「ゆふぐれ」が使われた(仝上)。

で、「ゆふ」は、

ヨ(夜)、ヨヒ(宵)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)
「ヨヒ」の音便変化。ヨヒ→ユヒ→ユウと転訛(日本語源広辞典)、
ヨ(夜)・ヨヒ(宵)と同根(岩波古語辞典)、

とされる。「よる」は、「ひる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481403520.html?1620499255で触れたように、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

であった。「よ」は、

ヨルの古形、

である(岩波古語辞典)。しかも、「ゆ」は、

上代東国の方言、

とあり(仝上)、

よ→ゆ、

と転訛しやすい。だから、

よ→ゆ、

だとしても、古代、夜の時間は、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

という区分をしており、夕暮れ時を、

ユフ→ヨヒ、

と、

ヨヒ、

と、その前の時間帯を、

ユフ、

とにわけていることになる。

以上から考えられることは、夜の「ヨ」は、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

であり、「ひる」が、

ヒ(日)+る(助辞)(大言海)、
ヒ(日)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、

と、「ヒ」であり、「アサ」が、

アは、明(ア)くの語根、

で、「あか(赤)」の「ア」でもあると考えると、一日が、

ア→ヒ→ヨ、

しかなかった時間区分のうち、「ア」が、

アカツキ→アシタ、

と分化したように、「ヨ」が、

ユフ→ヨヒ→ヨナカ、

と分化した、と見ることができるのではないか。

日没のころであり、明るい昼から徐々に暗くなって完全に暗い夜となる前の境界の時間帯、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95、古くは、

暮れ六つ、
や、
酉の刻、

ともいい、

だいだい2時間~3時間の間、

である(仝上)、「ユウ」は、さらに、

「ゆうまぐれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464333025.html
「逢魔が時」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html
「たそがれ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479991859.html

等々とさらにこまかく言い表されることになる。

「夕」 漢字.gif

(「夕」 https://kakijun.jp/page/0320200.htmlより)

「ユウ」に当てられた「夕」(漢音セキ、呉音ジャク)は、

象形。三日月の姿を描いたもの、夜(ヤ)と同系で、月の出る夜のこと、

とある(漢字源)。「月の半ば見える」象形から「日暮れ」を意味するhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%95、ともある。

「夕」 甲骨文字.png

(「夕」甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%95より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ゆふ ゆう
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2021年05月11日

よひ


「よひ」は、

宵、

と当てる。

「朝」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481387969.html?1620462788や「ひる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481403520.html?1620499255で触れたように、「よひ」は、上代の夜の時間区分で、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

と分ける「ヨヒ」である。

「よる」中心にした時間の区分は、上代、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、

のうち、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)、

と分けられ、

当時の日付変更時点は丑の刻(午前二時頃)と寅の刻(午前四時頃)の間であったが、「よなか」と「あかとき」(明時、「あかつき」の古形)の境はこの時刻変更点と一致している、

とある(日本語源大辞典)が、「よ」は、

よひ、
よなか、
よべ(昨夜)、

と「よ」は、「よる」が「ひる」に対し、暗い時間帯全体を指すのに対し、

特定の一部分だけを取り出していう、

とある(仝上)。ついでながら、「よべ」は、昨晩の意だが、昨晩を表す語としては、古代・中古には、

「こよひ」と「よべ」とがあった。当時の日付変更時刻は丑の刻と寅の刻の間(午前三時)であったが、「こよひ」と「よべ」はその時を境としての呼称、日付変更時刻からこちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

とある(仝上)。つまり、「よる」の古形、

よ、

が、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

と区分されたことになるが、「よなか」が、

よべ→こよひ、

と、境界線を挟んで、使い分けていたことになる。

「宵」 漢字.gif

(「宵」 https://kakijun.jp/page/1046200.htmlより)

「よひ」は、「ゆふ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481421283.html?1620586035で触れたように、「ゆふ」が、

ヨ(夜)、ヨヒ(宵)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏)
「ヨヒ」の音便変化。ヨヒ→ユヒ→ユウと転訛(日本語源広辞典)、
ヨ(夜)・ヨヒ(宵)と同根(岩波古語辞典)、

とされ、「よる」は、

よ(「よる」の古形)+る(接尾語)(日本語源広辞典)、
よ(「よる」の古形)+る(助辞)(大言海・俚言集覧・国語の語根とその分類=大島正健)、

であった。つまり、「よひ」は、「よる」の古形「よ」が、

ゆふべ(ゆふ)、
よひ、
よなか、

と三分割した、「ゆふ」と「よなか」の間であり、

日が暮れて暗くなってからをいう。妻訪(つまど)い婚の時代には、男が女の家に訪ねていく時刻にあたる、

といい(岩波古語辞典)、

夜の初め、

とある(仝上)が、この時間幅は大きい。書紀・允恭紀に、

我が夫子(せこ)が來べき豫臂(よひ)なり ささがねの蜘蛛の行なひ今宵(こよひ)著(しる)しも

とあり、ここでは、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

の、ユフとヨナカの間の幅があり、

日暮から夜中までの間、

を指す(大言海・精選版日本国語大辞典)。現在では、

夜が始まってしばらくの間の意、

で用いるが、上代では、「万葉集」で、

「三更(=夜中の一二時ころ)」をヨヒと読ませていること、中古以降、ヨヒを語素にもつコヨヒという語が丑の刻(=午前二時ころ)まで、

をさして用いられたことなどから、現在より長い時間をさしてヨヒと呼んだと考えられる、

とある(日本語源大辞典)。それは、本来は、夜が、

単にヨヒとアカトキの二つに分けられていたところへ、ヨナカという語が現われ、ヨヒの時間が、中古にはより短い時間をさすようになったのではないかとも考えられる、

ともある(仝上)。そうすると、

宵のうち、
宵の口、

は、いずれも、

日が暮れて間もなくのとき、

とされる(広辞苑)。しかし、

気象庁は、「宵のうち」とは18時頃から21時頃の時間帯としていたのに、もっと遅い22時とか23時まで「宵」と思っている人がいるので、「夜のはじめ頃」(18〜21時頃)に用語を変えたのです、

https://weathernews.jp/s/topics/201904/100115/、「宵の口」が、随分遅くまでになり、かつての「よい」の感覚まで広がって、「宵の口」といういい方に時間間隔の差があることを示している。

18時頃から21時頃の時間帯、

を、「宵の口」とするのは、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

の感覚とあっている。

宵っ張り、

は、

夜遅くまで起きていること、

を指すが、これは、前述の、

日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)の、こちら側を「こよひ」、向こう側を「よべ」とよんだ、

ということから考えると、「よなか」のこちら側(午前三時過ぎ)まで、

こよひ、

と呼んでいたことになるが、しかしまあ、丑の刻(午前1~3時)と寅の刻(午前3~5時)の間(午前三時頃)の前の、亥の刻(午後9時~11時)から、子の刻(午後11時から午前1時)を挟んで、丑の刻(午前1~3時)までが、「ヨナカ」にあたると思われるので、その前までが、

ヨヒ、

ということになるのではないか。とすると、「宵っ張り」の時刻は、せいぜい九時前くらいになる。

宵泊まり、

という言葉があるが、これは、

遊客が宵(午前七時頃)にきて泊まること、

とある(江戸語大辞典)。この逆に、その時刻に帰るのを、

宵立ち、

という。こう考えると、「宵」の目一杯は、

戌(いぬ)の刻(午後七時から九時)、

辺りを指すのではないか。宵のうちから寝る意の、

宵寝、

もその時刻ということになる。となると、

宵越しの金、

の「宵越し」というのは、

一夜を経ること、

だから、

日付変更点の丑の刻と寅の刻の間(午前三時頃)、

を超えた側を指すことになる。ただ、

日付変更時刻という意識の弱くなった中世末には、昨晩を表す「こよひ」が消滅する、

ので(日本語源大辞典)、江戸期以降の時間感覚は、現代に近くなっているのではないか。

宵の明星、

といういい方だと、「よひ」は、

日が暮れて間もない夕暮れ時、

を指している。

もちろん「よひ」の時間間隔は、時代によっても違うが、季節によっても異なるので、一概に言い切れないところはある。しかし、「宵の口」「宵っ張り」「宵越し」等々、「宵」がまだまだ、比較的活動的な時間帯であることを示していて、「ヨナカ」とは、その語感が違う気がする。

では「よひ」の語源は何か。「よ」は、

ユフ(夕)・ヨ(夜)と同根、

なので(岩波古語辞典)、「よる」の「よ」である。

夜閒(よあひ)の約(大言海・日本語源広辞典)、

という説が、

日暮れから夜までの間の意です。夜+サリ(来る)に対する語、

とし(日本語源広辞典)、

ユフベ→ヨヒ→ヨナカ、

という、「よ」を、

ゆふ、
よひ、
よなか、

と三分割した、「ヨヒ」の位置を示しているように思う。ちなみに、「よさり」は、

夜去り、

と当て、

夜が来ること、去るは来るなり、夕さり、などと同じ、

とある(大言海)。

「宵」(ショウ)の字は、

小は、-印を両側から削って小さくするさま。肖は、それに肉を添えた字で、素材の肉を削って小さくし、肖像をつくること。宵は「宀(家)+音符肖(ショウ)」で、家の中に差し込んでくる日光が小さく細くなったとき、

とあり、「日が暮れて薄暗くなったころ」の意である。

「宵」 金文.png

(「宵」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%B5より)

別の解釈は、

会意兼形声文字です(宀+小+月)。「屋根・家屋」の象形と「小さい点」の象形と「欠けた月」の象形から、月の光がわずかに窓にさしこむ事を意味し、そこから、「よい(日暮時)」を意味する「宵」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji1826.html、「月」に見立てている。しかし、「宵」の意味は、

日の光が消えかけたとき、日が暮れて薄暗くなった時、

とある(字源)が、

徹宵(てっしょう 夜通し)、
宵晨(しょうしん 夜と朝)、

という言葉があり、「宵闇」とか「宵明星」は和語であり、漢語「宵」は「夜」の含意が強いので、「月」の光なのではあるまいか。

「宵」 漢字 成り立ち.gif

(「宵」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1826.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:よひ
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2021年05月12日

ようやく


「ようやく(やうやく)」は、

漸く、

と当てる。

ようやく春めいてきた、

というように、

物事がしだいに進行して、ある状態になるさま、次第に、だんだん、

の意味と、

ようやく終電に間に合った、

というように、

長い間待ち望んでいた事態が遂に実現するさま、やっとのことで、とうとう、

という意味と、

ようやく起きて、

というように、

おもむろに、徐々に、

という意味と、

迷った末に、ようやくたどり着いた、

というように、

苦労した結果、目標が達成できるさま、かろうじて、何とか、やっと、

という意味と、

やうやく町に敷きみちたり(今昔物語)、

というように、

しばらくたって、

の意味と、意味の幅が、かなりあり、類義語の、

「ついに」(長い時間を要して、最終的な結果に至ったり、最後まで実現せずに終わるさま)、
「やっと」(長い時間を要したり、苦労してある状態に至るさま)、
「とうとう」(ある物事が最終的に実現した、もしく最後まで実現せずに終わるさま)、
「何とか」(完全・十分とはいえないが、条件・要求などに一応かなうさま)、
「どうにか」(まがりなりにも、なんとか)、

といった意味の幅をカバーしているように思える。

「ようやく(やうやく)」は、

ヤウヤウの転(大言海)、
ヤヤク(稍)、ヤクヤク(漸)の音便形(岩波古語辞典)、
ヤヤクに「ウ」が加わった(デジタル大辞泉)、
ヤヤ(稍)の延(大言海・日本語源広辞典)、

とあり、「ヤウヤウ」は、

漸う、

と当て、

ヤヤ(稍)の転、ヤウヤクの音便形(岩波古語辞典)、

とあり、「ヤクヤク」は、

徐々く、
漸く、

と当て、

ヤウヤクの古形、

とある(岩波古語辞典)。

「漸」 漢字.gif

(「漸」 https://kakijun.jp/page/1455200.htmlより)

ヤクヤク→ヤウヤク→ヤウヤウ、

ヤウヤウ→ヤウヤク、

で、

ヤクヤク→ヤウヤウ→ヤウヤク→ヨウヤク、

と転訛した形になるが、

「徐」や「漫」の訓のヤヤク、もしくは「漸々」の訓のヤクヤクの音便形、

とある(岩波古語辞典)ように、

古くは漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈の「ようよう」に対してもちいられた、

とある(日本語源大辞典)。「ようよう」は、文語で、

ヤウヤウ、

になるので、

やうやう(漸う)、

やうやく(漸く)、

は、和文脈で「やうやう(ようよう)」、訓読体で「やうやく(ようやく)」と使い分けていたことになる。

もとは、

ヤヤク(稍)
ヤヤ(稍)、

ということになる。「やや」は、

彌彌(イヤイヤ)の略、又は、愈々(イヨイヨ)の略、

とあり(大言海)、

いかにも事の度合いが進み、募るさまが原義、

とある(岩波古語辞典)。

いよいよ、
とか、
だんだん、
とか、

が原意の近く、その時間経過の感覚から、

しばし、
とか、
すこし、

の含意が含まれることになる。その意味で、到達点から見れば、

ついに、

であり、到達しようとする心理面から見れば、

とうとう、

でもあるし、その経過の苦労から見れば、

何とか、
どうにな、

になり、到達しようとする時点から振り返れば、

やっと、

という思いになる。

「漸」(漢音セン・ゼン、呉音ゼン・セン、慣用ゼン)は、

会意兼形声。斬(ザン)は「車+斤(おの)」の会意文字で、車におのの刃をくいこませて切ること。割れ目に食い込む意を含む。漸は「水+音符斬」で、水分がじわじわと裂け目に沁み込むこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(氵(水)+斬)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「車の象形と曲がった柄の先に刃をつけた斧の象形」(「刀できる」の意味)から、水の流れを切って徐々に導き通す事を意味し、そこから、「だんだん」、「次第に」を意味する「漸」という漢字が成り立ちました、

という解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji1661.html

「漸」 漢字成り立ち.gif

(「漸」 漢字・成り立ち https://okjiten.jp/kanji1661.htmlより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:ようやく 漸く
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2021年05月13日

邪馬臺国の滅亡


若井敏明『謎の九州王権』読む。

謎の九州王権.jpg


本書は、邪馬臺国とつながる倭国の系譜が、「ヤマト王権」によって滅ぼされるまでを描く。当然、邪馬臺国は、

九州説を前提、

とする。僕も、口幅ったいようだが、

畿内説、

はあり得ないと思っている。ヤマトの王権に続く大和朝廷は、

邪馬臺国、
も、
卑弥呼、

も承知しておらず、中国の史書によってはじめて知った気配である。畿内に邪馬臺国があったとしたら、それはおかしい。村井康彦『出雲と大和』http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163142.htmlでも触れたように、

『魏志倭人伝』で知られた倭の女王卑弥呼の名が、『古事記』にも『日本書紀』にも全く出てこないこと、

しかも、『日本書紀』の著者たちは、中国の史書で卑弥呼の内容も存在も知っていながら、にもかかわらず名を出さなかった、

等々から、卑弥呼が大和朝廷とは無縁の存在である。従って、邪馬台国は大和朝廷とはつながらないのだと思う。

著者の、

九州王権、

は、「邪馬壹国」論で著名な古田武彦氏の、

九州王朝、

と重なるが、その違いを、

「古田氏は、邪馬臺国(氏の主張では邪馬壹国)が九州にあったことと、『三国志』の『魏書』東夷傳倭人の条(『魏志』倭人伝)以降の中国史書に見える倭には連続性が認められることを主な根拠として、九州を領土とする王朝が弥生時代初期から七世紀末まで存在したとする。
しかし、中国・朝鮮の史料にみえる倭がすべて九州王朝を指すというのは、無理があるのではないか。私は『広開土王碑』に見える倭や、いわゆる倭の五王(讃・珍・済・興・武)はヤマト王権を指すと考えている。」

とし、

「ヤマト王権に支配されるまで九州に存在した王権」、

を、

九州王権、

と呼ぶ。日本の史料では、ヤマト王権は、

三世紀後半から四世紀、

にかけての、

崇神・垂仁・景行天皇の時代、

つまり、

大王(おおきみ)の時代、

に列島統一の過程にあり、

「崇神天皇の時代に、東は北陸から東海、北は丹後、西は吉備が支配地となり、その後、出雲も支配に屈した。垂仁天皇の時代に但馬の勢力を降したヤマト王権は、いよいよ九州地方に本格的な進出をくわだてる。」

『日本書紀』と『風土記』によれば、「景行天皇自身による親征」は、

四世紀前半、

と著者は推定する。つまり、

「日本の史料では、ヤマト王権と九州勢力の接触は四世紀にならないとみとめられない」

のである。

「三世紀に九州諸国を統括していた倭王・卑弥呼の都である邪馬台国は畿内の大和ではなく、九州に所在したと確信する所以である」

と。

景行天皇の九州遠征は、最初は、四世紀初頭、

「南部九州の襲(そ)国(鹿児島県霧島市・曽於市あたりか)に至る時期である。この頃、九州では、(卑弥呼の宗女)
壹与(臺与とも)の時代はすでに終わっていたと思われる。」

このときは、東部北部を除く九州を支配下に置き、

国造を、

宇佐、豊、国東、日田、日向、大隅、薩摩、火、阿蘇、葦分(葦北)、天草、

に置く。そして、「『ヤマトタケル』と呼ばれた小碓皇子(おうすのみこ)の皇子、成務天皇のあとを継ぎ即位した仲哀天皇」が、遠征を開始するが、

(一に云く)天皇、みずから熊襲を伐(う)ちて、賊の矢にあたりて崩ず(書紀)、

と、九州王権側の、

羽白熊鷲(はしろくまわし)、

と戦って敗死し、代わった神功(じんぐう)皇后は、

層増岐野(そそきの)、

で羽白熊鷲(はしろくまわし)斃し(福岡県朝倉郡筑前町)、本拠地、山門(福岡県みやま市)に入る。『日本書紀』仲哀九年(367)三月丙申条に、

転じて山門県に至り、則ち土蜘蛛・田油津媛(たぶら(ゆ)つひめ)を誅す。時に田油津媛の兄、夏羽(なつは)、軍を興して迎え来る。然るに其の妹の誅されたるを聞きて逃ぐ、

とある。著者は、これを、

邪馬臺国の滅亡、

と見る。

卑弥呼→壹与……→田油津媛、

と続く女王の系統と見ることになる。たしかに、この、

田油津媛と、兄夏羽、

は、魏志・倭人伝の、卑弥呼のくだりの、

夫婿無く、男弟あり、佐けて国を治む、

の、

卑弥呼―弟、

を類推させる。あとは、考古学的な検証がまたれるが、百年たっても、天皇陵の検証はされそうもない。この国は、自国の歴史すら偽装しても憚らないらしい。

参考文献;
若井敏明『謎の九州王権』(祥伝社新書)

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2021年05月14日

とうとう


「とうとう」は、

到頭、

と当て、

とうどう、
とうど、

とも訛る(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

物事が最終的にそうなるさま、
ついに、
結局、
とどのつまり、

という意味である。

浮世到頭須適性、男兒何必蓋成功(羅隠詩)

とあり、

到頭、

は、

至竟、
畢竟、
到底、

と同義の漢語で、

つまるところ、
とどのつまり、

の意である(大言海・字源)。ちなみに、「到底」は、どちらかというと、わが国では、

到底できない、
到底無理だ、

と、

あとに否定の語を伴って、

どうしても、
いかにしても、

の意で使うことが多いが、これも漢語で、

心如清水、到底潔(呉澄詩)、

と、

底まで到る、

と、

つまるところ、
つまり、

の意である(字源)。で、「到頭」も、

先頭に到る、

意(日本語源広辞典)で、中国由来ということで決着が付きそうなのだが、異説がある。

尋ね尋ねて行き着く意で、トフトフ(問々)の義(松屋筆記)、
辺のきわまで危うくなる意で、ホトリホトリ(辺々)の転のホトホトの訛(俗語考)、

という説がある。しかし漢語がある以上、これは付会なのではないか(日本語源広辞典)。

「到底」と書いて「つまり」「結局」と読ませる、

ように、「到頭」も、

中国からの拝借文字、

なのではないかhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/1443071.html

「とうとう」は、「ついに」と、

結果が現れることを表す、

意では一致するが、「とうとう」が、

長い時間を要してある結果が生じるという意味合いを持つ、

というのに対し、「ついに」は、

長い時間の後、最終的な時点で新しい何かが実現した、またはしなかった、

という意味合いがある(デジタル大辞泉)とあるが、「とうとう」にも、

とうとう成功を掴んだ、

というように、

期待されながらも実現が危ぶまれていたことが、時が経過して最終的に望んだ通りの事態に至った様子

と同時に、

到頭落第した、

というように、

以前から懸念されていたことが、時が経過して、最終的にその通りの好ましくない自体に至る様子、

の二重の含意があるhttps://xn--fsqv94c.jp/toutou.htmlのではないか。

類義語に、「結局」があるが、「結局」は、

結は終結、局は碁盤なり、

とあり(大言海)、

囲碁を一局打ち終える、

意からきており(広辞苑)、

ずいぶん頑張ったが、結局成功しなかった、

というように、

いろいろな経過があったが、

という含意がある(デジタル大辞泉)。

「到」 金文.png

(「到」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%B0より)

「到頭」の「到」(トウ)は、

会意兼形声。到は「至+音符刂(刀)」。至は、矢が一線に届くさま。刀は、弓なりに反った刀。まっすぐに行き届くのを至といい、弓なりの曲折を経て届くのを到という、

とある(漢字源)。別の解釈に、

形声文字です(至+刂(刀))。「矢が地面に突き刺さった」象形(「至る」の意味)と「刀」の象形(「かたな」の意味だが、ここでは、「召」に通じ(「召」と同じ意味を持つようになって)、「まねく」の意味)から、「(まねかれて)いたる」を意味する「到」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1108.html

「到」 成り立ち.gif

(「到」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1108.htmlより)

「到」は、至なり、彼より此に到著する意、

とあり(漢字源)、至で通用するので、

至家、

を、

到家、

とも書くが、

知至、
徳至、

には到は用いない(字源)、とある。

「頭」(漢音トウ、呉音ズ)は、

会意兼形声。「頁(あたま)+音符豆(じっとたった高坏)」で、まっすぐたっているあたま。豆は、たかつき(高坏)を描いた象形文字、じっとひとところに立つ意を含む、

とある(漢字源)。

「頭」 成り立ち.gif

(「頭」 漢字 成り立ち https://okjiten.jp/kanji21.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2021年05月15日

ついに


「ついに(つひに)」は、

終に、
遂に、
竟に、

等々と当てる(大言海・デジタル大辞泉)。

ついに、完成した、

というように、

長い時間ののちに、最終的にある結果に達するさま、とうとう、しまいに、

という意味と、

ついに、完成しなかった、

というように、

(多く、打消しの語を伴って用いる)ある状態が最後まで続くさま、いまもって、いまだに、とうとう、

という意味がある。「とうとう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/481488740.html?1620932160で触れたように、「とうとう」にも、

とうとう完成した、

と、

とうとう完成しなかった、

の二重の使い方があるが、

口頭語としては「とうとう」が多く用いられ、「ついに」は文語的である、

とある(デジタル大辞泉)。

「ついに」は、

つひ(終、竟)+に、

で、「つひ」は、

終の住処、
終の事、
終の道、

等々と使う、

終わり、

の意であり、それをメタファに、

死期、終焉、

の意である。「つい(ひ)」は、

ツイユ(潰・弊・費)、ツヒヤス(潰・弊・費)と同根、次第に痩せ衰える、用いて次第に減る意、

とある(岩波古語辞典・広辞苑)。「ついゆ」(潰・弊・費)は、

生気を失う、
衰える、

という意なので、

長い時間の後、最終的な時点で新しい何かが実現した、またはしなかった、

という含意の原意は、

ものごとが衰え消耗していってゆきつくところ、

の意(岩波古語辞典)で、

次第に消えていく、

というようなニュアンスだったように見える。その意味では、

ツキ(尽)の義(言元梯)、
ツクル(尽)の義(和句解)、
尽きる日の義(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々もあり得るが、

つく→つひ、

との音韻変化は、

イカホロ(伊可保呂)→イハホロ(伊波保呂)、
カルカタ(離る方)→ハルカタ・ハルカ(遥)→ハルバル(遥々)、

等々、

カ行音[k]→ハ形音[h]、

の、

カ→ヒ、

と、

発音運動の衰弱化に伴い破裂運動が摩擦運動にかわる、

ということ(日本語の語源)がありえるので、無理筋ではないのだが、しかし、

ツイユ(潰・弊・費)、ツヒヤス(潰・弊・費)と同根、

ということでいいのではあるまいか。

「終」 漢字.gif


「終」(漢音シュウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。冬(トウ)は、冬の貯蔵用の食物をぶらさげたさまを描いた象形文字。のち日印や冫印(氷)を加えて、寒い季節を示した。収穫物をいっぱいたくわえた一年のおわり。中(なかにいっぱい)・蓄(中にいっぱいたくわえる)と同系のことば。終は「糸+音符冬」で、糸巻に糸をはじめからおわりまで、いっぱい巻いて蓄えた糸の玉。最後までいきつくの意を含む、

とある(漢字源)。別に、

「冬」は貯蔵用の食べ物の象形で、それから、それを必要とする「ふゆ」を意味するようになった。冬は年の「おわり」であり、終は糸巻きに最後まで巻き付けるの意(藤堂)、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B5%82

「終」 甲骨文字.png

(「終」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B5%82より)

「終」は、

始と対す。始よりをわりまで続く意あり、終日は朝から晩まで、終身は生れてから死するまでなり、

とある(字源)。

「終」 成り立ち.gif

(「終」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji432.htmlより)

「遂」(漢音スイ、呉音ズイ)は、

形声。㒸は重いぶたを描いた象形文字。隊(タイ)・墜(スイ)などの音符として用いられる。遂は辶(すすむ)にそれを単なる音符として添えた字。道筋をたどって奥へすすむこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「倒れた人」の象形(「したがう」の意味)から、一定の道すじに従って事が運び「なしとげる」を意味する「遂」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1692.html

「遂」 金文.png

(「遂」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%82より)

「遂」は、

事をしとぐる意あり、つひにと訓むときは、因なり、兩事相因而及也と註す。此の因ありて、たゆみなく彼の事をしとぐる義。韓非子「蟻壊一寸而仞有水、乃掘地遂得水」、

とある(字源)。

「遂」 成り立ち.gif

(「遂」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1692.htmlより)

「竟」(漢音ケイ 呉音キョウ)は、

会意。「音+人」で、音楽のおわり、楽章の最後を示す、

とある(漢字源)。

「竟」 甲骨.png

(「竟」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AB%9Fより)

「竟」は、

究竟、または畢竟と熟し、あげくと訳す。史記に「及破驪戒、獲驪姫愛之、竟以乱晉」とある如し、

とある(字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年05月16日

とどのつまり


「とどのつまり」は、

とどのつめ、

ともいう(岩波古語辞典)が、

結局、
つまるところ、
いきつくところ、

の意である(広辞苑・デジタル大辞泉)。

「とどのつまり」については、

「とどのつまり」の語源は、出世魚で知られているボラなのです。哺乳類として知られるトドではありません。ボラは成長していく過程で、以下のように成長していきます。
関東の場合:オボコ→イナッコ→スバシリ→イナボラ→トド
関西の場合:ハク→オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド
高知や東北でも、それぞれ呼び方が違います。高知や東北では「トド」とは呼びませんが、関東や関西ではもっとも大きく成長したボラのことを「トド」と呼んでいるのです、

https://macaro-ni.jp/44902ということから、ボラは、

最終的に「トド」になり、それ以上は成長しません。そのことを由来とし、「とどのつまり」はこれ以上は大きくならない、これ以上は進まないなどの意味、

とする説(仝上)が、

出世魚で、おぼこ→いな→ぼら→とどの順です。「トドの詰まり」が語源(日本語源広辞典)、
ボラは成長するとともに名称が変わり、最後にトドという名になるところから(デジタル大辞泉)、
「これ以上大きくならない」ことから「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9

等々多々ある。しかし、これは俗説らしい。

同義の「とど」「つまり」を重ねて意味を強めた語(岩波古語辞典)、
止(トド)の詰まりの義(大言海)、
とどむ・とどまるの語幹(江戸語大辞典)、

というのが正確である。「とど」は、

止、

と当て、

きわまり、
はて、

の意であり、ここから、

鯔の十分に成長したるものの称、

となった(大言海)、とみられる。「鯔の十分に成長したるもの」は、

古老の口碑(はなし)に鯔の長さ七八丈もありけり、所々に毛生じ魚狸(とど)になりかかれりとなり(文政十二年(1829)「浮世名所図会」)、

と、

俗に毛が生えるといった、

とある(江戸語大辞典)。

魚尽くし ぼら.jpg

(魚尽くし ぼら 天保三年(1832) https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/detail/post107.htmlより)

また「とど」は、

歌舞伎台本用語、

とされ、そこから、

そうしたところが、とどめは手めへの身のつまり(享和二年(1802)「婦足鬜」)、

と、

結局、

の意や、

是から生きた所が、よく生きて五年か三年が到頭(とど)だ(文化八年(1811)「人間万事虚誕計」)、

と、

限度、

の意や、

全体(てへ)土間も六人とどめでみるといいけれど(文化八年(1811)「客者評判記」)、

と、接尾語として、

~限り、

の意で使う(江戸語大辞典)。

とどの大詰、
とどの仕舞、

等々という言い方もあった(仝上)。だから、「とどのつまり」が、

トウドウ(到頭)の約(猫も杓子も=楳垣実・上方語源辞典=前田勇)、

というのはあり得るが、

魚のボラの最後の呼び名(ことばの事典=日置昌一・上方語源辞典=前田勇)、

は、先後が逆なのではないか、と思う。

「止」(シ)は、

象形。足の形を描いたもので、足がじっとひと所にとまることを示す。趾(シ あと)の原字、

とある(漢字源)。

「止」 金文.png

(「止」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A2より)

「止」は、

やめとどまる意、止者、必至是而不遷之謂と註す、

とある(字源)。

「鯔」については、「ぼら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468373813.htmlで、ボラの幼魚の鯔(イナ)については、「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.htmlで、触れた。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年05月17日

たまり


「醤油」は、

原料に大豆以外の麦類を加えたもの、

「たまり」は、

大豆だけを原料にしたもの、

という違いがある(たべもの語源辞典)らしい「たまり」は、

溜り、

と当てるが、

たまる、

という意味で、

味噌からしたたった汁、

の意と、

溜まり醤油(じょうゆ)、

の意とがある。

「醤」 漢字.gif


「醤油」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.htmlで触れたように、

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。『酉+音符將(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁、

で、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。

醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.htmlから発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。

味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし、寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている、

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。
醤油は、

醤からしみだし、絞り出した油(液)、

の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に、「醤」は、

漿醤、

となり、

シヤウユ、

の訓みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞った、

たまり醤油、

で、「多聞院日記」(1576年)の記事に、

固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

味噌ができると、その汁を、

たれみそ、
たまりみそ、
うすだれ、

と称していた。これが、

たまり醤油、

である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、

Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』に、醤油の別名、

スタテ(簀立)、

の記述がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9

簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也、

とある。これは、享和三年(1803)の『新撰庖丁梯』に、

昔、布袋に入れて絞ることをせず、かごす(籠簀)を立ててためた、

とか、

はたごや(駅亭)で溜というものは麦味噌などの仕込みに豆液(あめ)を多く入れ、ゆるく醸成し、その中にかごすをたててためた、

等々とあるのと通じる(たべもの語源辞典)。

たまり.jpg


「たまり」の発祥は、

後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した、

と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、

醤油は中国からもたらされた穀醤、宋の時代に伝わった径山寺みそ、日明貿易で中国から輸入されたという説があるが、紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ、その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである、

があるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、

紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型、

ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。しかし、その他に、

伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型、

とする説、

500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体「清醤」の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した、

とする説等々もある(仝上)。

この時代のたまり醤油は、

原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった、

が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、

麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。これが今のヒガシマル醤油である。

龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい、

うすくち醤油、

が発明されたhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html、とある。

現在の醤油は、

淡口醤油、
濃口醤油、

があり、ほぼ小麦と大豆が50%ずつとされるhttps://tamariya.com/?mode=f3が、

たまりしょうゆ、

は、大豆がほぼ100%である(仝上)。今日、「たまり」という場合、この、

たまり醤油、

をいう。愛知・三重・岐阜三権の特産で、

醤油より濃厚で旨味に富むが、醤油のような芳香はない、

とされる(たべもの語源辞典)。

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)の成り立ちについては、上述の、

会意兼形声。「酉+音符將(細長い)」。細長く垂れる、どろどろとした汁、

とする(漢字源)以外に、より詳しく、

会意兼形声文字です(將+酉)。「長い調理台の象形と肉の象形と右手の手首に親指をあて脈を測(はか)る象形」(「肉を調理して捧げる」の意味)と「酒を入れる器」の象形(「酒」の意味)から「肉を細かく刻み、塩や酒などに漬けた料理」を意味する「醤」という漢字が成り立ちました、

とする解釈があるhttps://okjiten.jp/kanji2762.html

「醤」 成り立ち.gif

(「醤」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2762.htmlより)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2021年05月18日

構造としての未完


ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟ⅠⅡ』を読む。

カラマーゾフの兄弟Ⅰ.jpg


ほぼ60年ぶりに読み直してみて、『大審問官』の動機となる、幼児たちの悲痛な声は覚えていたが、他は、殆ど忘れていることに気づいた。十代に読みこなせるものでもないが、いま読み直してみても、浅才、非才の僕には、読みこなす力はなく、圧倒されるほどの読後感は薄かった、というのが正直な感想だ。むしろ、僕は、この『カラマーゾフの兄弟』という、

作品の構造、

に目が向いた。それは、文学は、

何を書くか、

ではなく、

如何に書くか、

こそが、

テーマ、

であると、最近思うからである。

本書は、

「わが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの一代記に取りかかるに当たり、私は、多少のためらいを感じている。」

で始まる。「私」は、ここでは、著者が設定した語り手、である。この「私」は、

カラマーゾフ一族、

の住んでいた架空の町、

スコトプリゴーニイェスク、

の住民でもある。そして、こう構想を語る。

「第一の小説はすでに十三年も前の出来事であり、小説と呼ぶのもおこがましい代物であって、単にわが主人公の青春時代初期における一瞬間に過ぎない。だが、どうしてもこの第一の小説をオミットするわけにはいかないのだ。第二の小説の中のいろいろなことがわからなくなる恐れがあるからである。」

つまり、『カラマーゾフの兄弟』という本作は、第二の、

十三年後のアリョーシャ、

の物語を語るための、

前段、

つまり、

十三年後のアリョーシャの物語のための物語、

だということを、語り手(「私」)は、明かしているのである。本作、

二十歳になったばかりのアレクセイ(アリョーシャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の逸話は、

十三年後のアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

を語るために欠かせない話なのだ、という構造になっている、と語り手は言っているのである。

そう見てみると、作品は、第一部は、

「『そして永久に、これから一生手を取り合っていきましょう! 万歳、カラマーゾフの』ともう一度感激したようにコーリャが叫んだ。そしてもう一度すべての少年が彼の叫び声に調子を合わせた。」

というくだりで終わり、一応、

閉じられている、

といえなくもないのだが、語り手の「私」によって語りはじめられた、作品全体は、そのまま、

開かれたまま、

であり、作品全体の構造から見ても、明らかに、

閉じられていない、

のである。つまり、

第二部のために作品空間が開かれている、

状態なのである。

それを図解してみると、下図のように、第二部を想定したように、全体構造の作品空間は、開かれているのである。

カラマーゾフの兄弟の構造.jpg

(作品としての『カラマーゾフの兄弟』の構造)

要するに、ドストエフスキー自身の構想がどうこうという前に、『カラマーゾフの兄弟』という作品の構造そのものが、この作品が未完であることを示している、と思えるのである。だから、小林秀雄が、

「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」

と評しているのは、この『カラマーゾフの兄弟』そのものが自己完結していることを言っているだけで、「私」が語り出した、

この作品全体、

の未完性とは別の話である。

この作品全体の未完成を暗示するのは、作品構造だけではなく、内容的に見ても、『カラマーゾフの兄弟』が、長男、

ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の物語であり、

イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

は、その対比として描かれている。さらに、此処には、父、

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

に対比するために、イワンの、

『大審問官』

と、アリョーシャの編んだとされる、

いまは亡き修道司祭ゾシマ長老の生涯、

とがセットになって、

無神論、
と、
信仰、

とが、対として描かれている。しかし、それはあくまで、

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の世界が「地」として背景にあるからこそ生きてくる「図」だ。そして、裁判における、

検事の論告、
と、
弁護士の弁論、

とは、そうした「地」の世界、とりわけ、

ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の、

メタ物語、

となっている。つまり、「私」の語る、

物語の物語、

となっている。『カラマーゾフの兄弟』は、

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の世界なのであって、ここでは、まだ、

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

は、ほんのちょい役でしかない。第二部は、第一部の、混沌とした、

ドミトリー・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、
と、
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ、

の世界に対立する、あるいは、

拮抗する、

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ、

の世界があってはじめて、全体のバランスが取れるのではないか。僕は、『カラマーゾフの兄弟』の世界だけでは、作品全体は、

片肺飛行、

ではないか、という思いがあり、やはり、未完だと思う。

物語は作家が書きはじめるところで止まる、

という言葉がある(P・リクール(久米博訳)『時間と物語』)。語り手「私」は、

全ての物語の終ったところ、

に立ち、そこから、

語り始めている、

のである。つまり、「私」は、まだ、

その終わった時点、

へ戻ってきていないのである。

カラマーゾフ兄弟Ⅱ.jpg


ところで、ミハイル・ミハイロヴィチ・バフチン『ドストエフスキーの詩学』のドストエフスキー論については「ポリフォニー」http://ppnetwork.seesaa.net/article/457548429.htmlで、触れたが、

「世界について語っているのではなく、世界を相手に語り合っている」

かのようなドストエフスキーの開いた世界は、いわゆる現実の世界ではない。

言葉のみで成り立っている対話の世界、

である。ここでは、語り手も、対話し、登場人物も、対になって対話し、

『大審問官』
と、
『ゾシマ長老の生涯』

も対話し、

論告
と、
弁論

も対話し、

会話が世界をつくる、

のである。その対話も、

ドミトリー(ミーチャ)・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの世界、

と対になっているはずの、

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの世界、

が示されているとはいいがたい気がするのである。

参考文献;
ドストエフスキー(小沼文彦訳)『カラマーゾフの兄弟ⅠⅡ』(筑摩書房)
ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)

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2021年05月19日

たまる


「たまる」は、

溜る、

と当てる。

同質のものが一所(ひとところ)に次第に集まりと止まってじっとしている意、

とあり(広辞苑)、

流れ集まる(古事記「水のたまる依網(よさみ)の池の」)、
集まりとどまる、積もる(源氏「かひなを枕に寝給へるに、御ぐしのたまりたる程などありがたくうつくしげなるを」)、
物がある場所に止まる(後撰和歌集「散るとみて袖に受くれどたまらぬは荒れたる浪の花にぞありける」)、

といった、

とまる、
つもる、

といった意味をメタファに、

堪(たま)る、

と当て、

力の入った状態のまま保つ(保元「しばらく弓たまって、……真中に押し当て放ちたり」)、
こらえる、ふせぐ(拾遺和歌集「秋霧の峰にも尾にも立つ山は紅葉の錦たまらざりけり」)、
こらえきれる、がまんできる(保元「ひとたまりもたまらずどうど落つ」)、

目一杯にこらえる、

意でも使う(広辞苑・岩波古語辞典)。「たまる」は、

たむ(溜む)の自動詞。ものごとが満を持した状態のまま、じっと動かずにいる意、転じて、相手の仕打ちに対して、こちらの態勢を変えず、されるがままにじっとこらえ通す意、

とある(岩波古語辞典)。「たむ」は、

満を持した状態でおく、一杯にした状態のままで保っておく、

意である。つまり、

満杯状態、

という状態表現が、

その状態を保っている、

という価値表現へと意味をずらしたということになる。

「溜」 漢字.gif


「たまる」の語源は、

止まる、積もるに通ず(大言海)、
トマル、ツモル、タタマルに通じ、「積もりとどまる」(日本語源広辞典)、

とする説がある。「たたまる」は、

畳まる、

で、

かさなる、つもる、たまる、

意である。その他、

手の中に集めて丸めたようであるところから(本朝辞源=宇田甘冥)、
タチモチウル(保得)の義(柴門和語類集)、

等々もあるが、どうも、音韻から見ると、

とまる(止 tomaru)→たまる(溜 tamaru)、
とむ(止 tomu)→たむ(溜 tamu)、

ではないかと感じる。「とまる」は、

止まる、
留まる、

と当てるが、確かに、

タマル(溜まる)の母音交替形。物の進行がその地点まで続いてきて、そこで一切の運動はなくなるが、その物はそこにある意。類義語トドマルは、物事の進行はやんでも、やんだ地点での物事の小さい動きはやまない意、ヤム(止)は、継続している現象や動作がその時点で消えてなくなる意、

とある(岩波古語辞典)。「とまる」が、

線的動作の時間軸が止まる、

意だが、「たまる」は、それを、雫のように、

一定場所での連続動作が空間的に極限に来る、

意とは、紙一重なのではあるまいか。

一つ所に寄り集まると、そこに集まって多くなる。これは流動していたものが止まらなければならない。止まるからきた(たべもの語源辞典)、

とする説明は、ある意味納得できる。

「澑(溜)」(漢音リュウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「水+音符留(つるつるしたものがしばしとまる)」。古典では軒下の水たまりの意(畱とも)に用いる、

とある(漢字源)。別に、

形声文字です(氵(水)+留(畱))。「流れる水」の象形と「同形の物を左右対称においた象形(「等価の物と交易する」の意味だが、ここでは、「流(リュウ)」に通じ(同じ読みを持つ「流」と同じ意味を持つようになって)、「流れる」の意味)と区画された狩猟地・耕地(田畑)の象形」(田の間を流れる水が「とどまる」の意味)から、「水が流れる」、「水がとどまる」を意味する「溜」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2348.html

「溜」 成り立ち.gif

(「溜」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2348.htmlより)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:たまる 溜る
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2021年05月20日

内戦史


倉本一宏『内戦の日本古代史~邪馬台国から武士の誕生まで』を読む。

内戦の日本古代史.jpg


サブタイトルにあるように、本書では、

弥生時代から中世成立期にかけて、およそ850年間の、

邪馬台国時代の、倭国の狗奴国・邪馬臺国戦から、ヤマト王権の国内統一戦以降、壬申の乱、蝦夷征討、天慶の乱、前九年・後三年の役、と武士が台頭してくるまで、を追っていく。

同じ著者が手掛けた、日本の対外戦を取り扱った、

『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』http://ppnetwork.seesaa.net/article/451581100.htmlで触れたように、前近代の日本、及び倭国は、対外戦争の極めて少ない国であった。倭寇や元寇などは別として、

四世紀末から五世紀初頭にかけての対高句麗戦、七世紀後半の白村江の戦い、秀吉の半島侵攻、

のみである。一方、国内戦も、

「実は日本は内戦もきわめて少なく、その規模も中国やヨーロッパ、イスラム社会と比較すると、小さなもの」

であった(「はじめに」)。

「古代最大の内戦であった壬申の乱も、動員された兵力は『日本書紀』が語るような大規模のものではなかったはずであるし、天慶の乱で最後まで平将門に付き従った兵はごくわずか、保元の乱で平清盛が動かした兵は三百名ほどであった(戦闘自体はで死んだ者は一人もいなかったという指摘もある)。」

のであり、

「もちろん、個々の合戦の現場における実態は苛烈なものであり、犠牲になった多くの人」

はいるにしても、海外から見ると、

「日本史の平和さについて感心(かつ感動)している」

と。しかも、特徴的なのは、

「王権そのものに対して戦争をしかけた例は、ほとんどない」

ことである。それは、

「日本に国家というものが成立したとき、中国のような易姓革命を否定して世襲を支配の根拠とした王権を作ったため、王権を倒そうとする勢力もついに登場せず、王権側も易姓革命に対応するための武力を用意していなかった」

ことと、加えて、臣下のものたちも、例えば、長く権力を握った藤原氏も、

「天孫降臨神話で天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊に随伴したとする天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖として設定」

しており、権力を強めても、自ら王権を樹立しようともしなかった。それは、平氏や源氏も、天皇家から分かれた士族であったため、

「王権を武力によって滅ぼして新たな王権を作ることよりも、女(むすめ)を天皇家に入れて所生の皇子を次の天皇に立て、自らは外戚として権力を振るうという、藤原氏と同じ方策をめざした。」

これは。

「古代王権が確立した神話に基づく王権を否定し、新たな支配の根拠を作り上げるよりも」

はるかに簡便で効果的な方法、

であった、と(仝上)。

こんな国内戦が、他国のように、

異民族との殲滅戦、

が起こるはずはない。ために、

「国家側の『追討』も、ほとんどは和平・懐柔路線を主体とした外交交渉が主たるもので、大規模な戦闘はほとんど行われなかった」

とする。国内統一戦の象徴、

日本武尊伝承、

をみても、殆どが、

だまし討ち、

で、こうした物語の造形は、

「地方勢力が完全に武力で倭王権に屈服したわけではないことへの配慮、また実際に武力による征伐ではなく、外交交渉によって倭王権と同盟関係を結んだことの反映ではないかと考えられる。」

と著者は想定する。こうした流れは、「征夷」といわれる、坂上田村麻呂の対蝦夷戦でも同じで、

「ほとんどが軍事力行使をともなわない制圧」

であった、とする。その象徴が、岩手県に伝わる「鬼ごっこ」である。

「それは鬼が縄をもって子どもたちを追いかけ、捕まえると腰を縄で結ぶ。捕まった子どもは鬼の手先となり、一緒に他の子どもを追いかける。そして多数となった鬼の集団が最後の子どもを囲んで捕まえるまで、この遊びはつづくのである。何とその遊びは『ちんじゅふ』と呼ばれていた。最初の鬼こそ、田村麻呂だったのである。」

陸奥按察使・陸奥守兼鎮守将軍である坂上田村麻呂に由来していることは明らかである。

こうした戦いが転機を迎えるのは、源頼義・義家による前九年・後三年の役である。

安倍貞任を滅ぼした厨川柵の戦いで、捕らえた貞任側の藤原経清を、

苦痛を延ばすために鈍刀で少しずつ首を斬る、

とか、安倍一族を滅亡させるのに加勢し、出羽・陸奥を手中に収めた清原武則氏の後継者をめぐる内紛に介入した源義家は、金沢柵の戦いで、兵糧攻めにし、女子供をも皆殺しにし、捕らえた清原武衡を、

兵の道では降人を漢代に扱うのが古今の例、

とする嘆願を無視し、斬首にしたうえ、

戦いの最中、矢倉から、

「頼義は安倍貞任を討ち果たすことができず、名簿を捧げて清原武則に臣従し、貞任を打ち破ることができた。汝(なれ 義家)は相伝の家人でありながら大恩ある主君(家衡)を攻め立てているから、天道の責めを蒙るにちがいない」

と悪口を浴びせた藤原千任を捕らえると、義家は、

「金ばさみで歯を突き破って舌を引き出し、これを切らせた。千任を縛り上げて木の枝に吊り下げ、足を地に着かないほどにして、その足の下に、武衡の首を置いた。千任は力尽き、足を下げて、主人武衡の首を踏んでしまった」

という、「古代国家ではありえない」残虐さ、嗜虐性を示す。これが武家の棟梁といわれる源義家である。

切取強盗武士の習い、

とはよく言ったもので、豊田武『武士団と村落』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461149238.htmlで触れたように、

「在地領主の開発した私領、とくに本領は、『名字地』と呼ばれ、領主の『本宅』が置かれ、『本宅』を安堵された惣領が一族の中核となって、武力をもち、武士団を形成した。中小名主層の中には、領主の郎等となり、領主の一族とともにその戦力を構成した。武士の中に、荘官・官人級の大領主と名主出身の中小領主の二階層が生まれたのも、このころからである。武門の棟梁と呼ばれるような豪族は、荘官や在庁官人の中でもっとも勢を振るったものであった。」

要は、国土を私的により多く簒奪したものが武家の棟梁なのである。その意味で、著者が、いまだに、

尚武の気風、

を貴ぶ意味が分からないと嘆くのには、同感である。

参考文献;
倉本一宏『内戦の日本古代史~邪馬台国から武士の誕生まで』(講談社現代新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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